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2019年2月4日 (月) 09:13時点における版
千葉ZOZOマリーンズ | |
---|---|
会社名 | 株式会社千葉ZOZOマリーンズ |
創設 | 1950年 |
ロゴデザイン | |
所属リーグ | |
パシフィック・リーグ | |
歴代チーム名 | |
本拠地 | |
| |
収容人員 | 30,082人(ZOZOマリンスタジアム) |
永久欠番 | |
26:ファンナンバー | |
獲得タイトル | |
アジアチャンピオン(1回) | |
2005 | |
日韓クラブチャンピオンシップ(1回) | |
2010[注 1] | |
日本一(4回) | |
| |
リーグ優勝(5回) | |
| |
セ・パ交流戦優勝・最高勝率(2回) (2015年から2018年までは最高勝率) | |
| |
成績(タイトル以外) | |
アジアシリーズ出場(1回) (太字は優勝、斜体は準優勝) | |
1勝 2005 | |
日韓クラブチャンピオンシップ出場(1回) (太字は優勝、斜体は準優勝) | |
1勝 2010 | |
日本シリーズ出場(6回) (太字は勝利した年) | |
| |
クライマックスシリーズ出場(5回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) | |
| |
プレーオフ(2004-2006)出場(1回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退) | |
| |
プレーオフ(前後期制)出場(4回) (太字は勝利した年、斜体は後期優勝) | |
| |
球団組織 | |
オーナー |
前澤友作 (代行)DJ社長 |
運営母体 | 株式会社ZOZO |
監督 | 井口資仁 |
種類 | 株式会社 |
---|---|
略称 | ZOZO、マリーンズ |
本社所在地 |
日本 〒261-8587 千葉市美浜区美浜1番地 |
本店所在地 |
〒160-0023 東京都新宿区西新宿三丁目20-1 |
設立 |
1950年1月 (株式会社毎日球団) |
業種 | サービス業 |
事業内容 | プロ野球競技の運営並びに選手の指導、養成など |
代表者 |
前澤友作(オーナー) DJ社長(代表取締役オーナー代行) 剛力彩芽(取締役社長) |
資本金 | 6000万円(2017年12月31日現在) |
純利益 | △306万円(2017年12月期) |
純資産 |
9253万3000円 (2017年12月31日現在) |
総資産 |
35億1684万1000円 (2017年12月31日現在) |
従業員数 | 55人(2009年12月31日時点) |
決算期 | 12月末日 |
主要株主 | ロッテホールディングス |
関係する人物 | 永田雅一(現法人設立時オーナー) |
外部リンク | http://www.marines.co.jp/ |
特記事項:1957年11月に大映野球株式会社を吸収合併。 |
千葉ロッテマリーンズ(ちばロッテマリーンズ、英語: Chiba Lotte Marines)は、日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。
千葉県を保護地域とし、同県千葉市美浜区にあるZOZOマリンスタジアムを専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県さいたま市にあるロッテ浦和球場である。
球団の歴史
東京時代
毎日時代
9月、毎日新聞社を親会社とする毎日球団が設立され、「毎日オリオンズ(まいにちオリオンズ)」が結成された[1]。毎日新聞社はもともと昭和初期にセミプロ野球チーム『大阪毎日野球団』を組織していた。戦後、正力松太郎からの勧誘を契機に球団結成の気運が高まり、戦前の大阪毎日野球団を基礎に、自ら主催する都市対抗野球の有力選手をスカウトして球団を結成。9月21日、日本野球連盟に加盟を申請。
リーグ拡大の機運にも乗って加盟を申請したが、毎日新聞のライバル会社であった読売新聞社(読売ジャイアンツの親会社)・中部日本新聞社(中日ドラゴンズの親会社)が強く反発。交渉は平行線を辿り、毎日オリオンズと電鉄系を中心とした毎日オリオンズ加盟賛成派の阪急ブレーブス・南海ホークス・東急フライヤーズ・大映スターズ・西鉄クリッパース・近鉄パールスの7球団からなる太平洋野球連盟(パシフィック・リーグ)と毎日オリオンズ加盟反対派の大阪タイガース・読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・松竹ロビンス・大洋ホエールズ・広島カープ・西日本パイレーツ・国鉄スワローズの8球団からなるセントラル野球連盟(セントラル・リーグ)が結成される「2リーグ分立騒動」に発展した。
この騒動の中、大阪タイガースの主力選手であった若林忠志・別当薫・土井垣武・本堂保次・呉昌征が毎日に移籍した。加盟賛成を表明しながらリーグ分立直前に態度を翻した大阪に対し、毎日が意趣返しに大量の選手引き抜きを行ったといわれた。
パ・リーグ公式戦開始より参入。本拠地は後楽園球場。毎日新聞東京本社運動部長で、戦前は明治大学のエースから前述の大毎野球団の一員となった湯浅禎夫を総監督、前大阪監督の若林忠志を監督(選手兼任)とする二頭制をとり(実質的には湯浅が監督権限を掌握し、記録上の監督も湯浅である)、大阪からの移籍組に、大洋漁業(後の大洋ホエールズ)から獲得した河内卓司・戸倉勝城を加えて「ミサイル打線」を形成、投手では前年の都市対抗野球を制した星野組のエース荒巻淳や、大洋から獲得した野村武史が活躍。10月25日、対東急戦に勝利して、活動1年目にしてリーグ優勝[2]、日本シリーズでも松竹ロビンスを4勝2敗で圧倒し、初の日本シリーズで優勝を達成した。打者では別当薫が本塁打王、打点王の二冠王を獲得し最優秀選手となり、投手では荒巻淳が最多勝、最優秀防御率の二冠王で新人王となっている。
首位南海と22.5ゲーム差のリーグ3位に終わる。
7月16日、福岡・平和台野球場での対西鉄ライオンズ戦で、雨天と日没を悪用し故意に試合をノーゲームにするという毎日側の策略に観客が激怒し暴動が発生(平和台事件)。7月27日、責任を取り総監督の湯浅、監督の若林が2人とも更迭される。この年は南海と争うものの、首位南海と1ゲーム差の2位に終わる。シーズン終了後に若林、湯浅がそれぞれ復帰[3]。
首位南海と14.5ゲーム差の5位。西宮球場での対阪急戦が、NHKによるプロ野球初のテレビ中継となる[4]。
3位。オフには別当薫が選手兼任で監督就任。
山内和弘が打率リーグ2位の.325と打点王、中川隆が最優秀防御率をあげ、新人の榎本喜八が新人王を獲得。チームは首位南海と14ゲーム差の3位に終わる。
首位西鉄と13.5ゲーム差の4位。
シーズン成績は3位。11月28日、成績が低迷していた大映ユニオンズ(大映野球)と対等合併し「毎日大映オリオンズ(まいにちだいえいオリオンズ)」に改称。略称は「大毎オリオンズ(だいまいオリオンズ)」。新会社「毎日大映球団」[注 2]が設立。球団組織と法人格は毎日側を存続させ、形式的には毎日新聞社と大映の共同経営としたが、実質的な経営は大映側が掌握し、同社社長の永田雅一がオーナーに就任するという「逆さ合併」だった。
大毎時代
葛城隆雄が打率リーグ3位・打点王となるがチームは4位。この時期、パ・リーグでは西日本に本拠を置く南海と西鉄がリーグの覇権を握り、関東の球団で集客を期待されたオリオンズが優勝できないことがリーグの不人気の原因であるとする指摘が複数なされるほどだった[5]。オフには、この年セ・リーグの首位打者となった田宮謙次郎がA級10年選手の権利で阪神より移籍する。
優勝した南海と6ゲーム差の2位。山内が本塁打王、葛城が打点王となる。
西本幸雄が監督に就任。新監督のもと榎本喜八、山内和弘、田宮謙次郎らを擁す破壊力抜群の「ミサイル打線」で10年ぶり2回目のリーグ優勝。結果的に2位の南海と4ゲーム差の僅差だった。しかし、大洋ホエールズとの日本シリーズでは、4連敗で敗退。その時のバント戦法が永田オーナーの逆鱗に触れ、西本は1年で解任される。
この年をもって毎日新聞社は球団から役員を全員引き上げ、経営から事実上撤退。永田が球団経営を掌握することになる。パシフィック・リーグ誕生時には、毎日新聞は「リーグの広報」役を期待されていた[6]。毎日の撤退は、その戦略が潰えたことを意味した。毎日新聞社史『毎日新聞百年史』(1972年)ではオリオンズについての記述が著しく少ないという指摘がある[7][注 3]。
3年続けてBクラス(1961年・4位→1962年・阪急と同率の4位→1963年・5位)。 1962年より本拠地は永田が私財を投じて荒川区南千住に建設した専用球場・東京球場に移転。
東京オリオンズ時代
1964年、球団名を「東京オリオンズ(とうきょうオリオンズ)」に改称。現在で言うところの地域密着策というわけではなく、東京都を保護地域とする他球団が「東京」を名乗っていないことに永田が目を付け「東京を本拠地とする球団の中でも、“東京”を名乗る我がオリオンズこそが、東京を代表するチームである」と発案したのがきっかけだった(チーム名に「東京」を冠した球団は当時歴代通算4球団目。この他、ヤクルトが2006年から東京ヤクルトスワローズに改称している)。だが、この改称は毎日新聞社側への根回しがないまま行われたため、毎日側が不快感を示した挙句、毎日新聞社の資本も翌1965年1月に引き上げ、なおかつ後援も1966年度シーズンをもって打ち切っている。これによって球団は完全に永田が掌握することになったが、会社名は「毎日大映球団」を維持した。
優勝した翌1961年以降、チームは7年連続Bクラスと低迷する。原因として、主砲の山内一弘や、葛城隆雄といった主力選手をトレードで放出し、田宮謙次郎が引退するなど、それまでのミサイル打線を解体して守りの野球を作ろうとしたが、本拠地がそれまでの後楽園球場より狭い東京球場に移った事で、方針としては逆行しているという指摘が多くあったとされ、1964年から1967年にかけてはチーム本塁打より被本塁打の方が多いという状況で、1968年にジョージ・アルトマン、アルト・ロペスなどを獲得してようやくこの数字を逆転し[注 4]、チームも8年ぶりのAクラス、3位入りしている[8]。
ロッテ時代
1月18日、永田は友人である岸信介の斡旋により、ロッテをスポンサーに迎えて業務提携を結び、球団名を「ロッテオリオンズ」に改称。ただ、正式な球団買収ではないので球団の経営は従来通り毎日大映球団(=永田側)が行って、ロッテは球団名の冠スポンサー(現在に置き換えれば命名権の制度に近い)を取得する形としてとどまった。このため、ロッテ本社からの人材の派遣は行われなかった。首位阪急と5.5ゲーム差の3位。
10年ぶり3回目のリーグ優勝。東京球場での優勝決定時には、観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田を胴上げした。しかし、初の同一都道府県内のみでの開催となった日本シリーズ(東京シリーズ)は巨人に1勝4敗で敗れる。
1月25日をもって永田は球団経営から撤退。ロッテが正式に球団を買収して親会社となり、会社名も球団名と同じ「ロッテオリオンズ」になる[注 5]。以来40年以上にわたりロッテは球団を保有し続けているが、これはパ・リーグに現存する6球団では最長である。7月13日西宮での対阪急戦で江藤愼一のハーフスイングの判定をめぐり濃人渉監督が猛抗議、放棄試合を宣告される。10日後、その責任を取る形で濃人が監督を解任され2軍監督に降格、後任に大沢啓二二軍監督が就任。この年は、優勝した阪急と3.5ゲーム差の2位。39本塁打したジョージ・アルトマンなど[注 6]チーム193本塁打は1963年の南海が記録した183本を抜いて(当時の)日本プロ野球記録となった[9]。
前年と一転、Bクラスの5位に転落。本拠地・東京スタジアムは永田と共通の友人である児玉誉士夫の斡旋で国際興業社主の小佐野賢治が経営を引き継いだが、小佐野は経営不振を理由に単独企業での球場経営の継続は困難であると判断。球団と球場は一体であることが望ましいと考え、ロッテに対し球場の買い取りを要求。しかしながら、ロッテ側は費用対効果の面で難色を示し、賃借継続を要請して交渉は平行線を辿る。結局、シーズンオフに監督に就任した金田正一が「あそこは両翼の膨らみが無くて本塁打が入りやすい。投手泣かせの球場を買い取る必要はない」と猛烈に反対したことなどから交渉は決裂。東京球場は閉鎖され、ロッテは本拠地球場を失った。
仙台時代
この年から宮城県仙台市の宮城球場(現在の愛称は「楽天生命パーク宮城」。東北楽天ゴールデンイーグルス本拠地)を中心に(翌年から保護地域も宮城県に暫定移転)、首都圏では後楽園球場、明治神宮野球場、川崎球場を転々としつつ主催試合を行った。特定の本拠地を持たない状況は1977年まで続き、この5年間は「ジプシー球団」などと揶揄された(歴代本拠地参照)。日拓ホームフライヤーズから合併を持ちかけられるもこれを拒否、このためフライヤーズは日本ハムに売却されることになった(現在の北海道日本ハムファイターズ)。また、1971年からオーナーを務めた中村長芳が西鉄ライオンズ(→太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズ)の経営に参画・福岡野球株式会社を設立するため、プロ野球協約の一個人・団体(企業)による複数球団保有を禁じる規定に従い[注 7]、中村が保有していた株式はロッテに譲渡された。 この年からパ・リーグは前後期制度を導入。成績は前後期ともに2位で総合では3位に終わる。
金田監督の下で有藤通世、山崎裕之、弘田澄男、投手では成田文男、村田兆治、木樽正明らが活躍して後期優勝。プレーオフでは前期優勝の阪急ブレーブスを3連勝で破りリーグ優勝。中日との日本シリーズでは4勝2敗で日本一になった。このときの日本シリーズの主催3試合は施設上の問題から仙台ではなく後楽園で行われた(この年と1977年度のパシフィック・リーグのプレーオフは宮城で開催されたが、1977年の日本シリーズにロッテが進出していた場合も、ロッテ主催試合は後楽園で行われることになっていた)。また、日本一を決定した後の凱旋パレードも東京・銀座から新宿にかけて行われたのみで仙台では行われず、これらの行為は仙台市民や一部のスポーツ新聞から「地元無視」と批判されたこともあった。なお、この年を最後に、パシフィック・リーグ年間勝率1位に一度もなっておらず、2018年現在存在する12球団で最も長く勝率1位から遠ざかっている[10]。
前年の優勝から一転して前期最下位。後期は2位に浮上するも総合4位に終わる。
前後期ともに3位で総合でも3位に終わる。
前期は5位に終わるも後期は優勝。プレーオフでは前期優勝の阪急と対戦。最終戦までもつれ込んだが3勝2敗で敗退。総合3位に終わる。
川崎時代
1977年
神奈川県横浜市で横浜スタジアムの建設が始まったのに伴い、すでに横浜への移転が内定していた大洋と共に本拠地として使えるよう折衝を行ったものの、横浜使用については折衝に失敗。その後川崎市から誘致を受け、翌シーズンから川崎球場への本拠地移転が決定。10月4日に保護地域を神奈川県に移転することが承認された。
この年から正式に川崎球場を本拠地として使用(なお、県営宮城球場でも引き続き年間10試合前後の主催公式戦を開催)している。移転1年目は、総合4位に終わる。シーズン終盤金田の解任が一部マスコミに報道され、金田はその後辞任した[11]。
山内監督時代
山内一弘が監督に就任。就任1年目は、総合4位に終わる。
山内の下、レロン・リー、レオン・リーのリー兄弟、投手陣では仁科時成、水谷則博、倉持明が活躍し前期優勝したが、プレーオフで後期優勝の近鉄に3連敗で敗退した。
エース村田の大活躍もあり2年連続前期優勝。プレーオフで後期優勝の日本ハムと対戦、1勝3敗1分で2年連続プレーオフ敗退。10月19日に山内が1年の契約期間を残して退団、ロッテ本社はフロントを急がせ「10人の候補者リスト」を作り、片っ端から交渉を開始したが野村克也、土橋正幸、豊田泰光と次々に断られ、有藤の監督兼任案も出たが、重光武雄オーナーが「あと3年、プレーヤーで専任させよう」とストップをかけ鶴岡一人に相談し次期監督に山本一義を推薦し、山本が監督に就任した[12]。
山本監督時代
落合博満が日本プロ野球史上4人目(5度目)の打者三冠王となる。順位は5位に終わる。
球団史上初の最下位となり、山本は同年限りで解任[13]。
稲尾監督時代
稲尾和久が監督就任。なお、稲尾は「埼玉県所沢市に移転したライオンズに替わり、ロッテを数年以内に福岡県に移転させる」という条件で監督要請を受諾したが、移転は行われることなかった。石川賢が最高勝率。
落合、西村徳文、レロン・リー、新人の横田真之が打率3割をマークしてチーム打率1位になったものの、投手陣は肘の手術から復帰した村田が活躍したのみにとどまった。落合が2度目の三冠王を達成。この年はセ・リーグでもランディ・バース(阪神)が打者三冠王となり、セ・パ両リーグ同時に打者三冠王が出た。マスコミからは広岡率いる西武の管理野球に対し稲尾の「無手勝流野球」と賞賛され、前年から2年連続で勝率2位を確保したものの、リーグ優勝した西武から15ゲームも離された。
