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「名人戦 (将棋)」の版間の差分

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2020年7月16日 (木) 23:02時点における版

名人戦
第7期名人戦の様子
第7期名人戦の様子
棋戦の分類 タイトル戦
開催概要
開催時期 予選(順位戦):6月 - 翌年3月
タイトル戦:4月 - 7月
初回開催 1935年~1937年(第1期名人決定大棋戦は2年間)
持ち時間 予選(順位戦):6時間
タイトル戦:9時間(2日制)
番勝負 七番勝負
主催 毎日新聞社
朝日新聞社
公式サイト 名人戦・順位戦:日本将棋連盟
記録
現名人 豊島将之(第77期)
永世資格者 木村義雄(十四世名人)
大山康晴(十五世名人)
中原誠(十六世名人)
谷川浩司(十七世名人資格)
森内俊之(十八世名人資格)
羽生善治(十九世名人資格)
最多優勝 大山康晴(18期)
最長連覇 大山康晴(13連覇)
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名人戦(めいじんせん)は、毎日新聞社朝日新聞社共催の将棋棋戦で、タイトル戦竜王戦・名人戦・叡王戦王位戦王座戦棋王戦王将戦棋聖戦)のひとつ。将棋界の近代化にあたり、江戸時代以来の終身位名人制を廃し、短期実力制によって名人を選ぶべく、1935年に第1期が開始された(第1期リーグ戦は1935年から1937年にかけての二年間)。タイトル戦の中で一番長い歴史を有し、七番勝負の勝者は名人のタイトル称号を得る。名人位は竜王位とともに将棋界の頂点とされている。

概要

名人と挑戦者とで行われる対局(七番勝負)のこと。名人戦七番勝負の勝者には、将棋界で最も格式と歴史のある(家元制として江戸時代初期の1612年以来、実力制タイトルとして1937年以来である)「名人」のタイトル称号が与えられ、次期の七番勝負終了まで、そのタイトル保持者となる。毎日新聞社朝日新聞社とが共催(2007年度から)し、大和証券グループから協賛を受けている(2005年度から)。

江戸時代以来、近代まで将棋の名人世襲制(ただし血縁絶対ではない、家元制・推挙制)であった。

1929年、読売新聞社による「第一回日本将棋選手権戦」開始にあたり、読売新聞社が行ったアンケートに、時の名人関根金次郎が「古来、名人の位は一生涯のものだが、私は時勢に鑑み適当な時期に退隠したいと思う」と回答[1]。なお、この頃の関根は「名人」ではなく「九段制」を考えていた[2]

その後、日本将棋連盟顧問の中島富治の発案を受け、1934年(昭和9年)、東京日日新聞学芸部長の阿部眞之助が囲碁及び将棋の「実力名人戦」を企画し[3]日本将棋連盟会長の金易二郎が1935年3月に「昭和12年(1937年)に300年続いた一世名人を廃する」と発表。同年、名人戦(当初は八段9名のリーグ戦)が開始。2年にわたる「第1期名人決定大棋戦」の結果、1937年の12月6日に木村義雄花田長太郎に勝ち、翌年に予定されていた決勝六番勝負をへることはなく、初代の実力制名人に決定。1938年2月11日(建国の記念の日[4])、十三世名人の関根金次郎は1935年に提出した声明書に基づき名人位を返上し、木村が実力制名人位についた。

これにより初代大橋宗桂以来続いた一世名人制が廃止され、短期実力制名人位制度が開始された。なお、囲碁は名人戦ではなく本因坊戦とされ1939年に開始した[5]

方式

名人戦の予選は順位戦と呼ばれ、A級順位戦の優勝者が挑戦者となる。名人と挑戦者が名人戦七番勝負を戦う。

A級順位戦

詳しくは順位戦の項を参照のこと。持ち時間は各6時間。

名人戦七番勝負

名人とA級順位戦の優勝者が七番勝負を戦う。七番勝負は全国各地の旅館や料亭、あるいは文化的施設など格調高い場所で行われる。第66期(2008年)以降は第1局を東京都文京区の椿山荘で行い、第2局~第5局は全国の自治体からの公募により開催地が決定されるのが恒例となっている[6]

持ち時間は各9時間(将棋界で最長)で、2日制で実施される。1日目の終わりには封じ手を行い、2日目の開始まで次の手を考えて有利になることがないようにする。なお、2日目に夕食休憩の時間があるのは、2018年現在タイトル戦の中では名人戦だけ(1日制のタイトル戦では王座戦叡王戦がある)。

賞金

名人戦の賞金額は通常非公開だが、過去に『将棋世界』誌上でその一端が公開されたことがある[7]。同記事によれば、1991年当時の名人及び挑戦者の賞金額は以下のとおり。

  • 対局料 - 名人は1,050万円、挑戦者は450万円。
  • 賞金 - 勝者(名人)は1,200万円、敗者は300万円。
  • 名人手当 - 月に約100万円(名人は順位戦の対局がない(=対局料が発生しない)代わりに手当が上乗せされる)。

従って名人位を防衛すると合計で約3,500万円ほどとなり、当時の竜王戦の賞金とほぼ並ぶ計算となる[7]

変遷

当初は1期2年であり、2年間かけて挑戦者を決め、偶数年に番勝負を開催していた。ただし、1938年、1944年、1946年は挑戦者不在などの理由により番勝負が開催されず、このうち1938年と1946年は、前年である奇数年のうちに名人が決まった。各期ごとに試行錯誤が重ねられ、挑戦者決定リーグの開催方式が変更された。

