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コマンダンテ・カッペリーニ (潜水艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
コマンダンテ・カッペリーニ
1944年8月、瀬戸内海を航行するUIT24
1944年8月、瀬戸内海を航行するUIT24
基本情報
建造所 ムッジアーノ造船所
運用者  イタリア王立海軍
 ドイツ国防軍海軍
 大日本帝国海軍
艦種 潜水艦
級名 マルチェロ級
母港 ヴィシーフランスボルドー
BETASOM及びイタリア南仏進駐領域参照)
艦歴
起工 1938年
進水 1939年5月14日
竣工 1939年9月23日
最期 1946年4月16日に海没処分
改名 独海軍『UIT24』
日本海軍『伊号第五〇三』
要目
水上排水量 1,060トン
水中排水量 1,313トン
長さ 239フィート6インチ (73.00 m)
23フィート7インチ (7.19 m)
吃水 16フィート7インチ (5.1 m)
主機 FIAT製ディーゼル機関(6,000hp)
CRDA製電気モーター(1,100hp)
2軸推進
速力 17ノット(水上)
8ノット(水中)
乗員 57名
兵装 OTO 100/47速射砲it)×2基
ブレダ 13.2mm(75.7口径)単装機銃it)×2基
53.3cm魚雷発射管×8門(前部4門、後部4門)/魚雷12本
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コマンダンテ・カッペリーニ (Comandante Cappellini) は、イタリア海軍潜水艦マルチェロ級

1939年に就役し、第二次世界大戦に参加した。1943年にドイツ海軍の指導下に入りアキラ3号 (Aquila III) と仮称、大日本帝国と連絡をとるためシンガポールに派遣された[注釈 1]。 1943年9月8日のイタリア降伏後[2]日本海軍に接収される[注釈 2]同盟国ドイツ海軍に引き渡され[4][5]、ドイツ海軍潜水艦UIT24となった。1945年(昭和20年)5月上旬にドイツが降伏すると今度は日本の潜水艦伊号第五百三潜水艦[6](いごうだいごひゃくさんせんすいかん)となった[7]。日本の敗戦後、1946年(昭和21年)4月に海没処分となった[8]

艦歴

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イタリア海軍時代

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イタリア海軍が1935年から多数整備した近海用潜水艦の系列に属する航洋型潜水艦「マルチェロ級」[9] の「コマンダンテ・カッペリーニ」として1939年(昭和14年)9月23日に就役した。名は、リッサ海戦で戦死したイタリア海軍のアルフレード・カッペリーニイタリア語版提督にちなむ[要出典]

第二次世界大戦当初は地中海に配備されたが、1940年9月には大西洋での任務についた。1941年1月5日フリータウン沖でイギリスの貨物船「シェイクスピア[10]」、9日後[11]には武装商船「ユーミーアス」を沈めた[10]。また、英貨物船「ミゲル・デ・ラリネガ」(Miguel de Larrinaga、5,231トン)に損傷を与えている。

1942年9月、西アフリカ沖で起きたラコニア号事件では救助活動に加わった[12]

撃沈数(コマンダンテ・カッペリーニ[10]
哨戒 日時 沈没地点 船名 船籍 トン数 付記
2rd 1940年10月15日 北緯31度59分 西経31度20分 / 北緯31.983度 西経31.333度 / 31.983; -31.333
アゾレス諸島付近
Kabaro ベルギーの旗 ベルギー 5,186トン 貨物船、乗組員43名中42名生存
3rd 1941年1月5日 北緯52度45分 西経23度59分 / 北緯52.750度 西経23.983度 / 52.750; -23.983
カーボベルデ北東沖
Shakespear イギリス 5,029トン 貨物船、乗組員42名中22名生存
3rd 1941年1月14日 北緯8度55分 西経15度03分 / 北緯8.917度 西経15.050度 / 8.917; -15.050
コナクリ南西沖
Eumaeus イギリス 7,472トン 客船、乗組員23名死亡
7rd 1942年5月19日 北緯03度00分 西経33度00分 / 北緯3.000度 西経33.000度 / 3.000; -33.000
ブラジルトウロス北北東沖
Tisnaren スウェーデンの旗 スウェーデン 5,747トン 貨物船、死亡者なし
7th 1942年5月31日 南緯00度45分 西経29度50分 / 南緯0.750度 西経29.833度 / -0.750; -29.833
ペルナンブーコ北東沖
Dinsdale イギリス 8,214トン タンカー、乗組員13名死亡
合計: 5隻 31,648トン

