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{{画像改訂依頼|ヘッダ画像|[[中日ドラゴンズ]]監督退任後 (2012年以降)|date=2022年4月|cat=野球選手}} |
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|存命人物の出典明記=2015年7月 |
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|参照方法=2015年7月 |
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{{Infobox baseball player |
{{Infobox baseball player |
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|選手名 = 落合 博満 |
| 選手名 = 落合 博満 |
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| 画像説明 = 中日監督時代([[2007年]]) |
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| 身長 = 178<ref name="profile">[https://npb.jp/bis/players/81183848.html 個人年度別成績 - 落合博満] 日本野球機構 2021年4月9日閲覧。</ref> |
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|身長 = 177 |
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|利き腕 = 右 |
| 利き腕 = 右 |
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|打席 = 右 |
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|守備位置 = [[一塁手]]、[[三塁手]]、[[二塁手]] |
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|プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1978}} |
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|ドラフト順位 = ドラフト3位 |
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|初出場 = 1979年5月29日 |
| 初出場 = 1979年5月29日 |
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|最終出場 = 1998年10月7日 |
| 最終出場 = 1998年10月7日 |
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|経歴 = |
| 経歴 = |
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* [[秋田県立秋田工業高等学校]] |
* [[秋田県立秋田工業高等学校]]{{R|profile}} |
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* [[東洋大学硬式野球部|東洋大学]] |
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* [[東芝府中 |
* [[東芝府中野球部|東芝府中]]{{R|profile}} |
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* [[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]] |
* [[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]](1979 - 1986) |
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* [[中日ドラゴンズ]] |
* [[中日ドラゴンズ]](1987 - 1993) |
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* [[読売ジャイアンツ]] |
* [[読売ジャイアンツ]](1994 - 1996) |
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* [[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]] |
* [[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]](1997 - 1998) |
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|経歴補足題 = 監督歴 |
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* 中日ドラゴンズ |
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|選出国 = 日本 |
| 選出国 = 日本 |
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|選出方法 = 競技者表彰 |
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'''落合 博満'''(おちあい ひろみつ、[[1953年]][[12月9日]] - )は、[[日本]]の元[[プロ野球選手]]([[内野手]]。右投右打)。{{by|2013年}}シーズンオフから2017年1月までは[[中日ドラゴンズ]]の[[ゼネラルマネージャー]](GM)。[[秋田県]][[南秋田郡]][[若美町]](現:[[男鹿市]])出身{{#tag:ref|若美町出身とする情報は、次の資料を参照<ref>『'98プロ野球12球団全選手百科名鑑』(『ホームラン』1998年3月号増刊。同31日、日本スポーツ出版社発行)P157</ref>。|group="注"}}。 |
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| name = 落合 博満 |
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'''落合 博満'''(おちあい ひろみつ、[[1953年]]〈[[昭和]]28年〉[[12月9日]] - )は、[[日本]]の元[[プロ野球選手]]([[内野手]]、右投右打{{R|profile}})・[[プロ野球監督|監督]]、[[野球解説者]]、[[タレント]]。 |
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[[秋田県]][[南秋田郡]][[潟西村]](現・[[男鹿市]])出身<ref>『'98プロ野球12球団全選手百科名鑑』(『ホームラン』1998年3月号増刊。同31日、日本スポーツ出版社発行)P157</ref>。血液型は[[ABO式血液型|O型]]<ref>{{Cite web ja |url=https://weblog.hochi.co.jp/.s/hiruma/2009/02/post-1027.html#:~:text=%E7%8E%8B%E8%B2%9E%E6%B2%BB%E3%81%AF%EF%BC%AF%E5%9E%8B,%E3%81%AB%E9%9B%86%E4%B8%AD%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E3%80%82 |title=蛭間豊章記者の「Baseball inside」 メジャー挑戦者はO型、B型ばかり(第454回) |website=ブログ報知 |date=2009-02-11 |accessdate=2021-01-21}}</ref>。 |
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選手時代は{{by|1979年}}から{{by|1998年}}にかけて[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]・[[中日ドラゴンズ]]・[[読売ジャイアンツ]](巨人)・[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]の計4球団に在籍した。ロッテ時代には史上4人目かつ[[日本野球機構|NPB]]史上唯一の'''3度の[[三冠 (野球)|三冠王]]'''を達成し、[[日本野球機構|NPB]]史上最高の右打者の1人とされる。また20世紀最後・昭和最後・右打者最後の三冠王達成者でもある。 |
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{{by|2004年}}から{{by|2011年}}まで中日の監督を務め、全ての年でAクラス入りを果たし、4度のリーグ優勝・1度の[[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]優勝を達成している。{{by|2013年}}シーズンオフから{{by|2017年}}1月までは中日の[[ゼネラルマネージャー]]を務めた。 |
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選手時代は{{by|1979年}}から{{by|1998年}}にかけて[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]、中日ドラゴンズ、[[読売ジャイアンツ]](巨人)、[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]に在籍し、[[日本プロ野球]]史上唯一となる3度の[[三冠 (野球)|三冠王]]を達成。{{by|2004年}}から{{by|2011年}}まで中日の監督として指揮を執り、すべての年でAクラス入りを果たし、4度のリーグ優勝、1度の日本一を達成。 |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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=== プロ入り前 === |
=== プロ入り前 === |
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男3人、女4人の7人兄弟の末っ子として[[秋田県]]に生まれる<ref name="落合p54">落合博満『なんと言われようとオレ流さ』講談社、1986年、p54</ref>。実家は和菓子屋で、幼少期より新聞で丸めたボールを棒で打つ野球に似た遊びをしていた。兄の影響で[[男鹿市立鵜木小学校|琴浜村立鵜木小学校]]4年生の時に地元の野球チームに入部する{{R|落合p54}}。憧れの選手は[[長嶋茂雄]]であった。小学校での学業成績は、図工を除いて常に上位に入っていた<ref>落合、1986年、p55</ref>。[[男鹿市立潟西中学校|琴浜村立潟西中学校]]では1年生から4番でエースだったが、大会ではいつも1、2回戦で敗退する弱小チームだった。しかし3年生の地区大会では決勝進出を果たし、準優勝に終わったものの、この試合で落合は90メートルを超える本塁打を打った<ref name="落合p57">落合、1986年、p57</ref>。 |
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[[1953年]]、秋田県南秋田郡[[若美町]](現:[[男鹿市]])にて7人兄弟の末っ子として生まれる。[[長嶋茂雄]]に憧れて野球を始め、小学生の頃は雑誌などに載っている長嶋のバッティングフォームをよく真似していた。中学・高校時代は、年間100本もの映画を観賞するほどの映画少年で、特に『[[マイ・フェア・レディ (映画)|マイ・フェア・レディ]]』は7回見に行き、劇中歌の歌詞(英語)を覚えたほどだった。若美町の後輩(一学年下)には[[船木千代美]]がいる(後に[[TDK硬式野球部|TDK]]の監督として[[第77回都市対抗野球大会|都市対抗野球]]で東北勢の初の優勝を果たす)。 |
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{{by|1969年}}、県内の幾多の野球名門校から入学の勧誘を受け、それこそ「野球で県内のどの高校にも行けた」レベルであった{{R|asahi20171231}}。だが卒業後は就職と決めていたことと、「選手をあまりいじらない」と聞いたことから、[[秋田県立秋田工業高等学校]]建築科に進学{{R|落合p57}}。野球部へ入部すると即座にレギュラーに抜擢され4番となったが、入部3か月で右肩を壊して投手を断念し、外野手へ転向した{{R|落合p57}}。その後、もともと練習嫌いだったことや上級生から毎日のように殴られるという[[体育会系]]の風習に嫌気が差し<ref>落合、1986年、p58</ref>、練習にはほとんど顔を出さなくなっていった。地元の横の繋がりからなる仲間意識の中で育った落合にとってこの上下関係は耐えがたいものであった{{R|asahi20171231}}。 |
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{{by|1969年}}、[[秋田県立秋田工業高等学校]]建築科に進学<ref name="ninomiya">[[二宮清純]]『プロ野球「衝撃の昭和史」』、文藝春秋、2012年、ISBN 9784166608812</ref>。体罰をも良しとする体育会系の風習が嫌いで、甲子園常連校ではなく無名の秋田工業を選択した。ところが予想に反して先輩による理不尽なしごきがあり、それに耐えかねて野球部を退部。野球部に在籍していた時期も、野球をしている時間よりも映画館にいる時間の方が長かった。しかし、投打共に落合ほどの実力を持った選手がいなかったため、試合が近づくと部員たちに説得され、復帰した。落合はほとんど練習をせずに、4番打者として試合に出場していた。高校時代は退部と復帰を通算7回繰り返している。野球の名門校ではないため野球選手のOBが少ないが、高校の後輩の[[川邉忠義]]とはそれぞれFA制度による移籍の影響で、巨人・日本ハムでチームメートになっている。 |
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しかしチーム一の実力選手であったため、大会の直前にはチームへ呼び戻されていた<ref>落合、1986年、p61</ref>。こうした「練習さぼり⇔大会前の復帰」という「入退部」を8回繰り返した{{R|落合p57}}。学校への通学にも嫌気が差してほとんど通わず、所謂「不登校」であった<ref name="asahi20171231">{{Cite web ja |title=高校は不登校、大学は中退…それでもプロに落合博満さん |url=https://www.asahi.com/articles/ASKD64J6VKD6UBUB00B.html |website=朝日新聞デジタル |date=2017-12-31 |access-date=2022-12-19 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220516125814/https://www.asahi.com/articles/ASKD64J6VKD6UBUB00B.html |archivedate=2022-05-16}}</ref>。その代わり秋田市[[南通 (秋田市)|南通]]の映画館へ、年に100本は映画を鑑賞するほど通いつめた。このため出席日数が足りず、高校3年間は毎年留年寸前だった<ref>落合、1986年、p60</ref>。昼間から学生服姿で映画館に入り浸っていたため、他の観客からは不審視されていたという。 |
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{{by|1972年}}、[[東洋大学]]に進学<ref name="ninomiya" />。しかし、先輩がタバコを手にしたら後輩がそれに素早く火をつける、などといった体育会系の慣習に納得できず、故障もしたことで、わずか半年で[[東洋大学硬式野球部|野球部]]を退部して大学も中退。秋田に帰った。その後、[[ボウリング]]場での[[アルバイト]]をきっかけにボウリングに目覚め、プロボウラーを志すようになる。ところがプロテスト受験の際に[[最高速度#速度超過|スピード違反]]で捕まり、反則金を支払ったことで受験料が払えず受験できなくなってしまい、これも挫折した。 |
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不登校の間も全く練習しなかったわけではなく、当時木製であった電柱をバットで叩く、山の中で素振りをするなどの自主トレーニングをしていた。叩くことで電柱に穴が開いて電気が消えることも多かったため、近所から頻繁に苦情を受けていた{{R|asahi20171231}}。 |
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{{by|1974年}}、才能を惜しんだ高校時代の恩師の勧めもあって[[東芝|東京芝浦電気]]の[[東芝府中事業所|府中工場]]に[[期間工|臨時工]]として入社<ref name="ninomiya" />。同工場の[[社会人野球]]チーム・[[東芝府中硬式野球部|東芝府中]]に加わった。ここでの在籍5年間の公式戦で約70本塁打を放つなど頭角を現す。{{by|1976年}}には中心打者として、東芝府中を創部23年目で初の[[第47回都市対抗野球大会|都市対抗]]出場に導く。1回戦で[[デュプロ硬式野球部|デュプロ]]を降し初勝利をあげるが、愛媛相互銀行に完封を喫し敗退<ref>「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年</ref>。翌年以降も、都市対抗に[[日本通運硬式野球部|日本通運]]、[[NTT東日本硬式野球部|電電東京]]の補強選手として3年連続出場。{{by|1978年}}には、[[木田勇]]、[[森繁和]]らとともに第25回[[IBAFワールドカップ|アマチュア野球世界選手権]]日本代表に選出された<ref name="ninomiya" />。この頃の落合は、日中[[トランジスタラジオ]]の基板を組み立て、夕方から野球の練習をする、という生活を送っていた<ref>[[テリー伊藤]]『なぜ日本人は落合博満が嫌いか?』p142(2010年、角川書店)</ref>。 |
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高校卒業後は就職と決めていたが、3年生の10月に高校の先輩に勧められ[[東洋大学硬式野球部|東洋大学野球部]]のセレクションに参加し、そこで特大の本塁打を放ったことが評価されて合格<ref name="落合p63">落合、1986年、p63</ref>。スポーツ推薦で東洋大学への進学が決定することになった。いきなり背番号を与えられてポジションも内野手に決定し、高校卒業前の2月には合宿入りした。また、約20名の1年生の中から選抜された4名のメンバーに入って、野球部の松山キャンプにも参加した。ところが、その練習中に左大腿部の肉離れと足首の捻挫という怪我を負い、毎日の通院を余儀なくされる{{R|落合p63}}。 |
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[[1978年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1978年のドラフト会議]]で[[パシフィック・リーグ]]のロッテに3位指名されて入団。同年の誕生日で既に25歳という、当時としては非常に遅いプロ入りとなった(通算2000本安打達成者の中で最も遅いプロ入り)。落合をスカウトした[[城之内邦雄]]によると、指名理由は「[[球種 (野球)|変化球]]に強く、投手が苦手とするタイプの打者」という一点のみだった(城之内は投手としての視点から、落合の資質を見抜いていた<ref>岡邦行『プロ野球 これがドラフトだ!』、1989年11月30日、三一書房、ISBN 4380892492</ref>)。なお、巨人は落合をドラフト2位で指名する予定であったが、[[江川事件]]によりドラフト会議自体をボイコットしたため、指名は実現しなかった<ref name="ninomiya" />。 |
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そして、大学入学後も高校時代に続いて野球部の古い体質に直面する。先輩を立てるという風習や、学年が上というだけで先輩が後輩に威張り散らすことに対して「自分から自発的に野球をする意識が持てず、雑用を押し付けられて野球を嫌々やらされるだけ」と嫌気が差した<ref name="落合p64">落合、1986年、p64</ref>。こうして入部後すぐに野球部を退部し、大学も中退した{{R|落合p64}}。監督からは「復帰は2年生になってからでもいいから」と強い慰留を受けたが、それを振り切っての中退であった{{R|asahi20171231}}。 |
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大学中退後は秋田県に戻り、実兄が支配人をする[[ボウリング]]場で[[アルバイト]]をして生計を立てていた<ref>落合、1986年、p66</ref>。これをきっかけにボウリングに熱中し、プロボウラーを志した。しかしプロテスト受験の際に兄の車を運転中、初心者運転標識を貼り忘れたため警察に捕まり、罰金を支払ったことで受験料が払えなくなり受験できず、これも挫折してしまう。 |
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落合のボウリングの腕前は、日本初の女子プロボウラーである[[須田開代子]]のもとに、飛び切りうまい若者がいるとの噂が届くほどだったという<ref name="プロ野球三国志159">『プロ野球三国志』159頁</ref>。その傍らで地元の草野球チームに参加してプレーし、野球への熱意が再び高まるようになる<ref name="落合p67">落合、1986年、p67</ref>。20歳を目前にして、高校時代の恩師である野球部部長を訪ねて就職を相談したところ、社会人野球・東芝府中のセレクションの受験を勧められ、合格した{{R|落合p67}}。 |
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1974年1月、[[東芝|東京芝浦電気]]の[[東芝府中事業所|府中工場]]に[[期間工|臨時工]]として入社<ref name="落合p68">落合、1986年、p68</ref>。同工場の[[社会人野球]]チーム・[[東芝府中野球部|東芝府中]]に加入し、日中は[[トランジスタラジオ]]の基板を組み立て、夕方から野球の練習をするという生活を送っていた{{R|落合p68}}。入社2年目の1975年に4番に定着し、翌{{by|1976年}}に正社員となる{{R|プロ野球三国志159}}。この年、東芝府中は創部23年目で初の[[第47回都市対抗野球大会|都市対抗]]出場を果たす<ref>落合、1986年、p70</ref>。1回戦では[[デュプロ硬式野球部|デュプロ]]を下し初勝利を挙げ、2回戦では[[日本通運硬式野球部|日本通運]]から補強された[[村上之宏]]が先発するが、愛媛相互銀行に完封を喫し敗退した<ref>「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年</ref>。翌年以降も、都市対抗に日本通運・[[NTT東日本硬式野球部|電電東京]]の補強選手として3年連続で出場し、{{by|1978年}}には[[森繁和]]らとともに第25回[[IBAFワールドカップ|アマチュア野球世界選手権]]日本代表に選出<ref>落合、1986年、p71</ref>。在籍5年間の公式戦で通算70本塁打を記録した<ref>落合、1986年、p72</ref>。 |
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1977年のドラフト会議では、直前に阪神タイガースのスカウト・[[田丸仁]]から指名の可能性を伝えられたものの、実現しなかった<ref name="落合p74">落合、1986年、p74</ref><ref>{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/tigers/2018/12/15/0011907116.shtml |title=落合博満氏 阪神入りあった?「期待していた」幻のドラフト指名を明かす |website=デイリースポーツ online |date=2018-12-15 |accessdate=2022-06-08}}</ref>。翌[[1978年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1978年のドラフト会議]]にてロッテ・オリオンズから3位指名を受け、契約金2700万円、年俸360万円の条件で入団。落合をスカウトした[[城之内邦雄]]によると、指名理由は「[[球種 (野球)|変化球]]に強く、投手が苦手とするタイプの打者」という一点のみだった{{Efn2|城之内は投手としての視点から、落合の資質を見抜いていた<ref>岡邦行『プロ野球 これがドラフトだ!』、1989年11月30日、三一書房、ISBN 4380892492</ref>。}}。 |
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=== 現役時代 === |
=== 現役時代 === |
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==== ロッテ時代 ==== |
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{{by|1979年}}、プロ入り当時の監督・[[山内一弘]]はレベルスイングの本尊といえる人物で |
{{by|1979年}}、プロ入り当時の監督・[[山内一弘]]はレベルスイングの本尊といえる人物であり、アッパースイングだった落合のバッティングフォームの矯正に取り掛かった。「ホースで水を撒く感じで打て」などのアドバイスを貰ったものの、落合は後年「当時の自分には山内さんの高度な打撃理論が理解できなかった」と述べている通り、山内から教わった打法ではボールが前に飛ばない状況であったという。チームメイトのベテラン[[捕手]]・[[土肥健二]]の、手首を使ってボールをはじき返す「[[神主打法]]」のフォームを真似し<ref name="ochiai2">落合、1986年、p90</ref>、我流のフォーム改造を狙った{{Efn2|このことが落合が「オレ流」と呼ばれる所以である。}}。土肥や[[得津高宏]]、[[加藤秀司]]<ref>{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/tigers/2018/12/15/0011907118.shtml |title=落合博満氏 藤浪に苦言「もうちょっと野球を勉強した方がいい」 |website=デイリースポーツ online |publisher=株式会社デイリースポーツ |date=2018-12-15 |accessdate=2022-11-08}}</ref>などの先輩選手を参考に、自身のバッティングを作り上げていった<ref>落合、1986年、p92</ref>。 |
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{{by|1980年}}は、3月の大洋とのオープン戦で左足首を故障し前半戦を棒に振る<ref name="落合p77">落合、1986年、p77</ref>。5試合連続[[本塁打]]の[[イースタン・リーグ]]新記録を認められて、後半戦より一軍に昇格{{R|落合p77}}。[[井上洋一]]に代わり[[二塁手]]のレギュラーに定着し、54試合にスタメン出場した。シーズン終盤には[[三塁手]]に回り、同年は15本塁打を放つ。[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]との[[1980年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]にも出場した。 |
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入団当初、キャンプに来ていた評論家は口を揃えて落合のフォームを酷評し、特に前監督の[[金田正一]]は面と向かって落合の打撃を酷評した。落合はこの時の思いを「俺は社会人もやってプロ入りしたから何ともなかったが、もし高校出の若い選手が、あんな偉い人からプロに入っていきなり言われたら潰れるだろ」など、度々口にしている。この事は後に金田が会長を務めていた[[日本プロ野球名球会|名球会]]への入会拒否の一因となり、プロ入り2年目ごろには「将来、たとえ2000本安打とか打てたとしても、名球会には入らない」と断言した。同年4月17日の[[後楽園球場]]での[[イースタン・リーグ|イースタンリーグ]]・巨人戦では、二軍の試合としては異例ともいえる三万人以上の観客が[[江川卓_(野球)|江川]]目当てに集まり、相手先発・[[江川卓 (野球)|江川卓]]と対戦したが、初回に中堅越えの先制タイムリー二塁打、3回にも左前のタイムリーを記録。 |
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{{by|1981年}}は開幕から先発として起用され、6月末には4番に起用された。[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に初出場し、シーズンでも初めて[[規定打席]]に到達し、打率.326で[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]のタイトルを獲得した。[[有藤通世]]、[[レオン・リー]]・[[レロン・リー]]兄弟らと[[クリーンナップ]]を形成し、[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]との[[1981年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]では第4戦で本塁打を放った。オフには年俸1600万円で契約更改した<ref>{{Cite web ja |title=落合博満「努力とか大嫌いさ、あんなの」「1600万円しかもらってませんから」 ロッテ時代の強烈な《三冠王語録》の真意 |url=https://number.bunshun.jp/articles/-/850554 |website=Number Web |date=2021-11-08 |access-date=2022-12-19}}</ref>。 |
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{{by|1980年}}、5試合連続[[本塁打]]の[[イースタン・リーグ]]記録を作って後期に一軍に戻ると、57試合だけで15本塁打を放ち、レギュラーを掴む([[西武ライオンズ球場]]での[[ジュニアオールスターゲーム]]にもオールイースタン選抜で出場しオールウェスタンの高卒新人バッテリー[[牛島和彦]]・[[香川伸行]]からタイムリー記録)。同年の[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]との[[1980年のパシフィック・リーグプレーオフ|パシフィック・リーグプレーオフ]]に出場し、自身初のポストシーズンを体験した。 |
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{{by|1982年}}は年間通して打撃好調で、最終的に28歳で[[三冠 (野球)|三冠王]]を獲得したが、これは当時のNPB史上最年少記録であった{{Efn2|2022年にヤクルトの[[村上宗隆]]が22歳で三冠王を獲得し<ref>{{Cite web ja |url=https://hochi.news/articles/20221003-OHT1T51223.html?page=1 |title=【ヤクルト】村上宗隆が史上最年少22歳で3冠王に…令和初 最終戦で日本選手最多の56号も出た |website=スポーツ報知 |date=2022-10-03 |accessdate=2022-10-03}}</ref>、40年ぶりに記録を更新した。}}。チームがBクラスながら、[[最優秀選手 (日本プロ野球)|最優秀選手]]にも選ばれた<ref>{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/opinion-d/2022/07/25/0015500301.shtml |title=ヤクルト・村上宗隆 世界の王、イチローも超える“連続MVP”への期待 |website=デイリースポーツ |date=2022-07-25 |accessdate=2022-10-02}}</ref>。シーズンオフには年俸5400万円+タイトル料600万円で契約更改した<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0712/kiji/K20091201Z00002660.html 【12月16日】1982年(昭57) 落合博満、不文律破った!一気に237・5%増で判子ポン!]</ref>。また、落合は現役を通して一塁手を務めていることが多かったが、この年は主に二塁手として起用されていた<ref>{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/opinion-d/2022/05/30/0015345232.shtml |title=【野球】DeNA・牧には、オレ流・落合以来の二塁手・三冠王に挑戦してほしい |website=デイリースポーツ online |date=2022-05-30 |accessdate=2022-06-08}}</ref>。 |
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翌{{by|1981年}}には[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]に初出場を果たし、監督の[[西本幸雄]]に「これから先、10年・15年、日本プロ野球を背負う男だ」と認められ、[[スターティングメンバー|スタメン]]の4番打者で起用される。同年に初めて[[規定打席]]に到達すると、早くも[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]のタイトルを獲得した。[[有藤通世]]、[[レオン・リー]]、[[レロン・リー]]らと強力[[クリーンナップ]]を形成し、日本ハムとの[[1981年のパシフィック・リーグプレーオフ|パシフィック・リーグプレーオフ]]では第4戦に本塁打を放つなど、球団史上最後となる20世紀中のポストシーズンでの勝利に貢献した。 |
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{{by|1983年}}は正一塁手だった[[レオン・リー]]がトレードで放出され、落合は一塁手に定着。打率.332を残し、3年連続首位打者を獲得したが、球団は史上初の最下位に終わった。 |
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{{by|1982年}}、史上最年少(28歳で開幕を迎えたシーズン)で[[三冠 (野球)|三冠王]]に輝く。 |
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{{by|1984年}}は契約更改が越年し、キャンプイン前々日の1984年1月30日に年俸5940万円(前年から10%アップ)+タイトル料700万円で合意した<ref>スポーツニッポン_1984年1月31日</ref>。この年から監督に[[稲尾和久]]が就任し、野手陣の守備位置がコンバートされた。巨人から移籍の[[山本功児]]が一塁手に、[[有藤道世]]が[[三塁手]]から[[右翼手]]に回り、その後継として三塁手に起用される。 |
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{{by|1983年}}は打率.332を残し、3年連続首位打者を獲得した。 |
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{{by|1985年}}、打率.367、52本塁打、146打点の成績で2度目の三冠王を獲得した。打率.367は当時の右打者歴代最高打率、52本塁打は当時のパ・リーグ |
{{by|1985年}}、打率.367、52本塁打、146打点の成績で2度目の三冠王を獲得した。打率.367は当時の右打者歴代最高打率、52本塁打は当時のパ・リーグ記録、146打点は現在もパ・リーグ記録である。またこの年は日本記録となる[[打率|得点圏打率]].492(122打数60安打、16本塁打、98打点)もマークするなど記録ずくめの1年だった<ref>{{Cite web ja |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/07/29/kiji/K20140729008648030.html |title=筒香 シーズン得点圏打率4割なるか イチらと並ぶ最年少タイ23歳 |website=スポーツニッポン |date=2014-07-29 |accessdate=2014-07-29}}</ref>。またシーズン52本塁打は、2022年に[[村上宗隆]]が53本塁打を記録するまで、1963年に記録した[[野村克也]]と並び長らく日本人選手の最多タイ記録であった。同年は118得点で[[福本豊]]の、77[[長打]]で[[山内一弘]]の、出塁率.4806で[[大下弘]]の、長打率.7630で[[チャーリー・マニエル|マニエル]]の持っていたパ・リーグ記録をそれぞれ更新した{{Efn2|長打は{{by|1998年}}に[[フィル・クラーク (内野手)|クラーク]]が、得点は{{by|2000年}}に[[小笠原道大]]が更新}}。 |
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{{by|1986年}}、シーズン |
{{by|1986年}}、シーズン終盤まで[[ブーマー・ウェルズ]]や[[秋山幸二]]らとタイトル争いを繰り広げ、最終的に2年連続で'''自身3度目の三冠王を獲得した'''<ref>{{Cite web ja |url=https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/13f83165c87c9e1c07fb42086782e844cdf3b23e |title=落合博満のホームラン論その1「全打席でバックスクリーンだけを狙っていた」 |website=Yahoo!ニュース |date=2020-06-01 |accessdate=2021-10-15}}</ref>(打率.360、50本塁打、116打点)。ロッテの順位が4位に決まり、残り8試合は消化試合となっていた時点で50本塁打を放っていたが、ブーマーが打率.355と迫っていたことによる打率維持と若手に実戦経験を積ませるために、稲尾の判断で<ref>朝日新聞1986年10月16日19面</ref>その後はあまり打席に立たずにシーズンを終了した。これについて自伝では「翌年でも日本記録の55本塁打を狙えると思ったから」としている。2年連続の三冠王は日本プロ野球界において[[王貞治]](1973年 - 1974年)、[[ランディ・バース]](1985年 - 1986年)、落合の3選手のみで、通算3度獲得は落合のみである。また2年連続50本塁打はプロ野球史上初、出塁率.487は2023年終了時点でもでパ・リーグ記録となっている<ref>{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/baseball/2022/08/29/0015594523.shtml |title=ヤクルト・村上“落合超え”なるか 夢の出塁率5割も「今の状況なら」評論家の視点 |website=デイリースポーツ |date=2022-08-29 |accessdate=2022-09-16}}</ref>。10月8日の西武戦で[[小林晋]]三塁塁審の胸を2、3回突き自身初の退場処分となった<ref>{{Cite web ja |title=放棄試合も辞さず…中日・落合監督、「退場シーン」も“オレ流”だった!〈dot.〉 |url=https://dot.asahi.com/articles/-/100027 |website=AERA dot. |date=2018-09-23 |access-date=2022-12-19 |author=久保田龍雄}}</ref>。また、ロッテの日本人選手による本塁打王獲得はこの年の落合が最後となっている{{Efn2|外国人選手を含めたロッテ所属選手の本塁打王は、2023年に[[グレゴリー・ポランコ]]が落合以来37年ぶりに獲得している。}}。 |
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===== トレード騒動 ===== |
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シーズン終了後の10月24日、監督の[[稲尾和久]]は球団の「新しい人にバトンタッチしたい」との方針から「3年契約の切れるこの年限りとし、契約延長は行わない」と通告を受け、解任される。落合はこれに強い不満を持ち、11月4日に福岡市内で行われたファンクラブ主催の「落合選手を励ます会」にて、「稲尾さんがいないのなら、自分がロッテにいる理由はない」と発言した<ref>毎日新聞1986年11月5日19面「『来年はどこにいるか…』落合、球団に不満 励ます会で過激発言」毎日新聞縮刷版1986年11月p137</ref>。毎日新聞が11月5日付で落合のこの発言を報じると、落合は同日、平和台球場での日米親善野球の試合前、報道陣に対し発言の内容を認め「稲尾さんの処遇に関しては本当に腹を立てている」と述べ、球団に対し不信感をあらわにした<ref>毎日新聞1986年11月6日19面「落合帰京後に真意をただす 過激発言でロッテ」毎日新聞縮刷版1986年11月p173</ref><ref>{{Cite web ja |url=https://www.dailyshincho.jp/article/2021/11171700/?all=1 |title=落合博満、秋山幸二、糸井嘉男…世紀の“大型トレード”はこうして成立した! |website=新潮デイリー |date=2021-11-17 |accessdate=2022-08-17}}</ref>。 |
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これ以後、スポーツ新聞が連日にわたり「落合トレード」と書き立て、落合もマスコミに対しフロント批判の言動を繰り返すなど、大きな騒動に発展した。12月12日、球団社長の松井静郎が落合を球団事務所に呼んで話し合い、落合は「これまで新聞などを通じた発言には誤解もあっただろう。ナマの声を聞いてもらった」、松井も「これまで落合と球団フロントの間に誤解に基づくものや、連絡が不十分なものあった。そのひとつひとつを代表を読んで確認しあった。直接話し合って、意見の一致を見た」とそれぞれ語り、落合と球団は一旦和解した<ref>毎日新聞1986年12月13日17面「落合と球団 一応の和解 昼食はさみ4時間半会談」毎日新聞縮刷版1986年12月p457</ref>。 |
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しかし、12月23日に[[牛島和彦]]・[[上川誠二]]・[[平沼定晴]]・[[桑田茂]]の4選手との交換[[トレード]]で、中日への移籍が決定した<ref>毎日新聞1986年12月24日17面「落合急転ロッテ入り」毎日新聞縮刷版1986年12月p803</ref>。落合のトレードは前年(1985年)オフにも移籍交渉を行っていた巨人が早い段階から動いており、同球団オーナーの[[正力亨]]も「巨人は待っています」と発言していたが、1986年オフに中日の監督に就任した[[星野仙一]]が「(落合を)巨人に取られたら10年は優勝出来ない」と球団に強く働きかけたため、この大型トレードが実現した<ref>{{Cite web ja |title=「稲尾さんがいないロッテにいる意味がない」と落合博満 ロッテの衝撃トレード史【プロ野球はみだし録】 |url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20221213-10 |website=週刊ベースボールONLINE |date=2022-12-13 |access-date=2022-12-23}}</ref>。そして12月26日に移籍先の中日で契約更改に臨み、1億3千万円(推定)でサインし日本人選手初の1億円プレーヤーとなった<ref>毎日新聞1986年12月26日夕刊11面「落合OK 1億3000万円」毎日新聞縮刷版1986年12月 p893</ref>。 |
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==== メジャー挑戦構想 ==== |
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後に落合は自身のYouTubeチャンネルで、ロッテ時代にメジャーに挑戦する構想があったと明かしている。メジャー移籍へ動いた時期について「日本で3冠王獲ってからじゃないかな」と話しており、[[ボビー・マルカーノ]]に頼んで[[ウィンターリーグ]]に出場できるようパイプを作ってもらったが、そのパイプを作ってもらった後に球団に話を持ち掛けると、球団に「行くんであれば、日本の籍を抜かなきゃいけない」などの言い訳をされて実現しなかった。本人はもしメジャーに挑戦していれば失敗していただろうと断言している<ref>{{Cite web ja |title=落合博満氏、メジャー移籍へ動いたロッテ時代の秘話明かす 「成功したか」の問いに落合氏の答えは |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/04/11/kiji/20220410s00001173341000c.html |website=スポニチ Sponichi Annex |date=2022-04-11 |access-date=2022-12-19}}</ref>。 |
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==== 中日時代 ==== |
==== 中日時代 ==== |
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{{by|1987年}}、 |
{{by|1987年}}は、前半戦(オールスター前)終了時点で21本塁打を放つも、いつもは成績を伸ばす後半戦に7本塁打しか打てず、28本塁打に終わる。それでも[[篠塚和典|篠塚利夫]]や[[正田耕三]]らと首位打者争いを繰り広げ、最終的に首位と2厘差の打率.331を記録した<ref>{{Cite web ja |url=https://npb.jp/bis/yearly/centralleague_1987.html |title=年度別成績 1987年 セントラル・リーグ |website=NPB.jp 日本野球機構 |date= |accessdate=2018-07-30}}</ref>。 |
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{{by|1988年}}は32本塁打95打点(共にリーグ2位)勝利打点19、出塁率と長打率共にリーグ1位を記録するなどチームの優勝に貢献したが、打率は.293とレギュラー定着以降初めて3割を割った。[[1988年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では打点0 |
{{by|1988年}}は、32本塁打、95打点(共にリーグ2位)、勝利打点19、出塁率と長打率共にリーグ1位を記録するなどチームの優勝に貢献したが、打率は.293とレギュラー定着以降初めて3割を割った。6月1日から8月2日まで打順は不振で3番に降格、4番は[[ゲーリー・レーシッチ]]だった。[[埼玉西武ライオンズ|西武]]との[[1988年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では西武の投手陣に打点0に抑えられ、1勝4敗で敗退した。 |
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{{by|1989年}}は |
{{by|1989年}}は打率.321、40本塁打、116打点の成績を残して打点王を獲得。両リーグ打点王は史上初だった。[[ラリー・パリッシュ]]と最後まで熾烈な本塁打王争いを繰り広げたが、最終的に2本差でパリッシュにタイトルを奪われた。8月12日の巨人戦([[ナゴヤ球場]])では、9回一死までノーヒットノーランを続けていた[[斎藤雅樹]]から、逆転サヨナラ3点本塁打を放っている。6月11日の[[浜松球場|浜松]]での対広島戦では、7回裏無死一・二塁の場面で通算4個目、現役で最後となる犠打を決めている<ref>{{Citation |title=【落合博満という男】ウーやんが見た天才打者の素顔とは!? |url=https://www.youtube.com/watch?v=6wAf_n-u-V4 |publisher=YouTube |accessdate=2021-07-09}}</ref>。オフの契約更改後の記者会見で「165(いちろくご)」と、年俸1億6500万円で更改したことを公言している<ref>{{Cite web ja |title=批判の集まる中日・落合GM 思い返せば、落合“選手”の契約更改といえば… |url=https://baseballking.jp/ns/18048 |website=BASEBALL KING |date=2014-12-10 |access-date=2022-12-19}}</ref>。 |
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{{by|1990年}}シーズンは、前年に引き続き |
{{by|1990年}}シーズンは、前年に引き続きパリッシュとの本塁打王争いを繰り広げた。5月8日展阪神戦では、史上最速となる1257試合目で通算350本塁打に達すると{{Efn2|2011年に[[アレックス・カブレラ]]に更新されるまで最速記録だった<ref>{{Cite web ja |date=2011-05-14 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/05/14/kiji/K20110514000818080.html |title=カブレラ最速350号!落合の記録を88試合更新 |website=Sponichi Annex |publisher=スポーツニッポン新聞社 |accessdate=2018-01-25}}</ref>。}}、パリッシュが8月に28本塁打を放ったところで阪神を退団したため、結果的に落合が追い抜いて34本塁打、102打点で二冠を獲得した(両リーグ本塁打王は史上初だった)。最高出塁率も獲得し、セ・リーグ移籍後初となるタイトル三冠を手中にした。この年のオールスターゲーム第2戦([[平和台野球場|平和台球場]])では、鳴り物入りでプロ入りし、快進撃を続けていた近鉄の[[野茂英雄]]が投じた高めのストレートを狙い打ち、本塁打を放った。 |
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{{by|1991年}}2月、 |
{{by|1991年}}2月、契約更改で合意できず日本人選手として初めて年俸調停を申請した。落合の希望額は2億7000万円で、球団提示額は2億2000万円だったが、調停の結果、3月8日に2億2000万円で合意した<ref>{{Cite web ja |title=日本人選手で初めての年俸調停。落合博満、その真の目的とは/プロ野球20世紀・不屈の物語【1990~91年】 {{!}} 野球コラム |url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20201025-11 |website=週刊ベースボールONLINE |date=2020-10-25 |access-date=2022-12-19}}</ref>。同年は前半戦に肉離れを起こし、打撃三部門のトップに立った時点で1か月間戦線を離脱した。打率.340、37本塁打、91打点で本塁打王を獲得したが、打率は[[古田敦也]]に3毛差(古田.3398、落合.3395)<ref>{{Cite web ja |url=https://npb.jp/bis/yearly/centralleague_1991.html |title=年度別成績 1991年 セントラル・リーグ |website=NPB.jp 日本野球機構 |date= |accessdate=2018-07-30}}</ref>、打点は[[広澤克実|広沢克己]]に8打点差で及ばず、いずれもリーグ2位に終わった。古田のいるヤクルトとの最終戦では勝負を避けられ、1試合6四球の日本記録を樹立。オフに年俸3億円で契約更改した<ref>{{Cite web ja |title=気がつけば40年(31)1992年 西伊豆の落合道場に電撃入門したのは長嶋一茂だった |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2020/11/10/kiji/20201109s00001173369000c.html |website=スポニチ Sponichi Annex |date=2020-11-10 |access-date=2022-12-19}}</ref>。 |
