アーサー・パーシバル
アーサー・パーシバル Arthur Percival | |
---|---|
生誕 |
1887年12月26日 イギリス イングランド ハートフォードシャー |
死没 |
1966年1月31日(78歳没) イギリス イングランド ロンドン ウェストミンスター |
所属組織 | イギリス陸軍 |
軍歴 | 1914-1946年 |
最終階級 | 中将 |
アーサー・アーネスト・パーシバル(英語: Arthur Ernest Percival、中国語名は白思華[1]、1887年12月26日 - 1966年1月31日)は、イギリス陸軍の軍人。陸軍中将。
経歴
[編集]士官学校などのような軍人養成学校の出身ではなく、一兵卒から叩き上げて将軍になった人物である。第一次世界大戦には当初、兵士として従軍していたが、1916年のソンムの戦いの際に初級幹部である少尉に任官した。翌年の1917年には、29歳で大隊長(佐官クラス)となる。すぐ後には旅団指揮を任されるにいたった。戦後はアイルランドにおける騒擾の鎮圧で頭角をあらわした。アイルランド共和軍(IRA)から暗殺対象として何度も狙われた[2]。サンドハースト、ロシア、ナイジェリアなどに駐在し、1936年から英領マレーに勤務。
1939年、フランス派遣軍の参謀長に就任。第43師団長として1940年5月ダイナモ作戦に参加し、帰国後は第44師団長として英国本土の沿岸防備に専念。1941年4月イギリス極東軍司令部(司令官:ロバート・ブルック=ポッパム空軍大将)隷下のマラヤ司令部司令官となった。パーシバルはマレー駐屯軍の6個師団への増強と航空支援を要求したが、配下にあったのは訓練が不十分な2個師団半のみであった。1942年2月にシンガポールが陥落し、山下奉文率いる日本軍に約8万の残存兵と共に投降した。マレー半島で投降した5万人と合わせ、これは英国史上最大規模の降伏だった。初めての軍司令官勤務での敗戦を経験した後、捕虜となって台湾や満州で抑留された。
1945年9月の東京湾上における戦艦ミズーリ号での降伏文書調印式に出席した後に退役し、1949年に回顧録を著わした他は余生を本国で静かに暮らした。
1966年、ロンドンで死去。満78歳没。
書籍
[編集]- John George Smyth: Percival and the tragedy of Singapore. MacDonald and Company, 1971
脚注
[編集]- ^ “僑領紛紛反駁白思華誹謗報告政府不信華僑豈是華僑未盡衛土之責”. 南洋商報. (1948年3月6日)
- ^ “日本びいきのアイリッシュ 大戦「シンガポール陥落」…首都では日本領事囲み祝賀会”. 産経新聞. (2017年2月5日)
軍職 | ||
---|---|---|
先代 ライオネル・ボンド |
マラヤ司令部司令官 第8代:1941.4 - 1942.2 |
次代 なし |