1943年になると日本との輸送任務用に改造され、「コマンダンテ・カッペリーニ」は「アキラ3号」と仮称した[注釈 1]ドイツ軍の指導下で、極東へ派遣される[注釈 1]。5月11日にボルドーの基地を出発[13]。7月9日にサバンに着き、翌日シンガポールに入港した[14][注釈 3]

生ゴムタングステンといった物資を積んだ「アキラ3号」は8月22日にヨーロッパへ向けて出港予定であったが、出港は日本側によって妨げられた[16](8月末にシンガポールを出港し、9月8日サバンに着いた[14]、とも)。9月8日連合国に対しイタリアは降伏し、最高軍司令部スーパーマリーナ)はカッシビレ休戦協定に基づきイタリア海軍各艦に対し連合国に降伏するか、自沈するよう命じた。一方の日本政府は、イタリアを敵国として扱う方針を固めていた[2]。日本軍はイタリア艦の接収をおこなう計画を練っていたが、イタリア側は日本時間9月9日に先手をうって自沈を開始した[17][注釈 4]。 シンガポールにいたイタリア潜水艦2隻は、同地で第十特別根拠地隊により処置された[21]。9月12日[22]、「アキラ3号」はサバンにて碇泊中に第九特別根拠地隊により抑留された[注釈 2]

日独への接収

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1943年(昭和18年)9月8日(日本時間9日)のイタリア降伏時、シンガポールに司令部を置く日本海軍の第一南遣艦隊はイタリア通報艦エリトリア」に出し抜かれて逃走されたが[23][注釈 5]、イタリア潜水艦3隻(アキラ2号、アキラ3号、アキラ6号)の拿捕には成功し、この3隻はシンガポールに集められた[注釈 6]。「アキラ3号」は敷設艦初鷹」に監視されつつサバンからシンガポールに移動し、9月15日到着[注釈 7]。翌日に乗組員は日本陸軍へ引き渡された[25]。「アキラ3号」は武装解除の上、練習巡洋艦「香椎」から派遣された海軍陸戦隊の監視下に置かれた[25]

10月13日、大本営連絡会議でイタリア潜水艦3隻の処置を検討し[2]ドイツ海軍に無償で譲渡することに決定した[27]。10月25日、譲渡式が挙行された[5]。本艦はUIT24と命名される。ドイツ海軍の隷下になったが、サロ政権側に着いたイタリア海軍兵が引き続き任務にあたった。

「UIT24」と「UIT25」(旧「ルイージ・トレッリ」)はヨーロッパへ向かおうとしたものの、途中での故障発生により断念した[28]。「UIT123」(旧「レジナルド・ジュリアーニイタリア語版」)は1944年2月45日にマラッカ海峡イギリス海軍潜水艦「タリホー」に撃沈された。

その後は日本とマレー間での輸送任務に従事した[29]

その後の1945年(昭和20年)5月、三菱神戸造船所で整備中にドイツの降伏により接収され、『伊号第五百三潜水艦』と改名される[6]。同年7月15日に日本海軍に編入され、伊五百一型の3番艦[30]呉鎮守府籍の特殊警備潜水艦に定められ[31]、呉鎮守府部隊に配備された[7]

終戦後

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1945年(昭和20年)8月15日日本の敗戦後、神戸港に停泊していたところを連合国に接収され、武装解除された。1946年(昭和21年)4月16日[32]、伊号第五百四潜水艦(旧UIT25)と共に紀伊水道で海没処分された[8]

なお、日本艦時代にも2隻の潜水艦には、日本側についたイタリア人水兵がいたが、降伏時にサロ政権(枢軸側)についたことで、脱走兵と裏切り者扱いされること恐れ、戦後も帰国せず日本に残った[33]