Bクラスの4位に終わる。落合は3度目、前年に続き2年連続で三冠王を達成。バースも前年に続き三冠王となり2年連続でセ・パ両リーグ同時に打者三冠王が出た。西村がこの年から4年連続で盗塁王。稲尾が監督退任。
有藤監督時代
有藤道世が監督就任。「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない」と発言した落合博満を牛島和彦・上川誠二・平沼定晴・桑田茂の4選手との1対4トレードで中日に放出[14]。落合の著書によると有藤が「監督を引き受ける条件の一つに私(落合)をトレードで出すのが条件」と記している[15]。また、同年には女性向けのフリーペーパー「URE・P(ウレピー)」を発行。URE・Pはロッテリアなどで入手でき、本拠地を千葉に移転するまで発行された。これにより観客動員数が10万人ほど増えたという[注 8]。なおこの年は、やはり落合の抜けた打線は迫力に欠け、トレードで獲得した牛島が最優秀救援投手に輝くも、首位の西武と20ゲーム差の5位に終わる。
この年は最下位だったが、10月19日の近鉄とのダブルヘッダーがパ・リーグの優勝のかかった大一番となり注目を浴びた(詳細は10.19参照)。1989年、二軍の本拠地が東京都青梅市の青梅球場から埼玉県浦和市(現:さいたま市)のロッテ浦和球場に移転[注 9]。5月13日の対日本ハム戦に勝利し、村田兆治が通算200勝を達成。高沢秀昭が首位打者・小川博が奪三振王に輝く。
最下位で球団初の2年連続最下位に終わり、有藤が監督を退任。後任には、金田正一が2度目の監督就任。村田が防御率1位に輝く。
第2次金田監督時代
チーム成績は1990年は5位。西村が首位打者になる。村田が現役引退。
首位の西武と33.5ゲーム差の最下位。内外野全面への人工芝敷設、スコアボードの電光化など川崎球場の改修工事を実施。「テレビじゃ見れない川崎劇場」をうたい文句にファン拡大作戦を実施した(同年の新語・流行語大賞表現部門で「川崎劇場」が金賞に選ばれた)。観客動員は102万1千人で、球団史上初めて100万人を突破、当時の既存12球団では最後の達成となった[16]。平井光親が首位打者を獲得。
千葉時代
八木沢監督時代
1991年
9月4日、翌年から保護地域を川崎から千葉県、専用球場を同県千葉市美浜区の千葉マリンスタジアムに移転することがオーナー会議によって承認、発表された。移転に伴う新しい球団名は一般公募により改称されることになり、同年11月21日、新しい球団名は「千葉ロッテマリーンズ(英語で海兵隊)」に決定した。
この年のオフ、金田が監督を解任された[17]。後任に球団OBの八木沢荘六が就任。本拠地移転や球団名変更に伴い、ユニフォーム・球団旗・ペットマーク・マスコットを一新。
本来開幕権はオリックス・ブルーウェーブが持っていたが、オリックスから開幕権を譲渡され、新生千葉ロッテは本拠地で開幕を迎えた。4月は首位で終えたが、その後は失速、千葉移転初年度は昨年続き最下位に沈んだ。それでも移転景気に恵まれ、観客動員が130万人を記録するなど順調な滑り出しを思わせた。しかし翌年も5位に終わると移転景気も潰え、観客動員も93万人に激減。千葉県民の目も徐々に冷ややかになっていった。こうして、川崎時代から続く「12球団最低レベルの観客動員数」という大きな問題点には千葉移転後も苛まれることとなる。この年のオフ、当時パ・リーグ会長だった原野和夫はロッテのチーム力の低下と観客動員数の低迷を強く懸念。重光オーナー代行に対し「もっと努力してほしい」と注意を行った。
開幕当初よりチームは低迷し、八木沢は8月1日をもって休養。その後は、中西太が代理監督を務め、5位に終わる。オーナーの重光武雄が中西に監督就任要請をするも中西は断り退団[18]。
第1次バレンタイン監督時代
日本球界初のGM(ゼネラルマネージャー)として広岡達朗が就任すると、広岡はメジャーリーグでの監督経験のあるボビー・バレンタイン監督を招聘。序盤は出遅れるが、2年目ながらトップバッターに起用された諸積兼司、リーグ打率2位の堀幸一、打点王を獲得した初芝清、外国人ながら本人のプレイだけではなくチームの精神的支柱も担ったフリオ・フランコ、伊良部秀輝、小宮山悟、エリック・ヒルマンの先発三本柱、河本育之、成本年秀のダブルストッパー等投打のかみ合った1年となり、結果的に貯金10の2位で10年ぶりのAクラス入りを果たす。翌年の優勝を期待するムードが大きく高まったが、バレンタインが広岡との確執から解任される。
江尻 - 近藤 - 山本監督時代
バレンタインの後任にはコーチとして入閣していた江尻亮が昇格したものの広岡の大学の後輩ということで「広岡の傀儡政権」と陰口を叩かれる。またチームも投手は伊良部が最優秀防御率・ヒルマンが防御率2位・成本が最優秀救援投手を獲得、河本も前年同様の働きをしたがそれ以外が計算出来なかった。野手は外国人が活躍出来ずに、初芝もマークが厳しくなり勝負強さが発揮できず、堀が孤軍奮闘するが焼け石に水で結局5位に沈み、広岡は契約を一年残して解任され[19]、江尻もこの年限りで辞任。伊良部が球団と衝突し半ば強引な形で大リーグ・ニューヨーク・ヤンキースに移籍(伊良部メジャーリーグ移籍騒動)。ヒルマンも巨人へ移籍。
近藤昭仁が新監督に就任。これはロッテのフロントが元巨人監督の藤田元司に「立て直し役に最適な人はいないか」と相談し、89年から3年間巨人・藤田監督の下でヘッドコーチを務めていた近藤を藤田がロッテ側に推薦し、監督就任に至ったものだった[20]。投手陣は伊良部・ヒルマンの抜けた穴は大きかったが、前年不振だった小宮山が奮闘し最優秀防御率を獲得、黒木知宏が初の二桁勝利、薮田安彦が初の規定投球回数をクリアするなど奮闘。しかしストッパー成本が大怪我でシーズンを途中リタイア。野手では新人の小坂誠が新人王に輝き、投手から打者に転向した福浦和也が台頭したが、外国人は長打不足、初芝・堀も不振。また、前年まで多くのマスクを被っていた定詰雅彦・田村藤夫が相次いで移籍し、ドラフトで大学ナンバーワンと評価された清水将海が開幕戦でスタメンマスクに抜擢されたがプロの壁は厚く苦戦を強いられた。結局投打に渡り駒不足で最下位に終わる。
近藤監督での2年目を迎え、フリオ・フランコが3年ぶりにチームに復帰。ストッパーの河本が離脱しリリーフ陣が崩壊。日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した(詳細は後述)。ロッテはこの18連敗の間、シーズン通算23勝43敗1分、勝率.358まで戦績を落として最下位へ転落し、借金は一気に20まで膨れ上がった。全18敗のうち逆転敗戦は9、サヨナラ敗戦は4であった。連敗脱出後はリリーフとして新外国人のブライアン・ウォーレンが加入、河本も戦線復帰でブルペンが強化されチームは復調し、シーズン最終成績は61勝71敗3分、勝率.462。借金10まで盛り返したものの最下位からは脱することができず、結果的にこの18連敗が大きな痛手となった。また、総得失点差でプラス(チーム打率もリーグトップ.271。チーム防御率リーグ2位3.70)でありながら最下位となった。近藤は、シーズン終了後の監督退任会見で「今度監督をやる機会があれば、もっと強いチームでやりたい」と発言しロッテを去った。
山本功児が二軍監督から一軍監督へ昇格し、投手陣の充実、新人獲得の地元出身者偏重の解消などチームの構造改革に取り組むも、球団の資金難や貧打線、黒木知宏頼みの投手陣(2001年まで)を克服できず定位置のBクラスからは抜け出せなかった(その黒木が故障離脱した2002年は開幕11連敗とまたしても大型連敗を経験した)。この年のオフにそれまでチームを支えていた小宮山がFA権を行使する意向を球団に伝えた結果、自由契約となった。しかし、この時期にドラフトで獲得した清水直行、渡辺俊介、今江敏晃、西岡剛らは二軍生活を経て後のAクラス入り、日本一に大きく貢献している。
2002年オフには2000年限りで横浜ベイスターズを退団したロバート・ローズを獲得するが、翌年の春季キャンプ中に、野球に対する情熱が無くなっているのに気づいたとして早々に退団している[21]。
特に秋に好成績を収めており、8月末まで5位に低迷していたのが9月から一気に調子を上げ、日本ハムをかわし4位に浮上している。
2003年オフ、韓国・三星ライオンズから李承燁を獲得。山本は5年間監督を務めたがすべてBクラスに終わり、2003年に解任された[22]。
第2次バレンタイン監督時代
バレンタインが「全権監督」として復帰。サンデーユニフォーム(白地に黒のダンダラ模様を入れた上着を着用。パンツは通常のストライプ)を採用。4位で迎えたシーズン最終戦はプレーオフ進出をかけ西武と対戦。3者連続ホームランで逆転し、西武に勝利するも、3位だった日本ハムも勝利したため、0.5ゲーム差で4位が確定。プレーオフ進出を逃した。しかし、シーズン全体では勝率5割を記録した。
今江敏晃、西岡剛の台頭もあり好スタートを切る。上位から下位までどこからでも点を取る打線は、1998年の横浜ベイスターズの「マシンガン打線」になぞらえて「マリンガン打線」と呼ばれ、4番にサブローを起用する打線が機能する。サブローはまったく新しいタイプの4番打者としてチームに貢献した。3月26日の千葉マリンでの開幕戦では、新球団東北楽天ゴールデンイーグルスと対戦し3-1で敗れ、楽天の公式戦初試合初勝利を献上したが、翌日には2リーグ制以降最多得点差となる26-0で楽天に圧勝している。この年から導入されたセ・パ交流戦では24勝11敗で優勝。「セ・パ交流戦初代チャンピオン」となる。8月17日の対埼玉西武ライオンズ戦に勝ち、10年ぶりの勝ち越しを決めると同時に、34年ぶりの貯金30を達成。8月28日の対オリックス戦で勝利し、プレーオフ進出と10年ぶりのAクラスを確定。9月19日、34年ぶりの80勝を達成し(最終的には84勝)、シーズンを2位で終えた。プレーオフ第1ステージで西武、第2ステージでは2戦先勝するも第3戦、第4戦と敗北し、第5戦でも2点先制されるが8回表に里崎智也の劇的な2点タイムリーツーベースで勝ち越し、その後もリードを保ち福岡ソフトバンクホークスを破り31年ぶりのリーグ優勝を果たした[注 10]。10月22日からの日本シリーズでは阪神を2002年の巨人以来、3年ぶりで、球団史上初となるストレート4連勝で下し、31年ぶり3度目の日本一に輝く。11月10日から東京ドームで行われた第一回アジアシリーズに出場。決勝で韓国の三星ライオンズを5-3で下して勝利し優勝している[注 11]。二軍ではファーム日本選手権で阪神を下し優勝しており、この年は一軍・二軍合計で年間6冠を達成している。11月20日に千葉市中心部と幕張地区の2カ所で行われた優勝パレードでは合計27万人を動員し、同年の阪神の来場者数・18万人を上回る盛り上がりを見せた。この年のボビー政権は、変則的に打線が入れ替わる日替わり打線などを駆使していた。また、その采配がしばしば成功するので、ボビーマジックと言われた。この年、渡辺俊介(15勝)、小林宏之(12勝)、ダン・セラフィニ(11勝)、清水直行(10勝)、久保康友(10勝)、小野晋吾(10勝)が2ケタ勝利を挙げた[注 12]。また久保の新人10勝の記録は毎日時代の1950年の荒巻淳(26勝)・榎原好(16勝)以来球団史上3人目のことだが、荒巻と榎原は左投手なので、右投げの新人投手が2ケタ勝利を挙げたのは球団史上初である。
小坂誠が巨人へ金銭トレードされ、李承燁が巨人、セラフィニがオリックスへ移籍。交流戦は2年連続となる優勝となったが、夏場以降は急失速し、最終的にシーズンを4位で終えている。オフには、福岡ソフトバンクホークスを退団したフリオ・ズレータを獲得。
3月24日の開幕戦(千葉マリンの対北海道日本ハムファイターズ戦)が降雨コールドで引き分け[注 13]。翌日も延長12回で引き分け[注 14]。投手陣は、中継ぎ陣が藤田宗一の防御率10点台を超える乱調や、小林雅英の度重なる救援失敗により、事実上YFKは崩壊したが、38HPで最優秀中継ぎ投手賞を獲得した薮田安彦が、シーズン終盤に抑えに回り、2年目の川崎雄介と新人の荻野忠寛が活躍し、強固な中継ぎを維持できた。先発陣はエース清水直行が6勝どまりだったものの、渡辺俊介が不振から脱却し、援護が無いものの安定した防御率を残し、小林宏之が自己最多の13勝。そして成瀬善久が16勝1敗、防御率1.817で、最優秀防御率と最優秀投手の2冠を獲得する大活躍を見せた。この3人が柱となり、前年を上回る成績を残した。一方野手陣は福浦和也、今江敏晃、フリオ・ズレータの故障による離脱・不振などでシーズン通して安定した攻撃力を維持できず、早川大輔の台頭もあり得点はリーグトップだったが、首位日本ハムとは2ゲーム差の2位に終わった。クライマックスシリーズ1stステージではソフトバンクに2勝1敗で勝利したが、2ndステージでは日本ハムに2勝3敗で敗退した。
先発投手陣が揃って不調に陥り、さらに開幕直後に捕手の里崎智也・橋本将・田中雅彦が同時期に故障し、前半戦は一時期最下位に沈んだ。後半戦は不調の先発陣をリリーフ陣が支え、打撃陣がチームを牽引し勝率を5割以上としたが、首位西武と4.5ゲーム、3位の日本ハムと0.5ゲーム差の4位となっている。チーム防御率はリーグ最低となった。野手陣に故障者が多く、復活を期待されていたズレータの不振や今江の骨折による長期離脱なども重なり、チーム打率は前年より上昇したものの打撃力は安定しなかった。投打がうまくかみ合わず、大量得点しても大量失点してしまうという試合が多かった。12月21日、球団はバレンタインと5年目以後の監督契約は結ばず、4年目の2009年シーズン限りとする旨を発表。オフに井口資仁を獲得。
ロッテが東京オリオンズのスポンサーとなって40周年を記念したマークを導入。5月21日、淑徳大学とパートナーシップ包括協定を締結。シーズン中に、バレンタインの監督退任騒動が浮上。その影響もあってチームは低調な成績に終わり、2年連続Bクラスの5位でシーズンを終了。9月26日に「死刑」などのフロントを中傷するゲーフラを掲げた一部ファンに対し西岡剛がヒーローインタビューにて止めるように宣告した。しかし9月27日にこれまでロッテの応援を引っ張ってきた(詳しくはマリーンズファンを参照)外野応援団・MVPが西岡の応援を妨害し帰れコールが起こるなど球場は騒然としてしまった。これがきっかけで外野応援団・MVPは解散することになりスキンヘッドランニングなどのチャンステーマ、旧応援歌(一部は2010年も使われた)が廃止されてしまった。バレンタインの後任にはヘッドコーチの西村徳文が監督に昇格。韓国・ハンファ・イーグルスからFA宣言した金泰均を獲得。
西村監督時代
序盤はルーキー荻野貴司や金泰均らの活躍で快調なスタートを切ったものの、荻野貴と唐川侑己の長期離脱など相次ぐ主力の故障や夏場の金泰均の打撃不振などが続き、交流戦以降は徐々に調子を落としたが、上位5チームによるAクラス争いの中で終盤まで首位戦線に食い込み、首位ソフトバンクと2位西武からは2.5ゲーム差、4位の日本ハムと0.5ゲーム差の3位でシーズンを終えた。クライマックスシリーズのファーストステージでは、西武に2連勝。ファイナルステージでは、ソフトバンクに王手をかけられながらその後、3連勝で4勝3敗で連破し、クライマックスシリーズを制覇。通期での勝率3位から日本シリーズに進出したのは、前後期制時代の1973年南海ホークス以来37年ぶりとなった[注 15]。日本シリーズでセリーグ優勝の中日を4勝2敗1分で下して5年ぶり4度目の日本一となり、パリーグで初めてリーグ優勝せず[注 16]に日本シリーズを制した球団となった[注 17]。3位からの日本一は史上初めてである。11月13日、日韓クラブチャンピオンシップではSKワイバーンズを3-0で降して日韓王者に輝いた。12月27日、本拠地の千葉マリンスタジアムがテレビショッピング専門チャンネル・QVCジャパンによる命名権導入に伴い、名称を「QVCマリンフィールド」に改めることを発表した。オフには小林宏之が阪神へ、西岡が大リーグ・ミネソタ・ツインズへそれぞれFA移籍している。また、堀幸一が現役続行を目指して退団するも、他球団からのオファーがなく現役引退。
3月11日に発生した東日本大震災では、本拠地・QVCマリンフィールドに目立った外傷はなかったが周辺が液状化現象を起こすなどあり、この年のQVCでのオープン戦はすべて中止となっている[23]。また開幕が当初予定の3月25日から4月11日に延期となったことから、開幕戦はQVCでの楽天戦となり[注 18]、6対4で敗れ開幕戦は6年連続敗戦となった。5月19日の対中日戦(QVC)の敗戦で勝率5割として[24]以降は借金生活となり、6月8日の対阪神戦(QVC)の敗戦で最下位に転落[25]。交流戦は8勝14敗2分の10位[26]。6月29日にはサブローが工藤隆人プラス金銭で巨人にトレードされる[27]。前半戦は借金1の3位で折り返す。しかし後半戦に入ると連敗するなど低迷し、9月7日の対西武戦(西武ドーム)に勝利し球団通算4000勝を達成[28]するが、終盤戦に入っても低迷は続き、9月29日には9年ぶりの11連敗を記録[29]、翌日対日本ハム戦(QVC)に勝利し連敗を止めるものの、この日3位オリックスが勝利してBクラスが確定[30]、10月9日の対楽天戦(Kスタ宮城)に敗れたことで最下位が確定。前年日本一のチームが最下位になるのは日本プロ野球3度目、パ・リーグでは初めて[31]。最終的には54勝79敗11分、首位ソフトバンクと33.5ゲーム、3位西武と13ゲーム差、5位楽天と10ゲーム差[32]。得点は球団史上最低記録となる432[注 19]、チーム本塁打は46本で球団史上最少で、50本以下だったのは1959年の近鉄以来。2桁本塁打の選手がいなかったのは球団史上初。この年の本塁打王の中村剛也(西武)の48本を下回り、1チームのチーム本塁打数が個人の本塁打数を下回るのは1959年の近鉄以来の記録となった[注 20][33]。金泰均が打撃不振や怪我がありシーズン途中9月に帰国、退団している[34]。12月23日、この年6月に巨人に移籍したサブロー[注 21]がFA移籍で半年でロッテに復帰[35]。
