女流棋士 (将棋)
将棋 |
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各年度の将棋界 |
2022 - 2023 - 2024 - 2025 |
将棋の女流棋士(じょりゅうきし)は、女性の棋士である。日本の将棋界では、「プロ棋士の制度(男女の区別なし)」と「女流棋士の制度(女性のみ)」という2つのプロ制度が併存しており[1] [注釈 1]、狭義(制度上)の「女流棋士」は後者に係る人を指す。
女流棋士には、日本将棋連盟所属の者、日本女子プロ将棋協会 (LPSA) 所属の者、いずれにも所属していない者(フリー女流棋士)がいる。
概説
[編集]女流棋士制度成立の経緯
[編集]1960年代の女性教室の開催や女流名人戦(現在の女流アマ名人戦)の創設などを踏まえて、その当時の日本将棋連盟副会長であった大山康晴は、かねてより女流棋士の存在によって普及面を充実させるという考えのもとで女流棋士制度の確立を強く提唱し[4]、当初は反対も多かったが[5]、その後大山や原田泰夫などの尽力で、1974年、連盟棋士会における満場一致の決議により、女流棋士制度が正式に発足した[5]。
下記の6名が1974年10月31日付で制度上の女流棋士となった[6]。この6名が女流棋士1期生である[7]。
- 蛸島彰子
- 女性として初めて奨励会に入会し、退会後レッスンプロ二段として活動[6]。制度創設時に女流三段としてプロ入り。女流タイトルをいくつも獲得し、1989年に女流棋士会が発足すると初代会長に就任。2007年にLPSAに移籍して相談役に就任。2017年に女流六段昇段。2018年に現役引退して、LPSAプロに転向。
- 関根紀代子
- 蛸島に匹敵する棋力の女性アマとして活動[8][6]。制度創設時に女流二段としてプロ入り。2011年、現役引退に伴い女流六段に昇段。
- 多田佳子
- 女流アマ名人戦を4度優勝するなど活躍[6]。制度創設時に女流二段としてプロ入り。2004年現役引退。2005年に女流四段昇段。2007年のLPSA発足に伴い、日本将棋連盟を退会してLPSAに移籍。2014年に「協会の今後・方向性などとずれを感じて」LPSAを退会して女流棋士をやめる。
- 山下カズ子
- 1972年に女流1級としてレッスンプロに[9]。制度創設時に女流初段としてプロ入り。1977年、蛸島から女流名人にを奪い2強時代を築いた。2007年のLPSA発足に伴い、日本将棋連盟を退会してLPSAに移籍。2012年現役引退。以降はLPSAプロとして活動。2024年に女流六段昇段。
- 寺下紀子
- 1962年に始まった将棋連盟の女性教室の第1号生徒であり、成績優秀者[10]。制度創設時に女流初段としてプロ入り。1985年現役引退。1993年に女流四段昇段。2007年のLPSA発足に伴い、日本将棋連盟を退会してLPSAに移籍。
- 村山幸子
- 女性教室の成績優秀者。制度創設時に女流初段としてプロ入り。1989年現役引退、女流二段昇段。2002年、日本将棋連盟を退会して女流棋士をやめる。
女流棋士と棋士(奨励会)
[編集]将棋の棋士の制度に男女の区別は無い。新進棋士奨励会が1928年(昭和3年)に創設されて以来「奨励会に入会し、昇級昇段規定を満たして四段に昇段すること」が棋士となる要件である[11][注釈 2]。そのために1974年の女流棋士制度の発足以降も女流棋士は奨励会に重複して在籍可能で、そのために女流棋士でありながら棋士になるために、林葉直子、中井広恵、矢内理絵子、碓井涼子などが奨励会に重籍していた。しかしその事に奨励会員からの不満の声もあり、1998年に女流棋士総則が改正され、「奨励会員と女流棋士の重複は認めない」とされ、奨励会に籍を置く際には女流棋士を休会しなければならなくなった[14][注釈 3]。
2011年に里見香奈女流三冠が奨励会への挑戦を表明した。これを踏まえて将棋連盟理事会は、「女流棋士が奨励会試験を受験し入会することは自由である」として女流棋士と奨励会員の重複を再度認めるようになった[15]。里見は2011年5月に1級で編入試験に合格すると[16]、2012年1月初段、2013年7月二段、同年12月三段に昇段した。その後、奨励会三段リーグでは3期の休場を挟んで計5期出場したが、四段昇段を果たせず年齢制限により退会した。
2022年時点で棋士になった女性は存在しない。上記の里見が奨励会退会後にプロ公式戦の女流参加枠で棋士編入試験[注釈 4]受験資格獲得に迫る成績を挙げていた事と、奨励会員の西山朋佳が三段リーグ在籍中で顕著な成績を上げていた事を踏まえて、いずれかが四段昇段を果たした場合の明確な対処基準を設定することが求められていたため[17]、2019年8月7日、日本将棋連盟は「女流棋士、女性奨励会員の棋戦参加について」で、
1) 女流棋士がプロ棋士編入試験[注釈 4]に合格した場合、女流棋戦、及びプロ棋士公式棋戦の両方に出場することが出来る。
2) 奨励会に所属している女性が四段に昇段をした場合、女流棋士申請を行うことが出来る。ただし、申請期間は昇段日から2週間以内とする。
として女流棋士と棋士を並行して活動できることとした[19]。
女流棋士から奨励会を経ずに棋士になるには、女流棋戦で優秀な成績を挙げて棋士棋戦に出場し、以下の条件のいずれかを満たして棋士編入試験の受験資格を得、新四段5人を試験官とする5局の対局で3勝を上げる必要がある。
- 棋士棋戦での通算成績が最も良いところから見て10勝以上、かつその間の勝率が6割5分以上の成績を収めること。
- 以下の各棋戦のいずれか1つにおいて所定の成績を収めること
- 竜王戦:ランキング戦優勝
- 王位戦:挑戦者決定リーグ入り
- 王座戦:挑戦者決定トーナメントベスト8
- 棋王戦:挑戦者決定トーナメントベスト8
- 棋聖戦:決勝トーナメントベスト8
- 朝日杯将棋オープン戦:本戦トーナメントベスト4
- 銀河戦:決勝トーナメントベスト4
- NHK杯テレビ将棋トーナメント:本戦トーナメントベスト4
- 新人王戦:優勝
活動