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{{by|1992年}}、プロ野球選手会を脱退。同年 |
{{by|1992年}}、プロ野球選手会を脱退。同年に同姓の[[落合英二]]が入団したため、巨人移籍までの2年間は基本的にスコアボード表記は、英二を「落合英」、博満は「落合」と表記された。しかし、一時期の[[東京ドーム]]で博満が「落合博」となっていたことがある他、[[読売新聞]]など一部の活字メディアでは、博満に「落合博」を使用していた。同年は22本塁打、71打点の成績で1984年以来の獲得タイトルなしに終わり、球団12年ぶり・自身2度目の最下位に終わった。 |
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{{by|1993年}}、史上初の両リーグ200本塁打を達成。同年オフ、導入された |
{{by|1993年}}5月7日の横浜戦で、史上初の両リーグ200本塁打を達成。中日時代は5度サヨナラ打を放っている<ref>{{Cite web ja |title=「平成ナゴヤ球場の逆転劇」ドラゴンズ・サヨナラ男列伝! |url=https://hicbc.com/sports/dragons/article/?id=post-0-8&ref=fb |website=ドラの巻【昇竜復活へ!CBC中日ドラゴンズ情報】 |date=2019-03-07 |access-date=2022-12-19}}</ref>。同年オフ、導入された[[フリーエージェント (日本プロ野球)|フリーエージェント]](FA)行使について、球団に愛着があるため、当初は行使せず残留するつもりでいた。しかし、夫人が長男を公立小学校へ入学させるため、東京への移住を考えたことから、一転FA宣言。巨人と[[ダイエー]]が獲得に動くも、ダイエー監督の[[根本陸夫]]が[[長嶋茂雄]]が動くならと獲得を断念した為、巨人に移籍した<ref>{{Cite web ja |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/2011/12/21/post_101/ |title=【今日は何の日?】落合博満がFAで巨人に入団 |website=web Sportiva |date=2011-12-21 |accessdate=2012-02-02 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120202033804/https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/2011/12/21/post_101/ |archivedate=2012-02-02}}</ref>。契約は2年で年俸は球界最高の4億500万円だった<ref>{{Cite web ja |url=https://number.bunshun.jp/articles/-/860674?page=3 |title=「(落合さんの年俸)どうかと思う」原辰徳がまさかの苦言…落合博満“4億円超”に不満だった巨人ナイン「落合vs原」1994年オフの言い争い |website=Number Web |date=2024-02-18 |accessdate=2024-02-18}}</ref>。 |
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12月で40歳と高齢すぎたため、新しい同僚の誰からも歓迎されず、味方のはずの球界OB達からは猛烈な批判が巻き起こり、落合が表紙を飾る『週刊ベースボール』1993年12月20日号では、「40歳の四番打者に期待する巨人そのものに最も大きな病巣がある!!」という記事が掲載された。[[山崎裕之]]から「今年の落合の成績を見てもわかるように、とても4億円の値打ちのあるような選手じゃない」と評されたのを始めとして、特集記事で散々に酷評された。妻・信子の父親は巨人ファンで、生前実家に挨拶へ来た落合に対して、「駄目だ、駄目だ、巨人じゃなきゃ」と娘へのプロポーズを一度は断るほどだったという。長嶋監督、[[渡邉恒雄]]以外のフロント・首脳陣は猛反対であるにも拘らず2人は落合の巨人入りを強行させた<ref>『日本プロ野球トレード大鑑1936-2001』([[ベースボール・マガジン社]]、2001年2月20日発行)</ref>。だが却って、ほとんど誰からも歓迎されない移籍により、居心地の良い名古屋で甘やかされて消えかかっていた落合の反骨心に火が付いたという<ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/858987 球界OBが猛批判「残念ですね」「落合に3億円の値打ちない」張本勲もバッサリ…落合博満40歳のFA移籍、じつは巨人関係者もみんな“冷たかった”(1/3ページ)] Number Web 2023/09/24 11:04 (2023年9月27日閲覧)</ref><ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/858987?page=2 球界OBが猛批判「残念ですね」「落合に3億円の値打ちない」張本勲もバッサリ…落合博満40歳のFA移籍、じつは巨人関係者もみんな“冷たかった”(2/3ページ)] Number Web 2023/09/24 11:04 (2023年9月27日閲覧)</ref><ref>[https://number.bunshun.jp/articles/-/858987?page=3 球界OBが猛批判「残念ですね」「落合に3億円の値打ちない」張本勲もバッサリ…落合博満40歳のFA移籍、じつは巨人関係者もみんな“冷たかった”(3/3ページ)] Number Web 2023/09/24 11:04 (2023年9月27日閲覧)</ref>。 |
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==== 巨人時代 ==== |
==== 巨人時代 ==== |
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落合が在籍した{{by|1994年}} - {{by|1996年}}の3年間、[[長嶋茂雄]]率いるチームの2度(1994年、1996年)のリーグ優勝に4番として貢献した。 |
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落合が在籍した{{by|1994年}} - {{by|1996年}}の3年間、[[長嶋茂雄]]が率いるチームの2度(1994年、1996年)のリーグ優勝に4番打者として貢献した。1994年の優勝決定戦([[10.8決戦]])で足の内転筋を痛めて以降、落合は重要な下半身からじっくりとリハビリやトレーニングで磨きをかけた。その結果、年齢的な衰えよりも落合自身の打撃技術の卓越さが際立つ成果が表れ、{{by|1995年}}のシーズンは打率.311、17本塁打、65打点という成績でリーグ4位の高打率をマークした。同年4月に2000本安打も達成したが、先述のような経緯もあり、[[日本プロ野球名球会|名球会]]入りを拒否した<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09april/KFullNormal20090401166.html 1995年 名球会目指してきたわけじゃない 落合博満、資格獲得も入会辞退] スポニチ 日めくりプロ野球2009年4月</ref>。41歳4か月での2000本安打達成は自身がロッテ時代その打撃技術に一目置いていた[[新井宏昌]]の40歳2か月を抜き、当時の日本プロ野球史上最年長記録となった(その後、2012年5月に[[宮本慎也]]が41歳5か月で記録して更新)。 |
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1994年は左脇腹や左手手首に死球を受けて不調に苦しみながら、10月2日対ヤクルト戦で[[山田勉 (投手)|山田勉]]から決勝本塁打<ref>{{Cite web ja |title=1994年の落合博満 ガッツポーズをしない男がガッツポーズをした瞬間 |url=https://bunshun.jp/articles/-/47073 |website=文春オンライン |date=2021-07-15 |access-date=2022-12-19 |first=柳 |last=賢}}</ref>、[[10.8決戦]]で[[今中慎二]]から先制本塁打を放って優勝に貢献した<ref>[https://tvtopic.goo.ne.jp/kansai/program/tvo/80473/671605/ 今夜解禁!アスリート運命の一日 スポーツ名勝負の舞台裏]</ref>。しかし、同試合3回裏守備中に左内転筋を傷め<ref>[https://web.archive.org/web/20160614104031/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/column/omoidestadium/CK2016061402000228.html 【ボクの思い出STADIUM】ナゴヤ球場]</ref>、[[1994年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第3試合に指名打者として出場したのみである。また5月11日のヤクルト戦においては自らも乱闘に参加している<ref>{{Cite web ja |url=https://dot.asahi.com/articles/-/101780?page=3 |title=常に一触即発! 昔の巨人vsヤクルト戦の“バチバチ感”が凄い(3/3) |website=AERA dot. |date=2019-07-06 |accessdate=2022-01-03}}</ref>。なお、1994年が現役時代での唯一の日本一となり、監督時代にも含めてこの年が落合唯一の完全制覇であった{{Efn2|監督時代の2007年の中日は2位からの日本一であったため。}}。 |
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1996年、史上7人目の通算500号本塁打、史上7人目の通算1500打点を達成。シーズン終盤に差し掛かるまでは打点王を争っていたが、8月31日の対中日戦で[[野口茂樹]]から死球を受け、左手首を骨折し戦線離脱。以降の試合は棒に振ったものの、同年の誕生日で43歳になるシーズンにも関わらず、前年の打撃成績を更に上回る打率.301、21本塁打、86打点の好成績を収めた。 |
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{{by|1995年}}は開幕から首位打者争いを繰り広げ、夏場にかけ好調を維持。8月31日には一時打率.332まで上昇させ、最終的には打率.311(リーグ4位)、17本塁打、65打点を記録した。同年4月15日の対[[阪神タイガース]]戦で6回裏、[[久保康生]]から本塁打を放ち通算2000安打を達成したが<ref>{{Cite web ja |url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190415-10 |title=球界デキゴトロジー/4月15日 落合博満がホームランで史上最年長の2000安打達成(1995年4月15日) |website=週刊ベースボールONLINE |publisher=ベースボール・マガジン社 |date=2019-04-15 |accessdate=2023-03-18}}</ref>、[[日本プロ野球名球会|名球会]]入りを辞退している<ref>{{Cite web ja |url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09april/KFullNormal20090401166.html |title=【4月15日】1995年(平7) 名球会目指してきたわけじゃない 落合博満、資格獲得も入会辞退 |website=スポーツニッポン |date= |accessdate=2009-04-16 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090416131004/http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09april/KFullNormal20090401166.html |archivedate=2009-04-16}}</ref>。当時、落合は「任意の団体だから入る自由もあれば、辞退する自由もある。名球会を目指して野球をやってきたわけではない。ゴールはまだ先」と[[スポーツニッポン]]本紙の取材に話していた。入会資格を満たしながら辞退した初のケースであり、球界では大きな波紋が広がった。辞退については当時からOBとの確執などを含めて色々な憶測も呼んだが、名球会が任意団体であったこと、現役選手としてオフはしっかりと休養にあてたかったこと、名球会に入らない名選手も多く存在しており「色分けする必要もない」と当時考えていたことを後に自身のYouTubeチャンネルで明かした。また、入会辞退は長嶋の許可を得てのことであった<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2023/08/01/kiji/20230728s00001173441000c.html 落合博満氏 波紋呼んだ名球会入り辞退 「それでいいよ」と了解を得ていた大先輩がいた] Sponichi Annex 2023年8月1日 17:10 (2023年10月5日閲覧)</ref>。41歳4か月での通算2000安打達成は、[[新井宏昌]]の40歳2か月を抜き当時の史上最年長記録となった(その後、2012年5月に[[宮本慎也]]が41歳5か月で更新)<ref>{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/opinion-d/2017/05/09/0010168218.shtml |title=【野球】2000安打ラッシュとなるか。大記録まで残り100本を切った5選手たち |website=デイリースポーツ online |date=2017-05-09 |accessdate=2022-08-24}}</ref>。この年のオールスター戦でMVPも獲得した<ref>[https://www.nikkansports.com/baseball/news/202104180000540.html 球宴で本盗!歴史変えた新庄「初じゃなかったら、やらないでしょ」/復刻]</ref>。 |
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しかし、8月31日に受けた左手首への死球による骨折は、落合の打撃生命にとって致命的なものに近かった。さらに離脱後に監督の長嶋から同年の日本シリーズでの復帰を強く懇願されていたため、落合は無理を押して復帰に向けてバットを振り、突貫的な調整を余儀なくされたことも大きく影響した。結果的に間に合わせて[[1996年の日本シリーズ|日本シリーズ]]第1戦から復帰したが、完治しきれていない状態での出場には変わりなかった。同年オフに[[清原和博]]が巨人に入団してきたため、球団に[[自由契約]]を申し出る。退団会見の際には、長嶋が同席のもとで行われるという異例の会見となった。 |
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1996年、史上7人目の通算500本塁打、史上7人目の通算1500打点<ref>{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/tigers/2020/04/21/0013285352.shtml |title=【きょうは何の日】2010年阪神 鉄人金本知憲4月21日の再スタート |website=デイリースポーツ online |date=2020-04-21 |accessdate=2022-06-21}}</ref>を達成。8月31日の中日戦で[[野口茂樹]]から死球を受け、左手首を骨折し戦線離脱した<ref>『不敗人生~43歳からの挑戦』124頁</ref>。以降の試合は棒に振ったが、[[オリックス・バファローズ|オリックス]]との[[1996年の日本シリーズ|日本シリーズ]]で復帰し、第1戦で3安打を放った。シーズンでは6月末に一時打点トップに躍り出るなど打率.301、21本塁打、86打点の好成績を残した。巨人で43歳になるシーズンに4番を務めた選手は落合以降出ておらず、現在も球団最年長記録である。打撃成績においても、43歳での打率3割達成、OPS9割越えも史上最年長記録である。 |
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同年オフ、[[清原和博]]が自身と同じ一塁手として巨人に入団したことから、球団に[[自由契約]]を申し出た<ref>{{Cite web ja |title=96年球界席巻 FA宣言・清原の巨人入りを巡る落合解雇騒動 |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/189606 |website=東スポWEB |date=2020-04-21 |access-date=2022-12-19}}</ref><ref>{{Cite web ja |title=清原の巨人入り決定の裏で…渡辺社長VS落合の“大口争” |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/189738 |website=東スポWEB |date=2020-04-22 |access-date=2022-12-19}}</ref><ref>{{Cite web ja |title=平成8年ミスター流配慮 清原入団と落合退団は同じ会見場、背広、ネクタイだった |url=https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/189883 |website=東スポWEB |date=2020-04-23 |access-date=2022-12-19}}</ref>。退団会見は落合と[[落合信子|信子夫人]]のほか、[[渡辺恒雄]]オーナー、長嶋茂雄監督同席のもとで行われる異例なものであった。落合は「(幼少期からのファンで敬愛する)長嶋監督が、(自分と清原のどちらを起用するか)悩む姿を見たくなかった」とコメントしている<ref>{{Cite web ja |title=落合博満、巨人への決別【1996年11月28日】 {{!}} 野球コラム |url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171128-10 |website=週刊ベースボールONLINE |date=2017-11-28 |access-date=2022-12-19}}</ref><ref>{{Cite web ja |title=【24年目の真相】落合博満が雲隠れした“空白の1日”…清原和博の巨人FA移籍の裏で何が起きたのか(鷲田康) |url=https://number.bunshun.jp/articles/-/846417 |website=Number Web |date=2020-12-25 |access-date=2022-12-19}}</ref>。 |
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==== 日本ハム時代 ==== |
==== 日本ハム時代 ==== |
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{{出典の明記|date=2018年1月|section=1}} |
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1996年オフ、同じセ・リーグの[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]と日本ハムファイターズから獲得のオファーがあったが、年俸3億円の2年契約を提示した日本ハムに移籍。日本ハム移籍を決断した理由は、両球団にそれぞれ交渉の場を持ったが、その場で金額提示が日本ハムからはあったものの、ヤクルトからは全くなかったためである。プロである以上金額で評価されるものという持論の落合にとって当然の決断であった。背番号は「3」<ref group="注">背番号「'''6'''」は当時、[[田中幸雄 (内野手)|田中幸雄]]がつけており、たまたま空き番だった「3」を着用。</ref>。キャンプでは若手の生え抜きの[[上田佳範]]を指導し、上田は打率三割を規定打席に到達して記録した。自身は[[大杉勝男]]に次ぐプロ野球史上二人目の両リーグ1000本安打を達成するものの、打率.262、本塁打3、打点43という成績に終わった。これは年齢的な衰えだけが顕著になったわけではなく、前年の左手首骨折が完全に癒えていなかったこと、10年ぶりのパ・リーグ復帰、球場の広さ、巨人時代に比べてのデーゲーム増加といった様々な環境の変化も大きく影響した為であるとされている。また、6月以降に見られた疲労が重なったことも左右し、8月には落合自ら4番を降りて、6番での出場を申し出たほど屈辱的なシーズンとなった。 |
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1996年オフ、巨人と同じく東京に本拠地を置いていたヤクルトと日本ハム(当時は巨人と同じ東京ドームを本拠地としていた)から獲得オファーがあったが、年俸3億円の2年契約を提示した日本ハムに移籍した。背番号は当初'''6'''を希望していたが、チーム生え抜きの主力選手だった[[田中幸雄 (内野手)|田中幸雄]]が着けていたため、空き番だった'''3'''を選択した。 |
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{{by|1997年}}、5月17日時点で打率.339まで上昇する活躍を見せるも、6月に入ると年齢的な衰えと疲労が重なり打率を落としていく。さらに、8月22日のオリックス21回戦の1回の裏に[[大島公一]]の打球を捕った際に左手を負傷し、左第四指末関節骨を[[脱臼]]した。登録抹消はされなかったものの、この試合以降の先発出場は8試合だけで、打率は.260台まで降下。[[大杉勝男]]に次ぐプロ野球史上二人目の両リーグ1000安打を達成し、9月14日の近鉄戦では[[小池秀郎]]のノーヒットノーランを阻止する左翼線への二塁打を放つなどの活躍も見せたが、打率.262、3本塁打、43打点に終わり衰えは顕著だった。過去最低の成績に終わったが、44歳になる年での規定打席到達は2023年終了時点でも日本プロ野球史上最年長記録である。オールスターゲームにも出場したが、落合にとって現役最後のオールスターとなった。 |
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いずれも規定打席に到達したシーズンの中では過去最低の成績に終わったが、44歳になる年での規定打席到達は現在でも日本プロ野球史上最年長記録である。落合は同年のオールスターゲームにも出場し、第2戦では指揮を執っていた[[仰木彬]]監督名物の粋な采配で1番打者として先発出場した。その始球式では女優の[[広末涼子]]とも対戦しなかなか投げようとしない広末に対し一旦打席をはずして早く投球するようなジェスチャーをして球場が盛り上がるなど、結果的に落合にとって現役最後のオールスターゲーム出場となった。前年優勝争いをして2位だったチーム成績は4位に終わり、自身にとってもチームにとっても不本意なシーズンとなった。 |
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現役最終年となった{{by|1998年}}、前年の |
現役最終年となった{{by|1998年}}は、前年の雪辱を晴らすべく、それまで素手で握っていたバットをバッティンググローブ着用に変えたり、デーゲームの多さに対応するためサングラスを着用するといった改善を行った。オープン戦では、若手のホープとして期待されていた[[西浦克拓]]と4番の座を争った。落合が開幕4番を勝ち取って開幕から安打を量産し、4月下旬頃までは打率.300を維持していたが、打率が.300を切った時点で、監督の[[上田利治]]は落合の打順を下位に降格させ、西浦が4番に就いた。 |
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同年の日本ハムは開幕から勝ち続け「[[ビッグバン打線]]」が爆発し首位を快走していたが、落合の出場機会は減少しベンチを温める機会が多くなっていた。9月以降のチームは負傷者が続出するなどして急失速し、西武・ダイエー・近鉄(いずれも当時)を含めた4チームが犇めき合うこととなり、最終的には西武に優勝を奪われた。 |
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消化試合という寂しいシーズン最終戦となった10月7日の対ロッテ戦(ダブルヘッダー第2戦)での代打出場が、現役最終打席となった(対戦相手は[[黒木知宏]]。結果は一ゴロ)。落合は当日、上田監督からの先発出場の打診を断り、自らプロ入り初打席と同じ代打での最後の出場を選んだという。そのシーズン終了後、現役を引退した([[任意引退]]ではなく自由契約での引退)。 |
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シーズン最終戦となった10月7日のロッテ戦([[千葉マリンスタジアム]]、ダブルヘッダー第2戦)での代打出場が、現役最終打席となった(対戦相手は[[黒木知宏]]。結果は一塁ゴロ)。落合は当日、上田監督から先発出場を打診されたが断り、自らプロ入り初打席と同じ代打での最後の出場を選び、現役を引退した<ref>{{Cite web ja |title=「引退試合はオレの性に合わないよ」天才・落合博満44歳の“涙なし”現役ラスト打席…試合後の意外な「神対応」とは?(中溝康隆) |url=https://number.bunshun.jp/articles/-/848772 |website=Number Web |date=2021-09-06 |accessdate=2021-09-06}}</ref>。 |
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=== 引退後 === |
=== 引退後 === |
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引退後は[[野球解説者]]として活動 |
引退後は[[野球解説者]]として活動し、{{by|1999年}}から{{by|2001年}}までは[[テレビ朝日]]野球解説者を務めた([[キャッチコピー]]は'''オレ流解説''')。 |
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テレビ朝日との専属解消後はフリーとして<ref>『12球団全選手カラー百科名鑑2002』P232に掲載された落合の解説者名鑑プロフィールより、活動先は「フリー」「テレビ朝日ほか」となっており、人物紹介文には「もっと幅広くの理由で専属を解く。」との記述あり。</ref>、テレビ朝日時代から通っていた[[九州朝日放送]]の中継に度々出演していた。また、1999年から{{by|2003年}}の間、[[日刊スポーツ]][[野球評論家]]としても活動した。 |
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その間の2001年2月、[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]のキャンプで臨時打撃コーチを務めた。 |
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2001年2月、[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]のキャンプで臨時打撃コーチを務めた。 |
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=== 中日監督時代 === |
=== 中日監督時代 === |
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2003年10月8日、中日の監督に就任することが発表された(3年契約)<ref>『[[中日新聞]]』2003年10月8日夕刊1面「中日・落合監督が誕生『底上げ図り優勝狙う』」</ref>。就任早々、16人の選手の[[野球の背番号|背番号]] |
2003年10月8日、中日の監督に就任することが発表された(3年契約)<ref>『[[中日新聞]]』2003年10月8日夕刊1面「中日・落合監督が誕生『底上げ図り優勝狙う』」</ref>。就任早々、16人の選手の[[野球の背番号|背番号]]を変更し、[[野球ユニフォーム|ユニフォーム]]のデザインを中日伝統の[[ロサンゼルス・ドジャース]]型のデザインから変更した。このユニフォームは退任する2011年まで使用された。 |
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「この1年は補強を凍結し、個々の選手の能力を10%底上げして優勝を勝ち取る」と述べ、戦力外と外国人以外の補強を凍結することを公言。巨人での引退試合後に一転して現役続行を決意した[[川相昌弘]]、横浜を解雇された[[ドミンゴ・グスマン]]、[[広島東洋カープ|広島]]を解雇された[[筒井正也]]しか獲得しなかった。また、キャンプ初日に紅白戦を実施する異例の采配スタートとなった。 |
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{{by|2004年}} |
{{by|2004年}}、宣言通り就任初年度にしてリーグ優勝を達成した。開幕戦では3年間一軍登板のなかった[[川崎憲次郎]]を開幕投手に起用し、川崎は5失点で降板するもチームは逆転勝利した。エースの[[川上憲伸]]を3戦目に先発させ3連敗のリスクを避けると同時に、川崎の開幕起用で「全選手横一線」と選手に刺激を与えること、FAで中日に加入しながら一度も登板していない川崎に最後のチャンスを与える(後に事実上の「引退試合」であったと言及している)こと、先発投手についての情報の漏洩がないかを確かめることが目的だったと退任後に語っている(「外部に漏らしそうなコーチには伝えていなかった」としている)。また、投手起用についてはヘッドコーチの[[森繁和]]が全て決めていたが、この川崎の開幕起用のみは落合が決めた<ref>「[[めざせ!会社の星]]」Eテレ [http://www.nhk.or.jp/kaisha/archives/130710/index.html 2013年7月10日付放送分]</ref>。落合が森に対し、川崎の開幕投手起用を提案したところ「長いシーズンでは負けてもいい試合がいくつかあるが、開幕戦からいきなり捨てゲームを作るのか」と呆れられたという。また、守備面においては[[アライバコンビ]]を重宝していた。[[2004年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では、先に3勝しながらも3勝4敗で敗れ日本一はならなかった。 |
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{{by|2005年}}、[[タイロン・ウッズ]]の[[藤井秀悟]]に対する殴打事件による出場停止 |
{{by|2005年}}、主砲の[[タイロン・ウッズ]]の[[藤井秀悟]]に対する殴打事件による出場停止や、交流戦における負け越しにより失速し、2位に終わる。 |
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{{by|2006年}}、 |
{{by|2006年}}、2年振り2度目のリーグ優勝を達成。普段はベンチに腰をかけて表情一つ変えない落合が、巨人との優勝決定戦でウッズが満塁本塁打を放つと抱きついて出迎え、試合終了後のインタビューでも冒頭で言葉が出ないほど感極まっていた。日本ハムとの[[2006年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では1勝4敗で敗れまたも日本一ならず。オフに球団と新たに2年契約を結んだ。 |
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{{by|2007年}}、ペナントレースでは連覇を逃し2位。同年から導入された[[ |
{{by|2007年}}、ペナントレースでは連覇を逃し2位。セ・リーグでは同年から導入された[[クライマックスシリーズ]]で阪神に2連勝、巨人に3連勝と勝ち進み、[[2007年の日本シリーズ|日本シリーズ]]に出場した。日本ハムと戦い4勝1敗で日本一を奪取したが、これは球団として53年ぶり2度目の日本一であり、更にその後行われた[[2007年のアジアシリーズ|アジアシリーズ]]でもチームをアジアチャンピオンに導いた。これらの功績が認められ、中日の監督・選手として初となる[[正力松太郎賞]]を受賞した。 |
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[[File:Konami Cup Asia Series Champions Chunichi Dragons No,2.jpg|thumb|250px|アジアチャンピオンに輝き、選手達に胴上げされる落合博満(2007年11月11日・東京ドーム)]] |
[[File:Konami Cup Asia Series Champions Chunichi Dragons No,2.jpg|thumb|250px|アジアチャンピオンに輝き、選手達に胴上げされる落合博満(2007年11月11日・東京ドーム)]] |
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{{by|2008年}} |
{{by|2008年}}は3位に終わる。監督就任5年目で順位・勝利数・勝率の全てでワーストだった。主力の不振や衰え、[[福留孝介]]の[[メジャーリーグベースボール|メジャー]]移籍や、北京五輪で5人の主力選手が抜けたことで打撃力がリーグワーストの成績に陥ったことが響いた。クライマックスシリーズ2ndステージでは、巨人に1勝したのみに終わり敗退。オフに球団と新たに3年契約を結んだ。 |
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{{by|2009年}} |
{{by|2009年}}は2位に終わる。クライマックスシリーズ2ndステージでも、巨人に1勝したのみに終わり敗退した。川上、タイロン・ウッズ、[[中村紀洋]]がチームを去り、[[谷繁元信]]がケガで離脱したこともあり、7月には首位巨人に1.5ゲーム差まで迫ったが失速し、最終的に12ゲーム差をつけられた。 |
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{{by|2010年}}、監督として3度目のリーグ優勝を達成。[[井端弘和]]のケガによる離脱、[[トニ・ブランコ]]の不調により得点力が大幅に低下し、一時は首位に8ゲーム差をつけられたが、ホームゲームにおいて勝率.746と無類の強さを発揮し |
{{by|2010年}}、監督として3度目のリーグ優勝を達成。[[井端弘和]]のケガによる離脱、[[トニ・ブランコ]]の不調により得点力が大幅に低下し、一時は首位に8ゲーム差をつけられたが、ホームゲームにおいて勝率.746と無類の強さを発揮して9月10日に首位に立ち、巨人・阪神との激しい三つ巴の争いを制して143試合目にして優勝を達成。クライマックスシリーズ2ndステージで巨人を4勝1敗で破り日本シリーズに進出したが、パ・リーグ3位から勝ち上がってきたロッテに2勝4敗1分で敗れ、日本一はならなかった。なお、中日球団で7年連続で指揮した監督となり、[[与那嶺要]](1972年 - 1977年)と星野仙一(第二次政権時の1996年 - 2001年)の6年連続を上回り、球団歴代1位となった。 |
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{{by|2011年}}1月14日、2011年度野球体育博物館(野球殿堂)競技者表彰に選出された。この年は |
{{by|2011年}}1月14日、2011年度野球体育博物館(野球殿堂)競技者表彰に選出された。この年は打線の絶不調により前半戦は苦戦し、8月3日には5位に転落。首位ヤクルトとは最大10ゲーム差をつけられたが、9月に入りリーグ屈指の投手陣の働きにより巻き返し、ゲーム差を縮めた。 |
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シーズン中の9月22日、球団から同年シーズン限りでの監督退任が発表されるが<ref>{{Cite web ja |url=http://www.chunichi.co.jp/s/article/2011092290151519.html |title=中日監督に高木守道氏 落合監督、今季限り |website=中日新聞 |date=2011-09-22 |accessdate=2016-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110925121521/http://www.chunichi.co.jp/s/article/2011092290151519.html |archivedate=2011-09-25}}</ref>、10月6日に首位に浮上、18日に142試合目にして優勝を決め(監督として4度目のリーグ優勝)、強力な投手力で球団史上初のリーグ連覇を達成した。 |
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監督としての契約は10月限りで切れていたので、以降は1日ごとの契約更新となった。ヤクルトとの[[2011年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]ファイナルステージも4勝2敗(リーグ優勝アドバンテージ1勝を含む)で制し、2年連続(監督として5度目)の[[2011年の日本シリーズ|日本シリーズ]]進出を決め、試合後には当初予定されていなかった胴上げが行われた<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/111106/bsc1111062252005-n1.htm 落合監督、予定外の胴上げ「自然にそうなった」] [[サンケイスポーツ]] 2011年11月6日付</ref>。なお、同年の日本シリーズは3勝4敗で前年に続き日本一を逃したため、これが中日監督としての最後の胴上げとなった。2007年からセ・リーグにも[[2007年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]が導入されたものの消極的意見を持ち「完全制覇(リーグ優勝と日本一)」を目標に掲げていたが、達成されることなくユニフォームを脱ぐこととなった。11月10日、セ・リーグより[[最優秀監督賞]]に選出されたことが発表された<ref>[http://www.daily.co.jp/newsflash/2011/11/10/0004609905.shtml セの最優秀監督賞に中日・落合監督] [[デイリースポーツ]] 2011年11月10日付</ref>。 |
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監督としての契約は10月限りで切れていたため、以降は1日ごとの契約更新となった。ヤクルトとの[[2011年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]ファイナルステージを4勝2敗(リーグ優勝アドバンテージ1勝を含む)で制し、2年連続(監督として5度目)の[[2011年の日本シリーズ|日本シリーズ]]進出を決め、試合後には当初予定されていなかった胴上げが行われた<ref>[http://www.sanspo.com/baseball/news/111106/bsc1111062252005-n1.htm 落合監督、予定外の胴上げ「自然にそうなった」] サンケイスポーツ 2011年11月6日付</ref>。日本シリーズは3勝4敗で前年に続き日本一を逃したため、これが監督としての最後の胴上げとなった。11月10日、セ・リーグより[[最優秀監督賞]]に選出されたことが発表された<ref>[http://www.daily.co.jp/newsflash/2011/11/10/0004609905.shtml セの最優秀監督賞に中日・落合監督] デイリースポーツ 2011年11月10日付</ref>。 |
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11月20日、日本シリーズで[[福岡ソフトバンクホークス]]に敗れたその日をもって、監督退任となった。 |
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11月20日、日本シリーズで[[福岡ソフトバンクホークス]]に敗れた試合終了を以って、監督退任となった。 |
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=== 中日監督退任後 === |
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{{by|2012年}}、日刊スポーツ評論家に復帰した。解説者としてはフリー<ref>『12球団全選手カラー百科名鑑』2012年・2013年版の解説者名鑑より、いずれも「CS系・フリー」のグループ内にプロフィールが掲載された。</ref><ref>『プロ野球&メジャーリーグ解説者名鑑 ただいま放送席の音声のみでお送りしています』P158-159掲載の解説者リスト(P159に、同年6月20日現在の情報である旨が明記)より、メ〜テレ解説者・フリー解説者として記載。</ref>。初解説は2012年4月15日に甲子園で行われた阪神対中日のテレビ中継だった([[名古屋テレビ放送|メ〜テレ]]制作){{#tag:ref|2012年4月15日のテレビ解説については、スポニチでも古巣の試合初観戦という表現を交えながら報じている(どこの放送局であるのかは明記せず)<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/04/16/kiji/K20120416003056750.html 落合博満氏 中日戦を生観戦「マサは城島で楽だろうなと思った」] - 『スポニチアネックス』野球ニュース 2012年4月16日6時27分付配信</ref>。|group="注"}}。 |
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落合が監督を務めていた中日は、8年間でリーグ優勝4回、日本シリーズ出場5回、日本一1回、Bクラス(4位以下)0回だった。歴代の中日監督では最高の成績である。 |
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同年8月、[[ベル麻痺|顔面麻痺]]を発症し、病院に緊急搬送されたが間もなく退院する<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20120827_139341.html 落合博満氏が「顔面麻痺」で救急搬送される] - 『NEWSポストセブン』2012年8月27日(ソース:『週刊ポスト』2012年9月7日号)</ref><ref>[http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33534 落合博満が〝顔面まひ〟隠さず語った「闘病2週間」] - 『現代ビジネス』(講談社)2012年09月17日(ソース:『フライデー』同21日号)</ref>。以後は、治療を続けながら講演や野球中継のゲスト解説などを行っていた。 |
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=== 中日GM === |
=== 中日GM時代 === |
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{{by|2012年}}、日刊スポーツ評論家に復帰した。解説者としてはフリー<ref>『12球団全選手カラー百科名鑑』2012年・2013年版の解説者名鑑より、いずれも「CS系・フリー」のグループ内にプロフィールが掲載された。</ref><ref>『プロ野球&メジャーリーグ解説者名鑑 ただいま放送席の音声のみでお送りしています』P158-159掲載の解説者リスト(P159に、同年6月20日現在の情報である旨が明記)より、メ〜テレ解説者・フリー解説者として記載。</ref>。初解説は2012年4月15日に甲子園で行われた阪神対中日のテレビ中継だった([[名古屋テレビ放送|名古屋テレビ]]制作){{Efn2|2012年4月15日のテレビ解説については、スポニチでも古巣の試合初観戦という表現を交えながら報じている(どこの放送局であるのかは明記せず)<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/04/16/kiji/K20120416003056750.html 落合博満氏 中日戦を生観戦「マサは城島で楽だろうなと思った」] - 『スポニチアネックス』野球ニュース 2012年4月16日配信</ref>。}}。 |
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2013年[[10月9日]]、中日のGMの就任が発表された。自らGM職を志願したことによる就任となった。当初は顧問役を打診されたが自らGM職を提案し、推定年俸8000万円で就任。ドラフトを含む編成全般、球団運営のほとんどを取り仕切ることになった<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/news/1754569.html 中日落合GM退団「内部で反対している人も」白井氏]</ref>。 |
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8月に[[ベル麻痺|顔面麻痺]]を発症し、病院に緊急搬送されたが間もなく退院する<ref>{{Cite web ja |title=落合博満氏が「顔面麻痺」で救急搬送され地元住民が心配する |url=https://www.news-postseven.com/archives/20120827_139341.html?DETAIL |website=NEWSポストセブン |date=2012-08-27 |access-date=2022-12-19}}</ref><ref>{{Cite web ja |title=落合博満が〝顔面まひ〟隠さず語った「闘病2週間」(フライデー) @gendai_biz |url=https://gendai.media/articles/-/33534 |website=現代ビジネス |date=2012-09-17 |access-date=2022-12-19}}</ref>。以後は、治療を続けながら講演や野球中継のゲスト解説などを行っていた。 |
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選手との契約更改にGMとして同席し、退団し巨人に入団した[[井端弘和]]と、FA宣言してソフトバンクに移籍した[[中田賢一]]を除く中日選手は年俸提示に同意し、総年俸から総額推定8億円超のコストカットを実現した。補強面では巨人からFAで[[小笠原道大]]を、ロッテから戦力外となっていた[[工藤隆人]]を補強したが、Bクラスが続き、2016年には19年ぶりの最下位と不振に終わった<ref name="nikkan1221">[http://www.nikkansports.com/baseball/news/1754569.html 中日落合GM退団「内部で反対している人も」白井氏|日刊スポーツ]</ref>。 |
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2013年10月9日、中日球団に新設されたゼネラルマネージャー(GM)への就任が発表された。当初は顧問を打診されたが自らGM職を提案し、推定年俸8000万円で契約した。 |
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2016年12月20日、球団は契約切れとなる2017年1月限りで退任すると発表した。 |
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GM就任後に初めて実施された、選手との契約更改では、退団して巨人に移籍した[[井端弘和]]と、FA宣言でソフトバンクに移籍した[[中田賢一]]を除く中日選手は年俸提示に同意し、総年俸から総額推定8億円超のコストカットを実現した。中日オーナーの[[白井文吾]]は、球団フロントに対して、与えられた予算内での年俸抑制を、以前から求めていた。ところが、好成績を残した選手や実績のあるベテランが提示額を不満とすると、何がしかの「イロ」をつける、いわゆる「ゴネ得」を許す悪しき風習をなかなか断ち切れなかった。契約更改が終わると、結果的に予算オーバーという展開が繰り返されてきた。落合は、「自分が編成の責任者になって全てを任せてくれたら、年俸の削減もできる。それにはGMがいい」と提案した。白井は、監督時代の有無を言わさない統率力を見てきたこともあり、落合をGMに就任させた<ref>{{Cite web ja |url=https://number.bunshun.jp/articles/-/827131 |title=中日低迷は落合GMだけの責任か。年俸削減に囚われた3年間の結末。 |website=Number Web |publisher=文藝春秋 |date=2016-12-23 |accessdate=2021-05-05}}</ref>。 |
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== プレースタイル == |
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しかしこうした経緯から明らかなように、GM時代の落合は大金を投じた大型補強を実施することが難しかった。他球団で実績のある捕手の[[嶋基宏]](当時は[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天]])、[[炭谷銀仁朗]](当時は[[埼玉西武ライオンズ|西武]])を、[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]で獲得する可能性を中日が調査したとの報道があったが、いずれも実現していない<ref>{{Cite news |url=https://news.yahoo.co.jp/articles/052982a52827e582bf3c2cbdca20d4c7b0d16ffc?page=2 |title=退任する落合GMが中日に残した功罪とは? |newspaper=THE PAGE |publisher=Yahoo!ニュース |date=2016-12-21 |accessdate=2021-06-02}}</ref>。 |
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中日は2016年に19年ぶりの最下位となり、同年12月20日、球団は契約切れとなる2017年1月限りで落合がGMを退任すると発表した。2018年からは、フリーの野球解説者として活動を再開した。 |
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== 選手としての特徴 == |
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=== 打撃 === |
=== 打撃 === |
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落合の採用していた打法は、同じ[[神主打法]]を使用する他の選手と比べても独特であった。この打法はプロ入り間もない頃に受けた[[松沼博久]]の徹底した |