開幕戦から1952年以来の60年ぶりの4連勝をするなど[36]、序盤から首位争いをし5月11日に対ソフトバンク戦(QVC)に6対4で勝利し首位浮上[37]。交流戦は12勝7敗5分で3位。前半戦を42年ぶりの首位で折り返した[38]。しかし後半戦は7月31日の対日本ハム戦(QVC)に5対3に敗れ、2カ月半ぶりに首位陥落し[39]、8月31日からは途中球団ワースト記録となる6試合連続1得点以下もあり[40]、9連敗するなど順位を落とし、ソフトバンク、楽天とクライマックスシリーズ進出を争うが、10月3日に対オリックス戦(京セラD)に2対1で敗れたことで2年連続のBクラスが確定し[41]、最終的に62勝67敗、優勝した日本ハムから10ゲーム、3位ソフトバンクと3.5ゲーム差の5位に終わる。角中勝也が首位打者を獲得、独立リーグ出身の打者としては初めてとなった[42]。二軍はイースタンリーグ優勝、ファーム日本選手権でもソフトバンクを3対1で下し2年ぶり3度目の日本一になっている[43]。益田直也が中継ぎとしてリーグ2位、新人最多記録の72試合に登板し、新人記録となる41ホールド、43ホールドポイントを挙げ最優秀新人賞を獲得。10月8日、西村が監督退任[44]、10月15日にはヘッドコーチの高橋慶彦ら8コーチも退団[45]。10月18日、監督に伊東勤[46]が就任。
伊東監督時代
5月9日に7年ぶりの8連勝で首位に立ち[47]、交流戦は13勝10敗1分の5位に終わった。7月3日に2位の楽天に敗れ、首位に並ばれると6日には4連敗で2位に[48]、前半戦を2位で折り返した[49]。9月26日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に5対6で敗れ、楽天が対西武戦(西武ドーム)に4対3で勝利したことで楽天の優勝が決まり優勝を逃すが[50][51]、10月4日にソフトバンクが対日本ハム戦(札幌ドーム)に4対5で敗れたため、この日試合のなかったロッテの3年ぶりのクライマックスシリーズ進出が決定した[52]。10月8日の西武ドームでの西武とのシーズン最終戦は共に勝った方が2位確定となったが敗れて3位となった[53]。クライマックスシリーズファーストステージ(西武ドーム)は西武に2勝1敗で勝利したが[54]、ファイナルステージ(Kスタ宮城)は楽天に1勝4敗で敗れて敗退した[55]。オフに西武の涌井秀章をFAで獲得した。
開幕から5連敗を喫し、チームは5月のルイス・クルーズから始まり6月の荻野、7月のクレイグ・ブラゼルと主力選手の怪我による離脱、成瀬・涌井・唐川といった主力の投手の不調などが響き、思うように順位を延ばすことができず、夏には最下位争いを繰り広げる羽目になった。シーズン途中にキューバ出身でメキシカンリーグの大砲・アルフレド・デスパイネを獲得[56]、9月25日の対日本ハム戦(QVC)に敗れ、Bクラスが確定しロッテのクライマックスシリーズ進出の可能性がなくなった[57]。最終結果は4位に終わった。里崎智也が現役を引退し[58]、成瀬がFA権を行使してヤクルトに移籍した。
チームは開幕当初はAクラスの2位・3位に立つこともあったが4月中盤には徐々に脱落し、それ以降はソフトバンク・日本ハム・西武の3強の後塵を拝する状態が続いた。交流戦では一時は首位に立つ[59]も最終結果は10勝8敗の5位に終わった。7月13日、この日のオリックス戦に敗れ6連敗となりロッテの自力優勝の可能性が消滅した[60]。その後、連敗を7で止めるも前半戦を4位で終えた。7月9日にデスパイネが母国・キューバの大会に出場するため離日するのを球団が発表、7月30日に独立リーグのベク・チャスンを獲得した。後半戦から終盤戦にかけては西武との激しい3位争いを繰り広げ、特に終盤はCS進出をかけて争うこととなった。10月2日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に勝利したことにより、西武に代わって3位に浮上した。そして10月4日の対日本ハム戦(QVC)に5-3で勝利し3位が確定し、2年ぶりのCS進出が決定した[61]。クライマックスシリーズのファーストステージはシーズン2位の日本ハムと対戦し、2勝1敗でファイナルステージ進出を決めた。ファイナルステージではレギュラーシーズン1位のソフトバンクと対戦し、ファイナルステージでは3度目の組み合わせで過去2回はいずれもロッテが勝利しており、しかもそれが5年周期であったことから「下克上」・「ゴールデンイヤー」と銘打ったものの、3連敗(アドバンテージ分除く)で敗退となった。オフに今江がFAで楽天に、クルーズも巨人に移籍した。一方でソフトバンクからジェイソン・スタンリッジを獲得した。
2月21日、新外国人のヤマイコ・ナバーロが銃弾を隠し持っていたとして逮捕され、4月まで出場停止の処分を受けた。
開幕当初は首位に立つこともあったが、5月に入るとソフトバンクに首位を奪われてしまった。それ以降ソフトバンクの後塵を拝する状況が続き、後半には日本ハムにも抜かれてしまう。しかしながらその後は3位をキープし続け9月24日にリーグ3位が確定、クライマックスシリーズ進出と31年ぶりの2年連続Aクラス入りが決定した[62]。クライマックスシリーズでは、リーグ2位のソフトバンクと対戦するも2戦全敗で敗退した。 角中が首位打者と最多安打を獲得、また石川歩が2.16で最優秀防御率を初受賞、サブローが現役を引退。また、デスパイネが金銭面の関係で退団した。
オープン戦を首位で終えたものの、シーズンに入ると打撃陣は新外国人のジミー・パラデスとマット・ダフィー の不振などで4月のチーム打率1割台、投手陣も昨年最優秀防御率のタイトルを獲得した石川の大乱調などで4月のチーム防御率5点台と投打にわたって深刻な不振に陥り、チームは低迷した。5月3日の日本ハム戦に敗れ最下位に転落すると[63]、そのままシーズン終了まで一度も最下位を脱出できなかった。5月16日、この日の西武戦にも敗れ6連敗を喫しここまで通算37試合でわずか9勝(27敗1分け)しか挙げられず、ロッテの自力優勝の可能性が早くも消滅した[64]。5月から6月にかけ、WBCキューバ代表のロエル・サントス[65]と、ソフトバンク・オリックス・楽天でプレーしたウィリー・モー・ペーニャ[66]を相次いで獲得する。秋口になるとチームも復調し、9月は12勝10敗で今季初の月間勝ち越しを達成するが[67]最下位脱出には至ることができず、10月3日の試合で5位の日本ハムがオリックスに勝ったことでロッテの6年ぶりのシーズン最下位が確定した。そして10月10日のシーズン最終戦にも敗れ、球団史上ワーストとなるシーズン87敗目を喫しシーズンを終えた。一方、チーム打率・得点・本塁打・防御率もリーグ最下位に終わった。伊東監督が辞任し、井口が現役を引退した。オフには大量10選手が戦力外になったことに加え、外国人選手5人の退団も決まった。また、コーチ陣も刷新。同年10月11日に一軍野手総合兼打撃コーチの山下徳人ら7コーチに対して来季コーチ契約を行わないことを通告した。[68]
井口監督時代
2017年10月12日、現役を引退した井口が監督に就任することが正式に決定し、球団の公式ホームページで発表された[69]。また、井口のダイエー時代のチームメイトであった鳥越裕介が一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチ、的場直樹が一軍戦略コーチ兼バッテリーコーチ補佐に就任することが発表された。
2018年2月23日、重光昭夫代表取締役オーナー代行が同月13日に韓国で贈賄の罪で収監された[70]ことを受け、代表権およびオーナー代行職を解かれ同日付でロッテホールディングスの河合克美取締役が代表取締役オーナー代行に就任した[71]。5月10日、一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチの鳥越裕介がヘッドコーチ専任、二軍内野守備・走塁コーチの小坂誠が一軍内野・守備走塁コーチ、二軍打撃コーチ兼育成担当の堀幸一が二軍内野守備・走塁コーチに配置転換されることが発表された。また、一軍内野・守備走塁コーチの小坂がベンチ入りした影響で一軍打撃コーチ兼内野手の肩書だった福浦がコーチ登録を抹消され、福浦は内野手に専念することとなった。
この年は、4年目の中村奨吾、5年目の井上晴哉、ルーキーの藤岡裕大らがスタメンで活躍。また、新外国人投手のマイク・ボルシンガーが11連勝した。7月から8月上旬にかけてソフトバンク・オリックスとの3位争いとなったが、8月7日に4位に転落して以降、本拠地での極端な成績不振(8-10月で2勝22敗)となり、9月22日の西武戦(本拠地)で福浦和也が通算2000本安打を達成してもチームは逆転負けするなど、9月5日を最後に本拠地で勝つことができず、シーズン最終戦でパ・リーグ新記録となる本拠地14連敗を喫した。9月27日の楽天戦に敗れて2年連続のBクラスが確定、10月5日の楽天戦に勝利したことでシーズン5位が確定した。
チーム盗塁数は西武に次いで2番目に多い124個を記録するも、チーム総得点は最下位の楽天に次いで少ない534点、チーム本塁打数に至ってはパ・リーグで最下位の78本にとどまり、盗塁が必ずしも得点に結びつかなかったことに加えて、チーム防御率も西武に次いで2番目に悪い4.04を記録。前年同様、投打にわたり課題を残すシーズンとなった。
この年限りで、岡田幸文、根元俊一、大隣憲司、金澤岳が現役を引退した。 また、オフに、平沢大河、酒居知史、種市篤暉の3選手がオーストラリアン・ベースボールリーグに所属するオークランド・トゥアタラに派遣されることが決まった。
11月6日、ケニス・バルガス内野手の獲得を発表した。その他にも、元楽天の細川亨捕手や元日本ハムのブランドン・レアード内野手、元横浜のブランドン・マン投手、メジャーリーグ出場経験のあるジョシュ・レイビン投手を獲得した。また、広島東洋カープからFA宣言した丸佳浩外野手の獲得にも乗り出したが、読売ジャイアンツに争奪戦に敗れ、獲得には至らなかった。
所属選手・監督・コーチ
チーム成績・記録
- リーグ優勝 5回(1950年、1960年、1970年、1974年、2005年)
- クライマックスシリーズ優勝 1回(2010年)
- 日本一 4回(1950年、1974年、2005年、2010年)
- アジアシリーズ優勝 1回(2005年)
- 日韓クラブチャンピオンシップ[注 22]優勝 1回(2010年)
- セ・パ交流戦優勝 2回(2005年、2006年)
- 前期優勝 2回(1980年前期、1981年前期)
- 後期優勝 2回(1974年後期、1977年後期)
- Aクラス 27回(1950年 - 1952年、1954年 - 1957年、1959年、1960年、1968年 - 1971年、1973年、1974年、1976年、1977年、1980年、1981年、1984年、1985年、1995年、2005年、2007年、2010年、2013年、2015年 - 2016年)
- Bクラス 41回(1953年、1958年、1961年 - 1967年、1972年、1975年、1978年、1979年、1982年、1983年、1986年 - 1994年、1996年 - 2004年、2006年、2008年、2009年、2011年 - 2012年、2014年、2017年 - 2018年)
- 連続Aクラス入り最長記録 4年(1954年 - 1957年、1968年 - 1971年)
- 連続Bクラス最長記録 9年(1986年 - 1994年、1996年 - 2004年)
- 最下位回数 9回(1983年、1988年 - 1989年、1991年 - 1992年、1997年、1998年、2011年、2017年)
- 最多勝 85勝(1955年)
- 最多敗 87敗(2017年)
- 最多引分 15分(1978年、1980年、1984年)
- 最高勝率 .704(1950年)
- 最低勝率 .361(1983年)
※1974年は阪急とのプレーオフを制して優勝(併せて、前・後期通算での年間勝率首位=.580を達成)。以来連続44シーズン、年間勝率首位がなく、12球団で最もリーグの年間勝率首位から遠ざかっている球団である。また、これは横浜DeNAベイスターズの大洋ホエールズ時代から続いた1961年 - 1997年の37年間を超え、NPB最長記録となっている。
その他の記録
- 最小ゲーム差 1.0ゲーム(1952年)
- 最大ゲーム差 39.5ゲーム(1983年)
- 最多本塁打 193本(1971年)
- 最少本塁打 46本(2011年)
- 最高打率 .287(1985年)
- 最低打率 .232(1965年)
- 最高防御率 2.40(1956年)
- 最低防御率 5.12(1983年)
- 最多連勝 18(1960年)※途中1引き分け挟む、引き分けを挟まない記録は14(同年)
- 最多連敗 18(1998年)※途中1引き分け挟む、引き分けを挟まない記録は12(同年)
- 1イニング最多得点 15得点 (2009年6月11日対広島6回裏・日本プロ野球記録)
チームの特徴
- 1982年まで、前身球団を含めて当時の12球団では唯一、最下位がなかった。前・後期制だった1975年前期と1982年前期はともに最下位に沈んでいるが、年間通算での最下位は1983年が球団史上初である。
- チームの生え抜き及び在籍経験選手が監督に昇格する読売ジャイアンツや広島東洋カープなどと比べ外様監督が多いことでも知られている。このため、生え抜き監督は西本幸雄・有藤道世・八木沢荘六・西村徳文の4人で(西本・八木沢・西村は後に他球団の指導者を経験)、現役およびコーチ時代に他球団在籍経験のあるOBを含めても、戸倉勝城・大沢啓二・山内一弘・山本功児・井口資仁を加えた9人である。反面、コーチはオリオンズ・マリーンズOBが多く、山本功児が監督を務めていた時は山本も含めてコーチ全員が球団OBだったこともある。
- 過去に4回、日本選手権シリーズを優勝しているが、フランチャイズ制が確立されていなかった1950年以外の3回はいずれもロードの球場(1974年・中日球場、2005年・阪神甲子園球場、2010年・ナゴヤドーム)で胴上げをしており、本拠地(後楽園、東京、仙台、川崎、千葉)での日本一の胴上げは未だ成し遂げられていない。ただし、リーグ優勝における胴上げはある(1970年・東京、1974年・仙台=プレーオフ優勝。他に年間優勝ではないが、1980年前期と1981年前期の優勝を川崎で達成している。本拠地での日本一の胴上げを未だ成し遂げられていないのは、現存する11球団では他に阪神タイガース〔1985年・西武ライオンズ球場〕のケースしかない)。
- 球団創立以来、現存する12球団及び合併・消滅した近鉄を含む計13球団で唯一沢村賞を受賞した投手が1人もいない(2015年現在)。
- 完全制覇[注 23]は活動1年目の1950年しかなく、全球団の中で最も遠ざかっている。
- パ・リーグでは勝率3位からクライマックスシリーズを突破して日本シリーズに進出した唯一の球団であり、そこから日本一を果たしたのも唯一である[注 24]。また、2005年にはシーズン2位からプレーオフを勝ち抜いてリーグ優勝して日本一にも輝いたが、年間勝率2位以下で日本シリーズに2回進出したことのある球団は12球団の中でロッテだけである。また、それで2回日本一になっているのもこれまた唯一である。
- 一軍公式戦において、2004年までは全試合が対象・2005年以降はリーグ戦のみが対象で、前身球団を含む現存する12球団で唯一、全球団に負け越したシーズンが意外にも1回もない[注 25]。
東京・仙台・川崎時代
以前のニックネーム「オリオンズ」は星座のオリオン座が由来。球団創立以来1991年まで使われた。チームの愛称は一般公募され「オリオンズ」は得票数5位だったが、星が当時の親会社・毎日新聞社の社章でもあることから付けられた。
大映ユニオンズと合併した際、毎日側は新球団名として「毎日スター」を提案。これを受けた永田雅一は一応納得はしながらも「以前、毎日新聞は『大毎』(大阪毎日新聞の略称)と呼ばれ親しまれていた。今でも自分は毎日を大毎と思っている。何故この新球団を『大毎オリオンズ』としないのか」と反論。毎日側も納得し、新球団名は永田案が通った。しかし実際には「プロ野球には我が大映が先んじて進出しているのだから、後発の毎日よりも前に大映を示す“大”の文字が入るのが当然である」という永田の思惑によるところが大きかったといわれる。
毎日新聞がオリオンズの経営から手を引いたのちも、球団誕生に合わせて改称した喫茶店「茶房オリオンズ」が毎日新聞大阪本社ビルに(ビル建て替えに伴う移転を乗り越えて)存在し、名残をとどめていたが、2014年4月25日限りで閉店した[72][73]。閉店に際して開かれた「感謝の集い」には、千葉ロッテ球団からも集いに対する祝電が寄せられた[72]。