[編集]女流棋士は、東京の将棋会館か大阪の関西将棋会館のどちらか一方を主な対局地としており、東西のどちらに所属しているのかを、東京本部所属(または関東所属)、関西本部所属(または関西所属)として表す。対局者両名の所属が東西で分かれている場合には、序列上位者の対局地に下位者が赴き対局が行なわれることが多いが、順位戦等で対局地の割り当て均等化などの場合には必ずしもこの限りではない。東西の所属先の変更は任意で、年度の途中で所属を変更する者もいる。
女流棋士の主な仕事としては女流公式戦の対局(現役のみ)、普及活動、メディア出演、イベント出演、指導対局、講座、講演、聞き手、将棋教室、記録係などがある[20]。しかし対局以外については、特に決まりがあるわけではないのでそれぞれのやり方に委ねられている。
現役を引退した女流棋士は女流公式戦の対局ができなくなるが、女流棋士としての資格や称号(段位等)には変化がなく、所属組織を退会しない限り日本将棋連盟、女流棋士会、LPSAなどそれぞれの組織の会員資格も保持される。
女流公式戦
[編集]序列
[編集]- タイトル保持者。保持タイトル数の多い方。保持しているタイトル数が同じ場合、より上位のタイトルを保持している方が上位。
- クイーン称号保持者。クイーン称号を先に取得した方が上位。
- 上記以外。高段(級)者が上位。同段(級)位の場合、連盟ではより早くその段(級)位になった者が上位。LPSAでは女流棋士になった日が早い者が上位。
女流棋士の段位・級位
[編集]棋士との対局
[編集]成績優秀な女流棋士は、棋士(以下「男性棋士[21]」)の公式戦(以下「男性棋戦」)のうち女流棋士枠を設けている棋戦に参加できる。
男性棋戦への女流棋士枠での出場権は、タイトルホルダー・タイトル挑戦者クラスの女流棋士や、主催者推薦、連盟推薦、女流棋士予選による選抜(NHK杯)などで決定される。また、新人王戦については、「26歳以下」という枠組みの中で、年間成績によって選抜される。
そもそも1981年の新人王戦(高橋道雄 vs 山下カズ子)を皮切りに[22]女流棋士の男性棋戦への参加枠が設けられた。しかし女流棋士が男性棋士に勝つことは12年後の1993年[注釈 5]までなかった[24]。その後も非公式棋戦だった時期の第4期銀河戦で、斎田晴子が女流棋士で決勝トーナメントへ初進出を果たしたり[25]、中井広恵がNHK杯で青野照市に勝利して、女流棋士が初めてA級棋士に公式戦で勝利する[26]といった出来事もあったが、長きにわたって将棋界では男女の棋力差が大きいとされ、女流棋士の男性棋戦での勝率は1割から2割に留まっていた[24]。
しかしながら最近は、その差は縮まっている[24]。2018年度の女流棋士の対男性棋士成績は、16勝20敗(勝率0.44)で勝数・勝率ともに当時では歴代最高の記録となった[27]。女流棋士が男性棋戦で勝利する例が増え、その中には若手精鋭の男性棋士に対する勝利も含まれるなど、女流タイトル保持者・挑戦者の実力は、男性棋士と対等に戦える水準に達している[28]。 2022年には、里見香奈が第48期棋王戦で女流棋士・女性として初の八大タイトル戦本戦進出と棋士編入試験受験資格を獲得する成績を挙げた[29]。
待遇
[編集]棋士および女流棋士は個人事業主である[30]。女流棋士については、産前6週間、産後8週間が「産休」と位置づけられ、女流公式戦の対局義務を免除される[30]。
女流棋士の待遇については特に公表されていない[注釈 6][注釈 7]が、将棋連盟理事を務めたこともある田丸昇は2019年6月の自身のコラムで、女流棋士の待遇について「棋戦契約金による経済基盤は決して十分でなく、賞金や対局料で生活できる女流棋士は限られて待遇の底上げが課題だと思う。」と述べている[34]。
連盟の運営への女流棋士の関与
[編集]1974年に女流棋士制度が発足してからも長きにわたり、日本将棋連盟の正会員として、棋士総会に出席して議決権を行使できるのは棋士のみであった。女流棋士が日本将棋連盟の運営に関与できない状況が続いていたが、2010年11月12日に行われた日本将棋連盟臨時総会で、「女流四段以上またはタイトル経験者」である女流棋士9名[注釈 8]が2011年4月から正会員になることが決まった[35]。
2011年4月1日付で、社団法人日本将棋連盟が公益社団法人となると同時に施行された定款では、下記のように規定されている(『第1項』『第2項』は理解の便のため引用者が挿入)[36]。
第3章 会員
(会員の構成)
第5条
第1項 本連盟に次の会員を置く。
(1) 正会員 本連盟の目的に賛同し入会した者で日本将棋の伝統を存続し、普及発展を図るため棋力が一定の水準に達したことを理事会で確認した棋士(四段)、女流棋士(日本将棋連盟所属、タイトル獲得者[注釈 9]又は女流四段以上)とする。
(2) 準会員 本連盟の目的に賛同し入会した者で日本将棋連盟の伝統を存続し、普及発展を図るため棋力が一定の水準にある女流棋士(女流2級から女流三段)、指導棋士とする。
(3)略
(4)略
第2項 前項の正会員をもって一般社団法人及び一般財団法人に関する法律上の社員とする。
さらに、清水市代が2017年5月に日本将棋連盟常務理事に就任し[37]、女流棋士として初めて、連盟の業務執行に携わることとなった。
女流棋士になる条件
[編集]通常の制度
[編集]女流棋士になるには女流2級になる必要があり、女流棋士になる条件は日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会(LPSA)ともにほぼ同じである[注釈 10]。現行制度は2024年4月に改正されたものである[38]。
満27歳未満(日本将棋連盟)または満40歳未満(LPSA)の女性で以下のいずれかの条件を満たした者は、女流2級の資格を得る[38]。資格獲得後所定の期間内に、日本将棋連盟への申請の場合はプロ棋士または日本将棋連盟の正会員である女流棋士を師匠として(LPSAの場合は師匠なしも可)申請を行い、それぞれの承認を受けた日の翌月1日時点で女流2級となる[38]。女流2級昇級後の半年間は研修期間として、公式戦の記録係などの義務が課される[38]。なお、研修会・アマチュア時代に女流公式戦で実績を挙げていても、その実績は考慮されず、一律に女流2級スタートとなる[38]。