落合の採用していた打法は、同じ[[神主打法]]を使用する他の選手と比べても独特であった。この打法はプロ入り間もない頃に受けた[[松沼博久]]の徹底した内角攻めに対応するため、改良を重ねて編み出されたものである。松沼は「最初のうち落合はインハイが全く打てず、ある時を境に苦手なはずのインハイばかり狙って振ってきた。そのうちインコースが投げ難い構え(神主打法)を編み出し、インハイを完璧にカットする技術を身に付けていた」と語っている。また、[[江夏豊]]から「ピッチャーは特定の球種を待たれるのが一番嫌なんだ、お前みたいにコロコロ狙い球を変えていたら一生俺からは打てない」と言われたことから、狙い球を絞り、インハイの力のある球に振り後れないよう打席ではインハイを待っていたという<ref>[[ねじめ正一]]著『落合博満 変人の研究』</ref>。 |
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通算で510本の本塁打を放っているが、そのうちの176本は右翼への本塁打で、初の三冠王を取った1982年は32本塁打のうち20本が右翼への本塁打だった。アウトコースの球を払うように流し、本塁打にしてしまう技術に感嘆したスポーツライターの[[山際淳司]]は、スポーツ選手に関するエピソードを集めた『ナックルボールを風に』(1983年)という著書の中の「アウトコース」で、落合を取り上げている。しかし落合本人はインタビューにおいて、「俺の弱点はアウトローだった。俺ほど外の球を打つのが下手なのはいない」と語っており、事実、落合が得意としていたのは、インコースの球を広角に打つことであった。ライト方向へ多く飛ぶので「アウトコースは危ない。勝負するならインコース」と単純な考えから落合対策を練る他球団が増え、得意なコースばかりに球がきて苦手なコースにはあまり投げ込んでこず、落合本人はそのことをほくそ笑んでいたという<ref>『別冊宝島 プロ野球・記録と記憶』(2000年)</ref>。 |
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ボールを運ぶ巧みなバットコントロールは、数々の逸話を生んだ。ロッテ時代、1986年シーズン終盤の打撃練習中にて、[[マスコミュニケーション|マスコミ]]の[[カメラ]]がグラウンドにたくさん来ていた。カメラが目の前を通るため、落合は「危ないよ」と何度も警告を出した。しかしそれでも[[カメラマン]]が居座ったため、打席に立った落合は「じゃあ、そこ、狙うから」と言い、1球目を右に流し打ちして[[フジテレビジョン|フジテレビ]]カメラマンの[[ステディカム|手持ちカメラ]]の[[レンズ]]へ直撃させた。だが時価1000万円するカメラのレンズを割られたそのカメラマンは、「良い映像を撮った」という理由で後日に社長賞を受賞し、落合にお礼を言いにきたという。 |
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また、「バッティングはあくまでも水物。点数を取れる時は取れる、取れない時は取れない」と実力だけではないものがあることも説いている<ref>{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/baseball/2023/01/21/0015983041.shtml |title=落合博満氏 岡田阪神は「優勝を争えるチームになるだろう」JFKの“再来”に期待 |website=デイリースポーツ online |publisher=株式会社デイリースポーツ |date=2022-01-21 |accessdate=2023-02-12}}</ref>。 |
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通算で510本の本塁打を放っているが、そのうちの176本は右翼への本塁打である(初の三冠王を取った1982年は32本塁打のうち20本が右翼への本塁打)。アウトコースの球を払うように[[流し打ち]]し、本塁打にしてしまう技術に感嘆したスポーツライターの[[山際淳司]]は、スポーツ選手に関するエピソードを集めた『ナックルボールを風に』([[1983年]])という著書の中の「アウトコース」で、落合を取り上げている。しかし落合本人はインタビューにおいて、「俺の弱点はアウトローだった。俺ほど外の球を打つのが下手なのはいない」と語っている。実際に落合が得意としていたのはインコースをセンターから右に打つことだった。そのため、ライト方向へ多く飛ぶので「アウトコースは危ない。勝負するならインコース」と落合対策を練る他球団が増え、得意なコースばかり球がきて苦手なコースにはあまり投げ込んでこず、落合本人はそのことをほくそ笑んでいたという<ref>『別冊宝島 プロ野球・記録と記憶』([[2000年]])</ref>。 |
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リーグ最多四球を1984年から1991年の8年連続含め、通算9回記録した。通算1475四球は[[王貞治]]に次いで歴代2位、右打者では歴代1位である。3桁の三振を記録したシーズンは一度もない。通算打率.311に対して通算得点圏打率は.334を記録している<ref>{{Cite web ja |title=チャンスに強い小笠原 得点圏打率は落合監督に次いで2位 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/05/06/kiji/K20110506000765020.html |website=スポニチ Sponichi Annex |date=2011-05-06 |access-date=2022-12-19}}</ref>。 |
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[[北別府学]]は「試合の展開が見えてきてコントロールの良くない投手を相手にする時には、腰を引いて打席に立っていた」と指摘している<ref>「20世紀のベストプレーヤー 100人の群像」(ベースボール・マガジン社)10頁。</ref>。 |
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落合いわく、自身が三冠王をとれたのは「三兎(打撃の三冠タイトル)を追って三兎を得る勢い」でやったからとのことであり、俗にいう「二兎を追う者は一兎をも得ず」を野球選手は考えてはいけないとのこと<ref>落合博満『采配』2011年、51頁。</ref>。 |
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四球が多く、リーグ最多四球を1984年から1991年の8年連続含め、通算9回記録した。通算1475四球は[[王貞治]]に次いで歴代2位、右打者では歴代1位である。その一方で三振数は少なく、3桁の三振を記録したシーズンは一度もない。また、チャンスに強い打者で、通算打率.311に対して通算得点圏打率は.334を記録しており<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/05/06/kiji/K20110506000765020.html チャンスに強い小笠原 得点圏打率は落合監督に次いで2位 ]</ref>、歴代1位(4000打数以上)である。 |
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三冠タイトルで一番難しいのは首位打者と述べている。ただし、これは「狭き門」という意味ではなく、むしろ「誰にでも取れるチャンスがある一番のタイトル」という意味であり、ライバルがそれだけ多いから難しいとも語っている<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/10/12/kiji/20221010s00001000693000c.html 落合博満氏 3冠王を狙う上で、なぜ首位打者が最難関なのか?オレ流見解ズバリ]</ref>。 |
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落合いわく、自身が三冠王をとれたのは「三兎(打撃の三冠タイトル)をおって三兎を得る勢い」でやったからとのことであり、俗にいう「二兎を追うものは一兎をも得ず」を野球選手は考えてはいけないとのこと<ref>落合博満『采配』2011年、51頁。</ref>。 |
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本人曰く、26歳になる年でプロ入りしたこともあって、「遅く入った自分がレジェンドの記録を塗り替えることはないから、シーズンでどれだけの記録を残せるかに重点を絞りプレイした」と述べている<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/08/03/kiji/20220729s00001173422000c.html 落合博満氏が語った王貞治氏の一本足打法 不滅の大記録には「とてもじゃないけど追いつかない」]</ref>。 |
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三冠王を取る上で一番難しいのは首位打者であるとしている。 |
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=== 守備 === |
=== 守備 === |
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一塁手、三塁手、二塁手としてそれぞれ出場経験があるが、最も出場試合数が多いのは一塁手である<ref>{{ |
一塁手、三塁手、二塁手としてそれぞれ出場経験があるが、最も出場試合数が多いのは一塁手である<ref>{{Cite web ja |url=https://www.baseball-reference.com/register/player.cgi?id=ochiai001hir |title=Hiromitsu Ochiai Japanese League Statistics & History |website=Baseball-Reference.com |date= |accessdate=2015-08-12}}</ref>。 |
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ロッテ時代に遊撃手として共に内野を守った[[水上善雄]]は「(二塁手として)追いついた打球は絶対にアウトにしてくれました。(中略)[[併殺|ゲッツー]]が計算できて、やりやすかったです。送球も縦の回転で捕りやすく、捕ってからすぐに一塁送球できました。ファーストに移ってからもミットさばきが柔らかく、送球がショートバウンドになっても確実に捕ってくれました。落合さんに[[ゴールデングラブ賞]]の経験がないのはおかしいです」と評価している<ref>『劣悪なグラウンドを言い訳にしない 水上善雄』(『ベースボールマガジン 別冊新年号』 第7巻第1号 2021年 [[ベースボール・マガジン社]])p44</ref>。 |
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== 逸話 == |
== 逸話 == |
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{{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2013年5月}} |
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=== 家族 === |
=== 家族 === |
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1980年12月に1度結婚したが、3か月で離婚した<ref>週刊ベースボール1982年7月5日号「シリーズ ザ・マン 第10話 落合博満(ロッテ)時流に逆らうアッパースイング」p34-p37</ref>。1984年12月に9歳年上の信子と再婚した。信子は後にタレント活動をするようになった傍ら、博満に前向きではなかったFA権の行使や監督就任などを決断させた。 |
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長男は声優の[[落合福嗣]]。また、元[[プロレスラー]]の[[ジャイアント落合]]は甥にあたる(姉の子)。落合一家は博満が三冠王を獲得したことに掛けて「トリプルクラウンファミリー」と呼ばれるなど独特の知名度がある<ref>{{Cite web ja |title=あの“フクシ君”が日本シリーズ中継!?Ustreamでこぼれた落合監督の本音。(村瀬秀信) |url=https://number.bunshun.jp/articles/-/61719 |website=Number Web |date=2010-11-09 |access-date=2022-12-19}}</ref>。 |
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孫もおり、2024年4月21日の『サンデーモーニング』の生放送では、この年のクリスマスに孫のためにサンタクロース役をやろうと髭を伸ばしていると語った<ref>[https://hochi.news/articles/20240421-OHT1T51041.html?page=1 落合博満氏、「サンモニ」生出演で「イメチェン」宣言…「サンタクロースまでひげを伸ばそう」] 2024年4月21日 9時12分スポーツ報知 (2024年11月24日閲覧)</ref>。 |
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=== 人物 === |
=== 人物 === |
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投手として入団した[[愛甲猛]]に打者転向を勧め、愛甲の打撃を指導した<ref name="愛甲p88">愛甲猛『球界の野良犬』宝島社、2009年、p88</ref>。愛甲は1981年に入団後、3年間投手としてプレーしたが、結果を残せず、1983年のシーズン終了後に監督の山本一義から「投手を続けるか、それとも打者に転向するか」と迫られるも即決できなかったが{{R|愛甲p88}}、落合から「タケシ、お前はバッターの方が稼げるぞ。甲子園を見ていたが、バッターの方が稼げるぞ」と声をかけられたことで打者転向を決意した{{R|愛甲p88}}。1984年の春季キャンプでは初日から、練習を終えた後に落合の部屋にて落合から打撃の指導を受けた。丸めた新聞紙をボール代わりにトスバッティングを繰り返した<ref name="愛甲p89">愛甲、2009年、p89</ref>。愛甲はそれまで打撃で本格的な指導を受けたことがなかったが、落合の連日にわたる指導で上達した{{R|愛甲p89}}。落合は「家にいてもやることねえし」と言いながらも川崎球場でのファームの試合をバックネット裏から観戦し、愛甲の打撃を見ていたことがあったといい<ref>愛甲、2009年、p90</ref>、愛甲は落合に対し、「オチさんに教わった打撃術は、我流とは違い、明らかにプロの打撃だった」と感謝している{{R|愛甲p89}}。ロッテ時代の落合は子供が出来ずに悩んでいたため、心底可愛がっていた愛甲と養子縁組することも本気で考えていたといい、愛甲は後に「ヘタすりゃ[[落合福嗣|福嗣くん]]のお兄さんになってた」と語っている。愛甲はこれについて「落さんって、自分が見てバッティングとかが気に行った奴ってのが凄く可愛く感じるのよ」と自身の見解を述べている<ref>{{Citation |title=第七話 ヘタすりゃ福嗣くんのお兄ちゃんになってた |url=https://www.youtube.com/watch?v=XtFapbx1zDA |publisher=YouTube |access-date=2022-12-19}}</ref>。 |
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{{出典の明記|date=2017年3月|section=1}} |
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{{要出典範囲|[[愛甲猛]]、[[清原和博]]、[[宇野勝]]、[[中村紀洋]]など新旧のスラッガーに信奉者が多い。[[星野仙一]]は「大変優しい選手だ」とコメントしている|date=2017年3月}}。愛甲は自伝<ref>[[愛甲猛]]著『球界の野良犬』(宝島SUGOI文庫){{要ページ番号|date=2017年3月}}</ref>で、入団してしばらく投手として伸び悩んでいた愛甲に打者転向をすすめ、コーチングしてくれたのは、現役時代の落合だったと語っている。その指導は厳しいもので、あまりの厳しさに「俺はこれでも甲子園のヒーローなんです」と泣き言を言うと「じゃあ甲子園にさっさと帰れ!」と怒鳴られたこともあるという。しかし落合の指導は適切かつ緻密、また愛甲の打撃力が向上したと判断すると首脳陣に「タケシ(愛甲)のバッティングがかなりよくなってきているからいま見にきてくれ」とすぐに電話する気配りもあった。打者転向によってプロとして成功した愛甲は、落合のことをプロ野球界での師匠として深く尊敬している。ただ一方、若手の世代に苦言をこぼすこともあり、それこそ自身が45歳まで現役ができたのも「下(若手)の突き上げが弱かったのが一番の要因」と著書『采配』で述べている{{要ページ番号|date=2017年3月}}。 |
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{{by|1985年}}から{{by|1987年}}まで[[日本プロ野球選手会|社団法人日本プロ野球選手会]]の2代目の(プロ野球選手としては初の)理事長を務めた<ref>{{Cite web ja |url=http://jpbpa.net/management/ |title=運営組織・構成・変遷 |website=[[日本プロ野球選手会]] |date= |accessdate=2021-06-24}}初代理事長は一般学識者の[[安村和雄]]。</ref>が、{{by|1992年}}には選手会を脱退した。その後の{{by|1993年}}、FA制度を利用して巨人に移籍している。 |
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{{要出典範囲|現役時代から「斜に構えた」スタンスをとることで知られる。現役時代「金のために野球をやっている」「多く給料を出してもらえるところへ行く」「金にならない試合には出ない」と公然と言い放ち、FA宣言後も、巨人入団前から「一番お金を出してくれたチームに行く」と公言。巨人入りには当時のファンからは賛否両論があったが、「自分の力が(巨人で)通用するか証明したかったのもあるが、プロとして最も(金銭面で)評価してくれるところへ行くのは当然」と強調している|date=2017年3月}}。 |
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プロ入り前からの熱心な長嶋茂雄ファンで、[[後楽園球場]]での引退試合をスタンドで観戦している。巨人は1992年から長嶋が監督に復帰していたが、落合はロッテ時代に受けた取材にて「長嶋さんがもう一度巨人の監督になったら、世間から馬鹿にされますよ。笑われますよ。だって、自分をクビにしたチームにのこのこ帰っていくヤツがどこにおるんよ」と発言し、取り沙汰されていた長嶋の巨人復帰に釘を刺したことがある<ref>[[玉木正之]] 『プロ野球大大大事典―決定版!!読むプロ野球』東都書房、1986年3月、p.80</ref>。しかし後年、落合も巨人に移籍し会見では「長嶋さんを胴上げするために来ました」と述べ、そして長嶋を胴上げに導いた。 |
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{{by|1985年}}から{{by|1987年}}まで[[日本プロ野球選手会|社団法人日本プロ野球選手会]]の2代目の(プロ野球選手としては初の)理事長を務めたが、{{by|1992年}}に選手会を脱退した後の{{by|1993年}}、選手会が導入に尽力したFA制度を利用し、巨人に移籍している。 |
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現役時代、プロ入り時の監督であった[[山内一弘]]からフォームの矯正を施されたが、指導された打法が合わなかった。しかし、山内との関係が悪かったわけではなく、その後に出来上がった神主打法を改めて見てみたところ、山内から教わったものが自分のバッティングにも生きていることが分かったという<ref>[[週刊ベースボール]]内「落合博満の超野球学」より{{要ページ番号 |date=2017年3月}}</ref>。また、落合は山内から伝授された打撃練習法を、現役晩年まで実践していた<ref>[[フジテレビONE|フジテレビ739]]「[[さらば、愛しきプロ野球…。]]・[[佐々木信也]]」より</ref>。 |
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プロ入り前からの熱心な[[長嶋茂雄]]のファンで、[[後楽園球場]]での引退試合をスタンドで観戦している。巨人は1992年から長嶋が監督に復帰していたが、落合はロッテ時代に受けた取材にて「長嶋さんがもう一度巨人の監督になったら、世間からバカにされますよ。笑われますよ。だって、自分をクビにしたチームにのこのこ帰っていくヤツがどこにおるんよ」と発言し、取り沙汰されていた長嶋の巨人復帰に釘を刺したことがある<ref>[[玉木正之]] 『プロ野球大大大事典―決定版!!読むプロ野球』(東都書房 [[1986年]]3月){{要ページ番号|date=2017年3月}}</ref>。しかし後年、落合も巨人に移籍し会見では「長嶋さんを胴上げするために来ました」と述べ、そして長嶋を胴上げに導いた。長嶋も落合について「{{要出典範囲|自分は天才じゃない。本当の天才は王さんと落合さんの2人だけ」「フィールドに監督がもう一人いるようなもの」と語り、打撃はもちろん、投手への声掛けのタイミングや的確な指示内容などを高く評価していた|date=2017年3月}}。 |
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クーラー嫌いでも有名であった。現役時代は真夏でもクーラーを点けずに汗を思いきりかきながら寝て、朝5時にすっきり目を覚ます生活を送った。 |
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現役時代、プロ入り時の監督であった[[山内一弘]]からフォームの矯正を施されたが、指導された打法が合わなかった。しかし山内との関係が悪かったわけではなく、その後に出来上がった[[神主打法]]を改めて見てみたところ、山内から教わったものが自分のバッティングにも生きていることが分かったという<ref>[[週刊ベースボール]]内「落合博満の超野球学」より{{要ページ番号|date=2017年3月}}</ref>。 |
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ロッテ在籍時代、阪急 |
ロッテ在籍時代、阪急のエース・[[山田久志]]とはライバルとして認め合い、名勝負を繰り広げた。1980年5月28日の阪急戦で2安打した落合を見た山田は、ブルペンに居た若手投手に「凄い打者が出てきた。あいつは三冠王を獲るかも知れない」と話したという<ref name="takara">別冊宝島『プロ野球名選手読本』(宝島社)P203-207</ref>。落合はプロ入り当初、山田の決め球である[[シンカー・スクリューボール|シンカー]]を全く打てなかったが、当の山田本人に攻略法を聞くという大胆な行動を起こし、「センター返しをしろ」とのアドバイスを貰い受け、それを実践し苦手のシンカーを克服した{{R|takara}}。1982年4月29日に行われた、山田の200勝が掛かった試合では、山田から3本の本塁打を放っている<ref>{{Cite web ja |url=http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=069-20140616-01 |title=“レジェンド”たちに聞け! 第14回 山田久志[阪急] |website=週刊ベースボールONLINE |publisher=ベースボール・マガジン社 |date=2014-06-05 |accessdate=2015-04-27}}</ref>。{{疑問点範囲|打った球は全てシンカーであった<ref> |
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※キャッチャーから「花を添えろ」と言われ「空振りはしますよ」と返したら、まさかのスライダーで本能的に合わせにいったらホームランになったと落合氏はコメントしていました!「スライダーを投げた山田さんがわるい」(笑){{Cite book ja |author=スポーツ・グラフィックナンバー |title=魔球伝説 プロ野球 不滅のヒーローたち |date=1989 |publisher=文藝春秋 |isbn=9784168118128 |series=文春文庫ビジュアル版}} 山田の項より。</ref>。|date=2021年6月|title=この部分の本文には「打った球はシンカー」とあるが、この部分の脚注には「打った球はスライダー」とあり矛盾している。}} |
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山本昌は監督を務めていた頃の落合から「年齢はグラウンドに立てば関係ない。ひとつでも多くのアウトをとれるやつをオレは使う。力のあるやつが、このグラウンドに立つことができるんだ」という言葉をかけられ、2009年に出版した著書でこの言葉に感謝している旨を記している。2007年のシーズンには何度も山本を二軍に落としたが、山本は自著に「2007年には19試合登板し、うち18試合は先発のチャンスを与えられたが、これだけ使ってもらって結果を出せなかった。落合監督は本当に僕を辛抱強くマウンドに送り出してくれた」という趣旨の記述を残している<ref>山本昌 『133キロ怪速球』 ベースボール・マガジン社、2009年。ISBN 978-4583101699。 p148-149</ref>。 |
[[山本昌]]は監督を務めていた頃の落合から「年齢はグラウンドに立てば関係ない。ひとつでも多くのアウトをとれるやつをオレは使う。力のあるやつが、このグラウンドに立つことができるんだ」という言葉をかけられ、2009年に出版した著書でこの言葉に感謝している旨を記している。2007年のシーズンには何度も山本を二軍に落としたが、山本は自著に「2007年には19試合登板し、うち18試合は先発のチャンスを与えられたが、これだけ使ってもらって結果を出せなかった。落合監督は本当に僕を辛抱強くマウンドに送り出してくれた」という趣旨の記述を残している<ref>山本昌 『133キロ怪速球』 ベースボール・マガジン社、2009年。ISBN 978-4583101699。 p148-149</ref>。 |
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暴力嫌いであり、監督に就任直後、招聘した全コーチに、「いかなる理由があっても選手に手を上げてはいけない。守れなかった場合は解雇する」という誓約書にサインさせた<ref>{{Citation |title=落合博満の凄さと三冠王獲得の舞台裏 |url=https://www.youtube.com/watch?v=lxh8p9F61g0 |publisher=YouTube |access-date=2022-12-19}}</ref>。中日球団は星野仙一監督など、鉄拳制裁が日常的になっており、その慣習を変えるべくチームの暴力根絶にも苦心し、落合は「チームから暴力をなくすのに5年かかった」としている<ref>{{Cite web ja |title=パワハラ中川親方の降格決定 親方衆へ相撲教習所のススメ |url=https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/275948 |website=日刊ゲンダイDIGITAL |date=2020-07-14 |access-date=2022-12-19}}</ref><ref>{{Cite web ja |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/201809030000406.html |title=落合博満氏「暴力一掃に5年」根絶は小さな組織から |website=日刊スポーツ |date=2018-09-03 |accessdate=2021-11-09}}</ref>。スポーツ界全体に蔓延する暴力指導の根絶について「この先何十年もかかると思う。『絶対ありません』と言う時代は私が生きている間には訪れないと思ったほうがいい。それだけ時間がかかる難しい問題」と語っている<ref>{{Cite web ja |title=スポーツ界で「暴力ゼロ」は難しい 落合博満「私が生きている間には訪れない」 |url=https://www.j-cast.com/trend/2018/09/06337866.html |website=J-CAST トレンド |date=2018-09-06 |access-date=2022-12-19}}</ref>。 |
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鬼と化して野球に打ち込んでいるものの、落合本人は野球が好きなわけではなく、「俺は野球見るの嫌いだもん。大リーグも観ない。高校野球も観ない。これから仕事で、野球で頭を使わなきゃいけないのに、余計に頭を使う事はないだろ」と発言している通り、野球は仕事だと認識している<ref>中日スポーツ 2011年10月19日付</ref>。 |
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暴力を振るわなかったが、先述の愛甲に対するように「選手をしごいたことはある」と言うなど「時には厳しさは大事」という考えは持っていた。特に[[井端弘和]]をしごいたこともあり、このことから「井端からは、いつもムカついた顔をされてた」と落合も認めている。もっとも、その井端は[[荒木雅博]]と共に[[アライバコンビ]]として中日の名選手として活躍するようになり、活躍の場を落合が作ったとも認められることもある<ref>{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/baseball/2023/10/08/0016895821.shtml |title=落合博満氏「でしょうね。あれだけやられれば」とニヤリ 関口宏「井端さんムカついてましたよ」に 侍監督にはエール |website=デイリースポーツ online |publisher=株式会社デイリースポーツ |date=2023-10-08 |accessdate=2023-10-08}}</ref>。 |
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若いころは飲酒をしていたが30歳になったころには断酒をしたという<ref>{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/opinion-d/2022/01/10/0014975531.shtml |title=【野球】落合博満氏ら一流選手の共通点は「断固たる決断力」 同学年が述懐「30歳くらいで酒はやめた」 |website=デイリースポーツ online |date=2022-01-10 |accessdate=2022-08-17}}</ref>。 |
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オフシーズンの自主トレ先として[[長野県]]の[[昼神温泉]]を愛用していたことで知られ、同温泉の周辺には落合がランニングで使用したとされる「落合ロード」が残る<ref>『BikeJIN/培倶人』([[実業之日本社]])2021年8月号 p.49</ref>。1989年1月には、同温泉に滞在中だった落合が当時のドラゴンズと星野監督を批判したとされる、通称「昼神事件」の舞台ともなった<ref name="sponichi20220706">[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/07/06/kiji/20220706s00001173029000c.html 落合博満氏 89年“昼神事件”裏で球団から「罰金2000万円、2カ月出場停止」で即退団会見要求] - スポーツニッポン・2022年7月6日</ref>。 |
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=== 稲尾和久との関係 === |
=== 稲尾和久との関係 === |
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ロッテ時代の |
ロッテ時代の監督だった稲尾和久を師と仰いでいる。現役時代、稲尾監督就任会見のあと、新監督以下、首脳陣が飲みに繰り出そうとしたとき「私も行っていいですか」とついて行き、店に着くなり、落合は稲尾に「監督は『管理野球』ですか。それとも、選手に任せるんですか」と尋ねた。激怒されてもおかしくないところ、稲尾に「残念ながら、俺は”西鉄”ライオンズで育った人間だから、管理されたことがないんだよ。だから俺も管理はしないよ」と答えられ安堵する<ref>{{Cite web ja |date=2021-11-11 |url=https://gendai.media/articles/-/89112?page=2 |title=落合博満、ロッテ時代の「打てない時期」を支えた稲尾監督の「名手腕」がスゴすぎる…!(2/4) |website=週刊現代 |publisher=講談社 |accessdate=2021-11-19}}</ref>。同シーズン前半戦打率2割そこそこの打率だった落合の打順降格を提案した複数のコーチに対し、稲尾は頭を下げてまで4番起用を続け、結果落合はシーズン後半戦には4割を超えるような打率を残した<ref>{{Cite web ja |date=2021-11-11 |url=https://gendai.media/articles/-/89112?page=3 |title=落合博満、ロッテ時代の「打てない時期」を支えた稲尾監督の「名手腕」がスゴすぎる…!(3/4) |website=週刊現代 |publisher=講談社 |accessdate=2021-11-19}}</ref>。室内練習場で長時間にわたるバッティング練習を終えたところ、落合の指が感覚を失い、バットから離れなくなったが、物陰から姿を現し、指をゆっくりとバットから離してあげた人物が稲尾だった。落合の稲尾への私淑はこの時がきっかけだという。 |
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1985年、開幕前のキャンプにおいて、バットを一切振りたくないという落合の要望に打撃コーチは手を焼いたが、稲尾はあっさりと落合の要望を認め、落合はその通りキャンプ中はおろかオープン戦でも一切バットを振らず、走り込みを嫌う落合は守備練習のみで足腰を鍛え、同年は打率・367、52本塁打、146打点の圧倒的な成績で三冠王を獲得した。当時のチームメイト[[愛甲猛]]によれば「あの前後のオチさんは、打席に立つ姿がものすごく大きく見えました。ベンチで隣に座る稲尾さんが『オチ、そろそろ頼むわ』というと、『わかりました』と立ち上がり、一発打って帰ってくる。落ち着き払っていた」という<ref>{{Cite web ja |date=2021-11-11 |url=https://gendai.media/articles/-/89113?page=1 |title=落合博満、ロッテ時代の「三冠王」のウラで…稲尾監督の「神対応」がヤバすぎた(1/3) |website=週刊現代 |publisher=講談社 |accessdate=2021-11-19}}</ref><ref>{{Cite web ja |date=2021-11-11 |url=https://gendai.media/articles/-/89113?page=2 |title=落合博満、ロッテ時代の「三冠王」のウラで…稲尾監督の「神対応」がヤバすぎた(2/3) |website=週刊現代 |publisher=講談社 |accessdate=2021-11-19}}</ref>。 |
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稲尾との関係はグラウンド外にも及んだ。落合夫妻と交流のある女優・[[冨士眞奈美]]がある日、落合邸を訪ねたところ、テーブルで稲尾と落合が鍋をつついており、落合がせっせと鍋奉行をつとめ、終いには稲尾がソファにゴロリと横になり寝てしまったが、その様子を落合が愉快そうに眺めているのを見て「『ああ、本当に稲尾さんのことが大好きなんだなぁ』と思いました」と述べている<ref>{{Cite web ja |date=2021-11-11 |url=https://gendai.media/articles/-/89112?page=4 |title=落合博満、ロッテ時代の「打てない時期」を支えた稲尾監督の「名手腕」がスゴすぎる…!(4/4) |website=週刊現代 |publisher=講談社 |accessdate=2021-11-19}}</ref>。前述の「昼神事件」の際も、ドラゴンズ側が星野と落合の間の仲介役を稲尾に依頼し、一度は「退団・引退」をぶち上げた落合も稲尾からの電話で引退を思いとどまった{{R|sponichi20220706}}。 |
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落合が正力松太郎賞を受賞した2007年11月13日は奇しくも稲尾の命日でもあり、受賞後の会見で稲尾について「監督と選手の立場を超えて野球を語り合った。教示された打者には分からない投手心理は私の財産」との旨のコメントを残している。 |
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落合は「7人の監督に仕えたが、野球を教わったのは山内(一弘)さんと稲尾さんだけ」と振り返っている<ref>「[[めざせ!会社の星|Good Job!会社の星]]」NHK Eテレ 2013年7月10日付放送分</ref>。 |
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=== 野球 === |
=== 野球 === |
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通算500安打、1000安打、1500安打、2000安打は、すべて本塁打で達成した。さらに、1000試合出場、2000試合出場時も本塁打を打っている。 |
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その優れたバットコントロールのエピソードとして、このようなものがある。 |
その優れたバットコントロールのエピソードとして、このようなものがある。 |
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* 打者[[ヘルメット]]の耳当てが義務づけられた後も、特例規定で「耳無しヘルメット」を認められており、際どい内角球を防いでいたが[[東尾修]]との対戦では頭部付近に[[死球]]を受けた(厳しい内角攻めは東尾の持ち味でもあった)。次の打席、落合は東尾の足元を抜くセンター前ヒットを放つも、しかしどことなく不満げ。その次の打席で、落合は東尾を直撃する強烈なピッチャー返しを放つ(内野安打)。一塁ベース上の落合は少し満足げな表情を浮かべていた。「センター前ヒット、ピッチャー返しは打撃の基本(理想)」とされているが、これをプロの真剣勝負の場で狙って打つのは至難の業といえる。 |
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* 1987年に中日にトレードされた際、球団は本球場から離れた周囲・天井共にネットを張り巡らした体育館を急造の打撃練習場としていた。当然ボールがネットに乗り、垂れ下がってきてしまうので、選手がボールを投げて落とそうとするもなかなか上手く行かない。すると落合は「オレが落とすよ」と言い、ピッチングマシーンの球を打って打球をネットに当て始め、乗ったボールを落としていったという。[[セントラル・リーグ]]の審判部長を務めた[[田中俊幸]]は「まるで魔法のようなバットコントロールで、[[曲芸]]かマジックを見ているようだった」と述懐している<ref name="tanaka">田中俊幸『プロ野球 審判だからわかること』[[草思社]]、2004年、ISBN 9784794213433</ref>。 |
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* 落合はゆるい球を自由に打ち返せれば調整はOKとしているが、ナゴヤ球場での打撃練習中のこと、審判が目慣らしのため近づいてきた。「10本打って何本スタンドに入ると思う?」と聞くと、ゆるい球は全力で打っても飛ばないため、審判は「精々4、5本だろう」と答えた。落合は「8本だ」と言い打ち始めると、打球はきれいな弧を描き、スタンドに吸い込まれていく。結果的に2本がフェンス前に落ち、スタンドインしたのは8本であった。その審判は「信じられない光景であった」と述べている<ref name="tanaka" />。 |
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* 1987年に中日にトレードされた際、球団は本球場から離れた周囲・天井共にネットを張り巡らした体育館を急造の打撃練習場としていた。当然ボールがネットに乗り、垂れ下がってきてしまうので、選手がボールを投げて落とそうとするもなかなか上手く行かない。すると落合は「オレが落とすよ」と言い、ピッチングマシンの球を打って打球をネットに当て始め、乗ったボールを落としていったという。[[セントラル・リーグ]]の審判部長を務めた[[田中俊幸]]は「まるで魔法のようなバットコントロールで、[[曲芸]]かマジックを見ているようだった」と述懐している<ref name="tanaka">田中俊幸『プロ野球 審判だからわかること』[[草思社]]、2004年、ISBN 9784794213433</ref>。 |
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入団当初は[[三塁手]]だったが、一軍に定着するため、2年目からは当時手薄だった[[二塁手]]に転向。初めて三冠王を獲得した年のポジションも二塁手だった。[[有藤通世]]の外野手転向により三塁手に戻り、その後は守備の負担を考慮して[[一塁手]]に転向した。二塁手だった時期もあるため、2000年に[[日本野球機構]]などが行った「[[センチュリーベストナイン]](20世紀ベストナイン)」投票で落合が二塁手として選ばれた(二塁手としてノミネートされていた)。ベストナインは一塁手で4回、二塁手で2回、三塁手で4回選ばれている。 |
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* 落合はゆるい球を自由に打ち返せれば調整はOKとしているが、ナゴヤ球場での打撃練習中のこと、審判が目慣らしのため近づいてきた。「10本打って何本スタンドに入ると思う?」と聞くと、ゆるい球は全力で打っても飛ばないため、審判は「精々4、5本だろう」と答えた。落合は「8本だ」と言い打ち始めると、打球はきれいな弧を描き、スタンドに吸い込まれていく。結果的に2本がフェンス前に落ち、スタンドインしたのは8本であった。その審判は「信じられない光景であった」と述べている{{R|tanaka}}。 |
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* 打撃投手に体の正面にボールを投げさせて全球バットの芯で打ち返した、トスバッティングで投手の胸にライナーで打ち返した等、練習段階からパ・リーグ審判員[[山崎夏生]]が驚くほどのバットコントロールであった<ref>{{Cite web ja |title=野茂、桑田、落合……名物審判が見たレジェンドの“意外な素顔” |url=https://friday.kodansha.co.jp/article/57343 |website=FRIDAYデジタル |date=2019-07-24 |access-date=2022-12-19}}</ref>。 |
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* ロッテ時代は長さ35インチのバットを使っていた。南海の[[門田博光]]は「オレでも34インチ半が精一杯やったのに……。あの長さのバットを扱うのはすごい技術が必要なんです」と振り返っている<ref>{{Cite web ja |title=【プロ野球】門田博光からの提言「なぜ、もっとホームランを狙わない」 |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2012/12/01/___split_51/ |website=web Sportiva |date=2012-12-01 |access-date=2022-12-19}}</ref>。 |
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* 読売ジャイアンツ時代には、バットのグリップの太さが0.2 mm違っても気付いた<ref>友成那智『258本をうんだバット』ポプラ社(2009年5月)ISBN 978-4-591-10582-5 、pp.22 - 25</ref> |
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入団当初は[[三塁手]]だったが、一軍に定着するため、2年目からはチームに手薄だった[[二塁手]]に転向し、初めて三冠王を獲得した年のポジションも二塁手だった。その翌年は一塁手に転向したが、三塁手であった[[有藤通世]]の外野手転向により三塁手に戻り、その後は守備の負担を考慮して再度[[一塁手]]に転向した。二塁手だった時期もあるため、2000年に[[日本野球機構]]などが行った「[[センチュリーベストナイン]](20世紀ベストナイン)」投票で落合は二塁手としてノミネートされ、選出された。ベストナインは一塁手で4回、二塁手で2回、三塁手で4回選ばれている。 |
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打撃の感触を重視するため、手袋を使わずに素手でバットを握った。これは往年の王貞治も同様である(ただし、春秋キャンプやオープン戦などの寒い時期は落合、王とも手袋を使用することがあった)。また、死球時の保護のため、緩衝材を入れた特注のリストバンドを使用していた。 |
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どの守備位置もそつなくこなしたが、内野に飛べば必ず守備機会が生じ、バント処理を真っ先に行わなくてはならず、一・二塁間に打球が飛べば右利きの自身はバックハンドキャッチを余儀なくされるなど様々な内野守備の要素が複雑に絡み合うことから、'''一番難しいのは一塁手、一番楽なのは三塁手'''と断じている。 |
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主流となっているユニフォームのズボンの裾を下まで下ろす着こなしは、中日選手時代の落合がチームメイトの[[宇野勝]]と共に始めたのが最初とされる。内野守備のクロスプレーで足をスパイクされるのを防ぐため、ソックスの上に毛製の足首のサポーターとストッキングを着用。血流が悪化しないようにそれまでズボンの裾に付いていたゴムをなくし、下まで下ろすようにした。同様の理由でソックスやストッキングは独自規格のものをメーカーに特注していたという。また、落合はロッテ時代に当時打撃コーチだった[[広野功]]の薦めで、木製バットの含水率を厳密に管理できるバットケース([[富士シリシア化学]]製)の使用を始めた。これは球界におけるバットの含水率管理の先駆けである。 |
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主流となっているユニフォームのズボンの裾を下まで下ろす着こなしは、中日時代の落合がチームメイトの[[宇野勝]]と共に始めたのが最初とされる。内野守備のクロスプレーで足をスパイクされるのを防ぐため、ソックスの上に毛製の足首のサポーターとストッキングを着用し、血流が悪化しないようにそれまでズボンの裾に付いていたゴムをなくし、下まで下ろすようにした。同様の理由でソックスやストッキングは独自規格のものをメーカーに特注していたという。また、落合はロッテ時代に当時打撃コーチだった[[広野功]]の薦めで、木製バットの含水率を厳密に管理できるバットケース([[富士シリシア化学]]製)の使用を始めた。これは球界におけるバットの含水率管理の先駆けである。 |
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[[パシフィック・リーグ]]で採用している[[指名打者]]制度には批判的であり、ロッテ時代は指名打者での出場があるが、現役最晩年の日本ハムでは指名打者での出場を頑なに拒否し、一度も指名打者では出場しなかった。通算2236試合に出場しているが指名打者での出場はわずか17試合である。 |
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[[前田智徳]]の打撃を評価しており、打撃指導の時は「広島の前田を参考にしろ」と言うことが多い。また、リトルリーグの指導をする時も「プロの真似をするなら広島の前田の真似をしなさい」と言う。自身の真似については「真似るとスランプに陥る可能性があるので絶対にやめなさい」と述べている<ref>著書『落合博満の超野球学 バッティングの理屈』(ベースボール・マガジン社)</ref>。落合自身の打撃法について「俺と同じ打撃が出来るのは[[石嶺和彦]]だけ」と語っており、特に石嶺の内角打ちを高く評価していた。落合は中日の監督に就任すると同時に石嶺を中日の打撃コーチに迎え、石嶺は落合が監督在任した8年間、一貫して打撃コーチとしてチームを支えた。 |
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[[清原和博]]に対しても賛否両論な考えを持っており、「高校の頃が一番上手かったが、プロに入ってから下手になった」と酷評した上で「だからこそ、高校のままでやっていたら成功した。」と評価もしていた<ref>{{Cite web ja |url=https://www.daily.co.jp/baseball/2022/05/09/0015287076.shtml |title=落合博満氏が即答 No.1高校生は「清原だよ」自身の後の三冠王は「アイツしかいないと思ってた」 |website=デイリースポーツ online |date=2022-05-09 |accessdate=2022-08-23}}</ref>。 |
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外国人選手の立場や存在感も尊重しており、「彼らがいなければ日本球界は成り立たない」と公言している<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/12/28/kiji/20221221s00001173472000c.html 落合博満氏 ヤクルト村上の3冠王、56本塁打について思うこと 来季以降への期待値]</ref>。 |
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=== 発言 === |
=== 発言 === |
