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根本行都

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
根本 行都
1924年の早稲田大学野球部
後列左から4人目が根本行都
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都
生年月日 1902年
没年月日 没年不明
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手遊撃手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

根本 行都(ねもと ゆきさと、1902年 - 没年不明)は、日本野球選手監督東京都出身[1]

来歴・人物

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早稲田中学校(現在の早稲田高等学校)から茨城県竜ヶ崎中学校に転校し、1921年の甲子園投手として出場(初戦で大連商に3-5で惜敗)[2][3]早稲田大学では名遊撃手として活躍した。

プロ野球選手としての経歴はないものの、指導者として長く様々なチームに関わった。早大進学後には、合宿を抜け出して母校の竜ヶ崎中学校を泊まり込みで指導し、甲子園に導いている[2]秋田商中央大学の監督を経て、1938年桝嘉一の後任として名古屋軍の監督に就任した。

しかし、当時の名古屋軍は主力が抜けた後でチーム事情が悪く、投手では西沢道夫松尾幸造、打者では大沢清が活躍するも低迷。2年3季のシーズンを指揮したが、勝率5割を超えたのは1938年秋季のみであった。1939年5月30日阪急[4]で1-10で大敗したことをきっかけに、小西得郎に監督の座を譲って辞任した。戦後の1958年には中央大学野球部にコーチとして復帰し指導にあたった[5]

詳細情報

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通算監督成績

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  • 107試合 40勝61敗6分 勝率 .396

年度別監督成績

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年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率
1938 名古屋 7位 35 11 24 0 .314
1938 4位 40 19 18 3 .514
1939 8位 32 10 19 3 .345
通算:2年 107 40 61 6 .396
  • 1939年は開幕から5月30日まで

背番号

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  • 30 (1938年春 - 1939年途中)

脚注

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関連項目

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