研修会から女流棋士へ
[編集]2024年4月1日より改定された女流棋士規定[39]によると、研修会でB1クラスへ昇級するか、あるいは最初からB1以上のクラスに入会し、いずれの場合も入会後48局以上の対局数を満たす、資格取得時点で基準年齢未満の女流棋士志望の女性研修生は、女流2級の資格を得る。B1在籍開始時点で48局の対局数に満たない場合は対局数を満たした時点で女流2級の資格を得、この間にB2以下に降級したときは資格を取り消される。女流2級申請資格の有効期間は1年間であるが、資格獲得日から2週間以内に申請を行わない場合、半年間は新たな申請ができない。申請を行わなかったときは半年後と1年後にそれぞれ2週間の申請期間が設けられ、1年後に申請を行わなかった場合資格は消滅する。また、この期間中に研修会から退会、または長期休会した場合も資格は消滅する。日本将棋連盟における女流2級への年齢制限は27歳であるが、2024年3月31日時点で研修会在籍中の女性研修生は年齢制限を1年延長し、28歳が年齢制限となる。なお、2023年度までは、一つ下のB2クラスへの昇級・入会が女流2級資格の要件となっていた[40][41]。
アマチュアから直接女流棋士へ
[編集]アマチュア出場枠のある下記の女流公式戦で所定の成績を修めた場合に、研修会員であるか否かにかかわらず女流2級の資格を得る(研修会員もアマチュアであるので、アマチュアとして出場した女流公式戦で所定の成績を収め、この規定により女流2級の資格を得ることが可能)[注釈 11]。ただし、権利を得た日から2週間以内に申請を行わない場合、権利は消滅する。研修会員がこの権利を行使して女流棋士になる場合は、研修会での対局数が48局に達している必要はない。
- マイナビ女子オープン:本戦ベスト8進出以上
- 女流王座戦:本戦ベスト8進出以上
- 女流王将戦:本戦ベスト8進出以上
- 倉敷藤花戦:ベスト8進出以上
- YAMADA女流チャレンジ杯:優勝
奨励会退会者の編入制度
[編集]「女流棋士総則第8章3」[43]および「奨励会規定」の下記の条項を根拠とする[44]。
- 「女流棋士総則第8章3」[45]
初めから女流棋士の資格がなく、奨励会員としてのみ籍をおいていた女性が、奨励会2級以上で退会した場合、4月1日付又は10月1日付で退会時の段級位でそのまま女流棋士になることができる。
- 「奨励会規定」
女性の奨励会員が退会し、女流棋士を希望した場合は次の通りとする。
◇奨励会1級以上で退会→退会時の段級位でそのまま女流棋士の資格を得る
◇奨励会6級以上2級以下で退会→女流2級の資格を得る
※退会後2週間以内に申請しなければならない
※三段が女流棋士の申請をした場合は年齢制限は無いものとする
「退会時の段級位でそのまま女流棋士の資格を得る」とは、例えば、女性奨励会員が1級で退会し、女流棋士に転向する場合は女流1級となる、という意味である。ただし、奨励会時代に女流公式戦で実績を挙げていれば、女流棋士としての段級位を定めるにあたり考慮される[注釈 12]。
女性奨励会員への女流棋士資格付与
[編集]女流棋士の資格を有さない女性の奨励会員が四段に昇段したときは、四段昇段日から2週間以内に女流棋士申請を行うことで、女流棋士の資格を得られる[19]。
女流棋士になるための制度の変遷
[編集]女流育成会からのコース | 奨励会からのコース | その他のコース | |
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1974年度 -1983年度 |
-
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-
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棋士の推薦を受けたアマチュアの強豪女性が、連盟理事会の審議を経て女流棋士となった。 |
1984年度 -1991年度 |
年1回の女流育成会リーグの上位2名[注釈 13]。 | -
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1992年度前期 -1996年度前期 |
年2回の女流育成会リーグの上位1名。 | ||
1996年度後期 -2003年度前期 |
A級、B級リーグに分けA級の1位。 | ||
2003年度後期 -2008年度後期 |
リーグ戦1位に与えられる昇級点2回獲得。 | 奨励会を2級以上で退会すると、退会時の段級位で女流棋士となる資格を得る。 | |
研修会からのコース | 奨励会からのコース | 女流棋戦からのコース | |
2009年[46] -2013年 9月 |
4月
いずれも満たしている者は女流3級になる資格を得る[注釈 14]。 |
奨励会を2級以上で退会すると、退会時の段級位で女流棋士となる資格を得る[注釈 15]。 | -
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2013年10月[47] -2018年 3月 |
アマチュア枠がある女流棋戦でベスト8などの成績を上げると、女流3級になる資格を得る[注釈 16]。 | ||
2018年4月[48] -2024年3月 |
いずれも満たしている者は女流2級になる資格を得る。 |
奨励会を1級以上で退会すると、退会時の段級位で女流棋士となる資格を得る。 奨励会を6級以上2級以下で退会すると、女流2級となる資格を得る。 |
アマチュア枠がある女流棋戦でベスト8などの成績を上げると、女流2級になる資格を得る。 |
2024年4月[49] 以降 |
いずれも満たしている者は女流2級になる資格を得る。 |
- ※「基準年齢」は日本将棋連盟では27歳、LPSA(日本女子プロ将棋協会)では40歳。
女流3級から女流2級への昇級