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中日監督辞任後には{{by|2013年}}の[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック|第3回WBC]]の[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|日本代表]]監督への就任を期待する声もあったが、落合自身は2012年1月13日に[[紀伊國屋ホール]]で開かれた著書『采配』([[ダイヤモンド社]])刊行記念の講演で「(WBCの監督は)絶対やりません。何でそんな命縮めるようなことわざわざしなくちゃいけないのか。短期決戦が下手なんでしょうね。私がやったら絶対に負けますからね」と発言して否定し、結局は[[山本浩二]]が監督に就任した<ref>{{Cite web ja |url=http://www.asagei.com/excerpt/3604 |title=落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(1)「談志師匠ばりに言ってやる」 |date=2012-01-31 |website=『[[アサヒ芸能]]』 |publisher=徳間書店 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170617173315/http://www.asagei.com/excerpt/3604 |archivedate=2017-06-17}}</ref><ref>{{Cite web ja |url=http://www.asagei.com/excerpt/3607 |title=落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(2)「選手の性格で指導を変えた」 |date=2012-02-01 |website=『アサヒ芸能』 |publisher=徳間書店 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170617173328/http://www.asagei.com/excerpt/3607 |archivedate=2017-06-17}}</ref><ref>{{Cite web ja |url=http://www.asagei.com/excerpt/3610 |title=落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(3)立浪派と山崎派が対立している |date=2012-02-02 |website=『アサヒ芸能』 |publisher=徳間書店 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170617173256/http://www.asagei.com/excerpt/3610 |archivedate=2017-06-17}}</ref><ref>{{Cite web ja |url=http://www.asagei.com/excerpt/3613 |title=落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(4)日本球界はコーチの給料が安い |date=2012-02-03 |website=『アサヒ芸能』 |publisher=徳間書店 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170617173349/http://www.asagei.com/excerpt/3613 |archivedate=2017-06-17}}</ref>。 |
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{{by|1998年}}、引退後に[[ニュースステーション]]に出演。その中で[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]の[[佐々木主浩]]の決め球であるフォークボールに対して、「あれはフォークではなくカーブ」という旨の発言をするなど、佐々木の攻略法を語った。実際に佐々木を苦手とした選手は多く、特に[[読売ジャイアンツ|巨人]]時代の[[松井秀喜]]は佐々木を大の苦手にしていたが、そんな中で落合は佐々木をよく打っており、落合の対佐々木通算成績は打率.444(36打数16安打4本塁打)である。また、佐々木はメジャーに移籍するまでの10年間でサヨナラ本塁打を1度しか打たれていないが、その唯一のサヨナラ本塁打を打ったのが中日時代の落合である。 |
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同年シーズン中、親会社が新聞社なのにも関わらず、記者団のインタビューで「当分俺からは野球の話はない。マスコミを使って選手にメッセージを伝えるのはやめた。新聞を読んでない選手もいるから」と親会社を軽視する発言を行った。これが原因で[[中日新聞]]上でコラム『読む野球』を書かされることとなった{{Efn2|[[野村克也]]との対談では「奴ら(新聞記者)は野球なんてぜんぜん知らない。無視したっていい」と発言し野村から「そんなこといわずに、記者たちに野球を教えてやるという気持ちでマスコミ対応もしっかりやれよ」とたしなめられている。<ref>[[週刊新潮]]2010年10月7日号P53[[有本義明]]のコメントより</ref>}}。 |
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{{by|2009年}}に行われた[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック|第2回WBC]]で[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|日本代表]]が優勝したことに対して、「よかったね、おめでとう。」とあまりにもそっけないコメントを残し [http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_30&k=2009032400674]{{リンク切れ|date=2016年6月}}、同大会の日本代表に選出された中日所属の選手が全員出場を辞退している事と共に自身のWBCへの関心の無さを批判された。また、中日監督辞任後には{{by|2013年}}の[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック|第3回WBC]]の[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|日本代表]]監督への就任を期待する声もあったが、落合自身は2012年1月13日に[[紀伊國屋ホール]]で開かれた著書『采配』([[ダイヤモンド社]])刊行記念の講演で「(WBCの監督は)絶対やりません。何でそんな命縮めるようなことわざわざしなくちゃいけないのか。短期決戦が下手なんでしょうね。私がやったら絶対に負けますからね」と発言して否定し、結局は[[山本浩二]]が監督に就任した<ref>{{Cite news |url=http://www.asagei.com/excerpt/3604 |title=落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(1)「談志師匠ばりに言ってやる」 |date=2012-01-31 |newspaper=『[[アサヒ芸能]]』|publisher=[[徳間書店]] |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170617173315/http://www.asagei.com/excerpt/3604 |archivedate=2017-06-17 }}<br>{{Cite news |url=http://www.asagei.com/excerpt/3607 |title=落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(2)「選手の性格で指導を変えた」 |date=2012-02-01 |newspaper=『アサヒ芸能』|publisher=徳間書店 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170617173328/http://www.asagei.com/excerpt/3607 |archivedate=2017-06-17 }}<br>{{Cite news |url=http://www.asagei.com/excerpt/3610 |title=落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(3)立浪派と山崎派が対立している |date=2012-02-02 |newspaper=『アサヒ芸能』|publisher=徳間書店 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170617173256/http://www.asagei.com/excerpt/3610 |archivedate=2017-06-17 }}<br>{{Cite news |url=http://www.asagei.com/excerpt/3613 |title=落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(4)日本球界はコーチの給料が安い |date=2012-02-03 |newspaper=『アサヒ芸能』|publisher=徳間書店 |accessdate=2017-06-17 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170617173349/http://www.asagei.com/excerpt/3613 |archivedate=2017-06-17 }}</ref> |
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2011年、監督退任後の『[[報道ステーション]]』での[[長嶋一茂]]との対談で、統一球の影響については「全く関係ない」「言い訳」と発言し「選手が『統一球は飛ばない』という言葉に逃げた。現に打てなくなった奴はみんなボール球を振っている。それでは打てないのは当然だ」と述べた<ref name="livedoor20111201">{{Cite web ja |url=https://news.livedoor.com/article/detail/6074004/ |title=落合監督断言 「他の監督はやりやすくなった。逃げ道なくなったもん」 |website=Sports Watch |date=2011-12-01 |accessdate=2011-12-01}}</ref>。 |
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同年シーズン中、親会社が新聞社なのにも関わらず、記者団のインタビューで「当分俺からは野球の話はない。マスコミを使って選手にメッセージを伝えるのはやめた。新聞を読んでない選手もいるから」と発言。これが原因で[[中日新聞]]上でコラム『読む野球』を書かされることとなった<ref>[[野村克也]]との対談では「奴ら(新聞記者)は野球なんてぜんぜん知らない。無視したっていい」と発言し野村から「そんなこといわずに、記者たちに野球を教えてやるという気持ちでマスコミ対応もしっかりやれよ」とたしなめられている。[[週刊新潮]]2010年10月7日号P53[[有本義明]]のコメントより</ref>。 |
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2022年4月11日に投稿した公式YouTubeチャンネルの動画で、野球界のレベルが落ちていると感じている部分を明かした。「昔はアメリカも24球団だからね。今みたいに30球団じゃなく、24球団で、エースピッチャーが3人くらいいて、中4日で回す。そういう層の厚さがある時代。今みたいに30球団で、そんな昔よりもレベルは落ちてはいるとは思う。日本の野球もレベルは落ちているとは思う」と持論を展開。その理由について「それは考えなくなったということなんだろうと思う。そして隠れて練習をすることをしなくなった」と語った<ref>{{Cite web ja |title=落合博満氏が「野球のレベルが落ちてはいる」と感じる部分は? 現代に合わせたオレ流指導についても語る |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/04/11/kiji/20220410s00001173602000c.html |website=スポニチ Sponichi Annex |date=2022-04-11 |access-date=2022-12-19}}</ref>。 |
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{{by|2011年}}、監督退任後の『[[報道ステーション]]』での長嶋一茂との対談で、統一球の影響については「全く関係ない」と発言し「選手が『統一球は飛ばない』という言葉に逃げた。現に打てなくなった奴はみんなボール球を振っている。それでは打てないのは当然だ」と述べている<ref>{{Cite web|url=http://news.livedoor.com/article/detail/6074004/|title=SportsWatch:落合監督断言 「他の監督はやりやすくなった。逃げ道なくなったもん」|accessdate=2011-12-01}}</ref>。 |
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2023年10月3日に公開した公式YouTubeチャンネルの動画で、走り込みについて語った。現在は現場のことは分からないと断りを入れつつ、長距離の走り込みは絶対に必要と断言。特に投手はランニングの量で成績が決まると主張し、昨今の走り込み否定論を快く思わない立場を示した<ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2023/10/03/kiji/20230929s00001000128000c.html 落合博満氏 “長距離のランニングは効果が薄い”という考え方「これはないと思います」] Sponichi Annex 2023年10月3日 17:10 (2024年4月1日閲覧)</ref>。 |
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=== オマール・リナレスとの友情 === |
=== オマール・リナレスとの友情 === |
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1978年7月に[[オランダ]]で開催された[[ハーレムベースボールウィーク]]の第11回大会に出場した落合は[[キューバ]] |
1978年7月に[[オランダ]]で開催された[[ハーレムベースボールウィーク]]の第11回大会に出場した落合は、[[キューバ]]の豪速球投手・[[ブラウディリオ・ビネン]]から[[死球]]を受け、それ以来、キューバの選手に対してはあまり良いイメージを持っていなかったという。しかし1995年にキューバの選手が日本を訪問したおりに[[オマール・リナレス]]の手形を[[落合博満野球記念館]]に貰えないかという話になり、リナレスはこれを快諾。[[アントニオ・パチェコ]]や[[ビクトル・メサ]]と共に車で世田谷にある落合邸を訪問した。 |
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リナレスが訪問した際、信子夫人と福嗣に歓迎されたが、落合は東京ドームの試合で留守だった。時間制限があったために落合に会えず、短時間で落合邸に別れを告げた。ところが、ホテルに戻ると信子夫人から連絡を受けた落合が駆けつけてきてくれていた。パチェコの誕生日祝いもあり、信子夫人と福嗣も後から合流してお祝いの会は大盛況で進んでいった。2人は野球談義で意気投合し、最後に落合はリナレスに「47歳までプレーする」と約束してみんなと別れた。 |
リナレスが訪問した際、信子夫人と福嗣に歓迎されたが、落合は東京ドームの試合で留守だった。時間制限があったために落合に会えず、短時間で落合邸に別れを告げた。ところが、ホテルに戻ると信子夫人から連絡を受けた落合が駆けつけてきてくれていた。パチェコの誕生日祝いもあり、信子夫人と福嗣も後から合流してお祝いの会は大盛況で進んでいった。2人は野球談義で意気投合し、最後に落合はリナレスに「47歳までプレーする」と約束してみんなと別れた。 |
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翌1996年5月に再びキューバの選手が日本を訪問したおり、落合は再び彼らの宿舎を訪れ、リナレスとパチェコに自分のバットをそれぞれ1本ずつプレゼントした。[[亡命]]直前の[[ローランド・アローホ]]の誕生日も祝った。後日、リナレスの母校のピナール・デル・リオ大学で開かれた「リナレス展」の会場の真ん中に落合のバットが飾られていた。そこには「これは日本で三冠王を3度も獲ったオチアイという偉大な選手のバットです」と見学しに来ていた人に自ら説明するリナレスの姿があった<ref>{{Cite book |author=[[鉄矢多美子]] |title=熱球伝説―キューバリナレスを育てた野球王国 |publisher= |
翌1996年5月に再びキューバの選手が日本を訪問したおり、落合は再び彼らの宿舎を訪れ、リナレスとパチェコに自分のバットをそれぞれ1本ずつプレゼントした。[[亡命]]直前の[[ローランド・アローホ]]の誕生日も祝った。後日、リナレスの母校のピナール・デル・リオ大学で開かれた「リナレス展」の会場の真ん中に落合のバットが飾られていた。そこには「これは日本で三冠王を3度も獲ったオチアイという偉大な選手のバットです」と見学しに来ていた人に自ら説明するリナレスの姿があった<ref>{{Cite book |author=[[鉄矢多美子]] |title=熱球伝説―キューバリナレスを育てた野球王国 |publisher=岩波書店 |page=114-118 |isbn=9784000017930}}</ref>。後に2004年の一年間という短い期間ではあるものの、中日で落合は監督、リナレスは一塁手のレギュラーという間柄でリーグ優勝を達成した。 |
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=== 背番号へのこだわり === |
=== 背番号へのこだわり === |
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背番号に対してのこだわりが強く、落合博満記念館は背番号 |
背番号に対してのこだわりが強く、落合博満記念館は背番号6にちなんで六角形のデザインとなっている。2010年以降は眼鏡をかけるようになったが、フレームの淵の部分には漢字で「六」と入っている。巨人移籍時には6を既に[[篠塚利夫|篠塚和典]]が使用していたため、6に0をくっつけた'''60'''を使用した(篠塚が引退した翌{{by|1995年}}からは6に変更)。{{by|1994年}}は巨人の球団創設60周年であり、尚且つ落合が同年開幕時に四番に立った場合巨人の「第60代四番打者」になるために選んだとも言われている。また仮に篠塚が6を譲った場合、篠塚への同情論と落合への更なる批判が集まるおそれがあり、これを避けたかったためともされている<ref>[[スポーツニッポン]] 1993年12月19日 2面内記事</ref>。また、中日監督就任後は、6を二つ重ねた'''66'''を背番号としている。 |
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中日監督就任後も背番号のこだわりを随所に見せており、[[谷繁元信]] |
中日監督就任後も背番号のこだわりを随所に見せており、[[谷繁元信]]の当時の背番号7を「捕手の番号らしくない」と[[森祇晶|森昌彦]]・[[大矢明彦]]・[[伊東勤]]・古田敦也など歴代の名捕手が背負ってきた背番号である27に変更させている。また、背番号16だった[[森野将彦]]を就任直後に8、{{by|2006年}}からは31に変更{{Efn2|前者は「16は野手の番号ではない」という落合の考え、後者は入団当初に背番号8を希望した新人時代の[[平田良介]]の希望と、森野が[[掛布雅之]]に憧れていたことから。}}させた。森野は{{by|2010年}}から{{by|2013年}}まで30、{{by|2014年}}以降は7を使用。{{by|2009年}}には、現役を引退しファンから永久欠番の署名活動があった[[立浪和義]]の背番号3を森野に与えようとしたが本人が辞退している。なお背番号3は1年間欠番となった後、{{by|2011年}}からは新入団の[[吉川大幾]]、吉川が退団した{{by|2015年}}以降は[[高橋周平]]が引き継いでいる。 |
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中日を代表する投手 |
中日を代表する投手に代々受け継がれて伝統と化していた“中日のエースナンバーは「20」”という考え方にも否定的で、{{by|2004年}}の[[川崎憲次郎]]引退後に入団した[[中田賢一]]に20を与えた。「オレの中では18がエース番号。だれかがあれ(20)をつけないと番号が足りない」と説明している<ref>「中日・落合監督が竜投伝統のエースナンバー「20」を否定」、[[スポーツ報知]]、2004年12月15日、6頁。</ref>。 |
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[[中里篤史]]や[[佐藤充]]など、後がない選手には1年だけ猶予を与えるが、支配下の選手の中で一番下という意味で背番号を |
[[中里篤史]]や[[佐藤充]]など、後がない選手には1年だけ猶予を与えるが、支配下の選手の中で一番下という意味で背番号を70に変更させる。結局、中里と佐藤は結果が出せず1年後に戦力外通告された。また、この2人以前にも70をつけていた[[鳥谷部健一]]({{by|2006年}})、[[三澤興一]]({{by|2007年}})は移籍して1年で解雇されている。ただし、2011年に加入した[[エンジェルベルト・ソト]]は例外で、入団当初から70をつけていた。GMとして中日復帰後は70をつけていた[[ダニエル・カブレラ]]の背番号を99に変更させ、[[谷哲也]]の背番号を70に変更させた。 |
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中日新聞の読む野球のコーナーで「背番号00は意味がない」という理由で2011年から欠番とすることになったが、GM復帰後の{{by|2014年}}から{{by|2016年}}までは[[アンダーソン・エルナンデス]]が使用した。2007年から{{by|2012年}}まで在籍していた[[金剛弘樹]]がつけていた背番号0についても「背番号ではない」とコメントしている。 |
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=== 愛車 === |
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プロ入り後に、[[トヨタ・クラウン]](110系・セダンタイプ)を購入。護身用の為に大がかりな改造を施した。実際にトヨタの工場で新車の内装がすべてはがされ、衝撃を受けても大けがをしないように[[ロールバー]]や補強材が至るところに埋め込まれ、車内はかなり狭くなり、車両重量が約3t近くに増量、燃費も相当悪くなったという。約10年近く乗った後、親戚に譲る。 |
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現在は2台所有。1台は、[[ダッジ・デイトナ]]。1985年に2度目の三冠王を獲得し、セ・リーグで三冠王を獲得した[[阪神タイガース]]の[[ランディ・バース]]と共に[[麻布自動車]]からMVP受賞の副賞として両者に贈られたもの。 |
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もう一台は、80年代後半に夫人からのプレゼントとして贈られた[[アストン・マーティン]]・V8(通称『ボンドカー』)で、 |
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2台共、補修、車検を繰り返しながら現役走行しており、アストン・マーティン以降新車の購入、所有はしていない。 |
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=== ガンダムファン === |
=== ガンダムファン === |
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息子の福嗣の影響もあり<ref>[[落合福嗣]]『フクシ伝説』(集英社)P.13,P.151</ref>、[[ガンダムシリーズ]]好きである。自身のYouTubeにゲストとして[[機動戦士ガンダム 水星の魔女]]エグゼクティブプロデューサーの小形尚弘を招いた際には核心を突いた質問を連発し、小形が回答に窮する場面も見られた<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=RGluMVk6jpU 【責任者登場】ガンダム大好き落合博満、『水星の魔女』制作責任者に聞いてはいけないこと聞いてみた!]落合博満オレ流チャンネル 2023年4月4日配信</ref><ref>[https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2023/04/04/kiji/20230403s00001173557000c.html 落合博満氏 鋭すぎる質問連発にNG連発?!「機動戦士ガンダム 水星の魔女」EPタジタジ…]スポニチアネックス 2023年4月4日</ref>。 |
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息子の福嗣の影響もあり<ref>[[落合福嗣]]『フクシ伝説』(集英社)P.13,P.151</ref>、[[ガンダムシリーズ]]好きである。 |
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最も好きな[[モビルスーツ]]は、『[[新機動戦記ガンダムW]]』に登場する[[ウイングガンダムゼロ |
ガンプラにもこだわりがあり、最も好きな[[モビルスーツ]]は、『[[新機動戦記ガンダムW]]』に登場する[[ウイングガンダムゼロ|ウイングガンダムゼロ(EW版)]]{{R|bhc080115}}。 2008年1月には静岡県にある[[バンダイホビーセンター]]を訪れ、『[[機動戦士ガンダム00]]』に登場する[[機動戦士ガンダム00の登場兵器#ガンダムエクシア|ガンダムエクシア]]の中日ドラゴンズカラー版をプレゼントされた<ref name="bhc080115">[http://blog.lalabit.com/hobbycenter/archives/2008/01/15/ 中日ドラゴンズ「落合監督」BHC来訪!] - バンダイホビーセンター 司令官の宇宙日誌・2008年1月15日</ref>。 |
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=== ミラクルジャイアンツ童夢くん === |
=== ミラクルジャイアンツ童夢くん === |
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[[石ノ森章太郎]]の漫画およびアニメ『[[ミラクルジャイアンツ童夢くん]]』に実名で中日選手として登場 |
[[石ノ森章太郎]]の漫画およびアニメ『[[ミラクルジャイアンツ童夢くん]]』に実名で中日の選手として登場した。声優は[[沢木郁也]]が担当した。劇中の主人公でジャイアンツの新城童夢の投げる魔球「童夢スペシャル1号・スノーミラージュボール」を初めて打破するなど、実在の選手としては最大のライバルとして童夢に対峙する。他に童夢の魔球と対決するのは架空の人物が主である。アニメのサブタイトルにも「落合、魔球打倒宣言」(第8話)、「対決!落合対童夢」(第9話)などと題される。[[落合信子|信子]]夫人も劇中に登場した。しかし、当の落合本人はこのアニメを見たことが無いと、当人の[[YouTube]]「落合博満のオレ流チャンネル」にて視聴者からのこの質問に答えている<ref>{{Cite web ja |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2024/01/09/kiji/20240103s00001173285000c.html |title=落合博満氏 消える魔球を攻略した童夢くん知らず 巨人在籍時はすでに… |website=スポーツニッポン |date=2024-01-09 |accessdate=2024-01-09}}</ref>。 |
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=== 映画好き === |
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無類の映画好きとしても知られる<ref>{{Cite web ja |url=https://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20111024/bbl1110240831001-n1.htm |title=“投手大国”秋田…“東北の星飛雄馬”も輩出 |website=ZAKZAK |date=2011-10-24 |accessdate=2020-07-22}}</ref>。 |
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本人曰く「高校時代は野球部より映画館にいる時の方が多かった」{{Efn2|当時は1回入場料を払えば、その日はずっと映画を見ることができた。それゆえ、入り浸ることは可能だった。}}。そしてオフの日は自宅で映画を観ることが多く、福嗣と一緒に日本語吹き替え版の「[[ターミネーターシリーズ|ターミネーター]]」などを観ていたことが、後に福嗣が声優になるきっかけともなっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2024/09/29/kiji/20240929s00041000483000c.html|title=落合福嗣 声優を目指したきっかけは父・博満氏とのひととき「ターミネーターになれるかな?」|publisher=[[スポーツニッポン]]|date=2024-09-29|accessdate=2024-10-08}}</ref>。 |
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=== 語学力 === |
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中学時代の定期試験は英語の答案用紙を白紙で提出し、高校入試でも英語は白紙だった{{R|asahi20171231}}。監督時代は「ここは日本だから、日本語を話せ」と外国人選手に日本語を使うように求めていたが、落合が英語が分からないと言えば外国人選手の方も自然と日本語で対応した{{R|asahi20171231}}。 |
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2022年5月の[[スポーツニッポン]]の取材で、世の中で理解に苦しむことを問われると「なんでも横文字にしてしまうというのは、横文字の嫌いな人間には、ちょっと、分からない部分がある」と即答。「英語の頭文字だけとって、くっつけたりね。それがあたかもすべての人に通用するような形でしゃべっているというのは。まあ、それを理解しない俺が悪いのかもわからないけども、理解不能。なんでもかんでも英語にしてくれるなよ、ちゃんとした日本語があるのに」と話していた<ref>{{Cite web ja |title=落合博満氏 英語嫌いの伝説の数々明かす 「なんでも横文字にしてしまうのは…理解不能」 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2022/05/02/kiji/20220425s00001000571000c.html |website=スポニチ Sponichi Annex |date=2022-05-02 |access-date=2022-12-19}}</ref>。 |
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=== 盗難 === |
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2006年9月20日の横浜スタジアム、対横浜戦において、監督室に置いてあった現金37万円や免許証などが入ったセカンドバッグを紛失した。警察が正式に捜査し関係者の指紋を取るなどしたものの、バッグは見つからず犯人も不明なままであった<ref>[https://gendai.media/articles/-/117?page=3 落合バッグ盗難事件と長嶋コーチ解雇の関係]</ref><ref>[https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/173936 【長嶋清幸コラム】怒りの退団会見につながった落合監督の「バッグ盗難事件」]</ref>。コーチの[[長嶋清幸]]によると、同じロッカーを使っていた森繁和のバッグには現金150万円が入っていたものの、手つかずだったという。 |
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== 監督として == |
== 監督として == |
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監督としての実績は中日ドラゴンズで監督を務めた8年間のみだが、監督在任期間中は全ての年でAクラス入りを果たし、リーグ優勝4度(うち2010年と2011年にセ・リーグ連覇)、日本一1回の実績を残した。 |
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野手出身で実質コーチ経験が無い落合が、監督として実績を残せたのには幾つかの要因があった。 |
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2004年監督就任1年目の春季キャンプ初日から紅白戦を実施。また、キャンプ中はペナントレースでの日程を考慮して、移動日にあたる月曜日をオフにした6勤1休制のキャンプを実施した。 |
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監督在任期間中は、広いナゴヤドームを利用して投手力を武器にペナントシーズンを戦った。 |
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投手起用に関しては自身が野手だったことから、厚い信頼を置くヘッドコーチの[[森繁和]]に任せて一切口出ししなかった。これについて落合は「(下手に口を出すと)大抵それで失敗する」と発言している。攻撃面ではサインはほとんどなく、基本は選手のやりたいようにやらせていたという。甘い球や狙い球ならどんどん打っていけという考え方で、選手には「狙いがあるなら、全員が初球打ちで3球でチェンジになっても構わない」とも話していた<ref>{{Cite web ja |title=辻発彦「西武は最強の“アマチュア野球”」 |url=https://www.ninomiyasports.com/archives/7038 |website=SPORTS COMMUNICATIONS |date=2013-05-29 |access-date=2022-12-19}}</ref>。 |
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ペナントシーズン消化も緻密で、ホームゲームでは広いナゴヤドームを利用して数少ないチャンスをものにして投手力で逃げ切り、下位チームとの対戦では慢心による取りこぼしを避けるために采配や選手起用には慎重に気を配っていた。 |
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[[高柳秀樹]]は「試合中にブレることなく自分が思った野球を貫くことですかね。あと森さんとか近くにいる人達も優秀でね。落合さんは一度任せたらもう口を出さないというところも立派だと思います。」<ref>[[ベースボールマガジン]] 別冊新緑号(2023年5月号:[[門田博光]]と南海ホークス) 、[[パンチ佐藤]]の漢の背中!(75)ゲスト◎高栁秀樹[元南海・ダイエー]、78頁</ref>と述べている。 |
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監督就任時の{{by|2004年}}に「この1年は補強を凍結し、個々の選手の能力を10%底上げして日本一を獲る」と宣言し(なお、戦略的な意味では表ローテとなる[[ドミンゴ・グスマン]]を獲得している)、リーグ優勝を果たした。 |
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[[山本昌]]は引退後、[[名球会]]の公式[[YouTube]]チャンネルの動画で落合を「[[予言者]]」と評しており、2003年の日本シリーズ前に「両チームがホームで全勝して、ダイエーが勝つ」と予想して当てる、2004年に補強を凍結して優勝する公約を達成するなど、洞察力に定評があったとしている<ref>{{Citation |title=ワガママ・星野監督、預言者・落合監督!? 中年の星 中日ドラゴンズ 山本昌が語る名監督たちの姿...1億円もらっても? <日本 プロ野球 名球会> |url=https://www.youtube.com/watch?v=FfiVd1YrRU4 |publisher=YouTube |access-date=2022-12-19}}</ref>。 |
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FA権に対して「FAは選手が勝ち取った権利」だと、容認的なスタンスを取っており、在任期間中に[[野口茂樹]]、[[福留孝介]]、[[川上憲伸]]、[[中村紀洋]]と4人の選手がFA権を行使して移籍していった。 |
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試合 |
監督就任1年目は、開幕戦から数試合は勝ち試合のゲームセット時にベンチで喜びを露にしていたが、徐々に試合中は無表情となり一切感情を出さなかった。2011年11月の監督退任後には「イニング毎に必ずベンチ立つでしょ? 裏行って、表情変えているから。監督室帰って、例えばお茶飲んだり、水飲んだり、一人でボソボソ文句いいながら、『あの馬鹿野郎、あんなところで、あの球打ちやがって』とか独り言を言ったり。そこで頭切り替えて、ベンチ行って座っていると。この繰り返しですよ」と語り、努めてそうしていたことを明かしている<ref>{{Cite web ja |url=https://web.archive.org/web/20111201232343/https://news.livedoor.com/article/detail/6073965/ |title=SportsWatch 落合監督が告白、試合中に無表情貫くも、その裏では・・・? |website=livedoor スポーツ |date=2011-11-30 |accessdate=2011-12-01}}</ref>。その意図は「選手はベンチを見てる。怒ってる姿を見せたら、あいつら体動かなくなるから」と語る。また、「それでなくても、そういう野球を中日はずっとやってきたわけでしょ。過去の政権で。戦う人間はこっちじゃないよ。お前ら何しでかしたって別に怒りゃせんから。そのかわり、勝ち負けの責任は俺がとる。個人の成績良い悪いは、お前らが責任とれよ。そこはフォローしないぞ。だから、グラウンド行って戦ってきなさいって」とも話し、過去に中日を監督していた[[星野仙一]]の有り様を踏まえた考えだったことを仄めかした{{R|livedoor20111201}}。 |
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[[2006年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|2006年度ドラフト会議]]では[[田中将大]]の指名を回避して[[堂上直倫]]を指名し、最終的に指名した堂上の入団が実現。田中を指名しなかった理由については後に「本心を言うと……あれは本社命令」と回答している<ref>[https://news.mynavi.jp/article/20220409-2317061/ 落合博満、田中将大をドラフト指名しなかった理由「本心を言うと…」] マイナビニュース 2022/04/09 07:00 (2024年8月27日閲覧)</ref>。 |
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マスコミに対しては、試合後のコメントも他の監督に比べ短く、落合の試合後のコメントを毎回掲載する[[東京中日スポーツ]]の「オレ流語録」コーナー掲載のコメントはほとんど一行のみである。現役時代にチーム事情を敵にばらす記者がいることを知り、自分のチーム事情が漏れるのを警戒しているからであるとされている<ref>週刊現代『中日・落合の再生工場を見に行く』講談社刊、2009年8月15日発行(158-161ページ)、巨人軍担当記者の発言</ref>。{{要出典範囲|また、選手の個人名を出して批判することはあまりしない。これは「選手には家族がいる。もし俺が試合後のコメントで名指しで批判したら、妻が何かいわれたり、子供が学校でいじめられたりする可能性が大きい」と自らの選手時代の体験による配慮である。 |
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2007年11月1日、日本ハムとの日本シリーズ第5戦で、球団として53年ぶりの日本一を成し遂げた。その一方で8回表まで[[完全試合]]投球を続けていた先発の[[山井大介]]を、9回表に[[岩瀬仁紀]]へ交代させた采配には、賛否両論が巻き起こった([[2007年日本シリーズ完全試合リレー]]を参照)<ref>[https://tvtopic.goo.ne.jp/kansai/program/mbs/61543/650910/ 戦え!スポーツ内閣 【緊急生放送!落合博満が大いに語る▼日本シリーズの夜に…]</ref>。 |
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上記の事情から|date=2017年4月}}、マスコミや、球団内からは「ファンサービスが足りない」と批判を受けていた。こうした批判に対し、落合は「勝てばファンはついてくる」と口にしている<ref>[http://www.j-cast.com/2012/02/02121043.html 中日がファンクラブ会報で落合批判 「感謝の心、感じられなかった」]</ref>。 |
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2007年11月13日、中日球団からは初となる、正力松太郎賞を選考委員会の満場一致で受賞した。その際、座長であった川上哲治は「強い信念と、選手の上手い育て方。自分の野球観を持って強いチームを作った。立派な功績」とコメントした<ref>{{Cite web ja |title=中日落合監督が初の正力賞 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/f-bb-tp0-20071113-282710.html |website=日刊スポーツ |date=2007-11-13 |access-date=2022-12-19}}</ref>。[[岡田彰布]]は落合と{{by|2008年}}オフに会話した折、これからはウッズ・和田など他球団の強力な主軸をマネーゲームで取る野球ではなく、選手を育成して勝利するという強い執念を感じたという<ref>週刊現代『中日・落合の再生工場を見に行く』講談社刊、2009年8月15日発行(158-161ページ)</ref>。 |
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{{要出典範囲|しかし、2006年のリーグ優勝決定戦となった10月10日の東京ドームにおける勝利監督インタビューにおいては、こらえきれずに泣き出してしまった。実は延長12回の優勝を決定付けるウッズの満塁本塁打の直後からすでに泣いており、普段は本塁打を打った選手を出迎えることなどは一切無いのに、この時だけは満面の笑顔でウッズを出迎え、抱き合い、その直後から何度もタオルで涙をぬぐう姿が見られた。「今日は絶対に泣くまいと思っていましたが、最初に泣いたのは私でした」とコメント。また「1位で走っている球団の方が、追いかける球団よりも楽に決まっている」とインタビューで度々答えていたものの、優勝決定直後には「(一時は圧倒的なゲーム差を付けるも、終盤に驚異的な追い上げを見せた阪神に対して)あそこまで追い込まれるとは思わなかった」と本音を漏らした|date=2017年4月}}。 |
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2010年は打率、得点でリーグ5位、2011年には両部門でリーグ最下位の成績ながら、球団史上初の連覇を達成した<ref>{{Cite web ja |title=球団史上初の連覇!中日・落合監督「扉を開いた」 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/10/19/kiji/K20111019001848620.html |website=スポニチ Sponichi Annex |date=2011-10-19 |access-date=2022-12-19}}</ref>。2011年5月7日、11敗目を喫した際に「あと50回負けられる」という旨の発言をし<ref>{{Cite web ja |title=続く貧打…落合監督「あと50負けられる」 |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/05/08/kiji/K20110508000778630.html |website=スポニチ Sponichi Annex |date=2011-05-08 |access-date=2022-12-19}}</ref>、結果その年の中日の61敗目がちょうどそのシーズンの優勝ラインとなった。 |
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{{by|2007年}}に[[オリックス・バファローズ|オリックス]]との契約交渉がこじれて自由契約になった[[中村紀洋]]を、2000年から落合の指導を受けていることもあり[[育成選手]](後に支配下登録)として獲得した。中村はその年見事に復活し、日本シリーズMVPも受賞した。 |
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FA権に対しては、落合自身も現役時代に行使した経験があったこともあり、「FAは選手が勝ち取った権利」だと容認的なスタンスを取っている。監督在任期間中は[[野口茂樹]]、[[福留孝介]]、[[川上憲伸]]、[[中村紀洋]]と4人の選手がFA権を行使して移籍していった一方で、埼玉西武ライオンズから[[和田一浩]]をFAで獲得した。 |
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2007年11月1日、日本ハムとの[[日本選手権シリーズ]]第5戦で球団として53年ぶりの日本一を成し遂げた。その一方で8回表まで[[完全試合]]投球を続けていた先発の山井大介を9回表に[[岩瀬仁紀]]へ交代させた采配には、賛否両論が巻き起こった([[2007年日本シリーズにおける完全試合目前の継投]]を参照)。 |
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一方で、マスコミに対しては、試合後のコメントも他の監督に比べ短く、落合の試合後のコメントを毎回掲載する[[東京中日スポーツ]]の「オレ流語録」コーナー掲載のコメントはほとんど一行のみである。現役時代にチーム事情を敵にばらす記者がいることを知り、自分のチーム事情が漏れるのを警戒しているからであるとされている<ref>週刊現代『中日・落合の再生工場を見に行く』講談社刊、2009年8月15日発行(158-161ページ)、巨人軍担当記者の発言</ref>。 |
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2007年11月13日、中日球団からは初となる、[[正力松太郎賞]]を選考委員会の満場一致で受賞した。その際、座長であった川上哲治は「強い信念と、選手の上手い育て方。自分の野球観を持って強いチームを作った。立派な功績」とコメントし<ref>[http://www.nikkansports.com/baseball/f-bb-tp0-20071113-282710.html 中日落合が初の正力賞]</ref>、{{要出典範囲|賞の選考において同年の日本シリーズにおける先述の采配を肯定的に評価したことを明言している。指導者像に厳しい川上が監督を高評価するのは異例のことである。川上以上に指導者像に辛口な[[広岡達朗]]も、落合の高い指導能力と、私情を挟まない采配ぶりを高く評価している|date=2017年4月}} |
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上記の事情から、マスコミや球団内からは「ファンサービスが足りない」と批判を受けていた。こうした批判に対し、落合は「勝てばファンはついてくる」と口にしている<ref name="jcas120202">{{Cite web ja |title=中日がファンクラブ会報で落合批判 「感謝の心、感じられなかった」 |url=https://www.j-cast.com/2012/02/02121043.html |website=J-CAST ニュース |date=2012-02-02 |access-date=2022-12-19}}</ref>。 |
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[[岡田彰布]]は落合と{{by|2008年}}オフに会話した折、これからはウッズ・和田など他球団の強力な主軸をマネーゲームで取る野球ではなく、選手を育成して勝利するという強い執念を感じたという<ref>週刊現代『中日・落合の再生工場を見に行く』講談社刊、2009年8月15日発行(158-161ページ)</ref>。 |
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2011年シーズンをもって監督を退任したが、これに関しては、落合に勝たれては困ると思っていた球団幹部が存在し、さらに同年9月の巨人戦で負けた際、その幹部に[[ガッツポーズ]]をされたことを明かしている<ref>{{Cite web ja |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/10/19/kiji/K20111019001850140.html |title=落合監督&信子夫人“ぶっちゃけ対談”大逆転Vの裏側「全てはそこから」 |website=Sponichi Annex |date=2011-10-19 |accessdate=2017-06-20}}</ref>。実際に、2011年の連覇達成時には、当時のオーナーだった白井文吾と握手を交わしたのに対して、その球団幹部とは握手を交わさずにベンチを去っている。翌2012年のファンクラブ会報誌(1月臨時号)には「[[高木守道]]新監督のファンサービスぶりはすでに前任者をはるかに凌駕している」「前任の監督は『勝てばファンはついてくる』といい、勝つこと以外でのファンサービスには熱心ではなかった」などといった露骨な落合批判の文が掲載された{{R|jcas120202}}<ref>{{Cite book ja |author=長谷川晶一 |authorlink=長谷川晶一 |title=プロ野球12球団ファンクラブ全部に10年間入会してみた! |year=2014 |publisher=集英社 |pages=156-157 |isbn=978-4-08-780722-6}}</ref>。 |
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[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック]]において、12球団で中日だけが自軍の選手を誰も派遣しなかったことで、落合に対し様々な批判が寄せられた。落合は「行くも行かないも選手の自由」としながらも、「選手はあくまでペナントレースを戦うことが仕事」と主張しており、万が一怪我をした場合の補償が万全では無いことを上げている。自身が出筆した「采配」では、「中日ドラゴンズとの間で交わしている『チームを優勝させるために全力を尽くす』という契約を放り出すわけにはいかない。だが、契約相手である球団オーナーを通じて就任を要請されれば、断る理由がない。'''仕事の場面においては、契約はすべてに優先する'''」と記されている{{要ページ番号|date=2017年3月}}。 |
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指導者としてはプロスポーツ選手を育てるために大切な要素を「心技体」の順番ではなく「体技心」の順番と定めている。体力があれば技術が身に付くし、技術があれば、心が動じずに平常心で戦えるという理屈である<ref>[https://tenro-in.com/mediagp/188178/ 落合博満は「心技体」ではなく「体技心」で選手を育てた] 天狼院書店 2021-07-17 (2023年7月9日閲覧)</ref>。 |
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2010年は打率、得点でリーグ5位、2011年には{{要出典範囲|史上初のリーグワーストを記録しながら優勝を果たし|date=2017年3月}}、球団史上初の連覇を達成した<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/10/19/kiji/K20111019001848620.html 球団史上初の連覇!中日・落合監督「扉を開いた」]</ref>。2011年5月7日、11敗目を喫した際に「あと50回負けられる」という旨の発言をし<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/05/08/kiji/K20110508000778630.html 続く貧打…落合監督「あと50負けられる」]</ref>、結果その年の中日の61敗目がちょうどそのシーズンの優勝ラインとなった。 |