1946年に順位戦が始まったことで、1947年以降は1期1年となり、挑戦者決定方法も固定された。

第1期名人戦

第1期(番勝負:1938年(開催されず))
最初の実力制名人は、当時の最高段位であった八段の全棋士が名人候補者決定リーグに参加し、リーグを勝ち抜いた名人候補者2名による六番勝負(3勝3敗の場合は候補者決定リーグ1位の者が名人)で争うことになった。当初は、1935年から2年間のリーグを行い、1937年に番勝負を開催する予定だったが、神田事件(後述)によってリーグが半年間中断され、番勝負は1938年に変更された。
名人候補者決定リーグは、八段全棋士が総当たりで2局ずつを指す特別リーグ戦の結果と、通常の棋戦における対八段・七段戦(普通戦)の結果をそれぞれ点数に換算して合算することで順位を決した(普通戦では、勝敗だけでなく、相手の段位や手合によって点数が定められた)。ただし、候補者決定リーグにおける1位と2位の点差が8点を越える大差となった場合には、2位の者の候補者資格を認めず、番勝負は行わずに1位の者が名人になることとしていた。また、第1期のリーグによる点数が40点を下回った棋士は、次期(第2期)の挑戦者決定リーグ参加権が停止されることとなっていた(第3期から復帰が可能)。
名人候補者決定リーグの当初の参加者(八段)は、土居市太郎大崎熊雄金易二郎木見金治郎花田長太郎木村義雄金子金五郎(八段昇段日順)の7名だった。しかし、神田辰之助の八段昇段(すなわちリーグ参加権)の是非を巡って紛糾し、神田の昇段を主張する棋士らが一時連盟から脱退する騒ぎとなった(神田事件)。結果的に連盟は神田の八段昇段を追認して決着。神田と萩原淳[8]の新八段2名が加わり、9名でリーグを行うこととなった。
リーグ戦の結果、1937年12月5日から[9]12月6日の最終局で木村が花田に勝利したため、リーグ戦の成績は木村と花田が13勝2敗で並んだが、点数が1位の木村が103.7点、2位の花田が95.6となり、8.1点差という大差が付いたため、規定により番勝負は実施されず、木村が名人につくことなった。翌1938年2月11日に、木村の名人就位式が実施された。また、木見と大崎が規定の40点を下回り、第2期の挑戦者決定リーグ参加資格がなくなった(なお、大崎は病気による途中棄権であり、第2期リーグの途中で死去したが[10]、木見は規定により第3期からリーグに復帰した)。

順位戦創設以前(第2期から第5期まで)

第2期(番勝負:1940年)
第2期からは、現在でもお馴染みの挑戦者決定リーグで選ばれた挑戦者が七番勝負で名人に挑戦する形式となる。挑戦者決定リーグは、前期のリーグで40点以上を獲得した名人以外の八段6名に加えて、新八段1名、八段格として特例で参加が認められた阪田(坂田)三吉(名人僭称問題によってそれまで連盟に所属していなかった)、七段全員による予選(総当たり2局ずつ)を勝ち抜いた1名の9名に参加資格が与えられた。
挑戦者決定リーグは、第1期にあった普通戦が廃止され、総当たりのリーグ戦を2回(第1次・第2次)行い、その合計の勝敗で挑戦者を決した。なお、第1次リーグで1勝以下の成績の者(花田が該当)は第2次リーグに参加できず、失格となった。番勝負は持ち時間各15時間の3日制にて実施された[11]
土居が13勝0敗で名人挑戦を決めたものの、番勝負で木村に敗退した。なお、特例として参加した阪田は7勝8敗であった。
第3期(番勝負:1942年)
挑戦者決定リーグは、八段の全棋士10名に、五段 - 七段の予選を通過した2名を加え、12名で行われた。
第3期は、2段階のリーグ戦によって挑戦者が決められることになった。まず、12名を4名ずつ3組に分けてリーグ戦を行った。各組の1位3名(土居・神田・渡辺)に加え、各組2位4名による敗者復活リーグを勝ち抜いた1名(塚田)の計4名により、決勝リーグを行った。決勝リーグを制した神田が挑戦者となったが、番勝負で木村に破れた。
第4期(番勝負:1944年(開催されず))
挑戦者決定戦は、八段の全棋士12名に加え、五段 - 七段の予選を通過した4名の合計16名で行われた。
これまでのリーグ戦方式を改め、半年ごと(2年間なので都合4回)に予備資格者決定トーナメントを行うことになった。各トーナメントの勝者が予備資格者として名人(木村義雄)と半香落ち(香落ちと平手を交互に指す)の手合いで予備手合三番勝負を戦い、これに勝ち越せば名人挑戦者として改めて名人戦七番勝負に進むことができる。
しかし、予備手合は4回とも木村の勝ちとなり、名人挑戦資格者が出ず、七番勝負を行わずに木村の防衛となった。
  1. 1943年前期 木村義雄 2-0 萩原淳
  2. 1943年後期 木村義雄 2-1(1千日手) 大野源一
  3. 1944年前期 木村義雄 2-0 花田長太郎
  4. 1944年後期 木村義雄 2-0 坂口允彦
第5期(番勝負:1946年(開催されず))
戦時下につき、トーナメントが廃止され、近年の成績により予備資格者の7名が選出された。この7名が順に木村と予備手合三番勝負を行い、勝ち越した者が正式な挑戦者として名人戦七番勝負に進出することとなった[12]
しかし、戦争激化により、予備手合が中止され、特例として木村義雄の名人防衛の決定がなされた。

順位戦創設以降(第6期から)