[編集]2009年4月の制度改正により、研修会が女流棋士育成機関となると同時に、「仮の女流棋士資格」として「女流3級[注釈 17]」が設けられた。女流3級は女流公式戦への参加義務があり、女流3級から正規の女流棋士(女流2級)になるためには、下記のいずれかの条件を満たすことが必要であった。なお2018年4月の制度改正後は、経過措置を除いて女流3級は廃止された[注釈 18]。
- 1年間で参加公式棋戦数と同数の勝星を得る(2017年度では年度7勝以上)。
- 2年間で参加公式棋戦数の4分の3以上の勝星を得る(2017年度では2016年度からの2年間で11勝以上)。
- 女流棋士の昇段級規定の「女流1級」に該当した場合。
- YAMADA女流チャレンジ杯でベスト4に進出した場合(2016年より)。
2年間で上記のいずれも満たせなかった場合は、女流3級の資格を取り消される。その場合でも年齢制限に達していなければ、再度研修会から女流棋士資格をめざすことが可能であった[注釈 19]。
アマチュアからの女流3級になった者については例外規定として、そのまま本戦ベスト4に進出した場合は即時女流2級に昇級する。また資格を失った時に研修会に入会できる規定はなかった。なお資格を失った場合、再度公式棋戦で前述の条件を満たせば、最大3回まで資格(権利)を再取得することが可能であった。
フリー女流棋士
[編集]- フリー女流棋士とは、日本将棋連盟やLPSAの団体に所属していないものの、両団体と女流棋戦主催者の承認により女流棋士として女流公式戦の参加を認められた者である[52]。
- これまでに、フリーの女流棋士として活動実績がある者は以下の2名で、うち現役は1名である。
- 特例的な措置であるため、一般のアマチュア女性が女流棋士になるには、連盟の研修会・奨励会やアマ参加枠のあるプロ公式戦・女流棋戦で規定の実績を挙げた上で、団体に女流プロ申請と所属が必要になる。
女流棋士番号
[編集]棋士における「棋士番号」と同様に、女流棋士には「女流棋士番号」が所属組織から各々付与されている。日本将棋連盟においては、2011年4月の公益社団法人化の際に「女流棋士番号」を改めて割当てし直している。そのため、現行の「女流棋士番号」が「43番」までの者は、2011年4月1日以前は「旧番号」が割り振られていた。日本女子プロ将棋協会 (LPSA)においては、組織創設の2007年から「LPSA番号」を割当てしている。
日本将棋連盟、LPSAどちらの組織においても、当該者が女流棋士(プロ)になった年月日順に女流棋士番号(LPSA番号)が付与される。「旧番号」の当時においては蛸島彰子を「1番」とした通し番号を「女流棋士番号」として付与していた。現行の「女流棋士番号」では関根紀代子を「1番」とした通し番号を、「LPSA番号」では前述の蛸島彰子を「1番」とした通し番号を、それぞれ割当てしている。
番号の付与はプロになった時点(女流2級昇級の日付)で行われる。同日付での昇級者が複数名いる場合には、女流棋士となる「資格を得た時点」、すなわち研修会における規定のクラス(研修会B1クラス)[56]への昇級を果たした時点の日付順に番号が割当てられる。「B1クラス昇級日」が同日の場合は「B2クラス昇級日」の早い者の順序が先となる[58]。
かつての「女流3級」(仮資格制度)が存続していた2018年4月までの制度下においては、女流3級の時点では正式なプロ入りではないので「番号」は付与されず、昇級条件を満たし女流2級に昇級した日付で「番号」が付与されていた[60]。
退会者においては、当該者に割り当てられた「番号」は欠番扱いとされ、日本将棋連盟の現行の「女流棋士番号」では3つの番号(4番・45番・55番)、「LPSA番号」では4つの番号(2番・7番・10番・14番)が欠番となっている(いずれも2024年7月末時点)。
フリー女流棋士の場合は、組織所属当時に割当てられていた「番号」は用いられない。ただし、いずれかの組織に再度所属する場合には所属組織が割当てた「番号」を用いることができる[61]。
女流棋士の引退
[編集]「自らの意志による引退」と、女流棋士総則の「降級点規定」による引退[62]が存在する。
ただし、引退後も一部の女流公式戦(2019年現在、女流王座戦のみ)にアマチュアとして出場することは可能である。過去に女流王座戦アマチュア予選では、第1期に林葉直子・大庭美夏・藤田麻衣子が[63]、第4期に藤田(2回目)・山下カズ子(本名の「中川カズ子」名義)がアマチュアとして出場したことがある[64]。
引退と同時に、あるいは引退の後に所属団体を退会する者もいる。この場合、女流棋士としての身分を放棄することとなる。
「降級点規定」における降級点
[編集]※女流順位戦D級における「降級点」[注釈 20]は、女流棋士の引退に関わる本項の「降級点」とは異なる制度である。
降級点による女流棋士の引退
[編集](2023年6月時点)
- 女流棋士は、年度成績の順位下位者に該当すると降級点がつく。ただし、出産・病気による休場の場合は、降級点の対象外となる。
- 女流棋士は規定個数の降級点がつくと引退となる。
- 女流棋士は3つ目の降級点がつくと引退となる。
- 降級点の規定個数は65歳までは降級点3つ、65歳を過ぎると降級点1つ。
- 女流棋士は65歳の誕生日を迎えた年度まで現役を続けることができる。
- ただし、65歳になった年度終了時に降級点を1つも持っていない場合、翌年度も現役を続けることができる。
- 女流棋士は65歳を過ぎると、降級点が1つでもつくと、その年度をもって引退となる。
年度ごとの降級点人数
[編集]降級点の人数は、当該年度の起点となる4月1日現在の女流2級以上の女流棋士数を基準とする。ただし、4月1日現在の休場者数は基準人数に含まない。
- 降級点の人数は、基準人数36名のときに降級点の人数を1名とし、その後は、基準人数が5名増えるごとに、降級点の人数が1名ずつ増える。
- 女流棋士基準人数が 36名から40名まで のとき、降級点の人数 1名
- 女流棋士基準人数が 41名から45名まで のとき、降級点の人数 2名
… - 女流棋士基準人数が (36+5*n) 名から (40+5*n) 名まで のとき、降級点の人数 (1+n) 名