伊号第五百三潜水艦歴代艦長

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艦長

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  1. 廣田秀三 大尉:1945年7月14日[34] - 1945年10月30日[35]
  2. 田中千秋 大尉/第二復員官:1945年10月30日[35] - 1945年12月1日[36]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b c 説明資料[1] 本潜水艦ハ「アキラ」第二號 第三號 第六號ト稱シ獨海軍指導下ニ歐亞連絡輸送ノ爲ニ昭南ニ來航セルモノニシテ今後モ同目的ニ充當スルヲ適當ト思料セラルルニ依リ日獨戰爭協力ノ爲獨側ノ要望等モ考慮シ獨國ニ譲渡スルヲ可然ト認ム/尚獨海軍ニ於テハ本潜水艦ヲ輸送ニ使用スル代リニ同價値ノ潜水艦ヲ伊海軍ニ提供シアリタル趣ナリ(おわり)
  2. ^ a b (四)「アキラ」ノ處置[3] 昭南碇泊中ノ「アキラ」二号 六号ハ直ニ第十特別根據地隊ヲシテ抑留 三号ハ「サバン」碇泊中ナリシヲ以テ第九特別根據地隊ヲシテ抑留初鷹監視ノ下ニ十五日昭南ニ回航セシム(以下略)
  3. ^ シンガポールは第一南遣艦隊が配置され、香取型練習巡洋艦香椎」や海防艦占守」などが同地を拠点に行動していた[15]
  4. ^ 上海にいたイタリア貨客船「コンテ・ベルデ」と敷設艇「レパント」などは自沈し、砲艦「エルマーノ・カルロット」は日本軍が接収に成功した[18]。後日、レパントは浮揚されて砲艦興津と命名[19]、カルカロットは砲艦鳴海となる[20]。神戸のラム級仮装巡洋艦カリアテII」は、自沈中に接収した[18](後日、生田川丸と改名)。
  5. ^ 『高松宮宣仁親王日誌6巻』(昭和18年9月10日)[24]○伊艦「エリトリア」9-8、一一〇〇昭南出港「サバン」ニ向フ、行方不明。飛行機デサガシタガ見当ラズ。マンマト逃ゲラレタ。日本人ハノツテオラヌガ、欧州トノ潜水艦航路其他最近ノ情報シコタマ手土産アルベシ。益〃馬鹿ニサレルコトナリ。(引用おわり)
  6. ^ 九月十五日伊潜水艦「アキラ」三號 初鷹警戒ノ下ニ「サバン」ヨリ昭南軍港着、十六日昭南在勤武官ト協力左ノ通處置ス[25]
    (1)乗員全部ヲ曩ノ「アキラ」二號及六號乗員ト共ニ陸軍側ニ引渡ス/(2)警戒兵ヲ派シ監視警戒ニ任ズ 香椎ヨリ右作業ノ爲陸戰隊五十名派遣セラレ本職ノ指揮下ニ入ル/二十一日「アキラ」二號及六號ヲ軍港ニ回航「アキラ」三號ト併セ港務部長之ガ保管警戒ニ任ズ(おわり)
  7. ^ 經過(一)敵情[26](4)伊國ノ情勢変化ニ伴ヒ機宜之ニ即應「サバン」在泊中ノ伊潜艦「アキラ」三號ハ初鷹護衛監視ノ下ニ十五日無事昭南ニ回航セリ

