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{{ActorActress |
{{ActorActress |
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| 芸名 = {{lang|bn|সত্যজিৎ রায়}}<br>Satyajit Ray |
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| 芸名 = サタジット・レイ |
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| ふりがな = サタジット・レイ |
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| 画像ファイル = |
| 画像ファイル = Satyajit Ray in New York (cropped).jpg |
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| 画像コメント = サタジット・レイ(1981年) |
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| 本名 = |
| 本名 = |
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| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合に記載。愛称の欄ではありません --> |
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| 別名 = |
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| 出生地 = {{IND1885}}<br>[[File:Flag_of_British_Bengal.svg|border|25px]] {{仮リンク|ベンガル管区|en|Bengal Presidency}}[[コルカタ|カルカッタ]](現在の[[インド]] [[西ベンガル州]][[コルカタ]]) |
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| 出生地 = [[コルカタ]] |
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| 死没地 = |
| 死没地 = {{IND}} 西ベンガル州カルカッタ |
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| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ --> |
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| 国籍 = {{IND}} |
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| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です --> |
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| 身長 = {{height|ft=6|in=4|abbr=mos}}<ref>{{cite web|url=https://satyajitray.org/biography|title=Biography|website=Satyajitray.org|accessdate=14 August 2003|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030811074331/http://www.satyajitray.org/bio/index.htm |archivedate=11 August 2003}}</ref> |
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| 血液型 = |
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| 生年 = 1921 |
| 生年 = 1921 |
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| 生月 = 5 |
| 生月 = 5 |
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| 没月 = 4 |
| 没月 = 4 |
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| 没日 = 23 |
| 没日 = 23 |
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| 職業 = [[映画監督]]、[[脚本家]]、[[作曲家]]、[[小説家]]、[[カリグラファー]]、[[イラストレーター]] |
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| 職業 = |
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| ジャンル = |
| ジャンル = |
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| 活動期間 = |
| 活動期間 = [[1950年]] - [[1992年]] |
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| 活動内容 = |
| 活動内容 = |
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| 配偶者 = Bijoya Ray |
| 配偶者 = {{仮リンク|ビジョヤ・レイ|en|Bijoya Ray}}(1949年 - 1992年) |
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| 著名な家族 = 祖父:{{仮リンク|ウペンドロキショル・レイ|en|Upendrakishore Ray Chowdhury}}(作家)<br/>父:{{仮リンク|シュクマル・レイ|en|Sukumar Ray}}(作家)<br/>息子:{{仮リンク|サンディープ・レイ|en|Sandip Ray}}(映画監督) |
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| 家族 = |
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| 所属劇団 = |
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| 事務所 = |
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| 公式サイト = |
| 公式サイト = |
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| 主な作品 = 『[[大地のうた]]』(1955年)<br/>『[[大河のうた]]』(1956年)<br/>『音楽ホール』(1958年)<br/>『[[大樹のうた]]』(1959年)<br/>『ビッグ・シティ』(1963年)<br/>『[[チャルラータ]]』(1964年)<br/>『[[遠い雷鳴]]』(1973年)<!-- 誰もが認める代表作品を記述 --> |
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| 主な作品 = <!--皆が認める代表作品を入力--> |
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| アカデミー賞 = |
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]'''<br/>[[第64回アカデミー賞|1991年]] 映画芸術でも類稀な円熟と深い人道主義の視野が世界中の映画製作者と観客に消えない影響を与えた功績に対して |
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| カンヌ国際映画祭 = '''ヒューマン・ドキュメント賞'''<br />[[第9回カンヌ国際映画祭|1956年]]『[[大地のうた]]』 |
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| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[金獅子賞]]'''<br />[[1957年]]『[[大河のうた]]』<br/>'''[[ヴェネツィア国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]'''<br/>1957年『大河のうた』<br/>[[1972年]]『株式会社 ザ・カンパニー』<br/>'''[[栄誉金獅子賞]]'''<br/>[[1982年]] |
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| ベルリン国際映画祭 = '''[[金熊賞]]'''<br/>[[第23回ベルリン国際映画祭|1973年]]『[[遠い雷鳴]]』<br/>'''[[銀熊賞 (監督賞)|銀熊賞(監督賞)]]'''<br />[[第14回ベルリン国際映画祭|1964年]]『ビッグ・シティ』<br/>[[第15回ベルリン国際映画祭|1965年]]『[[チャルラータ]]』<br />'''国際カトリック映画事務局賞'''<br/>1965年『チャルラータ』 |
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| AFI賞 = |
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| 英国アカデミー賞 = |
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| セザール賞 = |
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| エミー賞 = |
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| ジェミニ賞 = |
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| ゴールデングローブ賞 = |
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| ゴールデンラズベリー賞 = |
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| ゴヤ賞 = |
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| グラミー賞 = |
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| ブルーリボン賞 = |
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| ローレンス・オリヴィエ賞 = |
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| 全米映画俳優組合賞 = |
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| トニー賞 = |
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| 日本アカデミー賞 = |
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| その他の賞 = |
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| 備考 = |
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| 署名 = [[File:Satyajit Ray Signature.svg|center|200px]] |
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'''サタジット・レイ'''({{lang-en|Satyajit Ray}}, {{lang-bn|সত্যজিৎ রায়}}、[[1921年]][[5月2日]] - [[1992年]][[4月23日]])は、[[インド]]の[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[作曲家]]、[[小説家]]、[[カリグラファー]]、[[イラストレーター]]である。サタジット・レイという呼称は英語読みを日本語に移したもので、ベンガル語では'''ショトジット・ライ'''({{IPA-all|ˈʃɔtːodʒit ˈrai̯|IPA|SatyajitRay2.ogg}})と発音される{{Sfn|宇田川|2007|p=77}}。[[インドの映画|インド映画]]もしくは[[西ベンガルの映画|ベンガル語映画]]を代表する監督であり、国際的に高く評価され影響を与えた[[巨匠]]のひとりと広く見なされている{{Sfn|宇田川|2007|p=77}}{{Sfn|丹羽|2018|p=223}}<ref name=":5">{{Cite web|date=18 June 2019|title=The Great Integrator|url=https://serenademagazine.com/series/music-education/the-great-integrator/|accessdate=10 November 2020|website=Serenade|language=en-GB}}</ref>。生涯で36本の映画を監督したが、その中には長編劇映画だけでなく、[[ドキュメンタリー]]や[[短編映画]]も含まれている。映画以外にも、作家として[[児童文学]]作品などを執筆しており、さらに[[ベンガル文字]]の[[カリグラフィー]]の創作や、本やポスターの[[グラフィックデザイン]]でも知られた。 |
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'''サタジット・レイ'''([[ベンガル語]]:সত্যজিৎ রায়, [[ヒンディー語]]:सत्यजीत राय, 英語:'''Satyajit Ray''', [[1921年]][[5月2日]] - [[1992年]][[4月23日]])は、[[インド]]東部の大都市[[コルカタ]]出身のインドを代表する[[映画監督]]、また、[[小説家]]である。世界的に知られており、代表作に『[[大地のうた]]』など。'''サタジット・ライ'''の表記もある。 |
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サタジットは[[カルカッタ]](現在の[[コルカタ]])の著名な文学者の家に生まれ、広告会社や出版社のデザイナーとしてキャリアを始めたが、[[フランス]]の映画監督[[ジャン・ルノワール]]との出会いや、[[ネオレアリズモ]]映画『[[自転車泥棒 (映画)|自転車泥棒]]』(1948年)を見たことから映画監督の道へ進んだ。初監督作品『[[大地のうた]]』(1955年)は、[[第9回カンヌ国際映画祭]]のヒューマン・ドキュメント賞などを受賞し、インド映画が国際的に注目されるきっかけとなった。この作品は『[[大河のうた]]』(1956年)、『[[大樹のうた]]』(1959年)とともに「{{仮リンク|オプー三部作|en|The Apu Trilogy}}」を成す。その後、サタジットはインドの[[芸術映画]]の代表者として、『{{仮リンク|音楽ホール (映画)|label=音楽ホール|en|Jalsaghar}}』(1958年)、『{{仮リンク|ビッグ・シティ|en|Mahanagar}}』(1963年)、『[[チャルラータ]]』(1964年)など、ベンガル人の社会や生活を題材にした作品を手がけた。映画製作では、脚本、キャスティング、[[映画音楽]]の作曲、編集、広告のデザインまでをすべて自分でこなした。サタジットはキャリアを通して、インドの映画賞[[国家映画賞]]をはじめ、[[ヴェネツィア国際映画祭|ヴェネツィア]]や[[ベルリン国際映画祭|ベルリン]]の[[映画祭|国際映画祭]]などで数多くの賞を受賞しており、 [[1992年]]には[[アカデミー名誉賞]]と、インド民間人の最高賞である[[バーラト・ラトナ賞]]を授けられた。 |
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日本では当項目名のように英語表記を片仮名読みした表記が一般的だが、まれにベンガル語での読み方に従った'''ショトジット・ライ'''(より正確には「ショットジト・ラエ」)が用いられることもある。また、このように表記されることはほとんど無いが、ヒンディー語読みした場合は「サッティヤジート・ラーイ」となる。 |
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== |
== 生涯 == |
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=== 生誕と初期の人生 === |
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父親はベンガル文学の著名な作家という裕福な家庭に生まれ、画家を目指していた。 |
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[[File:Satyajit_young_3.jpg|thumb|幼少期のサタジット・レイ。]] |
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サタジット・レイの先祖は少なくとも十世代前まで遡ることができる{{Sfn|Seton|1971|p=36}}。祖父の{{仮リンク|ウペンドロキショル・レイ|en|Upendrakishore Ray Chowdhury}}は著名な[[児童文学]]作家で、子供向け雑誌『{{仮リンク|ションデシュ|en|Sandesh (magazine)}}』の発行を手がけた{{Sfn|丹羽|2018|p=226}}。また、印刷会社[[:en:U. Ray and Sons|U. Ray and Sons]]の設立者でもあり、ほかにもイラストレーターや[[哲学者]]、アマチュア天文学者、さらには19世紀の[[ベンガル地方|ベンガル]]で興った宗教および社会活動の[[ブラフモ・サマージ]]の指導者としても活動し、詩人の[[ラビンドラナート・タゴール]]の一家とも親しかった{{Sfn|丹羽|2018|p=226}}<ref name=":1">{{Cite journal |last=Barnouw |first=Erik |date=1981 |title=Lives of a Bengal Filmmaker: Satyajit Ray of Calcutta |url=https://www.jstor.org/stable/29781890 |journal=The Quarterly Journal of the Library of Congress |volume=38 |issue=2 |pages=60-77 |jstor=29781890 |issn=0041-7939}}</ref>。父の{{仮リンク|シュクマル・レイ|en|Sukumar Ray}}も[[ベンガル語]]の児童文学と{{仮リンク|ナンセンス・ヴァース|en|Nonsense verse}}で先駆的な業績を残した作家であり、イラストレーターや評論家としても活動した<ref name=":1"/>。 |
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[[1921年]]5月2日、サタジットは[[コルカタ|カルカッタ]](現在のコルカタ)で、シュクマルと母スプラバ・レイの間に生まれた。サタジットは上流階級に属する家庭に生まれたが、わずか3歳の時にシュクマルが亡くなったため、スプラバの親戚の家に身を寄せながら、スプラバのわずかな収入で生活することになった<ref name=":2">{{Cite book |last=Vijaya |first=Dr. |title=Satyajit Ray |publisher=Sapna Book House |year=2012 |isbn=9788128017889 |location=Bangalore}}</ref><ref name="自作を語る">[[田山力哉]]訳・構成「ショトジット・ライ全自作を語る」({{Harvnb|世界の映画作家|1975|pp=67-84}})</ref>。成長したサタジットはカルカッタの{{仮リンク|バーリグンジ政府高校|en|Ballygunge Government High School}}で学び、{{仮リンク|プレジデンシー・カレッジ|en|Presidency College, Calcutta}}(当時は[[コルカタ大学]]の管区カレッジ)で経済学の学士号を取得したが、既にサタジットの興味はいつも[[ファインアート]]に向けられ、[[西洋音楽]]に夢中となった{{Sfn|丹羽|2018|p=226}}<ref name=":2"/>。 |
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[[コルカタ大学]]を卒業後に広告会社に勤務し、レイアウトや挿絵などを描いていたが、映画製作に興味を持つようになった。彼の初めての作品である『[[大地のうた]]』は世界各国の映画祭で高い評価を得たが、会社に勤めながら休日に撮影をしたため、完成まで3年かかったという。なお、サタジット・レイの作品は一般的な[[インドの映画]]とは異なり西洋的な映画手法に基づいて作られており、インド国内よりもむしろインド国外で評価されている監督である。 |
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[[1940年]]、サタジットの母親はタゴールが設立した{{仮リンク|シャンティニケトン|en|Santiniketan}}の[[タゴール国際大学|ビシュバ・バラティ大学]]へ進学するよう求めたが、カルカッタに愛着を持つサタジットはシャンティニケトンで学業生活を送ることに乗り気ではなかった{{Sfn|Robinson|2003|p=46}}。サタジットは母の説得と、タゴールを尊敬していたこともあって進学を決意し、美術学科に入ったが、この時期に[[東洋]]芸術に触れ、後に認めたところによると有名な画家の{{仮リンク|ノンドラル・ボーズ|en|Nandalal Bose}}や{{仮リンク|ビノード・ビハーリー・ムカルジー|en|Benode Behari Mukherjee}}{{Refnest|group="注"|後にサタジットは、ムカルジーのドキュメンタリー映画『{{仮リンク|心の眼|en|The Inner Eye}}』(1972年)を製作した{{Sfn|丹羽|2018|p=240}}。}}からたくさんの事を学んだ{{Sfn|丹羽|2018|p=227}}{{Sfn|Seton|1971|p=70}}。さらにこの時期に[[アジャンター石窟群]]、[[エローラ石窟群]]、[[エレファンタ石窟群]]を訪れ、その[[インド芸術]]から大きな刺激を受けた{{Sfn|Seton|1971|pp=71-72}}。 |
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1992年には[[第64回アカデミー賞|第64回米国アカデミー賞]]で[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]を受賞した(プレゼンターは[[オードリー・ヘプバーン]])。 |
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[[ファイル:Satyajit-Ray-Young.jpg|thumb|left|22歳頃のサタジット・レイ。]] |
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また、The Complete Adventures of Feludaの前書きによれば、祖父のUpendrakishore Rayが発刊した子ども向けの雑誌『ションデシュ』(Sandesh)を1961年に復刊。[[シャーロック・ホームズ]]のベンガル語訳も連載されたことのあるその雑誌に、インドのシャーロック・ホームズと称されるフェルダー・シリーズを連載(ベンガル語)。1965年から没するまで毎年発表された作品は長編・短編合わせて35作に及び、主にインド国内向けに英訳もされた。フェルダー・シリーズの何作かは自身で映画化している。日本語訳には『黄金の城塞』と『消えた象神』がある。他に幻想小説も執筆し、日本語訳もされている。 |
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[[1943年]]、サタジットはカルカッタのイギリス系広告会社D・J・キーマー社にグラフィックデザイナーとして就職し{{Sfn|丹羽|2018|p=227}}{{Sfn|杉本|2002|pp=125-126}}、月80[[ルピー]]の給料を得た。サタジットは[[グラフィックデザイン]]の制作を上手くこなしたが、会社内ではイギリス人とインド人の従業員の間にいさかいがあり、イギリス人社員は給与も優遇されていた。さらにサタジットは「依頼はどれも愚かしげなものばかり」と感じていた{{Sfn|Robinson|2003|pp=56-58}}。やがてサタジットは、D. K. Guptaが新たに設立した出版社{{仮リンク|シグネット・プレス|en|Signet Press}}で働いた。この会社では出版される書籍の表紙デザインを任され、尚且つ完全な芸術的自由を与えられた。サタジットは[[:en:Jibanananda Das|Jibanananda Das]]の『''[[:en:Banalata Sen (book)|Banalata Sen]]''』と『''[[:en:Rupasi Bangla|Rupasi Bangla]]''』、{{仮リンク|ジム・コーベット (猟師)|label=ジム・コーベット|en|Jim Corbett (hunter)}}の『''[[:en:Maneaters of Kumaon|Maneaters of Kumaon]]''』、[[ジャワハルラール・ネルー]]の『{{仮リンク|インドの発見|en|Discovery of India}}』など多くの本の表紙をデザインした{{Sfn|Robinson|2005|p=38}}。また、[[ビブティブション・ボンドパッダエ]]が著したベンガル語の古典的小説『{{仮リンク|大地のうた (小説)|label=大地のうた|en|Pather Panchali (novel)}}』を子供向けに改訂した『''Aam Antir Bhepu''』の表紙デザインと挿絵も手がけたが、サタジットはこの本に大きな感銘を受け、後に自身の初監督映画の題材に選び、その作品のいくつかの革新的な場面でこの挿絵を用いた{{Sfn|丹羽|2018|p=227}}{{Sfn|Robinson|2005|p=38}}。 |
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[[1947年]]、サタジットは友人の{{仮リンク|チダナンダ・ダスグプタ|en|Chidananda Dasgupta}}らとともに、カルカッタで最初の[[シネクラブ]]である{{仮リンク|カルカッタ・フィルム・ソサエティ|en|Calcutta Film Society}}を設立した{{Sfn|杉本|2002|pp=125-126}}{{Sfn|Robinson|2005|pp=40-43}}。サタジットは[[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]監督のソ連映画『[[戦艦ポチョムキン]]』(1925年)などのヨーロッパ映画をインドで初めて上映し、映画文化を普及させる運動に従事しながら、自らもそれらの作品を鑑賞して映画を勉強した{{Sfn|杉本|2002|pp=125-126}}{{Sfn|Robinson|2005|pp=40-43}}<ref>{{cite web|url=http://www.satyajitray.org/bio/film_society.htm |title=Calcutta Film Society - Biography|website=Satyajitray.org|accessdate=2021-8-3|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030811073320/http://www.satyajitray.org/bio/film_society.htm|archivedate=11 August 2003}}</ref>。また、[[第二次世界大戦]]中にカルカッタに駐留していたアメリカ兵と親しくなり、カルカッタで上映されるアメリカ映画の最新情報を仕入れ続けていた。この頃にサタジットは[[イギリス空軍]]にいたノーマン・クレールと親しくなり、クレールを通じて[[チェス]]や西洋[[クラシック音楽]]にも熱をあげた{{Sfn|Robinson|2005|pp=40-43}}。 |
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[[1966年]](昭和41年)[[10月]]に'''来日'''している。 |
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[[1949年]]、サタジットは従姉で長年の恋人だった{{仮リンク|ビジョヤ・ダス|en|Bijoya Ray}}と結婚した{{Refnest|group="注"|ビジョヤは、サタジットの母方の叔父にあたるカルカンドラ・ダスの長女である。サタジットとビジョヤは、1940年頃から交際を始め、1948年にボンベイでひそかに式を挙げた。2人の婚姻は、翌年にコルカタで挙げた伝統的な宗教儀礼に則った式で認められた<ref>Arup Kr De, "Ties that Bind" by ''The Statesman,'' Calcutta, 27 April 2008. </ref>。}}。夫婦は後に映画監督となる息子{{仮リンク|サンディープ・レイ|en|Sandip Ray}}を得た<ref>{{Cite news|date=24 April 1994|title=Filmmaker Satyajit Ray Dies|language=en-US|work=The Washington Post|url=https://www.washingtonpost.com/archive/local/1992/04/24/filmmaker-satyajit-ray-dies/42fce72b-05f0-4d91-aead-c0922994e31a/|accessdate=9 November 2020|issn=0190-8286}}</ref>。この年、フランスの映画監督[[ジャン・ルノワール]]が『[[河 (1951年の映画)|河]]』の撮影のためにカルカッタを訪れた。サタジットはルノワールの仕事を手伝い、カルカッタ周辺のロケ地探しに務めた<ref name="自作を語る"/>。さらにサタジットはルノワールに長く心にとどまる『大地のうた』を映画化する構想を話し、ルノワールはそれを進めるよう励ました{{Sfn|Robinson|2005|pp=42-44}}。翌[[1950年]]、サタジットはD・J・キーマー社から[[ロンドン]]本社での勤務を命じられ、約6ヶ月間その地にとどまり、その間に99本の映画を鑑賞した{{Sfn|Robinson|2005|p=48}}。それらの映画の中には[[ヴィットリオ・デ・シーカ]]監督の[[ネオレアリズモ]]映画『[[自転車泥棒 (映画)|自転車泥棒]]』(1948年)があり、サタジットはこの作品に強い衝撃を受けた。後に語ったところによると、映画監督になることを決意して劇場を出たという{{Sfn|Robinson|2005|p=48}}。 |
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== 主な監督作品 == |
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*[[大地のうた]](''Pather Panchali'', 1955年) |
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*[[大河のうた]](''Aparajito'', 1956年) |
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*[[大樹のうた]](''Apur Sansar'', 1958年) |
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*[[詩聖タゴール]](''Rabindranath Tagore'', 1961年) |
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*[[大都会 (映画)|大都会]](''Mahanagar'', 1963年) |
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*[[チャルラータ]](''Charulata'', 1964年) |
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*[[株式会社/ザ・カンパニー]](''Seemabaddha'', 1972年) |
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*[[遠い雷鳴]](''Ashani Sanket'', 1973年) |
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*[[ミドルマン]](''Jana Aranya'', 1975年) |
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*[[チェスをする人]](''Shatranj Ke Khiladi'', 1977年) |
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*[[ピクー]](''Pikoor Diary'', 1981年) |
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*[[遠い道]](''Sadgati'', 1981年) |
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*[[家と世界]](''Ghare Baire'', 1984年) |
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*[[見知らぬ人 (映画)|見知らぬ人]](''Agantuk'', 1991年) |
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=== オプー三部作 === |
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== 日本語訳された著書 == |