… - 女流棋士基準人数が x名 のとき、降級点の人数 ( 1 + x-36/5) 名(端数切捨て)
- 年度途中に自主引退者が出た場合は、降級点の人数から自主引退者の人数を引き算した数が、その年度の降級点の人数となる。
- 年度途中に休場者が出た場合も、原則として、降級点の人数は変動しない。
降級点の決め方
[編集]- 降級点は、YAMADA女流チャレンジ杯を除く女流8棋戦[注釈 21]における活躍度によって年度成績の順位を決定し、その順位下位者から順につく。
- 年度成績の順位を決める棋戦サイクルは、便宜上、次のとおりである。
- 上記の(1)清麗戦から(8)女流王位戦までを区切りとする。
- 出産・病気による休場者は、休場の時期に関わらず、休場期間を含む当該年度において降級点の対象外となる。
- 出産・病気以外の理由による「年度単位の休場者」には、年度終了時に降級点0.5がつき、0.5の降級点は2回で降級点1となる(年度単位の休場が累計2年度で降級点1)。
- 出産・病気以外の理由による「年度途中の休場者」は、年度成績の順位下位者に該当した場合、降級点の対象となる。
- 当該年度における年度成績の順位に差がない場合は、前年度の年度成績に遡って順位を決定する。前年度の年度成績でも差がない場合は、そのさらに前年度と1年ずつ遡って順位を確定する。
降級点の消し方
[編集]- 女流1級の昇級規定に該当した場合、降級点を1つ取り消すことができる。ただし、YAMADA女流チャレンジ杯による昇級規定は対象とならない。
- 年度内指し分け以上には、YAMADA女流チャレンジ杯の成績を含まない女流8棋戦[注釈 21]の良い所取りで8勝指し分け以上も対象となる。
- 複数の規定に該当した場合も、年度内に消せる降級点は1つとなる。
(昇段規定における「女流1級昇級条件」に準じる)
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沿革
[編集]女流棋士を取り巻く環境や制度の変遷を中心に記載する。制度の変更は主に日本将棋連盟によるものである。
江戸時代後期、1809年に大橋浪女(おおはし なみ)二段が福島順喜七段と飛車落ちで指した棋譜が残っており、これが女性が指した最も古い棋譜とされている。勝負は、大橋が一手勝ちを収めている[65][注釈 23]。
その後、池田菊女、水野こう女、八丁堀はる、本郷まさなどが女性の棋士として活動し、当時(天保年間)の将棋番付に名を連ねていた。ただし人数は少なく棋力もあまり高くなかったとされる[66][注釈 24]。そのなかでも池田菊女(いけだ きく)は、1839年(天保9年)に14歳の上野房次郎(伊藤宗印十一世名人)と平手で対戦し相矢倉の激闘を制して勝った記録がある。また江戸・山王無量院で1840年(天保11年)に開かれた将棋会の席上対局で、十一代大橋宗桂と飛車落ちで対戦。結果は中盤で指し掛けとなった。明治時代初期の番付では四段位として名を連ねている。彼女はある文献では芝神明前のあやしき女として登場しているというが、江戸・芝の銘酒業の娘で、華道や茶道を教えていた人物であったとされる。
明治以降、その後の棋士制度発足後も、将棋関係者の間でも、将棋は緊張感と速さで勝負が厳しすぎて女性には向かないという意見が圧倒的に多く、将棋連盟も長年、女性への普及に関しては極めて消極的だった[67]。
1960-70年代
[編集]1961年蛸島彰子が奨励会に7級で入会し、史上初の女性奨励会員となり、かつ唯一の女性として1966年まで在籍した[68][注釈 26]。
-1968年[注釈 27])が日本将棋連盟主催で創設[67]。
- 女性のみを対象とした初めての棋戦である女流名人戦(現・女流アマ名人戦1974年[5]。
9月 - 連盟棋士会における満場一致の決議により、女流棋士制度が正式に発足1974年10月 - 10月31日付で蛸島彰子をはじめとする6名が女流棋士1期生として登録。同日、初の女流プロ公式戦として、報知新聞が主催する「女流プロ名人位戦」(現・女流名人戦)が創設[6][注釈 28][注釈 29]。
1978年女流王将戦」創設。
5月 - 2つ目の女流タイトル戦「1980-90年代
[編集]1981年中井広恵が当時の最年少記録となる11歳10か月[注釈 30]で女流棋士となる。
4月 - 小学生の1982年林葉直子が、第4期女流王将戦で史上最年少の14歳3か月で女流タイトルを獲得。
4月 - 中学生の1984年[74]。
3月 - 女流棋士発足十五周年記念パーティー開催 4月 - 女流棋士の育成機関として1989年10月 - 3つ目の女流タイトル戦「女流王位戦」創設。
1989年11月 - 女流棋士会発足、蛸島彰子が初代会長に就任。
1991年林葉直子による女流王将10連覇〔当時の同一女流タイトル連覇記録〕の達成を機に、女流棋戦でクイーン称号が設けられる。
4月 -1993年大山名人杯倉敷藤花戦」創設。
7月 - 4つ目の女流タイトル戦「1993年10月 - 石橋幸緒が女流棋士になるに当たり、史上初の女性師匠として清水市代が選ばれる。
1993年12月 - 中井広恵が第7期竜王戦で池田修一に勝利し、女流棋士の対男性棋士初勝利(12月9日)。
- 6月から7月にかけて林葉直子の1996年清水市代が史上初の女流四冠独占(女流名人・女流王将・女流王位・倉敷藤花)
7月 -1998年[76])。
4月 - 連盟の棋士総会で女流棋士による奨励会との重籍が禁止とされた(2011年からは再び解禁1998年10月 - 小学生の藤田綾が史上最年少の11歳6か月で女流棋士になる。
2000年代
[編集]2000年10月 - 清水市代が史上初の女流六段に昇段。女流六段以上は勝数ではなく理事会の審議によって昇段が可能となる。
2003年中井広恵が史上初の女流通算400勝を達成。
9月 -2003年10月 - 中井広恵が第53回NHK杯テレビ将棋トーナメント本戦2回戦で青野照市九段を破り、女流棋士の対A級棋士初勝利(ベスト16)。
2003年10月 - 奨励会を2級以上で退会した女性が、そのままの段位で女流棋士に編入できる規定が設けられた[43][78][注釈 34]。