出典

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  1. ^ #伊国潜水艦処理 p.2
  2. ^ a b c 戦史叢書71 1974, p. 580イタリー潜水艦の接収と処理
  3. ^ #S16.11第1南遣艦隊日誌(5) pp.40-41
  4. ^ #伊国潜水艦処理 p.1
  5. ^ a b #S16.11第1南遣艦隊日誌(6) p.7〔 (七)抑留中ノ「アキラ」二號 三號 六號ハ之ヲ獨逸側ニ譲渡スル事トナリ二十五日譲渡式ヲ擧行セリ 〕
  6. ^ a b 昭和20年7月15日付 内令第639号、同第643号ほか。五〇三ではない。
  7. ^ a b 戦史叢書98 1979, p. 434捕獲ドイツ潜水艦
  8. ^ a b 戦史叢書98 1979, p. 445残存潜水艦の処分
  9. ^ Regio Sommergibile Cappellini及びレオンス・ペイヤール(Léonce Peillard)著、長塚隆二訳『潜水艦戦争 1939-1945 上』早川書房(ハヤカワNF文庫)、1997年、ISBN 4-15-050215-3 pp.53-54では「カッペリーニ級」としている。
  10. ^ a b c レオンス・ペイヤール(Léonce Peillard)著、長塚隆二訳『潜水艦戦争 1939-1945 上』早川書房(ハヤカワNF文庫)、1997年、ISBN 4-15-050215-3 p.152
  11. ^ Regio Sommergibile Cappellini2010年10月23日閲覧。
  12. ^ レオンス・ペイヤール(Léonce Peillard)著、長塚隆二訳『潜水艦戦争 1939-1945 上』早川書房(ハヤカワNF文庫)、1997年、ISBN 4-15-050215-3 pp.319-323
  13. ^ 『潜水艦戦争 1939-1945』271-273ページ
  14. ^ a b 『潜水艦戦争 1939-1945』274ページ
  15. ^ #S16.11第1南遣艦隊日誌(5) p.23(昭和18年7月、麾下艦船部隊行動)、同部隊日誌 p.34(昭和18年8月、麾下艦船部隊行動)、同部隊日誌 p.46(昭和18年9月、麾下艦船部隊行動)
  16. ^ "Italy and the Pacific War", p. 17
  17. ^ 高松宮日記6巻 1997, pp. 589a-591(昭和18年9月9日)九日〇一三〇、伊国無条件降伏、〇七〇〇「コンテベルデ」自沈。独語(14)
  18. ^ a b 高松宮日記6巻 1997, pp. 589b-591.
  19. ^ 「3月(1)」、昭和19年1月~6月 達(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C12070124300  p.1
  20. ^ 「11月(1)」、昭和18年1月~12月 達(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C12070123200  p.3
  21. ^ #S17第10特根戦時日誌(3) pp.42-43〔 (三)(イ)九月九日伊太利無條降伏ノ報アリ令ニ依リ在泊伊潜水艦「アキラ」二號及六號ニ対シ昭南在勤武官ト協力左ノ通リ處置ス
    (1)無線空中線及砲尾栓ヲ撤収ス/(2)乗員全部ヲ陸上ニ収容ス/(3)警戒兵ヲ派遣シ第四十四掃海隊司令指揮ノ下ニ監視警戒ニ任ズ/(4)彈火藥燃料等ヲ逐次陸揚ス 〕
  22. ^ "Italy and the Pacific War", pp. 17-18
  23. ^ #S18.06第9特根戦時日誌(1) p.46、#S16.11第1南遣艦隊日誌(5) pp.39-40〔 (三)伊太利降服ト「エリトリア」号及「アキラ」ノ處置 〕
  24. ^ 高松宮日記6巻 1997, p. 592.
  25. ^ a b c #S17第10特根戦時日誌(3) p.45
  26. ^ #S18.06第9特根戦時日誌(1) pp.29-30
  27. ^ #伊国潜水艦処理 p.1
  28. ^ "Italy and the Pacific War", p. 18
  29. ^ "Italy and the Pacific War", pp. 18-19
  30. ^ 昭和20年7月15日付 内令第639号。
  31. ^ 昭和20年7月15日付 内令第643号。
  32. ^ 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』第一法規出版、1995年、365頁。
  33. ^ "Italy and the Pacific War", p. 19
  34. ^ 昭和20年7月24日付 秘海軍辞令公報 甲 第1866号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072106300 
  35. ^ a b 昭和20年11月16日付 海軍辞令公報 甲 第1984号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072108200 
  36. ^ 昭和21年1月30日付 第二復員省辞令公報 甲 第47号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072158400 

参考文献

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  • 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行者『高松宮日記 第六巻 昭和十八年 二月~九月』中央公論社、1997年3月。ISBN 4-12-403396-6 
  • レオンス・ペイヤール長塚隆二(訳)『潜水艦戦争 1939-1945』早川書房、1979年
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<5> ―第三段作戦中期―』 第71巻、朝雲新聞社、1974年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 潜水艦史』 第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。 
  • Enrico Cernuschi, Vincent P. O’Hara, "Italy and the Pacific War", World War II Quarterly. Vol. 3 No. 1, 2006, pp. 14-19
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『「10.伊国艦船抑留問題」、大東亜戦争関係一件/外国艦船拿捕抑留関係(A-7-0-0-9_16)(外務省外交史料館)』。Ref.B02032837500。 
    • 『昭和16年11月1日~昭和19年5月28日 第1南遣艦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030026900。 
    • 『昭和16年11月1日~昭和19年5月28日 第1南遣艦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030027000。 
    • 『昭和18年6月1日~昭和19年5月31日 第9特別根拠地隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030254900。 
    • 『昭和17年1月15日~昭和20年2月28日 第10特別根拠地隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030256700。 
    • 『「13、昭和18年10月13日 伊国潜水艦処理に関する件」、重要国策決定綴 其5 昭和18年9月25日~19年8月11日(防衛省防衛研究所)』。Ref.C12120222900。 

関連作品

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映画
テレビドラマ

関連項目

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