熊野輝光
香川オリーブガイナーズ 監督 #未定 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 香川県木田郡三木町 |
生年月日 | 1957年8月28日(67歳) |
身長 体重 |
171 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1984年 ドラフト3位 |
初出場 | 1985年4月6日 |
最終出場 | 1993年4月29日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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オリンピック | ||
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男子 野球 | ||
金 | 1984 | 野球 |
熊野 輝光(くまの てるみつ、1957年8月28日 - )は、香川県木田郡三木町[1]出身の元プロ野球選手(外野手)、野球指導者。
ロサンゼルスオリンピック野球競技の金メダリスト。
経歴
[編集]志度商業高校では、遊撃手として1975年の春の選抜に出場[2]。志度商としては34年ぶりの選抜出場(甲子園出場は28年ぶり)であり大きな話題となるが、1回戦でエース小林誠二を擁する広島工に敗退。同年夏は北四国大会準決勝で続木敏之、片岡大蔵のいた新居浜商に敗れた。
卒業後は中央大学に進学。東都大学リーグでは1979年春季リーグに優勝。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で早大を降し優勝。リーグ通算103試合に出場し、390打数90安打、打率.231、5本塁打、31打点。在学中は全試合に出場した。1979年には第8回日米大学野球選手権日本代表に選出される。大学同期に小川淳司、香坂英典がいる。
1979年のドラフト会議でヤクルトスワローズに3位指名されたが入団を拒否し、社会人野球の日本楽器(現:ヤマハ)に進んだ[1]。
1980年から都市対抗野球大会に4年連続出場。社会人野球日本選手権大会で優秀選手に2度選出される。
1981年インターコンチネンタルカップ日本代表。
1984年のロサンゼルスオリンピック野球日本代表ではチームの主将を務め3番打者として打率.429を記録し、金メダル獲得に貢献した[1]。同年の日本・キューバ国際野球大会でも日本代表となり、社会人ベストナインに外野手として選出される。
同年のドラフト会議では阪急ブレーブスから3位で指名され入団した[1]。
1985年からレギュラーに定着し、118試合に出場。本塁打を14本記録し、新人王に選出[3]されるなど、晩年の阪急を支えた。
1989年に阪急が身売りし、球団名がオリックスとなってからは若手の台頭もあり出場機会が年々減少していった。
1992年には勝呂博憲とのトレードで読売ジャイアンツに移籍[1]。当初は1番打者を任せられたが、主に守備固めや代打での出場が多くなる。
1994年にはテスト入団でオリックスに復帰した[1]。一軍に昇格することはできなかったが、二軍ではコーチ的な存在で若手選手を積極的に指導し、同年限りで現役を引退した[1]。
引退後はオリックスで二軍育成コーチ(1995年)→二軍外野守備コーチ兼打撃コーチ補佐(1996年)→スカウト(1997年 - 2004年)→スカウトグループ副部長(2005年 - 2008年)→編成部長補佐兼国内グループ副部長(スカウトグループ部長)(2009年 - 2010年[4])を務めた。オリックス退団後は巨人大阪駐在スカウト(2012年)を経て、2013年からは阪神のスカウトに就任[5]。
2024年10月下旬の時点で2025年より四国アイランドリーグplus・香川オリーブガイナーズの監督に就任する予定とマスコミで報じられ[6]、報道から1か月以上が経過した12月10日に正式に就任が発表された[7][8]。球団史上初の香川県出身監督である[9]。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1985 | 阪急 オリックス |
118 | 440 | 386 | 74 | 114 | 21 | 4 | 14 | 185 | 60 | 13 | 3 | 5 | 2 | 44 | 0 | 2 | 46 | 6 | .295 | .369 | .479 | .848 |
1986 | 116 | 322 | 278 | 30 | 66 | 7 | 0 | 11 | 106 | 33 | 7 | 2 | 2 | 3 | 38 | 3 | 1 | 53 | 6 | .237 | .328 | .381 | .709 | |
1987 | 111 | 383 | 327 | 51 | 95 | 16 | 0 | 11 | 144 | 40 | 10 | 2 | 7 | 1 | 46 | 0 | 2 | 42 | 5 | .291 | .380 | .440 | .821 | |
1988 | 95 | 231 | 194 | 22 | 42 | 3 | 0 | 6 | 63 | 19 | 5 | 1 | 3 | 2 | 30 | 3 | 2 | 35 | 4 | .216 | .325 | .325 | .649 | |
1989 | 71 | 147 | 123 | 15 | 29 | 1 | 0 | 2 | 36 | 9 | 4 | 0 | 4 | 0 | 20 | 1 | 0 | 21 | 2 | .236 | .343 | .293 | .635 | |
1990 | 102 | 275 | 240 | 34 | 59 | 12 | 1 | 6 | 91 | 27 | 12 | 1 | 13 | 2 | 20 | 0 | 0 | 43 | 4 | .246 | .302 | .379 | .681 | |
1991 | 45 | 91 | 82 | 6 | 17 | 3 | 0 | 0 | 20 | 1 | 2 | 2 | 0 | 0 | 9 | 0 | 0 | 20 | 1 | .207 | .286 | .244 | .530 | |
1992 | 巨人 | 74 | 90 | 74 | 8 | 12 | 4 | 2 | 0 | 20 | 6 | 1 | 0 | 1 | 2 | 12 | 0 | 1 | 17 | 1 | .162 | .281 | .270 | .551 |
1993 | 8 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
通算:9年 | 740 | 1984 | 1709 | 240 | 434 | 67 | 7 | 50 | 665 | 195 | 54 | 11 | 35 | 12 | 219 | 7 | 8 | 277 | 30 | .254 | .339 | .389 | .728 |
- 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更
表彰
[編集]記録
[編集]- 初出場・初先発出場:1985年4月6日、対南海ホークス1回戦(阪急西宮球場)、7番・中堅手として出場
- 初安打:1985年4月7日、対南海ホークス2回戦(阪急西宮球場)、3回裏に加藤伸一から中前安打
- 初本塁打・初打点:1985年4月17日、対日本ハムファイターズ2回戦(後楽園球場)、8回表に田中富生から逆転決勝3ラン
背番号
[編集]- 6(1985年 - 1991年)
- 2(1992年 - 1993年)
- 5(1994年)
- 75(1995年 - 1996年)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、201ページ
- ^ 『シリーズにっぽんの高校野球 vol.6 四国編』(ベースボール・マガジン社) 51頁。ISBN 978-4583615448
- ^ 年度別成績 1985年 パシフィック・リーグ - NPB.jp 日本野球機構
- ^ 古屋、赤堀氏が復帰=プロ野球・オリックス
- ^ 週刊ベースボール2014年3月24日号 P20
- ^ “四国ILplus=熊野氏(志度商高出)香川新監督に 阪神スカウト”. 四国新聞. (2024年10月27日) 2024年11月2日閲覧。
- ^ 香川OG 熊野輝光監督就任のお知らせ - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2024年12月10日)2024年12月10日閲覧。
- ^ “元オリックス熊野輝光氏が新監督 四国IL香川”. サンケイスポーツ. (2024年12月10日) 2024年12月10日閲覧。
- ^ “四国ILplus=熊野氏(志度商高出)の就任発表 香川新監督、初の県出身者”. 四国新聞 2024年12月11日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 熊野輝光 - NPB.jp 日本野球機構