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[[File:Satyajit_Ray_with_Ravi_Sankar_recording_for_Pather_Panchali_cropped_Ray.jpg|thumb|『大地のうた』製作時のサタジット・レイ(1955年)。]] |
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===名探偵フェルダーシリーズ=== |
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帰国したサタジットは、ボンドパッダエのベンガル語の古典的[[教養小説]]で、ベンガルの村で育った少年オプーの半生を描く作者の自伝的小説『大地のうた』を原作として、初めての映画監督作品に取りかかることにした<ref name="自作を語る"/><ref>{{Cite web|last=Jeffries|first=Stuart|date=20 October 2010|title=Pather Panchali: No 12 best arthouse film of all time|url=http://www.theguardian.com/film/2010/oct/20/pather-panchali-ray-arthouse|accessdate=9 November 2020|website=The Guardian|language=en}}</ref>。サタジットはロンドンからインドへ帰る航海中に書き始めたシナリオと数百枚のデッサンを抱えて数人のプロデューサーと掛け合ったが、誰もこの企画に関心を持とうとはしなかった<ref name="自作を語る"/>{{Sfn|杉本|2002|pp=126-127}}。それでもサタジットは生命保険から資金を出して、[[1952年]]にようやく撮影を開始した<ref name="自作を語る"/>。スタッフは、サタジットの友人で後年まで仕事を共にした[[カメラマン]]の{{仮リンク|スブラタ・ミットラ|en|Subrata Mitra}}と[[美術監督]]の{{仮リンク|バンシ・チャンドラグプタ|en|Bansi Chandragupta}}の両者を除くと未経験者ばかりで、俳優もほとんどが素人だった<ref name="自作を語る"/>{{Sfn|Robinson|2003|pp=74-83}}。 |
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1965年から1992年まで発表(ベンガル語)。全35編。名探偵フェルダー(本名:プラドッシュ・ミッテル)が活躍するティーンエイジャー向け推理小説。大人の読者にも愛好家が多い。<ref>波多野健「インドの本格ミステリーの歴史と現在」(カルパワ・スワミナタン『第三面の殺人』(講談社、2010年)巻末解説)参照</ref> |
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サタジットはまだ広告会社の仕事を続けていたため、休みの週末にしか『大地のうた』の仕事を進めることができなかった<ref name="自作を語る"/>。自己調達で賄ったほんの少額の製作資金もすぐに使い果たしてしまい、相変わらず出資者も見つからなかったため、約1年半も製作を中断することになった<ref name="自作を語る"/>{{Sfn|Robinson|2003|pp=74-83}}。その後、サタジットの母親と共通の友人がいた[[西ベンガル州]]首相の[[ビダン・チャンドラ・ロイ]]の計らいにより、政府から分割払いで融資を受けることになった<ref name="自作を語る"/>。政府はシナリオがあまりにもペシミスティックだという理由で、ハッピーエンドにするように要求したが、サタジットはこれを拒絶し、それにもかかわらず融資は受けた{{Sfn|Seton|1971|p=95}}。また、[[1954年]]にサタジットは[[ニューヨーク近代美術館]](MoMA)のディレクターの{{仮リンク|モンロー・ウィーラー|en|Monroe Wheeler}}にフィルムの一部を見せた。これに感銘を受けたウィーラーは、サタジットに仕上げ資金を送り、MoMAで上映できるようにした{{Sfn|Robinson|2003|pp=74-83}}<ref>{{Cite web|title=Satyajit Ray's Pather Panchali {{!}} MoMA|url=https://www.moma.org/calendar/film/726|accessdate=9 November 2020|website=The Museum of Modern Art|language=en}}</ref>。さらに『[[王になろうとした男 (映画)|王になろうとした男]]』のロケ場所をインドで探していた[[ジョン・ヒューストン]]もフィルムを見て、「大いなる才能が海のむこうにいる」と語った{{Sfn|Robinson|2003|p=87}}。 |
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このシリーズは2作品がサタジット・レイ自身により映画化されており、日本ではその2作品のみ翻訳刊行されている。 |
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*黄金の城塞 ([[:en:Sonar Kella]]) (くもん出版、1991年11月) - シリーズ6作目(1971) |
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*消えた象神 ([[:en:Joi Baba Felunath]]) (くもん出版、1993年4月) - シリーズ12作目(1975) |
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『[[大地のうた]]』は3年もの時間をかけてようやく完成し、[[1955年]]5月にMoMAで初公開され、8月にインド国内で劇場公開された{{Sfn|Robinson|2003|pp=88-89}}。作品は国際的に高い評価を受け、ベンガル語圏や欧米では興行的にも大成功を収めた{{Sfn|杉本|2002|pp=128-129}}。[[ザ・タイムズ・オブ・インディア]]紙は「他のインド映画と比べるなどとんでもない...『大地のうた』は純粋たる映画である」と賞賛の評を書き、イギリスでも[[リンゼイ・アンダーソン]]が熱烈な批評を書いた{{Sfn|Seton|1971|pp=112-115}}。しかし中には[[フランソワ・トリュフォー]]が鑑賞後に「私は農民らが手で食事をするような映画は見たくない」と語ったように批判もあった<ref name="filmifunda">{{cite news|author=|url=http://www.telegraphindia.com/1050420/asp/calcutta/story_4634530.asp|title=Filmi Funda Pather Panchali (1955)|publisher=The Telegraph|date=2005-04-20|accessdate=2006-04-29|location=Calcutta, India}}</ref>。アメリカでは、当時最も権威のあった映画批評家[[ボズレー・クラウザー]]が[[ニューヨーク・タイムズ]]に「この映画を楽しむには忍耐が必要だ」と仮借のない批評を書き<ref>{{Cite news|last=Crowther|first=Bosley|date=23 September 1958|title=Screen: Exotic Import; Pather Panchali' From India Opens Here (Published 1958)|language=en-US|work=The New York Times|url=https://www.nytimes.com/1958/09/23/archives/screen-exotic-import-pather-panchali-from-india-opens-here.html|accessdate=11 November 2020|issn=0362-4331}}</ref>、アメリカでの配給元はクラウザーの批評で興行は上手くいかないと恐れたが、公開されると8ヶ月ものロングランを記録した{{Sfn|Robinson|2003|pp=91-106}}。また、翌[[1956年]]の[[第9回カンヌ国際映画祭]]ではヒューマン・ドキュメント賞を受賞した{{Sfn|杉本|2002|pp=128-129}}。 |
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===その他=== |
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*大都会 ベンガル語 シナリオ(大阪外国語大学、1991年3月) - シナリオ |
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サタジットの国際的なキャリアは、次作で『大地のうた』の続編にあたる『[[大河のうた]]』(1957年)の成功を受けて本格的に始まった{{Sfn|Robinson|2003|pp=91-106}}。『大河のうた』はオプーの青年期を描いた作品で{{Sfn|杉本|2002|pp=126-127}}、公開されると[[ヴェネツィア国際映画祭]]で最高賞の[[金獅子賞]]を受賞した<ref name="ヴェネツィア">{{cite web|url=http://www.labiennale.org/en/cinema/history/awards1.html|title=The awards of the Venice Film Festival|accessdate=4 June 2015|publisher=la Biennale di Venezia|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141016035043/http://www.labiennale.org/en/cinema/history/awards1.html|archivedate=16 October 2014}}</ref>。[[ムリナール・セーン]]や[[リッティク・ゴトク]]などのインドの映画人は、この作品に前作を上回る高い評価を与えた{{Sfn|Robinson|2003|pp=91-106}}。しかし、『大河のうた』を撮り終えたサタジットは、それとはまったく異なるスタイルや雰囲気を持つ作品を撮りたいと考え、[[1958年]]に風刺喜劇の『{{仮リンク|哲学者の石 (映画)|label=哲学者の石|en|Parash Pathar}}』と、[[タラションコル・ボンドパッダエ]]原作で{{仮リンク|徴税請負地主|en|Parash Pathar}}の退廃を描いた『{{仮リンク|音楽ホール (映画)|label=音楽ホール|en|Jalsaghar}}』を撮影し、『音楽ホール』はサタジットの最も重要な作品の1つと見なされている{{Sfn|レイ|1993|pp=86-89}}<ref name="malcolm1">{{cite news|author=Malcolm D|publisher=guardian.co.uk |url=http://www.guardian.co.uk/film/1999/jan/14/derekmalcolmscenturyoffilm.derekmalcolm |title=Satyajit Ray: The Music Room |accessdate=2006-06-19 |location=London |date=1999-03-19}}</ref>。 |
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*わが映画インドに始まる(第三文明社、1993年6月) - 映画論 |
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*ユニコーンを探して サタジット・レイ小説集(筑摩書房、1993年11月) - 小説 |
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[[1959年]]、サタジットはオプーを主人公にした三部作({{仮リンク|オプー三部作|en|The Apu Trilogy}})の最終作となる『[[大樹のうた]]』を撮影した。この作品は成人したオプーが、結婚、子供の誕生、そして妻の死を経験する姿を描いている{{Sfn|杉本|2002|pp=126-127}}。元々サタジットは三部作にすることを計画していなかったが、『大河のうた』がヴェネツィア国際映画祭で上映された時に、数人のジャーナリストから三部作のアイデアについて質問されたことで思い立った<ref name="自作を語る"/>{{Sfn|Wood|1972|p=61}}。この作品はインドで『大地のうた』をしのぐほどの興行的成功を収め<ref name="自作を語る"/>、映画批評家の{{仮リンク|ロビン・ウッド|en|Robin Wood (critic)}}や{{仮リンク|アパルナ・セーン|en|Aparna Sen}}は三部作の最高傑作と評した。しかし、ベンガル人批評家からは厳しい批判を受け、サタジットは映画の弁護を記した。サタジットは批評家の言うことにほとんど反応しなかったが、この作品と後に撮影した『チャルラータ』に対する批判には反論した{{Sfn|レイ|1993|p=22}}。サタジットはオプー三部作で高い成功を収めたが、それは何年経っても自身の私生活に影響を与えることはなく、妻や子供や母親、そして親類たちと借家住まいを続けた{{Sfn|Robinson|2003|p=5}}。 |
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=== 『女神』から『チャルラータ』まで === |
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[[1960年]]、サタジットは[[イギリス領インド帝国]]時代の[[ヒンドゥー教]]社会における宗教的[[迷信]]を題材にした『{{仮リンク|女神 (1960年の映画)|label=女神|en|Devi (1960 film)}}』を発表した。その粗筋は[[シャルミラ・タゴール]]演じる若妻が、義父によって[[女神]][[カーリー]]に祭り上げられてしまうというものである<ref name="Rosenbaum">{{Cite web|last=Rosenbaum|first=Jonathan|date=1 January 2000|title=Devi|url=http://onfilm.chicagoreader.com/movies/capsules/2659_DEVI.html|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071031053329/http://onfilm.chicagoreader.com/movies/capsules/2659_DEVI.html|archivedate=31 October 2007|accessdate=11 November 2020|website=Chicago Reader}}</ref>。サタジットは[[中央映画認証委員会]]による差し止めや再編集の指示を恐れたが、無事上映された。しかし、ヒンドゥー教側からは攻撃され、そのために国外に輸出することを禁じられた。その後、作品を見たインド首相の[[ジャワハルラール・ネルー]]の計らいで禁が解かれ、[[第15回カンヌ国際映画祭]]に出品された<ref name="自作を語る"/><ref name="Rosenbaum"/>。翌[[1961年]]にはネルーの依頼で、タゴールの生誕100年を記念したドキュメンタリー映画『{{仮リンク|詩聖タゴール|en|Rabindranath Tagore (film)}}』を撮影した。しかし、タゴールを撮影した映像は限られていたため、サタジットは静止画から映画を作る手法を取らざるをえず、普通の長編映画3本分と同じぐらいの労力がかかったという<ref name="自作を語る"/>{{Sfn|Robinson|2003|p=277}}。また、同年にサタジットは敬意を込めてタゴールに捧げるために、タゴールの短編小説3本を原作にした[[アンソロジー映画]]『{{仮リンク|三人の娘|en|Teen Kanya}}』を撮影した<ref name="自作を語る"/>{{Sfn|丹羽|2018|p=240}}。 |
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同年、サタジットは詩人の{{仮リンク|スバーシ・ムコーパデャイ|en|Subhas Mukhopadhyay (poet)}}らと、かつて祖父が出版し、それを引き継いだ父の死によって途絶えていた子供向け雑誌『ションデシュ』を再刊行した<ref name=":1"/>。このためにサタジットは何年もかけて資金を蓄えていた{{Sfn|Seton|1971|p=189}}。サタジットはその雑誌のためにイラストを描き、小説や詩を書き始めたが、やがて執筆業はサタジットにとって主な収入源となった<ref name="sensesofcinema">{{Cite web|last=Goritsas|first=Helen|date=May 2002|title=Ray, Satyajit|url=https://www.sensesofcinema.com/2002/great-directors/ray/|accessdate=11 November 2020|website=Senses of Cinema|language=en-US}}</ref><ref>{{Cite web|last=Robinson|first=Andrew|date=20 May 2020|title=Satyajit Ray: a moral attitude |url=https://www2.bfi.org.uk/news-opinion/sight-sound-magazine/features/satyajit-ray-moral-attitude|accessdate=9 November 2020|website=Sight & Sound |work=British Film Institute|language=en}}</ref>。一方の映画監督業でもシナリオの執筆に変化があった。それまでのすべての作品は原作ものだったが、[[1962年]]公開の『{{仮リンク|カンチェンジュンガ (映画)|label=カンチェンジュンガ|en|Kanchenjungha}}』で初めてオリジナル脚本を使用した。この作品は西ベンガルの丘の町[[ダージリン]]で午後を過ごす上流階級の家族を描いた作品で、サタジットにとって初の[[カラー映画]]にもなった<ref name="自作を語る"/>。 |
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その次にサタジットは『{{仮リンク|遠征 (1962年の映画)|label=遠征|en|Abhijan (1962 film)}}』(1962年)を撮影し、そのあとにカルカッタの中流家庭の夫婦関係を題材にした『{{仮リンク|ビッグ・シティ|en|Mahanagar}}』(1963年)と『[[チャルラータ]]』(1964年)を撮影した{{Sfn|杉本|2002|p=130}}。『ビッグ・シティ』は夫の収入を助けるために仕事を始める女性がさまざまなトラブルに悩む姿を描き<ref name="自作を語る"/>、『チャルラータ』はタゴールの短編小説『{{仮リンク|壊れた巣|en|Nastanirh}}』を原作に、19世紀ベンガルの孤独な妻チャルの義弟アマルへの恋心を描いた<ref>{{Cite news|last=Bradshaw|first=Peter|date=21 August 2014|title=Charulata review – a vitamin boost for the mind and heart|language=en-GB|work=The Guardian|url=https://www.theguardian.com/film/2014/aug/21/charulata-review|accessdate=11 November 2020|issn=0261-3077}}</ref>。この2本はサタジットの中期の代表作とされており{{Sfn|杉本|2002|p=130}}、とくに『チャルラータ』は多くの批評家からサタジットの最も優れた作品と見なされ、サタジット自身もお気に入りの映画に挙げている{{Sfn|Robinson|2003|p=157}}。また、サタジットはこの2本で、[[ベルリン国際映画祭]]の[[銀熊賞 (監督賞)|銀熊賞(監督賞)]]を2年連続で受賞した<ref name="berlinale1">{{cite web|url=http://www.berlinale.de/en/archiv/jahresarchive/1964/03_preistr_ger_1964/03_Preistraeger_1964.html|title=Prizes & Honours 1964|accessdate=7 June 2014|publisher=Internationale Filmfestspiele Berlin|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150319032841/http://www.berlinale.de/en/archiv/jahresarchive/1964/03_preistr_ger_1964/03_Preistraeger_1964.html|archivedate=19 March 2015}}</ref><ref name="berlinale2">{{cite web|url=http://www.berlinale.de/en/archiv/jahresarchive/1965/03_preistr_ger_1965/03_Preistraeger_1965.html|title=Prizes & Honours 1965|accessdate=7 June 2014|publisher=Internationale Filmfestspiele Berlin|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150319033406/http://www.berlinale.de/en/archiv/jahresarchive/1965/03_preistr_ger_1965/03_Preistraeger_1965.html|archivedate=19 March 2015}}</ref>。 |
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=== 新たな取り組み === |
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1960年代後半から1980年代前半まで、サタジットは[[ファンタジー]]や[[サイエンス・フィクション|SF]]、探偵ものから[[歴史映画]]まで、さまざまなジャンルに取り組んだ。また、この時期は少なからぬ形式上の実験も行い、これまでのサタジットの作品に欠如されていたと指摘された、インド人の生活における現代的な問題を探求した。その最初の主要な映画は、{{仮リンク|ウッタム・クマール|en|Uttam Kumar}}とシャルミラ・タゴールが主演した『{{仮リンク|英雄 (1966年の映画)|label=英雄|en|Nayak (1966 film)}}』(1966年)である。この作品はある映画スターが列車の旅で、ウマの合う若き女性ジャーナリストと出くわした24時間を描き、売れっ子と思われる{{仮リンク|二枚目俳優|en|matinée idol}}が抱える内面の葛藤を探求した{{Sfn|Dasgupta|1996|p=91}}。この作品を発表した年、サタジットは[[日本]]を訪れ、尊敬する[[黒澤明]]と対面した<ref name="川喜多">[[川喜多かしこ]]「偉大なシネアスト」({{Harvnb|世界の映画作家|1975|pp=49-56}})</ref>。 |
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[[1967年]]、サタジットは『ションデシュ』に書いた短編小説『''Bankubabur Bandhu'' (''Banku Babu's Friend'')』を下敷きに『{{仮リンク|エイリアン (未制作の映画)|label=エイリアン|en|The Alien (unproduced film)}}』という映画脚本を執筆した。この作品はアメリカとインドの共同製作で企画され、[[コロンビア ピクチャーズ|コロンビア映画]]が製作会社となり、[[ピーター・セラーズ]]と[[マーロン・ブランド]]を主演に起用することになった。ところが、脚本の著作権と権利金の受け取りは[[マイケル・ウィルソン]]に帰属されていることが判明した。ウィルソンは当初、共通の知り合いである[[アーサー・C・クラーク]]を通じてサタジットに近づき、ハリウッドにおける代理人となり、「Mike Wilson & Satyajit Ray」の名で著作権登録をしていたが、ウィルソンが脚本に関与したのはただ一単語に過ぎなかった<ref name=UCSCcurrents>{{cite news|last=Newman |first=John|url=http://www.ucsc.edu/currents/01-02/09-17/ray.html|title=Satyajit Ray Collection receives Packard grant and lecture endowment|publisher=UC Santa Cruz Currents online|date=2001-09-17|accessdate=2006-04-29}}</ref><ref name=unmaderay>{{cite web|url=http://www.satyajitrayworld.com/raysfilmography/unmaderay.aspx|title=Ordeals of the Alien|last=Ray|first=Satyajit|work=The Unmade Ray|publisher=Satyajit Ray Society|accessdate=2008-04-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080427215538/http://www.satyajitrayworld.com/raysfilmography/unmaderay.aspx <!--Added by H3llBot-->|archivedate=2008-04-27}}</ref>。後にサタジットは、この脚本執筆で一銭も受け取らなかったと明かした<ref name=unmaderay/>。さらにマーロン・ブランドが企画を降り、製作側は代わりに[[ジェームズ・コバーン]]を立てようとしたが、その頃にはサタジットは企画を放棄し、幻滅してカルカッタに戻った<ref name=UCSCcurrents/><ref name=unmaderay/>。コロンビア映画は1970年代から80年代に企画を復活させようとサタジットを説得したが、実現はしなかった。[[1982年]]に[[スティーヴン・スピルバーグ]]監督の『[[E.T.]]』が公開された時、サタジットはそれが『エイリアン』の脚本の盗用であると主張し、「『エイリアン』の脚本の写しなしに、アメリカで『E.T.』を作ることはできなかっただろう」と述べたが、スピルバーグはこれを否定している<ref name=UCSCcurrents/>。『エイリアン』以外に、サタジットが構想しながら実現しなかった企画には、古代インド[[叙事詩]]『[[マハーバーラタ]]』や、[[E・M・フォースター]]の小説『[[インドへの道]]』がある<ref>{{cite web|title=Book review: ''Satyajit Ray'' by Surabhi Banerjee|author=C. J. Wallia|year=1996|publisher=''India Star''|url=http://www.indiastar.com/satyajitray.html|accessdate=2009-05-31}}</ref>。 |
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[[1969年]]、サタジットは祖父が書いた童話を基にした[[ミュージカル]]・ファンタジー映画『{{仮リンク|グビとバガの冒険|en|Goopy Gyne Bagha Byne}}』を発表した<ref name="グビ">{{Cite web|last=Banerjee|first=Rabi|date=24 June 2018|title=Reimagining Goopy Gyne Bagha Byne, a Satyajit Ray cult classic|url=https://www.theweek.in/leisure/society/2018/06/24/reimagining-goopy-gyne-bagha-byne-satyajit-ray-cult-classic.html|accessdate=11 November 2020|website=The Week|language=en}}</ref>。その内容は歌手のグビと太鼓を叩くバガの2人が、幽霊の王から授かった3つの品物を手に、隣り合う2つの王国で起こりそうな戦争を食い止めるために旅をするというものである。この作品はサタジットの最も製作費が高い作品の1つとなり、資金調達に困難をきたした。それでも自身の最も商業的に成功した作品にもなり、ベンガル語映画で最も人気のある映画の1本に位置付けられている<ref name="グビ"/>{{Sfn|Seton|1971|pp=291-297}}。続いて、詩人で作家の{{仮リンク|シュニル・ゴンゴパッダエ|en|Sunil Gangopadhyay}}の小説の映画化『{{仮リンク|森の中の昼と夜|en|Aranyer Din Ratri}}』(1969年)を撮影した{{Sfn|Wood|1972|p=13}}。この作品は日々の生活から離れようと休暇を過ごしに森へやって来た都会の青年4人のうち3人が、それぞれ女性と関わりを持つようになるという筋で、インドの中産階級を深く理解できる題材となっている<ref name=":3">{{Cite book|last=Ray, Satyajit, 1921-1992.|url=https://www.worldcat.org/oclc/70176953|title=Satyajit Ray : interviews|date=2007|publisher=University Press of Mississippi|others=Cardullo, Bert.|isbn=978-1-57806-936-1|edition=1st|location=Jackson|pages=53, 180|oclc=70176953}}</ref>。 |
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『森の中の昼と夜』の発表後、サタジットは現代ベンガル人の生活を題材とした「カルカッタ三部作 (Calcutta trilogy)」と呼ばれる『{{仮リンク|対抗者|en|Pratidwandi}}』(1970年)、『{{仮リンク|株式会社 ザ・カンパニー|en|Seemabaddha}}』(1971年)『[[ミドルマン]]』(1975年)を撮影した{{Sfn|杉本|2002|p=130}}{{Sfn|Robinson|2003|pp=200-220}}。この3本はそれぞれ別々に構想されたが、一貫したテーマでつながりを持つ{{Sfn|Robinson|2003|pp=200-220}}。三部作は抑圧に焦点を合わせており、男性の主人公は禁じられたものに手を付ける<ref>{{Cite journal|last=Ganguly|first=Suranjan|date=1 January 2020|title=Encounters with the Forbidden: Satyajit Ray's Pratidwandi and Jana Aranya|url=https://hdl.handle.net/2027/spo.13761232.0044.103|journal=Film Criticism|volume=44|issue=1|doi=10.3998/fc.13761232.0044.103|hdl=2027/spo.13761232.0044.103|issn=2471-4364|doi-access=free}}</ref>。『対抗者』では卒業したての理想主義の青年の幻滅、『株式会社 ザ・カンパニー』では利益のために自らの道徳を放棄するエリートビジネスマン、『ミドルマン』では生きるために退廃した文化に漬かってしまう若い男を描いた。また、『対抗者』では大胆な[[フラッシュバック (物語)|フラッシュバック]]の使用など、新しい物語の表現手法を試みた{{Sfn|Robinson|2003|pp=200-220}}。サタジットは三部作を手がけている間、[[シッキム王国]]のドキュメンタリー映画『{{仮リンク|シッキム (映画)|label=シッキム|en|Sikkim (film)}}』(1971年){{Refnest|group="注"|『シッキム』はシッキムの王室によって製作され、[[2010年]]までインド政府によって発禁処分を受けていたが、サタジットの息子サンディープ・レイによると、その映像は土地の動植物と美しい景観のみを撮影したもので、論争の的になるような内容は含まれていないという<ref>{{cite web|date=2012-1-20|url=http://mungpoonews.blogspot.in/2012/01/sikkim-film-by-satyajit-ray-sikkim-not.html|title= Sikkim: film by Satyajit Ray | Sikkim not controversial: Gautam|publisher=Mungpoo New|accessdate=2021-8-23}}</ref>。}}や、ビブティブション・ボンドパッダエの小説を映画化した『[[遠い雷鳴]]』(1973年)も撮影した。『遠い雷鳴』はベンガル地方の村を舞台とし、[[バラモン]]の夫婦を通して[[ビルマの戦い#日本軍の侵攻(1941-1942年)|日本軍のビルマ侵攻]]というはるか遠くの地の戦争がおよぼす悲劇を描き、[[第23回ベルリン国際映画祭]]で[[金熊賞]]を受賞した<ref>[[三木宮彦]]「その後のライ」({{Harvnb|世界の映画作家|1975|pp=232-237}})</ref>。 |