千葉時代
1992年から愛称を「オリオンズ」から「マリーンズ」に変更。公募されたものの1位は「ドルフィンズ」だった。しかし中日の略号「D」と被るために、他に使用例のない頭文字「M」の「マリーンズ」が選ばれた。これは本拠地である千葉マリンスタジアムの名称にちなんだものであるが、綱島理友が「マリーンズを日本語に訳すとどういう意味になるのか」と疑問に感じたため球団事務所に電話で問い合わせたところ、球団からは「一応、海の勇者という意味で使っています」との公式回答があったという。ただし英語における名詞形のmarineには「海兵隊員」以外の意味合いはなく、このため公式サイト上の試合速報でも海兵隊の文字が散見される。オーナー企業であるロッテは菓子の製造・販売を主たる事業としており、球団名との関連はない。なお公募の際、「パラダイス」票が最終選考まで残った。また変更なしの「オリオンズ」票も多数あった。千葉にちなんで、有名な千葉を本拠地にした架空のチームを舞台にした漫画『すすめ!!パイレーツ』と同じ「パイレーツ」も多く票を集めたが、作品との混同とそれにまつわる権利上のトラブルを避けたのと、作中でのパイレーツが(基本的には)笑い者にさえされている弱小チームであるため、実在のチームに名付けるのはイメージが悪いという判断で却下されている。
FAによる選手の補強には消極的である。これまで、他球団からFAでロッテに移籍したのは、1995年オフの仲田幸司(前阪神)、2011年オフのサブロー(前巨人。厳密には古巣に復帰)、2013年オフの涌井秀章(前西武)のみ。また、所属選手でFA宣言した選手とは再契約をしない方針をとっている(例外は1998年オフの初芝清と堀幸一、2017年オフの涌井)。ただ、2018年オフに丸佳浩(前広島)がFA宣言した際には、地元・千葉県出身ということもあり、6年25憶円超もの条件提示を行い獲得に動いた[74](丸は最終的に巨人に移籍)。
2000年代の後半以降になると以前にも増して長距離打者の不足に悩まされることが増え、2017年終了時で30本塁打以上打ったのは、2005年の李承燁にまで遡る[75]。日本人では1986年の落合博満以来出ていない。これに関しては、球場に吹く風の影響が大きいと言われており、落合の記録も川崎球場が本拠地の頃のものである[76]。
2006年から2015年までは、12球団で唯一主催ゲームで地方開催を行っていなかった。2016年に千葉への本拠地移転25周年記念事業の一環として、東京ドームを会場とした初の主管試合(7月12日・対ソフトバンク戦)を開催した。地方主管試合としては2005年7月に西武ライオンズを帯同した石川県立野球場、富山市民球場アルペンスタジアムでの試合以来11年ぶり、東京都での主管開催はジプシー時代の1977年に後楽園・神宮で各12試合ずつ・24試合を開催して以来39年ぶりのことであった[77][78](試合は4-0でホークスが勝っている)。2017年は再び地方開催なしとなったが、2018年は5月15日に13年ぶりに富山市民球場アルペンスタジアムで、8月21日に2年ぶりに東京ドームで、それぞれ地方開催を行った[79]。
チームスローガン
- 1993年:「心・技・体 '93」
- 1994年:「激闘」
- 1996年:「One at a time(一つ一つを大切に)」
- 1998年:「Play Hard '98」
- 1999年:「For The Team」
- 2000年:「For the Team 2000」
- 2001年:「For the Team Strive for Victory(チームのために勝利に向かって奮闘しよう)」
- 2002年:「For the Team」
- 2003年:「Ambition for Victory (勝利への執念)」
- 2004年:「This year is beginning of the future.(今年から未来が始まる)」
- 2005年:「BUILDING OUR DREAM!〜夢をみんなで〜」
- 優勝直後には「We built our dream(夢を叶えたぞ)!」の文字が公式サイトに現れた。
- 2006年:「Let us do it again(もう一度夢をみんなで)」
- 2007年:「All Hands to The Flag! 〜結束、フラッグのために〜」
- 2008年:「A Passion for Our Dream, A Commitment to The Flag(夢に情熱を、フラッグに誓いを)」
- 2009年:「Remember 〜1969―2008、2009〜」
- 2010年:「和」
- 2011年:「和 2011」「今こそみんなで和の力」
- 「今こそみんなで和の力」は東日本大震災復興スローガン。
- 2012年:「和のもとともに戦おう」
- 2013年:「翔破〜頂点を目指して〜」
- 2014年:「翔破 〜頂点へ、今年こそ。〜」
- 2015年:「翔破 〜熱く!勇ましく!!泥臭く!!!〜」
- 2016年:「翔破~熱き心で~」
- 2017年:「翔破~限界を超えろ!~」
- 2018年:「マクレ」
- 2019年:「マウエ」
マスコット
千葉ロッテマリーンズ マスコット | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 幕張の浜 |
生年月日 | 8月9日 |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | マスコット |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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現在のマスコットであるマーくんは3代目でカモメがモチーフ。ペットマーク等に使用されているほか、千葉県や千葉市のキャンペーンなどにも起用されている[80]。同じオーナーのもとにある兄弟球団にあたる韓国のロッテ・ジャイアンツにもマーくん・リーンちゃん・ズーちゃんと類似のマスコット(イラストではユニフォーム・キャップなどの色違い)が制定されており、日本のマーくんにあたるヌリがペットマークに使用されている。
- マーくん
- 6歳・メインキャラクター
- ユニフォーム姿(背番号なしでネーム「MAR-KUN」のみ)。
- チーム・マイナス6%メンバー(744号)
- 1992年に登場。着ぐるみは数度変更されており、ペットマークに導入された際に現在のルックスとなった。
- 2012年3月1日からはTwitterのアカウントが独立[81]。元々千葉ロッテマリーンズの公式アカウントでつぶやいていたものの、専用のアカウントが出来たことで発言の頻度が増している(2012年4月現在)。千葉ロッテマリーンズの公式アカウントでつぶやいていたころの名残か、つぶやく際に毎回「マーです」と名乗っている。東京ヤクルトスワローズのマスコット・つば九郎曰く意外とマクドナルドが好きとのこと。生粋のアイドルヲタクである。つば九郎の妹・つばみに想いを寄せられているようで交流戦で神宮球場へ行くたびに猛アタックされている。
- リーンちゃん
- 4歳・マーくんの彼女
- ポニーテールでピンクのサンバイザーに白のトレーナーもしくはピンク系のスタジアムジャンパー・白またはピンクのプリーツミニスカート姿。
- 「マリーンズダンスアカデミー」の校長を務めている。
- チーム・マイナス6%メンバー(745号)
- ズーちゃん
- 3歳・マーくんの弟
- 前後逆に被った黒のキャップに灰色のパーカーと水色のハーフパンツ姿で左頬に絆創膏。
- チーム・マイナス6%メンバー(746号)
- クール(COOL)
- イワトビペンギンをモチーフにサングラス(登場当初はビン底メガネ。環境問題に関するレクチャーを行なう時には掛け替えたりもする)。
- 「ロッテオリオンズ応援団」と書かれたハッピやチーム・マイナス6%のロゴ入りのビジターユニフォーム(背番号なし)などを着用。
- マリーンズ誕生後の1992年、オリオンズのマスコットとなるべく川崎球場にやってきてしまい、チームを探して日本や世界中をあちこち探し回ってようやく千葉にたどり着いたという設定。2005年8月3日、謎の新マスコットとして突然デビュー。8月24日に名前が正式発表される。登場当初は「ビジターチームのファンを盛り上げる」ということで相手チームのビジターユニフォームを羽織り、レフトスタンドや三塁側スタンドに陣取ったビジターチームのファンを盛り上げていたが、のちに正マスコットの座を狙う「悪のマスコット」というポジションに変更された。
- 2006年8月に小池百合子環境大臣(当時)より「環境戦士」に任命され、「環境戦士COOL」として環境問題啓発活動も行っている。チーム・マイナス6%メンバー(546号)。
- 2007年4月にテーマ曲「COOLだぜ!」(作詞・作曲・演奏 伝承歌劇団-エウロパの軌跡-)が作られた。
- 運転免許(普通・8トン未満限定中型一種)を持っているらしく、マイクロカーの運転までしてのける。
- 2017年2月5日を持って、卒業
いずれも基本的にはしゃべらないが、キャラクターショーでは野球マスコットにしては珍しくしゃべる(声優不明)。また、イベント限定キャラクターとして、まれにコアラの「チャンスくん」(「コアラのマーチ」にちなむ。「戦」ユニフォームで背中に顔シルエットと“CHANCE”の文字)が登場する。
- 謎の魚
2017年5月より登場した新キャラクター。名前は「魚」としか表記されていない。第一形態は魚にあんこうのような提灯が点いた姿でスコアボードのビジョンに登場、第二形態はチョウチンアンコウのような見た目に、スリムな足が生えるという奇抜な出で立ちで現実世界に登場、この独特な見た目が話題となり、MLBのサイトでも紹介された。そして6月11日、第三形態として中身の骨が飛び出るという衝撃的なパフォーマンスを行い話題を呼んだ。この際は、再び第二形態に戻って退場している。その後2018年6月12日には大型化した骨の頭に緑の足が生えた第四形態、6月26日にはチョウチンアンコウ型の頭に緑の手足が生え腹にホームユニフォームと背中に虹色の模様とひれをあしらった第五形態が登場した。
コスチュームの基本は上述の通りだが、夏には謎の魚を除く4人が浴衣を着たり、アロハシャツに半ズボン・麦藁帽子姿になったりする。
- 過去のキャラクター
- 初代マスコットは東京オリオンズ時代の「桃太郎(刀の代わりにバットを持っている)」である。
- 2代目マスコットはロッテオリオンズ時代の「風船ガム坊や(バブリー君という説もある)」である。
営業・ファンサービス
瀬戸山隆三が球団代表に就任し、ボビー・バレンタインが監督に復帰した2004年以降、千葉マリンスタジアムの「ボールパーク化構想」が方針付けられ、積極的なファンサービスに尽力するようになった。プロ野球再編問題によりロッテが千葉を去る可能性が取りざたされたことをきっかけに地元行政側との協力関係が結ばれるようになると、地域密着型のファンサービスがより積極的に展開された。セ・パ交流戦の際にこれを見た阪神タイガース前オーナーの久万俊二郎は「これこそファンサービス」と感動したという。また、京葉線の最寄り駅の海浜幕張駅の発車メロディも2005年3月26日から「We Love Marines」に変更するなど、スタジアム周辺の随所で地域との共存がアピールされ続けている。一連のファンサービス向上には、荒木重雄事業本部長(当時)の貢献が大きく、荒木の在任時には、「12球団の中でファンサービスが一番良いのはマリーンズ」と評されていた。
ボールパーク化構想
「ボールパーク化構想」の最大の障害となっていたのは、球団側と行政側との溝であった。千葉移転以降のロッテの観客動員数の伸び悩みや市の財政難などにより、千葉市など行政側は施設の改修や増設にあまり積極的ではなく、球団がファンサービスの企画を立案しても行政側が条例を盾に認可を渋るケースが多々あった。また、千葉マリンスタジアムは球場内が千葉市、幕張海浜公園の一部である駐車場などの球場外の敷地が千葉県の管理となっていた。そのため、過去には売店の設置やフェンスの企業広告掲出が一切出来ず、球団に収益が全く入らない状態だった。2004年以降は県と市の協力を得てこれを改善し、スタジアム敷地内に売店や屋台等を設置したり、動物とふれあう場所を作ったり、スタジアム内でもフェンス広告の掲出を開始したり、スタンド内にベビーベッドが設けられるなどの展開があった。
2004年のプロ野球再編問題における10球団構想では、ロッテとダイエーを合併して「福岡ロッテホークス」とする案が取り沙汰された。ロッテが千葉を去る可能性から行政側には危機感が生まれ、県と市は条例の改正などで千葉マリンスタジアムの使用規制を大幅に緩和し、さらに2006年度からは指定管理者制度を導入して、球団を千葉マリンスタジアムの指定管理者に指名して運営を委託するなど、現在では球団と行政とが一体となって地域密着策を展開している。
プロ野球球団が本拠球場の指定管理者になるのは、ロッテが初のケースとなった。この他2009年には、広島東洋カープが同年開場した本拠地のMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島の指定管理者となった他、都市公園法に定める「管理許可制度」の適用による運営体制を導入しているケースとしては、オリックス・バファローズが2004年まで本拠地(2005年以後は準本拠地)としていたほっともっとフィールド神戸と、2005年以後の東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地のフルキャスト/クリネックス/楽天koboスタジアム宮城の例がある。また、2016年には、管理許可のもとで横浜スタジアムを運営していた第三セクターの株式会社横浜スタジアムを、横浜DeNAベイスターズが友好的TOBにより買収している。
360度全席自由席
ロッテは2005年から「360度全席自由席」と銘打って、本拠地の千葉マリンスタジアムの場内全席を自由席としてチケットを均一料金に割り引くファンサービス企画を、毎年夏の2試合を対象に行っている。
そもそも、この全席自由席企画は2005年6月28日と6月29日に予定していた韓国での公式戦(対福岡ソフトバンクホークス)が中止となったことから(後述)、その代替企画として打ち出されたものである。韓国での開催が中止となった2試合は千葉マリンで代替開催することになったものの、週末に比べて動員力の低い平日のナイトゲームで、更に韓国開催を前提にシーズンシートの契約対象外としていたことから、球団営業部はイベントの実施を決定した。
こうして立案されたのが「来場者に色々な席で、様々な角度からゲームを見てもらえるように」という発想からスタンドを全席自由席とし、入場料も大人1500円、子供500円の均一料金にするという、NPB12球団の一軍公式戦としては初の試みだった。加えて当日の企画案を検討した結果「夏前のフェスティバルのノリで、ビアガーデンのように盛り上がれる企画」という方向性が決まり、ビールを通常の半額(1杯300円、ソフトドリンクも200円に割り引き)で販売するなどのサービス実施を決定、企画タイトルは「360度ビアスタジアム」と銘打たれた。結果、2日間とも通常の平日のナイターを大幅に上回る観客を集め、概ね好評だった。「ビアスタジアム」は翌2006年シーズンも6月27日の対日本ハム戦、8月30日の対ソフトバンク戦の2度実施され(ただしドリンク類はブースのみでの販売とし、売り子の巡回販売は行わず)、6月の試合では観衆の一人単位までの発表を開始してから当時最多の29,152人を記録した。
2007年はイベントのアイディアを一般ファンから募集し、全席自由席企画を「応援スタジアム」と「ビアスタジアム」の2本立てとして実施することとなった。まず「応援スタジアム」は7月3日の対オリックス戦で実施。通常の外野スタンド右翼側だけでなく内野スタンド一塁側も応援席とし、イニング間には応援ボードコンテストなどを実施。また、ゲストとして渡辺真知子を招聘するなど(一部後述)、さまざまな企画が行われた。恒例となった「ビアスタジアム」は7月31日の対楽天戦で行われ、全席自由席企画では最多となる30,016人の観客を集めた。
この全席自由席企画においては、スタンド内を全席自由とすることによって観客の動向が通常時と大きく異なることから、球団営業部では開催当日の場内を細やかにリサーチしている。調査項目は「スタンドのどの席にニーズがあるのか」「どのような観戦スタイルをしているか」など細部にわたっており、調査結果は今後のファンサービスや座席設定など、球団の営業戦略に反映されている。
マリンスタジアム場内に設けられている特別シートは、この企画を実施する際の対応が異なっている。一・三塁側のファウルエリアに設けられた「フィールドウィング・シート」のチケットを希望する場合は、あらかじめ前売入場券を購入した上で抽選に申し込む必要があり、当選者に限り座席指定券が発行される。また内野1階席三塁側の「ピクニックボックス」のチケットを希望する場合も抽選に申し込む必要があり、当選者に限りチケットが販売される(販売価格は通常の15000円が7500円となる。定員5名であるため、1人換算1500円)。この措置は観客の安全性を確保する上で、両座席については規定の定員を遵守しなければならないため「指定席」の扱いとなることによるもので、これら抽選の申込受付はマリーンズオンラインチケットショップで開催日の3週間前に行われる。但し、ネット裏のプレスブースに隣接する「マリーンズ・プレスシート」は座席設定・価格とも対象外で、通常時と同じ設定となっている。
