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マイケル・ウィルソン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マイケル・ウィルソン
Michael Wilson
生年月日 (1914-07-01) 1914年7月1日
没年月日 (1978-04-09) 1978年4月9日(63歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 オクラホマ州マッカリスター英語版
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス郡
職業 脚本家
配偶者 ゼルマ・ウィルソン英語版
受賞
アカデミー賞
脚色賞
1951年陽のあたる場所
1957年戦場にかける橋
ゴールデングローブ賞
脚本賞
1952年五本の指
その他の賞
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マイケル・ウィルソンMichael Wilson, 1914年7月1日 - 1978年4月9日)は、アメリカ合衆国の脚本家である。『陽のあたる場所』(1951年)、『戦場にかける橋』(1957年)の脚本を執筆してアカデミー賞脚色賞を2度受賞した。

共産主義者であったためにマッカーシズムの時代にはハリウッド映画スタジオブラックリストに入れられていた。

生い立ち

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オクラホマ州マッカリスター英語版で生まれ、ローマ・カトリック教徒の家庭で育つ。1936年にカリフォルニア大学バークレー校を哲学の学士号を得て卒業した[1][2]

キャリア

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1941年のロレッタ・ヤング主演の『嘆きの白薔薇英語版』で初めて映画の脚本を執筆する。初期の仕事には他に数本のウィリアム・ボイド英語版の西部劇映画があった。

第二次世界大戦アメリカ海兵隊に務めたために脚本家としてのキャリアは一時中断する。

戦争から戻ると1945年にリバティ・フィルムズ英語版と契約して『素晴らしき哉、人生!』(1946年)の脚本に参加するもクレジットはされなかった。

1951年公開の『陽のあたる場所』の脚本を執筆したことにより第24回アカデミー賞脚色賞を受賞する。さらに翌1952年の『五本の指』でもアカデミー賞にノミネートされたほか、エドガー賞映画脚本賞を獲得した。

ブラックリスト入り

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共産主義者であったウィルソンは下院非米活動委員会によって非友好的証人とされ、ハリウッドのブラックリストに入れられた。彼はフランスへと移ってヨーロッパの映画業界で働いた。

ブラックリスト入りしている間に彼は映画『地の塩英語版』(1954年)の脚本を執筆した。これは同じくブラックリスト入りしていたハーバート・ビーバーマンが監督、ポール・ジャリコ英語版がプロデューサーを務めた。後にこの映画はアメリカ議会図書館によって「文化的に重要」と見なされてアメリカ国立フィルム登録簿に加えられた。

ウィルソンはブラックリスト入りする以前より遙かに安いギャラでハリウッド映画の脚本を偽名またはクレジット無しで執筆した。その主な作品には他のブラックリスト脚本家も雇っていたキング・ブラザーズ・プロダクションズ英語版の『カーニバルの女英語版』(1954年)、 『They Were So Young』(1954年)、オットー・プレミンジャー監督の『軍法会議』(1955年)、ウィリアム・ワイラー監督の『友情ある説得』(1956年)、サム・スピーゲル製作でデヴィッド・リーン監督の『戦場にかける橋』(1957年)、『The Two-Headed Spy』(1958年)、ディノ・デ・ラウレンティス製作の『テンペスト』(1958年)と『Five Branded Women』(1960年)、再びスピーゲルとリーンと組んだ『アラビアのロレンス』(1962年)があった。

『友情ある説得』は第29回アカデミー賞脚色賞にノミネートされたが、当時クレジットに載っていなかったウィルソンはその資格を得られなかった。ウィルソンとカール・フォアマンが脚本を書いた『戦場にかける橋』もまた第30回アカデミー賞脚色賞を獲得するが、当時オスカー像を手にしたのは英語を話すことすらできなかったにもかかわらず脚本家としてクレジットされていた原作者のピエール・ブールであった。

フランスで家族と9年過ごした後、1964年にアメリカに戻り、カリフォルニア州オーハイ英語版で暮らし始めた[2]