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この頃、サタジットは[[バングラデシュ独立戦争]]を題材にした映画を作ることを構想していたが、結果的にそのアイデアを放棄した。後にサタジットは映画監督として戦争の受難者を描くことに興味を持てても、政治には関心が持てないと発言した{{Sfn|Robinson|2003|p=206}}。[[1977年]]、サタジットは[[ムンシー・プレームチャンド]]の小説を映画化した『{{仮リンク|チェスをする人|en|Shatranj Ke Khiladi}}』を撮影した。[[インド大反乱]]前の[[1856年]]の[[アワド太守|アワド藩王国]]を舞台としたこの作品は、イギリスによるインド植民地支配に関わる問題を取り上げており、サタジットの作品として初めてベンガル語以外の言語([[ヒンディー語]])を使用した長編映画となった。キャストには[[サンジーヴ・クマール]]、[[サイード・ジャフリー]]、[[アムジャド・カーン (俳優)|アムジャド・カーン]]、[[シャバーナー・アーズミー]]、[[ヴィクター・バナルジー]]、[[リチャード・アッテンボロー]]などの人気俳優が名を連ね、製作費はサタジットの作品で最高額の約200万ルピーとなったが、それでもこの金額は[[ボリウッド|ヒンディー語映画]]の平均予算(400万~1000万ルピー)を下回っている<ref>{{Cite web|last=Antani|first=Jay|date=7 April 2006|title=DVD Review: The Chess Players|url=https://www.slantmagazine.com/dvd/the-chess-players/|accessdate=9 November 2020|website=Slant Magazine|language=en-US}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://satyajitray.org/shatranj-ke-khilari-the-chess-players/ |title=Shatranj Ke Khilari (The Chess Players) |website=satyajitray.org |accessdate=2021年8月23日}}</ref>。 |
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=== 晩年 === |
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[[ファイル:SatyajitRay.jpg|thumb|サタジットの肖像画。]] |
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1980年代に入ると、『グビとバガの冒険』の続編で、やや政治色を帯びた『{{仮リンク|ダイヤモンドの王国|en|Hirak Rajar Deshe}}』(1980年)や{{Sfn|Robinson|2003|pp=188-189}}、称賛された短編映画『{{仮リンク|ピクー|en|Pikoor Diary}}』(1981年)、1時間の[[ヒンディー語]]映画『{{仮リンク|遠い道|en|Sadgati}}』(1981年)を発表した。しかし、[[1983年]]の『{{仮リンク|家と世界|en|Ghare Baire (film)}}』の製作中に[[心臓発作]]に見舞われ、これが原因でその後亡くなるまでの9年間の活動が著しく制限された<ref name="sensesofcinema"/>。『家と世界』は健康状態を鑑みて初めてカメラを担当した息子の助けを得ながら1984年に完成した。この作品は愛国心の危機を題材としたラヴィンドナート・タゴールの小説を基に、サタジットが長く映画化を考えていたもので、最初の脚本草稿は1940年代には着手されていた{{Sfn|Robinson|2003|pp=66-67}}。病気のため細切れの印象は免れなかったが、作品はいくつかの称賛を受けた<ref>{{Cite news |last=Canby |first=Vincent |date=21 June 1985 |title=Film: By Satyajit Ray |language=en-US |work=The New York Times |url=https://www.nytimes.com/1985/06/21/movies/film-by-satyajit-ray.html |accessdate=11 November 2020 |issn=0362-4331}}</ref>。[[1987年]]には父シュクマルを題材としたドキュメンタリー『{{仮リンク|シュクマル・レイ (映画)|label=シュクマル・レイ|en|Sukumar Ray (film)}}』を製作した{{Sfn|丹羽|2018|p=240}}。 |
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1990年代に手がけたサタジットの晩年の3本は、健康の回復と医療の支援が効をなして実現したが、いずれも室内撮影であり、以前よりも対話シーンが増えたが、そのために過去の作品には及ばないという意見もある{{Sfn|Robinson|2003|pp=339-364}}。『{{仮リンク|民衆の敵 (1990年の映画)|label=民衆の敵|en|Ganashatru}}』(1990年)は著名な[[民衆の敵 (戯曲)|同名の戯曲]]の映画化であり、撮影時の健康状態は悪かったと考えられている{{Sfn|Dasgupta|1996|p=134}}。その後は回復を見せ、『{{仮リンク|枝わかれ|en|Shakha Proshakha}}』(1990年)を撮影した。この作品は実直な人生を送る老人が、3人の息子たちの不正を知るという物語で、最後の場面で老人は唯一不正を働いていない心を病む4番目の息子に慰められる{{Sfn|Robinson|2003|pp=353-364}}。そしてサタジット最後の作品となった『[[見知らぬ人]]』(1991年)は[[フランス]]との共同製作で、長らく行方不明になっていた叔父がカルカッタの娘を訪ね、そのために周囲が疑念に囚われる様を描いている{{Sfn|Robinson|2003|pp=353-364}}{{Sfn|杉本|2002|p=131}}。この作品はフランスで大ヒットしたが、サタジットはその出来に満足せず、亡くなるまで次作『目覚め (''Jagaran'')』の製作を構想していた{{Sfn|杉本|2002|p=131}}。 |
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サタジットはヘビースモーカーだが酒は飲まず、何よりも仕事を大切にし、1日12時間も働き、深夜2時に就寝した。また、[[骨董品]]や[[写本]]、珍しい蓄音機のレコード、絵画、珍しい本の収集を楽しんだ<ref>{{Cite web |last=T.S. |first=Satyan |date=8 June 2002 |title=A FILM-MAKER FILMED |url=https://frontline.thehindu.com/other/article30245124.ece |accessdate=10 November 2020 |website=Frontline |language=en}}</ref>。そんな私生活を送ったサタジットは、[[1992年]]1月に心臓病で健康状態が悪化し、カルカッタの病院に入院するも、そのまま回復に向かうことはなかった<ref name="University News">{{Cite web |last=Gibb |first=Ann |date=2002-2-21 |url=https://news.ucsc.edu/2002/02/69.html |title=Film retrospective of acclaimed director fulfills deathbed promise |website=University News |work=UC Santa Cruz |accessdate=2021年9月3日}}</ref>。亡くなる24日前の3月30日には、ビデオ映像を介して[[オードリー・ヘプバーン]]から[[アカデミー名誉賞]]を授与され、これを「映画監督のキャリアで最高の成果」と呼んで病床から受賞スピーチをした<ref name="thenationalnews">{{Cite web |author=Huma qureshi |date=2013-8-31 |url=https://www.thenationalnews.com/arts-culture/art/exhibition-reveals-another-side-to-satyajit-ray-genius-of-indian-cinema-1.299627 |title=Exhibition reveals another side to Satyajit Ray, genius of Indian cinema |website=The National |accessdate=2021年9月3日}}</ref><ref name="oscar">{{cite web|url=http://aaspeechesdb.oscars.org/link/064-24/|title=Acceptance Speeches: Satyajit Ray|accessdate=18 May 2014|publisher=[[映画芸術科学アカデミー]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141020193036/http://aaspeechesdb.oscars.org/link/064-24/|archivedate=20 October 2014}}</ref>。[[1992年]]4月23日、サタジットは71歳の誕生日を迎える9日前に亡くなった<ref>{{Cite news |date=24 April 1992 |title=Satyajit Ray dead |page=1 |work=The Indian Express |url=https://news.google.com/newspapers?nid=P9oYG7HA76QC&dat=19920424&printsec=frontpage&hl=en}}</ref>。通夜には4万人以上が訪れ、市内を進む葬列には50万人もの人々が加わったという{{Sfn|杉本|2002|p=131}}。 |
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== 映画製作のスタイル == |
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サタジット・レイは自身のキャリアを通して、映画監督になるきっかけを作った[[ジャン・ルノワール]]に敬意を表し、その作品とスタイルから大きな影響を受けた<ref name="岩崎昶">[[岩崎昶]]「インドの映画詩人」({{Harvnb|世界の映画作家|1975|pp=23-38}})</ref><ref name="indiewire">{{Cite web|last=Roisin|first=Fariha|date=18 August 2014|title=Why the Best American Filmmakers Owe a Debt to Satyajit Ray|url=https://www.indiewire.com/2014/08/why-the-best-american-filmmakers-owe-a-debt-to-satyajit-ray-23072/|access-date=9 November 2020|website=IndieWire|language=en}}</ref>。また、[[イタリア]]の[[ネオレアリズモ]]の代表的監督である[[ヴィットリオ・デ・シーカ]]の影響も受けており、彼の代表作『自転車泥棒』からは低予算で映画を作る方法や、アマチュアの俳優を起用すること、そして現実的なテーマに目を向けることを学んだ<ref name="自作を語る"/><ref name=":4">{{Cite book|last=Cooper|first=Darius|url=https://www.worldcat.org/oclc/40948522|title=The cinema of Satyajit Ray : between tradition and modernity|date=2000|publisher=Cambridge University Press|isbn=0-521-62026-0|location=Cambridge, UK|pages=73|oclc=40948522}}</ref>{{Sfn|レイ|1993|p=162}}。さらに[[ジョン・フォード]]、[[ビリー・ワイルダー]]、[[エルンスト・ルビッチ]]などの{{仮リンク|古典的ハリウッド映画|en|Classical Hollywood cinema}}の監督から映画技術を学んだことを認め、自身が巨匠と見なした同時代の監督の[[黒澤明]]と[[イングマール・ベルイマン]]に深い敬意と称賛を示した<ref name=":4"/>。黒澤からは『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』(1950年)の光の使い方に影響を受けたことを明らかにしている{{Sfn|レイ|1993|p=233}}。ほかにもサタジットは[[ロバート・フラハティ]]と{{仮リンク|マルク・ドンスコイ|ru|Донской, Марк Семёнович}}を自身の作品に最も影響を与えた監督に挙げており、また[[モンタージュ理論]]の提唱者[[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]のスタイルに影響を受けたことも指摘されている<ref name="自作を語る"/>{{Sfn|レイ|1993|pp=74-75}}。 |
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サタジットの長編劇映画29本のほとんどは、既存の物語を映画化した文芸映画であり、オリジナル脚本による作品は6本しかない{{Sfn|丹羽|2018|p=223}}<ref name="Story & Script">{{Cite web |url=https://satyajitray.org/story-script/ |title=Satyajit Ray - Story & Script |website=satyajitray.org |accessdate=2021年8月25日}}</ref>。原作ものを脚色する時は、自分が原作で不満に思うところに手を加えたため、しばしば原作のストーリーと大きく異なるところがあり、そのために原作と比較され、批判にさらされることがあった{{Sfn|丹羽|2018|p=223}}{{Sfn|レイ|1993|pp=86-89}}<ref name="Story & Script"/>。脚本を書く時は、自身がよく知るキャラクターや環境を選ぶことが多く、オリジナル作品では『カンチェンジュンガ』や『英雄』のように、限られた時空間の中で密度の濃い物語を書くことが多かった{{Sfn|レイ|1993|pp=86-89}}<ref name="Story & Script"/>。サタジットの作品は[[リアリズム]]を基調とし、19世紀または20世紀の[[ベンガル人]]の生活と社会的問題を題材に扱い、主人公の{{仮リンク|社会的アイデンティティ|en|Social identity theory}}に深い関心を持っている<ref>{{Cite web |url=https://satyajitray.org/subjects/ |title=Subjects : Satyajit Ray's world |website=satyajitray.org |accessdate=2021年8月25日}}</ref><ref name="海外論">山本喜久男「ショトジット・ライ海外論」({{Harvnb|世界の映画作家|1975|pp=57-66}})</ref>。例えば、オプー三部作や『遠い雷鳴』では[[バラモン]]の清貧の生活、『チャルラータ』や『家と世界』では封建的大家族制や階級社会の中で自由に目覚める女性、『音楽ホール』『チェスをする人』などでは古い社会のあり方が崩れ、近代化へと変化する社会に取り残され、苦悩する上流階級の姿を描いている{{Sfn|杉本|2002|p=130}}<ref name="佐藤忠男">[[佐藤忠男]]「サタジット・レイの映画」({{Harvnb|レイ|1993|pp=282-289}})</ref>。 |
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撮影は、『大地のうた』以来コンビを組んだカメラマンの{{仮リンク|スブラタ・ミットラ|en|Subrata Mitra}}の貢献度が大きかった。ミットラは『大河のうた』の撮影で「[[バウンスライティング]]」という、照明の光を天井や壁、または布に当て、その反射光でリアルな照明効果を生み出すテクニックを開発し、世界中の撮影技師に影響を与えた<ref>{{cite web|title=Subrata Mitra|url=http://www.cinematographers.nl/GreatDoPh/mitra.htm|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090602164022/http://www.cinematographers.nl/GreatDoPh/mitra.htm|archivedate=2 June 2009|accessdate=22 May 2009|publisher=Internet Encyclopedia of Cinematographers}}</ref>。『チャルラータ』以降はサタジットが自分でカメラを回すようになり、『英雄』を最後にミットラとのコンビを解消したが、多くの批評家はミットラが去ったことで、その後のサタジットの作品は撮影の質が低下したと指摘している{{Sfn|Dasgupta|1996|p=91}}{{Sfn|レイ|1993|p=95}}。編集は通常、{{仮リンク|ドゥラル・ドット|en|Dulal Datta}}が担当したが、ほとんどの作品ではカメラ撮影そのものでカットを施し、そのうえカットになるのが分かりきっている部分を撮らないようにしたため、実際の編集作業はドットよりもサタジットが多くを担った{{Sfn|レイ|1993|p=96}}<ref>{{Cite web |url=https://satyajitray.org/editing/ |title=Satyajit Ray - Editing |website=satyajitray.org |accessdate=2021年8月30日}}</ref>。 |
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[[映画音楽]]では、キャリア初期はオプー三部作で[[シタール]]奏者の[[ラヴィ・シャンカル]]を起用したのをはじめ、{{仮リンク|ウスタッド・ヴィラヤット・カーン|en|Vilayat Khan}}や{{仮リンク|アリ・アクバル・カーン|en|Ali Akbar Khan}}といった[[インドの伝統音楽]]の作曲家を起用した{{Sfn|丹羽|2018|pp=224-225}}。しかし、やがて彼らの音楽がその伝統に忠実なあまり自身の映画に馴染まないと気づき、スケジュールを合わせてもらうのが難しかったこともあり、『三人の娘』からはサタジット自身が映画音楽を作曲するようになった{{Sfn|丹羽|2018|pp=224-225}}{{Sfn|Robinson|2003|pp=315-318}}。サタジットは正式な音楽教育を受けていなかったが、インドの伝統音楽だけでなく西洋の[[クラシック音楽]]にも造詣が深く、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]をお気に入りの作曲家とした<ref name=":5"/>{{Sfn|丹羽|2018|p=240}}。都会を舞台にした作品では西洋クラシック音楽を使用したが、『家と世界』などでは[[総譜|スコア]]に西洋音楽とインド伝統音楽を混ぜる実験を行っている{{Sfn|Robinson|2003|pp=315-318}}<ref>{{Cite web|title=Music of Satyajit Ray|url=https://satyajitray.org/music-of-satyajit-ray/|access-date=9 November 2020|website=Satyajit Ray Org|language=en-US}}</ref>。サタジットの音楽のアイデアは閃くように浮かび、時にはシナリオの段階でアイデアをメモすることがあった{{Sfn|レイ|1993|p=97}}。実際にスコアを書き下ろすのは編集をすべて終えてからで、演奏者に応じてインドもしくは西洋の[[記譜法]]でスコアを書いた<ref name=":5"/>。 |
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キャスティングでは、有名な映画スターから無名の素人俳優まで、さまざまな俳優を起用した{{Sfn|Ray|1994|p=100}}。一部の作品のシナリオは、有名俳優のために書くことがあり、その例として『哲学者の石』の{{仮リンク|トゥルシー・チャクラボルティ|en|Tulsi Chakraborty}}、『英雄』の{{仮リンク|ウッタム・クマール|en|Uttam Kumar}}、『音楽ホール』『女神』『カンチェンジュンガ』の{{仮リンク|チャビ・ビスワース|en|Chhabi Biswas}}が挙げられる{{Sfn|レイ|1993|pp=90-91}}。サタジットの基本的な演技指導の方法は、リハーサルの回数を最小限に抑え、俳優に短い指示を出し、あとは俳優が自分の解釈で演じるようにするというものである{{Sfn|レイ|1993|pp=90-91}}。俳優の技量や経験に応じて指示の度合いを変えており、例えば[[ウタパル・ダット]]のような俳優にはほとんど指示をせず、逆に『大地のうた』でオプーを演じた{{仮リンク|スビル・バネルジー|en|Subir Banerjee}}や『大樹のうた』でアパルナを演じた[[シャルミラ・タゴール]]などの俳優には、操り人形のように扱うことがあった{{Sfn|Robinson|2003|p=78}}。サタジットの映画に出演した俳優たちは、サタジットが変わらず信頼を寄せてくれることを賞賛したが、その一方で無能のように扱われて軽蔑されたことについても言及している{{Sfn|Robinson|2003|p=307}}。 |
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== 映画以外の活動 == |
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=== 文学 === |
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{{Main|{{仮リンク|サタジット・レイの文学作品|en|Literary works of Satyajit Ray}}}} |
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サタジット・レイは{{仮リンク|ベンガル文学|en|Bengali literature}}の著名な作家でもある。とくに[[児童文学]]作家として人気を博し<ref>{{Cite web|和書|author=シュニル・ゴンゴパッダエ |url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_1166390_po_2009-09.pdf?contentNo=1 |format=PDF |date=2009-12-13 |title=インド児童文学の現在 |website=[[国際子ども図書館]] |accessdate=2021年8月24日}}</ref>、10代の子供向けに[[冒険小説]]、探偵小説、[[ファンタジー]]、[[サイエンス・フィクション]]、[[ホラー]]などのジャンルの物語を創作した<ref>{{Cite web |url=https://satyajitray.org/rays-literary-career/ |title=Satyajit Ray's Literary Career |website=satyajitray.org |accessdate=2021年8月24日}}</ref>。サタジットの児童文学で最も人気のある作品は、架空の[[探偵|私立探偵]]の「{{仮リンク|フェルダー|en|Feluda}}」が主人公の探偵小説のシリーズと、同じく架空の[[科学者]]の「{{仮リンク|プロフェッサー・ションク|en|Professor Shonku}}」が主人公のSF小説のシリーズである<ref>{{Cite web |url=https://www.hindustantimes.com/regional-movies/after-spy-feluda-satyajit-ray-s-other-creation-prof-shonku-to-be-depicted-onscreen/story-xWH8v1YYin9f3SnitAXkCP.html |date=2017-12-1 |title=After spy Feluda, Satyajit Ray’s other creation Prof Shonku to be depicted onscreen |website=Hindustan Times |accessdate=2021年8月30日}}</ref>。フェルダーのシリーズは、インド全土や国外を舞台にして事件を解決するという内容で、フェルダーのいとこのトペシュの語りで物語が進行する<ref>{{Cite web |author=Soham Deb |url=https://www.outlookindia.com/outlooktraveller/explore/story/70795/travelling-with-feluda-by-satyajit-ray |date=2021-5-2 |title=In the Footsteps of Feluda |website=Outlook India Magazine Online |accessdate=2021年8月30日}}</ref>。サタジットは30本以上のフェルダーの物語を執筆し、そのうち『{{仮リンク|黄金の城塞|en|Sonar Kella}}』(1974年)と『{{仮リンク|消えた象神|en|Joi Baba Felunath (film)}}』(1979年)を映画化した<ref>{{Cite web |url=https://economictimes.indiatimes.com/business-of-bollywood/feluda-reappears-on-silver-screeen/articleshow/2712559.cms?from=mdr |date=2008-1-19 |title=Feluda reappears on silver screeen |website=The Economic Times |accessdate=2021年8月30日}}</ref>。プロフェッサー・ションクのシリーズは、風変わりな科学者であるションクの発明と冒険を描いたもので、サタジットは38本の物語を執筆した<ref>{{cite web|title=Professor Shonku|url=http://www.satyajitrayworld.com/literarycreations_fiction_prof.php|publisher=Satyajit Roy official website|accessdate=2021-8-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130506005121/http://www.satyajitrayworld.com/literarycreations_fiction_prof.php|archivedate=6 May 2013|url-status=dead}}</ref><ref>{{Cite web |last=Biswas |first=Atanu |url=https://scroll.in/article/993866/satyajit-ray-centenary-professor-shonkus-world-no-longer-exists-can-he-still-cast-a-spell |date=2021-5-2 |title=Satyajit Ray centenary: Professor Shonku’s world no longer exists. Can he still cast a spell? |website=Scroll.in |accessdate=2021年8月30日}}</ref>。 |
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ほかにもサタジットは、超自然的な力を持つ架空の人物「{{仮リンク|タリーニ・フロ|en|Tarini Khuro}}」が主人公の冒険小説のシリーズや、12のエピソードを纏めた『''Ek Dojon Gappo''』『''Aker pitthe dui''』といった短編小説集{{Refnest|group="注"|サタジットの短編小説は12本のエピソードを1冊に纏めて出版されたが、そのタイトルは12という言葉に紐づくものとなっていた(例えば、『''Aker pitthe dui''』は「Two on top of one」という意味を持つ)<ref name="短編"/>。}}などの作品を執筆した<ref name="短編">{{Cite web |url=https://www.indiatvnews.com/entertainment/web-series-srijit-mukherjee-to-direct-web-series-based-on-satyajit-ray-s-short-stories-442067 |date=2018-3-13 |title=Srijit Mukherjee to direct web series based on Satyajit Ray's short stories |website=indiatvnews.com |accessdate=2021年8月31日}}</ref><ref>{{cite news|title=Tarini Khuro’s screen saga|url=http://articles.timesofindia.indiatimes.com/2012-06-07/news-interviews/32100093_1_ghost-stories-sandip-ray-film|archiveurl=https://archive.today/20130103204432/http://articles.timesofindia.indiatimes.com/2012-06-07/news-interviews/32100093_1_ghost-stories-sandip-ray-film|url-status=dead|archivedate=3 January 2013|accessdate=2021-8-31|newspaper=[[The Times of India]]|date=7 June 2012}}</ref>。また、[[ルイス・キャロル]]や[[エドワード・リア]]などの詩を含むナンセンス・ヴァース集『''[[:en:Today Bandha Ghorar Dim|Today Bandha Ghorar Dim]]''』(1976年)、[[ナスレッディン・ホジャ]]が主人公の『''Molla Nasiruddiner Galpo''』(1985年)などの翻訳本や<ref>{{cite web|url=http://www.satyajitrayworld.com/literarycreationsi_astranslator.php |title=as translator |website=Satyajit Ray Society |accessdate=2021-8-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130315162858/http://www.satyajitrayworld.com/literarycreationsi_astranslator.php |archivedate=2013-3-15}}</ref>、『{{仮リンク|わが映画インドに始まる|en|Our Films, Their Films}}』(1976年)、『''[[:en:Bishoy Chalachchitra|Bishoy Chalachchitra]]''』(1976年)、『''[[:en:Ekei Bole Shooting|Ekei Bole Shooting]]''』(1979年)などの映画批評やエッセイを纏めた本も出版した。[[1982年]]には幼少期の自伝『''[[:en:Jakhan Choto Chilam|Jakhan Choto Chilam]]''』を出版し、妻のビジョ・レイによって『''Childhood Days: A Memoir''』の題名で英訳された<ref>{{Cite book|last=Ray, Satyajit, 1921-1992.|url=https://www.worldcat.org/oclc/41532327|title=Childhood days : a memoir|date=1998|publisher=Penguin Books|others=Rāẏa, Bijaẏā.|isbn=0-14-025079-4|location=New Delhi|oclc=41532327}}</ref>。[[1994年]]にはオプー三部作を製作した時の回想録『''[[:en:My Years with Apu|My Years with Apu]]''』を出版した<ref>{{Cite web|last=Dhillon|first=Amrit|date=30 November 1994|title=Book review: Satyajit Ray's My years with Apu: A memoir|url=https://www.indiatoday.in/magazine/society-the-arts/story/19941130-book-review-satyajit-rays-my-years-with-apu-a-memoir-810309-1994-11-30|accessdate=9 November 2020|website=India Today|language=en}}</ref>。 |
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=== カリグラフィーとデザイン === |
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サタジット・レイは[[カリグラフィー|カリグラファー]]としても活動し、自身の雑誌『ションデシュ』用に、ほかのどのベンガル文字とも異なる[[ローマン体]]の「レイ・ローマン (Ray Roman)」「レイ・ビザール (Ray Bizarre)」「ダフニス (Daphnis)」 、「ホリディ・スクリプト (Holiday Script)」と呼ばれる4つの書体をデザインした<ref>{{cite news|url=http://www.financialexpress.com/news/The-Ray-show-goes-on/263406/ |title=The Ray show goes on |last=Datta |first=Sudipta |date=19 January 2008 |accessdate=10 April 2008 |work=The Financial Express |publisher=Indian Express Newspapers (Mumbai) Ltd |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080121103144/http://www.financialexpress.com/news/The-Ray-show-goes-on/263406/ |archivedate=21 January 2008 }}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.satyajitrayworld.com/versatility_typography.php |title=Ray Typography |website=Satyajit Ray Society |accessdate=24 July 2014 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140809064842/http://www.satyajitrayworld.com/versatility_typography.php |archivedate= 9 August 2014 }}</ref>。このうちレイ・ローマンとレイ・ビザールは、1971年に国際コンペティションで優勝した{{Sfn|Robinson|2003|pp=57-59}}。また、サタジットは映画のキャリアを積み重ねる中で、グラフィックデザイナーとして活動したことでも知られ、自身の映画ポスターのほとんどをデザインし、自身または他の作家の本のイラストや表紙のデザインを手がけた{{Sfn|Robinson|2003|pp=57-59}}。 |