その他の営業・ファンサービス
- 夏休み期間中(7月下旬 - 8月いっぱい)の千葉マリンでの公式戦は全試合ナイター開催で、5回終了後に花火が打ち上げられる。そのうちの1試合で開催される「京成グループ花火ナイター」は毎年恒例となっている。
- 始球式は一部の例外(ロッテOBによるものなど)を除いてプレーボール直前ではなく、野手が守備位置につく前に行われる。
- チア・パフォーマーチームM☆Splash!!がホームゲームやイベントなどでパフォーマンスを行う。
- 2005年、東北楽天ゴールデンイーグルスが「スタメンに次ぐ控え選手の一人」として、背番号10をファンのための欠番にしたことが話題になったが、それに先駆けてマリーンズでは、ファンを「一軍の25人に次ぐ26番目の選手」として背番号26を欠番とした。元々サッカーでは同様の理由で12番を欠番にしたり、サポーターが「12」という大きな横断幕を作っているが、マリーンズファンもそれに倣ってライトスタンドを覆う「26」をモチーフとしたデザインのビッグフラッグと呼ばれる大横断幕を試合開始前に広げるパフォーマンスを背番号26が欠番になる前から行っている。スタジアム前の6冠記念モニュメントにも2005年当時の監督と選手のサイン付き手形レリーフと共にユニフォームマークの形でプレートが嵌め込まれている。
- 過去にはホーム戦でのラッキー7の攻撃前に「Take Me Out to the Ball Game」が演奏されていた(現在は「マリンに集う我ら」)。
- 地元千葉県の地方銀行である千葉興業銀行が、同球団およびファンクラブTEAM26のスポンサーになっている。2004年4月からは毎年、同球団の成績により金利が変動する(通常金利に0.026パーセント加算、リーグ優勝で0.26パーセント加算)「マリーンズ応援団定期預金」を販売している。
- 2010年、2013年のクライマックスシリーズでは全試合において千葉マリンスタジアムでパブリックビューイングが行われた。入場無料ながら特別ゲストに立川隆史を迎えたほか球団マスコットも総動員されるなど通常の試合以上のような盛り上がりを見せ、千葉市市長の熊谷俊人も応援に駆け付けたほか、日本シリーズ進出が決まった試合では内野1、2階席が解放され約1万3000人の観客が訪れた。
- 2013年から交流戦では他球団を挑発するポスターが毎年制作されている[86]。2015年のクライマックスシリーズ時には対戦相手のファイターズとホークスに対する挑発ポスターを制作した。結果はファーストステージでは2勝1敗でファイターズを下したものの、ファイナルステージではホークスに3連敗(アドバンゲージ1勝を除く)し終戦。ポスター内にあった下克上を意味する「二度ある事は三度ある」を達成することはできなかった[87]。2016年のクライマックスシリーズ時にはファイナルステージに進出した際に対戦相手のファイターズ対する挑発ポスターを制作したが、結果はファーストステージで2敗で敗れ、一時はお蔵入りの危機に瀕していたが、「来季は大谷投手に勝る存在感で優勝して欲しいとの思いから、あえて公開しました」という理由で2016年12月5日に公開された。内容は「二刀流対伊東(いっとう)流」である[88]。
- 2016年4月29日に開催された対北海道日本ハムファイターズ戦では、隣接する幕張メッセで同日開催された「ニコニコ超会議2016」とタイアップ、『超野球』と題して当日のニコニコ超会議入場券所持者は特別に用意された「超野球観戦シート」にて入場無料で観戦できるようにした。また当日は、7回裏直前にフィールド内でのジェット風船片づけ作業体験や、球場内で来場者が生放送配信できる「超野球ユーザー生放送」などの企画も合わせて実施された[89]。
公式ファンクラブ『TEAM26』
球団公式ファンクラブ『TEAM26』があり、プレミアムゴールド・ゴールド・レギュラー・カジュアルレギュラー・ジュニア(いずれも有料)・マリーンズ(無料)の6コースがある。前売りチケットやグッズの購入でMポイントを貯めることが出来る。かつての「TEAM26」会員証は楽天Edy機能搭載のAMCカード一体型だった。
独立リーグへの派遣構想(2007年)
2007年10月1日のプロ野球運営実行委員会で、球団社長(当時)の瀬戸山隆三は、5 - 8人程度の育成選手を獲得した上で、独立リーグである四国アイランドリーグ(現:四国アイランドリーグplus)の徳島インディゴソックスに派遣する構想を表明した。当日の委員会では結論が出ず、継続審議の扱いになった。一部球団からは「イースタン・リーグの混成チームであるフューチャーズの活用が先ではないか」といった意見が出された。その後、社会人野球側から「育成選手制度の本来の趣旨と異なる」という指摘がなされ、NPB内部の他に社会人野球側とも調整が必要な状況となった。
2007年11月6日のプロ野球運営実行委員会でも合意には至らず継続審議となったが、次回の委員会の前にドラフト会議を迎えるため、来季の派遣については困難という報道がなされた。2007年のドラフト会議で獲得した育成選手5名(池田健、宮本裕司、小林憲幸、白川大輔、大谷龍次)は、支配下登録を受けた1名(宮本)を除き2009年のシーズン終了後に戦力外通告を受けて退団。このうち、アイランドリーグから指名された小林は同リーグに所属していた長崎セインツへ入団し、白川と大谷は徳島へ入団した(池田は引退)。
約4年半が経過した2012年3月1日にNPB実行委員会が、育成選手に限り四国アイランドリーグplusとベースボール・チャレンジ・リーグへ選手の派遣を認めた[90]。ただし、ロッテはこの制度による選手派遣を実施していない(2016年現在、派遣実績がある球団は広島東洋カープ・オリックス・バファローズ・中日ドラゴンズ・東北楽天ゴールデンイーグルス・埼玉西武ライオンズ)。
2014年3月にベースボール・チャレンジ・リーグの福井ミラクルエレファンツと業務提携を行い、ロッテ球団職員の荘勝雄がトレーニングコーチとして派遣されることになった[91]。
ユニフォームの変遷
東京・仙台・川崎時代
毎日時代
- 1950年(シーズン開幕前) - 練習用(プロトタイプ)として、白を基調としたものとグレーを基調としたものを使用した。
- 白地・濃紺ツバの帽子、白地のシャツ・パンツ(ズボン)、濃紺のアンダーシャツ。シャツには「Mainichi」の胸マーク(筆記体)が入った。
- 濃紺地の帽子、グレー地のシャツ・パンツ、濃紺のアンダーシャツ。シャツには「Mainichi」の胸マーク(筆記体)、左袖に毎日新聞社社旗を流用したデザイン(赤い社章と二本線)が使われた。
- 1950年 - 1957年 - ホーム用は当時のニューヨーク・ヤンキース、ビジター用は当時のロサンゼルス・ドジャースをイメージして作られた。1950年シーズン途中から左袖には毎日新聞社の社章に代わりトリコロールのワッペンが付いた(1951年からは月桂樹の枝と「1950」(優勝年)の金糸文字が入った。1952年シーズン途中から1955年は平和台事件を起こした責任を取る形で廃止したが、1956年には「Orions」ロゴが入る形で復活)。
- シャツ・パンツは、白地に濃紺縦じま(ホーム用)、グレー地(ビジター用)。
- アンダーシャツは、濃紺。
- 胸マークは、ホーム用 - 左胸に「M」マーク(飾り文字書体。濃紺・白縁取り)・ビジター用 - 「Mainichi」(筆記体。濃紺。1950年)、「Orions」(セリフ風書体。濃紺・白縁取り。1950年シーズン後半より使用)。
- 帽子は濃紺地に白い「M」マークの入ったもの。1950年には、白地に濃紺縦じまに白「M」マーク・濃紺ツバの入ったもの(ホーム)、グレー地に白「M」マーク・濃紺ツバの入ったもの(ビジター)も使用された。
- 1956年には、グレー地などを基調としながら、首周り・袖・ズボンサイドにラインが入ったビジター用を、1957年には、「Orions」に代わり「TOKYO」の胸マーク(ニューヨーク・ヤンキースの「NEWYORK」に似た書体)が入り、ラインを外したビジター用をそれぞれ使用した。
大毎→東京オリオンズ時代
- 1958年 - 1965年 - 球団名が毎日大映オリオンズとなり、胸マークも「Orions」となるが毎日時代のスタイルを踏襲。また、大映からゴシック体の番号フォントが継承された。ビジター用は最初「DAIMAI」だったが、1960年から「TOKYO」に変更される。この間、腰番号や胸番号が付く。
- 1966年 - 赤色をふんだんに使ったホーム用ユニフォームが登場。左袖のワッペンは小さくマイナーチェンジされたもの(「Orions」の文字なし)が使用されたが、シーズン途中の6月22日の対近鉄戦より左袖にペットマーク(バットを持った桃太郎のイラストが描かれたもの)がつく。
- 帽子マークは「T」(赤色・白縁取り)。胸マーク・番号・ライン(首周り・袖・ズボンサイド) - 赤色・濃紺縁取り。
- 1967年 - 1968年 - ホーム用がドジャース風(ただし、青ではなく紺を基調としており、胸マーク・背番号は赤、胸番号は紺)となり、縦縞が廃止される。左袖には桃太郎のマークが形を変え引き継がれた。当初首周り・袖・ズボンサイドに赤ラインがあったが翌年廃止され、さらにドジャースに近くなった。このデザインはロッテになってからも引き継がれた。帽子は、濃紺地に白文字の「T」。
ロッテ時代
- 1969年 - 1972年 - 株式会社ロッテがスポンサー(1971年から正式な親会社)となり、球団名がロッテオリオンズに改称。ユニフォームは東京時代のスタイルを踏襲(ただし、紺→青になる)。ホーム、ビジター用共胸番号が消え、赤の「LOTTE」だけのシンプルものになり、「Orions」のロゴは左袖に移る(色は青)。背番号(赤色)はオリジナル書体。また帽子のマークがLとOとの組み合わせと星のマークがついたものになる。
- 1973年 - 1991年 - 金田正一の監督就任に伴い、ユニフォームを一新。帽子・アンダーシャツが青から紺に代わる。また、金田のアイデアを取り入れたニット素材の特徴を生かし、肩、袖、パンツからボディにかけて、両サイドを紺で挟む赤の太ラインが入る。「LOTTE」の胸ロゴは紺色に赤の縁取りのゴシック体(背番号も同様)となり、「Orions」のロゴは消滅(基本ユニフォームとなるホーム用に企業名のみを表したということ)。また、背番号の上に選手名が入り、胸番号が復活する(胸番号・選手名は紺)。帽子のLOと星マークに、赤の縁取りが入る[注 29]。
- ホーム用はオフホワイト地。
- ビジター用はスカイブルー地で、胸ロゴはホーム同様「LOTTE」。
- 翌1974年より、胸ロゴ・背番号の色が赤色に紺の縁取りへ変更され、ボタンの素材が、白の2つ穴から透明4つ穴タイプに変わる。
- 1984年より、スパイクの色が黒地に白ラインから白地に紺ラインに変わる。
- 1989年より、ボタンの素材が透明からユニフォームの地色と同じ色に変わる。
- 金田監督より、ラインは生地の上に乗せるのではなく、生地と生地との間にはめ込むよう要望があり、当時の技術では非常に苦労したという。
- 背番号の書体の中で「1」については、下に「_」の付かないスタイルであったが、背番号1の選手(ジム・ラフィーバー→ラファエル・バチスタ→高橋博士→愛甲猛)については「_」が付いていた。
千葉時代
- 1992年 - 1994年 - 本拠地が千葉市に移転し、球団名が「千葉ロッテマリーンズ」となり、初めてプルオーバー・タイプを採用。サンライズ・ピンクとカレント・ブルー(ブルーグレー)で千葉県のイメージを前面に押し出した。
- 帽子は、黒色地に帽子マークはピンクの縁取りに黒文字でCLM(Chiba Lotte Marinesの略)で真ん中に波模様が入ったもの。
- シャツ・パンツは、白(ホーム)、ブルーグレー(ビジター)をそれぞれ採用。
- 首周り・袖口には、黒・ピンクのライン(外側にピンク)が、ズボンサイドにはピンクを黒で挟んだラインが入る。
- 胸マークには「Marines」(筆記体)を、左袖にはホーム「CHIBA」ビジター「LOTTE」(親会社ロッテのロゴマーク)のマークをそれぞれ採用。
- 胸マーク・番号にはピンク・黒縁取り、左袖マーク・背ネームには黒を使用。
- 背番号の「1」の書体は、「_」の無いもの(ただし、左上の欠けていない書体)が引き続き採用されたが、背番号1の愛甲猛については引き続きオリオンズ時代と同様の書体が採用された。
- 1995年 - 2003年 - 後述する事情から、広岡達朗GMの提案によりユニフォームを一新。チームカラーを白と黒を基調にしたものになる。毎日オリオンズ時代から東京時代まで使われていた縦縞が29年ぶりに復活し、シカゴ・ホワイトソックスを模したデザインになる。さらに、当時球界で主流になりつつあったユニフォームのパンツ裾を足首まで下げるスタイルを、広岡GMが非常に嫌っていたため、オールドスタイルを実現すべく長めのストッキングを採用(上部に白いMマークの刺繍が入る)。ちなみにビジターユニフォームの胸の文字はホームユニフォームの“M”に対し、“Marines”の文字が入ったものだった。また、スパイクは黒地にホワイトのラインのものに変更。
- 2000年 - 2004年 - ビジターでの負けが多いことから、上下グレーのビジター用ユニフォームを上が黒、下がグレーの新たなユニフォームに変更した(球団史上初の上下ツートンカラーのユニフォームである)。ビジターゲームでマリーンズファンが「黒の軍団」と称されるのは、この頃からである。
- 2003年 - 2004年 - サードユニフォームとして上下グレーのビジターユニフォームが採用(翌年はセカンドビジターユニフォーム)。このサードユニフォームの胸の文字はホームユニフォームと同じ“M”であり、胸番号は無く、背番号の上には選手の名前が書かれていないものだった。このユニフォームは金曜日、土曜日、日曜日のビジターゲームに使われ、その他の曜日のビジターゲームでは黒い上着のユニフォームが使われた。おおむね、同時期の阪神タイガースのビジターユニフォームに、既存のロッテのユニフォームのマーク・背番号を張り替えたようなデザインだった(ただし、ラインは阪神と違い白に黒を挟んだものであり、阪神のそれと比べ細かった)。
- 2004年 -2007年 - 復帰したバレンタイン監督の提案で、上記のホーム用ユニフォームにプラスする形で、黒いダンダラ帯のはいったサンデーユニフォームが登場。初年度は縦縞の入ったホーム用の白パンツとの組み合わせだったが、翌年から法被に合わせてデザインされた新たな白パンツが登場した。
- 2005年よりユニフォームの名称を変更し、法被と白パンツを組み合わせたものを「誠(まこと)」、法被と黒パンツの組み合わせを「侍(さむらい)」、それまで使われてきた上下縦縞を「戦(いくさ)」とした。また、上下グレーのセカンドビジターユニフォームは廃止され、ビジター用のユニフォームは1種類のみとなった。黒地のビジターユニフォームの胸の文字が“Marines”から帽子のマークと同じ“M”に変更され、濃いピンクのラケットラインが入る。パンツも「誠」と同じものへ変更。「戦」以外のホーム時やビジターでは、帽子のツバには濃いピンクと白のギザギザがデザインされ、Mの文字にはピンクのシャドウが入ったものを使用。ホームゲームでどのユニフォームを着るかは、メジャーと同じく先発投手が自由に選んで決められる方式にした。(基本的に連勝中は縁起担ぎで変えた投手はいなかった)この年の後半にはいい状態でチーム状態が継続していたため、普段は「戦」を選択する清水直行さえ縁起担ぎで「誠」を使用。ポストシーズン(プレーオフ・日本シリーズ・アジアシリーズ)のホームゲームでは「誠」で戦い全勝した。
- しかし、「戦」「誠」が選手に受け入れられたのに対し、「侍」は「格好が悪い」ために選手から敬遠されていた。実際、2005年に公式戦で「侍」が着用されたのはホームゲーム連敗中の5月14日の対ヤクルト戦の1回だけで、先発のダン・セラフィニがこのユニフォームを選択したが、その試合は3-11と大敗。その後「縁起が悪い」と敬遠されたのか、「侍」を選択した先発投手はいなかった。
- 2006年 - 2009年 - 2005年のアジアシリーズ制覇を記念したチャンピオンエンブレムが袖に入る。図案は「CHIBA LOTTE MARINES」の白文字入り黒リングで囲まれたボールを背景に「05 Marines ASIA」の文字、「CHAMPIONS」の白文字が入った赤リボン、最下部に6冠を表す銀の六連星。
- 2008年 - 2009年 - デサント社がオフィシャルサプライヤー契約を締結、デザインをマイナーチェンジ。チームカラーを「白、黒、赤」とし、ホーム用は従来のストライプタイプ「戦」と、「誠」の袖のダンダラ帯と胸ラインを赤色にした2タイプがある。ビジター用は黒を基調とし、上から下へ向かって黒から白へと徐々にグラデーションしたもの(日本プロ野球史上初のデザイン)である。またビジター用ユニフォームには右胸に球団ペットマークが浮き上がって出るようにあしらわれている。「戦」以外は、背番号の書体も丸い斜体文字へ変更されている(ホーム用「誠」は赤、ビジター用は黒)。