第6期(1947年)
前年から順位戦が開始され、A級順位戦の優勝者が名人挑戦資格を得るようになった。
この年のA級順位戦は八段棋士14名によるリーグ戦(持ち時間は各7時間)で、順位が決定していなかったため、同率首位となった塚田正夫・大野源一・萩原淳の3者によるプレーオフが行われ、塚田が挑戦資格を得た。
この期より番勝負のシステムが、それまでの3日制から「持ち時間各8時間の1日制」に変更された(封じ手は行われない)[13]
第7期(1948年) - 第9期(1950年)
順位戦A級の上位3名と、B級の優勝者による4名がパラマス式トーナメントを行い(A級3位とB級優勝者が対局し、勝者がA級2位と、その勝者がA級1位と対局する)、トーナメント優勝者が名人挑戦資格を得る。
第7期では、第2期順位戦でB級七段だった大山康晴がパラマス式トーナメントを勝ち抜いて挑戦資格を得ており、名人戦唯一の七段の挑戦者となっている。
1949年の順位戦実行中に、日本将棋連盟と毎日新聞との交渉が決裂し、第9期からの名人戦の主催者は朝日新聞となった[14]
なお第9期から、番勝負のシステムが「持ち時間各10時間の2日制」に再度変更されている[15]
第10期(1951年) - 第26期(1967年)
A級順位戦の優勝者が挑戦資格を得るように改められた。
第27期(1968年) -
持ち時間を「順位戦は各6時間、番勝負は各9時間」に短縮。以後現在までほぼ同じ形式を踏襲している。

永世名人

名人位を通算5期以上獲得した棋士は、原則として引退後に、永世称号である永世名人を名乗ることができる。

他のタイトルの永世称号と異なり、「○世名人」という称号となる。これは、江戸時代から続く終世名人制を引き継ぐためであり、最初の永世名人である木村義雄は、関根金次郎十三世名人の次であるから十四世名人を名乗った。

永世名人の資格は、1949年に、名人戦主催者が翌年から朝日新聞に変更となったのを機に制定された。当時の規約は、名人5期以上の棋士が失冠した際に、連盟がその棋士の人格等を審査し、永世名人に相応しい人物であれば永世名人の称号を贈るというものであった[16]

規約制定以前の1945年に木村義雄は既に規定の名人5期を達成していたため、当然この資格を獲得し、1952年に名人を失冠すると永世名人を襲位した。

なお、「木村の名人獲得期数5期は1949年に達成したものであり、戦前の獲得期数は実際は4期である」とか「永世名人の規約ができたのは1952年である」などといった誤解がある。しかし、木村の名人獲得期数と規約制定年と襲位との関係を理解しないことから起きた誤りである。

この規定による永世名人の資格獲得者は、木村義雄(十四世名人)、大山康晴(十五世名人)、中原誠(十六世名人)、谷川浩司(十七世名人)、森内俊之(十八世名人)、羽生善治(十九世名人)の6名である。このうち、谷川、森内、羽生は現役なので未だ襲位していない。

木村は1952年の名人陥落後に引退して十四世名人を名乗った。大山は名人13連覇など数々の偉業を称えて、特例で現役でありながら「十五世名人」を名乗ることを許されていた。2007年11月、中原も名人15期をはじめとする実績を称えて現役中に十六世名人に推戴された。2017年現在、規定通り引退後に永世名人を名乗ったのは木村のみである。

名人戦と段位

上述の通り、第10期以降は名人戦挑戦のために、順位戦A級在位という前提を要する関係上、名人戦挑戦者の段位は必然的に八段以上となる。八段の挑戦者が名人位を獲得した場合、段位は九段となる。 1973年11月3日に当規定が施行されて以降、名人位獲得に伴い九段に昇段した棋士は、谷川浩司佐藤康光丸山忠久森内俊之佐藤天彦豊島将之の6名である。尚、谷川と丸山は、五段から八段までの全ての段位を順位戦の昇級に伴い昇段したので、名人位獲得をA級から名人への昇級と考えると五段から九段まで全て順位戦の昇級で昇段したことになる。