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サタジットのデザインの芸術性は、映画のポスターやプロモーション用冊子の表紙で見ることができる{{Sfn|Robinson|2003|pp=57-59}}。サタジットがデザインした映画ポスターの多くはシンプルで、ベンガル語の[[書記素]]を使用したカリグラフィーに、1つの視覚的に印象的なイメージを描いており、インドの要素も取り入れられている<ref name="thenationalnews"/>。ポスターなどに見られるサタジットのベンガル語の書記素の表現は、ベンガル文字特有の3層の{{仮リンク|エックスハイト|en|x-height}}(基本文字の高さ)が楽譜のように示され、水平線と垂直線が交わる点の間には{{仮リンク|アルポナ|en|alpana}}(ベンガル伝統の文様)のパターンに従った曲線で書かれるのが特徴的である。また、ベンガル文字の書記素を変容させて、[[アルケー]]文字とも呼べるような生物や物を形づくったベンガル文字を創作した<ref>{{cite journal|url=https://www.academia.edu/411331|title=Chobi Lekhen Sottojit (Satyajit Ray Writes Paintings)|journal=Dhrubapad. Yearbook-Vi. (Pp.392-417). Kolkata|last1=Bandyopadhyay|first1=Debaprasad}}</ref>。 |
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== 評価 == |
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サタジット・レイは[[インド]]の[[西ベンガルの映画|ベンガル語映画]]を代表する監督であり{{Sfn|丹羽|2018|pp=224-225}}、インドまたは[[ベンガル地方]]の[[文化的アイコン]]として世界中に広く知られた<ref name="HinduIcon">{{cite news|url=http://www.hindu.com/2007/12/01/stories/2007120151070200.htm |title=Returning to the classics of Ray |last=Tankha |first=Madhur |date=1 December 2007 |accessdate=1 May 2008 |work=The Hindu |location=Chennai, India |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140426201006/http://www.hindu.com/2007/12/01/stories/2007120151070200.htm |archivedate=26 April 2014}}</ref>。サタジットは国際的に高い認知と評価を受けた最初のインド人監督であり{{Sfn|宇田川|2007|p=77}}{{Sfn|丹羽|2018|p=240}}、とくに『大地のうた』はインド映画が欧米で注目されるきっかけとなった<ref>{{Cite book|和書 |author=松岡環 |chapter=ラエ、サタジット |date=2008-7 |title=世界映画大事典 |publisher=[[日本図書センター]] |page=929}}</ref>。また、[[黒澤明]]と並んでアジア映画を代表する巨匠と見なされており{{Sfn|宇田川|2007|p=77}}、[[マーティン・スコセッシ]]はサタジットを黒澤、[[イングマール・ベルイマン]]、[[フェデリコ・フェリーニ]]とともに世界映画の偉大な監督に挙げている<ref name="indiewire"/>。そんなサタジットの[[映画史]]的功績は、それまで歌と踊りをふんだんに盛り込んだ娯楽作品が主流だったインド映画に、現実を見据える[[リアリズム]]を導入し、新しく[[アート映画|芸術映画]]や{{仮リンク|社会派映画|en|Social problem film}}の流れを確立したことである{{Sfn|宇田川|2007|p=77}}<ref name="佐藤忠男"/>。戦後のベンガル語映画では「[[パラレル映画]]」という芸術映画の潮流が生まれたが、サタジットは同時代に活躍した[[リッティク・ゴトク]]や[[ムリナール・セーン]]などとともに、その潮流を代表する監督と見なされている<ref>{{Cite web |last=Ayaz |first=Shaikh |date=2020-5-5 |url=https://indianexpress.com/article/entertainment/opinion-entertainment/parallel-cinema-movies-6375603/ |title=Our ultimate guide to the 1970-80s parallel cinema gems |website=The Indian Express |accessdate=2021年9月1日}}</ref>。しかし、ベンガル語で作られたサタジットの作品は、インド国内のほかの言語地域では理解されず、字幕付きで上映されることもなかった。そのためベンガル地方以外では、サタジットの作品が上映されることは少なく、それゆえにサタジットはあまり知られておらず、インド国外の方がサタジットの作品にアクセスしやすいという側面があり、国内と国外とで評価のずれが見られた{{Sfn|丹羽|2018|p=240}}{{Sfn|杉本|2002|p=131}}。 |
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サタジットの作品は一般的に、[[ヒューマニズム]]と普遍性に溢れ、一見単純でありながら内に深く根底的な複雑さを秘めていると評価されている<ref name="malcolm2">{{cite news|last=Derek |first=Malcolm |work=The Guardian |url=https://www.theguardian.com/cultures/2002/may/02/artsfeatures1 |title=The universe in his backyard |accessdate=15 February 2007 |location=London |date=2 May 2002 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140426235816/http://www.theguardian.com/culture/2002/may/02/artsfeatures1 |archivedate=26 April 2014}}</ref><ref name="sragrow">{{cite web|last=Sragow |first=Michael |work=The Atlantic Monthly |url=http://satyajitray.ucsc.edu/articles/sragow.html |title=An Art Wedded to Truth |accessdate=15 February 2007 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090412212046/http://satyajitray.ucsc.edu/articles/sragow.html |archivedate=12 April 2009}}</ref>。黒澤明は「サタジット・レイの映画を見た事がないとは、この世で太陽や月を見た事がないに等しい」と述べた{{Sfn|Robinson|2003|p=96}}。一方で、批判者からは作品のテンポの遅さを指摘され、「雄大なカタツムリ」と揶揄された{{Sfn|Robinson|2003|p=157}}。サタジット自身は展開の遅さは如何ともしがたいと述べたが、黒澤は「遅い」とは的外れで「彼の作品は大河のように悠然とした流れが表現されているのだ」と弁護した{{Sfn|Robinson|2003|pp=306-318}}。一部の批評家はサタジットの作品が現代的ではないと指摘し、サタジットと同時代に活躍した[[ジャン=リュック・ゴダール]]の作品に見られるような、新しい表現や実験的な要素が欠けていると批判した{{Sfn|Robinson|2003|pp=306-318}}。批評家からは[[アントン・チェーホフ]]、[[ウィリアム・シェイクスピア]]などの他分野の芸術家やその作品と比べられることもあり、作家の[[V・S・ナイポール]]は『チェスをする人』のシーンをシェイクスピアの劇と比較して「たった300の単語が口にされるだけなのになんと言うことだ!ものすごい」と評した<ref name="Wedded">{{Cite journal|title=An Art Wedded to Truth |first=Michael |last=Sragow |year=1994 |journal=The Atlantic Monthly |url=http://satyajitray.ucsc.edu/articles/sragow.html |accessdate=11 May 2009 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090412212046/http://satyajitray.ucsc.edu/articles/sragow.html |archivedate=12 April 2009}}</ref><ref>{{cite news|author=Ebert|first=Roger|title=The Music Room (1958)|work=Chicago Sun-Times|url=http://rogerebert.suntimes.com/apps/pbcs.dll/article?AID=/19990117/REVIEWS08/401010342/1023|url-status=live|accessdate=29 April 2006|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051226145349/http://rogerebert.suntimes.com/apps/pbcs.dll/article?AID=%2F19990117%2FREVIEWS08%2F401010342%2F1023|archivedate=26 December 2005}}</ref>{{Sfn|Robinson|2003|p=246}}。 |
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政治的イデオロギーは、サタジットの作品と相容れるものではなかった。1960年代にサタジットは[[マルクス主義]]者の監督ムリナル・センと公開書簡を交わし、センの『{{仮リンク|雲の上に|en|Akash Kusum}}』(1965年)を「カラス映画」と呼び、羽を借りたカラスの寓話に例えて独創性に欠けると酷評した{{Sfn|杉本|2002|p=133}}<ref name="セン">{{Cite web |last=Mukhopadhyay |first=Dipankar |date=2018-12-31 |url=https://scroll.in/reel/827100/mrinal-sen-versus-satyajit-ray-the-lengthy-war-of-words-between-two-of-indias-greatest-directors |title=Mrinal Sen versus Satyajit Ray: The war of words that lasted nearly 30 years |website=Scroll.in |accessdate=2021年9月1日}}</ref>。その後2人はサタジットが亡くなるまで、お互いの映画に建設的な批判をし続けた<ref name="セン"/><ref>{{Cite web |date=2018-12-31 |url=https://www.news18.com/news/movies/when-mrinal-sen-and-satyajit-ray-duelled-over-films-1987545.html |title=When Mrinal Sen and Satyajit Ray Duelled Over Films |website=News18 |accessdate=2021年9月1日}}</ref>。社会主義の支持者の中には、サタジットがインド社会で虐げられた人たちが生まれる原因を描き出していないことを指摘し、一部の批評家は、『大地のうた』や『遠い雷鳴』が叙情的で美しい描き方によって貧困を賛美していると非難した。彼らはサタジットが物語で起きる対立に解決策を出さず、サタジットの[[ブルジョワジー]]的経歴を克服することができなかったと主張した。1970年代に{{仮リンク|ナクサライト|en|naxalite}}(インドの武装革命至上主義)運動が盛んだった頃には、押しかけた主義者たちによって息子が身体的危害を加えられそうになった事もあった{{Sfn|Robinson|2003|p=205}}。1980年代にはインドの[[国会議員]]で元女優の[[ナルギス]]が、サタジットを「貧困を輸出している」と非難し、現代インドを描く作品を作るべきだと主張した{{Sfn|Robinson|2003|pp=327-328}}。 |
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== 影響 == |
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サタジット・レイの影響はベンガル語映画界に広く浸透し、{{仮リンク|アパルナ・セン|en|Aparna Sen}}や{{仮リンク|リトゥポルノ・ゴーシュ|en|Rituparno Ghosh}}、[[ゴータム・ゴース]]、{{仮リンク|シュリジット・ムカルジー|en|Srijit Mukherji}}、[[バングラデシュ]]の{{仮リンク|タレク・マスード|en|Tareq Masud}}、{{仮リンク|タンビール・モカメル|en|Tanvir Mokammel}}などのベンガル語系監督がその影響を受けた<ref name="HinduIcon"/><ref name="Death Anniversary">{{Cite web |author=SRIJITA SEN |date=2021-4-23 |url=https://www.news18.com/news/movies/satyajit-rays-death-anniversary-a-look-at-the-auteurs-impact-on-filmmakers-3669932.html |title=Satyajit Ray's Death Anniversary: A Look at the Auteur's Impact on Filmmakers |website=News18 |accessdate=2021年9月3日}}</ref>。さらにヒンディー語監督の{{仮リンク|ヴィシャール・バルドワジ|en|Vishal Bhardwaj}}、{{仮リンク|ディバーカル・バナルジー|en|Dibakar Banerjee}}、{{仮リンク|シャーム・ベネガル|en|Shyam Benegal}}、{{仮リンク|アヌラーグ・バス|en|Anurag Basu}}、{{仮リンク|ニーラジ・ゲイワン|en|Neeraj Ghaywan}}、[[スジョイ・ゴーシュ]]などもサタジットの影響を受けている<ref>{{Cite web |author=Kusumita Das |date=2021-6-25 |url=https://www.firstpost.com/entertainment/tracing-satyajit-rays-influence-on-hindi-cinema-netflix-anthology-on-auteurs-short-stories-is-only-a-drop-in-the-ocean-9743971.html |title=Tracing Satyajit Ray's influence on Hindi cinema |website=Firstpost |accessdate=2021年9月3日}}</ref>。インド以外にも、サタジットの映画スタイルは[[マーティン・スコセッシ]]<ref>{{cite web|author=Ingui, Chris |publisher=Hatchet |url=http://media.www.gwhatchet.com/media/storage/paper332/news/2002/03/04/Arts/Martin.Scorsese.Hits.Dc.Hangs.With.The.Hachet-195598.shtml |title=Martin Scorsese hits DC, hangs with the Hachet |accessdate=6 June 2009 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090826214118/http://media.www.gwhatchet.com/media/storage/paper332/news/2002/03/04/Arts/Martin.Scorsese.Hits.Dc.Hangs.With.The.Hachet-195598.shtml |archivedate=26 August 2009}}</ref>、[[ジェームズ・アイヴォリー]]<ref>{{cite web|author=Hall, Sheldon |publisher=Screen Online |url=http://www.screenonline.org.uk/people/id/532213/index.html |title=Ivory, James (1928–) |accessdate=12 February 2007 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061230165100/http://www.screenonline.org.uk/people/id/532213/index.html |archivedate=30 December 2006}}</ref>、[[カルロス・サウラ]]<ref>{{cite web|title=Satyajit Ray is this Spanish director's inspiration |author=Ray, Suchetana |publisher=CNN-IBN |date=11 March 2008 |url=http://ibnlive.in.com/news/satyajit-ray-is-this-spanish-directors-inspiration/60900-8.html |accessdate=6 June 2009 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140707181226/http://ibnlive.in.com/news/satyajit-ray-is-this-spanish-directors-inspiration/60900-8.html |archivedate= 7 July 2014}}</ref>、[[高畑勲]]<ref>{{cite web|author=Thomas, Daniel |title=Film Reviews: Grave of the Fireflies (Hotaru no Haka)|date=20 January 2003|url=http://www.danielthomas.org/pop/film_reviews/fireflies.htm|accessdate=30 May 2009|url-status=dead|archiveurl=https://webcitation.org/6AC5bYmGF?url=http://www.danielthomas.org/pop/film_reviews/fireflies.htm|archivedate=26 August 2012}}</ref>、[[ダニー・ボイル]]<ref name=Jivani>{{cite web|author=Jivani, Alkarim |title=Mumbai rising |work=Sight & Sound |date=February 2009 |url=http://old.bfi.org.uk/sightandsound/feature/49511 |accessdate=1 February 2009 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150221145109/http://old.bfi.org.uk/sightandsound/feature/49511 |archivedate=21 February 2015}}</ref>などの映画監督に影響を与えた。 |
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[[グレゴリー・ナヴァ]]は『{{仮リンク|ミ・ファミリア|en|My Family (film)}}』(1995年)のラストシーンで『大樹のうた』を再現し、[[アイラ・サックス]]は『チャルラータ』からインスピレーションを受けて『''[[:en:Forty Shades of Blue|Forty Shades of Blue]]''』(2005年)を監督した<ref name="Death Anniversary"/>。[[マジッド・マジディ]]はサタジットとその作品に称賛を示すために『''[[:en:Beyond the Clouds (2017 film)|Beyond the Clouds]]''』(2017年)を作った<ref>{{cite web |url=http://in.glamsham.com/en/majid-majidi-satyajit-rays-remarkable-work-inspired-me-to-make-beyond-the-clouds |title=Archived copy |accessdate=10 April 2018 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180411174603/http://in.glamsham.com/en/majid-majidi-satyajit-rays-remarkable-work-inspired-me-to-make-beyond-the-clouds |archivedate=11 April 2018}}</ref>。[[ウェス・アンダーソン]]もインドで撮影した『[[ダージリン急行]]』(2007年)をサタジットに捧げ、サタジットが作曲した音楽を[[サウンドトラック]]に使用した<ref>{{Cite web|last=Romney|first=Jonathan|date=11 November 2007|title=Wes Anderson: Isn't it time the writer and director showed a little|url=http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/films/features/wes-anderson-isnt-it-time-the-writer-and-director-showed-a-little-heart-399522.html|accessdate=10 November 2020|website=The Independent|language=en}}</ref>。映画批評家の{{仮リンク|マイケル・スラゴー|en|Michael Sragow}}は、1950年代中頃から主人公の成長を描くドラマがアート系映画で溢れるようになったのは、オプー三部作の存在に負うところが非常に大きいと指摘している<ref name="Wedded"/>。また、『カンチェンジュンガ』は{{仮リンク|ハイパーリンク映画|en|hyperlink cinema}}と呼ばれる物語構造による作品の先駆けと見なされている<ref >{{cite web|url=http://www.amc.com/movie/1962/Kanchenjungha|title=Kanchenjungha|work=AMC|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151211105908/http://www.amc.com/movie/1962/Kanchenjungha|archivedate=2015-12-11|accessdate=2021-9-3}}</ref>。さらに、[[ソール・ベロー]]の『{{仮リンク|ハーツォグ|en|Herzog (novel)}}』、[[J・M・クッツェー]]の『''[[:en:Youth: Scenes from Provincial Life II|Youth]]''』などの文学作品にも、サタジットからの影響が見られる<ref>{{Cite web |author=Amitabha Bhattacharya |date=2020-4-5 |url=https://www.theweek.in/theweek/leisure/2020/03/26/ray-undimmed.html |title=Ray undimmed |website=The Week |accessdate=2021年9月3日}}</ref>。 |
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[[1993年]]に[[カリフォルニア大学サンタクルーズ校]](UCSC)は、サタジットの作品を保存し、一般に公開するために「サタジット・レイ映画研究コレクション(レイFASC)」を設け、映画やポスター、写真、さまざまな言語で刊行された本、新聞や雑誌の記事、スケッチブックなど、10000点を超える文書から成る[[アーカイブ]]を確立した<ref name=UCSCcurrents/><ref name="University News"/>。これらのアーカイブは、UCSCの{{仮リンク|マクヘンリー図書館|en|McHenry Library}}に所蔵されている<ref name="University News"/>。[[1995年]]にはインド政府によって[[映画学校]]の「{{仮リンク|サタジット・レイ映画テレビ研究所|en|Satyajit Ray Film and Television Institute}}」が創設された<ref>{{Cite web |url=http://srfti.ac.in/?p=142 |title=Our Institute |website=Satyajit Ray Film & Television Institute |accessdate=2021年9月3日}}</ref>。[[1996年]]から[[2008年]]まで[[ロンドン映画祭]]では、初監督作品の中で最も芸術性に優れ、サタジットのような感性と人間性を備える作品に贈られる「サタジット・レイ賞」が設けられた<ref>{{Cite web |last= Baughan |first=Nikki |date=2018-10-9 |url=https://www2.bfi.org.uk/news-opinion/news-bfi/features/lff-62-history-london-film-festival-awards-competition |title=60 years of awards at the London Film Festival – A brief history of the competition |website=BFI |accessdate=2021年9月3日}}</ref>。また、{{仮リンク|ロンドン・インド映画祭|en|London Indian Film Festival}}にも「サタジット・レイ短編映画賞」という賞が設けられている<ref>{{Cite web |url=https://birminghamindianfilmfestival.co.uk/satyajit-ray-short-film-award-2019/ |title=Satyajit Ray Short Film Award 2019 |website=London Indian Film Festival |accessdate=2021年9月3日}}</ref>。サタジットの生誕100周年にあたる[[2021年]]には、インド政府の情報放送大臣{{仮リンク|プラカシュ・ジャバデカール|en|Prakash Javadekar}}が、インドで最高の映画賞[[ダーダーサーヘブ・パールケー賞]]と同等の映画賞として、サタジット・レイの名を冠した賞を設けることを発表した<ref>{{Cite news|title=Centre to institute award in the name of Satyajit Ray: Javadekar|url=https://www.telegraphindia.com/west-bengal/centre-to-institute-an-award-in-the-name-of-satyajit-ray-javadekar/cid/1807557|accessdate=23 February 2021|work=The Telegraph|date=23 February 2021}}</ref>。その後、同年開催の{{仮リンク|第52回インド国際映画祭|en|52nd International Film Festival of India}}で、ジャバデカールの後任の情報放送大臣{{仮リンク|アヌラーグ・タークル|en|Anurag Thakur}}が「インド国際映画祭 生涯功労賞」の名称を「[[サタジット・レイ生涯功労賞]]」に変更することを発表した<ref>{{Cite news|url=https://www.telegraphindia.com/my-kolkata/lifestyle/iffi-2021-martin-scorsese-to-receive-satyajit-ray-lifetime-achievement-award/cid/1839691|title=Three Satyajit Ray classics that still inspire Martin Scorsese |author=Shayeree Ghosh|date= 19 November 2021|accessdate=20 November 2021|website=Telegraph India}}</ref>。 |
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== フィルモグラフィー == |
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サタジット・レイの監督作品は36本存在する。その内訳は長編劇映画が29本、ドキュメンタリー映画が5本、短編映画が2本である<ref name="自作を語る"/><ref>{{cite web |url=http://satyajitray.org/films/filmo_directed.htm |title=Films directed by Ray |publisher=satyajitray.org |accessdate=2021-8-2 |urlstatus=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130726133728/http://www.satyajitray.org/films/filmo_directed.htm |archivedate=26 July 2013 |df=dmy-all}}</ref><ref>{{cite web |url=http://satyajitray.ucsc.edu/filmography |title=Satyajit Ray > Filmography |publisher=satyajitray.ucsc.edu |accessdate=2021-8-2 |urlstatus=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150506072738/http://satyajitray.ucsc.edu/filmography |archivedate=6 May 2015 |df=dmy-all}}</ref><ref>「サタジット・レイ監督フィルモグラフィ」({{Harvnb|レイ|1993|pp=275-281}})</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kawakita-film.or.jp/kaleido/kaleido.ray.02.html |title=サタジット・レイ監督フィルモグラフィー |work=財団法人川喜多記念映画文化財団 |accessdate=2021年8月2日}}</ref>。 |
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{| class="wikitable sortable" style="width:95%" |
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! width="7%" rowspan="2" |公開年 |
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! width="25%" rowspan="2" |{{ublist|邦題|英題}} |
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! width="10%" rowspan="2" |言語 |
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! colspan="6" |役職 |
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! rowspan="2" |備考 |
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! width="5%" |[[映画監督|監督]] |
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! width="5%" |[[脚本家|脚本]] |
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! width="5%" |[[原作]] |