2007年日本女子プロ将棋協会(LPSA)」が設立(5月30日)。代表理事に中井広恵、相談役に蛸島彰子が就任。
5月 - 日本将棋連盟を退会した女流棋士17名によって「2007年10月 - 5つ目の女流タイトル戦「マイナビ女子オープン」を開始(「レディースオープントーナメント」からの発展)。
2009年女流育成会から研修会(男女混合)に移行し、研修会で一定のランクに昇級した者が女流棋士になれる制度になった[79]。
4月 - 日本将棋連盟にて、女流棋士育成の機能が2009年棋士会が創設され、女流棋士会は棋士会の中の組織となる。
4月 - 日本将棋連盟にて、棋士・女流棋士の両方を含む新たな2009年北尾まどかが2009年6月1日付でLPSAを退会し、初の「フリー女流棋士」の立場で現役継続[注釈 35]。
6月 -2009年
9月 - 中井広恵が史上初の女流通算500勝を達成。2010年代
[編集]2011年リコー杯女流王座戦」が開始。
3月 - 6つ目の女流タイトル戦「2011年[35]。
4月 - 日本将棋連盟の公益社団法人化に伴い、女流四段以上またはタイトル獲得経験のある日本将棋連盟所属の女流棋士9名が正会員となる2011年里見香奈が女流棋士から初の奨励会編入試験に合格(1級)。1998年から奨励会員と女流棋士の重籍は禁止されていたが、以降は女流棋士の奨励会への入会と、女性奨励会員の女流棋戦参加が解禁される[15][注釈 36]。
5月 - 女流三冠の2011年10月 - 加藤桃子が、女流棋士でない出場者(女性奨励会員)として初の女流棋戦タイトル獲得(第1期女流王座戦)。
2012年LPSAが渡部愛を独自の規定によって女流3級と認定したことに端を発し、日本将棋連盟、棋戦主催社、LPSAの間で深刻な問題が発生。その後、2014年6月に連盟とLPSAの間で和解が成立。
7月 -2013年
5月 - 里見香奈が史上初の女流五冠を達成。2013年10月 - 渡部愛の問題の解決策として、女流公式戦で顕著な実績を挙げたアマチュア女性が、研修会・奨励会を経ずに女流棋士になれる規定が設けられた[80]。
2013年12月 - 里見香奈が女性初の奨励会三段に昇段。体調不良による休場が明けた2015年10月から女性初の三段リーグ参戦。
2014年中井広恵が2014年1月23日付でLPSAを退会し、史上2人目の「フリー女流棋士」の立場で現役継続(初のフリー棋士となった北尾まどかは2011年に日本将棋連盟に再入会しているため、唯一のフリー棋士となる)。
1月 -2015年中井広恵が史上初の女流通算600勝を達成(フリー棋士なので日本将棋連盟が授ける将棋栄誉賞の受賞対象外)。
9月 -2016年11月 - 清水市代が女流通算600勝を達成し、女性初の将棋栄誉賞を受賞。
2017年ポーランド人のカロリーナ・ステチェンスカが女流2級となり、棋士・女流棋士を通じて将棋界初の日本国籍を有さないプロとなった[注釈 37]。
2月 -2017年[37]。
5月 - 清水市代が日本将棋連盟常務理事に就任して、史上初の女性常勤理事となった2019年清麗戦」開始。創設時最高賞金額となる(2020年以降は序列2位)。
1月 - 7つ目の女流タイトル戦「2019年[19]。
8月 - 女性が四段以上の棋士になった場合、本人が望めば棋士と女流棋士を兼業できる規定が設けられた(公式棋戦と女流棋戦の両方に出場できる)2019年
9月 - 里見香奈が史上初の女流六冠を達成。2020年代
[編集]2020年西山朋佳が奨励会三段リーグで次点(リーグ3位、1位2位と同成績の14勝4敗。成績順、勝敗ともに女性歴代最高成績)[注釈 38]。
3月 -2020年清水市代が、理事会の審議によって史上初の女流七段に昇段。
4月 -2020年11月 - 8つ目の女流タイトル戦[注釈 39]「白玲戦・女流順位戦」開始。最高賞金額の女流棋戦序列1位となる。
2021年中井広恵が史上初の女流通算700勝を達成。
9月 -2021年10月 - 女流棋士昇段・昇級規定の改定。勝数規定の基準を一律に10勝引き上げ[81][注釈 40]。
2022年里見香奈が第48期棋王戦で女性初の本戦進出〈タイトル戦〉(1回戦敗退)。
8月 -2022年10月 - 里見香奈が女流棋士として初めて「棋士編入試験」を受験(同年8月-10月、0勝3敗で不合格)。
6月・同年12月 - 女流棋士発足50周年パーティが東西で開催(東京6月、関西12月)2022年棋士編入試験」を受験(同年9月-翌年1月)。
9月 - 西山朋佳が女流棋士として2例目の「2024年10月 - 福間香奈が妊娠中の体調不良により、女流タイトル戦初の不戦敗(番勝負計4局の不戦敗、挑戦タイトル2棋戦を敗退)[注釈 42]。
女流棋士の記録
[編集]女流タイトル戦に関連する記録は棋戦 (将棋)#記録を参照。
年少・年長記録
[編集]年少女流棋士
[編集]2024年現在、12歳以下で女流プロ入りを果たした者は以下の7名である[注釈 43]。中井と藤田は小学6年でのプロ入り、林葉と上田と岩崎は中学入学と同時のプロ入りである。
- 藤田綾(1998年、11歳6か月・歴代最年少プロ入り)
- 中井広恵(1981年、11歳9か月)
- 林葉直子(1980年、12歳2か月)
- 上田初美(2001年、12歳4か月)
- 里見香奈(2004年、12歳6か月)
- 岩崎夏子(2024年、12歳8か月)
- 石橋幸緒(1993年、12歳10か月)
年長女流棋士
[編集]2024年現在、65歳を過ぎて現役女流棋士だった者は以下の3名である。いずれも現在は女流六段に昇段している。
年度成績 上位記録
[編集](2023年3月31日まで)[83]
- 対局数
- 勝数
- 勝率
- 1位:清水市代 - 勝率0.8965(26勝 3敗、1993年度)
- 2位:里見香奈 - 勝率0.8571(24勝 4敗、2015年度)
- 3位:清水市代 - 勝率0.8529(29勝 5敗、1994年度)
- 連勝数
通算成績 上位記録