歴代七番勝負・A級順位戦

  • 名人戦七番勝負について
    • 勝敗は名人から見た勝敗。千は千日手、持は持将棋
    • "赤色"は七番勝負の勝者。
    • "濃い赤色"は七番勝負の勝者・永世位獲得。
  • 順位戦A級リーグについて
    • 順位は当期の成績ではなく前期の成績によって決定したリーグ順位。
    • ◎は挑戦者、○は挑戦者以外のプレーオフ進出者、▼は降級者、▽は降級者以外のリーグ離脱者(引退・死去)、全は全勝者、休は休場者。
    • 着色は名人獲得経験者。
名人戦七番勝負 名人 挑戦者決定リーグ
年度 名人 勝敗 挑戦者 八段(昇段日順) 予選通過者(七段以下)
1 1937 木村義雄 土居 大崎 木見 花田 木村雄 金子 神田辰 萩原
1938 名人候補者2名を決めるための全八段によるリーグ。1位木村と2位花田が大差となったため、1938年の番勝負は行わずに1937年に名人決定。
2 1939 木村義雄 ○○千千●○○ 土居市太郎 木村雄 土居 花田 金子 神田辰 萩原 斎藤 阪田[17] 渡辺東
1940 名人挑戦者を決めるためのリーグ。前期リーグで規定の点数を満たさなかった八段は出場資格なし。予選を通過した七段1名が出場。
3 1941 木村義雄 ○○○○ 神田辰之助 木村雄 土居 木見 花田 金子 神田辰 萩原 斎藤 坂口 塚田正 渡辺東大野源
1942 出場者を3組に分けて1次リーグ戦を行い、各組1位の3名と2位から敗者復活戦を勝ち抜いた1名で決勝リーグ戦。
4 1943 木村義雄 木村雄 土居 木見 花田 金子 神田辰 萩原 斎藤 坂口 塚田正 小泉 渡辺東 山本、大野源村上大山
1944 トーナメントを勝ち抜いた4名の予備資格者が木村と予備手合を行うも全員敗退。名人挑戦権獲得者が現れず番勝負なしで木村の名人防衛。
5 1945 木村義雄 木村雄 花田 金子 萩原 坂口 塚田正 大野源 加藤治[18]
1946 近年の成績で選抜された7名が予備資格者となったが、予備手合が戦争で中止となり、番勝負は開催されなかった。特例として木村の防衛扱い。
名人戦七番勝負 名人 順位戦A級リーグ 順位戦B級リーグ
年度 名人 勝敗 挑戦者 1位 2位 3位 4位 5位 6位 7位 8位 9位 10位 (11位) (12位) A級リーグ昇級者
6 1947 木村義雄 ○○持●●千●千● 塚田正夫 木村雄 土居、金、花田、金子、萩原、斎藤、坂口、塚田正、渡辺東、小泉、加藤治、大野源、村上 升田
7 1948 塚田正夫 ●○○●千○○ 大山康晴 塚田正 木村雄 大野源 萩原 土居 加藤治 坂口 升田 花田 村上 大山丸田北楯松田辰
8 1949 塚田正夫 ○●○●●[19] 木村義雄 塚田正 升田 大野源 大山 土居 丸田 木村雄 加藤治 北楯 萩原 松田辰 坂口 五十嵐高島一原田
9 1950 木村義雄 ○○●●○○ 大山康晴 木村雄 塚田正 大山 升田 丸田 大野源 北楯 五十嵐 高島一 原田 松田辰 坂口 高柳板谷四南口
10 1951 木村義雄 ○●○○●○ 升田幸三 木村雄 大山 升田 丸田 塚田正 高島一 五十嵐 大野源 高柳 板谷四 南口 坂口 松田辰 原田、松田茂荒巻
11 1952 木村義雄 ○●●●● 大山康晴 木村雄 升田 大山 丸田 坂口 高柳 塚田正 板谷四 原田 松田茂 荒巻 松田辰 花村松下小堀
12 1953 大山康晴 ○○●○○ 升田幸三 大山 升田 丸田 塚田正 板谷四 原田 松田茂 花村 松下 小堀 高柳 松田辰 、南口、大野源
13 1954 大山康晴 千○○○●○ 升田幸三 大山 升田 塚田正 松田茂 丸田 原田 花村 小堀 南口 大野源 高柳 高島一、松浦卓
14 1955 大山康晴 ○●○○●○ 高島一岐代 大山 升田 塚田正 大野源 花村 松田茂 丸田 原田 高島一 松浦卓 松下、五十嵐
15 1956 大山康晴 ○○○○ 花村元司 大山 高島一 塚田正 大野源 花村 松田茂 原田 松浦卓 松下 五十嵐 升田 二上、坂口
16 1957 大山康晴 ●○●●○● 升田幸三 大山 花村 升田 松田茂 原田 五十嵐 高島一 塚田正 二上 坂口 大野源、丸田
17 1958 升田幸三 ○○○持●●○ 大山康晴 升田 大山 塚田正 五十嵐 花村 原田 二上 坂口 大野源 丸田 高島一、加藤一
18 1959 升田幸三 千○●●●● 大山康晴 升田 大山 大野源 丸田 五十嵐 二上 塚田正 花村 高島一 加藤一 熊谷加藤博
19 1960 大山康晴 ●○○○千○ 加藤一二三 大山 升田 塚田正 大野源 丸田 二上 高島一 加藤一 熊谷 加藤博 花村、松浦卓
20 1961 大山康晴 ○○○●○ 丸田祐三 大山 加藤一 塚田正 加藤博 高島一 大野源 丸田 二上 花村 松浦卓 升田 芹沢廣津
21 1962 大山康晴 ○○○○ 二上達也 大山 丸田 加藤博 二上 高島一 花村 塚田正 大野源 芹沢 廣津 升田 加藤一、熊谷
22 1963 大山康晴 ○○○●○ 升田幸三 大山 二上 升田 丸田 芹沢 廣津 花村 大野源 加藤一 熊谷 塚田正 加藤博、五十嵐
23 1964 大山康晴 ●○○●○○ 二上達也 大山 升田 二上 大野源 加藤一 丸田 熊谷 塚田正 加藤博 五十嵐 松田茂、山田
24 1965 大山康晴 ○○○●○ 山田道美 大山 二上 升田 加藤一 丸田 塚田正 大野源 加藤博 五十嵐 松田茂 山田 熊谷、有吉
25 1966 大山康晴 ●●○○○○ 升田幸三 大山 山田 加藤博 升田 松田茂 丸田 二上 塚田正 加藤一 熊谷 有吉 灘、花村
26 1967 大山康晴 ○○○●○ 二上達也 大山 升田 山田 加藤博 二上 丸田 塚田正 有吉 松田茂 花村 加藤一内藤
27 1968 大山康晴 ○○○○ 升田幸三 大山 二上 加藤博 山田 丸田 有吉 松田茂 花村 塚田正 加藤一 内藤 升田 大友関根茂
28 1969 大山康晴 ●○○●●○○ 有吉道夫 大山 升田 山田 二上 丸田 有吉 花村 内藤 加藤博 大友 関根茂 塚田正 加藤一、灘
29 1970 大山康晴 ○●○○○ 灘蓮照 大山 有吉 升田 山田 丸田 加藤博 二上 花村 塚田正 加藤一 内藤、中原
30 1971 大山康晴 ○●●○●○○ 升田幸三 大山 有吉 升田 加藤一 花村 二上 丸田 内藤 中原 塚田正 原田、米長
31 1972 大山康晴 ●○○●○●● 中原誠 大山 升田 二上 加藤一 有吉 内藤 中原 丸田 塚田正 原田 米長 佐藤大大内
32 1973 中原誠 ○○○○ 加藤一二三 中原 大山 升田 米長 二上 内藤 原田 丸田 加藤一 有吉 佐藤大 大内 関根茂、塚田正
33 1974 中原誠 ●○○●○●○ 大山康晴 中原 加藤一 大山 米長 二上 内藤 丸田 有吉 佐藤大 関根茂 塚田正 升田 板谷進、大内