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落合が監督を退任してから中日は優勝することがなく低迷が続いているため、もう一度中日の監督復帰を問われることがあったが、「(後ろ盾だった)[[白井文吾]]オーナーが退任したため、もうないだろう。低迷期間中に白井オーナーが『勝つのは簡単だ(落合起用を示唆)。でも、それは皆さん(現球団関係者たち)が許さないんだろう?』という発言を耳にした。だから中日の監督復帰は、(関係者との確執から)まずないだろう」と否定している<ref>{{Cite web ja |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2023/04/25/kiji/20230424s00001173574000c.html |title=落合博満氏 中日監督復帰は「まずないでしょう」と話す理由 |website=スポニチアネックス |date=2023-04-25 |accessdate=2023-08-26}}</ref>。 |
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投手起用に関しては、コーチの森繁和に任せて一切口出ししなかったという。攻撃面ではサインはほとんどなく、基本は選手のやりやすいようにやらせていたという。甘い球や狙い球ならどんどん打っていけ、という考え方で、「狙いがあるなら、全員が初球打ちで3球でチェンジになっても構わない」とも言っていたとされる<ref>[http://www.ninomiyasports.com/archives/7038 辻発彦「西武は最強の“アマチュア野球”」]</ref>。 |
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== 詳細情報 == |
== 詳細情報 == |
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{| {{年度別打撃成績|リーグ= 日本プロ野球}} |
{| {{年度別打撃成績|リーグ= 日本プロ野球}} |
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|style="text-align:center;"|{{by2|1979}} |
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|rowspan="8" style="text-align: |
|rowspan="8" style="text-align:center;"|[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]] |
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|36||69||64||7||15||3||1||2||26||7||1||0||0||0||4||0||1||12||2||.234||.290||.406||.696 |
|373837833)|36||69||64||7||15||3||1||2||26||7||1||0||0||0||4||0||1||12||2||.234||.290||.406||.696 |
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|57||188||166||28||47||7||0||15||99||32||1||0||2||2||17||0||1||23||5||.283||.349||.596||.946 |
|57||188||166||28||47||7||0||15||99||32||1||0||2||2||17||0||1||23||5||.283||.349||.596||.946 |
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|127||502||423||69||138||19||3||33||262||90||6||3||1||4||68||1||6||55||17||'''.326'''||.423||.619||1.043 |
|127||502||423||69||138||19||3||33||262||90||6||3||1||4||68||1||6||55||'''17'''||'''.326'''||.423||.619||1.043 |
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|128||552||462||86||'''150'''||'''32'''||1||'''32'''||'''280'''||'''99'''||8||2||0||4||81||6||5||58||11||'''.325'''||'''.428'''||'''.606'''||'''1.034''' |
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|119||497||428||79||142||22||1||25||241||75||6||5||0||3||64||5||2||52||14||'''.332'''||.419||.563||.982 |
|119||497||428||79||142||22||1||25||241||75||6||5||0||3||64||5||2||52||14||'''.332'''||.419||.563||.982 |
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|129||562||456||89||143||17||3||33||265||94||8||1||0||4||'''98'''||8||4|| |
|129||562||456||89||143||17||3||33||265||94||8||1||0||4||'''98'''||8||4||83||14||.314||.436||.581||1.017 |
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|'''130'''||568||460||'''118'''||169||24||1||'''52'''||'''351'''||'''146'''||5||1||0||4||'''101'''||26||3||40||16||'''.367'''||'''.481'''||'''.763'''||'''1.244''' |
|'''130'''||568||460||'''118'''||169||24||1||'''52'''||'''351'''||'''146'''||5||1||0||4||'''101'''||'''26'''||3||40||16||'''.367'''||'''.481'''||'''.763'''||'''1.244''' |
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|-style="line-height:1.1em;" |
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|style="text-align:center;"|{{by2|1986}} |
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|123||522||417||'''98'''||150||11||0||'''50'''||311||'''116'''||5||1||0||1||'''101'''||'''19'''||3||59||15||'''.360'''||{{Color|red|'''.487'''}}<br />{{Efn2|{{Color|red|'''赤太字'''}}で表記しているが、出塁率が公式記録として採用される前には落合の記録を上回る記録も存在する([[出塁率#参考記録]]を参照)。}}||'''.746'''||'''1.232''' |
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|style="text-align: |
|style="text-align:center;"|{{by2|1987}} |
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|rowspan="7" style="text-align:center;"|[[中日ドラゴンズ|中日]] |
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|123||522||417||'''98'''||150||11||0||'''50'''||311||'''116'''||5||1||0||1||'''101'''||19||3||59||15||'''.360'''||{{Color|red|'''.487'''}}<ref group="注">{{Color|red|'''赤太字'''}}で表記しているが、出塁率が公式記録として採用される前には落合の記録を上回る記録も存在し、公式記録以前を含むシーズン出塁率では歴代8位の記録である([[出塁率]]を参照)。</ref>||'''.746'''||'''1.232''' |
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|style="text-align: center;"|{{by2|1987}} |
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|rowspan="7" style="text-align: center;"|[[中日ドラゴンズ|中日]] |
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|125||519||432||'''83'''||143||'''33'''||0||28||260||85||1||4||0||4||'''81'''||10||2||51||10||.331||'''.435'''||.602||'''1.037''' |
|125||519||432||'''83'''||143||'''33'''||0||28||260||85||1||4||0||4||'''81'''||10||2||51||10||.331||'''.435'''||.602||'''1.037''' |
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|style="text-align: |
|style="text-align:center;"|{{by2|1988}} |
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|'''130'''||557||450||'''82'''||132||31||1||32||261||95||3||4||0||6||'''98'''||13||3||70||11||.293||'''.418'''||'''.580'''||'''.998''' |
|'''130'''||557||450||'''82'''||132||31||1||32||261||95||3||4||0||6||'''98'''||13||3||70||11||.293||'''.418'''||'''.580'''||'''.998''' |
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|style="text-align: |
|style="text-align:center;"|{{by2|1989}} |
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|'''130'''||559||476||78||153||23||1||40||'''298'''||'''116'''||4||3||1||6||'''75'''||7||1||69||11||.321||.410||.626||'''1.036''' |
|'''130'''||559||476||78||153||23||1||40||'''298'''||'''116'''||4||3||1||6||'''75'''||7||1||69||11||.321||.410||.626||'''1.036''' |
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|style="text-align: |
|style="text-align:center;"|{{by2|1990}} |
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|131||570||458||'''93'''||133||19||1||'''34'''||256||'''102'''||3||3||0||8||'''100'''||17||4||87||7||.290||'''.416'''||.559||'''.975''' |
|131||570||458||'''93'''||133||19||1||'''34'''||256||'''102'''||3||3||0||'''8'''||'''100'''||'''17'''||4||87||7||.290||'''.416'''||.559||'''.975''' |
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|style="text-align: |
|style="text-align:center;"|{{by2|1991}} |
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|112||478||374||80||127||17||0||'''37'''||255||91||4||2||0||5||'''95'''||16||4||55||9||.340||'''.473'''||'''.682'''||'''1.155''' |
|112||478||374||80||127||17||0||'''37'''||255||91||4||2||0||5||'''95'''||'''16'''||4||55||9||.340||'''.473'''||'''.682'''||'''1.155''' |
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|style="text-align: |
|style="text-align:center;"|{{by2|1992}} |
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|116||481||384||58||112||22||1||22||202||71||2||3||0||6||88||8||3||74||12||.292||.422||.526||.948 |
|116||481||384||58||112||22||1||22||202||71||2||3||0||6||88||8||3||74||12||.292||.422||.526||.948 |
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|style="text-align: |
|style="text-align:center;"|{{by2|1993}} |
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|119||504||396||64||113||19||0||17||183||65||1||2||0||8||'''96'''||14||4||69||13||.285||.423||.462||.885 |
|119||504||396||64||113||19||0||17||183||65||1||2||0||'''8'''||'''96'''||'''14'''||4||69||13||.285||.423||.462||.885 |
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|style="text-align: |
|style="text-align:center;"|{{by2|1994}} |
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|rowspan="3" style="text-align: |
|rowspan="3" style="text-align:center;"|[[読売ジャイアンツ|巨人]] |
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|129||540||447||53||125||19||0||15||189||68||0||0||0||6||81||4||6||56||13||.280||.393||.423||.815 |
|129||540||447||53||125||19||0||15||189||68||0||0||0||6||81||4||6||56||13||.280||.393||.423||.815 |
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|style="text-align: |
|style="text-align:center;"|{{by2|1995}} |
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|117||483||399||64||124||15||1||17||192||65||1||0||0||8||73||2||3||87||17||.311||.414||.481||.895 |
|117||483||399||64||124||15||1||17||192||65||1||0||0||8||73||2||3||87||17||.311||.414||.481||.895 |
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|style="text-align: |
|style="text-align:center;"|{{by2|1996}} |
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|106||448||376||60||113||18||0||21||194||86||3||0||0||2||67||3||3||53||11||.301||.408||.516||.924 |
|106||448||376||60||113||18||0||21||194||86||3||0||0||2||67||3||3||53||11||.301||.408||.516||.924 |
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|- |
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|style="text-align: |
|style="text-align:center;"|{{by2|1997}} |
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|rowspan="2" style="text-align: |
|rowspan="2" style="text-align:center; white-space:nowrap;"|[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]] |
||
|113||466||397||35||104||14||0||3||127||43||3||0||0||5||61||1||3||60||16||.262||.361||.320||.680 |
|113||466||397||35||104||14||0||3||127||43||3||0||0||5||61||1||3||60||16||.262||.361||.320||.680 |
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|- |
|- |
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|style="text-align: |
|style="text-align:center;"|{{by2|1998}} |
||
|59||192||162||11||38||6||0||2||50||18||0||1||0||2||26||0||2||22||12||.235||.344||.309||.652 |
|59||192||162||11||38||6||0||2||50||18||0||1||0||2||26||0||2||22||12||.235||.344||.309||.652 |
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|- |
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!colspan="2"|通算:20年 |
!colspan="2"|通算:20年 |
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|2236||9257||7627||1335||2371||371||15||510||4302||1564||65||35||4||88||1475||160||63||1135||236||.311||. |
|2236||9257||7627||1335||2371||371||15||510||4302||1564||65||35||4||88||1475||160||63||1135||236||.311||.423||.564||.987 |
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|} |
|} |
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* 括弧内はリーグ平均<ref>数値は [http://www.baseball-reference.com/ Baseball-Reference.com] を参照。</ref> |
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* 各年度の'''太字'''はリーグ最高、{{Color|red|'''赤太字'''}}はNPBにおける歴代最高 |
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高、{{Color|red|'''赤太字'''}}はNPBにおける歴代最高 |
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=== 年度別監督成績 === |
=== 年度別監督成績 === |
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; レギュラーシーズン |
; レギュラーシーズン |
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{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size: |
{|class="wikitable" style="text-align:right; font-size:small;" |
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|-style="line-height:1.25em;" |
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![[年度]]!![[日本プロ野球|球団]]!!順位!![[試合]]!![[勝利]]!![[敗戦]]!![[引き分け|引分]]!![[勝率]]!![[ゲーム差]]!!チーム<br />本塁打!!チーム<br />打率!!チーム<br />防御率!!チーム<br />得点!!チーム<br />失点!![[年齢]] |
|||
![[年度|年<br /><br />度]]!![[日本プロ野球|球<br /><br />団]]!!順<br /><br />位!!試<br /><br />合!![[勝利|勝<br /><br />利]]!![[敗戦|敗<br /><br />戦]]!![[引き分け|引<br /><br />分]]!![[勝率|勝<br /><br />率]]!![[ゲーム差|ゲ<br />|<br />ム<br />差]]!!本<br />塁<br />打!!打<br /><br />率!!防<br />御<br />率!!得<br /><br />点!!失<br /><br />点!![[年齢|年<br /><br />齡]] |
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|[[2004年の中日ドラゴンズ|2004]] |
||
|rowspan="8" style="text-align:center;"|[[中日ドラゴンズ|中日]] |
|||
|1位||138||79||56||3||.585||(7.5)||111||.274||'''3.86'''||623||'''558'''||50歳 |
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|- |
|- |
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|[[2005年の中日ドラゴンズ|2005]] |
|||
|{{by|2005年}}||2位||146||79||66||1||.545||10.0||139||.269||4.13||680||628||51歳 |
|||
|2位||146||79||66||1||.545||10.0||139||.269||4.13||680||628||51歳 |
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|- |
|- |
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|[[2006年の中日ドラゴンズ|2006]] |
|||
|{{by|2006年}}||1位||146||87||54||5||.617||(3.5)||139||'''.270'''||'''3.10'''||'''669'''||'''496'''||52歳 |
|||
|1位||146||87||54||5||.617||(3.5)||139||'''.270'''||'''3.10'''||'''669'''||'''496'''||52歳 |
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|[[2007年の中日ドラゴンズ|2007]] |
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|{{by|2007年}}||'''2位'''||144||78||64||2||.549||1.5||121||.261||3.59||623||556||53歳 |
|||
|'''2位'''||144||78||64||2||.549||1.5||121||.261||3.59||623||556||53歳 |
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|[[2008年の中日ドラゴンズ|2008]] |
|||
|{{by|2008年}}||3位||144||71||68||5||.511||10.0||140||.253||3.53||535||556||54歳 |
|||
|3位||144||71||68||5||.511||10.0||140||.253||3.53||535||556||54歳 |
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|- |
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|[[2009年の中日ドラゴンズ|2009]] |
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|{{by|2009年}}||2位||144||81||62||1||.566||12.0||136||.258||3.17||605||508||55歳 |
|||
|2位||144||81||62||1||.566||12.0||136||.258||3.17||605||508||55歳 |
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|[[2010年の中日ドラゴンズ|2010]] |
|||
|{{by|2010年}}||1位||144||79||62||3||.560||(1.0)||119||.259||'''3.29'''||539||'''521'''||56歳 |
|||
|1位||144||79||62||3||.560||(1.0)||119||.259||'''3.29'''||539||'''521'''||56歳 |
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|[[2011年の中日ドラゴンズ|2011]] |
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|{{by|2011年}}||1位||144||75||59||10||.560||(2.5)||82||<u>.228</u>||'''2.46'''||<u>419</u>||'''410'''||57歳 |
|||
|1位||144||75||59||10||.560||(2.5)||82||<u>.228</u>||'''2.46'''||<u>419</u>||'''410'''||57歳 |
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!colspan="3"|通算:8年 |
!colspan="3"|通算:8年 |
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375行目: | 490行目: | ||
|} |
|} |
||
* ※1 順位の'''太字'''は日本シリーズ優勝、チーム成績の'''太字'''はリーグ1位(最優秀)、<u>下線</u>はリーグ最下位 |
|||
* ※2 2001年から2004年までは140試合制(2004年は選手会ストライキのため2試合が行われなかった) |
|||
* ※3 2005年から2006年までは146試合制 |
|||
* ※4 2007年から144試合制 |
|||
* ※5 優勝年のゲーム差は2位とのゲーム差 |
|||
; ポストシーズン |
; ポストシーズン |
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{| class="wikitable" style="text-align: |
{| class="wikitable" style="text-align:left; font-size:small;" |
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|-style="line-height:1.25em;" |
|||
!年度!!球団!!大会名!!対戦相手!!勝敗 |
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!年<br /><br />度!!球<br /><br />団!!大<br />会<br />名!!相<br /><br />手!!勝<br /><br />敗 |
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|- |
|- |
||
|{{ |
|style="text-align:center;"|{{by2|2004}} |
||
|rowspan="13" style="text-align:center;"|中日 |
|||
|[[2004年の日本シリーズ|日本シリーズ]]||[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]||3勝4敗=敗退 |
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|- |
|- |
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|style="text-align:center;"|{{by2|2006}} |
|||
|{{by|2006年}}||[[2006年の日本シリーズ|日本シリーズ]]||[[北海道日本ハムファイターズ]]||1勝4敗 |
|||
|[[2006年の日本シリーズ|日本シリーズ]]||[[北海道日本ハムファイターズ]]||1勝4敗=敗退 |
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|- |
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|rowspan="3" style="text-align:center"|{{ |
|rowspan="3" style="text-align:center;"|{{by2|2007}} |
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|セ・リーグ [[クライマックスシリーズ]]<br />1stステージ(セ・リーグ2位)||[[阪神タイガース]](セ・リーグ3位)||2勝0敗=ファイナルステージ進出 |
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|- |
|- |
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|セ・リーグ クライマックスシリーズ<br/>2ndステージ||[[読売ジャイアンツ]](セ・リーグ優勝)||3勝0敗 |
|セ・リーグ クライマックスシリーズ<br />2ndステージ||[[読売ジャイアンツ]](セ・リーグ優勝)||3勝0敗=日本シリーズ進出 |
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|- |
|- |
||
|[[2007年の日本シリーズ|日本シリーズ]]||北海道日本ハムファイターズ||4勝1敗 |
|[[2007年の日本シリーズ|日本シリーズ]]||北海道日本ハムファイターズ||4勝1敗=日本一 |
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|- |
|- |
||
|rowspan="2" style="text-align: |
|rowspan="2" style="text-align:center;"|{{by2|2008}} |
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|セ・リーグ クライマックスシリーズ<br />1stステージ(セ・リーグ3位)||阪神タイガース(セ・リーグ2位)||2勝1敗=ファイナルステージ進出 |
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|- |
|- |
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|セ・リーグ クライマックスシリーズ<br />2ndステージ||読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝)||1勝2敗1分 |
|セ・リーグ クライマックスシリーズ<br />2ndステージ||読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝)||1勝2敗1分=敗退 |
||
|- |
|- |
||
|rowspan="2" style="text-align: |
|rowspan="2" style="text-align:center;"|{{by2|2009}} |
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|セ・リーグ クライマックスシリーズ<br />1stステージ(セ・リーグ2位)||[[東京ヤクルトスワローズ]](セ・リーグ3位)||2勝1敗=ファイナルステージ進出 |
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|セ・リーグ クライマックスシリーズ<br />2ndステージ||読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝)||1勝3敗 |
|セ・リーグ クライマックスシリーズ<br />2ndステージ||読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝)||1勝3敗=敗退 |
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|- |
|- |
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|rowspan="2" style="text-align: |
|rowspan="2" style="text-align:center;"|{{by2|2010}} |
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|セ・リーグ [[クライマックスシリーズ]]<br />ファイナルステージ(セ・リーグ優勝)||読売ジャイアンツ(セ・リーグ3位)||3勝1敗=日本シリーズ進出 |
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|- |
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|[[2010年の日本シリーズ|日本シリーズ]]||[[千葉ロッテマリーンズ]]||2勝4敗1分 |
|[[2010年の日本シリーズ|日本シリーズ]]||[[千葉ロッテマリーンズ]]||2勝4敗1分=敗退 |
||
|- |
|- |
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|rowspan="2" style="text-align: |
|rowspan="2" style="text-align:center;"|{{by2|2011}} |
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|セ・リーグ [[クライマックスシリーズ]]<br />ファイナルステージ(セ・リーグ優勝)||東京ヤクルトスワローズ(セ・リーグ2位)||3勝2敗=日本シリーズ進出 |
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|- |
|- |
||
|[[2011年の日本シリーズ|日本シリーズ]]||[[福岡ソフトバンクホークス]]||3勝4敗 |
|[[2011年の日本シリーズ|日本シリーズ]]||[[福岡ソフトバンクホークス]]||3勝4敗=敗退 |
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|} |
|} |
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415行目: | 539行目: | ||
=== タイトル === |
=== タイトル === |
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* [[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]:5回 |
* [[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]:5回(1981年 - 1983年、1985年、1986年)※右打者のパ・リーグ記録。3年連続は[[長嶋茂雄]]・[[アロンゾ・パウエル|パウエル]]と並ぶ右打者最長タイ、パ・リーグ歴代3位 |
||
* [[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]:5回 |
* [[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]:5回(1982年、1985年、1986年、1990年、1991年)※両リーグ本塁打王は史上初 |
||
* [[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]:5回 |
* [[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]:5回(1982年、1985年、1986年、1989年、1990年)※両リーグ打点王は史上唯一 |
||
* [[ |
* [[最高出塁率 (日本プロ野球)|最高出塁率]]:7回(1982年、1985年 - 1988年、1990年、1991年)※受賞7回は歴代2位、右打者歴代1位。パ・リーグで3回(1986年まで)、セ・リーグで4回(1987年以降)はそれぞれのリーグの右打者最多 |
||
* [[最 |
* [[最多安打 (日本プロ野球)|最多安打]]:1回(1982年)※当時連盟表彰なし |
||
* [[勝利打点#年度別最多勝利打点|最多勝利打点]]:5回(1982年、1985年、1988年、1989年、1993年)※受賞5回は史上最多、1989年と1993年は特別賞 |
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=== 表彰 === |
=== 表彰 === |
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* [[最優秀選手 (野球)| |
* [[最優秀選手 (日本プロ野球)|最優秀選手]]:2回(1982年、1985年)※優勝チーム以外から2度以上の選出は[[王貞治]](1964年、1974年)に続いて2人目 |
||
* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:10回 |
* [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:10回(二塁手部門:1981年、1982年 一塁手部門:1983年、1988年、1990年、1991年 三塁手部門:1984年 - 1986年、1989年) ※複数部門に跨がっての10度受賞は歴代最多、複数部門に跨がって6年連続も歴代最長 |
||
* [[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]競技者表彰(2011年) |
|||
* [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:6回(1985年9月、1986年5月、1988年8月 野手部門:1989年8月、1990年5月、1991年8月) |
* [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:6回(1985年9月、1986年5月、1988年8月 野手部門:1989年8月、1990年5月、1991年8月) |
||
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]MVP:2回([[1983年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1983年]]第3戦、[[1995年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1995年]]第1戦) |
|||
* [[日本プロスポーツ大賞]]:1回(1982年) |
|||
* 優秀[[JCB・MEP賞]]:1回(1990年) |
* 優秀[[JCB・MEP賞]]:1回(1990年) |
||
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]MVP:2回({{NPBオールスター|1983年}}第3戦、{{NPBオールスター|1995年}}第1戦) |
|||
* [[日本プロスポーツ大賞]] |
|||
** 大賞:1回(1982年) |
|||
** 40周年特別賞 京楽杯(2007年)<ref>{{Cite web ja |url=http://www.jpsa.jp/award_2007.html |title=2007年 日本プロスポーツ大賞発表!! |website=日本プロスポーツ大賞 |publisher=公益財団法人[[日本プロスポーツ協会]] |date= |accessdate=2017-11-25}}</ref> |
|||
* [[報知プロスポーツ大賞]]:3回(1982年、1985年、1986年) |
|||
* 都民文化栄誉賞(1985年)<ref>{{Cite web ja |url=http://www.seikatubunka.metro.tokyo.jp/bunka/bunka_seisaku/0000000228.html |title=東京都文化賞・都民文化栄誉章 |website=文化振興 |publisher=東京都生活文化局 |date= |accessdate=2017-12-04}}</ref> |
|||
* [[秋田県県民栄誉章]](1987年) |
|||
* [[IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞]]:1回(1991年) |
* [[IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞]]:1回(1991年) |
||
* [[新語・流行語大賞]] 新語部門銅賞(1993年、「FA(フリーエージェント)」) |
|||
* [[正力松太郎賞]]:1回(2007年) |
|||
* よい夫婦の日 ナイス・カップル(1995年、妻:[[落合信子]])<ref>{{Cite web ja |url=http://www.422fufu.com/couple.html |title=歴代ナイスカップル表彰 |website=よい夫婦の日、ナイス カップル |publisher=講談社 |date= |accessdate=2017-12-18}}</ref> |
|||
* [[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]競技者表彰(2011年) |
|||
* [[正力松太郎賞]]:1回(2007年)※監督として表彰 |
|||
* [[最優秀監督賞]](セ・リーグ連盟特別表彰:2011年) |
* [[最優秀監督賞]](セ・リーグ連盟特別表彰:2011年) |
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=== 記録 === |
=== 記録 === |
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; 日本記録 |
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* [[最多安打 (日本プロ野球)|最多安打]]:1回 (1982年)※当時連盟表彰なし |
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* [[三冠 (野球)|三冠王]]:3回(1982年、1985年、1986年)※史上4人目、3回の三冠王は史上唯一。1982年は日本人最速となる入団4年目での達成 |
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;日本記録 |
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* 両リーグ200本塁打以上(パ247本、セ263本) |
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* 2年連続シーズン50本塁打以上(1985年 - 1986年) |
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* シーズン[[得点圏打率]]:.492(1985年) |
* シーズン[[得点圏打率]]:.492(1985年) |
||
* シーズン[[出塁率]]:.487(1986年)※NPB公式での日本記録。ただし、出塁数を採用していた時代のセリーグの記録に遡ると1974年王貞治の.534が日本記録となる。 |
* シーズン[[出塁率]]:.487(1986年)※NPB公式での日本記録。ただし、出塁数を採用していた時代のセ・リーグの記録に遡ると1974年王貞治の.534が日本記録となる。 |
||
* シーズン打率.360以上:2回(1985年、1986年)※日本タイ記録、右打者では史上唯一 |
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* 1試合6[[四球]](1991年10月13日) |
* 1試合6[[四球]](1991年10月13日) |
||
;パ・リーグ記録 |
; パ・リーグ記録 |
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* シーズン[[打点]]:146(1985年 |
* シーズン[[打点]]:146(1985年)※三冠王の最多打点記録 |
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* シーズン[[長打率]]:.763(1985年) |
* シーズン[[長打率]]:.763(1985年) |
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455行目: | 590行目: | ||
* 200本塁打:1986年5月31日、対阪急ブレーブス8回戦(川崎球場)、2回裏に[[今井雄太郎]]から中越先制ソロ ※史上48人目 |
* 200本塁打:1986年5月31日、対阪急ブレーブス8回戦(川崎球場)、2回裏に[[今井雄太郎]]から中越先制ソロ ※史上48人目 |
||
* 250本塁打:1987年5月19日、対[[読売ジャイアンツ]]7回戦([[ナゴヤ球場]])、6回裏に[[西本聖]]から中越2ラン ※史上27人目 |
* 250本塁打:1987年5月19日、対[[読売ジャイアンツ]]7回戦([[ナゴヤ球場]])、6回裏に[[西本聖]]から中越2ラン ※史上27人目 |
||
* 1000 |
* 1000安打:1987年6月2日、対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]9回戦(ナゴヤ球場)、7回裏に[[高橋一彦]]から左越ソロ ※史上148人目 |
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* 1000試合出場:1988年5月14日、対読売ジャイアンツ7回戦(ナゴヤ球場)、4番・三塁手として先発出場 ※史上276人目 |
* 1000試合出場:1988年5月14日、対読売ジャイアンツ7回戦(ナゴヤ球場)、4番・三塁手として先発出場 ※史上276人目 |
||
* 300本塁打:1988年10月2日、対[[阪神タイガース]]23回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に[[仲田幸司]]から右越決勝ソロ ※史上19人目 |
* 300本塁打:1988年10月2日、対[[阪神タイガース]]23回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に[[仲田幸司]]から右越決勝ソロ ※史上19人目 |
||
* 350本塁打:1990年5月8日、対阪神タイガース3回戦([[浜松球場]])、3回裏に[[嶋尾康史|嶋尾慶一]]から左越先制3ラン ※史上14人目(歴代2位の1257試合で到達:当時史上最速、後に[[アレックス・カブレラ]]が更新) |
* 350本塁打:1990年5月8日、対阪神タイガース3回戦([[浜松球場]])、3回裏に[[嶋尾康史|嶋尾慶一]]から左越先制3ラン ※史上14人目(歴代2位の1257試合で到達:当時史上最速、後に[[アレックス・カブレラ]]が更新) |