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! width="5%" |[[映画プロデューサー|製作]] |
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! width="5%" |[[映画音楽|作曲]] |
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! width="11%" |その他 |
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|1955年||{{ublist|[[大地のうた]]|''Pather Panchali''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{No}}|||| |
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|1956年||{{ublist|[[大河のうた]]|''Aparajito''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{Yes}}||{{No}}|||| |
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|1958年||{{ublist|哲学者の石|''Parash Pathar''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{No}}||||別邦題表記に『化金石』 |
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|1958年||{{ublist|[[音楽ホール (映画)|音楽ホール]]|''Jalsaghar''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{Yes}}||{{No}}||||別邦題表記に『音楽サロン』 |
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|1959年||{{ublist|[[大樹のうた]]|''Apur Sansar''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{Yes}}||{{No}}|||| |
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|1960年||{{ublist|女神|''Devi''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{Yes}}||{{No}}|||| |
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|1961年||{{ublist|三人の娘|''Teen Kanya''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{Yes}}||{{Yes}}||||「''The Postmaster''」「''Monihara''」「''Samapti''」の3つのエピソードから成る[[アンソロジー映画]] |
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|1961年||{{ublist|[[詩聖タゴール]]|''Rabindranath Tagore''}}||英語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{No}}||ナレーター||ドキュメンタリー映画 |
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|1962年||{{ublist|カンチェンジュンガ|''Kanchenjungha''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}|||| |
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|1962年||{{ublist|遠征|''Abhijan''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}|||| |
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|1963年||{{ublist|[[大都会 (映画)|大都会]]|''Mahanagar''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||||別邦題表記に『ビッグ・シティ』 |
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|1964年||{{ublist|[[チャルラータ]]|''Charulata''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}|||| |
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|1964年||{{ublist|ふたり|''Two''}}||言語なし||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||||短編映画 |
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|1965年||{{ublist|臆病者と聖者|''Kapurush o Mahapurush''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}|||| |
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|1966年||{{ublist|英雄|''Nayak''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}|||| |
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|1967年||{{ublist|動物園|''Chiriyakhana''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}|||| |
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|1969年||{{ublist|グビとバガの冒険|''Goopy Gyne Bagha Byne''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}|||| |
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|1969年||{{ublist|森の中の昼と夜|''Aranyer Din Ratri''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}|||| |
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|1970年||{{ublist|対抗者|''Pratidwandi''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}|||| |
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|1971年||{{ublist|[[株式会社 ザ・カンパニー]]|''Seemabaddha''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}|||| |
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|1971年||{{ublist|シッキム|''Sikkim''}}||英語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||ナレーター<br/>サウンドデザイン||ドキュメンタリー映画 |
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|1972年||{{ublist|心の眼|''The Inner Eye''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||ナレーター<br/>サウンドデザイン||短編ドキュメンタリー映画 |
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|1973年||{{ublist|[[遠い雷鳴]]|''Ashani Sanket''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}|||| |
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|1974年||{{ublist|黄金の城塞|''Sonar Kella''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{Yes}}||||別邦題表記に『黄金の砦』 |
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|1975年||{{ublist|[[ミドルマン]]|''Jana Aranya''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}|||| |
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|1976年||{{ublist|バーラ|''Bala''}}||英語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||ナレーター||ドキュメンタリー映画 |
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|1977年||{{ublist|[[チェスをする人]]|''Shatranj Ke Khilari''}}||ヒンディー語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||ダイアローグ|| |
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|1979年||{{ublist|消えた象神|''Joi Baba Felunath''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{Yes}}||||別邦題表記に『象神万歳』 |
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|1980年||{{ublist|ダイヤモンドの王国|''Hirak Rajar Deshe''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{Yes}}|||| |
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|1980年||{{ublist|[[ピクー]]|''Pikoo''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{Yes}}||||短編映画 |
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|1981年||{{ublist|[[遠い道]]|''Sadgati''}}||ヒンディー語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||ダイアローグ|| |
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|1983年||{{ublist|[[家と世界]]|''Ghare Baire''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}|||| |
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|1987年||{{ublist|シュクマル・レイ|''Sukumar Ray''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||||短編ドキュメンタリー映画 |
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|1990年||{{ublist|民衆の敵|''Ganashatru''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}|||| |
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|1990年||{{ublist|枝わかれ|''Shakha Proshakha''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{Yes}}||{{Yes}}|||| |
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|1992年||{{ublist|[[見知らぬ人]]|''Agantuk''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{Yes}}|||| |
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== 受賞 == |
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サタジット・レイは国内外で多数の映画賞を受賞した。[[ベルリン国際映画祭]]では、[[銀熊賞 (監督賞)|銀熊賞]]を2度以上受けた3人の監督の1人であり<ref>{{cite web|title=Silver Bear winners (directors)|publisher=listal|date=24 November 2008|url=http://www.listal.com/list/silver-bear-winners|accessdate=2009-04-19}}</ref>、[[金熊賞]]ノミネートは最多の7度を誇る。[[ヴェネツィア国際映画祭]]では、1956年に『大河のうた』で[[金獅子賞]]を受賞し、1982年には[[栄誉金獅子賞]]が贈られた<ref>{{cite web|title=Awards for Satyajit Ray|publisher=Internet Movie Database|url=https://www.imdb.com/name/nm0006249/awards/|accessdate=2009-04-19}}</ref>。同年、[[第35回カンヌ国際映画祭|カンヌ国際映画祭]]で"Hommage à Satyajit Ray"が与えられた<ref>{{cite web|title=Personal Awards|publisher=Satyajit Ray official site|url=http://www.satyajitray.org/about_ray/awards_personal.htm|accessdate=2009-04-19}}</ref>。インドの映画賞[[国家映画賞]]では合計32個の賞を受賞しており、歴代最多の監督賞の受賞者(6回受賞)となった<ref>{{cite web|url=http://www.rediff.com/movies/report/fun-facts-about-the-national-awards/20150407.htm|title=Fun Facts about the National Awards|work=Rediff.com|date=7 April 2015|accessdate=18 June 2015|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150409060124/http://www.rediff.com/movies/report/fun-facts-about-the-national-awards/20150407.htm|archivedate=9 April 2015}}</ref>。[[1985年]]にはインド映画で最高位の賞である[[ダーダーサーヘブ・パールケー賞]]を受賞した<ref name="awards">{{cite web|url=http://www.satyajitray.org/about_ray/awards_personal.htm |title=Personal Awards |work=Awards |publisher=satyajitray.org |accessdate=9 April 2008 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080404095030/http://www.satyajitray.org/about_ray/awards_personal.htm |archivedate= 4 April 2008 }}</ref>。[[1992年]]には[[第64回アカデミー賞]]で「映画芸術のたぐいまれな熟達と深い人道的なものの見方が世界中の映画製作者と観客に拭い去ることのできない影響を与えた」('In recognition of his rare mastery of the art of motion pictures and for his profound humanitarian outlook, which has had an indelible influence on filmmakers and audiences throughout the world')功績により[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]を受賞した<ref>{{Cite book|和書 |author= |date=2002-4 |title=最新版アカデミー賞 |publisher=[[共同通信社]] |series=MOOK21 |page=349}}</ref>。 |
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映画賞以外にも、数多くの栄誉や称号を受けた。[[1978年]]には映画関係者では[[チャールズ・チャップリン]]に続いて2人目となる、[[オックスフォード大学]]の[[名誉博士号]]を授けられた{{Sfn|Robinson|2003|p=1}}。ほかにも[[デリー大学]]の文学博士(1973年){{Sfn|Ray|2013|p=164}}、[[ロイヤル・カレッジ・オブ・アート]]の名誉博士(1974年)<ref>{{cite web|url=http://www.rca.ac.uk/more/our-history/college-honours/honorary-doctors/|title=Honorary Doctors of Royal College of Art|publisher=Royal College of Art|accessdate=31 May 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150315030921/http://www.rca.ac.uk/more/our-history/college-honours/honorary-doctors/|archivedate=15 March 2015}}</ref>、[[コルカタ大学]]の文学博士(1985年)<ref>{{cite web|url=http://www.caluniv.ac.in/convocation/hony_degrees.htm|title=Recipients of Hony. Degrees|publisher=University of Calcutta|accessdate=1 June 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131230234707/http://www.caluniv.ac.in/convocation/hony_degrees.htm|archivedate=30 December 2013}}</ref>などの称号を与えられている。インドの勲章では、[[1958年]]に民間人賞で4番目に高い[[パドマ・シュリー勲章]]、[[1965年]]に同3番目の[[パドマ・ブーシャン勲章]]、[[1976年]]に同2番目の{{仮リンク|パドマ・ヴィブーシャン勲章|en|Padma Vibhushan}}、そして1992年に最高位の民間人賞である[[バーラト・ラトナ賞]]を授けられた<ref name="awards"/>。[[1987年]]には[[フランス政府]]から[[レジオンドヌール勲章]]のコマンドゥールの称号を授けられた<ref>{{cite news|url=http://www.hindustantimes.com/news-feed/nm19/french-honour-for-lata-mangeshkar/article1-172314.aspx|title=French honour for Lata Mangeshkar|newspaper=Hindustan Times|location=New Delhi|date=12 November 2006|accessdate=1 June 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140607123553/http://www.hindustantimes.com/news-feed/nm19/french-honour-for-lata-mangeshkar/article1-172314.aspx|archivedate=7 June 2014}}</ref>。また、[[1967年]]にはアジアのノーベル賞と呼ばれる[[マグサイサイ賞]]を受賞した<ref name="awards"/>。 |
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1992年、イギリスの{{仮リンク|サイト・アンド・サウンド|en|Sight & Sound}}誌は、すべての時代における映画監督ベスト10のリストを発表し、サタジットをアジア人では最高位となる7位に選出した<ref>{{cite web|title=Sight and Sound Poll 1992: Critics |publisher=California Institute of Technology |url=http://alumnus.caltech.edu/~ejohnson/sight/1992_1.html |accessdate=29 May 2009 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150618053015/http://alumnus.caltech.edu/~ejohnson/sight/1992_1.html |archivedate=18 June 2015 }}</ref>。2002年の同誌の映画監督ベスト10では、アジア人では4番目となる22位にランクした<ref name="Lee">{{cite web|title=A Slanted Canon|author=Lee, Kevin |publisher=Asian American Film Commentary|date=5 September 2002|url=http://www.asianamericanfilm.com/archives/000026.html|accessdate=24 April 2009|url-status=dead|archiveurl=https://webcitation.org/684ysTg3l?url=http://www.asianamericanfilm.com/archives/000026.html|archivedate=31 May 2012}}</ref>。さらに、[[1996年]]に[[エンターテインメント・ウィークリー]]誌が発表した「50人の偉大な映画監督」リストでは25位に選ばれ<ref>{{cite web|title=Greatest Film Directors and Their Best Films |publisher=Filmsite.org |url=http://www.filmsite.org/directors5.html |accessdate=19 April 2009 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150419012235/http://www.filmsite.org/directors5.html |archivedate=19 April 2015 }}</ref>、[[2007年]]に[[:en:Total Film|Total Film]]誌が発表した「100人の偉大な映画監督」のリストにも選出された<ref>{{cite web|title=The Greatest Directors Ever by ''Total Film'' Magazine |publisher=Filmsite.org |url=http://www.filmsite.org/greatdirectors-totalfilm2.html |accessdate=19 April 2009 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140426215114/http://www.filmsite.org/greatdirectors-totalfilm2.html |archivedate=26 April 2014 }}</ref>。また、[[2004年]]に[[英国放送協会|BBC]]が発表した「{{仮リンク|史上最高のベンガル人|en|Greatest Bengali of all time}}」のリストでは13位にランクした<ref>{{Cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/3623345.stm| title=Listeners name 'greatest Bengali' |work=BBC News |date=14 April 2004 |accessdate=14 December 2017 |language=en-GB}}</ref>。 |
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以下の表は、サタジット・レイが受賞した、もしくはノミネートされた映画賞(個人ではなく作品自体に与えられた賞を含む)の一覧である。 |
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{| class="sortable wikitable" style="font-size:small" |
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|+サタジット・レイの主な映画賞の受賞とノミネートの一覧 |
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! 賞 !! 年 !! 部門 !! 作品名 !! 結果 !! 出典 |
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!rowspan="32" style="text-align:left"|[[国家映画賞]] |
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|rowspan="2"|1955年|| {{仮リンク|国家映画賞 長編映画賞|en|National Film Award for Best Feature Film|label=長編映画賞}}||rowspan="2"|『大地のうた』||{{won}}||rowspan="2"|<ref name="3rdawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/3rd_nff_1956.pdf |title=3rd National Film Awards |publisher=Directorate of Film Festivals |accessdate=1 September 2011 |page=6 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160802150604/http://dff.nic.in/2011/3rd_nff_1956.pdf |archivedate=2 August 2016 }}</ref> |
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|{{仮リンク|国家映画賞 ベンガル語映画賞|label=ベンガル語映画賞|en|National Film Award for Best Feature Film in Bengali}}||{{won}} |
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|1959年||長編映画賞||『大樹のうた』||{{won}}||<ref name="7thawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/7th_nff.pdf|title=7th National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=4 September 2011|page=2}}</ref> |
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|1960年||ベンガル語映画賞||『女神』||{{won}}||<ref name="8thaward">{{cite web|url=http://iffi.nic.in/Dff2011/Frm8thNFAAward.aspx|title=8th National Film Awards|publisher=International Film Festival of India|accessdate=7 September 2011|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131012062918/http://iffi.nic.in/Dff2011/Frm8thNFAAward.aspx|archivedate=12 October 2013|df=dmy-all}}</ref> |
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|rowspan="2"|1961年||ベンガル語映画賞||『三人の娘』||{{won}}||rowspan="2"|<ref name="9thaward">{{cite web|url=http://iffi.nic.in/Dff2011/Frm9thNFAAward.aspx|title=9th National Film Awards|publisher=International Film Festival of India|accessdate=8 September 2011|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161202115652/http://iffi.nic.in/Dff2011/Frm9thNFAAward.aspx|archivedate=2 December 2016|df=dmy-all}}</ref> |
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|{{仮リンク|国家映画賞 非長編映画賞|en|National Film Award for Best Non-Feature Film|label=非長編映画賞}}||『詩聖タゴール』||{{won}} |
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|1964年||長編映画賞||『チャルラータ』||{{won}}||<ref name="12thaward">{{cite web|url=http://iffi.nic.in/Dff2011/Frm12thNFAAward.aspx|title=12th National Film Awards|publisher=International Film Festival of India|accessdate=14 September 2011|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120225220334/http://iffi.nic.in/Dff2011/Frm12thNFAAward.aspx|archivedate=25 February 2012|df=dmy-all}}</ref> |
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|1966年||{{仮リンク|国家映画賞 脚本賞|en|National Film Award for Best Screenplay|label=脚本賞}}||『英雄』||{{won}}||{{Sfn|Ray|2013|p=149}} |
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|1967年||[[国家映画賞 監督賞|監督賞]]||『動物園』||{{won}}||<ref name="15thawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/15th_nff_1967.pdf|title=15th National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=21 September 2011|page=4}}</ref> |
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|rowspan="2"|1968年||長編映画賞||rowspan="2"|『グピとバガの冒険』||{{won}}||rowspan="2"|<ref name="16thawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/16th_nff_1970.pdf|title=16th National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=22 September 2011|pages=2, 4}}</ref> |
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|監督賞||{{won}} |
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|rowspan="3"|1970年||監督賞||rowspan="3"|『対抗者』||{{won}}||rowspan="3"|<ref name="18thawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/17th_NFF_1971.pdf|title=18th National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=26 September 2011|pages=2, 5}}</ref> |