34 1975 中原誠 ●○○千●●○持○ 大内延介 中原 大山 内藤 二上 関根茂 米長 有吉 塚田正 加藤一 板谷進 大内 升田 桐山、熊谷
35 1976 中原誠 ○●●○○●○ 米長邦雄 中原 大内 大山 升田 米長 板谷進 二上 有吉 加藤一 桐山 熊谷 勝浦森雞
1977 主催者移行問題により中止。
36 1978 中原誠 ●○●○千○○ 森雞二 中原 米長 大山 有吉 二上 升田 板谷進 加藤一 桐山 勝浦 森雞 大内、花村
37 1979 中原誠 ●●○○○○ 米長邦雄 中原 森雞 勝浦 米長 大山 二上 加藤一 桐山 板谷進 大内 花村 升田 内藤、石田
38 1980 中原誠 ○●持○○○ 米長邦雄 中原 米長 森雞 大山 二上 加藤一 桐山 板谷進 勝浦 内藤 石田 木村徳森安秀
39 1981 中原誠 ○○○●○ 桐山清澄 中原 米長 大山 加藤一 桐山 板谷進 勝浦 内藤 石田 木村徳 森安秀 大内、二上
40 1982 中原誠 持○●○●千●○千● 加藤一二三 中原 桐山 米長 勝浦 大山 加藤一 内藤 石田 森安秀 大内 二上 森雞、谷川
41 1983 加藤一二三 ●●●○○● 谷川浩司 加藤一 中原 森安秀 桐山 米長 大山 内藤 大内 二上 森雞 谷川 青野淡路
42 1984 谷川浩司 ○○○●○ 森安秀光 谷川 加藤一 中原 桐山 米長 大山 内藤 森雞 森安秀 青野 淡路 勝浦、田中寅
43 1985 谷川浩司 ●●●○○● 中原誠 谷川 森安秀 加藤一 大山 森雞 中原 桐山 米長 青野 勝浦 田中寅 有吉、二上
44 1986 中原誠 ○○●○○ 大山康晴 中原 谷川 森安秀 森雞 米長 勝浦 桐山 加藤一 青野 有吉 二上 大山 小林健
45 1987 中原誠 ●●○○○○ 米長邦雄 中原 大山 米長 加藤一 谷川 森雞 桐山 有吉 二上 小林健 内藤、青野
46 1988 中原誠 ○●●●○● 谷川浩司 中原 米長 谷川 桐山 大山 森雞 加藤一 有吉 内藤 青野 塚田泰真部
47 1989 谷川浩司 ○○○○ 米長邦雄 谷川 中原 米長 加藤一 桐山 青野 内藤 大山 塚田泰 真部 田中寅、高橋
48 1990 谷川浩司 ●○●○●● 中原誠 谷川 米長 桐山 内藤 大山 中原 青野 塚田泰 田中寅 高橋 有吉、真部
49 1991 中原誠 ○○○●○ 米長邦雄 中原 谷川 高橋 米長 内藤 大山 青野 塚田泰 有吉 真部 小林健、石田
50 1992 中原誠 ●●○●○○○ 高橋道雄 中原 米長 谷川 塚田泰 内藤 高橋 大山 有吉 小林健 石田 田中寅、田丸
51 1993 中原誠 ●●●● 米長邦雄 中原 高橋 谷川 大山 有吉 小林健 米長 塚田泰 田中寅 田丸 羽生加藤一
52 1994 米長邦雄 ●●●○○● 羽生善治 米長 中原 高橋 谷川 小林健 田中寅 有吉 塚田泰 羽生 加藤一 森下
53 1995 羽生善治 ○○●○○ 森下卓 羽生 米長 谷川 中原 高橋 有吉 塚田泰 加藤一 森下 森内村山聖
54 1996 羽生善治 ○○○●○ 森内俊之 羽生 森下 中原 米長 谷川 高橋 加藤一 有吉 森内 村山聖 佐藤康、森雞
55 1997 羽生善治 ●○●●○● 谷川浩司 羽生 森内 森下 米長 谷川 中原 加藤一 村山聖 佐藤康 森雞 高橋、井上慶
56 1998 谷川浩司 ○●○●○●● 佐藤康光 谷川 羽生 森内 森下 佐藤康 中原 加藤一 米長 高橋 井上慶 丸山、村山聖
57 1999 佐藤康光 ○○●●●○○ 谷川浩司 佐藤康 谷川 羽生 森内 森下 中原 井上慶 加藤一 丸山 村山聖 郷田、田中寅
58 2000 佐藤康光 ●●○○○●● 丸山忠久 佐藤康 谷川 森内 丸山 羽生 森下 加藤一 中原 郷田 田中寅 青野、先崎
59 2001 丸山忠久 ○●千●○●○○ 谷川浩司 丸山 佐藤康 森内 羽生 森下 谷川 加藤一 田中寅 青野 先崎 藤井猛三浦
60 2002 丸山忠久 ●●●● 森内俊之 丸山 谷川 佐藤康 羽生 森内 青野 森下 先崎 加藤一 藤井猛 三浦 島、郷田
61 2003 森内俊之 ●●●千● 羽生善治 森内 丸山 佐藤康 谷川 羽生 森下 藤井猛 青野 三浦 郷田 久保鈴木大
62 2004 羽生善治 ●●○●○● 森内俊之 羽生 森内 佐藤康 藤井猛 谷川 丸山 青野 三浦 久保 鈴木大 深浦、高橋
63 2005 森内俊之 ●○○○●●○ 羽生善治 森内 羽生 佐藤康 谷川 丸山 三浦 鈴木大 藤井猛 久保 深浦 高橋 森下、郷田
64 2006 森内俊之 ○○●○●○ 谷川浩司 森内 羽生 藤井猛 久保 佐藤康 谷川 丸山 三浦 鈴木大 森下 郷田 深浦、阿部隆
65 2007 森内俊之 ●●○○○●○ 郷田真隆 森内 谷川 羽生 佐藤康 郷田 丸山 藤井猛 久保 三浦 深浦 阿部隆 木村一行方
66 2008 森内俊之 ○●●●○● 羽生善治 森内 郷田 谷川 羽生 佐藤康 丸山 藤井猛 久保 三浦 木村一 行方 鈴木大、深浦
67 2009 羽生善治 ○●○●●○○ 郷田真隆 羽生 森内 三浦 郷田 丸山 木村一 藤井猛 谷川 佐藤康 鈴木大 深浦 高橋、井上慶
68 2010 羽生善治 ○○○○ 三浦弘行 羽生 郷田 佐藤康 森内 丸山 木村一 藤井猛 谷川 三浦 高橋 井上慶 渡辺明、久保
69 2011 羽生善治 ●●●○○○● 森内俊之 羽生 三浦 高橋 森内 丸山 木村一 谷川 郷田 藤井猛 渡辺明 久保 佐藤康屋敷
70 2012 森内俊之 ○●○●○○ 羽生善治 森内 羽生 渡辺明 高橋 郷田 三浦 丸山 谷川 久保 佐藤康 屋敷 橋本崇、深浦
71 2013 森内俊之 ○○●○○ 羽生善治 森内 羽生 渡辺明 三浦 谷川 屋敷 郷田 佐藤康 高橋 橋本崇 深浦 行方、久保
72 2014 森内俊之 ●●●● 羽生善治 森内 羽生 三浦 郷田 渡辺明 屋敷 佐藤康 深浦 谷川 行方 久保 広瀬阿久津
73 2015 羽生善治 ○●○○○ 行方尚史 羽生 森内 行方 渡辺明 佐藤康 深浦 三浦 久保 郷田 広瀬 阿久津 佐藤天、屋敷
74 2016 羽生善治 ○●●●● 佐藤天彦 羽生 行方 渡辺明 久保 広瀬 深浦 郷田 森内 佐藤康 佐藤天 屋敷 稲葉、三浦
75 2017 佐藤天彦 ●○●○○○ 稲葉陽 佐藤天 羽生 行方 渡辺明 佐藤康 屋敷 森内 広瀬 深浦 稲葉 三浦[20] 久保、豊島
76 2018 佐藤天彦 ●○●○○○ 羽生善治 佐藤天 稲葉 羽生 渡辺明 広瀬 行方 屋敷 深浦 佐藤康 久保 豊島 三浦 糸谷、阿久津
77 2019 佐藤天彦 千●●●● 豊島将之 佐藤天 羽生 稲葉 広瀬 佐藤康 久保 豊島 深浦 三浦 糸谷 阿久津 渡辺明、木村一
78 2020 豊島将之 渡辺明 豊島 佐藤天 羽生 広瀬 糸谷 佐藤康 久保 三浦 稲葉 渡辺明 木村一 菅井斎藤慎