ハリウッド復帰後

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ハリウッド復帰後にウィルソンは『いそしぎ』(1965年)、『猿の惑星』(1968年)、『ゲバラ!』(1969年)の脚本を執筆した。

1975年に全米脚本家組合のローレル賞を受賞した。また『戦場にかける橋』によるアカデミー賞脚色賞は没後の1984年に授与された[3]。1995年に映画芸術科学アカデミーはウィルソンを『アラビアのロレンス』でのアカデミー賞脚色賞候補者として承認した。

私生活

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1941年に建築家のゼルマ・ウィルソン英語版と結婚し、娘を2人もうけた[4]。ゼルマの姉妹であるシリヴィアは彼と同じくブラックリスト入りした脚本家のポール・ジャリコと結婚した。彼は1978年にカリフォルニア州ロサンゼルス郡心筋梗塞により亡くなった。

フィルモグラフィ

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作品 役割 備考
1941 嘆きの白薔薇英語版
The Men in Her Life
脚本
1943 Border Patrol 脚本
Colt Comrades 脚本
Bar 20 脚本
1944 Forty Thieves 脚本
1946 素晴らしき哉、人生!
It's a Wonderful Life
脚本協力 クレジット無し
1951 陽のあたる場所
A Place in the Sun
脚本
1952 五本の指
5 Fingers
脚本
1954 地の塩英語版
Salt of the Earth
脚本
カーニバルの女英語版
Carnival Story
脚本 クレジット無し
They Were So Young 脚本 クレジット無し
1955 軍法会議
The Court-Martial of Billy Mitchell
脚本 クレジット無し
1956 友情ある説得
Friendly Persuasion
脚本 公開時はクレジット無し
1957 戦場にかける橋
The Bridge on the River Kwai
脚本 公開時はクレジット無し
1958 The Two-Headed Spy 脚本 公開時は「ジェームズ・オドネル」名義
テンペスト
La Tempesta
脚本 クレジット無し
1960 Five Branded Women 脚本 公開時はクレジット無し
1962 アラビアのロレンス
Lawrence of Arabia
脚本 公開時はクレジット無し
1965 いそしぎ
The Sandpiper
脚本
1968 猿の惑星
Planet of the Apes
脚本
1969 ゲバラ!
Che!
脚本

受賞とノミネート

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部門 作品名 結果
アカデミー賞 1951[5] 脚色賞 陽のあたる場所 受賞
1952[6] 五本の指 ノミネート
1956[7] 友情ある説得 ノミネート
1957[8] 戦場にかける橋 受賞
1962[9] アラビアのロレンス ノミネート
ゴールデングローブ賞 1952[10] 脚本賞 五本の指 受賞

参考文献

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  1. ^ Collection Guide for the Michael Wilson Papers, 1942–1977”. Online Archive of California of the University of California. 2020年7月9日閲覧。 “"Michael Wilson was born in McAlester, OK, July 1, 1914. He graduated from UC Berkeley in 1936 with a BA in Philosophy."”
  2. ^ a b "Obituaries". Variety. 12 April 1978. p. 105.
  3. ^ Aljean Harmetz (March 16, 1985). “Oscars Go to Writers of 'Kwai'”. The New York Times. https://www.nytimes.com/1985/03/16/movies/oscars-go-to-writers-for-kwai.html 
  4. ^ "Here and There," Berkeley Daily Gazette (June 23, 1941): 3, social page mentions the couple's recent wedding.
  5. ^ THE 24TH ACADEMY AWARDS”. oscars.org. 2020年7月9日閲覧。
  6. ^ THE 25TH ACADEMY AWARDS”. oscars.org. 2020年7月9日閲覧。
  7. ^ THE 29TH ACADEMY AWARDS”. oscars.org. 2020年7月9日閲覧。
  8. ^ THE 30TH ACADEMY AWARDS”. oscars.org. 2020年7月9日閲覧。
  9. ^ THE 35TH ACADEMY AWARDS”. oscars.org. 2020年7月9日閲覧。
  10. ^ Winners & Nominees 1953”. ハリウッド外国人映画記者協会. 2020年7月9日閲覧。

関連文献

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外部リンク

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