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|{{仮リンク|国家映画賞 第2位優秀映画賞|label=第2位優秀映画賞|en|National Film Award for Second Best Feature Film}}||{{won}} |
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|脚本賞||{{won}} |
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|1971年||長編映画賞||『株式会社 ザ・カンパニー』||{{won}}||{{Sfn|Ray|2013|p=152}} |
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|1972年||非長編映画賞||『心の眼』||{{won}}||<ref name="20thaward">{{cite web|url=http://iffi.nic.in/Dff2011/Frm20thNFAAward.aspx|title=20th National Film Awards|publisher=International Film Festival of India|accessdate=26 September 2011|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131105220349/http://iffi.nic.in/Dff2011/Frm20thNFAAward.aspx|archivedate=5 November 2013|df=dmy-all}}</ref> |
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|- |
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|rowspan="2"|1973年||ベンガル語映画賞||rowspan="2"|『遠い雷鳴』||{{won}}||rowspan="2"|<ref name="21stawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/21st_nff_1973.pdf|title=21st National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=29 September 2011|pages=8, 20}}</ref> |
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|{{仮リンク|国家映画賞 音楽監督賞|en|National Film Award for Best Music Direction|label=音楽監督賞}}||{{won}} |
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|rowspan="3"|1974年||監督賞||rowspan="3"|『黄金の城塞』||{{won}}||rowspan="3"|<ref name="22ndawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/22nd_nff_1974.pdf|title=22nd National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=1 October 2011|pages=8, 11, 20}}</ref> |
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|脚本賞||{{won}} |
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|ベンガル語映画賞||{{won}} |
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|1975年||監督賞||『ミドルマン』||{{won}}||<ref name="23rdawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/23rd_nff_1975.pdf|title=23rd National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=4 October 2011|page=6}}</ref> |
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|1977年||{{仮リンク|国家映画賞 ヒンディー語長編映画賞|label=ヒンディー語長編映画賞|en|National Film Award for Best Feature Film in Hindi}}||『チェスをする人』||{{won}}||<ref name="25thawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/25th_nff_1977.pdf|title=25th National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=4 October 2011|page=18}}</ref> |
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|1978年||{{仮リンク|国家映画賞 児童映画賞|en|National Film Award for Best Children's Film|label=児童映画賞}}||『消えた象神』||{{won}}||<ref name="26thawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/26th_NFA.pdf|title=26th National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=4 October 2011|page=14}}</ref> |
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|rowspan="2"|1980年||ベンガル語映画賞||rowspan="2"|『ダイヤモンドの王国』||{{won}}||rowspan="2"|<ref name="28thawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/28th_nff_1981.pdf|title=28th National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=4 October 2011|pages=20, 24}}</ref> |
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|音楽監督賞||{{won}} |
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|1981年||{{仮リンク|国家映画賞 審査員特別賞|en|National Film Award – Special Jury Award (feature film)|label=審査員特別賞}}||『遠い道』||{{won}}||<ref name="29thawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/29th_nff_1982.pdf|publisher=Directorate of Film Festivals|title=29th National Film Awards|accessdate=4 October 2011|page=21}}</ref> |
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|1984年||ベンガル語映画賞||『家と世界』||{{won}}||<ref name="32ndawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/32nd_nff_1985.pdf|title=32nd National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=6 January 2012|page=32}}</ref> |
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|1989年||ベンガル語映画賞||『民衆の敵』||{{won}}||<ref name="37thawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/37nfa.pdf|title=37th National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=29 January 2012|page=64}}</ref> |
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|rowspan="2"|1991年||長編映画賞||rowspan="2"|『見知らぬ人』||{{won}}|| rowspan="2"|<ref name="39thawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/39nd_nff_1985.pdf|title=39th National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=27 February 2012|pages=14, 16}}</ref> |
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|監督賞||{{won}} |
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|1994年||脚本賞||『''Uttoran''』||{{won}}||<ref name="41stawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/41st_nff_1994.pdf|title=41st National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=3 March 2012|page=50}}</ref> |
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!rowspan="2" style="text-align:left"|[[カンヌ国際映画祭]] |
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|rowspan="2"|[[第9回カンヌ国際映画祭|1956年]]||ヒューマン・ドキュメント賞||rowspan="2"|『大地のうた』||{{won}}||{{Sfn|杉本|2002|pp=128-129}} |
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|[[カンヌ国際映画祭 国際カトリック映画事務局賞|国際カトリック映画事務局賞]]||{{won}}||<ref>{{cite book|last=Lyden|first=John|title=The Routledge Companion to Religion and Film|url=https://books.google.com/books?id=Q9OJLAZakI4C&pg=PA62|year=2009|publisher=Taylor & Francis|isbn=978-0-415-44853-6|page=62}}</ref> |
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!rowspan="4" style="text-align:left"|[[ヴェネツィア国際映画祭]] |
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|rowspan="3"|1957年||[[金獅子賞]]||rowspan="3"|『大河のうた』||{{won}}||<ref name="ヴェネツィア"/> |
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|[[ヴェネツィア国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]||{{won}}||<ref>{{cite web|url=http://www.fipresci.org/awards/1957|title=FIPRESCI Award 1957|accessdate=4 June 2015|publisher=International Federation of Film Critics|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150605001553/http://www.fipresci.org/awards/1957|archivedate=5 June 2015}}</ref> |
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|チネマ・ヌオヴォ賞||{{won}}||{{Sfn|Ray|2013|p=140}} |
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|1972年||国際映画批評家連盟賞||『株式会社 ザ・カンパニー』||{{won}}||{{sfn|Ray|2013|p=152}} |
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!rowspan="5" style="text-align:left"|[[サンフランシスコ国際映画祭]] |
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|rowspan="2"|1957年||作品賞||rowspan="2"|『大地のうた』||{{won}}||rowspan="2"|<ref>{{cite web|url=http://history.sffs.org/films/film_details.php?id=3802|title=Pather Panchali |accessdate=4 June 2015|publisher=San Francisco International Film Festival|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130921212332/http://history.sffs.org/films/film_details.php?id=3802|archivedate=21 September 2013}}</ref> |
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|監督賞||{{won}} |
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|rowspan="2"|1958年||作品賞||rowspan="2"|『大河のうた』||{{won}}||rowspan="2"|<ref>{{cite web|url=http://history.sffs.org/films/film_details.php?id=255|title=Aparajito |accessdate=5 June 2015|publisher=San Francisco International Film Festival|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130921211042/http://history.sffs.org/films/film_details.php?id=255|archivedate=21 September 2013}}</ref> |
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|監督賞||{{won}} |
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|1992年||黒澤明賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{cite web|url=http://fest11.sffs.org/awards/oliver_stone.php|title=Founder's Directing Award: Oliver Stone|accessdate=1 June 2014|publisher=San Francisco International Film Festival|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130604223647/http://fest11.sffs.org/awards/oliver_stone.php|archivedate=4 June 2013 }}</ref> |
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!rowspan="3" style="text-align:left"|[[英国アカデミー賞]] |
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|1957年||[[英国アカデミー賞 作品賞|総合作品賞]]||『大地のうた』||{{nom}}||<ref>{{cite web|url=http://awards.bafta.org/award/1958/film/film-and-british-film|title=1958 Film Film And British Film|accessdate=5 June 2014|publisher=British Academy of Film and Television Arts|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141129200430/http://awards.bafta.org/award/1958/film/film-and-british-film|archivedate=29 November 2014}}</ref> |
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|1958年||総合作品賞||『大河のうた』||{{nom}}||<ref>{{cite web|url=http://awards.bafta.org/award/1959/film/film-and-british-film|title=1959 Film Film And British Film|accessdate=5 June 2014|publisher=British Academy of Film and Television Arts|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141031170656/http://awards.bafta.org/award/1959/film/film-and-british-film|archivedate=31 October 2014}}</ref> |
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|- |
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|1961年||総合作品賞||『大樹のうた』||{{nom}}||<ref>{{cite web|url=http://awards.bafta.org/award/1962/film/film-and-british-film|title=1962 Film Film And British Film|accessdate=5 June 2014|publisher=British Academy of Film and Television Arts|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150604032450/http://awards.bafta.org/award/1962/film/film-and-british-film|archivedate=4 June 2015}}</ref> |
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|- |
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!rowspan="2" style="text-align:left"|[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]] |
|||
|1958年||[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]||『大地のうた』||{{won}}||<ref>{{cite web|url=http://www.nationalboardofreview.org/award-years/1958/|title=1958 Award Winners|publisher=National Board of Review Awards|accessdate=5 June 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150602214619/http://www.nationalboardofreview.org/award-years/1958/|archivedate=2 June 2015}}</ref> |
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|1960年||外国語映画賞||『大樹のうた』||{{won}}||<ref>{{cite web|url=http://www.nationalboardofreview.org/award-years/1960/|title=1960 Award Winners|publisher=National Board of Review Awards|accessdate=5 June 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141013193338/http://www.nationalboardofreview.org/award-years/1960/|archivedate=13 October 2014}}</ref> |
|||
|- |
|||
!style="text-align:left"|[[ロンドン映画祭|BFIロンドン映画祭]] |
|||
||1959年||[[サザーランド杯]]||『大樹のうた』||{{won}}||{{Sfn|Ray|2013|p=142}} |
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|- |
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!rowspan="5" style="text-align:left"|[[ベルリン国際映画祭]] |
|||
|1964年||[[銀熊賞 (監督賞)]]||『ビッグ・シティ』||{{won}}||<ref name="berlinale1"/> |
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|rowspan="2"|1965年||銀熊賞 (監督賞)||rowspan="2"|『チャルラータ』||{{won}}||<ref name="berlinale2"/> |
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|国際カトリック映画事務局賞||{{won}}||{{sfn|Ray|2013|p=147}} |
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|- |
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|1966年||特別表彰||『英雄』||{{won}}||<ref>{{cite web|url=http://www.berlinale.de/en/archiv/jahresarchive/1966/03_preistr_ger_1966/03_Preistraeger_1966.html|title=Prizes & Honours 1966|accessdate=7 June 2014|publisher=Internationale Filmfestspiele Berlin|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150319025331/http://www.berlinale.de/en/archiv/jahresarchive/1966/03_preistr_ger_1966/03_Preistraeger_1966.html|archivedate=19 March 2015}}</ref> |
|||
|- |
|||
|1973年||[[金熊賞]]||『遠い雷鳴』||{{won}}||<ref>{{cite web|url=http://www.berlinale.de/en/archiv/jahresarchive/1973/03_preistr_ger_1973/03_Preistraeger_1973.html|title=Programme 1973: In Competition|accessdate=7 June 2014|publisher=Internationale Filmfestspiele Berlin|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150319040253/http://www.berlinale.de/en/archiv/jahresarchive/1973/03_preistr_ger_1973/03_Preistraeger_1973.html|archivedate=19 March 2015}}</ref> |
|||
|- |
|||
!rowspan="2" style="text-align:left"|[[キネマ旬報ベスト・テン]] |
|||
|rowspan="2"|1966年||外国映画ベスト・テン||rowspan="2"|『大地のうた』||{{won|1位}}||rowspan="2"|<ref>{{Cite book |和書 |date=2012-05|title=キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011|series=キネマ旬報ムック|publisher=キネマ旬報社|pages=231,238}}</ref> |
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|- |
|||
|外国映画監督賞||{{won}} |
|||
|- |
|||
!rowspan="2" style="text-align:left"|[[ボディル賞]] |
|||
|1967年||{{仮リンク|ボディル賞 非ヨーロッパ映画賞|label=非ヨーロッパ映画賞|en|Bodil Award for Best American Film}}||『大河のうた』||{{won}}||rowspan="2"|<ref>{{Cite web |url=http://www.bodilprisen.dk/priskategorier/ikke-amerikanske-film/ |title=Ikke-amerikanske film |website=Bodilprisen |accessdate=2021年8月3日}}</ref> |
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|- |
|||
|1969年||非ヨーロッパ映画賞||『大地のうた』||{{won}} |
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|- |
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!style="text-align:left"|[[モスクワ国際映画祭]] |
|||
|1979年||名誉賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{cite web|url=http://www.moscowfilmfestival.ru/miff34/eng/archives/?year=1979|title=1979 :: Moscow International Film Festival|publisher=Moscow International Film Festival|accessdate=31 May 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140403102012/http://www.moscowfilmfestival.ru/miff34/eng/archives/?year=1979|archivedate=3 April 2014 }}</ref> |
|||
|- |
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!style="text-align:left"|[[フィルムフェア賞]] |
|||
|1979年||[[フィルムフェア賞 監督賞|監督賞]]||『チェスをする人』||{{won}}||<ref>{{cite web|url=http://recipeguide.indiatimes.com/awards2001/ex_dir.html|title=Previous Awards: Best Director|accessdate=2 June 2014|publisher=Indiatimes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141008210934/http://recipeguide.indiatimes.com/awards2001/ex_dir.html|archivedate=8 October 2014}}</ref> |
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|- |
|||
!style="text-align:left"|{{仮リンク|BFIフェローシップ賞|en|British Film Institute Fellowship}} |
|||
|1983年||style="text-align:center"|-||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web|url=http://ftvdb.bfi.org.uk/sift/event/18693|publisher=British Film Institute|accessdate=31 May 2014|title=BFI Fellowship: 1983|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121023062826/http://ftvdb.bfi.org.uk/sift/event/18693|archivedate=23 October 2012}}</ref> |
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!style="text-align:left"|[[アカデミー賞]] |
|||
|[[第64回アカデミー賞|1991年]]||[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref name="oscar"/> |
|||
|- |
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!style="text-align:left"|[[東京国際映画祭]] |
|||
|[[第4回東京国際映画祭|1991年]]||特別功労賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{cite web|url=http://history.tiff-jp.net/en/archives?no=4|title=4th Tokyo International Film Festival|publisher=Tokyo International Film Festival|accessdate=7 June 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140714200240/http://history.tiff-jp.net/en/archives?no=4|archivedate=14 July 2014}}</ref> |
|||
|} |
|||
== ドキュメンタリー作品 == |
|||
* 『''Creative Artists of India - Satyajit Ray''』(1964年、{{仮リンク|バグワン・ダス・ガルガ|en|Bhagwan Das Garga}}監督) |
|||
* 『''Satyajit Ray''』(1982年、{{仮リンク|シャーム・ベネガル|en|Shyam Benegal}}監督) |
|||
* 『''The Music of Satyajit Ray''』(1984年、[[:en:Utpalendu Chakrabarty|Utpalendu Chakrabarty]]監督) |
|||
* 『''Ray Life and Work of Satyajit Ray''』(1999年、[[ゴータム・ゴース]]監督) |
|||
== 著書(日本語訳) == |
|||
* 『黄金の城塞』[[西岡直樹]]訳、くもん出版〈くもんの海外児童文学シリーズ〉、1991年11月。ISBN 978-4875766605。 |
|||
* 『消えた象神』西岡直樹訳、くもん出版〈くもんの海外児童文学シリーズ〉、1993年3月。ISBN 978-4875767657。 |
|||
* 『わが映画インドに始まる 世界シネマへの旅』森本素世子訳、[[第三文明社]]、1993年7月。ISBN 978-4476031782。 |
|||
* 『ユニコーンを探して サタジット・レイ小説集』内山眞理子訳、[[筑摩書房]]、1993年11月。ISBN 978-4480831446。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{ |