記録

獲得 出場 挑戦 A級在籍(名人在位含む)
休場除く 休場含む
最多 大山康晴 18期 大山康晴 25期 升田幸三・羽生善治 8期 大山康晴 43期 大山康晴 44期
連続 大山康晴 13連覇 大山康晴 21連続 羽生善治 3連続 大山康晴 35期 大山康晴 44期
最年少 第41期 谷川浩司 21歳 第19期 加藤一二三 20歳 第19期 加藤一二三 20歳 第18期 加藤一二三 19歳 第18期 加藤一二三 19歳
最年長 第51期 米長邦雄 49歳 第44期 大山康晴 63歳 第44期 大山康晴 63歳 第51期 大山康晴 69歳 第51期 大山康晴 69歳

A級順位戦の記録は、順位戦、および将棋棋士の在籍クラス を参照。

通算成績

  • 記載は名人獲得・挑戦者またはA級在籍10期以上に限る。
  • 太字は永世位獲得者または最多記録。「*」は現在A級在籍、継続中の記録。
  • A級在籍は名人在位も含む。()は休場・戦争中止を除いた年数。
棋士 名人在位
77期
七番勝負出場
78期
A級在籍
78期
通算 連続 通算 連続 通算 連続
大山康晴 18 13 25 21 44(43) 44(35)
中原誠 15 9 18 10 29 29
羽生善治* 9 3 17 9 27* 27*
森内俊之 8 4 12 7 22 22
木村義雄 8(7) 5(4) 10(9) 6(5) 6 6
谷川浩司 5 2 11 3 32 32
佐藤天彦* 3 3 4 4 5* 5*
升田幸三 2 2 10 3 31(23) 31(7)
塚田正夫 2 2 3 3 28(25) 26(15)
佐藤康光* 2 2 3 3 23* 14
丸山忠久 2 2 3 3 14 14
米長邦雄 1 1 8 2 26 26
加藤一二三 1 1 4 2 36 19
豊島将之* 1* 1* 2* 2* 3* 3*
二上達也 0 0 3 1 27 23
郷田真隆 0 0 2 1 13 10
丸田祐三 0 0 1 1 24 17
有吉道夫 0 0 1 1 21 12
灘蓮照 0 0 1 1 17 11
三浦弘行* 0 0 1 1 18(17)* 14
花村元司 0 0 1 1 16 7
桐山清澄 0 0 1 1 14 14
高橋道雄 0 0 1 1 13 7
森雞二 0 0 1 1 10 6
森下卓 0 0 1 1 9 9
渡辺明* 0 0 1* 1* 9* 8
高島一岐代 0 0 1 1 9 4
森安秀光 0 0 1 1 6 6
山田道美 0 0 1 1 6 6
行方尚史 0 0 1 1 6 5
大内延介 0 0 1 1 6 2
土居市太郎 0 0 1 1 3 3
稲葉陽* 0 0 1 1 4* 4*
神田辰之助 0 0 1 1 - -
内藤國雄 0 0 0 0 17 5
大野源一 0 0 0 0 16 8
久保利明* 0 0 0 0 13* 5
青野照市 0 0 0 0 11 4
藤井猛 0 0 0 0 10 10
深浦康市 0 0 0 0 10 7