- 2009年 - ロッテのプロ野球参入40周年を記念した「ORIONS-MARINES 40th ANNIVERSARY」エンブレムが袖に入る。図案は“ORIONS-MARINES”のアーチと“40th ANNIVERSARY”“1969-2009”の帯で囲まれた中に、青空と海をバックに歴代のユニフォームを模した色(左からオリオンズ初代、オリオンズ2代目、マリーンズ初代、マリーンズ現行)で空を飛ぶ4羽のカモメ。
- 2010年 - 2013年 - バレンタイン監督の退任に伴い、「戦」以外のユニフォームのデザインが変更(各ユニフォームのニックネームも廃止)。チームカラーの一つとされていた赤が消えた。ビジター用はグラデーションを廃止し、黒地に白のカットラインが入る。サードユニフォームはラグランスリーブ部に黒を配した。ビジターとサードにはそれぞれ右袖には2段組みで「CHIBA LOTTE」の文字が入る(ホームは今までどおり「LOTTE」のみ)。帽子は従来の黒帽子で統一された。右袖に2006年から付けられていたアジアシリーズチャンピオンエンブレムが廃止。右胸のワッペンスポンサーがハートフォード生命保険からネクソンに変わる。なお、サードユニフォームが使われたのは、2010年は4月25日、6月30日、8月1日の3試合(対戦相手はいずれもソフトバンク)、2011年は6月8日の阪神タイガース戦の1試合、2012年は7月16日、17日の楽天戦の2試合のみであった。2013年は、後述の2012年の限定ユニフォームがサードユニフォームとして着用された。
- 2014年 - 現在 - ホーム、ビジター共に新素材を使いユニフォームを軽量化。また、ビジターユニフォームはデザインを変更し、「闘志あふれる勝利への執念」を表している。前年まで使用したユニフォームと同様に黒地に白のカットラインが入る。胸ロゴが「Marines」(胸ロゴ・胸番号・背番号共に白字で赤で縁取り)、背ネームは白字。両袖に赤のライン、左袖に丸にカモメのロゴマークが入る。なお、ビジターユニフォームには2段組の「CHIBA LOTTE」の文字はなし。ズボンはグレーで、サイドの腰から膝までの部分のみ赤のラインが入る。帽子は黒でロゴが「M」(白字で赤で縁取り)、ツバの縁が赤。また、ホーム、ビジター共にズボンにオカムラホームの広告が入る[93]。ホーム用は帽子が前年まで使用していたもので、つばのふちが白。
限定ユニフォーム
- 2008年8月13日 - 18日の2カードで、ロッテのプロ野球参入40周年記念として、オリオンズ時代のホーム用ユニフォーム(1991年まで使用)を復刻した[注 30]。
- 「1」の書体については、当時のものは左上が欠けていたが、復刻版は欠けていない書体(カギカッコのような書体)を使用した。
- 2009年8月18日 - 20日のオリックス戦で、前年に続いてロッテのプロ野球参入40周年記念として、オリオンズ時代の1972年まで使用されたホーム用ユニフォームを復刻した。
- 2011年、千葉移転20周年を記念してホームゲーム限定で、1992年から1994年までのホームユニフォームを復刻使用している。
- 上記の2008年のユニフォーム同様、「1」の書体については欠けていない書体(カギカッコのような書体)を使用した。
- 2013年、パ・リーグ共同企画「レジェンド・シリーズ2013」の一環で、オリオンズ時代の1991年まで使用されたビジター用ユニホームを復刻。ただし、復刻ユニフォームの右胸にはネクソン、パンツ左側には君津住宅の広告が付く。
"ALL for CHIBA"シリーズ
- 2012年 - 2015年、千葉移転20周年を記念した「Thanks 20 years “ALL for CHIBA"シリーズ」のイベントの一環として、白をベースに両肩と両わき腹に黒いライン、胸に黒文字で「CHIBA」と記したロゴが入ったユニホーム(通称:CHIBAユニフォーム)を着用する。なお、マリーンズのユニホームに「CHIBA」のロゴが入ったのは1992年の移転後初。一軍の公式戦数試合で着用するほか、二軍の公式戦でも数試合限定で着用。2013年から2015年は埼玉VS千葉シリーズで西武ドームでも着用された。2015年は4月の3連戦において宮城球場でも着用されている。
- 2016年、千葉移転25年目を記念した「“ALL for CHIBA"シリーズ」のイベントの一環として、CHIBAユニフォームを一新。千葉県公式マスコットキャラクターのチーバくんの赤・移転当時のユニフォームのサンライズピンクを掛け合わせた「サンライズレッド」をメインカラーとした「新・CHIBAユニフォーム」を着用[95]。胸には球団ロゴを模した「Chiba」ロゴが表記され、胸番号・背番号・選手名ロゴはマリンフェスタユニフォーム(後述)と同様。ビジターユニフォームと同じ形の黒いカットラインが入る。
- 2017年 - 、「CHIBAユニホーム」をマイナーチェンジ。胸番号・背番号・選手名ロゴは、同時にマイナーチェンジされたホーム・ビジター用と同様のタイプに変更。前年と同様に「サンライズレッド」をメインカラーとしており、両肩から脇の部分に黒の太いラインが入っている。さらに、キャップ、パンツの裾部分に赤いドット調をあしらうことで波しぶきを新たに表現したことが大きな特徴。右袖に本拠地・ZOZOマリンスタジアムのある千葉市、秋季キャンプ地である鴨川市のほか、県内での2軍試合を開催する8都市、合計10都市の名前入りロゴを試合別で掲出する[96]。翌2018年は2軍試合開催地が1都市増加し、合計11都市を掲出[97]。
マリンフェスタ
「月1回のファン感謝デー」をテーマに、毎月1試合で特別ユニフォームを着用して試合を行い、さらに試合の前後に選手がトークショーやサイン会などのファンサービスを行うイベント。なお、シーズン後に開催されるファン感謝デーは「スーパーマリンフェスタ」と題し、その年に使用された特別ユニフォームを着用する。
- 2015年、「若手の多いチームの持つ元気さ爽やかさ」、「ロッテの本拠地・QVCマリンフィールドのある千葉・幕張の海のイメージ」を表現した「マリンブルー」をメインカラーに使用した限定ユニフォームを着用[98]。胸ロゴは「Marines」で、胸番号・背番号・選手名ロゴはホーム・ビジター用とは異なる字体を採用。脇から袖の部分に黒いラインが入る。
- 2016年、前年同様「若手の多いチームの持つ元気さ爽やかさ」、「ロッテの本拠地・QVCマリンフィールドのある千葉・幕張の海のイメージ」に加え、「海の上に広がる空」をイメージし、青と白色を基調とし裾に向かって薄くなるグラデーションタイプのユニホームを使用。なお、ロッテがグラデーションタイプのユニホームを採用するのは、2008〜2009年に使用されたビジターユニホーム以来となる。ビジターユニフォームと同じ形の黒いカットラインが入る[99]。
- 2017年、胸の「Marines」ロゴは海をイメージした青い迷彩柄の中に白いカモメのイラストをデザイン。また、同年の「CHIBAユニフォーム」と同様、キャップ、パンツの裾部分に青いドット調をあしらうことで波しぶきを新たに表現している。「CHIBAユニフォーム」と共に、胸番号・背番号・選手名ロゴは、同時にマイナーチェンジされたホーム・ビジター用と同様のタイプに変更[100]。
- 2018年、井口資仁監督就任1年目から「波に乗り」「ウェーブ」を巻き起こすという気持ちを込めて、力強い波をベースにチームの象徴であるカモメを全体にあしらったデザイン。胸の「MARINES」ロゴは前年までと異なって全て大文字となり、ロッテオリオンズ誕生50年目のシーズンを記念して、1969年にロッテオリオンズとして最初に登場したユニフォームのアーチ型ロゴをモチーフとしたデザインに変更[101]。
先祖帰りのユニフォーム
「千葉ロッテマリーンズ」となった1992年にチームのイメージカラーとしてピンクが登場、球団旗・ペットマーク・ユニフォームに採用された。明るいパステル調のこのピンクは「サンライズピンク」と名付けられ、「陽気さ・親しみやすさ・楽しさを表し、未来へと広がる千葉のイメージをも表している」と説明された。またビジター用ユニフォームの地色となった水色も「カレントブルー」と名付けられ、「千葉県沖合における親潮と黒潮のぶつかり合い」と定義付けられた。
- なおOBの小宮山悟が2018年に『ベースボールマガジン』のインタビューに語った内容によると、初代ユニフォームの選定段階ではいくつかのカラーパターンが選手側に提示され、その中でエメラルドグリーンが一番人気を集めたという。しかし結果的にはオーナー代行の重光昭夫の鶴の一声でピンクに決まり選手は一様に落胆した、と振り返っている[102]。
ところが、1995年に監督に就任したボビー・バレンタインはピンクの「Marines」ロゴが入ったユニフォームを「戦う者の着るユニフォームではない」と批判。そのためユニフォームの変更を余儀なくされたが、その時に広岡GMの提案で出来たのが、白地に黒の縦縞で、左胸には黒に銀の縁取りが施された“M”一文字の入ったユニフォームであった(2005年に「戦」と名付けられたユニフォームに当たる)。全体的に毎日創立時のデザインと似通っていたため、「先祖がえりともいわれ、多くのファンに歓迎された。」と、綱島理友の書籍『プロ野球ユニフォーム物語』に、先述の変更へのいきさつとともに記述されている[103][注 31]。
- ただし、小宮山悟が前述のインタビューに語った内容によると、上記の批判をしたのはバレンタインではなくフリオ・フランコであるという。
その他
- 1998年には、通常のホームユニフォームをノースリーブとしたノースリーブユニフォームを夏季に使用した[104]。
- 2012年8月17日 - 8月19日の日本ハム戦(札幌ドーム)で、日本ハムがブラックを基調とした特別ユニフォームを着用するのに伴い、普段のブラックのビジター用ユニフォームではなく、ホーム用のストライプユニフォームを着用。2017年は宮城球場で東北楽天が黒のユニホームを着用するのに伴い、通常のホームユニホームを着用した。
- 「ブラックブラックナイト」と呼ばれる、ホームの試合で普段のホーム用のストライプユニフォームではなくビジター用ユニフォームを着用する試合を毎年1試合程度行っている。(例外として2014年は2試合(4月4日と7月31日で、対戦相手は両日ともに同じ北海道日本ハムファイターズ戦であった)。2015年・2016年の対戦相手だった福岡ソフトバンクホークスはビジター用ユニホームがマリーンズのそれと同じ配色だった為、ホーム用ユニホームでプレイしている。
- 2018年7月7日 - 9月2日にかけてのホーム7試合・ビジター6試合で「MAKUHARI SUMMER STADIUM」企画の一環としてサマーユニフォームを着用。オーストラリアのサーフブランド・ビラボン(en)によるパンダナスをモチーフとしたボタニタル柄をデザインした[104]。
球団旗の変遷
- 1950年 - 1970年 - 上から赤・白・青のトリコロールカラー、左端に☆を三つ。中央の白の部分に黒文字で「Orions」とロゴが染め抜かれた。その後も3回の球団名変更後もそのまま使用される。
- ちなみに、このトリコロールカラーは当時の親会社・毎日新聞社のグループ企業にも波及しており毎日放送やスポーツニッポン新聞社の社旗にも採用されている(但し、両社とも上部は赤ではなく濃い橙色)。
- 1971年 - 1991年 - ロッテが正式な親会社となるが、球団名は変わらなかった。おおまかなデザインはそのままだが中央の「Orions」の左に赤文字で「LOTTE」のロゴが入る。
- 1992年 - 1994年 - 球団名が千葉ロッテマリーンズとなる。白地にマリーンズのロゴ(MARINESが筆記体で描かれており、その下にCHIBA・LOTTEの文字)、そして下の部分は当時のユニフォームの基調の色にも採用された「サンライズピンク」と「カレントブルー」のツートンライン。「千葉沖の海流のぶつかり合い」をイメージ。
- 1995年 - 現在 - シルバーを地色に、上に黒文字で小さく「CHIBA LOTTE」、その下に大きく「Marines」ロゴ。右斜め上に球団のマスコットにも使われているカモメを1羽。
マリーンズファンと応援スタイル
スポンサー
- ユニフォーム右袖 LOTTE(1992年度 - ホーム用ユニ、マリンフェスタ用ユニ(2015年度 - )に付く。ビジター用ユニは2013年度まで)
- ユニフォーム右胸 Gungho(2017年度 - )
- パンツ右側 フクダ電子(2018年度 - )
- ヘルメット右側 クレバリーホーム
- キャップ左側 住宅情報館(2016年度 - )
歴代本拠地
- 1950年 - 1962年 後楽園球場 ※1
- 1962年 - 1972年 東京スタジアム ※1
- 1973年 - 1977年 宮城球場 ※2
- 1978年 - 1991年 川崎球場
- 1992年 - 千葉マリンスタジアム ※3
- ※1 1962年5月まで後楽園を使用、同年6月より東京スタジアムへ移転。
- ※2 東京スタジアムの閉鎖に伴う暫定処置。1973年シーズンは地域保護権を東京都に置き、宮城球場と首都圏の他球団本拠地などで主催公式戦を行った(このため名目上の専用球場としての届け出はこの年できなかった)。同年12月21日の実行委員会で翌1974年から暫定的に保護地域を宮城県に移転することが決まり、1974年から1977年の間は同県を保護地域とした。しかし球団事務所は従来と同じく東京都に置き、試合の開催方法も1973年とほぼ同様だった。
- ※3 呼称は2011年3月から2016年11月までは「QVCマリンフィールド」、2016年12月からは「ZOZOマリンスタジアム」
- なお、埼玉県さいたま市南区には二軍本拠地としてロッテ浦和球場が存在する。
歴代監督
- 1950年 - 1952年 : 湯浅禎夫(登録上は総監督)[※ 1]
- 1953年 : 若林忠志(登録上は1950年 - 1952年も監督[※ 2])
- 1954年 - 1959年 : 別当薫[※ 3]
- 1960年 : 西本幸雄
- 1961年 - 1962年 : 宇野光雄
- 1963年 - 1965年 : 本堂保次 [※ 4]
- 1966年 : 田丸仁
- 1967年 : 戸倉勝城
- 1967年 - 1971年 : 濃人渉 [※ 5]
- 1971年 - 1972年 : 大沢啓二
- 1973年 - 1978年 : 金田正一(第1次) [※ 6]
- 1979年 - 1981年 : 山内一弘
- 1982年 - 1983年 : 山本一義
- 1984年 - 1986年 : 稲尾和久
- 1987年 - 1989年 : 有藤通世
- 1990年 - 1991年 : 金田正一(第2次) [※ 7]
- 1992年 - 1994年 : 八木沢荘六 [※ 8][※ 9]
- 1995年 : ボビー・バレンタイン(第1次)
- 1996年 : 江尻亮
- 1997年 - 1998年 : 近藤昭仁
- 1999年 - 2003年 : 山本功児
- 2004年 - 2009年 : ボビー・バレンタイン(第2次)[※ 10]
- 2010年 - 2012年: 西村徳文[※ 11]
- 2013年 - 2017年: 伊東勤
- 2018年 - : 井口資仁
※太字は優勝達成監督
- ^ 1952年は7月27日まで指揮、残り試合は別当薫が代行。
- ^ 実際の指揮は総監督の湯浅が執っており、公式記録上も湯浅が監督として扱われている。1952年は7月27日までで辞任。
- ^ ここから毎日大映オリオンズ
- ^ ここから東京オリオンズ
- ^ ここからロッテオリオンズ
- ^ 1975年は4月22日まで指揮、5月6日に復帰するまでは高木公男が代行。
- ^ 1990年は6月23日まで指揮、7月27日に復帰するまでは徳武定之が代行。
- ^ ここから千葉ロッテマリーンズ
- ^ 1994年は7月31日まで指揮、残り試合は中西太が代行。
- ^ レギュラーシーズン2位からプレーオフを制してパリーグ1位
- ^ 優勝は達成無し、クライマックスシリーズを制して日本一を達成。
永久欠番
- 26 マリーンズファン(2005年 - )- 千葉ロッテマリーンズは2005年度以降、背番号26を東北楽天ゴールデンイーグルスの10番同様にファンのための欠番としている(ベンチ入り25人に次ぐ「26番目の戦士」の意)。最後に26を付けた選手は酒井泰志(2003年 - 2004年)。試合中はダッグアウトの壁に、個人ネーム無しの背番号26ユニフォームがハンガーで掛けられており、試合に勝った時には、ヒーローインタビューを受けた選手が、ファンへの感謝を込めてそのユニフォームをファンの前に掲げる(マスコットのマーくんが掲げることもある)。2006年からはこれにちなみ、ファンクラブ制度を大幅にリニューアル、TEAM26と命名する。
- 準永久欠番
- 8 有藤道世(1987年 - 1991年)- 現役引退後欠番となっていたが、1992年の千葉移転後、マックス・ベナブルが付けたことで永久欠番ではなくなる。後に平野謙(1994年 - 1996年)、清水将海(1997年 - 2002年)、波留敏夫(2003年 - 2004年)、今江敏晃(2005年 - 2015年)が付けていた。2017年からは中村奨吾が付けている。
主な歴代の球団歌・応援歌
- 戦う男達のテーマ(1960)
- わがオリオンズ(毎日球団の歌)
- われらロッテ親衛隊
- ビバ!オリオンズ!