[編集](2024年3月31日、2023年度終了時点)[84]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 囲碁界(日本棋院・関西棋院)においては、男女の区別がない「棋士の制度」のみが存在し、囲碁界で用いられる「女流棋士」という言葉は、制度の違いを表すものではなく、「女性である棋士」を表すものに過ぎない。ただし、囲碁界での棋士の採用については、人気の高い女性棋士を増やして囲碁の普及に資するため、棋士採用枠とは別に、女性のみを対象とした女性棋士採用枠が設けられている[2]。棋士採用枠で女性が棋士に採用されることも可能ではあるが、有望な女性棋士は女性棋士採用で早々にプロ入りしてしまうため、正棋士としての採用は2004年の謝依旻(棋士採用枠で採用された女性では4人目[3])が最後である(2024年現在)[2]。
- ^ 例外として花村元司は1944年に、瀬川晶司は2005年に、いずれも制度によらない特例措置により、奨励会を経ずに棋士になった。日本将棋連盟は2006年に「プロ編入試験(現・棋士編入試験)」を制度化し、アマチュア(男女を問わない)・女流棋士が、奨励会を経ずに棋士になる道を正式に設けた[12]。男性アマの今泉健司は2014年にプロ編入試験に合格し、2015年4月1日付で棋士になっている[13]。
- ^ ただし、すでに兼業していた矢内と碓井は特例として引き続き在籍が認められた。
- ^ a b 日本将棋連盟は、2019年10月から、従来の「プロ編入試験」の名称を「棋士編入試験」に変更した[18]。名称変更は、アマチュアに加えて女流棋士も受験することが想定されることを考慮したもの[18]。試験の名称を変更した以外は従来と同じ[18]。
- ^ 女流棋士の男性棋戦での初勝利は、1993年12月9日、中井広恵 対 池田修一六段戦(第7期竜王戦6組)[23]。この時点まで女流棋士は男性棋戦で38連敗であった[23]。
- ^ 2005年時点の状況は次のとおりであった[31]。給料はなく、国民年金と国民健康保険は全額自己負担であり、「日本将棋連盟のアルバイト」の待遇であった[31]。女流棋士が連盟から受け取れるのは女流公式戦の対局料のみで、女流棋士の平均額は年間100万円程度であり、清水市代が女流4タイトル独占(1996年度・1998年度、当時の女流タイトルは4つ)を果たした時に年間1千万円を超えた例があるのみであった[31]。仮に1勝もできなければ、対局料は年間15万円程度に過ぎなかった[31]。人気女流棋士は対局料以外の収入(イベント出演・アマチュアへの指導など)で補うことができたものの、コンビニエンスストアでアルバイトをして糊口を凌ぐ女流棋士も存在した[31]。
- ^ 2011年度に日本将棋連盟が公益法人に移行するまで、男性棋士は一般企業の社員のような待遇を受けており、月給と年2回の賞与が支給され、厚生年金・社会保険も完備していた[32]。2017年現在、男性棋士の平均年収は500万円 ‐ 700万円とされる[33]。
- ^ 2010年11月12日時点での該当者は、甲斐智美、里見香奈、清水市代、関根紀代子、長沢千和子、斎田晴子、矢内理絵子、千葉涼子、および引退女流棋士の谷川治恵の計9名。
- ^ 女流プロ入り前(奨励会員、アマチュア)のタイトル獲得歴は対象外。タイトルを保持して連盟へ女流プロ入り後に番勝負で防衛した場合はタイトル獲得者として扱われ、正会員となる。
- ^ LPSAについては2007発足当初は、日レス杯または天河戦で優勝1回ないし準優勝2回、あるいは1dayトーナメントの個人戦で優勝3回など独自の棋士規程を定めていたが2014年以降の二度の改定により、女流棋士になるための条件は連盟のものとほぼ同一となった。ただし、完全に同一ではなくLPSAについては「師匠の有無を不問とする」、およびアマチュアから女流2級でプロ入りする際の年齢制限が「満40歳未満」の部分が連盟と違う。
- ^ この制度を利用して女流棋士になったのは礒谷真帆(2018年11月)[42]、野原未蘭(2020年9月)。
- ^ この制度を利用して女流棋士になったのは岩根忍(奨励会1級→女流1級、2004年4月1日)、伊藤沙恵(奨励会1級→女流初段(奨励会時代に女流棋士の昇段級規定の「女流初段」に該当する実績を挙げていたため)、2014年10月1日)、加藤桃子(奨励会初段→女流三段(奨励会時代にタイトル8期獲得の実績を考慮されたため)、2019年4月1日)、西山朋佳(奨励会三段→女流三段、2021年4月1日)、今井絢(奨励会1級→女流1級、2023年2月1日)、中七海(奨励会三段→女流三段、2024年11月1日)の6名。
- ^ 1989年までは女流3級(仮会員)となり、年度指し分けなど規定の成績を上げると女流2級になった。
- ^ なお、女流3級となる以前にアマチュア扱いで参加した女流棋戦において「女流棋士の昇段級規定の『女流1級』に該当する」成績を上げた場合、女流3級を経験せずに直接女流2級となる。
- ^ LPSAにおいては、2014年5月の棋士規程改定(公益社団法人日本女子プロ将棋協会 棋士規程(2014年5月30日版) 2020年11月18日閲覧 2017年10月21日時点のアーカイブ)により、奨励会を6級以上3級以下で退会した女性奨励会員に女流3級の資格を認めていたが、この制度を利用してLPSA所属の女流棋士となった女性奨励会員はいなかった。
- ^ ただし、申請時点で27歳未満であること、連盟所属の場合は師匠がいること(不在の場合は半年以内に師匠を決めること)、未成年者の場合は親権者または保護者の同意があることが必要。また申請は資格取得から2週間以内に行う必要があった。
- ^ 2009年4月制度変更の当初は「女流棋士仮会員」という名称であったが、同年7月に「女流3級」に名称変更された[50]。
- ^ 2018年6月に経過措置で女流3級になった田中沙紀が最後である[51]。
- ^ 女流3級から女流2級に昇級できなかったのは田中沙紀が唯一の例であるが、田中は女流3級の取り消し後に研修会へ復帰し、規定の成績を挙げたことで女流2級としてのデビューを果たした。
- ^ 2021年11月に日本将棋連盟の棋譜中継アプリでのコメントにおいて明らかにされた、女流順位戦D級における「降級点」のこと。
