コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

照国丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
照国丸
照國丸。
基本情報
船種 貨客船
クラス 照国丸級貨客船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 日本郵船
運用者 日本郵船
建造所 三菱造船長崎造船所[1]
母港 東京港/東京都
姉妹船 靖国丸
信号符字 JRYB
IMO番号 36214(※船舶番号)
建造期間 508日
就航期間 3,462日
経歴
起工 1929年1月9日[2]
進水 1929年12月19日[2]
竣工 1930年5月31日[1]
就航 1930年6月30日
処女航海 1930年6月30日
最後 1939年11月21日触雷沈没
要目
総トン数 11,930トン[1]
載貨重量 10,115トン
全長 160.59m
垂線間長 153.92m
型幅 19.5m
型深さ 11.27m
高さ 27.12m(水面からマスト最上端まで)
13.10m(水面から船橋最上端まで)
14.63m(水面から煙突最上端まで)
喫水 8.761m
機関方式 三菱ズルツァーディーゼル機関 2基
推進器 2軸
最大出力 14,368BHP
定格出力 10,000BHP
最大速力 17.764ノット
航海速力 15.34ノット
航続距離 15ノットで28,000海里
旅客定員 一等:121名
二等:68名
三等:60名
高さは米海軍識別表[3]より(フィート表記)。
テンプレートを表示

照国丸(てるくにまる[1]、照國丸)とは、かつて日本郵船が欧洲航路で運航していた貨客船である。第二次世界大戦当初中立国であった日本が喪失した最初の商船であった。船名由来は照国神社

船歴

[編集]

建造の経緯

[編集]

日本郵船は1921年大正10年)までに箱根丸級の4隻を欧洲航路に就航させていたが、ヨーロッパ各国の競合他社が同航路に新型の大型客船を導入するにつれて、日本郵船の集客率に影響が出始めた。

そのため、日本郵船は欧洲航路の中でも特に旅客重視であったロンドン航路を強化すべく、1929年昭和4年)に12,000トン級の照国丸と靖国丸の2隻を建造し、起死回生を図った。

就航後

[編集]

1930年6月30日、「照国丸」は横浜からロンドンへ向け処女航海に出発した[4]

「照国丸」は姉妹船「靖国丸」や箱根丸級の4隻とともに、横浜~ロンドン間で月に2回の航海を行なった。「照国丸」は横浜とロンドンを結ぶ定期航路だけでなく、「ノース・コンチネンタル・クルーズ」として、アントワープロッテルダムハンブルクなどの北海沿岸の都市を巡ったこともある。

船内の装飾は基本的には洋風ながら、特別室のサロンには松田権六による蒔絵を取り入れるなど、日本風のインテリアも多用され、外国人の船客に特に好評であった。

1932年、チャールズ・チャップリンシドニー・チャップリンがシンガポールから「照国丸」に乗船して来日した[5]。観光後、シドニー・チャップリンは「照国丸」でヨーロッパへ向かった[6]

航路

横浜-神戸-上海-香港-シンガポール-ペナン-コロンボ-アデン-スエズ-ポートサイド-ナポリ-マルセイユ-ジブラルタル-ロンドン

往路46日、復路41日[7]

沈没

[編集]

1939年昭和14年)9月、第二次世界大戦が始まるも、「照国丸」は同月24日午後5時に横浜港から第25次の航海に出発した[8]。「照国丸」は名古屋、大阪、神戸、門司、上海、香港、シンガポール、ペナン、コロンボ、ベイルート、ナポリを経由し、11月上旬に[要出典]マルセイユに到着[8]。審検を受け、4日間拘束された[8]。同地で多くが降りたため、乗客は28名となった[8]。次いでカサブランカに寄港し、11月15日にそこを出港[8]。審検地とされたダウンズへ向かった[8]

11月19日午前9時に「照国丸」はダウンズに到着し、審検を受けた[9]。この時、ロンドンへの航路はドイツ軍による機雷敷設のため封鎖されていた[9]。掃海完了との連絡を11月20日に受けたが、夜間航行を避けて「照国丸」は11月21日午前8時半に出航した[9]。午後0時53分、爆発が起き、「照国丸」の右舷で水柱が上がった[9]。船長が浅瀬へ乗り上げさせようとした時には機関は使用不能となっていた[9]。午後1時には総員退船が命じられ、午後1時35分に「照国丸」は横転、沈没した[10]。水深が浅く、左舷の船尾部分の一部は海面上に残ったままとなった[要出典]

軽傷者数名のみで死者は出ず、救命艇に乗った乗員乗客はイギリスの掃海艇に救助され、ハーウィッチへ運ばれた[10]

その後

[編集]

事故後日本政府は、爆沈の原因が英独どちらの責任であるとしても、国際法上の重大な違法行為であるとして、両政府に対して説明と回答を要求したが、どちらが敷設した機雷であったのかは不明で、英独とも責任のなすり合いをするのみであり、真相は判明しなかった[11]

日本郵船はその後もしばらくの間欧州航路の配船を続け、当時航海中だった往行の諏訪丸にもそのまま航海を続行させた[11]。乗組員は全員が翌年の1月までに日本郵船の船に便乗して帰国した。最後の欧州路線は9月にリヴァプールを出発し、地中海を避けアフリカ経由で3か月をかけて戻ってきた諏訪丸であった。

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d 『日本郵船戦時船史 上』3ページ
  2. ^ a b 『商船建造の歩み』187ページ
  3. ^ Yasukuni_Maru
  4. ^ 『七十年史』205ページ
  5. ^ 『氷川丸とその時代』101ページ
  6. ^ 『氷川丸とその時代』102ページ
  7. ^ 箱根丸級の4隻の場合、横浜~ロンドン間は片道50日
  8. ^ a b c d e f 『日本郵船戦時船史 上』5ページ
  9. ^ a b c d e 『日本郵船戦時船史 上』6ページ
  10. ^ a b 『日本郵船戦時船史 上』7ページ
  11. ^ a b 竹野2008,p.170

参考文献

[編集]
  • 大内健二『戦う民間船--知られざる勇気と忍耐の記録』 光人社、2006年、ISBN 476982498X
  • 船舶技術協会『船の科学』1980年2月号 第33巻第2号
  • 海人社『世界の艦船』1999年8月号 No.556
  • 日本郵船株式会社『七つの海で一世紀 日本郵船創業100周年記念船舶写真集』1985年
  • 竹野弘之『豪華客船の悲劇』海文堂出版、2008年、ISBN 978-4-303-63446-9
  • 三菱造船株式会社(編)『商船建造の歩み 1887~1958』三菱造船、1959年
  • 『日本郵船戦時船史 太平洋戦争下の社船挽歌 上』日本郵船、1971年
  • 日本郵船株式会社(編)『七十年史』日本郵船、1956年
  • 郵船OB氷川丸研究会(編)『氷川丸とその時代』海文堂出版、2008年、ISBN 978-4-303-63445-2

関連項目

[編集]
  • 靖国丸
  • 気比丸 - 同じく日本の第二次世界大戦参戦前に日本海で触雷沈没した日本の貨客船。
  • 浅間丸 - イギリス海軍に拿捕された客船。

外部リンク

[編集]