||
* 1000打点:1990年6月12日、対[[広島東洋カープ]]9回戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])、9回表に[[高木宣宏]]から右越3ラン ※史上21人目(歴代最速の1284試合で到達) |
* 1000打点:1990年6月12日、対[[広島東洋カープ]]9回戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])、9回表に[[高木宣宏]]から右越3ラン ※史上21人目(歴代最速の1284試合で到達) |
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* 1500 |
* 1500安打:1990年9月5日、対読売ジャイアンツ22回戦([[東京ドーム]])、9回表に[[桑田真澄]]から左越3ラン ※史上59人目 |
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* 3000塁打:1991年6月30日、対読売ジャイアンツ10回戦(ナゴヤ球場)、8回裏に[[香田勲男]]からソロ ※史上30人目 |
* 3000塁打:1991年6月30日、対読売ジャイアンツ10回戦(ナゴヤ球場)、8回裏に[[香田勲男]]からソロ ※史上30人目 |
||
* 400本塁打:1991年8月30日、対広島東洋カープ15回戦(広島市民球場)、4回表に[[金石昭人]]から中越ソロ ※史上11人目 |
* 400本塁打:1991年8月30日、対広島東洋カープ15回戦(広島市民球場)、4回表に[[金石昭人]]から中越ソロ ※史上11人目 |
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468行目: | 603行目: | ||
* 450本塁打:1993年8月18日、対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]18回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に[[川崎憲次郎]]から先制決勝2ラン |
* 450本塁打:1993年8月18日、対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]18回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に[[川崎憲次郎]]から先制決勝2ラン |
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* 300二塁打:1994年4月16日、対ヤクルトスワローズ2回戦(東京ドーム)、7回裏に[[内藤尚行]]から ※史上31人目 |
* 300二塁打:1994年4月16日、対ヤクルトスワローズ2回戦(東京ドーム)、7回裏に[[内藤尚行]]から ※史上31人目 |
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* 2000 |
* 2000安打:1995年4月15日、対阪神タイガース2回戦(東京ドーム)、6回裏に[[久保康生]]から左越ソロ ※史上27人目 |
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* 1000三振:1995年10月8日、対広島東洋カープ27回戦(東京ドーム)、2回裏に[[紀藤真琴]]から ※史上21人目 |
* 1000三振:1995年10月8日、対広島東洋カープ27回戦(東京ドーム)、2回裏に[[紀藤真琴]]から ※史上21人目 |
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* 4000塁打:1996年5月18日、対ヤクルトスワローズ7回戦(東京ドーム)、2回裏に[[テリー・ブロス]]からソロ本塁打を放ち達成 ※史上11人目 |
* 4000塁打:1996年5月18日、対ヤクルトスワローズ7回戦(東京ドーム)、2回裏に[[テリー・ブロス]]からソロ本塁打を放ち達成 ※史上11人目 |
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; オールスターゲームの記録 |
; オールスターゲームの記録 |
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* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:15回 |
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:15回({{NPBオールスター|1981年|1982年|1983年|1984年|1985年|1986年|1987年|1988年|1989年|1990年|1991年|1993年|1995年|1996年|1997年}}) ※{{NPBオールスター|1992年}}も選出されるも出場辞退<ref>『[[ベースボール・レコード・ブック]]1993』、ベースボール・マガジン社、1992年12月発売、772頁。</ref> |
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* オールスターゲーム通算打率:.365 ※100打数以上では、歴代1位タイ |
* オールスターゲーム通算打率:.365 ※100打数以上では、歴代1位タイ |
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* オールスターゲーム通算本塁打:11本 ※歴代4位 |
* オールスターゲーム通算本塁打:11本 ※歴代4位 |
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* オールスターゲーム通算打点:27 ※歴代3位タイ |
* オールスターゲーム通算打点:27 ※歴代3位タイ |
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; その他の記録 |
; その他の記録 |
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* [[三冠 (野球)|三冠王]]:3回 (1982年、1985年、1986年)※史上最多 |
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* シーズン[[得点]]:118(1985年)※右打者のパ・リーグ記録 |
* シーズン[[得点]]:118(1985年)※右打者のパ・リーグ記録 |
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* シーズン[[塁打]]:351(1985年)※右打者のパ・リーグ記録 |
* シーズン[[塁打]]:351(1985年)※右打者のパ・リーグ記録 |
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* シーズン打率3割以上:11回(1981年 - 1987年、1989年、1991年、1995年、1996年)※歴代5位タイ、右打者歴代1位タイ。1996年は43歳になる年での達成で史上最年長記録。 |
* シーズン打率3割以上:11回(1981年 - 1987年、1989年、1991年、1995年、1996年)※歴代5位タイ、右打者歴代1位タイ。1996年は43歳になる年での達成で史上最年長記録。 |
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* シーズン50本塁打以上:2回(1985年、1986年)※歴代2位タイ |
* シーズン50本塁打以上:2回(1985年、1986年)※歴代2位タイ、2年連続は史上初(他は[[アレックス・カブレラ]]が達成) |
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* シーズン打率.360以上:2回(1985年、1986年)※日本タイ記録、右打者では史上唯一 |
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* シーズン30本塁打以上:9回(1981年、1982年、1984年 - 1986年、1988年 - 1991年)※歴代3位タイ |
* シーズン30本塁打以上:9回(1981年、1982年、1984年 - 1986年、1988年 - 1991年)※歴代3位タイ |
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* 17年連続シーズン100安打以上(1981年 - 1997年)※歴代4位タイ |
* 17年連続シーズン100安打以上(1981年 - 1997年)※歴代4位タイ |
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* |
* 両リーグ1000安打以上(パ:1096本、セ:1275本)※史上2人目 |
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* 5試合連続本塁打(1989年10月10日 - 14日) |
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* 両リーグ1000安打以上(パ1096本、セ1275本)※史上2人目 |
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* 通算打率:.3108(1979年 - 1998年)※右打者の日本人歴代最高打率、5000打数以上では右打者最高打率。 |
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* 両リーグ200本塁打以上(パ247本、セ263本)※史上唯一 |
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* 5試合連続本塁打(1989年10月10日 - 10月14日) |
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* 通算打率:.3108(1979年 - 1998年)※右打者の日本人歴代最高打率、5000打数以上では右打者最高打率 |
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* 通算出塁率:.422(1979年 - 1998年)※歴代2位、右打者歴代1位 |
* 通算出塁率:.422(1979年 - 1998年)※歴代2位、右打者歴代1位 |
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* 通算長打率:.564(1979年 - 1998年)※右打者の日本人歴代1位 |
* 通算長打率:.564(1979年 - 1998年)※右打者の日本人歴代1位 |
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* 通算四球:1475(1979年 - 1998年)※歴代2位、右打者歴代1位 |
* 通算四球:1475(1979年 - 1998年)※歴代2位、右打者歴代1位 |
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* シーズン[[打率]]:.367(1985年)※右打者歴代3位 |
* シーズン[[打率]]:.367(1985年)※右打者歴代3位 |
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* シーズン[[本塁打]]:52(1985年)※右打者の日本人歴代最多タイ記録 |
* シーズン[[本塁打]]:52(1985年)※右打者の日本人歴代最多タイ記録、パ・リーグ日本人最多タイ記録 |
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* 首位打者、本塁打王、打点王全て5回以上獲得:他に[[王貞治]]のみ |
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* 首位打者、最高出塁率、最高長打率の同時獲得:3回(1982年、1985年、1986年)※王(5回)に次ぐ歴代2位タイ(他に[[長嶋茂雄]]) |
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* 両リーグで最多得点を記録:史上唯一 |
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* 両リーグで最多長打:(パ:1982、1985年、セ:1988、1989年)※他に[[張本勲]]のみ |
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* 両リーグで最多塁打:(パ:1982、1985年、セ:1989年)※他に張本のみ |
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* リーグ最多長打:4回 ※王に次ぐ歴代2位タイ |
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* リーグ最多四球:8年連続9回 ※パ・リーグで3年連続は最長タイ。セ・リーグで5年連続6回、合わせて8年連続9回は全て王に次ぐ歴代2位。 |
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** 両リーグで最多四球の獲得は史上唯一 |
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* 最高長打率:5回 ※王に次ぐ歴代2位タイ |
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** 両リーグで最高長打率の獲得は史上唯一 |
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=== 背番号 === |
=== 背番号 === |
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* '''6''' |
* '''6'''(1979年 - 1993年、1995年 - 1996年) |
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* '''60''' |
* '''60'''(1994年) |
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* '''3''' |
* '''3'''(1997年 - 1998年) |
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* '''66''' |
* '''66'''(2004年 - 2011年) |
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== 関連情報 == |
== 関連情報 == |
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=== 著書 === |
=== 著書 === |
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*『なんと言われようとオレ流さ』([[講談社]]、 |
* 『なんと言われようとオレ流さ』([[講談社]]、1986年4月、ISBN 4062026295) |
||
*『勝負の方程式』([[小学館]]、 |
* 『勝負の方程式』([[小学館]]、1994年6月、ISBN 4093871213) |
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*『激闘と挑戦:巨人軍・落合博満が闘った奇蹟の136試合』(鈴木洋史共著、小学館、 |
* 『激闘と挑戦:巨人軍・落合博満が闘った奇蹟の136試合』(鈴木洋史共著、小学館、1995年6月、ISBN 4093871574) |
||
*『不敗人生:43歳からの挑戦』(鈴木洋史共著、小学館、 |
* 『不敗人生:43歳からの挑戦』(鈴木洋史共著、小学館、1997年2月、ISBN 4093872120){{Efn2|「不敗人生」との語句は、この年に入団した日本ハム選手別応援歌での落合向けの歌詞にも採用された。}} |
||
*『野球人』([[ベースボール・マガジン社]] |
* 『野球人』([[ベースボール・マガジン社]]、1998年12月、ISBN 4583035691) |
||
*『プロフェッショナル』(ベースボール・マガジン社 |
* 『プロフェッショナル』(ベースボール・マガジン社、1999年12月、ISBN 4583036213) |
||
*『落合にきけ!』( |
* 『落合にきけ!』([[朝日新聞社]]、2000年3月、ISBN 402257478X) |
||
*『コーチング:言葉と信念の魔術』([[ダイヤモンド社]] |
* 『コーチング:言葉と信念の魔術』([[ダイヤモンド社]]、2001年9月、ISBN 4478720215) |
||
*『落合博満の超野球学(1):バッティングの理屈』(ベースボール・マガジン社 |
* 『落合博満の超野球学(1):バッティングの理屈』(ベースボール・マガジン社、2003年5月、ISBN 458303749X) |
||
*『落合博満の超野球学(2):続・バッティングの理屈』(ベースボール・マガジン社 |
* 『落合博満の超野球学(2):続・バッティングの理屈』(ベースボール・マガジン社、2004年3月、ISBN 4583037910) |
||
*『采配』(ダイヤモンド社、 |
* 『采配』(ダイヤモンド社、2011年11月、ISBN 4478016267) |
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*『戦士の休息』(岩波書店、2013年8月、ISBN 9784000259125) |
* 『戦士の休息』([[岩波書店]]、2013年8月、ISBN 9784000259125) |
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*『落合博満 バッティングの理屈:三冠王が考え抜いた「野球の基本」』(ダイヤモンド社、2015年7月、ISBN 9784478061916) ※『落合博満の超野球学(1)』『落合博満の超野球学(2)』 |
* 『落合博満 バッティングの理屈:三冠王が考え抜いた「野球の基本」』(ダイヤモンド社、2015年7月、ISBN 9784478061916) |
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:: ※『落合博満の超野球学(1)』、『落合博満の超野球学(2)』の再編版 |
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* 『落合博満アドバイス 指導者に明かす野球の本質』(ダイヤモンド社、2017年7月、ISBN 4478103089) |
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* 『決断=実行』(ダイヤモンド社、2018年11月、ISBN 4478106150) |
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* 『戦士の食卓』(岩波書店、2021年4月、ISBN 9784000614641) |
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※ |
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=== 関連書籍 === |
=== 関連書籍 === |
||
*『奇跡を呼ぶ男落合博満物語』(綾野まさる著、小学館、1999年4月、ISBN 4092900953) |
* 『奇跡を呼ぶ男落合博満物語』(綾野まさる著、小学館、1999年4月、ISBN 4092900953) |
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*『落合戦記:日本一タフで優しい指揮官の独創的「采配&人心掌握術」』([[横尾弘一]]著、ダイヤモンド社 2004年11月 ISBN 4478960917) |
* 『落合戦記:日本一タフで優しい指揮官の独創的「采配&人心掌握術」』([[横尾弘一]]著、ダイヤモンド社 2004年11月 ISBN 4478960917) |
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*『落合博満変人の研究』([[ねじめ正一]]著、新潮社、2008年4月、ISBN 9784103722069) |
* 『落合博満変人の研究』([[ねじめ正一]]著、新潮社、2008年4月、ISBN 9784103722069) |
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*『なぜ日本人は落合博満が嫌いか?』([[テリー伊藤]]著、[[角川oneテーマ21]]、2010年5月、ISBN 9784047102439) |
* 『なぜ日本人は落合博満が嫌いか?』([[テリー伊藤]]著、[[角川oneテーマ21]]、2010年5月、ISBN 9784047102439) |
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*『原辰徳と落合博満の監督力』([[張本勲]]著、[[青志社]]、2011年1月、ISBN 9784905042105) |
* 『原辰徳と落合博満の監督力』([[張本勲]]著、[[青志社]]、2011年1月、ISBN 9784905042105) |
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*『プロ野球にとって正義とは何か:落合解任と「プロの流儀」VS.「会社の論理」』([[手束仁]]著、[[イースト・プレス]]、2012年3月、ISBN 978-4781607597) |
* 『プロ野球にとって正義とは何か:落合解任と「プロの流儀」VS.「会社の論理」』([[手束仁]]著、[[イースト・プレス]]、2012年3月、ISBN 978-4781607597) |
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**『プロ野球にとって正義とは何か:落合博満と「プロの流儀」VS.「組織の論理」』(改題、[[文庫ぎんが堂]]、2014年2月、ISBN 9784781671048) |
** 『プロ野球にとって正義とは何か:落合博満と「プロの流儀」VS.「組織の論理」』(改題、[[文庫ぎんが堂]]、2014年2月、ISBN 9784781671048) |
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*『野村「ID」野球と落合「オレ流」野球』([[川崎憲次郎]]著、KKロングセラーズ、2012年12月、ISBN 978-4-845-42266-1) |
* 『野村「ID」野球と落合「オレ流」野球』([[川崎憲次郎]]著、KKロングセラーズ、2012年12月、ISBN 978-4-845-42266-1) |
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* 『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』([[鈴木忠平]]著、[[文藝春秋社]]、2021年9月、ISBN 978-4163914411) |
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** {{Cite book|和書|author=鈴木忠平|title=嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか|date=2024-10-10|publisher=文藝春秋|series=[[文春文庫]]|isbn=978-4-16-792288-7}}(電子版あり) |
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=== 出演番組 === |
=== 出演番組 === |
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* [[月曜ワイド劇場]]「サンデー兆治の妻」(1986年4月7日、[[テレビ朝日]]) |
* [[月曜ワイド劇場]]「サンデー兆治の妻」(1986年4月7日、[[テレビ朝日]]) |
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* [[加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ|加トちゃんケンちゃんおめでとうテレビ'87]]・THE DETECTIVE STORY(ゲスト出演)(1987年1月3日、[[TBSテレビ|TBS]]) |
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* [[スーパー電波バザール 年越しジャンボ同窓会]](1993年12月31日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) |
* [[スーパー電波バザール 年越しジャンボ同窓会]](1993年12月31日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) |
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* [[桃太郎侍]](1994年3月31日、テレビ朝日。長男と一緒に出演) |
* [[桃太郎侍]](1994年3月31日、テレビ朝日。長男と一緒に出演) |
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* [[プロ野球中継]](解説) |
* [[プロ野球中継]](解説) |
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** [[スーパーベースボール (テレビ朝日系列)|スーパーベースボール]]([[ |
** [[スーパーベースボール (テレビ朝日系列)|スーパーベースボール]]([[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]。タイトルが『ゴールデンナイター』『パワーアップナイター』『プロ野球中継』だった1999年 - 2001年はテレビ朝日専属解説者。テレビ朝日時代から中日監督就任前のフリー時代は[[九州朝日放送|KBCテレビ]]にて月1回のゲスト解説、2012年・2013年は[[名古屋テレビ放送|メ〜テレ]]で本数契約として出演{{Efn2|2013年<ref>[https://web.archive.org/web/20130714175539/http://www.nagoyatv.com/superbaseball 2013年当時、メ〜テレ公式サイト内で配信された6月15日放送のロッテ対中日告知ページ](インターネットアーカイブ同7月14日付保存キャッシュ)</ref>}}) |
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** [[KBCホークスナイター|KBCジャンボナイター]]([[KBCラジオ]]。テレビ朝日専属時代にゲスト解説として出演) |
** [[KBCホークスナイター|KBCジャンボナイター]]([[KBCラジオ]]。テレビ朝日専属時代にゲスト解説として出演) |
||
** [[東海ラジオ ガッツナイター]]([[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]。2002年<ref>[https://web.archive.org/web/20021022154025/http://www.tokairadio.co.jp/program/gutsnighter/contents.htm 2002年当時、東海ラジオウェブサイト内に掲載されたプロ野球中継日程表](インターネットアーカイブ2002年10月22日付保存キャッシュ)より、24日の中日対ヤクルト戦解説欄に「落合博光(ゲスト)」と明記(名前は誤記)。</ref>・2003年<ref>[https://web.archive.org/web/20031006214159/http://www.tokairadio.co.jp/program/gutsnighter/index.htm 2003年当時、東海ラジオウェブサイト内に掲載されたプロ野球中継日程表](インターネットアーカイブ2003年10月6日付保存キャッシュ)より、4月18日・5月7日・6月13日・8月15日の解説欄に落合の名が明記。</ref>) |
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** [[東海ラジオ ガッツナイター]]([[東海ラジオ放送|東海ラジオ]]。2002年・2003年<ref>参考リンク: |
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* [ |
** [[野球道 〜挑戦〜|東海テレビ制作・放送分]](2002年6月11日、中日対阪神戦<ref>[https://web.archive.org/web/20020608120010/http://tv.nikkansports.com/019a/20020611.html 2002年6月11日の中京地区におけるテレビ番組予定表] - 『tv.nikkansports.com』(日刊スポーツ)より(インターネットアーカイブ同8日付保存キャッシュ) ※東海テレビの19:00 - 20:49を参照。鈴木孝政と併記。</ref>) |
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** [[侍プロ野球]]([[ジャパン・ニュース・ネットワーク|TBS系列]]。2012年4月19日、[[CBCテレビ]]制作の中日対巨人戦に出演{{Efn2|参考:[[TBSチャンネル]]での放送告知ページ<ref>[https://web.archive.org/web/20120515084749/http://www.tbs.co.jp/tbs-ch/lineup/s1327.html 侍プロ野球 2012「中日×巨人」] - TBSチャンネル公式サイト内番組詳細情報(インターネットアーカイブ2012年5月15日付保存キャッシュ)</ref>、放送の模様をつづったネットニュース記事<ref>[https://web.archive.org/web/20120423223910/http://gendai.net/articles/view/sports/136270 巨人戦 初解説 落合博満 原巨人をメッタ斬り] - 『ゲンダイネット』2012年4月20日付(インターネットアーカイブ2012年4月23日付保存キャッシュ) ※中日監督退任後初めて、ナゴヤドームでのテレビ解説という旨で報道(放送局については、明記されず)。</ref>・スポーツライターのブログ<ref>[http://www.plus-blog.sportsnavi.com/nakami/article/223 【読売解説遊戯】落合博満が斬る巨人軍「オレ流時々フェイク」とは?] - 『プロ野球死亡遊戯』2012年4月20日付(文:nakami)</ref>}}) |
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* [http://wayback.archive.org/web/20031006214159/http://www.tokairadio.co.jp/program/gutsnighter/index.htm 2003年当時、東海ラジオウェブサイト内に掲載されたプロ野球中継日程表](インターネットアーカイブ2003年10月6日付保存キャッシュ)より、4月18日・5月7日・6月13日・8月15日の解説欄に落合の名が明記。</ref>) |
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** [[NHKプロ野球]](2012年5月19日、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]で放送の巨人対ソフトバンク交流戦に出演{{Efn2|NHKクロニクルの番組表検索結果を参照<ref>[http://cgi2.nhk.or.jp/chronicle/pg/page010-01.cgi?recId=&uniqueKey=&parentTitle=&parentDate=&hitCount=0&sort=&programPage=1&keyword=%E3%83%97%E3%83%AD%E9%87%8E%E7%90%83%E3%80%80%E8%90%BD%E5%90%88%E5%8D%9A%E6%BA%80%E3%80%80%E5%B7%A5%E8%97%A4%E4%B8%89%E9%83%8E&op=AND&keyword_not=&op_not=AND&analog_synthesis=01&digital_synthesis1=21&digital_synthesis2=22&analog_satellite1=03&analog_satellite2=04&analog_satellite_hi=08&digital_satellite1=11&digital_satellite2=12&digital_satellite_hi=10&bs1=11_1&bs_premium=10_1&year_1=2012&month_1=&day_1=&year_2=2013&month_2=&day_2=&from_hour=&from_minute=&to_hour=&to_minute=&lgenre1=&lgenre2=&lgenre3=&genre_op=AND&rec_count=50¶ms=&cal_edit= 番組表検索結果(キーワード…「プロ野球」「落合博満」)] - NHKクロニクルより</ref>。}}) |
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** [[野球道 〜挑戦〜|東海テレビ制作・放送分]](2002年6月11日、中日対阪神戦<ref>[http://wayback.archive.org/web/20020608120010/http://tv.nikkansports.com/019a/20020611.html 2002年6月11日の中京地区におけるテレビ番組予定表] - 『tv.nikkansports.com』(日刊スポーツ)より(インターネット・アーカイブ同8日付保存キャッシュ) ※東海テレビの19:00 - 20:49を参照。鈴木孝政と併記。</ref>) |
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** [[J SPORTS STADIUM]](2012年のセントラル・リーグ クライマックスシリーズ ファーストステージ 中日対ヤクルト第1戦{{Efn2|参考:『週刊ポスト』2012年11月2日号掲載記事<ref>{{Cite web ja |url=https://www.news-postseven.com/archives/20121022_150533.html?DETAIL |title=落合・森の昨季中日首脳陣 中日戦解説で高木采配メッタ斬り |website=NEWSポストセブン |date=2012-10-22 |accessdate=2024-02-18}}</ref>、『プロ野球&メジャーリーグ解説者名鑑』でも、2012年の中日対ヤクルトクライマックスシリーズ中継で森繁和と解説を務めたことが記されている(第何戦・どこの局であるのかは明記せず)<ref>『プロ野球&メジャーリーグ解説者名鑑』P74に掲載された、森繁和のプロフィール</ref>}}) |
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** [[侍プロ野球]]([[Japan News Network|TBS系列]]。2012年4月19日、[[CBCテレビ]]制作の中日対巨人戦に出演{{#tag:ref|参考:[[TBSチャンネル]]での放送告知ページ<ref>[http://wayback.archive.org/web/20120515084749/http://www.tbs.co.jp/tbs-ch/lineup/s1327.html 侍プロ野球 2012「中日×巨人」] - TBSチャンネル公式サイト内番組詳細情報(インターネット・アーカイブ2012年5月15日付保存キャッシュ)</ref>、放送の模様をつづったネットニュース記事<ref>[http://wayback.archive.org/web/20120423223910/http://gendai.net/articles/view/sports/136270 巨人戦 初解説 落合博満 原巨人をメッタ斬り] - 『ゲンダイネット』2012年4月20日付(インターネット・アーカイブ2012年4月23日付保存キャッシュ) ※中日監督退任後初めて、ナゴヤドームでのテレビ解説という旨で報道(放送局については、明記されず)。</ref>・スポーツライターのブログ<ref>[http://www.plus-blog.sportsnavi.com/nakami/article/223 【読売解説遊戯】落合博満が斬る巨人軍「オレ流時々フェイク」とは?] - 『プロ野球死亡遊戯』2012年4月20日付(文:nakami)</ref>|group="注"}}) |
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** [[NHKプロ野球]](2012年5月19日、[[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]で放送の巨人対ソフトバンク交流戦に出演{{#tag:ref|NHKクロニクルの番組表検索結果を参照<ref>[http://cgi2.nhk.or.jp/chronicle/pg/page010-01.cgi?recId=&uniqueKey=&parentTitle=&parentDate=&hitCount=0&sort=&programPage=1&keyword=%E3%83%97%E3%83%AD%E9%87%8E%E7%90%83%E3%80%80%E8%90%BD%E5%90%88%E5%8D%9A%E6%BA%80%E3%80%80%E5%B7%A5%E8%97%A4%E4%B8%89%E9%83%8E&op=AND&keyword_not=&op_not=AND&analog_synthesis=01&digital_synthesis1=21&digital_synthesis2=22&analog_satellite1=03&analog_satellite2=04&analog_satellite_hi=08&digital_satellite1=11&digital_satellite2=12&digital_satellite_hi=10&bs1=11_1&bs_premium=10_1&year_1=2012&month_1=&day_1=&year_2=2013&month_2=&day_2=&from_hour=&from_minute=&to_hour=&to_minute=&lgenre1=&lgenre2=&lgenre3=&genre_op=AND&rec_count=50¶ms=&cal_edit= 番組表検索結果(キーワード…「プロ野球」「落合博満」)] - NHKクロニクルより</ref>。|group="注"}}) |
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** [[J SPORTS STADIUM]](2012年のセントラル・リーグ クライマックスシリーズ ファーストステージ 中日対ヤクルト第1戦{{#tag:ref|参考:『週刊ポスト』2012年11月2日号掲載記事<ref>[http://www.news-postseven.com/archives/20121022_150533.html 落合・森の昨季中日首脳陣 中日戦解説で高木采配メッタ斬り] - 『NEWSポストセブン』2012年10月22日7時付配信(ソース:『週刊ポスト』同11月2日号)</ref>、『プロ野球&メジャーリーグ解説者名鑑』でも、2012年の中日対ヤクルトクライマックスシリーズ中継で森繁和と解説を務めたことが記されている(第何戦・どこの局であるのかは明記せず)<ref>『プロ野球&メジャーリーグ解説者名鑑』P74に掲載された、森繁和のプロフィール</ref>|group="注"}}) |
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* [[すぽると!]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]。2002年の日本シリーズ試合解説を全試合担当) |
* [[すぽると!]]([[フジテレビジョン|フジテレビ]]。2002年の日本シリーズ試合解説を全試合担当) |
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* 最強チームはこうして生まれた!~落合監督が語る 日本一への道~([[NHK BS1]]、2007年12月。聞き手は[[梨田昌孝]]、[[与田剛]]) |
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* [[サンデースポーツ]](NHK総合テレビ。2012年から不定期でプロ野球解説として出演) |
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* [[サンデースポーツ]](NHK総合テレビ。2012年から不定期でプロ野球解説として出演 2022年4月度の改編からは週替わりのレギュラーコメンテーターとして出場) |
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* [[めざせ!会社の星]]([[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]]。2013年7月10日、7月17日他) |
* [[めざせ!会社の星]]([[NHK教育テレビジョン|NHK Eテレ]]。2013年7月10日、7月17日他) |
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* [[戦え!スポーツ内閣]](毎日放送テレビ、2018年5月23日 以降定期的に出演) |
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* [[クローズアップ現代+]] [[大谷翔平]] 驚異の進化の舞台裏(NHK総合テレビ、2021年6月15日、解説) |
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* JA淡路日の出スポーツスペシャル ~MBSべ―スボールパーク番外編~落合博満×掛布雅之 THE・野球談議(2021年12月29日、[[MBSラジオ]]) |
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=== 出演CM === |
=== 出演CM === |
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* [[アートネイチャー]]「若露」([[育毛剤]]。1983年) |
* [[アートネイチャー]]「若露」([[育毛剤]]。1983年) |
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* [[ロッテ]] 「木の葉」(スナック菓子。1983年) |
* [[ロッテ]] 「木の葉」(スナック菓子。1983年) |
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* ロッテ |
* ロッテ電子工業「ホカロン」(1982年。[[有藤通世|有藤道世]]と共演) |
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* [[ミズノ]]「ワールドウィン・ベースボールグッズ」(1987年。[[ランディ・バース]]と共演) |
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* [[東海旅客鉄道]]([[一本列島|1988年3月13日ダイヤ改正]]) |
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* [[東海旅客鉄道]]「[[一本列島|3月13日ダイヤ改正]]」(1988年。一家で出演(※ラジオCMは夫人の信子と共演したCMがある)) |
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* [[愛知県警察]] |
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* [[愛知県警察]]「チャイルドシート着用率」(2004年) |
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* [[中部電力]] |
* [[中部電力]] |
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* [[富士通]]「[[FMV]]」(2005年。[[木村拓哉]]と共演<ref>{{Cite web ja |url=https://pr.fujitsu.com/jp/news/2005/01/11.html |title=木村拓哉さん出演の「FMVシリーズ」TV-CM第15弾「オレ流」篇 |website=PRESS RELEASE |publisher=富士通 |date=2005-01-11 |access-date=2022-11-13}}</ref>) |
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* [[富士通]](パソコン「[[FMV]]」。中日監督時代に[[木村拓哉]]と共演) |
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* [[2007年愛知県知事選挙]] |
* [[2007年愛知県知事選挙]]CM(2007年。[[戸田恵梨香]]と共演) |
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=== ディスコグラフィー === |
=== ディスコグラフィー === |
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* 『[[ドカベン プロ野球編]]』(水島新司作) |
* 『[[ドカベン プロ野球編]]』(水島新司作) |
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* 『[[ミラクルジャイアンツ童夢くん]]』(漫画・アニメ、[[石ノ森章太郎]]原作) - 声・[[沢木郁也]] |
* 『[[ミラクルジャイアンツ童夢くん]]』(漫画・アニメ、[[石ノ森章太郎]]原作) - 声・[[沢木郁也]] |
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* 『落合博満のオレ流転生』(原作:[[宮川サトシ]]、漫画:川)<ref>{{Cite web ja |url=https://morning.kodansha.co.jp/news/5607.html |title=【特報】 日本野球界伝説の「三冠王」が、異世界転生!? 仕掛け人はドアラ?? 衝撃の新連載『落合博満のオレ流転生』本日開幕! |website=イブニング |publisher=講談社 |date=2024-03-28 |accessdate=2024-03-28}}</ref> |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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== 参考資料 == |
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* 落合博満『なんと言われようとオレ流さ』講談社、1986年 |
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* [[古矢徹]]著『プロ野球&メジャーリーグ解説者名鑑 ただいま放送席の音声のみでお送りしています』(2013年7月1日、メタモル出版発行。コード:ISBN 978-4-89595-8448) |
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* [[古矢徹]]著『プロ野球&メジャーリーグ解説者名鑑 ただいま放送席内の音声のみでお送りしています』(2013年7月1日、メタモル出版発行。コード:ISBN 978-4-89595-8448) |
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* {{Cite book|和書|title=采配|author=落合|publisher=ダイヤモンド社|isbn=9784478016268|date=2017-11-17|ref=saihai}} |
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* [[有本義明]]『プロ野球三国志』[[毎日新聞社]]、1992年 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[落合博満野球記念館]] |
* [[落合博満野球記念館]] |
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* [[プロ野球28会]] |
* [[プロ野球28会]] |
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* [[マグマ大使]] |
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=== 関連人物 === |
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* [[ジャイアント落合]] - 甥にあたる格闘家。 |
* [[ジャイアント落合]] - 甥にあたる格闘家。 |
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* [[牧田知丈]] - テレビバラエティ番組『[[とんねるずのみなさんのおかげでした]]』の企画「[[博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜|細かすぎて伝わらないモノマネ選手権]]」で落合のモノマネを行い、名が知れ渡った製薬会社勤務の男性 |
* [[牧田知丈]] - テレビバラエティ番組『[[とんねるずのみなさんのおかげでした]]』の企画「[[博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜|細かすぎて伝わらないモノマネ選手権]]」で落合のモノマネを行い、名が知れ渡った製薬会社勤務の男性。 |
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* [[峰竜太]] - 俳優・タレント。現役時代から落合と交流がある。自身もドラゴンズファンであることから、優勝時の[[ビールかけ]]に参加したり、自身が司会を務める[[ドラゴンズHOTスタジオ]]では民放在名テレビ局で唯一、毎年キャンプ前に峰と落合のインタビューを放送している。 |
* [[峰竜太]] - 俳優・タレント。現役時代から落合と交流がある。自身もドラゴンズファンであることから、優勝時の[[ビールかけ]]に参加したり、自身が司会を務める[[ドラゴンズHOTスタジオ]]では民放在名テレビ局で唯一、毎年キャンプ前に峰と落合のインタビューを放送している。 |
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* [[ねじめ正一]]、[[テリー伊藤]] - 両者とも落合に関する著書を出している。 |
* [[ねじめ正一]]、[[テリー伊藤]] - 両者とも落合に関する著書を出している。 |
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== 外部リンク == |
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* [ |
* [https://baseball-museum.or.jp/hall-of-famers/hof-172/ 野球殿堂 落合博満] |