- We Love Marines
- マリンに集う我ら
- 2010年に作られ、当時の千葉マリンスタジアムでの試合開始前に流れていたが、2011年3月に球場名がQVCマリンフィールドに変わったため使われることが少なくなっている。
- マリンフィールドの風
- 千葉、心つなげよう
- ONE HEART MARINES
主なキャンプ地
- 鹿児島市県立鴨池球場ほか(1972年 - 1995年、1997年 - 2007年)
- アメリカ合衆国・アリゾナ州ピオリア(1995年 - 1998年)
- オーストラリア・ジーロング(2006年 - 2007年)
- 沖縄県石垣市石垣市営球場(2008年 - 、春季キャンプ)
- 千葉県鴨川市鴨川市営球場(秋季キャンプ)
- 鹿児島県薩摩川内市総合運動公園(二軍春季キャンプ)
主なトピック
最長試合
1969年10月10日、日本生命球場での近鉄バファローズ戦のダブルヘッダー第2試合は試合時間が5時間15分(4-4のまま決着付かず延長13回、当時の規則に基づき時間切れ引き分け)となり、当時の最長試合時間となった。5時間超えは当時の日本プロ野球史上初の出来事でもあった。
その後、この日本最長記録は更新(全てセントラル・リーグ、またはセ・パ交流戦)されているが、2009年7月2日、西武ドームでの埼玉西武ライオンズ戦では、セ・パ交流戦を除いたパ・リーグの公式戦では当時歴代最長となる延長12回、5時間42分を戦い9-8で勝利した。
また、ポストシーズンでは1981年のプレーオフ、川崎球場での日本ハムファイターズとの第1戦では9回の最長試合時間記録である5時間17分を戦い4-4の引き分けに終わった。2010年の日本シリーズ、ナゴヤドームでの中日ドラゴンズとの第6戦では延長15回、5時間43分を戦い、2-2で引き分け、日本シリーズにおける歴代最長試合時間記録を35年ぶりに塗り替えている。
幻の合併計画
現在の千葉ロッテマリーンズの前身である毎日オリオンズは1949年に創設され、1957年に大映ユニオンズと合併し、その後経営権の移転や改称などを経て現在に至るが、同年以降、プロ野球再編に絡むなどして球団合併構想に巻き込まれたことが2度ある。
- 1973年、日拓との合併構想
1973年、ロッテオリオンズはジプシー時代最初のシーズンを終えた。一方、ロッテと同じく東京都を保護地域としていた東映フライヤーズはオーナー企業の経営難等により、同年2月7日に球団の経営権が東映から日拓ホームに譲渡され「日拓ホームフライヤーズ」に改称したが、同年もパ・リーグは観客動員の面では苦戦を強いられた(ただ同年、ロッテはパ史上最多の観客動員を記録している)うえ、プレーオフを制して日本シリーズに進出した南海ホークスも読売ジャイアンツ(巨人)の前に1勝4敗で散り、巨人のV9を許した。この当時の状況に、日拓のオーナー・西村昭孝はシーズン終了後「パ・リーグに将来性はない」と判断、日拓とロッテを合併し、さらに1リーグ制への移行を画策し始めた。
前述の通り、当時ロッテはジプシー生活を強いられていたため首都圏で常時主催試合を開催できる環境を求めていた。またロッテのオーナー・重光武雄も球団経営にあまり執心がないと憶測されたことから、合併調印は時間の問題といわれていた。さらには関西でも球団合併構想が取り沙汰され、「10球団1リーグ化へ」などと先走った報道もなされた。
しかし重光はこの合併を否定。結局、合併そのものもほどなく破談となり、球界に嫌気がさした西村は球団経営権を日本ハムに売却、事態は収束した(この一連の詳細はプロ野球再編問題 (1973年)を参照)。
- 2004年の球界再編問題
また2004年には、大阪近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併構想に端を発し、1リーグ制移行に加え、球団数が奇数となるためさらなる球団数削減が取り沙汰される再編問題が勃発した(詳細はプロ野球再編問題 (2004年)を参照)。
この過程でロッテは、当時親会社ダイエーの経営難から球団の維持が困難といわれていた福岡ダイエーホークスに合併を申し入れたことが判明。オーナー企業はロッテ、本拠地は福岡ドーム、二軍の本拠地に千葉マリンスタジアムとし、球団名は「福岡ロッテ・ホークス」とするなど、具体案についても報じられたが、結局実現には至らなかった。また、ロッテと西武ライオンズを合併して、「ロッテライオンズ」、東京ヤクルトスワローズと合併して「ロッテスワローズ」とする構想もあったが[注 32]、これも西武とヤクルトが単独での球団保有を表明したため実現しなかった。
結局同年オフ、ダイエーは産業再生機構の支援を受けて経営再建を図ることとなり、ホークスはソフトバンクに売却されて福岡ソフトバンクホークスとなった。
ロッテ本社は1971年から球団を保有しており(球団名のスポンサーとしては1969年から)、2012年現在パ・リーグの現存6球団の中では最も古くから経営権を所有している。
なお福岡移転問題はこれが最初ではなく、川崎球場時代の1984年に稲尾和久が監督に就任した際、平和台野球場への移転の実現を前提として就任を受諾したとされているが、このときも本拠地の移転は実現しなかった。
ライオンズとの遺恨
悪夢の18連敗
1998年、6月13日から7月8日までの19試合で、日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した。球団公式サイトのチームヒストリーでも「悪夢の18連敗」と記されている[105]。
試合日 | ビジター | スコア | ホーム | 備考 | 開催球場 | 勝敗 | 責任投手 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
6月12日 | オリックス | 1 - 2 | ロッテ | 千葉マリン | ○ | 黒木知宏 | |
6月13日 | オリックス | 6 - 4 | ロッテ | 千葉マリン | ● | 小宮山悟 | |
6月16日 | ロッテ | 8 - 12 | 近鉄 | 藤井寺 | ● | 竹清剛治 | |
6月17日 | ロッテ | 6 - 9 | 近鉄 | 藤井寺 | ● | 近藤芳久 | |
6月18日 | ロッテ | 5 - 7x | 近鉄 | 延長11回 | 藤井寺 | ● | 竹清剛治 |
6月19日 | ロッテ | 0 - 7 | 日本ハム | 東京ドーム | ● | 小宮山悟 | |
6月20日 | ロッテ | 2 - 3 | 日本ハム | 東京ドーム | ● | 黒木知宏 | |
6月21日 | ロッテ | 10 - 11x | 日本ハム | 東京ドーム | ● | 黒木知宏 | |
6月23日 | ロッテ | 0 - 4 | 西武 | 富山市民 | ● | 薮田安彦 | |
6月24日 | ロッテ | 5 - 6x | 西武 | 延長11回 | 富山市民 | ● | 竹清剛治 |
6月26日 | 近鉄 | 3 - 1 | ロッテ | 延長11回 | 千葉マリン | ● | 藤田宗一 |
6月27日 | 近鉄 | 3 - 1 | ロッテ | 千葉マリン | ● | 武藤潤一郎 | |
6月28日 | 近鉄 | 6 - 2 | ロッテ | 千葉マリン | ● | クロフォード | |
6月30日 | 西武 | 5 - 5 | ロッテ | 延長12回 | 福井県営 | △ | -- |
7月1日 | 西武 | 7 - 4 | ロッテ | 石川県立 | ● | 礒恒之 | |
7月3日 | ダイエー | 4 - 3 | ロッテ | 千葉マリン | ● | 小宮山悟 | |
7月4日 | ダイエー | 10 - 7 | ロッテ | 延長11回 | 千葉マリン | ● | 礒恒之 |
7月5日 | ダイエー | 10 - 3 | ロッテ | 千葉マリン | ● | クロフォード | |
7月7日 | ロッテ | 3 - 7x | オリックス | 延長12回 | GS神戸 | ● | 藤田宗一 |
7月8日 | ロッテ | 4 - 6 | オリックス | GS神戸 | ● | 薮田安彦 | |
7月9日 | ロッテ | 9 - 6 | オリックス | GS神戸 | ○ | 小宮山悟 |
1試合最多得点完封勝利試合
2005年の開幕2連戦、ロッテはこの年に新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルスを本拠地の千葉マリンに迎えて対戦した。
開幕戦となった3月26日の1回戦は1-3で敗れ楽天に球団初白星を献上。だが翌27日の2回戦はロッテが一方的にゲームを展開し、26-0で圧勝した。打っては楽天の6投手から24安打14四死球をマークし、とりわけ2回には10者連続得点を含んで一挙11点を挙げるなど終始攻撃の手を緩めず、守っては先発の渡辺俊介が相手打線を1安打1四球に抑え込んだ上、その許した走者をいずれも併殺で退け、結局打者27人で完封勝利を記録した。
26点差での完封勝利は1946年7月15日、富山県の高岡工業専門学校グラウンドでの公式戦で近畿グレートリングがゴールドスターを相手に同じく26-0で大勝して以来、完封試合では実に59年ぶりとなる日本プロ野球史上最多得点及び得点差のタイ記録で、2リーグ分立後初の快挙となった。また、1試合最多得点の球団記録も、毎日時代の1950年5月31日に対東急フライヤーズ戦で記録した23得点を55年ぶりに更新した。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
楽天 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
ロッテ | 2 | 11 | 1 | 0 | 1 | 4 | 0 | 7 | x | 26 |
韓国での公式戦開催構想
ロッテと福岡ダイエーホークス(当時)は日本プロ野球の東アジアでの市場拡大を視野に、2004年シーズン中から韓国と台湾での公式戦開催について検討を行ってきた。その結果、翌2005年シーズンの6月28日と29日の2日間、日本プロ野球史上2度目となる日本国外での公式戦として韓国での開催が決定。カードはロッテ主催の対ソフトバンク2連戦とし、釜山の社稷(サジク)野球場、ソウルの蚕室(チャムシル)総合運動場野球場で各1試合を開催する予定だった。しかし、首都のソウルでの試合が予定されていた蚕室野球場での開催が困難となり(韓国プロ野球のLGツインズと斗山ベアーズの2チームが本拠地として使う球場のため、全く空き日がない)、代替としてソウルの衛星都市である仁川の文鶴(ムナク)野球場での開催に変更したものの、当時の韓国プロ野球人気の低迷から採算が取れないと判断され、開催は断念せざるを得なくなった。
だが、この開催中止がきっかけとなり、同年夏に新たなファンサービス企画「360度全席自由席」が生まれることとなる(詳細は前述)。
1イニング最多記録を7つ樹立
ロッテは2009年6月11日の対広島東洋カープ4回戦(千葉マリン)で、6回裏に延べ20人の猛攻で15点を挙げ、チーム1イニングの攻撃に関する7つのプロ野球記録(チーム記録6、個人記録1)を樹立した(以下の太字は新記録及びタイ記録)。
1イニング12安打は史上2位タイで、最多記録に1本及ばなかったものの、打者2巡・1イニング打者20人はこれまでの18人を更新する新記録。1イニング15得点、1イニング15打点も、過去にセ・リーグで通算4回記録された13得点・13打点を上回った。打者3人目の井口資仁から15人目の里崎智也まで3四死球を挟んで記録した10打数連続安打は、通算3回目となる当時の最多連続タイ記録。加えて里崎の後にはチェイス・ランビンと今江敏晃も死球と失策で出塁し、過去の13者連続を更新する15者連続出塁の新記録(失策による出塁を含む参考記録)。さらにこの間、井口からランビンまで記録した14連続得点も、1992年7月26日にオリックス・ブルーウェーブが対福岡ダイエーホークス21回戦(GS神戸)で記録した12連続を17年ぶりに更新する新記録となった。
また、この回先頭の福浦和也は2打席目に代走を送られたが、続く大松尚逸は日本プロ野球史上初の1イニング3打席を記録した。だが2打席目で2点適時二塁打を放ったものの1打席目と3打席目では凡打に倒れ、試合後には「不思議な感じ。自分はアウトを2つ取られた。損したのか得したのか分からない」と苦笑いしていた。
結局ロッテの6回裏の攻撃は約48分にも及び、試合は23-2で圧勝。ロッテが挙げた23得点は、セ・パ交流戦開催1シーズン目の2005年6月12日に読売ジャイアンツが対西武ライオンズ6回戦(東京ドーム)で記録した19得点を更新するセ・パ交流戦最多得点の新記録となり、交流戦初の20得点以上をマークした。
ロッテは前日の6月10日、広島先発のコルビー・ルイスに苦しめられるなど11残塁13三振を喫する拙攻で完封負けを喫していただけに、試合後のボビー・バレンタイン監督は「昨日はラッキーな安打が出なくて苦労したのに、今日はそんな安打が何本も出たね」と満足そうだった。一方、大量失点を喫して敗れた広島のマーティ・ブラウン監督は「まるでラグビーだね」と怒りを通り越して呆れ返り「今日の勝者はマリーンズじゃない。むしろ、これだけ点差があっても応援し続けてくれた左翼席のカープファンこそが真の勝者だ」と悔しさをにじませていた。
球団ではこの記録達成を記念して、このイニングに出場した12人が当日使用していたバットを納めた「1イニング15得点記念モニュメント」を作成し、8月1日から千葉マリンスタジアムの内野スタンド2階Bゲート付近にて展示している。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
広島 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 |
ロッテ | 0 | 2 | 5 | 0 | 0 | 15 | 1 | 0 | x | 23 |
- ロッテ6回裏の攻撃(括弧内は得点数)
- 福浦 左前安打
- 大松 三飛
- 井口 中前安打
- 橋本将 右前安打 (1)
- サブロー 四球
- 里崎 中前安打 (1)
- ランビン 左前安打 (1)
- 今江 四球 (1)
- 早坂 死球 (1)
- 福浦 右前安打 (1)
- 大松 右二塁打 (2)
- 塀内 右前安打 (2)
- 橋本将 中前安打
- サブロー 中前安打 (1)
- 里崎 中前安打 (1)
- ランビン 死球
- 今江 遊ゴロ失策 (1)
- 田中雅 中犠飛 (1)
- 堀 中前安打 (1)
- 大松 右飛
1イニング最多連続打席安打
2010年6月7日の対東京ヤクルトスワローズ4回戦(明治神宮野球場)で、7回表に10者連続安打・連続得点の猛攻で10点を挙げ、前年のヤクルトなどが計8回記録した1イニング最多連続打席安打のプロ野球記録(9者連続)を更新した。
ロッテは1点ビハインドのこの回、一死無走者から里崎が四球を選んで出塁したのを皮切りに、南竜介の左前安打から連打攻勢がスタート。代打青野毅が中前安打で満塁とすると、西岡剛の遊撃と左翼の間に落ちる2点適時打で逆転に成功、ヤクルト先発の村中恭兵をKOした。さらに今江も安打で続き、井口の内野適時打で1点を追加。続けて金泰均が15号満塁、サブローも10号ソロと2者連続で本塁打を放ち、再び打順が回ったフアン・ムニスが二塁打で出塁すると、里崎も8号2ラン本塁打を放ち前年に続いて10連続得点を達成。そして南がこの回2本目の中前安打を放って10者連続安打の新記録を達成した。
青野の代打で送られた岡田幸文が三塁ゴロに倒れ、連続記録はストップ。岡田は試合後「すみません。知りませんでした」と平身低頭だった。同日、ロッテがこの記録を達成した直後にはオリックス・バファローズが対広島東洋カープ4回戦(福山市民球場)の6回表に、やはり1イニング10者連続安打のタイ記録を達成しており、両チームがまとめて従来の記録を更新したことになる。試合は結局14-2で大勝。西村徳文監督は試合後「同じ日に同じ事をやるとは思わなかった」と驚嘆しつつも、報道陣の「もう1本続いていれば単独新記録だった」という問いに対しては「そんな贅沢は言ってられない。よく繋いでくれた」と笑顔を見せ、快挙を達成したナインを讃えた。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 計 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ロッテ | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 10 | 3 | 0 | 14 |
ヤクルト | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 |
- ロッテ7回表の攻撃(括弧内は得点数)
- ムニス 投ゴロ
- 里崎 四球
- 南 左前安打
- 青野 中前安打
- 西岡 左前安打 (2)
- 今江 中前安打
- 井口 三塁安打 (1)
- 金泰均 左本塁打 (4)
- サブロー 左本塁打 (1)
- ムニス 左中間二塁打
- 里崎 右中間本塁打 (2)
- 南 中前安打
- 岡田 三ゴロ
- 西岡 遊飛
1イニング10打数以上の連続安打を2度記録したのは、前述のヤクルトに次いでロッテが史上2チーム目。ヤクルトが1度目に達成したのは1998年4月22日の対中日ドラゴンズ戦でのもので、2年連続での達成は史上初のケースである。さらにロッテが1イニング10連続以上の得点を記録したのは前述の2005年の楽天戦(10連続)、2009年の広島戦(14連続・プロ野球記録)に次いで、これが通算3度目。2桁連続得点は阪神タイガースが通算5度と最も多く、ロッテは中日と並んで2位タイ、パ・リーグではオリックスの2度を抜いてリーグ最多である。
加えてこの日開催されたセ・パ交流戦の6試合で、パ・リーグ6球団が挙げた総得点は55得点(オリックス21、ロッテ14、日本ハム13、西武4、ソフトバンク3、楽天0)で、1日あたりのリーグ総得点の新記録も更新している。
鬼門の仙台
ロッテは宮城県仙台市の宮城球場での公式戦において、10連敗以上を2回記録している。同球場を暫定的に本拠地としていた1973年から1977年にかけての5シーズンでは2桁連敗の経験はなかったが、首都圏に本拠地を再移転してからはこれを2度喫している。
1度目は1991年から1994年にかけ、ロッテ主催の地方開催試合で足掛け4シーズンにわたって喫した12連敗。2度目は2009年7月9日から2010年9月19日にかけ、足掛け2シーズンにわたって喫した16連敗。宮城球場は2005年から東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地となっており、後者の連敗はいずれも対楽天戦でのものである。ロッテはこの間、同カードのビジター戦では2010年4月21日に郡山総合運動場開成山野球場で開催された同5回戦に6-0で勝利したのみで、仙台では全敗を喫していた[注 33]。9月20日の同22回戦、延長12回の末に9-7で勝利して連敗を16で止めると、翌9月21日の同23回戦は12-2で大勝して同年シーズンの仙台での試合を終えたものの、結局このカードのビジター戦は2年連続で3勝9敗と大きく負け越した。
なお、同一球場・同一カードの最多連敗記録は、1954年から1956年にかけ、大映スターズが後楽園球場での対南海ホークス戦で記録した21連敗である。
平日デーゲーム