テレビ放送

1978年のNHK特集で、名人戦の模様が初めてテレビ放送された。

名人戦七番勝負(竜王戦七番勝負も同様)の模様は、2015年までNHK BSプレミアム(2010年まではNHK BS2)で「将棋名人戦」という番組名で放送されていた。

各局の1日目は17:00-18:00に、2日目は16:00-18:00に生放送されることが多い。結果はダイジェストとして2日目の夜遅く(翌日の0時台-1時台)に10分程度放送される。

司会をNHKの男性アナウンサーが、解説を棋士が、女流棋士が解説の聞き手を務めるという3人体制が長く続いているが、2011年は女流棋士が出演せず、第1局で磯辺真季(将棋普及指導員[21])が聞き手を務めた後、第2局からは男性アナウンサーが聞き手を兼ねる2人体制となった[22]

2010年度からは、番組の始めと終わりに初めてテーマ音楽が流されるようになった。ドラムセット付きのオーケストラに模したコンピュータミュージックである。「将棋竜王戦」、囲碁のタイトル戦番組でも同じ曲が使用されている。

また、この名人戦の挑戦権をかけた「A級順位戦」最終戦の実況中継も将棋界の一番長い日と題して、2012年までBSプレミアムで時間を区切っての長時間実況中継が行われていたが、2013年は放送チャンネルを囲碁・将棋チャンネルBSスカパー!スカチャンに移譲(囲碁・将棋チャンネル提供)して行われた。[23]

ネット配信

ニコニコ生放送(2012年 - )・AbemaTV(2017年 - )による七番勝負の完全生中継が行われている。

名人戦の主催者

当初の主催は東京日日新聞及び大阪毎日新聞で、のち二社が合併して毎日新聞主催だったが、第9期(1950年)から第35期(1976年)は朝日新聞社の主催に変わった。第36期(1977年)から毎日新聞社の主催に復し、第66期(2008年)より毎日新聞社・朝日新聞社の共催となる。

順位戦#順位戦の歴史も参照。

1950年

この年、名人戦の契約が毎日新聞から朝日新聞に移っている(正確には、1949年の順位戦の中断中の、毎日新聞社と日本将棋連盟との交渉が決裂し、その以降の順位戦、および、翌1950年に開催される名人戦の主催者が朝日新聞になった[24])。

名人戦を失った毎日は王将戦を創設し、再び名人戦の主催社となった後も、王将戦の主催社(スポーツニッポン新聞社と共催)として現在に至っている。

参考資料
升田幸三『名人に香車を引いた男』(中央公論社、2003年、ISBN 412204247X

1976年

この年、日本将棋連盟が名人戦の契約金として、前年の1億1000万円から3億円(名人戦2億円、順位戦1億円)の大幅な増額を要求している。大幅な値上げの背景には、囲碁の序列1位の棋戦である棋聖戦の契約金が1億6000万円であったため、囲碁に対抗する意味でそれ以上の金額での契約を成立させたいという思惑があったといわれる。

朝日新聞社はこれを拒否し、前年と同じ1億1000万円と一時金1000万円の合計1億2000万円の案を提示した。連盟は要求額を1億6000万円に引き下げたものの、双方の溝は埋まらず、同年7月に契約は打ち切られた。

その後毎日新聞社が交渉に参加し、9月には契約金2億円で翌1977年度からの名人戦の主催を行うことが決定した(1976年度の順位戦、1977年の名人戦は中止された)。直後に行われた臨時の棋士総会で、毎日への移籍の賛否を問う投票が行われ、2票差という僅差でありながらも移籍が認められることとなった。反対票が当初の予想を大きく上回ったが、これは、この投票の前に順位戦(この年は中止されている)に代わる臨時の昇級棋戦を要求した若手陣が、臨時棋戦の実施を否決されてしまったために反発したためとされている。

名人戦を失った朝日新聞は、1977年から「朝日アマ名人戦」を、1982年から「全日本プロトーナメント」(2000年以降は朝日オープン将棋選手権、2006年で終了)を主催している。

なお1991年11月ごろ、日本将棋連盟の理事会で、名人戦を朝日新聞に移そうという動きが表面化していたという記録があるが、この時点では実現しなかった[25]。1991年8月、日本将棋連盟渉外担当理事の大内延介が、朝日新聞社に名人戦主催に復帰する考えがあるか打診した[26]。日本将棋連盟の8人の理事のうちでも、朝日へ移す案に賛成派は大内、二上達也田丸昇の3名のみで、のこり5名は反対だった[27]。その後、91年9月、92年3月、92年5月の棋士会でも、反対意見が多く、廃案となった[28]

参考資料
名人戦@将棋パイナップル
近代将棋」1976年12月号

2006年

2006年3月、日本将棋連盟理事会は第66期(2008年)以降の主催を朝日新聞社に移管するとの方針を示し、この時点での主催社である毎日新聞社に対し、契約を更新しない旨の通知書を送付した。事前に何の相談もなく下された理事会の決定に、長年名人戦を通じ棋界を盛り立ててきた毎日新聞社は激怒し、大きな問題となった。

問題が大きくなった要因のひとつとして、毎日新聞社との直接交渉を担当した中原誠専務理事(副会長)が「名人戦は朝日に移るが、王将戦を盛り上げて欲しい」との不手際な発言があった。その後、米長邦雄会長が中原交渉担当の失言の可能性を認めつつも、双方誤解があったという苦しい釈明をしている。また米長会長は、東京中日スポーツ紙上の連載コラムにおいて「毎日新聞社に通知書を送ったのは、現状の契約条件を変更したい場合にも通知書を送る必要があったためであり、朝日新聞社への移管ありきの話というわけではない」と説明した。また米長は同コラムで「日本将棋連盟の予算は現在毎年約1億円ほどの赤字が出ており、財務体質の改善のためにも契約の見直しが必要だった」とも述べているが、毎日新聞社側はこの主張に対し「将棋連盟は長年、十分な契約料を貰いながら財務改善の努力を一切しておらず、金に困ったから信義を捨て、伝統を売るのか」と社説で批判した。