{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Notelist2}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|25em}} |
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== |
== 参考文献 == |
||
* {{Cite book|和書 |author=宇田川幸洋|authorlink=宇田川幸洋 |date=2007-9 |chapter=レイ |title=世界大百科事典 |volume=第30巻 |publisher=[[平凡社]] |isbn=978-4582034004 |page=77 |ref={{Harvid|宇田川|2007}}}} |
|||
* [http://www.satyajitray.org.uk Satyajit Ray Foundation](英語) |
|||
* {{Cite book|和書 |author=杉本良男|authorlink=杉本良男 |date=2002-12 |title=インド映画への招待状 |publisher=[[青弓社]] |isbn=978-4787271617 |ref={{Harvid|杉本|2002}}}} |
|||
* [http://www.satyajitray.org SatyajitRay.org](英語) |
|||
* {{Cite journal|和書 |author=[[丹羽京子]] |date=2018-7 |title=語りとしての映画~『チャルロタ』考~ |journal=東京外国語大学論集 |issue=96 |publisher=[[東京外国語大学]] |pages=223-242 |ref={{Harvid|丹羽|2018}}}} |
|||
* [http://www.worldofray.com World of Ray](英語) |
|||
* {{Cite book|和書 |author=サタジット・レイ |translator=森本素世子|date=1993-7 |title=わが映画インドに始まる 世界シネマへの旅 |publisher=[[第三文明社]] |isbn=978-4476031782 |page=77 |ref={{Harvid|レイ|1993}}}} |
|||
* {{imdb|0006249}} |
|||
* {{Cite book|和書 |author= |date=1975-3 |title=世界の映画作家7 ショトジット・ライ、ルイス・ブニュエル |publisher=[[キネマ旬報社]] |isbn= |ref={{Harvid|世界の映画作家|1975}}}} |
|||
* [http://www.ivc-tokyo.co.jp/yodogawa/title/yodo2031.html IVC 淀川長治解説ページ『大地のうた』 ] |
|||
* {{Cite book |last=Dasgupta |first=Chidananda Das |year=1996 |title=The cinema of Satyajit Ray |publisher=Penguin India |isbn=0-14-024780-7 |ref={{Harvid|Dasgupta|1996}}}} |
|||
* [http://www.ivc-tokyo.co.jp/yodogawa/title/yodo2032.html IVC 淀川長治解説ページ『大河のうた』 ] |
|||
* {{Cite book |last=Ray |first=Satyajit |year=1994 |title=My Years with Apu |publisher=Viking |isbn=0-670-86215-0 |ref={{Harvid|Ray|1994}}}} |
|||
* [http://www.ivc-tokyo.co.jp/yodogawa/title/yodo2033.html IVC 淀川長治解説ページ『大樹のうた』 ] |
|||
*{{cite book |last=Ray |first=Satyajit |editor-last=Ray |editor-first=Sandip |title=Satyajit Ray on Cinema |url=https://books.google.com/books?id=cgeaM-Zl6ykC&pg=PA164 |publisher=[[Columbia University Press]] |year=2013 |isbn=978-0-231-16495-5 |ref={{Harvid|Ray|2013}}}} |
|||
* {{Cite book |last=Robinson |first=Andrew |year=2003 |title=Satyajit Ray: The Inner Eye: The Biography of a Master Film-Maker |publisher=I. B. Tauris |isbn=1-86064-965-3|ref={{Harvid|Robinson|2003}}}} |
|||
* {{Cite book |last=Robinson |first=Andrew |year=2005 |title=Satyajit Ray: A Vision of Cinema |publisher=I. B. Tauris |isbn=1-84511-074-9 |ref={{Harvid|Robinson|2005}}}} |
|||
* {{Cite book |last=Seton |first=Marie |year=1971 |title=Satyajit Ray: Portrait of a director |publisher=Indiana University Press |isbn=0-253-16815-5 |ref={{Harvid|Seton|1971}}}} |
|||
* {{Cite book |last=Wood |first=Robin |year=1972 |title=The Apu trilogy |publisher=November Books Ltd |isbn=0-85631-003-4 |ref={{Harvid|Wood|1972}}}} |
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== 関連項目 == |
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* {{仮リンク|ベンガルの文化|en|Culture of Bengal}} |
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* {{仮リンク|西ベンガルの文化|en| Culture of West Bengal}} |
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* [[西ベンガルの映画]] |
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* [[パラレル映画]] |
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* [[岩波ホール]] |
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== 外部リンク == |
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{{film-director-stub}} |
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{{Commonscat|Satyajit Ray}} |
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{{India-stub}} |
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{{Wikiquote|en: Satyajit Ray|サタジット・レイ{{en icon}}}} |
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* [http://www.satyajitray.org Satyajit Ray.org]{{en icon}} |
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* {{IMDb name|0006249|Satyajit Ray}} |
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* {{AllRovi person|107687|Satyajit Ray}} |
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* {{allcinema name|4656|サタジット・レイ}} |
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* {{Kinejun name|51682|サタジット・レイ}} |
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{{アカデミー名誉賞}} |
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{{ベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞) 1956-1979}} |
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{{ダーダーサーヘブ・パールケー賞}} |
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{{国家映画賞 監督賞}} |
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{{フィルムフェア賞 監督賞}} |
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{{インドの映画}} |
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{{Normdaten}} |
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{{Good article}} |
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{{DEFAULTSORT:れい さたしつと}} |
{{DEFAULTSORT:れい さたしつと}} |
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[[Category:ベンガル語映画の監督]] |
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[[Category:インドの小説家]] |
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[[Category:インドの推理作家]] |
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[[Category:SF作家]] |
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[[Category:国家映画賞受賞者]] |
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[[Category:ダーダーサーヘブ・パールケー賞受賞者]] |
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[[Category:マグサイサイ賞受賞者]] |
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[[zh:萨蒂亚吉特·雷伊]] |
2024年10月12日 (土) 02:44時点における最新版
サタジット・レイ সত্যজিৎ রায় Satyajit Ray | |||||||||||||||||||||
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サタジット・レイ(1981年) | |||||||||||||||||||||
生年月日 | 1921年5月2日 | ||||||||||||||||||||
没年月日 | 1992年4月23日(70歳没) | ||||||||||||||||||||
出生地 |
イギリス領インド帝国 ベンガル管区カルカッタ(現在のインド 西ベンガル州コルカタ) | ||||||||||||||||||||
死没地 | インド 西ベンガル州カルカッタ | ||||||||||||||||||||
身長 | 6フィート4インチ (1.93 m)[1] | ||||||||||||||||||||
職業 | 映画監督、脚本家、作曲家、小説家、カリグラファー、イラストレーター | ||||||||||||||||||||
活動期間 | 1950年 - 1992年 | ||||||||||||||||||||
配偶者 | ビジョヤ・レイ(1949年 - 1992年) | ||||||||||||||||||||
著名な家族 |
祖父:ウペンドロキショル・レイ(作家) 父:シュクマル・レイ(作家) 息子:サンディープ・レイ(映画監督) | ||||||||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||||||||
『大地のうた』(1955年) 『大河のうた』(1956年) 『音楽ホール』(1958年) 『大樹のうた』(1959年) 『ビッグ・シティ』(1963年) 『チャルラータ』(1964年) 『遠い雷鳴』(1973年) | |||||||||||||||||||||
| |||||||||||||||||||||
署名 | |||||||||||||||||||||
サタジット・レイ(英語: Satyajit Ray, ベンガル語: সত্যজিৎ রায়、1921年5月2日 - 1992年4月23日)は、インドの映画監督、脚本家、作曲家、小説家、カリグラファー、イラストレーターである。サタジット・レイという呼称は英語読みを日本語に移したもので、ベンガル語ではショトジット・ライ(IPA: [ˈʃɔtːodʒit ˈrai̯] ( 音声ファイル))と発音される[2]。インド映画もしくはベンガル語映画を代表する監督であり、国際的に高く評価され影響を与えた巨匠のひとりと広く見なされている[2][3][4]。生涯で36本の映画を監督したが、その中には長編劇映画だけでなく、ドキュメンタリーや短編映画も含まれている。映画以外にも、作家として児童文学作品などを執筆しており、さらにベンガル文字のカリグラフィーの創作や、本やポスターのグラフィックデザインでも知られた。
サタジットはカルカッタ(現在のコルカタ)の著名な文学者の家に生まれ、広告会社や出版社のデザイナーとしてキャリアを始めたが、フランスの映画監督ジャン・ルノワールとの出会いや、ネオレアリズモ映画『自転車泥棒』(1948年)を見たことから映画監督の道へ進んだ。初監督作品『大地のうた』(1955年)は、第9回カンヌ国際映画祭のヒューマン・ドキュメント賞などを受賞し、インド映画が国際的に注目されるきっかけとなった。この作品は『大河のうた』(1956年)、『大樹のうた』(1959年)とともに「オプー三部作」を成す。その後、サタジットはインドの芸術映画の代表者として、『音楽ホール』(1958年)、『ビッグ・シティ』(1963年)、『チャルラータ』(1964年)など、ベンガル人の社会や生活を題材にした作品を手がけた。映画製作では、脚本、キャスティング、映画音楽の作曲、編集、広告のデザインまでをすべて自分でこなした。サタジットはキャリアを通して、インドの映画賞国家映画賞をはじめ、ヴェネツィアやベルリンの国際映画祭などで数多くの賞を受賞しており、 1992年にはアカデミー名誉賞と、インド民間人の最高賞であるバーラト・ラトナ賞を授けられた。
生涯
[編集]生誕と初期の人生
[編集]サタジット・レイの先祖は少なくとも十世代前まで遡ることができる[5]。祖父のウペンドロキショル・レイは著名な児童文学作家で、子供向け雑誌『ションデシュ』の発行を手がけた[6]。また、印刷会社U. Ray and Sonsの設立者でもあり、ほかにもイラストレーターや哲学者、アマチュア天文学者、さらには19世紀のベンガルで興った宗教および社会活動のブラフモ・サマージの指導者としても活動し、詩人のラビンドラナート・タゴールの一家とも親しかった[6][7]。父のシュクマル・レイもベンガル語の児童文学とナンセンス・ヴァースで先駆的な業績を残した作家であり、イラストレーターや評論家としても活動した[7]。
1921年5月2日、サタジットはカルカッタ(現在のコルカタ)で、シュクマルと母スプラバ・レイの間に生まれた。サタジットは上流階級に属する家庭に生まれたが、わずか3歳の時にシュクマルが亡くなったため、スプラバの親戚の家に身を寄せながら、スプラバのわずかな収入で生活することになった[8][9]。成長したサタジットはカルカッタのバーリグンジ政府高校で学び、プレジデンシー・カレッジ(当時はコルカタ大学の管区カレッジ)で経済学の学士号を取得したが、既にサタジットの興味はいつもファインアートに向けられ、西洋音楽に夢中となった[6][8]。
1940年、サタジットの母親はタゴールが設立したシャンティニケトンのビシュバ・バラティ大学へ進学するよう求めたが、カルカッタに愛着を持つサタジットはシャンティニケトンで学業生活を送ることに乗り気ではなかった[10]。サタジットは母の説得と、タゴールを尊敬していたこともあって進学を決意し、美術学科に入ったが、この時期に東洋芸術に触れ、後に認めたところによると有名な画家のノンドラル・ボーズやビノード・ビハーリー・ムカルジー[注 1]からたくさんの事を学んだ[12][13]。さらにこの時期にアジャンター石窟群、エローラ石窟群、エレファンタ石窟群を訪れ、そのインド芸術から大きな刺激を受けた[14]。
1943年、サタジットはカルカッタのイギリス系広告会社D・J・キーマー社にグラフィックデザイナーとして就職し[12][15]、月80ルピーの給料を得た。サタジットはグラフィックデザインの制作を上手くこなしたが、会社内ではイギリス人とインド人の従業員の間にいさかいがあり、イギリス人社員は給与も優遇されていた。さらにサタジットは「依頼はどれも愚かしげなものばかり」と感じていた[16]。やがてサタジットは、D. K. Guptaが新たに設立した出版社シグネット・プレスで働いた。この会社では出版される書籍の表紙デザインを任され、尚且つ完全な芸術的自由を与えられた。サタジットはJibanananda Dasの『Banalata Sen』と『Rupasi Bangla』、ジム・コーベットの『Maneaters of Kumaon』、ジャワハルラール・ネルーの『インドの発見』など多くの本の表紙をデザインした[17]。また、ビブティブション・ボンドパッダエが著したベンガル語の古典的小説『大地のうた』を子供向けに改訂した『Aam Antir Bhepu』の表紙デザインと挿絵も手がけたが、サタジットはこの本に大きな感銘を受け、後に自身の初監督映画の題材に選び、その作品のいくつかの革新的な場面でこの挿絵を用いた[12][17]。
1947年、サタジットは友人のチダナンダ・ダスグプタらとともに、カルカッタで最初のシネクラブであるカルカッタ・フィルム・ソサエティを設立した[15][18]。サタジットはセルゲイ・エイゼンシュテイン監督のソ連映画『戦艦ポチョムキン』(1925年)などのヨーロッパ映画をインドで初めて上映し、映画文化を普及させる運動に従事しながら、自らもそれらの作品を鑑賞して映画を勉強した[15][18][19]。また、第二次世界大戦中にカルカッタに駐留していたアメリカ兵と親しくなり、カルカッタで上映されるアメリカ映画の最新情報を仕入れ続けていた。この頃にサタジットはイギリス空軍にいたノーマン・クレールと親しくなり、クレールを通じてチェスや西洋クラシック音楽にも熱をあげた[18]。
1949年、サタジットは従姉で長年の恋人だったビジョヤ・ダスと結婚した[注 2]。夫婦は後に映画監督となる息子サンディープ・レイを得た[21]。この年、フランスの映画監督ジャン・ルノワールが『河』の撮影のためにカルカッタを訪れた。サタジットはルノワールの仕事を手伝い、カルカッタ周辺のロケ地探しに務めた[9]。さらにサタジットはルノワールに長く心にとどまる『大地のうた』を映画化する構想を話し、ルノワールはそれを進めるよう励ました[22]。翌1950年、サタジットはD・J・キーマー社からロンドン本社での勤務を命じられ、約6ヶ月間その地にとどまり、その間に99本の映画を鑑賞した[23]。それらの映画の中にはヴィットリオ・デ・シーカ監督のネオレアリズモ映画『自転車泥棒』(1948年)があり、サタジットはこの作品に強い衝撃を受けた。後に語ったところによると、映画監督になることを決意して劇場を出たという[23]。
オプー三部作
[編集]帰国したサタジットは、ボンドパッダエのベンガル語の古典的教養小説で、ベンガルの村で育った少年オプーの半生を描く作者の自伝的小説『大地のうた』を原作として、初めての映画監督作品に取りかかることにした[9][24]。サタジットはロンドンからインドへ帰る航海中に書き始めたシナリオと数百枚のデッサンを抱えて数人のプロデューサーと掛け合ったが、誰もこの企画に関心を持とうとはしなかった[9][25]。それでもサタジットは生命保険から資金を出して、1952年にようやく撮影を開始した[9]。スタッフは、サタジットの友人で後年まで仕事を共にしたカメラマンのスブラタ・ミットラと美術監督のバンシ・チャンドラグプタの両者を除くと未経験者ばかりで、俳優もほとんどが素人だった[9][26]。
サタジットはまだ広告会社の仕事を続けていたため、休みの週末にしか『大地のうた』の仕事を進めることができなかった[9]。自己調達で賄ったほんの少額の製作資金もすぐに使い果たしてしまい、相変わらず出資者も見つからなかったため、約1年半も製作を中断することになった[9][26]。その後、サタジットの母親と共通の友人がいた西ベンガル州首相のビダン・チャンドラ・ロイの計らいにより、政府から分割払いで融資を受けることになった[9]。政府はシナリオがあまりにもペシミスティックだという理由で、ハッピーエンドにするように要求したが、サタジットはこれを拒絶し、それにもかかわらず融資は受けた[27]。また、1954年にサタジットはニューヨーク近代美術館(MoMA)のディレクターのモンロー・ウィーラーにフィルムの一部を見せた。これに感銘を受けたウィーラーは、サタジットに仕上げ資金を送り、MoMAで上映できるようにした[26][28]。さらに『王になろうとした男』のロケ場所をインドで探していたジョン・ヒューストンもフィルムを見て、「大いなる才能が海のむこうにいる」と語った[29]。
『大地のうた』は3年もの時間をかけてようやく完成し、1955年5月にMoMAで初公開され、8月にインド国内で劇場公開された[30]。作品は国際的に高い評価を受け、ベンガル語圏や欧米では興行的にも大成功を収めた[31]。ザ・タイムズ・オブ・インディア紙は「他のインド映画と比べるなどとんでもない...『大地のうた』は純粋たる映画である」と賞賛の評を書き、イギリスでもリンゼイ・アンダーソンが熱烈な批評を書いた[32]。しかし中にはフランソワ・トリュフォーが鑑賞後に「私は農民らが手で食事をするような映画は見たくない」と語ったように批判もあった[33]。アメリカでは、当時最も権威のあった映画批評家ボズレー・クラウザーがニューヨーク・タイムズに「この映画を楽しむには忍耐が必要だ」と仮借のない批評を書き[34]、アメリカでの配給元はクラウザーの批評で興行は上手くいかないと恐れたが、公開されると8ヶ月ものロングランを記録した[35]。また、翌1956年の第9回カンヌ国際映画祭ではヒューマン・ドキュメント賞を受賞した[31]。
サタジットの国際的なキャリアは、次作で『大地のうた』の続編にあたる『大河のうた』(1957年)の成功を受けて本格的に始まった[35]。『大河のうた』はオプーの青年期を描いた作品で[25]、公開されるとヴェネツィア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を受賞した[36]。ムリナール・セーンやリッティク・ゴトクなどのインドの映画人は、この作品に前作を上回る高い評価を与えた[35]。しかし、『大河のうた』を撮り終えたサタジットは、それとはまったく異なるスタイルや雰囲気を持つ作品を撮りたいと考え、1958年に風刺喜劇の『哲学者の石』と、タラションコル・ボンドパッダエ原作で徴税請負地主の退廃を描いた『音楽ホール』を撮影し、『音楽ホール』はサタジットの最も重要な作品の1つと見なされている[37][38]。
1959年、サタジットはオプーを主人公にした三部作(オプー三部作)の最終作となる『大樹のうた』を撮影した。この作品は成人したオプーが、結婚、子供の誕生、そして妻の死を経験する姿を描いている[25]。元々サタジットは三部作にすることを計画していなかったが、『大河のうた』がヴェネツィア国際映画祭で上映された時に、数人のジャーナリストから三部作のアイデアについて質問されたことで思い立った[9][39]。この作品はインドで『大地のうた』をしのぐほどの興行的成功を収め[9]、映画批評家のロビン・ウッドやアパルナ・セーンは三部作の最高傑作と評した。しかし、ベンガル人批評家からは厳しい批判を受け、サタジットは映画の弁護を記した。サタジットは批評家の言うことにほとんど反応しなかったが、この作品と後に撮影した『チャルラータ』に対する批判には反論した[40]。サタジットはオプー三部作で高い成功を収めたが、それは何年経っても自身の私生活に影響を与えることはなく、妻や子供や母親、そして親類たちと借家住まいを続けた[41]。
『女神』から『チャルラータ』まで
[編集]1960年、サタジットはイギリス領インド帝国時代のヒンドゥー教社会における宗教的迷信を題材にした『女神』を発表した。その粗筋はシャルミラ・タゴール演じる若妻が、義父によって女神カーリーに祭り上げられてしまうというものである[42]。サタジットは中央映画認証委員会による差し止めや再編集の指示を恐れたが、無事上映された。しかし、ヒンドゥー教側からは攻撃され、そのために国外に輸出することを禁じられた。その後、作品を見たインド首相のジャワハルラール・ネルーの計らいで禁が解かれ、第15回カンヌ国際映画祭に出品された[9][42]。翌1961年にはネルーの依頼で、タゴールの生誕100年を記念したドキュメンタリー映画『詩聖タゴール』を撮影した。しかし、タゴールを撮影した映像は限られていたため、サタジットは静止画から映画を作る手法を取らざるをえず、普通の長編映画3本分と同じぐらいの労力がかかったという[9][43]。また、同年にサタジットは敬意を込めてタゴールに捧げるために、タゴールの短編小説3本を原作にしたアンソロジー映画『三人の娘』を撮影した[9][11]。
同年、サタジットは詩人のスバーシ・ムコーパデャイらと、かつて祖父が出版し、それを引き継いだ父の死によって途絶えていた子供向け雑誌『ションデシュ』を再刊行した[7]。このためにサタジットは何年もかけて資金を蓄えていた[44]。サタジットはその雑誌のためにイラストを描き、小説や詩を書き始めたが、やがて執筆業はサタジットにとって主な収入源となった[45][46]。一方の映画監督業でもシナリオの執筆に変化があった。それまでのすべての作品は原作ものだったが、1962年公開の『カンチェンジュンガ』で初めてオリジナル脚本を使用した。この作品は西ベンガルの丘の町ダージリンで午後を過ごす上流階級の家族を描いた作品で、サタジットにとって初のカラー映画にもなった[9]。
その次にサタジットは『遠征』(1962年)を撮影し、そのあとにカルカッタの中流家庭の夫婦関係を題材にした『ビッグ・シティ』(1963年)と『チャルラータ』(1964年)を撮影した[47]。『ビッグ・シティ』は夫の収入を助けるために仕事を始める女性がさまざまなトラブルに悩む姿を描き[9]、『チャルラータ』はタゴールの短編小説『壊れた巣』を原作に、19世紀ベンガルの孤独な妻チャルの義弟アマルへの恋心を描いた[48]。この2本はサタジットの中期の代表作とされており[47]、とくに『チャルラータ』は多くの批評家からサタジットの最も優れた作品と見なされ、サタジット自身もお気に入りの映画に挙げている[49]。また、サタジットはこの2本で、ベルリン国際映画祭の銀熊賞(監督賞)を2年連続で受賞した[50][51]。
新たな取り組み
[編集]1960年代後半から1980年代前半まで、サタジットはファンタジーやSF、探偵ものから歴史映画まで、さまざまなジャンルに取り組んだ。また、この時期は少なからぬ形式上の実験も行い、これまでのサタジットの作品に欠如されていたと指摘された、インド人の生活における現代的な問題を探求した。その最初の主要な映画は、ウッタム・クマールとシャルミラ・タゴールが主演した『英雄』(1966年)である。この作品はある映画スターが列車の旅で、ウマの合う若き女性ジャーナリストと出くわした24時間を描き、売れっ子と思われる二枚目俳優が抱える内面の葛藤を探求した[52]。この作品を発表した年、サタジットは日本を訪れ、尊敬する黒澤明と対面した[53]。
1967年、サタジットは『ションデシュ』に書いた短編小説『Bankubabur Bandhu (Banku Babu's Friend)』を下敷きに『エイリアン』という映画脚本を執筆した。この作品はアメリカとインドの共同製作で企画され、コロンビア映画が製作会社となり、ピーター・セラーズとマーロン・ブランドを主演に起用することになった。ところが、脚本の著作権と権利金の受け取りはマイケル・ウィルソンに帰属されていることが判明した。ウィルソンは当初、共通の知り合いであるアーサー・C・クラークを通じてサタジットに近づき、ハリウッドにおける代理人となり、「Mike Wilson & Satyajit Ray」の名で著作権登録をしていたが、ウィルソンが脚本に関与したのはただ一単語に過ぎなかった[54][55]。後にサタジットは、この脚本執筆で一銭も受け取らなかったと明かした[55]。さらにマーロン・ブランドが企画を降り、製作側は代わりにジェームズ・コバーンを立てようとしたが、その頃にはサタジットは企画を放棄し、幻滅してカルカッタに戻った[54][55]。コロンビア映画は1970年代から80年代に企画を復活させようとサタジットを説得したが、実現はしなかった。1982年にスティーヴン・スピルバーグ監督の『E.T.』が公開された時、サタジットはそれが『エイリアン』の脚本の盗用であると主張し、「『エイリアン』の脚本の写しなしに、アメリカで『E.T.』を作ることはできなかっただろう」と述べたが、スピルバーグはこれを否定している[54]。『エイリアン』以外に、サタジットが構想しながら実現しなかった企画には、古代インド叙事詩『マハーバーラタ』や、E・M・フォースターの小説『インドへの道』がある[56]。
1969年、サタジットは祖父が書いた童話を基にしたミュージカル・ファンタジー映画『グビとバガの冒険』を発表した[57]。その内容は歌手のグビと太鼓を叩くバガの2人が、幽霊の王から授かった3つの品物を手に、隣り合う2つの王国で起こりそうな戦争を食い止めるために旅をするというものである。この作品はサタジットの最も製作費が高い作品の1つとなり、資金調達に困難をきたした。それでも自身の最も商業的に成功した作品にもなり、ベンガル語映画で最も人気のある映画の1本に位置付けられている[57][58]。続いて、詩人で作家のシュニル・ゴンゴパッダエの小説の映画化『森の中の昼と夜』(1969年)を撮影した[59]。この作品は日々の生活から離れようと休暇を過ごしに森へやって来た都会の青年4人のうち3人が、それぞれ女性と関わりを持つようになるという筋で、インドの中産階級を深く理解できる題材となっている[60]。
『森の中の昼と夜』の発表後、サタジットは現代ベンガル人の生活を題材とした「カルカッタ三部作 (Calcutta trilogy)」と呼ばれる『対抗者』(1970年)、『株式会社 ザ・カンパニー』(1971年)『ミドルマン』(1975年)を撮影した[47][61]。この3本はそれぞれ別々に構想されたが、一貫したテーマでつながりを持つ[61]。三部作は抑圧に焦点を合わせており、男性の主人公は禁じられたものに手を付ける[62]。『対抗者』では卒業したての理想主義の青年の幻滅、『株式会社 ザ・カンパニー』では利益のために自らの道徳を放棄するエリートビジネスマン、『ミドルマン』では生きるために退廃した文化に漬かってしまう若い男を描いた。また、『対抗者』では大胆なフラッシュバックの使用など、新しい物語の表現手法を試みた[61]。サタジットは三部作を手がけている間、シッキム王国のドキュメンタリー映画『シッキム』(1971年)[注 3]や、ビブティブション・ボンドパッダエの小説を映画化した『遠い雷鳴』(1973年)も撮影した。『遠い雷鳴』はベンガル地方の村を舞台とし、バラモンの夫婦を通して日本軍のビルマ侵攻というはるか遠くの地の戦争がおよぼす悲劇を描き、第23回ベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞した[64]。
この頃、サタジットはバングラデシュ独立戦争を題材にした映画を作ることを構想していたが、結果的にそのアイデアを放棄した。後にサタジットは映画監督として戦争の受難者を描くことに興味を持てても、政治には関心が持てないと発言した[65]。1977年、サタジットはムンシー・プレームチャンドの小説を映画化した『チェスをする人』を撮影した。インド大反乱前の1856年のアワド藩王国を舞台としたこの作品は、イギリスによるインド植民地支配に関わる問題を取り上げており、サタジットの作品として初めてベンガル語以外の言語(ヒンディー語)を使用した長編映画となった。キャストにはサンジーヴ・クマール、サイード・ジャフリー、アムジャド・カーン、シャバーナー・アーズミー、ヴィクター・バナルジー、リチャード・アッテンボローなどの人気俳優が名を連ね、製作費はサタジットの作品で最高額の約200万ルピーとなったが、それでもこの金額はヒンディー語映画の平均予算(400万~1000万ルピー)を下回っている[66][67]。
晩年
[編集]1980年代に入ると、『グビとバガの冒険』の続編で、やや政治色を帯びた『ダイヤモンドの王国』(1980年)や[68]、称賛された短編映画『ピクー』(1981年)、1時間のヒンディー語映画『遠い道』(1981年)を発表した。しかし、1983年の『家と世界』の製作中に心臓発作に見舞われ、これが原因でその後亡くなるまでの9年間の活動が著しく制限された[45]。『家と世界』は健康状態を鑑みて初めてカメラを担当した息子の助けを得ながら1984年に完成した。この作品は愛国心の危機を題材としたラヴィンドナート・タゴールの小説を基に、サタジットが長く映画化を考えていたもので、最初の脚本草稿は1940年代には着手されていた[69]。病気のため細切れの印象は免れなかったが、作品はいくつかの称賛を受けた[70]。1987年には父シュクマルを題材としたドキュメンタリー『シュクマル・レイ』を製作した[11]。
1990年代に手がけたサタジットの晩年の3本は、健康の回復と医療の支援が効をなして実現したが、いずれも室内撮影であり、以前よりも対話シーンが増えたが、そのために過去の作品には及ばないという意見もある[71]。『民衆の敵』(1990年)は著名な同名の戯曲の映画化であり、撮影時の健康状態は悪かったと考えられている[72]。その後は回復を見せ、『枝わかれ』(1990年)を撮影した。この作品は実直な人生を送る老人が、3人の息子たちの不正を知るという物語で、最後の場面で老人は唯一不正を働いていない心を病む4番目の息子に慰められる[73]。そしてサタジット最後の作品となった『見知らぬ人』(1991年)はフランスとの共同製作で、長らく行方不明になっていた叔父がカルカッタの娘を訪ね、そのために周囲が疑念に囚われる様を描いている[73][74]。この作品はフランスで大ヒットしたが、サタジットはその出来に満足せず、亡くなるまで次作『目覚め (Jagaran)』の製作を構想していた[74]。