平日のデーゲーム開催は、ナイター設備がなかった時代の1950年代までは頻繁に、それ以後も少なくとも1980年代まではリーグ順位決定後の消化試合やポストシーズンを中心に行われていた。その後はナイター設備がない球場で開催する場合を除き、デーゲームで行うことはほとんどなかったが、2011年の東日本大震災発生時には、当初予定のナイターを、省エネ対策のため13時開始のデーゲーム[106]に繰り上げたことがあった[注 34]。
その3年後の2014年、今度は春休みのファンサービスの目的として、予め組まれた日程では千葉移転後初[注 35]となる平日デーゲームを4月2日と4月3日の対西武戦で実施した。3日の試合は雨天のため中止となり、平日デーゲームは1試合だけだったが、それでも2013年最初の平日ナイトゲームとなった同4月3日に行われた日本ハム戦の9666人を上回る16,029人のファンを集め好評を得た。このため、2015年度最初の地元主管試合となる4月1日と4月2日の日本ハム戦を14時開始のデーゲームとすることになった[107]。
このように、平日デーゲームを春休みに予め開催する事例は、楽天も2007年以後、年度により非開催(2011年は当初予定も震災による日程延期と、Kスタ宮城の損傷により取りやめ)があったが、毎年1カード(2試合程度)行っている[注 36]。なお、ロッテ・楽天以外にも、同じく東日本に本拠地を置く日本ハムと西武も後に平日デーゲームを開催するようになった[注 37]。
50年目で初の黒字決算
球団の親会社であるロッテは当初業務提携という形であったが1969年より球団経営に参画した(詳細は前述)。だが、長らくパ・リーグ自体が不人気で(詳細はパシフィック・リーグの項目を参照)毎年赤字決算が続いていた[注 38]ものの、2000年代に入り、地域密着に注力してファンを増やし観客動員が伸びたほか、グッズの売り上げの貢献や、球団が千葉マリンスタジアムの指定管理者となったことで球場内での飲食などでも収益を得られるようになったため収支が大幅に改善し、球団名が「ロッテ」となってから50年目となる2018年度の決算で初の黒字化を果たした。観客動員、グッズ、飲食など全てで最高益を更新し、2018年度の黒字額は7億円近いとみられている[108]。
放送
テレビ・ラジオ中継
テレビ中継は全てハイビジョン制作
- CTCマリーンズナイター(チバテレ):千葉マリンスタジアムビジョンの公式映像(解説・実況はチバテレ制作)
- J SPORTS STADIUM(J SPORTS):球団の公式映像(解説・実況はJ SPORTS制作。かつては千葉マリンスタジアムビジョン制作協力。現在はExpress制作協力)2012年で終了
- FOXスポーツジャパン(fox bs238・FOXチャンネル):球団公式映像。2013年から2014年まで
- BS12 プロ野球中継(TwellV):2008年シーズンからTwellVでマリーンズ主催試合(公式戦)の内およそ60試合をハイビジョンで生中継。(チバテレ、J SPORTSと同じ千葉マリンスタジアムビジョンの公式映像。解説・実況は球団制作で、後述の動画中継と同じもの)
- スーパーベースボール(テレビ朝日・BS朝日):年度により放送の有無あり。BS朝日の中継についてはCTCマリーンズナイターの同時中継(2007年まで)、2008年からは上記のTwellVでも使われる球団制作の中継を放送。ただし対巨人の交流戦では実況・解説・テロップと一部映像を自社で差し替える。
- SAMURAI BASEBALL(TBSテレビ・BS-TBS・TBSニュースバード):地上波とBS-TBSは実況・解説・テロップは自社で用意するが、映像は公式映像も利用するため、制作クレジットは球団とTBSの連名。2015年から2017年まではTBSニュースバードで後述の動画中継と同じ球団公式映像(スコアテロップはTBSに準拠したデザイン)により主催全試合を中継[109]。
- 野球道(フジテレビ・BSフジ):年度により放送の有無あり。実況・解説・テロップは自社で用意するが、映像は公式映像も利用する。
- ベースボールLive(テレビ東京・BSジャパン):年度により放送の有無あり。実況・解説は自社で用意するが、映像と一部テロップは公式映像も利用する。
- NHKプロ野球(NHK総合テレビ・BS1):BS1の中継のみ千葉マリンスタジアムビジョンの公式映像を利用する。
- ラジオ日本マリーンズナイター(RFラジオ日本 なお同局は読売新聞グループの一員であり「ラジオ日本ジャイアンツナイター」を放送していることにも見られるように、通常は読売ジャイアンツ戦が主である。対広島戦デーゲームでは中国放送「RCCカープデーゲーム中継」への制作協力を実施)
- 文化放送ライオンズナイター(文化放送):俳優・かわのをとやをマリーンズ専任リポーターとして起用
- Fun!BASEBALL!!(日本テレビ・BS日テレ・日テレNEWS24・日テレジータス):2018年シーズンから日テレNEWS24により主催試合を中継[注 39]。BS日テレでも数試合をBS12トゥエルビ・後述の動画中継同様球団制作で放送する[注 40]。また交流戦のロッテ主催巨人戦では、日テレNEWS24と日テレジータスと並列で生放送する際、前者は球団制作のものをそのまま放送し、後者は日本テレビが別に自社のアナウンサーと解説者を用意して、巨人側の視点を中心とした内容で放送する。
- 東京球場・ジプシー・川崎球場時代
- CTCダイナミックナイター(千葉テレビ。東京球場時代。1971年5月1日開局の事実上第1号番組は東京球場でのロッテ対東映戦のデーゲーム生放送だった)
- TVKハイアップ・ナイター(パ・リーグナイター)(テレビ神奈川。宮城を主戦場としたジプシー時代と川崎球場時代)[注 41]
- TVSヒットナイター(テレビ埼玉。川崎を本拠とした時代に年間数試合放送[注 42])
- TBCダイナミックナイター(東北放送ラジオ。ジプシー時代、及び川崎球場を本拠としたあとも準本拠として使用していた時代)
インターネット中継
パシフィック・リーグはセントラル・リーグの球団と比べテレビや大新聞への露出が少ないためか、インターネットへの情報掲載や動画配信が非常に盛んであり、IT系の資本である福岡ソフトバンクホークスや東北楽天ゴールデンイーグルスはもちろん、北海道日本ハムファイターズも2006年シーズンからインターネット配信へ参入。それなりの通信品質でインターネットの接続環境を確保できればファンは地球の裏側からでも生中継感覚で試合観戦ができる状況になっている。
各球団がさまざまな形で主催試合をインターネット配信している中、千葉ロッテマリーンズは2005シーズンの佳境でパソコンテレビGyaO(ギャオ)を通して主催試合をインターネット配信し大きな反響を得た(なお、GyaOでの放送は、日本国外からは視聴不能)。その施策を一歩進める形で2006年5月1日にはインターネット放送局「marines.tv」を開局した。
「marines.tv」は、千葉ロッテマリーンズのネット動画配信におけるポータルサイトとしての性格が強く、6種類のコンテンツをテレビのチャンネルになぞらえてインターネット配信している。
中でも「マリンスタジアムでの主催試合55試合を完全生中継」する1ch「Game Live!」はGyaOの「Boom up! BASEBALL 千葉ロッテマリーンズLIVE 2006」とリンクした目玉コンテンツである。
2006年シーズンは「marines.tv」が開局する直前の4月7日、東北楽天ゴールデンイーグルス戦からGyaOで無料でライブ配信されており、「marines.tv」開局後は「marines.tv」の1chとしてポータルサイトからリンクされるようになった。また、NTT東日本のインターネット接続サービス「フレッツ」利用者専用のサイト「フレッツ・スクウェア」においても「千葉ロッテマリーンズ on フレッツ」と銘打った動画コンテンツの配信を実施しており、複数のコンテンツをNTT東日本地域のフレッツ利用者向けに配信していた。
2007年シーズンはGyaOからYahoo!動画に移り無料ライブ配信を行っている(専用のビュアーが必要)。フレッツ配信は終了。
2015年からCS放送の配信先がTBSテレビ運営のTBSニュースバードに変更されたが、TBSは基本的に制作には関与せず、球団主導型の製作は引き続き維持されている(ただし、スコアテロップのフォントについては、TBSテレビ地上波・BSの中継に準拠したものである)。
いずれもコンテンツの詳細については外部リンクの項を参照のこと。
ロッテレビ
J:COM 千葉セントラル制作により放送されている千葉ロッテマリーンズの情報番組。千葉県内のJ:COMグループのケーブルテレビ局のJ:COMチャンネル(コミュニティチャンネル)で放送されている。
千葉へ移転した1992年に番組がスタート。正式な番組名は「ロッテレビ〜マリーンズフリークス〜」。タイトルの由来は、“マリーンズ一筋”“マリーンズ命”などの意味から生まれた「マリーンズ狂」を示す。
番組のコンセプト・モットーは、マリーンズファンとチーム・選手の架け橋。選手の素顔や人柄を紹介する「ロングインタビュー」や「マークンファミリーの取材」「球団主催行事取材」など、試合中継で見ることができないマリーンズの魅力を紹介している。またゲーム観戦等でスタジアムを訪れるファンから選手へ質問してもらうコーナーなどもある。リポーターは黒木宏子(愛称:クッキー)。
マリーンズ・ベースボール・アカデミー
2010年4月10日からTwellVにて放映されている、少年野球向けテレビ講座。これまでも「プロ野球チームによる野球講座」を映像ソフトとして制作・発売している球団は存在したが、テレビ放送として行なうのは日本球界では初の試み(ただし、同年4月4日からフジテレビジョンにて東京ヤクルトスワローズが制作協力にあたっている「スワローズキッズアカデミー」の放送を開始している)。ロッテ球団が千葉県内の少年野球選手を対象として行なっている野球教室「マリーンズ・アカデミー」で講師を務めている武藤一邦・高沢秀昭・園川一美・平井光親の他、現役のロッテ選手も登場を予定している[111]。司会進行は庄司こなつが担当している。
ミュージアム
毎日時代の当時からの記録が展示保存されている「マリーンズ・ミュージアム」を持つ。千葉マリンスタジアム#設備を参照。
関連書籍
- 宇佐美徹也『日本プロ野球記録大鑑』講談社、1993年。ISBN 4062061082。
- 井上章一『阪神タイガースの正体』太田出版、2001年。ISBN 4872335651。
- 永井良和、橋爪紳也『南海ホークスがあったころ 野球ファンとパ・リーグの文化史』紀伊國屋書店、2003年。ISBN 4314009470。
脚注
注釈
- ^ 2010年度はアジアシリーズの代替として、日韓クラブチャンピオンシップを開催。
- ^ 一部の資料[要出典]では「株式会社大映毎日球団」とする記述もある。
- ^ 毎日新聞社がオリオンズの経営から手を引いたのち、元毎日新聞社社長の小池唯夫がパ・リーグ会長を務めた時期がある。
- ^ 本塁打95本、被本塁打76本。
- ^ 球団の経営権利譲渡で、連盟登記の球団名やユニフォームなどを全て従来のままとしたケースはこれが初めてであり、類似のケースとしては2001年の横浜ベイスターズが挙げられる(球団をマルハからTBSに譲渡した時、連盟登記の球団名やユニフォームなどは全て従来のままとした)。
- ^ 他に有藤通世27本、江藤愼一25本、アルト・ロペス24本、山崎裕之21本。
- ^ 野球協約が制定される以前は、阪神電気鉄道が東京ジャイアンツの株式を、読売新聞社が大阪タイガースの株式を、互いに持ち合った事例がある。
- ^ このことは後年、フジテレビの番組『トリビアの泉』でも紹介された。
- ^ その後、1998年に現在の球団寮が竣工した。
- ^ プレーオフ第2ステージ勝利チームがリーグ優勝チームとされていた。
- ^ この年のアジアシリーズも初回大会であり、毎日時代のパ・リーグのリーグ戦、日本シリーズ、ロッテ時代のセ・パ交流戦、アジアシリーズと4つの初代王者の称号を手に入れたことになる。
- ^ 同一チームから2ケタ勝利投手が6人出たのは1956年と1963年の南海ホークス以来である。
- ^ パ・リーグでは1966年の東映対阪急戦以来41年ぶり2回目の出来事。
- ^ 開幕2連戦の引き分けはパ・リーグでは1974年のロッテ対阪急戦以来33年ぶり2回目の出来事となった。
- ^ 当時は前後期の首位同士のプレーオフの結果で優勝チームを決定しており、1973年のプレーオフに勝利した南海はシーズン3位扱いではなく、リーグ優勝扱いであった点が異なる。シーズン3位として日本シリーズに進出したのは2010年ロッテが初。
- ^ シーズンの通期勝率が2位以下で日本一となった例は1975年の阪急、1982年の西武、2005年のロッテがあるが、各当時のルールでは全てリーグ優勝の扱いとなっていた。
- ^ セ・リーグでは2007年の中日が2位から日本一となっている。
- ^ 本来は3月25日のKスタ宮城での楽天戦だった。
- ^ これまでの記録は1958年の435。
- ^ 同年は近鉄が27本、中西太(西鉄)31本、山内和弘(毎日)28本。
- ^ 巨人時代の登録名は本名の大村三郎。
- ^ アジアシリーズの振り替え大会。
- ^ 1年を通してレギュラーシーズン1位の状態で日本一。
- ^ 2010年のこと。
- ^ 因みに、消滅した9球団で全球団に負け越したシーズンの経験がある球団は、松竹ロビンス・大和軍・大阪近鉄バファローズ・高橋ユニオンズ・大映ユニオンズの5球団である。
- ^ 18時半開始はパ・リーグでは過去に西武ライオンズが1985年ごろまで実施。更にオリックスが阪急西宮球場本拠地最終年となった1990年の主催ナイターを18時半に全て開始した事例がある。セ・リーグではヤクルトが1989年まで神宮での試合を大学野球の都合もあり、通年で18時半開始としていた他、横浜ベイスターズも2009年の火曜日の一部の試合でテレビ中継(当時19時55分から21時48分にナイターを放送)の都合上18時半開始とした試合があった。
- ^ 平日のナイターで開始を15分ずれこませているのは、当初の18時開始では仕事終了後だと「試合開始に間に合わない」、18時30分開始では「帰宅時間が遅れる」という苦情が出たことや、駅からやや時間がかかるためでもある。
- ^ 2013年からはペナントレース期間中に球団のラッピング電車を独自に運行している[82][83][84][85]。
- ^ このときのユニホームデザインは、韓国・ロッテジャイアンツのユニホームにも応用された。
- ^ この年はヤクルト、ソフトバンク、西武、広島も交流戦を中心に過去のユニフォームを着用しており、復刻ユニフォームの当たり年である。
- ^ このデザインのユニフォームは2016年現在、NPB12球団で最も歴史の長い通常使用のユニフォームとなっており、また2014年で使用20シーズン目となり、1973年から1991年にかけて19シーズン使用されたユニフォームを上回り、球団史上最長使用のユニフォームともなっている。
- ^ 両計画とも、本拠地は千葉マリンスタジアムとすることを構想していた。
- ^ ロッテはこの他、東京ドームで開催された2010年4月20日の同4回戦でも2-8で敗れている。
- ^ なお同様例は巨人と西武(ドームを本拠としているため、天然光だけではボールが見えにくいなどにより開催が困難なため、主管開催の会場変更・開催日程の変更などが生じた)を除く他の在関東球団のホームスタジアムにおける主管試合でも行われた。
- ^ 震災前にも、消化試合の日程の関係で、ダブルヘッダーを含めたデーゲームとなった試合が数例ある。
- ^ 但し楽天の場合、仙台では春先でも夜間は冷えるため開幕当初の平日ナイターは極力避けたいという事情の方が大きい。なお、2015年はこれとは別に、コボスタ花火大会を行うため1試合だけ16時開始の試合を組んでいたが、試合が長引いたため花火大会は後日延期となった。また2016年度は開幕戦・3月25日のソフトバンク戦を16時、4月1日の西武戦を13時開始に設定した。
- ^ 日本ハムは現在は週末・休日は札幌ドームでの開催を優先していることもあり、地方開催のうち道内にある釧路・帯広・函館での主催試合は球場に照明設備がないこともあり平日デーゲームで開催している。また、西武もファンサービスで4月に平日デーゲームを実施するようになった。
- ^ そのため、親会社から毎年「広告宣伝費」名目で赤字を補填してもらっていた。ちなみにこの場合、プロ野球球団が社会の公器でもあることから、球団の赤字を補填する金額分は親会社としては非課税扱いとされている。
- ^ 編成上の都合により録画放送となり、生放送についてはスカチャンで迂回放送することがある。
- ^ かつて、日本テレビで解説者を務めた金田正一の監督就任により週末デーゲームを中心に中継を増加させ、時折全国中継も実施したが、千葉移転以後徐々に減少し、2010年代以降はビジター側地元系列局への技術協力による放送のみとなっていた。
- ^ 不定期。TVKが担当する大洋(DeNA)、ヤクルトの試合放送がない時に行っていたが、巨人主管試合との重複開催である場合、18時台と21時前からは日本テレビとのリレーナイターをしていたため、ネット局があればその時間は裏送りだった。
- ^ TVSは基本的に西武に絡む試合(西武主管はTBSビジョンとの提携で「TVSライオンズアワー」として放送)、または後楽園・東京ドームで行われた日本ハムの主管試合(東京ケーブルネットワークと提携)をメインとして編成したため、ロッテがビジター扱いとなる西武・日本ハム主管試合の中継で多数登場しているが、西武・日本ハムの試合中継がないか、どちらかがロッテとのビジターゲームとなり、かつTVKが大洋・ヤクルトの試合中継と重複して放送に空きがなかった時に、TVSが川崎球場や平和台球場などの地方球場に乗り込んで試合を放送した事例が何度かあった。
出典
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- ^ 但し、プレーオフ勝者をリーグ優勝としていた2005年に優勝はしており、優勝から最も長く遠ざかっているのはオリックス・バファローズ
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関連項目
- 千葉ロッテマリーンズ主催試合の地方球場一覧
- ロッテ・ジャイアンツ(韓国のプロ野球球団)
- 淑徳大学 - パートナーシップに関する包括協定を締結している。
- 千葉日報・千葉テレビ - 応援をしている地元マスコミ。
- スポーツニッポン - 毎日新聞社がかつてオーナー企業だった関係で、祝勝紙面を提供する。
- 千葉ロッテマリーンズの応援団
- 千葉商科大学 - サービス創造学部の公式サポーター企業
- アストロ球団 - 漫画作品。アストロ球場のフランチャイズ権(1年間)を賭けて、金田正一監督率いるロッテがアストロ球団と対戦。
- アストロ球団 (テレビドラマ) - 上記のテレビドラマ版。
- マリーンズマスク - 球団をモチーフとした覆面レスラー。千葉県を活動拠点とするKAIENTAI DOJOに所属している。
- 浦安鉄筋家族 - 梅星涙と梅星球道(涙の父)が応援する千葉ロッテマリーンズのトレンドが漫画に現れる。
- 弁当の呪い
外部リンク
- 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト
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- マーくん (@clm_markun) - X(旧Twitter)
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