- ^ a b 公表されている女流棋士引退に関する規定が更新されるまでは「女流6棋戦」と表現されていた。更新により加わった女流棋戦は「白玲戦」と「清麗戦」である。
- ^ 江戸時代に「棋士」という呼び方は存在しないが、便宜上用いた。
- ^ 大橋は、飛車落ちの手合いながら、当時の強豪棋士だった福島に102手での勝利[65]。大橋の具体的な活動は不明であるが、大橋という名字、女性ながら二段を名乗っていることなどから、女性の棋士[注釈 22]として活動していたとされる[65]。
- ^ しかし、明治から昭和中期までの期間、賭け将棋が横行したことなどが影響し、将棋を指す女性は激減[66]。
- ^ 1966年に奨励会を退会すると同時に初段になった蛸島彰子について[69]、スポーツ報知は「(19)67年に初の女流棋士になった」としており[70]、日本将棋連盟の機関誌『将棋世界』2018年9月号に掲載された蛸島のインタビュー記事に記載された蛸島の経歴には「(19)67年、女流二段」とある[68]。
- ^ 同じ1961年に将棋会館が中野から千駄ヶ谷の敷地に移転、2階建ての将棋会館が落成され、将棋道場が作られる[67]。同年から道場内で日本将棋連盟の女性教室が始まり、蛸島は1966年の奨励会退会後は初段[注釈 25]としてその教室の講師を務めるなど唯一の女性プロ(レッスンプロ)として活動)。
- ^ 開始時点では、プロもアマもない状態なので、単に『女流名人戦』として開催されていた。後に開始される女流プロ名人位戦は当棋戦と区別するために『プロ』とつけられた経緯がある。その後1989年に正式に女流アマ名人戦に改称。
- ^ 日本将棋連盟は、女流名人位戦が創設された1974年に女流棋士が発足したとしており、1974年を起算年として、5年おきに[71]「周年パーティー[72]」が日本将棋連盟女流棋士会によって開催されている[7][73]。
- ^ 女流棋士による史上初の公式戦である第1期プロ女流名人位戦の予選、寺下紀子女流初段 - 村山幸子女流初段の対局が、東京・将棋会館で行われた。なお、第1期は蛸島が別格とされ、その他の女流棋士5人でトーナメントが行われ、勝ち上がった寺下紀子と蛸島の三番勝負の結果、蛸島彰子が初代女流名人に輝いた。
- ^ のちに藤田綾が11歳6か月で更新
- ^ それまではアマチュア女流棋戦の実績と棋士の推薦で女流棋士に認定されていた。
- ^ 林葉はこの影響もあり、翌1995年に日本将棋連盟を退会した。
- ^
- ^ 奨励会退会者(2級以上に在籍)による女流棋士編入規定が初めて適用された女流棋士は、2004年4月に女流1級で女流棋士となった岩根忍。岩根は奨励会を1級で退会している。
- ^ なお、北尾は2011年4月に日本将棋連盟に復帰している。
- ^ この時点の対象棋戦は、参加資格を女流棋士に限定していないリコー杯女流王座戦とマイナビ女子オープンのみ。
- ^ インターネット将棋対戦サイトで実力をつけた後、女流棋士を目指し、来日して研修会に入会していた。
- ^ 奨励会三段リーグで次点獲得した西山朋佳は、1年後に2021年3月を以って奨励会を自主退会(年齢制限前)し、翌4月より女流棋士に転向した。
- ^ 棋士タイトル戦も8棋戦であり、女流タイトル戦も同数の8棋戦となった。
- ^ 「清麗戦」「白玲戦・女流順位戦」の創設により年間対局数が増加することに対応した措置。「2敗失格制」の清麗戦では2局以上、リーグ戦形式の女流順位戦では8-9局の対局数増加となることから、2021年9月30日時点での昇段級までの「残り勝数」に対し、同年10月1日付で一律10勝を加算した。
- ^ 女流棋士発足50周年パーティは日本将棋連盟、日本女子プロ将棋協会の女流棋士らで作る女流棋士発足50周年記念実行委員会の主催で開催された。
- ^ 里見香奈が敗退した2棋戦は第4期白玲戦(2勝4敗、うち不戦敗2)および第46期女流王将戦(1勝2敗、うち不戦敗2)。このほかに、同時期に女流タイトル防衛戦となる第14期女流王座戦は、福間の産休を挟んでの五番勝負日程に、第32期倉敷藤花戦および第51期女流名人戦の2棋戦は産休後に延期する形で日程変更された。
- ^ 前述の通り1998年から2011年まで女流棋士と奨励会員の重複が禁止されていたが、当時の棋力の高い女子の中には女流プロ入りを回避し奨励会入りを選択する者も見られた。年少者では伊藤沙恵が10歳11か月、加藤桃子が11歳6か月で奨励会6級に入会し、いずれも奨励会を退会後に女流棋士としてプロ入りしている。
- ^ 女流通算600勝達成した時点で中井広恵は日本将棋連盟に所属していないため、連盟の「将棋栄誉賞」受賞対象にはなっていない。
出典
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- ^ 2016年10月以降の日本将棋連盟のプロフィールページでは、女流3級の者には仮の番号(6000番台)を暫定的に割当していた(6001番:カロリーナ・ステチェンスカ、6002番:武富礼衣、6003番:藤井奈々、6004番:小高佐季子、6005番:加藤圭、6006番:加藤結李愛、6007番:田中沙紀)[59]。
- ^ 中井広恵は両方の組織に所属経験があるフリー女流棋士で、所属時には「旧番号(17番)」「LPSA番号(7番)」がそれぞれ割当てられていたが、フリーの立場である現時点においてはこれらの「番号」を用いず「番号なし」である。北尾まどかの場合、両方の組織に所属した後にフリー女流棋士となり、その後に日本将棋連盟に再度所属したため、「旧番号(49番)」→「LPSA番号(17番)」→(番号なし)→「女流棋士番号(43番)」という「3つの番号(4つの状態)」を経験している
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参考文献
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- 古田靖『瀬川晶司はなぜプロ棋士になれたのか』河出書房新社、2006年。