サタジットはヘビースモーカーだが酒は飲まず、何よりも仕事を大切にし、1日12時間も働き、深夜2時に就寝した。また、骨董品や写本、珍しい蓄音機のレコード、絵画、珍しい本の収集を楽しんだ[75]。そんな私生活を送ったサタジットは、1992年1月に心臓病で健康状態が悪化し、カルカッタの病院に入院するも、そのまま回復に向かうことはなかった[76]。亡くなる24日前の3月30日には、ビデオ映像を介してオードリー・ヘプバーンからアカデミー名誉賞を授与され、これを「映画監督のキャリアで最高の成果」と呼んで病床から受賞スピーチをした[77][78]。1992年4月23日、サタジットは71歳の誕生日を迎える9日前に亡くなった[79]。通夜には4万人以上が訪れ、市内を進む葬列には50万人もの人々が加わったという[74]。
映画製作のスタイル
[編集]サタジット・レイは自身のキャリアを通して、映画監督になるきっかけを作ったジャン・ルノワールに敬意を表し、その作品とスタイルから大きな影響を受けた[80][81]。また、イタリアのネオレアリズモの代表的監督であるヴィットリオ・デ・シーカの影響も受けており、彼の代表作『自転車泥棒』からは低予算で映画を作る方法や、アマチュアの俳優を起用すること、そして現実的なテーマに目を向けることを学んだ[9][82][83]。さらにジョン・フォード、ビリー・ワイルダー、エルンスト・ルビッチなどの古典的ハリウッド映画の監督から映画技術を学んだことを認め、自身が巨匠と見なした同時代の監督の黒澤明とイングマール・ベルイマンに深い敬意と称賛を示した[82]。黒澤からは『羅生門』(1950年)の光の使い方に影響を受けたことを明らかにしている[84]。ほかにもサタジットはロバート・フラハティとマルク・ドンスコイを自身の作品に最も影響を与えた監督に挙げており、またモンタージュ理論の提唱者セルゲイ・エイゼンシュテインのスタイルに影響を受けたことも指摘されている[9][85]。
サタジットの長編劇映画29本のほとんどは、既存の物語を映画化した文芸映画であり、オリジナル脚本による作品は6本しかない[3][86]。原作ものを脚色する時は、自分が原作で不満に思うところに手を加えたため、しばしば原作のストーリーと大きく異なるところがあり、そのために原作と比較され、批判にさらされることがあった[3][37][86]。脚本を書く時は、自身がよく知るキャラクターや環境を選ぶことが多く、オリジナル作品では『カンチェンジュンガ』や『英雄』のように、限られた時空間の中で密度の濃い物語を書くことが多かった[37][86]。サタジットの作品はリアリズムを基調とし、19世紀または20世紀のベンガル人の生活と社会的問題を題材に扱い、主人公の社会的アイデンティティに深い関心を持っている[87][88]。例えば、オプー三部作や『遠い雷鳴』ではバラモンの清貧の生活、『チャルラータ』や『家と世界』では封建的大家族制や階級社会の中で自由に目覚める女性、『音楽ホール』『チェスをする人』などでは古い社会のあり方が崩れ、近代化へと変化する社会に取り残され、苦悩する上流階級の姿を描いている[47][89]。
撮影は、『大地のうた』以来コンビを組んだカメラマンのスブラタ・ミットラの貢献度が大きかった。ミットラは『大河のうた』の撮影で「バウンスライティング」という、照明の光を天井や壁、または布に当て、その反射光でリアルな照明効果を生み出すテクニックを開発し、世界中の撮影技師に影響を与えた[90]。『チャルラータ』以降はサタジットが自分でカメラを回すようになり、『英雄』を最後にミットラとのコンビを解消したが、多くの批評家はミットラが去ったことで、その後のサタジットの作品は撮影の質が低下したと指摘している[52][91]。編集は通常、ドゥラル・ドットが担当したが、ほとんどの作品ではカメラ撮影そのものでカットを施し、そのうえカットになるのが分かりきっている部分を撮らないようにしたため、実際の編集作業はドットよりもサタジットが多くを担った[92][93]。
映画音楽では、キャリア初期はオプー三部作でシタール奏者のラヴィ・シャンカルを起用したのをはじめ、ウスタッド・ヴィラヤット・カーンやアリ・アクバル・カーンといったインドの伝統音楽の作曲家を起用した[94]。しかし、やがて彼らの音楽がその伝統に忠実なあまり自身の映画に馴染まないと気づき、スケジュールを合わせてもらうのが難しかったこともあり、『三人の娘』からはサタジット自身が映画音楽を作曲するようになった[94][95]。サタジットは正式な音楽教育を受けていなかったが、インドの伝統音楽だけでなく西洋のクラシック音楽にも造詣が深く、ベートーヴェンをお気に入りの作曲家とした[4][11]。都会を舞台にした作品では西洋クラシック音楽を使用したが、『家と世界』などではスコアに西洋音楽とインド伝統音楽を混ぜる実験を行っている[95][96]。サタジットの音楽のアイデアは閃くように浮かび、時にはシナリオの段階でアイデアをメモすることがあった[97]。実際にスコアを書き下ろすのは編集をすべて終えてからで、演奏者に応じてインドもしくは西洋の記譜法でスコアを書いた[4]。
キャスティングでは、有名な映画スターから無名の素人俳優まで、さまざまな俳優を起用した[98]。一部の作品のシナリオは、有名俳優のために書くことがあり、その例として『哲学者の石』のトゥルシー・チャクラボルティ、『英雄』のウッタム・クマール、『音楽ホール』『女神』『カンチェンジュンガ』のチャビ・ビスワースが挙げられる[99]。サタジットの基本的な演技指導の方法は、リハーサルの回数を最小限に抑え、俳優に短い指示を出し、あとは俳優が自分の解釈で演じるようにするというものである[99]。俳優の技量や経験に応じて指示の度合いを変えており、例えばウタパル・ダットのような俳優にはほとんど指示をせず、逆に『大地のうた』でオプーを演じたスビル・バネルジーや『大樹のうた』でアパルナを演じたシャルミラ・タゴールなどの俳優には、操り人形のように扱うことがあった[100]。サタジットの映画に出演した俳優たちは、サタジットが変わらず信頼を寄せてくれることを賞賛したが、その一方で無能のように扱われて軽蔑されたことについても言及している[101]。
映画以外の活動
[編集]文学
[編集]サタジット・レイはベンガル文学の著名な作家でもある。とくに児童文学作家として人気を博し[102]、10代の子供向けに冒険小説、探偵小説、ファンタジー、サイエンス・フィクション、ホラーなどのジャンルの物語を創作した[103]。サタジットの児童文学で最も人気のある作品は、架空の私立探偵の「フェルダー」が主人公の探偵小説のシリーズと、同じく架空の科学者の「プロフェッサー・ションク」が主人公のSF小説のシリーズである[104]。フェルダーのシリーズは、インド全土や国外を舞台にして事件を解決するという内容で、フェルダーのいとこのトペシュの語りで物語が進行する[105]。サタジットは30本以上のフェルダーの物語を執筆し、そのうち『黄金の城塞』(1974年)と『消えた象神』(1979年)を映画化した[106]。プロフェッサー・ションクのシリーズは、風変わりな科学者であるションクの発明と冒険を描いたもので、サタジットは38本の物語を執筆した[107][108]。
ほかにもサタジットは、超自然的な力を持つ架空の人物「タリーニ・フロ」が主人公の冒険小説のシリーズや、12のエピソードを纏めた『Ek Dojon Gappo』『Aker pitthe dui』といった短編小説集[注 4]などの作品を執筆した[109][110]。また、ルイス・キャロルやエドワード・リアなどの詩を含むナンセンス・ヴァース集『Today Bandha Ghorar Dim』(1976年)、ナスレッディン・ホジャが主人公の『Molla Nasiruddiner Galpo』(1985年)などの翻訳本や[111]、『わが映画インドに始まる』(1976年)、『Bishoy Chalachchitra』(1976年)、『Ekei Bole Shooting』(1979年)などの映画批評やエッセイを纏めた本も出版した。1982年には幼少期の自伝『Jakhan Choto Chilam』を出版し、妻のビジョ・レイによって『Childhood Days: A Memoir』の題名で英訳された[112]。1994年にはオプー三部作を製作した時の回想録『My Years with Apu』を出版した[113]。
カリグラフィーとデザイン
[編集]サタジット・レイはカリグラファーとしても活動し、自身の雑誌『ションデシュ』用に、ほかのどのベンガル文字とも異なるローマン体の「レイ・ローマン (Ray Roman)」「レイ・ビザール (Ray Bizarre)」「ダフニス (Daphnis)」 、「ホリディ・スクリプト (Holiday Script)」と呼ばれる4つの書体をデザインした[114][115]。このうちレイ・ローマンとレイ・ビザールは、1971年に国際コンペティションで優勝した[116]。また、サタジットは映画のキャリアを積み重ねる中で、グラフィックデザイナーとして活動したことでも知られ、自身の映画ポスターのほとんどをデザインし、自身または他の作家の本のイラストや表紙のデザインを手がけた[116]。
サタジットのデザインの芸術性は、映画のポスターやプロモーション用冊子の表紙で見ることができる[116]。サタジットがデザインした映画ポスターの多くはシンプルで、ベンガル語の書記素を使用したカリグラフィーに、1つの視覚的に印象的なイメージを描いており、インドの要素も取り入れられている[77]。ポスターなどに見られるサタジットのベンガル語の書記素の表現は、ベンガル文字特有の3層のエックスハイト(基本文字の高さ)が楽譜のように示され、水平線と垂直線が交わる点の間にはアルポナ(ベンガル伝統の文様)のパターンに従った曲線で書かれるのが特徴的である。また、ベンガル文字の書記素を変容させて、アルケー文字とも呼べるような生物や物を形づくったベンガル文字を創作した[117]。
評価
[編集]サタジット・レイはインドのベンガル語映画を代表する監督であり[94]、インドまたはベンガル地方の文化的アイコンとして世界中に広く知られた[118]。サタジットは国際的に高い認知と評価を受けた最初のインド人監督であり[2][11]、とくに『大地のうた』はインド映画が欧米で注目されるきっかけとなった[119]。また、黒澤明と並んでアジア映画を代表する巨匠と見なされており[2]、マーティン・スコセッシはサタジットを黒澤、イングマール・ベルイマン、フェデリコ・フェリーニとともに世界映画の偉大な監督に挙げている[81]。そんなサタジットの映画史的功績は、それまで歌と踊りをふんだんに盛り込んだ娯楽作品が主流だったインド映画に、現実を見据えるリアリズムを導入し、新しく芸術映画や社会派映画の流れを確立したことである[2][89]。戦後のベンガル語映画では「パラレル映画」という芸術映画の潮流が生まれたが、サタジットは同時代に活躍したリッティク・ゴトクやムリナール・セーンなどとともに、その潮流を代表する監督と見なされている[120]。しかし、ベンガル語で作られたサタジットの作品は、インド国内のほかの言語地域では理解されず、字幕付きで上映されることもなかった。そのためベンガル地方以外では、サタジットの作品が上映されることは少なく、それゆえにサタジットはあまり知られておらず、インド国外の方がサタジットの作品にアクセスしやすいという側面があり、国内と国外とで評価のずれが見られた[11][74]。
サタジットの作品は一般的に、ヒューマニズムと普遍性に溢れ、一見単純でありながら内に深く根底的な複雑さを秘めていると評価されている[121][122]。黒澤明は「サタジット・レイの映画を見た事がないとは、この世で太陽や月を見た事がないに等しい」と述べた[123]。一方で、批判者からは作品のテンポの遅さを指摘され、「雄大なカタツムリ」と揶揄された[49]。サタジット自身は展開の遅さは如何ともしがたいと述べたが、黒澤は「遅い」とは的外れで「彼の作品は大河のように悠然とした流れが表現されているのだ」と弁護した[124]。一部の批評家はサタジットの作品が現代的ではないと指摘し、サタジットと同時代に活躍したジャン=リュック・ゴダールの作品に見られるような、新しい表現や実験的な要素が欠けていると批判した[124]。批評家からはアントン・チェーホフ、ウィリアム・シェイクスピアなどの他分野の芸術家やその作品と比べられることもあり、作家のV・S・ナイポールは『チェスをする人』のシーンをシェイクスピアの劇と比較して「たった300の単語が口にされるだけなのになんと言うことだ!ものすごい」と評した[125][126][127]。
政治的イデオロギーは、サタジットの作品と相容れるものではなかった。1960年代にサタジットはマルクス主義者の監督ムリナル・センと公開書簡を交わし、センの『雲の上に』(1965年)を「カラス映画」と呼び、羽を借りたカラスの寓話に例えて独創性に欠けると酷評した[128][129]。その後2人はサタジットが亡くなるまで、お互いの映画に建設的な批判をし続けた[129][130]。社会主義の支持者の中には、サタジットがインド社会で虐げられた人たちが生まれる原因を描き出していないことを指摘し、一部の批評家は、『大地のうた』や『遠い雷鳴』が叙情的で美しい描き方によって貧困を賛美していると非難した。彼らはサタジットが物語で起きる対立に解決策を出さず、サタジットのブルジョワジー的経歴を克服することができなかったと主張した。1970年代にナクサライト(インドの武装革命至上主義)運動が盛んだった頃には、押しかけた主義者たちによって息子が身体的危害を加えられそうになった事もあった[131]。1980年代にはインドの国会議員で元女優のナルギスが、サタジットを「貧困を輸出している」と非難し、現代インドを描く作品を作るべきだと主張した[132]。
影響
[編集]サタジット・レイの影響はベンガル語映画界に広く浸透し、アパルナ・センやリトゥポルノ・ゴーシュ、ゴータム・ゴース、シュリジット・ムカルジー、バングラデシュのタレク・マスード、タンビール・モカメルなどのベンガル語系監督がその影響を受けた[118][133]。さらにヒンディー語監督のヴィシャール・バルドワジ、ディバーカル・バナルジー、シャーム・ベネガル、アヌラーグ・バス、ニーラジ・ゲイワン、スジョイ・ゴーシュなどもサタジットの影響を受けている[134]。インド以外にも、サタジットの映画スタイルはマーティン・スコセッシ[135]、ジェームズ・アイヴォリー[136]、カルロス・サウラ[137]、高畑勲[138]、ダニー・ボイル[139]などの映画監督に影響を与えた。
グレゴリー・ナヴァは『ミ・ファミリア』(1995年)のラストシーンで『大樹のうた』を再現し、アイラ・サックスは『チャルラータ』からインスピレーションを受けて『Forty Shades of Blue』(2005年)を監督した[133]。マジッド・マジディはサタジットとその作品に称賛を示すために『Beyond the Clouds』(2017年)を作った[140]。ウェス・アンダーソンもインドで撮影した『ダージリン急行』(2007年)をサタジットに捧げ、サタジットが作曲した音楽をサウンドトラックに使用した[141]。映画批評家のマイケル・スラゴーは、1950年代中頃から主人公の成長を描くドラマがアート系映画で溢れるようになったのは、オプー三部作の存在に負うところが非常に大きいと指摘している[125]。また、『カンチェンジュンガ』はハイパーリンク映画と呼ばれる物語構造による作品の先駆けと見なされている[142]。さらに、ソール・ベローの『ハーツォグ』、J・M・クッツェーの『Youth』などの文学作品にも、サタジットからの影響が見られる[143]。
1993年にカリフォルニア大学サンタクルーズ校(UCSC)は、サタジットの作品を保存し、一般に公開するために「サタジット・レイ映画研究コレクション(レイFASC)」を設け、映画やポスター、写真、さまざまな言語で刊行された本、新聞や雑誌の記事、スケッチブックなど、10000点を超える文書から成るアーカイブを確立した[54][76]。これらのアーカイブは、UCSCのマクヘンリー図書館に所蔵されている[76]。1995年にはインド政府によって映画学校の「サタジット・レイ映画テレビ研究所」が創設された[144]。1996年から2008年までロンドン映画祭では、初監督作品の中で最も芸術性に優れ、サタジットのような感性と人間性を備える作品に贈られる「サタジット・レイ賞」が設けられた[145]。また、ロンドン・インド映画祭にも「サタジット・レイ短編映画賞」という賞が設けられている[146]。サタジットの生誕100周年にあたる2021年には、インド政府の情報放送大臣プラカシュ・ジャバデカールが、インドで最高の映画賞ダーダーサーヘブ・パールケー賞と同等の映画賞として、サタジット・レイの名を冠した賞を設けることを発表した[147]。その後、同年開催の第52回インド国際映画祭で、ジャバデカールの後任の情報放送大臣アヌラーグ・タークルが「インド国際映画祭 生涯功労賞」の名称を「サタジット・レイ生涯功労賞」に変更することを発表した[148]。
フィルモグラフィー
[編集]サタジット・レイの監督作品は36本存在する。その内訳は長編劇映画が29本、ドキュメンタリー映画が5本、短編映画が2本である[9][149][150][151][152]。
公開年 |
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言語 | 役職 | 備考 | |||||
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監督 | 脚本 | 原作 | 製作 | 作曲 | その他 | ||||
1955年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | No | No | No | ||
1956年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | No | Yes | No | ||
1958年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | No | No | No | 別邦題表記に『化金石』 | |
1958年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | No | Yes | No | 別邦題表記に『音楽サロン』 | |
1959年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | No | Yes | No | ||
1960年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | No | Yes | No | ||
1961年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | No | Yes | Yes | 「The Postmaster」「Monihara」「Samapti」の3つのエピソードから成るアンソロジー映画 | |
1961年 |
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英語 | Yes | Yes | No | No | No | ナレーター | ドキュメンタリー映画 |
1962年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | No | No | Yes | ||
1962年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | No | No | Yes | ||
1963年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | No | No | Yes | 別邦題表記に『ビッグ・シティ』 | |
1964年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | No | No | Yes | ||
1964年 |
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言語なし | Yes | Yes | No | No | Yes | 短編映画 | |
1965年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | No | No | Yes | ||
1966年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | No | No | Yes | ||
1967年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | No | No | Yes | ||
1969年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | No | No | Yes | ||
1969年 |
|
ベンガル語 | Yes | Yes | No | No | Yes | ||
1970年 |
|
ベンガル語 | Yes | Yes | No | No | Yes | ||
1971年 |
|
ベンガル語 | Yes | Yes | No | No | Yes | ||
1971年 |
|
英語 | Yes | Yes | No | No | Yes | ナレーター サウンドデザイン |
ドキュメンタリー映画 |
1972年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | No | No | Yes | ナレーター サウンドデザイン |
短編ドキュメンタリー映画 |
1973年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | No | No | Yes | ||
1974年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | Yes | No | Yes | 別邦題表記に『黄金の砦』 | |
1975年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | No | No | Yes | ||
1976年 |
|
英語 | Yes | Yes | No | No | Yes | ナレーター | ドキュメンタリー映画 |
1977年 |
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ヒンディー語 | Yes | Yes | No | No | Yes | ダイアローグ | |
1979年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | Yes | No | Yes | 別邦題表記に『象神万歳』 | |
1980年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | Yes | No | Yes | ||
1980年 |
|
ベンガル語 | Yes | Yes | Yes | No | Yes | 短編映画 | |
1981年 |
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ヒンディー語 | Yes | Yes | No | No | Yes | ダイアローグ | |
1983年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | No | No | Yes | ||
1987年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | No | No | Yes | 短編ドキュメンタリー映画 | |
1990年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | No | No | Yes | ||
1990年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | No | Yes | Yes | ||
1992年 |
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ベンガル語 | Yes | Yes | Yes | No | Yes |
受賞
[編集]サタジット・レイは国内外で多数の映画賞を受賞した。ベルリン国際映画祭では、銀熊賞を2度以上受けた3人の監督の1人であり[153]、金熊賞ノミネートは最多の7度を誇る。ヴェネツィア国際映画祭では、1956年に『大河のうた』で金獅子賞を受賞し、1982年には栄誉金獅子賞が贈られた[154]。同年、カンヌ国際映画祭で"Hommage à Satyajit Ray"が与えられた[155]。インドの映画賞国家映画賞では合計32個の賞を受賞しており、歴代最多の監督賞の受賞者(6回受賞)となった[156]。1985年にはインド映画で最高位の賞であるダーダーサーヘブ・パールケー賞を受賞した[157]。1992年には第64回アカデミー賞で「映画芸術のたぐいまれな熟達と深い人道的なものの見方が世界中の映画製作者と観客に拭い去ることのできない影響を与えた」('In recognition of his rare mastery of the art of motion pictures and for his profound humanitarian outlook, which has had an indelible influence on filmmakers and audiences throughout the world')功績により名誉賞を受賞した[158]。
映画賞以外にも、数多くの栄誉や称号を受けた。1978年には映画関係者ではチャールズ・チャップリンに続いて2人目となる、オックスフォード大学の名誉博士号を授けられた[159]。ほかにもデリー大学の文学博士(1973年)[160]、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートの名誉博士(1974年)[161]、コルカタ大学の文学博士(1985年)[162]などの称号を与えられている。インドの勲章では、1958年に民間人賞で4番目に高いパドマ・シュリー勲章、1965年に同3番目のパドマ・ブーシャン勲章、1976年に同2番目のパドマ・ヴィブーシャン勲章、そして1992年に最高位の民間人賞であるバーラト・ラトナ賞を授けられた[157]。1987年にはフランス政府からレジオンドヌール勲章のコマンドゥールの称号を授けられた[163]。また、1967年にはアジアのノーベル賞と呼ばれるマグサイサイ賞を受賞した[157]。
1992年、イギリスのサイト・アンド・サウンド誌は、すべての時代における映画監督ベスト10のリストを発表し、サタジットをアジア人では最高位となる7位に選出した[164]。2002年の同誌の映画監督ベスト10では、アジア人では4番目となる22位にランクした[165]。さらに、1996年にエンターテインメント・ウィークリー誌が発表した「50人の偉大な映画監督」リストでは25位に選ばれ[166]、2007年にTotal Film誌が発表した「100人の偉大な映画監督」のリストにも選出された[167]。また、2004年にBBCが発表した「史上最高のベンガル人」のリストでは13位にランクした[168]。
以下の表は、サタジット・レイが受賞した、もしくはノミネートされた映画賞(個人ではなく作品自体に与えられた賞を含む)の一覧である。
賞 | 年 | 部門 | 作品名 | 結果 | 出典 |
---|---|---|---|---|---|
国家映画賞 | 1955年 | 長編映画賞 | 『大地のうた』 | 受賞 | [169] |
ベンガル語映画賞 | 受賞 | ||||
1959年 | 長編映画賞 | 『大樹のうた』 | 受賞 | [170] | |
1960年 | ベンガル語映画賞 | 『女神』 | 受賞 | [171] | |
1961年 | ベンガル語映画賞 | 『三人の娘』 | 受賞 | [172] | |
非長編映画賞 | 『詩聖タゴール』 | 受賞 | |||
1964年 | 長編映画賞 | 『チャルラータ』 | 受賞 | [173] | |
1966年 | 脚本賞 | 『英雄』 | 受賞 | [174] | |
1967年 | 監督賞 | 『動物園』 | 受賞 | [175] | |
1968年 | 長編映画賞 | 『グピとバガの冒険』 | 受賞 | [176] | |
監督賞 | 受賞 | ||||
1970年 | 監督賞 | 『対抗者』 | 受賞 | [177] | |
第2位優秀映画賞 | 受賞 | ||||
脚本賞 | 受賞 | ||||
1971年 | 長編映画賞 | 『株式会社 ザ・カンパニー』 | 受賞 | [178] | |
1972年 | 非長編映画賞 | 『心の眼』 | 受賞 | [179] | |
1973年 | ベンガル語映画賞 | 『遠い雷鳴』 | 受賞 | [180] | |
音楽監督賞 | 受賞 | ||||
1974年 | 監督賞 | 『黄金の城塞』 | 受賞 | [181] | |
脚本賞 | 受賞 | ||||
ベンガル語映画賞 | 受賞 | ||||
1975年 | 監督賞 | 『ミドルマン』 | 受賞 | [182] | |
1977年 | ヒンディー語長編映画賞 | 『チェスをする人』 | 受賞 | [183] | |
1978年 | 児童映画賞 | 『消えた象神』 | 受賞 | [184] | |
1980年 | ベンガル語映画賞 | 『ダイヤモンドの王国』 | 受賞 | [185] | |
音楽監督賞 | 受賞 | ||||
1981年 | 審査員特別賞 | 『遠い道』 | 受賞 | [186] | |
1984年 | ベンガル語映画賞 | 『家と世界』 | 受賞 | [187] | |
1989年 | ベンガル語映画賞 | 『民衆の敵』 | 受賞 | [188] | |
1991年 | 長編映画賞 | 『見知らぬ人』 | 受賞 | [189] | |
監督賞 | 受賞 | ||||
1994年 | 脚本賞 | 『Uttoran』 | 受賞 | [190] | |
カンヌ国際映画祭 | 1956年 | ヒューマン・ドキュメント賞 | 『大地のうた』 | 受賞 | [31] |
国際カトリック映画事務局賞 | 受賞 | [191] | |||
ヴェネツィア国際映画祭 | 1957年 | 金獅子賞 | 『大河のうた』 | 受賞 | [36] |
国際映画批評家連盟賞 | 受賞 | [192] | |||
チネマ・ヌオヴォ賞 | 受賞 | [193] | |||
1972年 | 国際映画批評家連盟賞 | 『株式会社 ザ・カンパニー』 | 受賞 | [178] | |
サンフランシスコ国際映画祭 | 1957年 | 作品賞 | 『大地のうた』 | 受賞 | [194] |
監督賞 | 受賞 | ||||
1958年 | 作品賞 | 『大河のうた』 | 受賞 | [195] | |
監督賞 | 受賞 | ||||
1992年 | 黒澤明賞 | - | 受賞 | [196] | |
英国アカデミー賞 | 1957年 | 総合作品賞 | 『大地のうた』 | ノミネート | [197] |
1958年 | 総合作品賞 | 『大河のうた』 | ノミネート | [198] | |
1961年 | 総合作品賞 | 『大樹のうた』 | ノミネート | [199] | |
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 | 1958年 | 外国語映画賞 | 『大地のうた』 | 受賞 | [200] |
1960年 | 外国語映画賞 | 『大樹のうた』 | 受賞 | [201] | |
BFIロンドン映画祭 | 1959年 | サザーランド杯 | 『大樹のうた』 | 受賞 | [202] |
ベルリン国際映画祭 | 1964年 | 銀熊賞 (監督賞) | 『ビッグ・シティ』 | 受賞 | [50] |
1965年 | 銀熊賞 (監督賞) | 『チャルラータ』 | 受賞 | [51] | |
国際カトリック映画事務局賞 | 受賞 | [203] | |||
1966年 | 特別表彰 | 『英雄』 | 受賞 | [204] | |
1973年 | 金熊賞 | 『遠い雷鳴』 | 受賞 | [205] | |
キネマ旬報ベスト・テン | 1966年 | 外国映画ベスト・テン | 『大地のうた』 | 1位 | [206] |
外国映画監督賞 | 受賞 | ||||
ボディル賞 | 1967年 | 非ヨーロッパ映画賞 | 『大河のうた』 | 受賞 | [207] |
1969年 | 非ヨーロッパ映画賞 | 『大地のうた』 | 受賞 | ||
モスクワ国際映画祭 | 1979年 | 名誉賞 | - | 受賞 | [208] |
フィルムフェア賞 | 1979年 | 監督賞 | 『チェスをする人』 | 受賞 | [209] |
BFIフェローシップ賞 | 1983年 | - | - | 受賞 | [210] |
アカデミー賞 | 1991年 | 名誉賞 | - | 受賞 | [78] |
東京国際映画祭 | 1991年 | 特別功労賞 | - | 受賞 | [211] |
ドキュメンタリー作品
[編集]- 『Creative Artists of India - Satyajit Ray』(1964年、バグワン・ダス・ガルガ監督)
- 『Satyajit Ray』(1982年、シャーム・ベネガル監督)
- 『The Music of Satyajit Ray』(1984年、Utpalendu Chakrabarty監督)
- 『Ray Life and Work of Satyajit Ray』(1999年、ゴータム・ゴース監督)
著書(日本語訳)
[編集]- 『黄金の城塞』西岡直樹訳、くもん出版〈くもんの海外児童文学シリーズ〉、1991年11月。ISBN 978-4875766605。
- 『消えた象神』西岡直樹訳、くもん出版〈くもんの海外児童文学シリーズ〉、1993年3月。ISBN 978-4875767657。
- 『わが映画インドに始まる 世界シネマへの旅』森本素世子訳、第三文明社、1993年7月。ISBN 978-4476031782。
- 『ユニコーンを探して サタジット・レイ小説集』内山眞理子訳、筑摩書房、1993年11月。ISBN 978-4480831446。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 後にサタジットは、ムカルジーのドキュメンタリー映画『心の眼』(1972年)を製作した[11]。
- ^ ビジョヤは、サタジットの母方の叔父にあたるカルカンドラ・ダスの長女である。サタジットとビジョヤは、1940年頃から交際を始め、1948年にボンベイでひそかに式を挙げた。2人の婚姻は、翌年にコルカタで挙げた伝統的な宗教儀礼に則った式で認められた[20]。
- ^ 『シッキム』はシッキムの王室によって製作され、2010年までインド政府によって発禁処分を受けていたが、サタジットの息子サンディープ・レイによると、その映像は土地の動植物と美しい景観のみを撮影したもので、論争の的になるような内容は含まれていないという[63]。
- ^ サタジットの短編小説は12本のエピソードを1冊に纏めて出版されたが、そのタイトルは12という言葉に紐づくものとなっていた(例えば、『Aker pitthe dui』は「Two on top of one」という意味を持つ)[109]。
出典
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関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- Satyajit Ray.org
- Satyajit Ray - IMDb
- Satyajit Ray - オールムービー
- サタジット・レイ - allcinema
- サタジット・レイ - KINENOTE