2006年度の名人戦の契約額は3億3400万円であったのに対し、朝日は3億5100万円、ほかに臨時棋戦4000万円、普及協力金1億5000万円での5年契約を提示していたという。

通知の撤回を求める毎日に対し、連盟は一時、毎日・朝日の共催を提案するなどの妥協案を提示したが、5月になって補充説明書を毎日に送り、毎日はこれを通知の撤回と見なして契約見直しの協議に応じると発表。その後に行われた棋士総会において (1)毎日が単独での契約を望む場合、毎日の提示した契約条件を受諾するかどうかを棋士の表決で決定 (2)毎日が朝日との共催を望む場合、交渉は理事会に一任する――との案が採決された。

7月10日、毎日が単独での主催による7年契約(1年目は3億3500万円、2年目以降は毎年協議、その他将棋振興金として年3000万円)を提示。棋戦の契約は通常3年契約で行われており、異例の長期の提案となった。羽生善治(当時王位・王座・王将)が対局終了後のインタビューで、森内俊之(当時名人・棋王)が名人就位式の席上で、渡辺明(当時竜王)が自身のブログで、それぞれ毎日案を支持することを表明した。

8月1日に臨時の棋士総会が開催され、毎日案の採決が行われた。結果は賛成90票、反対101票となり、毎日案を受諾しないことが決定したが、賛否の差が少数であったため、朝日は毎日との共催を提案した。9月19日、毎日は共催についての協議を開始することを受け入れ、11月1日に共催に関して基本事項で合意したと発表した。

12月27日、毎日・朝日両新聞社と日本将棋連盟の間で、契約金などについて合意された。名人戦・順位戦は5年契約となり、契約金は両社合わせて年額3億6000万円、別枠の将棋普及協力金が年額1億1200万円となる。また、朝日新聞社が主催している朝日オープン選手権は朝日新聞社の新棋戦扱いとなり(契約金は年8000万円)、「朝日杯将棋オープン戦」に改められた。毎日新聞社などが主催する王将戦(契約金は年7800万円)は継続して開催される。尚観戦記については双方それぞれの独自の取材を行い、名人戦については双方から1名副立会人をだすこととなった。

参考資料
名人戦問題:MSN毎日インタラクティブ(現在はリンク切れ、Web Archiveによるミラー
日本の論点PLUS - 将棋名人戦の移籍問題
参考文献
『新潮45』2006年7月号(通巻291号)、「棋界激震! 名人戦争奪バトルの禁じ手」(田丸昇
将棋世界』2007年1月号、「名人戦の真実」
http://www.asahi.com/shougi/meijin/66/a-class.html

脚注

  1. ^ 天狗太郎『昭和「将棋指し」列伝』(時事新報社)P.24
  2. ^ 天狗太郎『昭和「将棋指し」列伝』(時事新報社)P.24
  3. ^ 『現代囲碁大系 別巻 現代囲碁史概説』(林裕)P.46
  4. ^ 関根金次郎声明・『将棋世界「将棋名人戦」~昭和・平成 時代を映す名勝負~』(マイナビ出版刊行)P.37
  5. ^ 『現代囲碁大系 別巻 現代囲碁史概説』(林裕)P.46
  6. ^ 第74期名人戦・開催地公募のお知らせ日本将棋連盟・2015年8月21日閲覧
  7. ^ a b 名人位の賞金総額を推計する - 将棋ペンクラブログ・2013年12月20日
  8. ^ 萩原は、神田を支持した花田・金子が脱退した際に欠員補充として昇段した。なお、神田については脱退時に八段昇段したとする主張が連盟によって追認されているため、萩原の昇段日は神田よりも後である。
  9. ^ 週刊将棋編「名局紀行」毎日コミュニケーションズ P.101
  10. ^ 『将棋名人戦 ~昭和・平成 時代を映す名勝負~』(将棋世界編集部編、マイナビ、2014年)p.38
  11. ^ 『将棋名人戦』p.43
  12. ^ 将棋世界「巨匠が語る将棋界今昔 木村義雄vs倉島竹二郎」1985年7月。
  13. ^ 『将棋名人戦』p.43
  14. ^ 加藤治郎『昭和のコマおと』(旺文社文庫)P.161
  15. ^ 『将棋名人戦』p.49
  16. ^ 将棋世界2018年3月号。
  17. ^ 八段格として特例による参加。なお、現役当時の表記は阪田ではなく坂田。
  18. ^ 予選ではなく近年の好成績により七段ながらリーグ参加権が認められた。
  19. ^ 五番勝負
  20. ^ 将棋ソフト不正使用疑惑騒動により途中休場。三浦の地位保全のため、翌76期は三浦を含む11名で行われた。
  21. ^ 磯辺真季は、1995年1月 - 3月のNHK将棋講座で佐藤康光のアシスタントを務めている。
  22. ^ 2011年名人戦の司会兼聞き手のアナウンサーは、第2局から局順に、堀伸浩長野亮後藤理吉岡大輔泉浩司・長野亮(NHK囲碁と将棋 タイトル戦中継 2011年6月23日閲覧)。
  23. ^ 史上初!!全5対局完全生中継「将棋界の一番長い日」(囲碁・将棋チャンネル)
  24. ^ 加藤治郎『昭和のコマおと』(旺文社文庫)P.159-160
  25. ^ 週刊将棋編『将棋ファン読本』(毎日コミュニケーションズ)P.15 井口昭夫「不死鳥・大山の将棋人生」
  26. ^ 田丸昇『将棋名人戦秘話』(マイナビ)P.65
  27. ^ 田丸昇『将棋名人戦秘話』(マイナビ)P.66
  28. ^ 田丸昇『将棋名人戦秘話』(マイナビ)P.70

関連項目

外部リンク