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* [http://www2.w-shokokai.or.jp/taiji/m/ochiai.htm 落合博満記念館]([http://www.mikumano.or.jp/index.html 南紀くろしお商工会] より) |
* [http://www2.w-shokokai.or.jp/taiji/m/ochiai.htm 落合博満記念館]([http://www.mikumano.or.jp/index.html 南紀くろしお商工会] より) |
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* [https://sp.baseball.findfriends.jp/player/19530014/ 選手情報] - 週刊ベースボールONLINE |
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* {{Twitter|ochiaioreryu|落合博満のオレ流チャンネル}} |
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* {{YouTube| channel = UCP4ORJd6Knja3kAL40F6YXg|【公式】落合博満のオレ流チャンネル}} |
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2024年12月17日 (火) 15:42時点における最新版
中日監督時代(2007年) | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 秋田県南秋田郡潟西村(現:男鹿市) |
生年月日 | 1953年12月9日(71歳)[1] |
身長 体重 |
178[1] cm 82[1] kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 一塁手、三塁手、二塁手 |
プロ入り | 1978年[1] ドラフト3位[1] |
初出場 | 1979年5月29日 |
最終出場 | 1998年10月7日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
| |
監督歴 | |
| |
野球殿堂(日本) | |
選出年 | 2011年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
この表について
|
落合 博満 | ||||||||
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YouTube | ||||||||
チャンネル | ||||||||
活動期間 | 2022年3月18日 - | |||||||
ジャンル | 野球 | |||||||
登録者数 | 49.8万人 | |||||||
総再生回数 | 76,466,778回 | |||||||
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チャンネル登録者数・総再生回数は 2024年8月14日時点。 |
落合 博満(おちあい ひろみつ、1953年〈昭和28年〉12月9日 - )は、日本の元プロ野球選手(内野手、右投右打[1])・監督、野球解説者、タレント。
秋田県南秋田郡潟西村(現・男鹿市)出身[2]。血液型はO型[3]。
選手時代は1979年から1998年にかけてロッテオリオンズ・中日ドラゴンズ・読売ジャイアンツ(巨人)・日本ハムファイターズの計4球団に在籍した。ロッテ時代には史上4人目かつNPB史上唯一の3度の三冠王を達成し、NPB史上最高の右打者の1人とされる。また20世紀最後・昭和最後・右打者最後の三冠王達成者でもある。
2004年から2011年まで中日の監督を務め、全ての年でAクラス入りを果たし、4度のリーグ優勝・1度の日本シリーズ優勝を達成している。2013年シーズンオフから2017年1月までは中日のゼネラルマネージャーを務めた。
経歴
[編集]プロ入り前
[編集]男3人、女4人の7人兄弟の末っ子として秋田県に生まれる[4]。実家は和菓子屋で、幼少期より新聞で丸めたボールを棒で打つ野球に似た遊びをしていた。兄の影響で琴浜村立鵜木小学校4年生の時に地元の野球チームに入部する[4]。憧れの選手は長嶋茂雄であった。小学校での学業成績は、図工を除いて常に上位に入っていた[5]。琴浜村立潟西中学校では1年生から4番でエースだったが、大会ではいつも1、2回戦で敗退する弱小チームだった。しかし3年生の地区大会では決勝進出を果たし、準優勝に終わったものの、この試合で落合は90メートルを超える本塁打を打った[6]。
1969年、県内の幾多の野球名門校から入学の勧誘を受け、それこそ「野球で県内のどの高校にも行けた」レベルであった[7]。だが卒業後は就職と決めていたことと、「選手をあまりいじらない」と聞いたことから、秋田県立秋田工業高等学校建築科に進学[6]。野球部へ入部すると即座にレギュラーに抜擢され4番となったが、入部3か月で右肩を壊して投手を断念し、外野手へ転向した[6]。その後、もともと練習嫌いだったことや上級生から毎日のように殴られるという体育会系の風習に嫌気が差し[8]、練習にはほとんど顔を出さなくなっていった。地元の横の繋がりからなる仲間意識の中で育った落合にとってこの上下関係は耐えがたいものであった[7]。
しかしチーム一の実力選手であったため、大会の直前にはチームへ呼び戻されていた[9]。こうした「練習さぼり⇔大会前の復帰」という「入退部」を8回繰り返した[6]。学校への通学にも嫌気が差してほとんど通わず、所謂「不登校」であった[7]。その代わり秋田市南通の映画館へ、年に100本は映画を鑑賞するほど通いつめた。このため出席日数が足りず、高校3年間は毎年留年寸前だった[10]。昼間から学生服姿で映画館に入り浸っていたため、他の観客からは不審視されていたという。
不登校の間も全く練習しなかったわけではなく、当時木製であった電柱をバットで叩く、山の中で素振りをするなどの自主トレーニングをしていた。叩くことで電柱に穴が開いて電気が消えることも多かったため、近所から頻繁に苦情を受けていた[7]。
高校卒業後は就職と決めていたが、3年生の10月に高校の先輩に勧められ東洋大学野球部のセレクションに参加し、そこで特大の本塁打を放ったことが評価されて合格[11]。スポーツ推薦で東洋大学への進学が決定することになった。いきなり背番号を与えられてポジションも内野手に決定し、高校卒業前の2月には合宿入りした。また、約20名の1年生の中から選抜された4名のメンバーに入って、野球部の松山キャンプにも参加した。ところが、その練習中に左大腿部の肉離れと足首の捻挫という怪我を負い、毎日の通院を余儀なくされる[11]。
そして、大学入学後も高校時代に続いて野球部の古い体質に直面する。先輩を立てるという風習や、学年が上というだけで先輩が後輩に威張り散らすことに対して「自分から自発的に野球をする意識が持てず、雑用を押し付けられて野球を嫌々やらされるだけ」と嫌気が差した[12]。こうして入部後すぐに野球部を退部し、大学も中退した[12]。監督からは「復帰は2年生になってからでもいいから」と強い慰留を受けたが、それを振り切っての中退であった[7]。
大学中退後は秋田県に戻り、実兄が支配人をするボウリング場でアルバイトをして生計を立てていた[13]。これをきっかけにボウリングに熱中し、プロボウラーを志した。しかしプロテスト受験の際に兄の車を運転中、初心者運転標識を貼り忘れたため警察に捕まり、罰金を支払ったことで受験料が払えなくなり受験できず、これも挫折してしまう。
落合のボウリングの腕前は、日本初の女子プロボウラーである須田開代子のもとに、飛び切りうまい若者がいるとの噂が届くほどだったという[14]。その傍らで地元の草野球チームに参加してプレーし、野球への熱意が再び高まるようになる[15]。20歳を目前にして、高校時代の恩師である野球部部長を訪ねて就職を相談したところ、社会人野球・東芝府中のセレクションの受験を勧められ、合格した[15]。
1974年1月、東京芝浦電気の府中工場に臨時工として入社[16]。同工場の社会人野球チーム・東芝府中に加入し、日中はトランジスタラジオの基板を組み立て、夕方から野球の練習をするという生活を送っていた[16]。入社2年目の1975年に4番に定着し、翌1976年に正社員となる[14]。この年、東芝府中は創部23年目で初の都市対抗出場を果たす[17]。1回戦ではデュプロを下し初勝利を挙げ、2回戦では日本通運から補強された村上之宏が先発するが、愛媛相互銀行に完封を喫し敗退した[18]。翌年以降も、都市対抗に日本通運・電電東京の補強選手として3年連続で出場し、1978年には森繁和らとともに第25回アマチュア野球世界選手権日本代表に選出[19]。在籍5年間の公式戦で通算70本塁打を記録した[20]。
1977年のドラフト会議では、直前に阪神タイガースのスカウト・田丸仁から指名の可能性を伝えられたものの、実現しなかった[21][22]。翌1978年のドラフト会議にてロッテ・オリオンズから3位指名を受け、契約金2700万円、年俸360万円の条件で入団。落合をスカウトした城之内邦雄によると、指名理由は「変化球に強く、投手が苦手とするタイプの打者」という一点のみだった[注 1]。
現役時代
[編集]ロッテ時代
[編集]1979年、プロ入り当時の監督・山内一弘はレベルスイングの本尊といえる人物であり、アッパースイングだった落合のバッティングフォームの矯正に取り掛かった。「ホースで水を撒く感じで打て」などのアドバイスを貰ったものの、落合は後年「当時の自分には山内さんの高度な打撃理論が理解できなかった」と述べている通り、山内から教わった打法ではボールが前に飛ばない状況であったという。チームメイトのベテラン捕手・土肥健二の、手首を使ってボールをはじき返す「神主打法」のフォームを真似し[24]、我流のフォーム改造を狙った[注 2]。土肥や得津高宏、加藤秀司[25]などの先輩選手を参考に、自身のバッティングを作り上げていった[26]。
1980年は、3月の大洋とのオープン戦で左足首を故障し前半戦を棒に振る[27]。5試合連続本塁打のイースタン・リーグ新記録を認められて、後半戦より一軍に昇格[27]。井上洋一に代わり二塁手のレギュラーに定着し、54試合にスタメン出場した。シーズン終盤には三塁手に回り、同年は15本塁打を放つ。近鉄バファローズとのプレーオフにも出場した。
1981年は開幕から先発として起用され、6月末には4番に起用された。オールスターゲームに初出場し、シーズンでも初めて規定打席に到達し、打率.326で首位打者のタイトルを獲得した。有藤通世、レオン・リー・レロン・リー兄弟らとクリーンナップを形成し、日本ハムとのプレーオフでは第4戦で本塁打を放った。オフには年俸1600万円で契約更改した[28]。
1982年は年間通して打撃好調で、最終的に28歳で三冠王を獲得したが、これは当時のNPB史上最年少記録であった[注 3]。チームがBクラスながら、最優秀選手にも選ばれた[30]。シーズンオフには年俸5400万円+タイトル料600万円で契約更改した[31]。また、落合は現役を通して一塁手を務めていることが多かったが、この年は主に二塁手として起用されていた[32]。
1983年は正一塁手だったレオン・リーがトレードで放出され、落合は一塁手に定着。打率.332を残し、3年連続首位打者を獲得したが、球団は史上初の最下位に終わった。
1984年は契約更改が越年し、キャンプイン前々日の1984年1月30日に年俸5940万円(前年から10%アップ)+タイトル料700万円で合意した[33]。この年から監督に稲尾和久が就任し、野手陣の守備位置がコンバートされた。巨人から移籍の山本功児が一塁手に、有藤道世が三塁手から右翼手に回り、その後継として三塁手に起用される。
1985年、打率.367、52本塁打、146打点の成績で2度目の三冠王を獲得した。打率.367は当時の右打者歴代最高打率、52本塁打は当時のパ・リーグ記録、146打点は現在もパ・リーグ記録である。またこの年は日本記録となる得点圏打率.492(122打数60安打、16本塁打、98打点)もマークするなど記録ずくめの1年だった[34]。またシーズン52本塁打は、2022年に村上宗隆が53本塁打を記録するまで、1963年に記録した野村克也と並び長らく日本人選手の最多タイ記録であった。同年は118得点で福本豊の、77長打で山内一弘の、出塁率.4806で大下弘の、長打率.7630でマニエルの持っていたパ・リーグ記録をそれぞれ更新した[注 4]。
1986年、シーズン終盤までブーマー・ウェルズや秋山幸二らとタイトル争いを繰り広げ、最終的に2年連続で自身3度目の三冠王を獲得した[35](打率.360、50本塁打、116打点)。ロッテの順位が4位に決まり、残り8試合は消化試合となっていた時点で50本塁打を放っていたが、ブーマーが打率.355と迫っていたことによる打率維持と若手に実戦経験を積ませるために、稲尾の判断で[36]その後はあまり打席に立たずにシーズンを終了した。これについて自伝では「翌年でも日本記録の55本塁打を狙えると思ったから」としている。2年連続の三冠王は日本プロ野球界において王貞治(1973年 - 1974年)、ランディ・バース(1985年 - 1986年)、落合の3選手のみで、通算3度獲得は落合のみである。また2年連続50本塁打はプロ野球史上初、出塁率.487は2023年終了時点でもでパ・リーグ記録となっている[37]。10月8日の西武戦で小林晋三塁塁審の胸を2、3回突き自身初の退場処分となった[38]。また、ロッテの日本人選手による本塁打王獲得はこの年の落合が最後となっている[注 5]。
トレード騒動
[編集]シーズン終了後の10月24日、監督の稲尾和久は球団の「新しい人にバトンタッチしたい」との方針から「3年契約の切れるこの年限りとし、契約延長は行わない」と通告を受け、解任される。落合はこれに強い不満を持ち、11月4日に福岡市内で行われたファンクラブ主催の「落合選手を励ます会」にて、「稲尾さんがいないのなら、自分がロッテにいる理由はない」と発言した[39]。毎日新聞が11月5日付で落合のこの発言を報じると、落合は同日、平和台球場での日米親善野球の試合前、報道陣に対し発言の内容を認め「稲尾さんの処遇に関しては本当に腹を立てている」と述べ、球団に対し不信感をあらわにした[40][41]。
これ以後、スポーツ新聞が連日にわたり「落合トレード」と書き立て、落合もマスコミに対しフロント批判の言動を繰り返すなど、大きな騒動に発展した。12月12日、球団社長の松井静郎が落合を球団事務所に呼んで話し合い、落合は「これまで新聞などを通じた発言には誤解もあっただろう。ナマの声を聞いてもらった」、松井も「これまで落合と球団フロントの間に誤解に基づくものや、連絡が不十分なものあった。そのひとつひとつを代表を読んで確認しあった。直接話し合って、意見の一致を見た」とそれぞれ語り、落合と球団は一旦和解した[42]。
しかし、12月23日に牛島和彦・上川誠二・平沼定晴・桑田茂の4選手との交換トレードで、中日への移籍が決定した[43]。落合のトレードは前年(1985年)オフにも移籍交渉を行っていた巨人が早い段階から動いており、同球団オーナーの正力亨も「巨人は待っています」と発言していたが、1986年オフに中日の監督に就任した星野仙一が「(落合を)巨人に取られたら10年は優勝出来ない」と球団に強く働きかけたため、この大型トレードが実現した[44]。そして12月26日に移籍先の中日で契約更改に臨み、1億3千万円(推定)でサインし日本人選手初の1億円プレーヤーとなった[45]。
メジャー挑戦構想
[編集]後に落合は自身のYouTubeチャンネルで、ロッテ時代にメジャーに挑戦する構想があったと明かしている。メジャー移籍へ動いた時期について「日本で3冠王獲ってからじゃないかな」と話しており、ボビー・マルカーノに頼んでウィンターリーグに出場できるようパイプを作ってもらったが、そのパイプを作ってもらった後に球団に話を持ち掛けると、球団に「行くんであれば、日本の籍を抜かなきゃいけない」などの言い訳をされて実現しなかった。本人はもしメジャーに挑戦していれば失敗していただろうと断言している[46]。
中日時代
[編集]1987年は、前半戦(オールスター前)終了時点で21本塁打を放つも、いつもは成績を伸ばす後半戦に7本塁打しか打てず、28本塁打に終わる。それでも篠塚利夫や正田耕三らと首位打者争いを繰り広げ、最終的に首位と2厘差の打率.331を記録した[47]。
1988年は、32本塁打、95打点(共にリーグ2位)、勝利打点19、出塁率と長打率共にリーグ1位を記録するなどチームの優勝に貢献したが、打率は.293とレギュラー定着以降初めて3割を割った。6月1日から8月2日まで打順は不振で3番に降格、4番はゲーリー・レーシッチだった。西武との日本シリーズでは西武の投手陣に打点0に抑えられ、1勝4敗で敗退した。
1989年は打率.321、40本塁打、116打点の成績を残して打点王を獲得。両リーグ打点王は史上初だった。ラリー・パリッシュと最後まで熾烈な本塁打王争いを繰り広げたが、最終的に2本差でパリッシュにタイトルを奪われた。8月12日の巨人戦(ナゴヤ球場)では、9回一死までノーヒットノーランを続けていた斎藤雅樹から、逆転サヨナラ3点本塁打を放っている。6月11日の浜松での対広島戦では、7回裏無死一・二塁の場面で通算4個目、現役で最後となる犠打を決めている[48]。オフの契約更改後の記者会見で「165(いちろくご)」と、年俸1億6500万円で更改したことを公言している[49]。
1990年シーズンは、前年に引き続きパリッシュとの本塁打王争いを繰り広げた。5月8日展阪神戦では、史上最速となる1257試合目で通算350本塁打に達すると[注 6]、パリッシュが8月に28本塁打を放ったところで阪神を退団したため、結果的に落合が追い抜いて34本塁打、102打点で二冠を獲得した(両リーグ本塁打王は史上初だった)。最高出塁率も獲得し、セ・リーグ移籍後初となるタイトル三冠を手中にした。この年のオールスターゲーム第2戦(平和台球場)では、鳴り物入りでプロ入りし、快進撃を続けていた近鉄の野茂英雄が投じた高めのストレートを狙い打ち、本塁打を放った。
1991年2月、契約更改で合意できず日本人選手として初めて年俸調停を申請した。落合の希望額は2億7000万円で、球団提示額は2億2000万円だったが、調停の結果、3月8日に2億2000万円で合意した[51]。同年は前半戦に肉離れを起こし、打撃三部門のトップに立った時点で1か月間戦線を離脱した。打率.340、37本塁打、91打点で本塁打王を獲得したが、打率は古田敦也に3毛差(古田.3398、落合.3395)[52]、打点は広沢克己に8打点差で及ばず、いずれもリーグ2位に終わった。古田のいるヤクルトとの最終戦では勝負を避けられ、1試合6四球の日本記録を樹立。オフに年俸3億円で契約更改した[53]。
1992年、プロ野球選手会を脱退。同年に同姓の落合英二が入団したため、巨人移籍までの2年間は基本的にスコアボード表記は、英二を「落合英」、博満は「落合」と表記された。しかし、一時期の東京ドームで博満が「落合博」となっていたことがある他、読売新聞など一部の活字メディアでは、博満に「落合博」を使用していた。同年は22本塁打、71打点の成績で1984年以来の獲得タイトルなしに終わり、球団12年ぶり・自身2度目の最下位に終わった。
1993年5月7日の横浜戦で、史上初の両リーグ200本塁打を達成。中日時代は5度サヨナラ打を放っている[54]。同年オフ、導入されたフリーエージェント(FA)行使について、球団に愛着があるため、当初は行使せず残留するつもりでいた。しかし、夫人が長男を公立小学校へ入学させるため、東京への移住を考えたことから、一転FA宣言。巨人とダイエーが獲得に動くも、ダイエー監督の根本陸夫が長嶋茂雄が動くならと獲得を断念した為、巨人に移籍した[55]。契約は2年で年俸は球界最高の4億500万円だった[56]。
12月で40歳と高齢すぎたため、新しい同僚の誰からも歓迎されず、味方のはずの球界OB達からは猛烈な批判が巻き起こり、落合が表紙を飾る『週刊ベースボール』1993年12月20日号では、「40歳の四番打者に期待する巨人そのものに最も大きな病巣がある!!」という記事が掲載された。山崎裕之から「今年の落合の成績を見てもわかるように、とても4億円の値打ちのあるような選手じゃない」と評されたのを始めとして、特集記事で散々に酷評された。妻・信子の父親は巨人ファンで、生前実家に挨拶へ来た落合に対して、「駄目だ、駄目だ、巨人じゃなきゃ」と娘へのプロポーズを一度は断るほどだったという。長嶋監督、渡邉恒雄以外のフロント・首脳陣は猛反対であるにも拘らず2人は落合の巨人入りを強行させた[57]。だが却って、ほとんど誰からも歓迎されない移籍により、居心地の良い名古屋で甘やかされて消えかかっていた落合の反骨心に火が付いたという[58][59][60]。
巨人時代
[編集]落合が在籍した1994年 - 1996年の3年間、長嶋茂雄率いるチームの2度(1994年、1996年)のリーグ優勝に4番として貢献した。
1994年は左脇腹や左手手首に死球を受けて不調に苦しみながら、10月2日対ヤクルト戦で山田勉から決勝本塁打[61]、10.8決戦で今中慎二から先制本塁打を放って優勝に貢献した[62]。しかし、同試合3回裏守備中に左内転筋を傷め[63]、日本シリーズでは第3試合に指名打者として出場したのみである。また5月11日のヤクルト戦においては自らも乱闘に参加している[64]。なお、1994年が現役時代での唯一の日本一となり、監督時代にも含めてこの年が落合唯一の完全制覇であった[注 7]。
1995年は開幕から首位打者争いを繰り広げ、夏場にかけ好調を維持。8月31日には一時打率.332まで上昇させ、最終的には打率.311(リーグ4位)、17本塁打、65打点を記録した。同年4月15日の対阪神タイガース戦で6回裏、久保康生から本塁打を放ち通算2000安打を達成したが[65]、名球会入りを辞退している[66]。当時、落合は「任意の団体だから入る自由もあれば、辞退する自由もある。名球会を目指して野球をやってきたわけではない。ゴールはまだ先」とスポーツニッポン本紙の取材に話していた。入会資格を満たしながら辞退した初のケースであり、球界では大きな波紋が広がった。辞退については当時からOBとの確執などを含めて色々な憶測も呼んだが、名球会が任意団体であったこと、現役選手としてオフはしっかりと休養にあてたかったこと、名球会に入らない名選手も多く存在しており「色分けする必要もない」と当時考えていたことを後に自身のYouTubeチャンネルで明かした。また、入会辞退は長嶋の許可を得てのことであった[67]。41歳4か月での通算2000安打達成は、新井宏昌の40歳2か月を抜き当時の史上最年長記録となった(その後、2012年5月に宮本慎也が41歳5か月で更新)[68]。この年のオールスター戦でMVPも獲得した[69]。
1996年、史上7人目の通算500本塁打、史上7人目の通算1500打点[70]を達成。8月31日の中日戦で野口茂樹から死球を受け、左手首を骨折し戦線離脱した[71]。以降の試合は棒に振ったが、オリックスとの日本シリーズで復帰し、第1戦で3安打を放った。シーズンでは6月末に一時打点トップに躍り出るなど打率.301、21本塁打、86打点の好成績を残した。巨人で43歳になるシーズンに4番を務めた選手は落合以降出ておらず、現在も球団最年長記録である。打撃成績においても、43歳での打率3割達成、OPS9割越えも史上最年長記録である。
同年オフ、清原和博が自身と同じ一塁手として巨人に入団したことから、球団に自由契約を申し出た[72][73][74]。退団会見は落合と信子夫人のほか、渡辺恒雄オーナー、長嶋茂雄監督同席のもとで行われる異例なものであった。落合は「(幼少期からのファンで敬愛する)長嶋監督が、(自分と清原のどちらを起用するか)悩む姿を見たくなかった」とコメントしている[75][76]。
日本ハム時代
[編集]1996年オフ、巨人と同じく東京に本拠地を置いていたヤクルトと日本ハム(当時は巨人と同じ東京ドームを本拠地としていた)から獲得オファーがあったが、年俸3億円の2年契約を提示した日本ハムに移籍した。背番号は当初6を希望していたが、チーム生え抜きの主力選手だった田中幸雄が着けていたため、空き番だった3を選択した。
1997年、5月17日時点で打率.339まで上昇する活躍を見せるも、6月に入ると年齢的な衰えと疲労が重なり打率を落としていく。さらに、8月22日のオリックス21回戦の1回の裏に大島公一の打球を捕った際に左手を負傷し、左第四指末関節骨を脱臼した。登録抹消はされなかったものの、この試合以降の先発出場は8試合だけで、打率は.260台まで降下。大杉勝男に次ぐプロ野球史上二人目の両リーグ1000安打を達成し、9月14日の近鉄戦では小池秀郎のノーヒットノーランを阻止する左翼線への二塁打を放つなどの活躍も見せたが、打率.262、3本塁打、43打点に終わり衰えは顕著だった。過去最低の成績に終わったが、44歳になる年での規定打席到達は2023年終了時点でも日本プロ野球史上最年長記録である。オールスターゲームにも出場したが、落合にとって現役最後のオールスターとなった。
現役最終年となった1998年は、前年の雪辱を晴らすべく、それまで素手で握っていたバットをバッティンググローブ着用に変えたり、デーゲームの多さに対応するためサングラスを着用するといった改善を行った。オープン戦では、若手のホープとして期待されていた西浦克拓と4番の座を争った。落合が開幕4番を勝ち取って開幕から安打を量産し、4月下旬頃までは打率.300を維持していたが、打率が.300を切った時点で、監督の上田利治は落合の打順を下位に降格させ、西浦が4番に就いた。
同年の日本ハムは開幕から勝ち続け「ビッグバン打線」が爆発し首位を快走していたが、落合の出場機会は減少しベンチを温める機会が多くなっていた。9月以降のチームは負傷者が続出するなどして急失速し、西武・ダイエー・近鉄(いずれも当時)を含めた4チームが犇めき合うこととなり、最終的には西武に優勝を奪われた。
シーズン最終戦となった10月7日のロッテ戦(千葉マリンスタジアム、ダブルヘッダー第2戦)での代打出場が、現役最終打席となった(対戦相手は黒木知宏。結果は一塁ゴロ)。落合は当日、上田監督から先発出場を打診されたが断り、自らプロ入り初打席と同じ代打での最後の出場を選び、現役を引退した[77]。
引退後
[編集]引退後は野球解説者として活動し、1999年から2001年まではテレビ朝日野球解説者を務めた(キャッチコピーはオレ流解説)。
テレビ朝日との専属解消後はフリーとして[78]、テレビ朝日時代から通っていた九州朝日放送の中継に度々出演していた。また、1999年から2003年の間、日刊スポーツ野球評論家としても活動した。
2001年2月、横浜ベイスターズのキャンプで臨時打撃コーチを務めた。
中日監督時代
[編集]2003年10月8日、中日の監督に就任することが発表された(3年契約)[79]。就任早々、16人の選手の背番号を変更し、ユニフォームのデザインを中日伝統のロサンゼルス・ドジャース型のデザインから変更した。このユニフォームは退任する2011年まで使用された。
「この1年は補強を凍結し、個々の選手の能力を10%底上げして優勝を勝ち取る」と述べ、戦力外と外国人以外の補強を凍結することを公言。巨人での引退試合後に一転して現役続行を決意した川相昌弘、横浜を解雇されたドミンゴ・グスマン、広島を解雇された筒井正也しか獲得しなかった。また、キャンプ初日に紅白戦を実施する異例の采配スタートとなった。
2004年、宣言通り就任初年度にしてリーグ優勝を達成した。開幕戦では3年間一軍登板のなかった川崎憲次郎を開幕投手に起用し、川崎は5失点で降板するもチームは逆転勝利した。エースの川上憲伸を3戦目に先発させ3連敗のリスクを避けると同時に、川崎の開幕起用で「全選手横一線」と選手に刺激を与えること、FAで中日に加入しながら一度も登板していない川崎に最後のチャンスを与える(後に事実上の「引退試合」であったと言及している)こと、先発投手についての情報の漏洩がないかを確かめることが目的だったと退任後に語っている(「外部に漏らしそうなコーチには伝えていなかった」としている)。また、投手起用についてはヘッドコーチの森繁和が全て決めていたが、この川崎の開幕起用のみは落合が決めた[80]。落合が森に対し、川崎の開幕投手起用を提案したところ「長いシーズンでは負けてもいい試合がいくつかあるが、開幕戦からいきなり捨てゲームを作るのか」と呆れられたという。また、守備面においてはアライバコンビを重宝していた。日本シリーズでは、先に3勝しながらも3勝4敗で敗れ日本一はならなかった。
2005年、主砲のタイロン・ウッズの藤井秀悟に対する殴打事件による出場停止や、交流戦における負け越しにより失速し、2位に終わる。
2006年、2年振り2度目のリーグ優勝を達成。普段はベンチに腰をかけて表情一つ変えない落合が、巨人との優勝決定戦でウッズが満塁本塁打を放つと抱きついて出迎え、試合終了後のインタビューでも冒頭で言葉が出ないほど感極まっていた。日本ハムとの日本シリーズでは1勝4敗で敗れまたも日本一ならず。オフに球団と新たに2年契約を結んだ。
2007年、ペナントレースでは連覇を逃し2位。セ・リーグでは同年から導入されたクライマックスシリーズで阪神に2連勝、巨人に3連勝と勝ち進み、日本シリーズに出場した。日本ハムと戦い4勝1敗で日本一を奪取したが、これは球団として53年ぶり2度目の日本一であり、更にその後行われたアジアシリーズでもチームをアジアチャンピオンに導いた。これらの功績が認められ、中日の監督・選手として初となる正力松太郎賞を受賞した。
2008年は3位に終わる。監督就任5年目で順位・勝利数・勝率の全てでワーストだった。主力の不振や衰え、福留孝介のメジャー移籍や、北京五輪で5人の主力選手が抜けたことで打撃力がリーグワーストの成績に陥ったことが響いた。クライマックスシリーズ2ndステージでは、巨人に1勝したのみに終わり敗退。オフに球団と新たに3年契約を結んだ。
2009年は2位に終わる。クライマックスシリーズ2ndステージでも、巨人に1勝したのみに終わり敗退した。川上、タイロン・ウッズ、中村紀洋がチームを去り、谷繁元信がケガで離脱したこともあり、7月には首位巨人に1.5ゲーム差まで迫ったが失速し、最終的に12ゲーム差をつけられた。
2010年、監督として3度目のリーグ優勝を達成。井端弘和のケガによる離脱、トニ・ブランコの不調により得点力が大幅に低下し、一時は首位に8ゲーム差をつけられたが、ホームゲームにおいて勝率.746と無類の強さを発揮して9月10日に首位に立ち、巨人・阪神との激しい三つ巴の争いを制して143試合目にして優勝を達成。クライマックスシリーズ2ndステージで巨人を4勝1敗で破り日本シリーズに進出したが、パ・リーグ3位から勝ち上がってきたロッテに2勝4敗1分で敗れ、日本一はならなかった。なお、中日球団で7年連続で指揮した監督となり、与那嶺要(1972年 - 1977年)と星野仙一(第二次政権時の1996年 - 2001年)の6年連続を上回り、球団歴代1位となった。
2011年1月14日、2011年度野球体育博物館(野球殿堂)競技者表彰に選出された。この年は打線の絶不調により前半戦は苦戦し、8月3日には5位に転落。首位ヤクルトとは最大10ゲーム差をつけられたが、9月に入りリーグ屈指の投手陣の働きにより巻き返し、ゲーム差を縮めた。
シーズン中の9月22日、球団から同年シーズン限りでの監督退任が発表されるが[81]、10月6日に首位に浮上、18日に142試合目にして優勝を決め(監督として4度目のリーグ優勝)、強力な投手力で球団史上初のリーグ連覇を達成した。
監督としての契約は10月限りで切れていたため、以降は1日ごとの契約更新となった。ヤクルトとのクライマックスシリーズファイナルステージを4勝2敗(リーグ優勝アドバンテージ1勝を含む)で制し、2年連続(監督として5度目)の日本シリーズ進出を決め、試合後には当初予定されていなかった胴上げが行われた[82]。日本シリーズは3勝4敗で前年に続き日本一を逃したため、これが監督としての最後の胴上げとなった。11月10日、セ・リーグより最優秀監督賞に選出されたことが発表された[83]。
11月20日、日本シリーズで福岡ソフトバンクホークスに敗れた試合終了を以って、監督退任となった。
落合が監督を務めていた中日は、8年間でリーグ優勝4回、日本シリーズ出場5回、日本一1回、Bクラス(4位以下)0回だった。歴代の中日監督では最高の成績である。
中日GM時代
[編集]2012年、日刊スポーツ評論家に復帰した。解説者としてはフリー[84][85]。初解説は2012年4月15日に甲子園で行われた阪神対中日のテレビ中継だった(名古屋テレビ制作)[注 8]。
8月に顔面麻痺を発症し、病院に緊急搬送されたが間もなく退院する[87][88]。以後は、治療を続けながら講演や野球中継のゲスト解説などを行っていた。
2013年10月9日、中日球団に新設されたゼネラルマネージャー(GM)への就任が発表された。当初は顧問を打診されたが自らGM職を提案し、推定年俸8000万円で契約した。
GM就任後に初めて実施された、選手との契約更改では、退団して巨人に移籍した井端弘和と、FA宣言でソフトバンクに移籍した中田賢一を除く中日選手は年俸提示に同意し、総年俸から総額推定8億円超のコストカットを実現した。中日オーナーの白井文吾は、球団フロントに対して、与えられた予算内での年俸抑制を、以前から求めていた。ところが、好成績を残した選手や実績のあるベテランが提示額を不満とすると、何がしかの「イロ」をつける、いわゆる「ゴネ得」を許す悪しき風習をなかなか断ち切れなかった。契約更改が終わると、結果的に予算オーバーという展開が繰り返されてきた。落合は、「自分が編成の責任者になって全てを任せてくれたら、年俸の削減もできる。それにはGMがいい」と提案した。白井は、監督時代の有無を言わさない統率力を見てきたこともあり、落合をGMに就任させた[89]。
しかしこうした経緯から明らかなように、GM時代の落合は大金を投じた大型補強を実施することが難しかった。他球団で実績のある捕手の嶋基宏(当時は楽天)、炭谷銀仁朗(当時は西武)を、FAで獲得する可能性を中日が調査したとの報道があったが、いずれも実現していない[90]。
中日は2016年に19年ぶりの最下位となり、同年12月20日、球団は契約切れとなる2017年1月限りで落合がGMを退任すると発表した。2018年からは、フリーの野球解説者として活動を再開した。
選手としての特徴
[編集]打撃
[編集]落合の採用していた打法は、同じ神主打法を使用する他の選手と比べても独特であった。この打法はプロ入り間もない頃に受けた松沼博久の徹底した内角攻めに対応するため、改良を重ねて編み出されたものである。松沼は「最初のうち落合はインハイが全く打てず、ある時を境に苦手なはずのインハイばかり狙って振ってきた。そのうちインコースが投げ難い構え(神主打法)を編み出し、インハイを完璧にカットする技術を身に付けていた」と語っている。また、江夏豊から「ピッチャーは特定の球種を待たれるのが一番嫌なんだ、お前みたいにコロコロ狙い球を変えていたら一生俺からは打てない」と言われたことから、狙い球を絞り、インハイの力のある球に振り後れないよう打席ではインハイを待っていたという[91]。
通算で510本の本塁打を放っているが、そのうちの176本は右翼への本塁打で、初の三冠王を取った1982年は32本塁打のうち20本が右翼への本塁打だった。アウトコースの球を払うように流し、本塁打にしてしまう技術に感嘆したスポーツライターの山際淳司は、スポーツ選手に関するエピソードを集めた『ナックルボールを風に』(1983年)という著書の中の「アウトコース」で、落合を取り上げている。しかし落合本人はインタビューにおいて、「俺の弱点はアウトローだった。俺ほど外の球を打つのが下手なのはいない」と語っており、事実、落合が得意としていたのは、インコースの球を広角に打つことであった。ライト方向へ多く飛ぶので「アウトコースは危ない。勝負するならインコース」と単純な考えから落合対策を練る他球団が増え、得意なコースばかりに球がきて苦手なコースにはあまり投げ込んでこず、落合本人はそのことをほくそ笑んでいたという[92]。
また、「バッティングはあくまでも水物。点数を取れる時は取れる、取れない時は取れない」と実力だけではないものがあることも説いている[93]。
リーグ最多四球を1984年から1991年の8年連続含め、通算9回記録した。通算1475四球は王貞治に次いで歴代2位、右打者では歴代1位である。3桁の三振を記録したシーズンは一度もない。通算打率.311に対して通算得点圏打率は.334を記録している[94]。
落合いわく、自身が三冠王をとれたのは「三兎(打撃の三冠タイトル)を追って三兎を得る勢い」でやったからとのことであり、俗にいう「二兎を追う者は一兎をも得ず」を野球選手は考えてはいけないとのこと[95]。
三冠タイトルで一番難しいのは首位打者と述べている。ただし、これは「狭き門」という意味ではなく、むしろ「誰にでも取れるチャンスがある一番のタイトル」という意味であり、ライバルがそれだけ多いから難しいとも語っている[96]。
本人曰く、26歳になる年でプロ入りしたこともあって、「遅く入った自分がレジェンドの記録を塗り替えることはないから、シーズンでどれだけの記録を残せるかに重点を絞りプレイした」と述べている[97]。
守備
[編集]一塁手、三塁手、二塁手としてそれぞれ出場経験があるが、最も出場試合数が多いのは一塁手である[98]。
ロッテ時代に遊撃手として共に内野を守った水上善雄は「(二塁手として)追いついた打球は絶対にアウトにしてくれました。(中略)ゲッツーが計算できて、やりやすかったです。送球も縦の回転で捕りやすく、捕ってからすぐに一塁送球できました。ファーストに移ってからもミットさばきが柔らかく、送球がショートバウンドになっても確実に捕ってくれました。落合さんにゴールデングラブ賞の経験がないのはおかしいです」と評価している[99]。
逸話
[編集]家族
[編集]1980年12月に1度結婚したが、3か月で離婚した[100]。1984年12月に9歳年上の信子と再婚した。信子は後にタレント活動をするようになった傍ら、博満に前向きではなかったFA権の行使や監督就任などを決断させた。
長男は声優の落合福嗣。また、元プロレスラーのジャイアント落合は甥にあたる(姉の子)。落合一家は博満が三冠王を獲得したことに掛けて「トリプルクラウンファミリー」と呼ばれるなど独特の知名度がある[101]。
孫もおり、2024年4月21日の『サンデーモーニング』の生放送では、この年のクリスマスに孫のためにサンタクロース役をやろうと髭を伸ばしていると語った[102]。
人物
[編集]投手として入団した愛甲猛に打者転向を勧め、愛甲の打撃を指導した[103]。愛甲は1981年に入団後、3年間投手としてプレーしたが、結果を残せず、1983年のシーズン終了後に監督の山本一義から「投手を続けるか、それとも打者に転向するか」と迫られるも即決できなかったが[103]、落合から「タケシ、お前はバッターの方が稼げるぞ。甲子園を見ていたが、バッターの方が稼げるぞ」と声をかけられたことで打者転向を決意した[103]。1984年の春季キャンプでは初日から、練習を終えた後に落合の部屋にて落合から打撃の指導を受けた。丸めた新聞紙をボール代わりにトスバッティングを繰り返した[104]。愛甲はそれまで打撃で本格的な指導を受けたことがなかったが、落合の連日にわたる指導で上達した[104]。落合は「家にいてもやることねえし」と言いながらも川崎球場でのファームの試合をバックネット裏から観戦し、愛甲の打撃を見ていたことがあったといい[105]、愛甲は落合に対し、「オチさんに教わった打撃術は、我流とは違い、明らかにプロの打撃だった」と感謝している[104]。ロッテ時代の落合は子供が出来ずに悩んでいたため、心底可愛がっていた愛甲と養子縁組することも本気で考えていたといい、愛甲は後に「ヘタすりゃ福嗣くんのお兄さんになってた」と語っている。愛甲はこれについて「落さんって、自分が見てバッティングとかが気に行った奴ってのが凄く可愛く感じるのよ」と自身の見解を述べている[106]。
1985年から1987年まで社団法人日本プロ野球選手会の2代目の(プロ野球選手としては初の)理事長を務めた[107]が、1992年には選手会を脱退した。その後の1993年、FA制度を利用して巨人に移籍している。
プロ入り前からの熱心な長嶋茂雄ファンで、後楽園球場での引退試合をスタンドで観戦している。巨人は1992年から長嶋が監督に復帰していたが、落合はロッテ時代に受けた取材にて「長嶋さんがもう一度巨人の監督になったら、世間から馬鹿にされますよ。笑われますよ。だって、自分をクビにしたチームにのこのこ帰っていくヤツがどこにおるんよ」と発言し、取り沙汰されていた長嶋の巨人復帰に釘を刺したことがある[108]。しかし後年、落合も巨人に移籍し会見では「長嶋さんを胴上げするために来ました」と述べ、そして長嶋を胴上げに導いた。
現役時代、プロ入り時の監督であった山内一弘からフォームの矯正を施されたが、指導された打法が合わなかった。しかし、山内との関係が悪かったわけではなく、その後に出来上がった神主打法を改めて見てみたところ、山内から教わったものが自分のバッティングにも生きていることが分かったという[109]。また、落合は山内から伝授された打撃練習法を、現役晩年まで実践していた[110]。
クーラー嫌いでも有名であった。現役時代は真夏でもクーラーを点けずに汗を思いきりかきながら寝て、朝5時にすっきり目を覚ます生活を送った。
ロッテ在籍時代、阪急のエース・山田久志とはライバルとして認め合い、名勝負を繰り広げた。1980年5月28日の阪急戦で2安打した落合を見た山田は、ブルペンに居た若手投手に「凄い打者が出てきた。あいつは三冠王を獲るかも知れない」と話したという[111]。落合はプロ入り当初、山田の決め球であるシンカーを全く打てなかったが、当の山田本人に攻略法を聞くという大胆な行動を起こし、「センター返しをしろ」とのアドバイスを貰い受け、それを実践し苦手のシンカーを克服した[111]。1982年4月29日に行われた、山田の200勝が掛かった試合では、山田から3本の本塁打を放っている[112]。打った球は全てシンカーであった[113]。[疑問点 ]
山本昌は監督を務めていた頃の落合から「年齢はグラウンドに立てば関係ない。ひとつでも多くのアウトをとれるやつをオレは使う。力のあるやつが、このグラウンドに立つことができるんだ」という言葉をかけられ、2009年に出版した著書でこの言葉に感謝している旨を記している。2007年のシーズンには何度も山本を二軍に落としたが、山本は自著に「2007年には19試合登板し、うち18試合は先発のチャンスを与えられたが、これだけ使ってもらって結果を出せなかった。落合監督は本当に僕を辛抱強くマウンドに送り出してくれた」という趣旨の記述を残している[114]。
暴力嫌いであり、監督に就任直後、招聘した全コーチに、「いかなる理由があっても選手に手を上げてはいけない。守れなかった場合は解雇する」という誓約書にサインさせた[115]。中日球団は星野仙一監督など、鉄拳制裁が日常的になっており、その慣習を変えるべくチームの暴力根絶にも苦心し、落合は「チームから暴力をなくすのに5年かかった」としている[116][117]。スポーツ界全体に蔓延する暴力指導の根絶について「この先何十年もかかると思う。『絶対ありません』と言う時代は私が生きている間には訪れないと思ったほうがいい。それだけ時間がかかる難しい問題」と語っている[118]。
暴力を振るわなかったが、先述の愛甲に対するように「選手をしごいたことはある」と言うなど「時には厳しさは大事」という考えは持っていた。特に井端弘和をしごいたこともあり、このことから「井端からは、いつもムカついた顔をされてた」と落合も認めている。もっとも、その井端は荒木雅博と共にアライバコンビとして中日の名選手として活躍するようになり、活躍の場を落合が作ったとも認められることもある[119]。
若いころは飲酒をしていたが30歳になったころには断酒をしたという[120]。
オフシーズンの自主トレ先として長野県の昼神温泉を愛用していたことで知られ、同温泉の周辺には落合がランニングで使用したとされる「落合ロード」が残る[121]。1989年1月には、同温泉に滞在中だった落合が当時のドラゴンズと星野監督を批判したとされる、通称「昼神事件」の舞台ともなった[122]。
稲尾和久との関係
[編集]ロッテ時代の監督だった稲尾和久を師と仰いでいる。現役時代、稲尾監督就任会見のあと、新監督以下、首脳陣が飲みに繰り出そうとしたとき「私も行っていいですか」とついて行き、店に着くなり、落合は稲尾に「監督は『管理野球』ですか。それとも、選手に任せるんですか」と尋ねた。激怒されてもおかしくないところ、稲尾に「残念ながら、俺は”西鉄”ライオンズで育った人間だから、管理されたことがないんだよ。だから俺も管理はしないよ」と答えられ安堵する[123]。同シーズン前半戦打率2割そこそこの打率だった落合の打順降格を提案した複数のコーチに対し、稲尾は頭を下げてまで4番起用を続け、結果落合はシーズン後半戦には4割を超えるような打率を残した[124]。室内練習場で長時間にわたるバッティング練習を終えたところ、落合の指が感覚を失い、バットから離れなくなったが、物陰から姿を現し、指をゆっくりとバットから離してあげた人物が稲尾だった。落合の稲尾への私淑はこの時がきっかけだという。
1985年、開幕前のキャンプにおいて、バットを一切振りたくないという落合の要望に打撃コーチは手を焼いたが、稲尾はあっさりと落合の要望を認め、落合はその通りキャンプ中はおろかオープン戦でも一切バットを振らず、走り込みを嫌う落合は守備練習のみで足腰を鍛え、同年は打率・367、52本塁打、146打点の圧倒的な成績で三冠王を獲得した。当時のチームメイト愛甲猛によれば「あの前後のオチさんは、打席に立つ姿がものすごく大きく見えました。ベンチで隣に座る稲尾さんが『オチ、そろそろ頼むわ』というと、『わかりました』と立ち上がり、一発打って帰ってくる。落ち着き払っていた」という[125][126]。
稲尾との関係はグラウンド外にも及んだ。落合夫妻と交流のある女優・冨士眞奈美がある日、落合邸を訪ねたところ、テーブルで稲尾と落合が鍋をつついており、落合がせっせと鍋奉行をつとめ、終いには稲尾がソファにゴロリと横になり寝てしまったが、その様子を落合が愉快そうに眺めているのを見て「『ああ、本当に稲尾さんのことが大好きなんだなぁ』と思いました」と述べている[127]。前述の「昼神事件」の際も、ドラゴンズ側が星野と落合の間の仲介役を稲尾に依頼し、一度は「退団・引退」をぶち上げた落合も稲尾からの電話で引退を思いとどまった[122]。
落合が正力松太郎賞を受賞した2007年11月13日は奇しくも稲尾の命日でもあり、受賞後の会見で稲尾について「監督と選手の立場を超えて野球を語り合った。教示された打者には分からない投手心理は私の財産」との旨のコメントを残している。
落合は「7人の監督に仕えたが、野球を教わったのは山内(一弘)さんと稲尾さんだけ」と振り返っている[128]。
野球
[編集]通算500安打、1000安打、1500安打、2000安打は、すべて本塁打で達成した。さらに、1000試合出場、2000試合出場時も本塁打を打っている。
その優れたバットコントロールのエピソードとして、このようなものがある。
- 1987年に中日にトレードされた際、球団は本球場から離れた周囲・天井共にネットを張り巡らした体育館を急造の打撃練習場としていた。当然ボールがネットに乗り、垂れ下がってきてしまうので、選手がボールを投げて落とそうとするもなかなか上手く行かない。すると落合は「オレが落とすよ」と言い、ピッチングマシンの球を打って打球をネットに当て始め、乗ったボールを落としていったという。セントラル・リーグの審判部長を務めた田中俊幸は「まるで魔法のようなバットコントロールで、曲芸かマジックを見ているようだった」と述懐している[129]。
- 落合はゆるい球を自由に打ち返せれば調整はOKとしているが、ナゴヤ球場での打撃練習中のこと、審判が目慣らしのため近づいてきた。「10本打って何本スタンドに入ると思う?」と聞くと、ゆるい球は全力で打っても飛ばないため、審判は「精々4、5本だろう」と答えた。落合は「8本だ」と言い打ち始めると、打球はきれいな弧を描き、スタンドに吸い込まれていく。結果的に2本がフェンス前に落ち、スタンドインしたのは8本であった。その審判は「信じられない光景であった」と述べている[129]。
- 打撃投手に体の正面にボールを投げさせて全球バットの芯で打ち返した、トスバッティングで投手の胸にライナーで打ち返した等、練習段階からパ・リーグ審判員山崎夏生が驚くほどのバットコントロールであった[130]。
- ロッテ時代は長さ35インチのバットを使っていた。南海の門田博光は「オレでも34インチ半が精一杯やったのに……。あの長さのバットを扱うのはすごい技術が必要なんです」と振り返っている[131]。
- 読売ジャイアンツ時代には、バットのグリップの太さが0.2 mm違っても気付いた[132]
入団当初は三塁手だったが、一軍に定着するため、2年目からはチームに手薄だった二塁手に転向し、初めて三冠王を獲得した年のポジションも二塁手だった。その翌年は一塁手に転向したが、三塁手であった有藤通世の外野手転向により三塁手に戻り、その後は守備の負担を考慮して再度一塁手に転向した。二塁手だった時期もあるため、2000年に日本野球機構などが行った「センチュリーベストナイン(20世紀ベストナイン)」投票で落合は二塁手としてノミネートされ、選出された。ベストナインは一塁手で4回、二塁手で2回、三塁手で4回選ばれている。
どの守備位置もそつなくこなしたが、内野に飛べば必ず守備機会が生じ、バント処理を真っ先に行わなくてはならず、一・二塁間に打球が飛べば右利きの自身はバックハンドキャッチを余儀なくされるなど様々な内野守備の要素が複雑に絡み合うことから、一番難しいのは一塁手、一番楽なのは三塁手と断じている。
主流となっているユニフォームのズボンの裾を下まで下ろす着こなしは、中日時代の落合がチームメイトの宇野勝と共に始めたのが最初とされる。内野守備のクロスプレーで足をスパイクされるのを防ぐため、ソックスの上に毛製の足首のサポーターとストッキングを着用し、血流が悪化しないようにそれまでズボンの裾に付いていたゴムをなくし、下まで下ろすようにした。同様の理由でソックスやストッキングは独自規格のものをメーカーに特注していたという。また、落合はロッテ時代に当時打撃コーチだった広野功の薦めで、木製バットの含水率を厳密に管理できるバットケース(富士シリシア化学製)の使用を始めた。これは球界におけるバットの含水率管理の先駆けである。
前田智徳の打撃を評価しており、打撃指導の時は「広島の前田を参考にしろ」と言うことが多い。また、リトルリーグの指導をする時も「プロの真似をするなら広島の前田の真似をしなさい」と言う。自身の真似については「真似るとスランプに陥る可能性があるので絶対にやめなさい」と述べている[133]。落合自身の打撃法について「俺と同じ打撃が出来るのは石嶺和彦だけ」と語っており、特に石嶺の内角打ちを高く評価していた。落合は中日の監督に就任すると同時に石嶺を中日の打撃コーチに迎え、石嶺は落合が監督在任した8年間、一貫して打撃コーチとしてチームを支えた。
清原和博に対しても賛否両論な考えを持っており、「高校の頃が一番上手かったが、プロに入ってから下手になった」と酷評した上で「だからこそ、高校のままでやっていたら成功した。」と評価もしていた[134]。
外国人選手の立場や存在感も尊重しており、「彼らがいなければ日本球界は成り立たない」と公言している[135]。
発言
[編集]中日監督辞任後には2013年の第3回WBCの日本代表監督への就任を期待する声もあったが、落合自身は2012年1月13日に紀伊國屋ホールで開かれた著書『采配』(ダイヤモンド社)刊行記念の講演で「(WBCの監督は)絶対やりません。何でそんな命縮めるようなことわざわざしなくちゃいけないのか。短期決戦が下手なんでしょうね。私がやったら絶対に負けますからね」と発言して否定し、結局は山本浩二が監督に就任した[136][137][138][139]。
同年シーズン中、親会社が新聞社なのにも関わらず、記者団のインタビューで「当分俺からは野球の話はない。マスコミを使って選手にメッセージを伝えるのはやめた。新聞を読んでない選手もいるから」と親会社を軽視する発言を行った。これが原因で中日新聞上でコラム『読む野球』を書かされることとなった[注 9]。
2011年、監督退任後の『報道ステーション』での長嶋一茂との対談で、統一球の影響については「全く関係ない」「言い訳」と発言し「選手が『統一球は飛ばない』という言葉に逃げた。現に打てなくなった奴はみんなボール球を振っている。それでは打てないのは当然だ」と述べた[141]。
2022年4月11日に投稿した公式YouTubeチャンネルの動画で、野球界のレベルが落ちていると感じている部分を明かした。「昔はアメリカも24球団だからね。今みたいに30球団じゃなく、24球団で、エースピッチャーが3人くらいいて、中4日で回す。そういう層の厚さがある時代。今みたいに30球団で、そんな昔よりもレベルは落ちてはいるとは思う。日本の野球もレベルは落ちているとは思う」と持論を展開。その理由について「それは考えなくなったということなんだろうと思う。そして隠れて練習をすることをしなくなった」と語った[142]。
2023年10月3日に公開した公式YouTubeチャンネルの動画で、走り込みについて語った。現在は現場のことは分からないと断りを入れつつ、長距離の走り込みは絶対に必要と断言。特に投手はランニングの量で成績が決まると主張し、昨今の走り込み否定論を快く思わない立場を示した[143]。
オマール・リナレスとの友情
[編集]1978年7月にオランダで開催されたハーレムベースボールウィークの第11回大会に出場した落合は、キューバの豪速球投手・ブラウディリオ・ビネンから死球を受け、それ以来、キューバの選手に対してはあまり良いイメージを持っていなかったという。しかし1995年にキューバの選手が日本を訪問したおりにオマール・リナレスの手形を落合博満野球記念館に貰えないかという話になり、リナレスはこれを快諾。アントニオ・パチェコやビクトル・メサと共に車で世田谷にある落合邸を訪問した。
リナレスが訪問した際、信子夫人と福嗣に歓迎されたが、落合は東京ドームの試合で留守だった。時間制限があったために落合に会えず、短時間で落合邸に別れを告げた。ところが、ホテルに戻ると信子夫人から連絡を受けた落合が駆けつけてきてくれていた。パチェコの誕生日祝いもあり、信子夫人と福嗣も後から合流してお祝いの会は大盛況で進んでいった。2人は野球談義で意気投合し、最後に落合はリナレスに「47歳までプレーする」と約束してみんなと別れた。
翌1996年5月に再びキューバの選手が日本を訪問したおり、落合は再び彼らの宿舎を訪れ、リナレスとパチェコに自分のバットをそれぞれ1本ずつプレゼントした。亡命直前のローランド・アローホの誕生日も祝った。後日、リナレスの母校のピナール・デル・リオ大学で開かれた「リナレス展」の会場の真ん中に落合のバットが飾られていた。そこには「これは日本で三冠王を3度も獲ったオチアイという偉大な選手のバットです」と見学しに来ていた人に自ら説明するリナレスの姿があった[144]。後に2004年の一年間という短い期間ではあるものの、中日で落合は監督、リナレスは一塁手のレギュラーという間柄でリーグ優勝を達成した。
背番号へのこだわり
[編集]背番号に対してのこだわりが強く、落合博満記念館は背番号6にちなんで六角形のデザインとなっている。2010年以降は眼鏡をかけるようになったが、フレームの淵の部分には漢字で「六」と入っている。巨人移籍時には6を既に篠塚和典が使用していたため、6に0をくっつけた60を使用した(篠塚が引退した翌1995年からは6に変更)。1994年は巨人の球団創設60周年であり、尚且つ落合が同年開幕時に四番に立った場合巨人の「第60代四番打者」になるために選んだとも言われている。また仮に篠塚が6を譲った場合、篠塚への同情論と落合への更なる批判が集まるおそれがあり、これを避けたかったためともされている[145]。また、中日監督就任後は、6を二つ重ねた66を背番号としている。
中日監督就任後も背番号のこだわりを随所に見せており、谷繁元信の当時の背番号7を「捕手の番号らしくない」と森昌彦・大矢明彦・伊東勤・古田敦也など歴代の名捕手が背負ってきた背番号である27に変更させている。また、背番号16だった森野将彦を就任直後に8、2006年からは31に変更[注 10]させた。森野は2010年から2013年まで30、2014年以降は7を使用。2009年には、現役を引退しファンから永久欠番の署名活動があった立浪和義の背番号3を森野に与えようとしたが本人が辞退している。なお背番号3は1年間欠番となった後、2011年からは新入団の吉川大幾、吉川が退団した2015年以降は高橋周平が引き継いでいる。
中日を代表する投手に代々受け継がれて伝統と化していた“中日のエースナンバーは「20」”という考え方にも否定的で、2004年の川崎憲次郎引退後に入団した中田賢一に20を与えた。「オレの中では18がエース番号。だれかがあれ(20)をつけないと番号が足りない」と説明している[146]。
中里篤史や佐藤充など、後がない選手には1年だけ猶予を与えるが、支配下の選手の中で一番下という意味で背番号を70に変更させる。結局、中里と佐藤は結果が出せず1年後に戦力外通告された。また、この2人以前にも70をつけていた鳥谷部健一(2006年)、三澤興一(2007年)は移籍して1年で解雇されている。ただし、2011年に加入したエンジェルベルト・ソトは例外で、入団当初から70をつけていた。GMとして中日復帰後は70をつけていたダニエル・カブレラの背番号を99に変更させ、谷哲也の背番号を70に変更させた。
中日新聞の読む野球のコーナーで「背番号00は意味がない」という理由で2011年から欠番とすることになったが、GM復帰後の2014年から2016年まではアンダーソン・エルナンデスが使用した。2007年から2012年まで在籍していた金剛弘樹がつけていた背番号0についても「背番号ではない」とコメントしている。
愛車
[編集]プロ入り後に、トヨタ・クラウン(110系・セダンタイプ)を購入。護身用の為に大がかりな改造を施した。実際にトヨタの工場で新車の内装がすべてはがされ、衝撃を受けても大けがをしないようにロールバーや補強材が至るところに埋め込まれ、車内はかなり狭くなり、車両重量が約3t近くに増量、燃費も相当悪くなったという。約10年近く乗った後、親戚に譲る。 現在は2台所有。1台は、ダッジ・デイトナ。1985年に2度目の三冠王を獲得し、セ・リーグで三冠王を獲得した阪神タイガースのランディ・バースと共に麻布自動車からMVP受賞の副賞として両者に贈られたもの。 もう一台は、80年代後半に夫人からのプレゼントとして贈られたアストン・マーティン・V8(通称『ボンドカー』)で、 2台共、補修、車検を繰り返しながら現役走行しており、アストン・マーティン以降新車の購入、所有はしていない。
ガンダムファン
[編集]息子の福嗣の影響もあり[147]、ガンダムシリーズ好きである。自身のYouTubeにゲストとして機動戦士ガンダム 水星の魔女エグゼクティブプロデューサーの小形尚弘を招いた際には核心を突いた質問を連発し、小形が回答に窮する場面も見られた[148][149]。
ガンプラにもこだわりがあり、最も好きなモビルスーツは、『新機動戦記ガンダムW』に登場するウイングガンダムゼロ(EW版)[150]。 2008年1月には静岡県にあるバンダイホビーセンターを訪れ、『機動戦士ガンダム00』に登場するガンダムエクシアの中日ドラゴンズカラー版をプレゼントされた[150]。
ミラクルジャイアンツ童夢くん
[編集]石ノ森章太郎の漫画およびアニメ『ミラクルジャイアンツ童夢くん』に実名で中日の選手として登場した。声優は沢木郁也が担当した。劇中の主人公でジャイアンツの新城童夢の投げる魔球「童夢スペシャル1号・スノーミラージュボール」を初めて打破するなど、実在の選手としては最大のライバルとして童夢に対峙する。他に童夢の魔球と対決するのは架空の人物が主である。アニメのサブタイトルにも「落合、魔球打倒宣言」(第8話)、「対決!落合対童夢」(第9話)などと題される。信子夫人も劇中に登場した。しかし、当の落合本人はこのアニメを見たことが無いと、当人のYouTube「落合博満のオレ流チャンネル」にて視聴者からのこの質問に答えている[151]。
映画好き
[編集]無類の映画好きとしても知られる[152]。 本人曰く「高校時代は野球部より映画館にいる時の方が多かった」[注 11]。そしてオフの日は自宅で映画を観ることが多く、福嗣と一緒に日本語吹き替え版の「ターミネーター」などを観ていたことが、後に福嗣が声優になるきっかけともなっている[153]。
語学力
[編集]中学時代の定期試験は英語の答案用紙を白紙で提出し、高校入試でも英語は白紙だった[7]。監督時代は「ここは日本だから、日本語を話せ」と外国人選手に日本語を使うように求めていたが、落合が英語が分からないと言えば外国人選手の方も自然と日本語で対応した[7]。
2022年5月のスポーツニッポンの取材で、世の中で理解に苦しむことを問われると「なんでも横文字にしてしまうというのは、横文字の嫌いな人間には、ちょっと、分からない部分がある」と即答。「英語の頭文字だけとって、くっつけたりね。それがあたかもすべての人に通用するような形でしゃべっているというのは。まあ、それを理解しない俺が悪いのかもわからないけども、理解不能。なんでもかんでも英語にしてくれるなよ、ちゃんとした日本語があるのに」と話していた[154]。
盗難
[編集]2006年9月20日の横浜スタジアム、対横浜戦において、監督室に置いてあった現金37万円や免許証などが入ったセカンドバッグを紛失した。警察が正式に捜査し関係者の指紋を取るなどしたものの、バッグは見つからず犯人も不明なままであった[155][156]。コーチの長嶋清幸によると、同じロッカーを使っていた森繁和のバッグには現金150万円が入っていたものの、手つかずだったという。
監督として
[編集]監督としての実績は中日ドラゴンズで監督を務めた8年間のみだが、監督在任期間中は全ての年でAクラス入りを果たし、リーグ優勝4度(うち2010年と2011年にセ・リーグ連覇)、日本一1回の実績を残した。
野手出身で実質コーチ経験が無い落合が、監督として実績を残せたのには幾つかの要因があった。
2004年監督就任1年目の春季キャンプ初日から紅白戦を実施。また、キャンプ中はペナントレースでの日程を考慮して、移動日にあたる月曜日をオフにした6勤1休制のキャンプを実施した。
監督在任期間中は、広いナゴヤドームを利用して投手力を武器にペナントシーズンを戦った。
投手起用に関しては自身が野手だったことから、厚い信頼を置くヘッドコーチの森繁和に任せて一切口出ししなかった。これについて落合は「(下手に口を出すと)大抵それで失敗する」と発言している。攻撃面ではサインはほとんどなく、基本は選手のやりたいようにやらせていたという。甘い球や狙い球ならどんどん打っていけという考え方で、選手には「狙いがあるなら、全員が初球打ちで3球でチェンジになっても構わない」とも話していた[157]。
ペナントシーズン消化も緻密で、ホームゲームでは広いナゴヤドームを利用して数少ないチャンスをものにして投手力で逃げ切り、下位チームとの対戦では慢心による取りこぼしを避けるために采配や選手起用には慎重に気を配っていた。
高柳秀樹は「試合中にブレることなく自分が思った野球を貫くことですかね。あと森さんとか近くにいる人達も優秀でね。落合さんは一度任せたらもう口を出さないというところも立派だと思います。」[158]と述べている。
山本昌は引退後、名球会の公式YouTubeチャンネルの動画で落合を「予言者」と評しており、2003年の日本シリーズ前に「両チームがホームで全勝して、ダイエーが勝つ」と予想して当てる、2004年に補強を凍結して優勝する公約を達成するなど、洞察力に定評があったとしている[159]。
監督就任1年目は、開幕戦から数試合は勝ち試合のゲームセット時にベンチで喜びを露にしていたが、徐々に試合中は無表情となり一切感情を出さなかった。2011年11月の監督退任後には「イニング毎に必ずベンチ立つでしょ? 裏行って、表情変えているから。監督室帰って、例えばお茶飲んだり、水飲んだり、一人でボソボソ文句いいながら、『あの馬鹿野郎、あんなところで、あの球打ちやがって』とか独り言を言ったり。そこで頭切り替えて、ベンチ行って座っていると。この繰り返しですよ」と語り、努めてそうしていたことを明かしている[160]。その意図は「選手はベンチを見てる。怒ってる姿を見せたら、あいつら体動かなくなるから」と語る。また、「それでなくても、そういう野球を中日はずっとやってきたわけでしょ。過去の政権で。戦う人間はこっちじゃないよ。お前ら何しでかしたって別に怒りゃせんから。そのかわり、勝ち負けの責任は俺がとる。個人の成績良い悪いは、お前らが責任とれよ。そこはフォローしないぞ。だから、グラウンド行って戦ってきなさいって」とも話し、過去に中日を監督していた星野仙一の有り様を踏まえた考えだったことを仄めかした[141]。
2006年度ドラフト会議では田中将大の指名を回避して堂上直倫を指名し、最終的に指名した堂上の入団が実現。田中を指名しなかった理由については後に「本心を言うと……あれは本社命令」と回答している[161]。
2007年11月1日、日本ハムとの日本シリーズ第5戦で、球団として53年ぶりの日本一を成し遂げた。その一方で8回表まで完全試合投球を続けていた先発の山井大介を、9回表に岩瀬仁紀へ交代させた采配には、賛否両論が巻き起こった(2007年日本シリーズ完全試合リレーを参照)[162]。
2007年11月13日、中日球団からは初となる、正力松太郎賞を選考委員会の満場一致で受賞した。その際、座長であった川上哲治は「強い信念と、選手の上手い育て方。自分の野球観を持って強いチームを作った。立派な功績」とコメントした[163]。岡田彰布は落合と2008年オフに会話した折、これからはウッズ・和田など他球団の強力な主軸をマネーゲームで取る野球ではなく、選手を育成して勝利するという強い執念を感じたという[164]。
2010年は打率、得点でリーグ5位、2011年には両部門でリーグ最下位の成績ながら、球団史上初の連覇を達成した[165]。2011年5月7日、11敗目を喫した際に「あと50回負けられる」という旨の発言をし[166]、結果その年の中日の61敗目がちょうどそのシーズンの優勝ラインとなった。
FA権に対しては、落合自身も現役時代に行使した経験があったこともあり、「FAは選手が勝ち取った権利」だと容認的なスタンスを取っている。監督在任期間中は野口茂樹、福留孝介、川上憲伸、中村紀洋と4人の選手がFA権を行使して移籍していった一方で、埼玉西武ライオンズから和田一浩をFAで獲得した。
一方で、マスコミに対しては、試合後のコメントも他の監督に比べ短く、落合の試合後のコメントを毎回掲載する東京中日スポーツの「オレ流語録」コーナー掲載のコメントはほとんど一行のみである。現役時代にチーム事情を敵にばらす記者がいることを知り、自分のチーム事情が漏れるのを警戒しているからであるとされている[167]。
上記の事情から、マスコミや球団内からは「ファンサービスが足りない」と批判を受けていた。こうした批判に対し、落合は「勝てばファンはついてくる」と口にしている[168]。
2011年シーズンをもって監督を退任したが、これに関しては、落合に勝たれては困ると思っていた球団幹部が存在し、さらに同年9月の巨人戦で負けた際、その幹部にガッツポーズをされたことを明かしている[169]。実際に、2011年の連覇達成時には、当時のオーナーだった白井文吾と握手を交わしたのに対して、その球団幹部とは握手を交わさずにベンチを去っている。翌2012年のファンクラブ会報誌(1月臨時号)には「高木守道新監督のファンサービスぶりはすでに前任者をはるかに凌駕している」「前任の監督は『勝てばファンはついてくる』といい、勝つこと以外でのファンサービスには熱心ではなかった」などといった露骨な落合批判の文が掲載された[168][170]。
指導者としてはプロスポーツ選手を育てるために大切な要素を「心技体」の順番ではなく「体技心」の順番と定めている。体力があれば技術が身に付くし、技術があれば、心が動じずに平常心で戦えるという理屈である[171]。
落合が監督を退任してから中日は優勝することがなく低迷が続いているため、もう一度中日の監督復帰を問われることがあったが、「(後ろ盾だった)白井文吾オーナーが退任したため、もうないだろう。低迷期間中に白井オーナーが『勝つのは簡単だ(落合起用を示唆)。でも、それは皆さん(現球団関係者たち)が許さないんだろう?』という発言を耳にした。だから中日の監督復帰は、(関係者との確執から)まずないだろう」と否定している[172]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1979 | ロッテ | 36 | 69 | 64 | 7 | 15 | 3 | 1 | 2 | 26 | 7 | 1 | 0 | 0 | 0 | 4 | 0 | 1 | 12 | 2 | .234 | .290 | .406 | .696 |
1980 | 57 | 188 | 166 | 28 | 47 | 7 | 0 | 15 | 99 | 32 | 1 | 0 | 2 | 2 | 17 | 0 | 1 | 23 | 5 | .283 | .349 | .596 | .946 | |
1981 | 127 | 502 | 423 | 69 | 138 | 19 | 3 | 33 | 262 | 90 | 6 | 3 | 1 | 4 | 68 | 1 | 6 | 55 | 17 | .326 | .423 | .619 | 1.043 | |
1982 | 128 | 552 | 462 | 86 | 150 | 32 | 1 | 32 | 280 | 99 | 8 | 2 | 0 | 4 | 81 | 6 | 5 | 58 | 11 | .325 | .428 | .606 | 1.034 | |
1983 | 119 | 497 | 428 | 79 | 142 | 22 | 1 | 25 | 241 | 75 | 6 | 5 | 0 | 3 | 64 | 5 | 2 | 52 | 14 | .332 | .419 | .563 | .982 | |
1984 | 129 | 562 | 456 | 89 | 143 | 17 | 3 | 33 | 265 | 94 | 8 | 1 | 0 | 4 | 98 | 8 | 4 | 83 | 14 | .314 | .436 | .581 | 1.017 | |
1985 | 130 | 568 | 460 | 118 | 169 | 24 | 1 | 52 | 351 | 146 | 5 | 1 | 0 | 4 | 101 | 26 | 3 | 40 | 16 | .367 | .481 | .763 | 1.244 | |
1986 | 123 | 522 | 417 | 98 | 150 | 11 | 0 | 50 | 311 | 116 | 5 | 1 | 0 | 1 | 101 | 19 | 3 | 59 | 15 | .360 | .487 [注 12] |
.746 | 1.232 | |
1987 | 中日 | 125 | 519 | 432 | 83 | 143 | 33 | 0 | 28 | 260 | 85 | 1 | 4 | 0 | 4 | 81 | 10 | 2 | 51 | 10 | .331 | .435 | .602 | 1.037 |
1988 | 130 | 557 | 450 | 82 | 132 | 31 | 1 | 32 | 261 | 95 | 3 | 4 | 0 | 6 | 98 | 13 | 3 | 70 | 11 | .293 | .418 | .580 | .998 | |
1989 | 130 | 559 | 476 | 78 | 153 | 23 | 1 | 40 | 298 | 116 | 4 | 3 | 1 | 6 | 75 | 7 | 1 | 69 | 11 | .321 | .410 | .626 | 1.036 | |
1990 | 131 | 570 | 458 | 93 | 133 | 19 | 1 | 34 | 256 | 102 | 3 | 3 | 0 | 8 | 100 | 17 | 4 | 87 | 7 | .290 | .416 | .559 | .975 | |
1991 | 112 | 478 | 374 | 80 | 127 | 17 | 0 | 37 | 255 | 91 | 4 | 2 | 0 | 5 | 95 | 16 | 4 | 55 | 9 | .340 | .473 | .682 | 1.155 | |
1992 | 116 | 481 | 384 | 58 | 112 | 22 | 1 | 22 | 202 | 71 | 2 | 3 | 0 | 6 | 88 | 8 | 3 | 74 | 12 | .292 | .422 | .526 | .948 | |
1993 | 119 | 504 | 396 | 64 | 113 | 19 | 0 | 17 | 183 | 65 | 1 | 2 | 0 | 8 | 96 | 14 | 4 | 69 | 13 | .285 | .423 | .462 | .885 | |
1994 | 巨人 | 129 | 540 | 447 | 53 | 125 | 19 | 0 | 15 | 189 | 68 | 0 | 0 | 0 | 6 | 81 | 4 | 6 | 56 | 13 | .280 | .393 | .423 | .815 |
1995 | 117 | 483 | 399 | 64 | 124 | 15 | 1 | 17 | 192 | 65 | 1 | 0 | 0 | 8 | 73 | 2 | 3 | 87 | 17 | .311 | .414 | .481 | .895 | |
1996 | 106 | 448 | 376 | 60 | 113 | 18 | 0 | 21 | 194 | 86 | 3 | 0 | 0 | 2 | 67 | 3 | 3 | 53 | 11 | .301 | .408 | .516 | .924 | |
1997 | 日本ハム | 113 | 466 | 397 | 35 | 104 | 14 | 0 | 3 | 127 | 43 | 3 | 0 | 0 | 5 | 61 | 1 | 3 | 60 | 16 | .262 | .361 | .320 | .680 |
1998 | 59 | 192 | 162 | 11 | 38 | 6 | 0 | 2 | 50 | 18 | 0 | 1 | 0 | 2 | 26 | 0 | 2 | 22 | 12 | .235 | .344 | .309 | .652 | |
通算:20年 | 2236 | 9257 | 7627 | 1335 | 2371 | 371 | 15 | 510 | 4302 | 1564 | 65 | 35 | 4 | 88 | 1475 | 160 | 63 | 1135 | 236 | .311 | .423 | .564 | .987 |
- 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高
年度別監督成績
[編集]- レギュラーシーズン
年 度 |
球 団 |
順 位 |
試 合 |
勝 利 |
敗 戦 |
引 分 |
勝 率 |
ゲ | ム 差 |
本 塁 打 |
打 率 |
防 御 率 |
得 点 |
失 点 |
年 齡 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2004 | 中日 | 1位 | 138 | 79 | 56 | 3 | .585 | (7.5) | 111 | .274 | 3.86 | 623 | 558 | 50歳 |
2005 | 2位 | 146 | 79 | 66 | 1 | .545 | 10.0 | 139 | .269 | 4.13 | 680 | 628 | 51歳 | |
2006 | 1位 | 146 | 87 | 54 | 5 | .617 | (3.5) | 139 | .270 | 3.10 | 669 | 496 | 52歳 | |
2007 | 2位 | 144 | 78 | 64 | 2 | .549 | 1.5 | 121 | .261 | 3.59 | 623 | 556 | 53歳 | |
2008 | 3位 | 144 | 71 | 68 | 5 | .511 | 10.0 | 140 | .253 | 3.53 | 535 | 556 | 54歳 | |
2009 | 2位 | 144 | 81 | 62 | 1 | .566 | 12.0 | 136 | .258 | 3.17 | 605 | 508 | 55歳 | |
2010 | 1位 | 144 | 79 | 62 | 3 | .560 | (1.0) | 119 | .259 | 3.29 | 539 | 521 | 56歳 | |
2011 | 1位 | 144 | 75 | 59 | 10 | .560 | (2.5) | 82 | .228 | 2.46 | 419 | 410 | 57歳 | |
通算:8年 | 1150 | 629 | 491 | 30 | .562 | Aクラス8回 |
- ※1 順位の太字は日本シリーズ優勝、チーム成績の太字はリーグ1位(最優秀)、下線はリーグ最下位
- ※2 2001年から2004年までは140試合制(2004年は選手会ストライキのため2試合が行われなかった)
- ※3 2005年から2006年までは146試合制
- ※4 2007年から144試合制
- ※5 優勝年のゲーム差は2位とのゲーム差
- ポストシーズン
年 度 |
球 団 |
大 会 名 |
相 手 |
勝 敗 |
---|---|---|---|---|
2004 | 中日 | 日本シリーズ | 西武ライオンズ | 3勝4敗=敗退 |
2006 | 日本シリーズ | 北海道日本ハムファイターズ | 1勝4敗=敗退 | |
2007 | セ・リーグ クライマックスシリーズ 1stステージ(セ・リーグ2位) |
阪神タイガース(セ・リーグ3位) | 2勝0敗=ファイナルステージ進出 | |
セ・リーグ クライマックスシリーズ 2ndステージ |
読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝) | 3勝0敗=日本シリーズ進出 | ||
日本シリーズ | 北海道日本ハムファイターズ | 4勝1敗=日本一 | ||
2008 | セ・リーグ クライマックスシリーズ 1stステージ(セ・リーグ3位) |
阪神タイガース(セ・リーグ2位) | 2勝1敗=ファイナルステージ進出 | |
セ・リーグ クライマックスシリーズ 2ndステージ |
読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝) | 1勝2敗1分=敗退 | ||
2009 | セ・リーグ クライマックスシリーズ 1stステージ(セ・リーグ2位) |
東京ヤクルトスワローズ(セ・リーグ3位) | 2勝1敗=ファイナルステージ進出 | |
セ・リーグ クライマックスシリーズ 2ndステージ |
読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝) | 1勝3敗=敗退 | ||
2010 | セ・リーグ クライマックスシリーズ ファイナルステージ(セ・リーグ優勝) |
読売ジャイアンツ(セ・リーグ3位) | 3勝1敗=日本シリーズ進出 | |
日本シリーズ | 千葉ロッテマリーンズ | 2勝4敗1分=敗退 | ||
2011 | セ・リーグ クライマックスシリーズ ファイナルステージ(セ・リーグ優勝) |
東京ヤクルトスワローズ(セ・リーグ2位) | 3勝2敗=日本シリーズ進出 | |
日本シリーズ | 福岡ソフトバンクホークス | 3勝4敗=敗退 |
- ※ 2008年と2009年のクライマックスシリーズ2ndステージではセ・リーグ優勝の読売ジャイアンツに、また2010年と2011年のクライマックスシリーズファイナルステージ(2ndステージより名称変更)では、同じくセ・リーグ優勝の中日ドラゴンズに1勝のアドバンテージが与えられたが、ここではアドバンテージ分は除いた勝数を示した
タイトル
[編集]- 首位打者:5回(1981年 - 1983年、1985年、1986年)※右打者のパ・リーグ記録。3年連続は長嶋茂雄・パウエルと並ぶ右打者最長タイ、パ・リーグ歴代3位
- 本塁打王:5回(1982年、1985年、1986年、1990年、1991年)※両リーグ本塁打王は史上初
- 打点王:5回(1982年、1985年、1986年、1989年、1990年)※両リーグ打点王は史上唯一
- 最高出塁率:7回(1982年、1985年 - 1988年、1990年、1991年)※受賞7回は歴代2位、右打者歴代1位。パ・リーグで3回(1986年まで)、セ・リーグで4回(1987年以降)はそれぞれのリーグの右打者最多
- 最多安打:1回(1982年)※当時連盟表彰なし
- 最多勝利打点:5回(1982年、1985年、1988年、1989年、1993年)※受賞5回は史上最多、1989年と1993年は特別賞
表彰
[編集]- 最優秀選手:2回(1982年、1985年)※優勝チーム以外から2度以上の選出は王貞治(1964年、1974年)に続いて2人目
- ベストナイン:10回(二塁手部門:1981年、1982年 一塁手部門:1983年、1988年、1990年、1991年 三塁手部門:1984年 - 1986年、1989年) ※複数部門に跨がっての10度受賞は歴代最多、複数部門に跨がって6年連続も歴代最長
- 野球殿堂競技者表彰(2011年)
- 月間MVP:6回(1985年9月、1986年5月、1988年8月 野手部門:1989年8月、1990年5月、1991年8月)
- 優秀JCB・MEP賞:1回(1990年)
- オールスターゲームMVP:2回(1983年第3戦、1995年第1戦)
- 日本プロスポーツ大賞
- 大賞:1回(1982年)
- 40周年特別賞 京楽杯(2007年)[173]
- 報知プロスポーツ大賞:3回(1982年、1985年、1986年)
- 都民文化栄誉賞(1985年)[174]
- 秋田県県民栄誉章(1987年)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回(1991年)
- 新語・流行語大賞 新語部門銅賞(1993年、「FA(フリーエージェント)」)
- よい夫婦の日 ナイス・カップル(1995年、妻:落合信子)[175]
- 正力松太郎賞:1回(2007年)※監督として表彰
- 最優秀監督賞(セ・リーグ連盟特別表彰:2011年)
記録
[編集]- 日本記録
- 三冠王:3回(1982年、1985年、1986年)※史上4人目、3回の三冠王は史上唯一。1982年は日本人最速となる入団4年目での達成
- 両リーグ200本塁打以上(パ247本、セ263本)
- 2年連続シーズン50本塁打以上(1985年 - 1986年)
- シーズン得点圏打率:.492(1985年)
- シーズン出塁率:.487(1986年)※NPB公式での日本記録。ただし、出塁数を採用していた時代のセ・リーグの記録に遡ると1974年王貞治の.534が日本記録となる。
- シーズン打率.360以上:2回(1985年、1986年)※日本タイ記録、右打者では史上唯一
- 1試合6四球(1991年10月13日)
- パ・リーグ記録
- 初記録
- 初出場:1979年5月29日、対南海ホークス前期8回戦(川崎球場)、7回裏に新井昌則の代打として出場
- 初先発出場:1979年5月30日、対南海ホークス前期9回戦(川崎球場)、7番・三塁手として先発出場
- 初安打・初打点:同上、6回裏に森口益光から
- 初本塁打:1979年5月31日、対南海ホークス前期11回戦(川崎球場)、3回裏に山内新一から3ラン
- 節目の記録
- 100本塁打:1983年8月31日、対阪急ブレーブス20回戦(阪急西宮球場)、9回表に山沖之彦から左越先制3ラン ※史上127人目
- 150本塁打:1985年5月5日、対南海ホークス4回戦(川崎球場)、5回裏に大久保学から ※史上75人目
- 200本塁打:1986年5月31日、対阪急ブレーブス8回戦(川崎球場)、2回裏に今井雄太郎から中越先制ソロ ※史上48人目
- 250本塁打:1987年5月19日、対読売ジャイアンツ7回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に西本聖から中越2ラン ※史上27人目
- 1000安打:1987年6月2日、対横浜大洋ホエールズ9回戦(ナゴヤ球場)、7回裏に高橋一彦から左越ソロ ※史上148人目
- 1000試合出場:1988年5月14日、対読売ジャイアンツ7回戦(ナゴヤ球場)、4番・三塁手として先発出場 ※史上276人目
- 300本塁打:1988年10月2日、対阪神タイガース23回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に仲田幸司から右越決勝ソロ ※史上19人目
- 350本塁打:1990年5月8日、対阪神タイガース3回戦(浜松球場)、3回裏に嶋尾慶一から左越先制3ラン ※史上14人目(歴代2位の1257試合で到達:当時史上最速、後にアレックス・カブレラが更新)
- 1000打点:1990年6月12日、対広島東洋カープ9回戦(広島市民球場)、9回表に高木宣宏から右越3ラン ※史上21人目(歴代最速の1284試合で到達)
- 1500安打:1990年9月5日、対読売ジャイアンツ22回戦(東京ドーム)、9回表に桑田真澄から左越3ラン ※史上59人目
- 3000塁打:1991年6月30日、対読売ジャイアンツ10回戦(ナゴヤ球場)、8回裏に香田勲男からソロ ※史上30人目
- 400本塁打:1991年8月30日、対広島東洋カープ15回戦(広島市民球場)、4回表に金石昭人から中越ソロ ※史上11人目
- 1000得点:1992年4月26日、対阪神タイガース5回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に中込伸からソロ本塁打を放ち達成 ※史上24人目
- 1500試合出場:1992年5月4日、対広島東洋カープ3回戦(ナゴヤ球場)、4番・一塁手として先発出場 ※史上101人目
- 3500塁打:1993年8月15日、対読売ジャイアンツ18回戦(東京ドーム)、8回表に橋本清から単打 ※史上18人目
- 450本塁打:1993年8月18日、対ヤクルトスワローズ18回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に川崎憲次郎から先制決勝2ラン
- 300二塁打:1994年4月16日、対ヤクルトスワローズ2回戦(東京ドーム)、7回裏に内藤尚行から ※史上31人目
- 2000安打:1995年4月15日、対阪神タイガース2回戦(東京ドーム)、6回裏に久保康生から左越ソロ ※史上27人目
- 1000三振:1995年10月8日、対広島東洋カープ27回戦(東京ドーム)、2回裏に紀藤真琴から ※史上21人目
- 4000塁打:1996年5月18日、対ヤクルトスワローズ7回戦(東京ドーム)、2回裏にテリー・ブロスからソロ本塁打を放ち達成 ※史上11人目
- 2000試合出場:1996年5月29日、対ヤクルトスワローズ10回戦(東京ドーム)、4番・一塁手として先発出場 ※史上29人目
- 500本塁打:1996年7月3日、対ヤクルトスワローズ15回戦(明治神宮野球場)、6回表にテリー・ブロスから逆転2ラン ※史上7人目
- 1500打点:1996年8月27日、対広島東洋カープ21回戦(広島市民球場)、8回表に白武佳久から右前決勝適時打 ※史上7人目
- オールスターゲームの記録
- オールスターゲーム出場:15回(1981年、1982年、1983年、1984年、1985年、1986年、1987年、1988年、1989年、1990年、1991年、1993年、1995年、1996年、1997年) ※1992年も選出されるも出場辞退[176]
- オールスターゲーム通算打率:.365 ※100打数以上では、歴代1位タイ
- オールスターゲーム通算本塁打:11本 ※歴代4位
- オールスターゲーム通算打点:27 ※歴代3位タイ
- その他の記録
- シーズン得点:118(1985年)※右打者のパ・リーグ記録
- シーズン塁打:351(1985年)※右打者のパ・リーグ記録
- シーズン打率3割以上:11回(1981年 - 1987年、1989年、1991年、1995年、1996年)※歴代5位タイ、右打者歴代1位タイ。1996年は43歳になる年での達成で史上最年長記録。
- シーズン50本塁打以上:2回(1985年、1986年)※歴代2位タイ、2年連続は史上初(他はアレックス・カブレラが達成)
- シーズン30本塁打以上:9回(1981年、1982年、1984年 - 1986年、1988年 - 1991年)※歴代3位タイ
- 17年連続シーズン100安打以上(1981年 - 1997年)※歴代4位タイ
- 両リーグ1000安打以上(パ:1096本、セ:1275本)※史上2人目
- 5試合連続本塁打(1989年10月10日 - 14日)
- 通算打率:.3108(1979年 - 1998年)※右打者の日本人歴代最高打率、5000打数以上では右打者最高打率。
- 通算出塁率:.422(1979年 - 1998年)※歴代2位、右打者歴代1位
- 通算長打率:.564(1979年 - 1998年)※右打者の日本人歴代1位
- 通算四球:1475(1979年 - 1998年)※歴代2位、右打者歴代1位
- シーズン打率:.367(1985年)※右打者歴代3位
- シーズン本塁打:52(1985年)※右打者の日本人歴代最多タイ記録、パ・リーグ日本人最多タイ記録
- 首位打者、本塁打王、打点王全て5回以上獲得:他に王貞治のみ
- 首位打者、最高出塁率、最高長打率の同時獲得:3回(1982年、1985年、1986年)※王(5回)に次ぐ歴代2位タイ(他に長嶋茂雄)
- 両リーグで最多得点を記録:史上唯一
- 両リーグで最多長打:(パ:1982、1985年、セ:1988、1989年)※他に張本勲のみ
- 両リーグで最多塁打:(パ:1982、1985年、セ:1989年)※他に張本のみ
- リーグ最多長打:4回 ※王に次ぐ歴代2位タイ
- リーグ最多四球:8年連続9回 ※パ・リーグで3年連続は最長タイ。セ・リーグで5年連続6回、合わせて8年連続9回は全て王に次ぐ歴代2位。
- 両リーグで最多四球の獲得は史上唯一
- 最高長打率:5回 ※王に次ぐ歴代2位タイ
- 両リーグで最高長打率の獲得は史上唯一
背番号
[編集]- 6(1979年 - 1993年、1995年 - 1996年)
- 60(1994年)
- 3(1997年 - 1998年)
- 66(2004年 - 2011年)
関連情報
[編集]著書
[編集]- 『なんと言われようとオレ流さ』(講談社、1986年4月、ISBN 4062026295)
- 『勝負の方程式』(小学館、1994年6月、ISBN 4093871213)
- 『激闘と挑戦:巨人軍・落合博満が闘った奇蹟の136試合』(鈴木洋史共著、小学館、1995年6月、ISBN 4093871574)
- 『不敗人生:43歳からの挑戦』(鈴木洋史共著、小学館、1997年2月、ISBN 4093872120)[注 13]
- 『野球人』(ベースボール・マガジン社、1998年12月、ISBN 4583035691)
- 『プロフェッショナル』(ベースボール・マガジン社、1999年12月、ISBN 4583036213)
- 『落合にきけ!』(朝日新聞社、2000年3月、ISBN 402257478X)
- 『コーチング:言葉と信念の魔術』(ダイヤモンド社、2001年9月、ISBN 4478720215)
- 『落合博満の超野球学(1):バッティングの理屈』(ベースボール・マガジン社、2003年5月、ISBN 458303749X)
- 『落合博満の超野球学(2):続・バッティングの理屈』(ベースボール・マガジン社、2004年3月、ISBN 4583037910)
- 『采配』(ダイヤモンド社、2011年11月、ISBN 4478016267)
- 『戦士の休息』(岩波書店、2013年8月、ISBN 9784000259125)
- 『落合博満 バッティングの理屈:三冠王が考え抜いた「野球の基本」』(ダイヤモンド社、2015年7月、ISBN 9784478061916)
- ※『落合博満の超野球学(1)』、『落合博満の超野球学(2)』の再編版
- 『落合博満アドバイス 指導者に明かす野球の本質』(ダイヤモンド社、2017年7月、ISBN 4478103089)
- 『決断=実行』(ダイヤモンド社、2018年11月、ISBN 4478106150)
- 『戦士の食卓』(岩波書店、2021年4月、ISBN 9784000614641)
※
関連書籍
[編集]- 『奇跡を呼ぶ男落合博満物語』(綾野まさる著、小学館、1999年4月、ISBN 4092900953)
- 『落合戦記:日本一タフで優しい指揮官の独創的「采配&人心掌握術」』(横尾弘一著、ダイヤモンド社 2004年11月 ISBN 4478960917)
- 『落合博満変人の研究』(ねじめ正一著、新潮社、2008年4月、ISBN 9784103722069)
- 『なぜ日本人は落合博満が嫌いか?』(テリー伊藤著、角川oneテーマ21、2010年5月、ISBN 9784047102439)
- 『原辰徳と落合博満の監督力』(張本勲著、青志社、2011年1月、ISBN 9784905042105)
- 『プロ野球にとって正義とは何か:落合解任と「プロの流儀」VS.「会社の論理」』(手束仁著、イースト・プレス、2012年3月、ISBN 978-4781607597)
- 『プロ野球にとって正義とは何か:落合博満と「プロの流儀」VS.「組織の論理」』(改題、文庫ぎんが堂、2014年2月、ISBN 9784781671048)
- 『野村「ID」野球と落合「オレ流」野球』(川崎憲次郎著、KKロングセラーズ、2012年12月、ISBN 978-4-845-42266-1)
- 『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』(鈴木忠平著、文藝春秋社、2021年9月、ISBN 978-4163914411)
- 鈴木忠平『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』文藝春秋〈文春文庫〉、2024年10月10日。ISBN 978-4-16-792288-7。(電子版あり)
出演番組
[編集]- 月曜ワイド劇場「サンデー兆治の妻」(1986年4月7日、テレビ朝日)
- 加トちゃんケンちゃんおめでとうテレビ'87・THE DETECTIVE STORY(ゲスト出演)(1987年1月3日、TBS)
- スーパー電波バザール 年越しジャンボ同窓会(1993年12月31日、日本テレビ)
- 桃太郎侍(1994年3月31日、テレビ朝日。長男と一緒に出演)
- プロ野球中継(解説)
- スーパーベースボール(テレビ朝日系列。タイトルが『ゴールデンナイター』『パワーアップナイター』『プロ野球中継』だった1999年 - 2001年はテレビ朝日専属解説者。テレビ朝日時代から中日監督就任前のフリー時代はKBCテレビにて月1回のゲスト解説、2012年・2013年はメ〜テレで本数契約として出演[注 14])
- KBCジャンボナイター(KBCラジオ。テレビ朝日専属時代にゲスト解説として出演)
- 東海ラジオ ガッツナイター(東海ラジオ。2002年[178]・2003年[179])
- 東海テレビ制作・放送分(2002年6月11日、中日対阪神戦[180])
- 侍プロ野球(TBS系列。2012年4月19日、CBCテレビ制作の中日対巨人戦に出演[注 15])
- NHKプロ野球(2012年5月19日、NHK総合テレビで放送の巨人対ソフトバンク交流戦に出演[注 16])
- J SPORTS STADIUM(2012年のセントラル・リーグ クライマックスシリーズ ファーストステージ 中日対ヤクルト第1戦[注 17])
- すぽると!(フジテレビ。2002年の日本シリーズ試合解説を全試合担当)
- 最強チームはこうして生まれた!~落合監督が語る 日本一への道~(NHK BS1、2007年12月。聞き手は梨田昌孝、与田剛)
- サンデースポーツ(NHK総合テレビ。2012年から不定期でプロ野球解説として出演 2022年4月度の改編からは週替わりのレギュラーコメンテーターとして出場)
- めざせ!会社の星(NHK Eテレ。2013年7月10日、7月17日他)
- 戦え!スポーツ内閣(毎日放送テレビ、2018年5月23日 以降定期的に出演)
- クローズアップ現代+ 大谷翔平 驚異の進化の舞台裏(NHK総合テレビ、2021年6月15日、解説)
- JA淡路日の出スポーツスペシャル ~MBSべ―スボールパーク番外編~落合博満×掛布雅之 THE・野球談議(2021年12月29日、MBSラジオ)
出演CM
[編集]- アートネイチャー「若露」(育毛剤。1983年)
- ロッテ 「木の葉」(スナック菓子。1983年)
- ロッテ電子工業「ホカロン」(1982年。有藤道世と共演)
- ミズノ「ワールドウィン・ベースボールグッズ」(1987年。ランディ・バースと共演)
- 東海旅客鉄道「3月13日ダイヤ改正」(1988年。一家で出演(※ラジオCMは夫人の信子と共演したCMがある))
- 愛知県警察「チャイルドシート着用率」(2004年)
- 中部電力
- 富士通「FMV」(2005年。木村拓哉と共演[187])
- 2007年愛知県知事選挙CM(2007年。戸田恵梨香と共演)
ディスコグラフィー
[編集]- 「サムライ街道/そんなふたりのラブソング」(1986年)「そんなふたりの…」は夫人の信子とデュエット。5万5000枚を売り上げた[188]。
- 「男のララバイ」(1987年)
- 「めぐり逢い」(1989年12月22日)
- 「恋の広小路」(1990年12月12日)中村美律子とデュエット
- 「落涙」(1991年12月24日)
- 「縁歌酒」(1992年9月21日)多岐川舞子とデュエット
- 「息子へ」(1993年1月8日)
- 「夜明川」(1994年1月15日)
- 「涙 渇くまで」(1996年2月21日)林るり子とデュエット
- 「抱かれて乾杯」(1997年3月20日)若山かずさとデュエット
- 「霧の別れ」(1998年3月21日)若山かずさとデュエット
- 「サムライ街道/男のララバイ」(2004年2月11日)
- 「旅路のひと」
- 『オレ流クラシック』(落合博満選曲・監修、キングレコード、2005年11月23日、KICC-556)
- 『落合博満ゴールデン★ベスト』(EMIミュージックジャパン、2011年11月23日、TOCT-11284)
登場作品
[編集]- 『あぶさん』(水島新司作)
- 『ストッパー毒島』(ハロルド作石作)
- 『ドカベン プロ野球編』(水島新司作)
- 『ミラクルジャイアンツ童夢くん』(漫画・アニメ、石ノ森章太郎原作) - 声・沢木郁也
- 『落合博満のオレ流転生』(原作:宮川サトシ、漫画:川)[189]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 城之内は投手としての視点から、落合の資質を見抜いていた[23]。
- ^ このことが落合が「オレ流」と呼ばれる所以である。
- ^ 2022年にヤクルトの村上宗隆が22歳で三冠王を獲得し[29]、40年ぶりに記録を更新した。
- ^ 長打は1998年にクラークが、得点は2000年に小笠原道大が更新
- ^ 外国人選手を含めたロッテ所属選手の本塁打王は、2023年にグレゴリー・ポランコが落合以来37年ぶりに獲得している。
- ^ 2011年にアレックス・カブレラに更新されるまで最速記録だった[50]。
- ^ 監督時代の2007年の中日は2位からの日本一であったため。
- ^ 2012年4月15日のテレビ解説については、スポニチでも古巣の試合初観戦という表現を交えながら報じている(どこの放送局であるのかは明記せず)[86]。
- ^ 野村克也との対談では「奴ら(新聞記者)は野球なんてぜんぜん知らない。無視したっていい」と発言し野村から「そんなこといわずに、記者たちに野球を教えてやるという気持ちでマスコミ対応もしっかりやれよ」とたしなめられている。[140]
- ^ 前者は「16は野手の番号ではない」という落合の考え、後者は入団当初に背番号8を希望した新人時代の平田良介の希望と、森野が掛布雅之に憧れていたことから。
- ^ 当時は1回入場料を払えば、その日はずっと映画を見ることができた。それゆえ、入り浸ることは可能だった。
- ^ 赤太字で表記しているが、出塁率が公式記録として採用される前には落合の記録を上回る記録も存在する(出塁率#参考記録を参照)。
- ^ 「不敗人生」との語句は、この年に入団した日本ハム選手別応援歌での落合向けの歌詞にも採用された。
- ^ 2013年[177]
- ^ 参考:TBSチャンネルでの放送告知ページ[181]、放送の模様をつづったネットニュース記事[182]・スポーツライターのブログ[183]
- ^ NHKクロニクルの番組表検索結果を参照[184]。
- ^ 参考:『週刊ポスト』2012年11月2日号掲載記事[185]、『プロ野球&メジャーリーグ解説者名鑑』でも、2012年の中日対ヤクルトクライマックスシリーズ中継で森繁和と解説を務めたことが記されている(第何戦・どこの局であるのかは明記せず)[186]
出典
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- ^ 『'98プロ野球12球団全選手百科名鑑』(『ホームラン』1998年3月号増刊。同31日、日本スポーツ出版社発行)P157
- ^ 「蛭間豊章記者の「Baseball inside」 メジャー挑戦者はO型、B型ばかり(第454回)」『ブログ報知』2009年2月11日。2021年1月21日閲覧。
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- ^ 落合、1986年、p55
- ^ a b c d 落合、1986年、p57
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- ^ 「【ヤクルト】村上宗隆が史上最年少22歳で3冠王に…令和初 最終戦で日本選手最多の56号も出た」『スポーツ報知』2022年10月3日。2022年10月3日閲覧。
- ^ 「ヤクルト・村上宗隆 世界の王、イチローも超える“連続MVP”への期待」『デイリースポーツ』2022年7月25日。2022年10月2日閲覧。
- ^ 【12月16日】1982年(昭57) 落合博満、不文律破った!一気に237・5%増で判子ポン!
- ^ 「【野球】DeNA・牧には、オレ流・落合以来の二塁手・三冠王に挑戦してほしい」『デイリースポーツ online』2022年5月30日。2022年6月8日閲覧。
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- ^ 毎日新聞1986年11月5日19面「『来年はどこにいるか…』落合、球団に不満 励ます会で過激発言」毎日新聞縮刷版1986年11月p137
- ^ 毎日新聞1986年11月6日19面「落合帰京後に真意をただす 過激発言でロッテ」毎日新聞縮刷版1986年11月p173
- ^ 「落合博満、秋山幸二、糸井嘉男…世紀の“大型トレード”はこうして成立した!」『新潮デイリー』2021年11月17日。2022年8月17日閲覧。
- ^ 毎日新聞1986年12月13日17面「落合と球団 一応の和解 昼食はさみ4時間半会談」毎日新聞縮刷版1986年12月p457
- ^ 毎日新聞1986年12月24日17面「落合急転ロッテ入り」毎日新聞縮刷版1986年12月p803
- ^ 「「稲尾さんがいないロッテにいる意味がない」と落合博満 ロッテの衝撃トレード史【プロ野球はみだし録】」『週刊ベースボールONLINE』2022年12月13日。2022年12月23日閲覧。
- ^ 毎日新聞1986年12月26日夕刊11面「落合OK 1億3000万円」毎日新聞縮刷版1986年12月 p893
- ^ 「落合博満氏、メジャー移籍へ動いたロッテ時代の秘話明かす 「成功したか」の問いに落合氏の答えは」『スポニチ Sponichi Annex』2022年4月11日。2022年12月19日閲覧。
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- ^ 『プロ野球&メジャーリーグ解説者名鑑 ただいま放送席の音声のみでお送りしています』P158-159掲載の解説者リスト(P159に、同年6月20日現在の情報である旨が明記)より、メ〜テレ解説者・フリー解説者として記載。
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- ^ 「【特報】 日本野球界伝説の「三冠王」が、異世界転生!? 仕掛け人はドアラ?? 衝撃の新連載『落合博満のオレ流転生』本日開幕!」『イブニング』講談社、2024年3月28日。2024年3月28日閲覧。
参考資料
[編集]- 落合博満『なんと言われようとオレ流さ』講談社、1986年
- 古矢徹著『プロ野球&メジャーリーグ解説者名鑑 ただいま放送席内の音声のみでお送りしています』(2013年7月1日、メタモル出版発行。コード:ISBN 978-4-89595-8448)
- 落合『采配』ダイヤモンド社、2017年11月17日。ISBN 9784478016268。
- 有本義明『プロ野球三国志』毎日新聞社、1992年
関連項目
[編集]- 秋田県出身の人物一覧
- 東洋大学の人物一覧
- 千葉ロッテマリーンズの選手一覧
- 中日ドラゴンズの選手一覧
- 読売ジャイアンツの選手一覧
- 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧
- 北海道日本ハムファイターズの選手一覧
- 落合博満野球記念館
- プロ野球28会
- マグマ大使
関連人物
[編集]- ジャイアント落合 - 甥にあたる格闘家。
- 牧田知丈 - テレビバラエティ番組『とんねるずのみなさんのおかげでした』の企画「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」で落合のモノマネを行い、名が知れ渡った製薬会社勤務の男性。
- 峰竜太 - 俳優・タレント。現役時代から落合と交流がある。自身もドラゴンズファンであることから、優勝時のビールかけに参加したり、自身が司会を務めるドラゴンズHOTスタジオでは民放在名テレビ局で唯一、毎年キャンプ前に峰と落合のインタビューを放送している。
- ねじめ正一、テリー伊藤 - 両者とも落合に関する著書を出している。
- 白井文吾 - 中日新聞社代表取締役会長・中日ドラゴンズオーナー。公私ともに親交があり、落合を中日ドラゴンズ監督に招聘した人物として知られる。
外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 落合博満 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
- 野球殿堂 落合博満
- 落合博満記念館(南紀くろしお商工会 より)
- 選手情報 - 週刊ベースボールONLINE
- 落合博満のオレ流チャンネル (@ochiaioreryu) - X(旧Twitter)
- 【公式】落合博満のオレ流チャンネル - YouTubeチャンネル
- 野球選手の画像提供依頼
- 落合博満
- 日本の野球選手
- 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手
- 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手
- 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手
- 北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の選手
- 首位打者 (NPB)
- 本塁打王 (NPB)
- 打点王 (NPB)
- 最優秀選手 (NPB)
- NPBオールスターゲーム選出選手
- NPBオールスターゲームMVP
- 日本の野球監督
- 中日ドラゴンズ及びその前身球団の監督
- 野球解説者
- プロ野球チームの経営者
- 日本の野球殿堂表彰者
- 日本の男性歌手
- EMIミュージック・ジャパンのアーティスト
- 日本の男性YouTuber
- 元NPB選手のYouTuber
- 東芝府中野球部の選手
- 東洋大学硬式野球部の選手
- 秋田県立秋田工業高等学校出身の人物
- 秋田県出身のスポーツ選手
- 1953年生
- 存命人物
- 最高出塁率 (NPB)