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下書き
[編集]- 利用者:うら/sandbox/test - 京都市立松原中学校/京都市立教業小学校(教業学区)/京都市立龍池小学校(龍池学区)/京都市立富有小学校(富有学区)/京都市立城巽中学校(城巽学区)/京都市立梅屋小学校(梅屋学区)/京都市立竹間小学校(竹間学区)/京都市立初音中学校/京都市立元町小学校/京都市立紫明小学校/京都市立朱雀第七小学校/京都市立朱雀第三小学校/京都市立朱雀第一小学校/京都市立朱雀第八小学校/京都市立朱雀第四小学校/京都市立朱雀第六小学校/京都市立朱雀第二小学校/京都市立春日小学校/京都市立朱雀中学校/京都市立第三錦林小学校/京都市立近衛中学校/京都市立大宮小学校/京都市立待鳳小学校/京都市立柳池中学校/京都市立立誠小学校/京都市立銅駝中学校/京都市立仁和小学校/京都市立正親小学校/京都市立翔鸞小学校/京都市立乾隆小学校/京都市立御所東小学校/京都市立京極小学校/京都市立待賢小学校/京都市立出水小学校/京都市立桃薗小学校/京都市立嘉楽中学校/京都市立滋野中学校/京都市立中立小学校/京都市立小川小学校/京都市立室町小学校/京都市立聚楽小学校/京都市立成逸小学校
- 利用者:うら/sandbox/test2 - 町・字
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- 利用者:うら/sandbox/test4 - 壬生 (京都市)/西ノ京 (京都市)/鴨川 (淀川水系)#鴨川つけかえ説
- 利用者:うら/sandbox/test5 - 京都の元学区
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- 利用者:うら/sandbox/test7 - 北野 (京都市)/聚楽廻/朱雀野村/錦林学区
- 利用者:うら/sandbox/test8 - 天神通/洛中
- 利用者:うら/sandbox/test9 - 廬山寺通
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丹波帯
[編集]丹波層群を基盤とする地域は地質学(地体構造)では丹波帯(たんばたい)と呼ばれ、西南日本内帯に属し[1]、東に続く美濃帯と合わせ、美濃-丹波帯と分類されることもある[2]。
- 京都府 編『京都府レッドデータブック2015』。
- 『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館。
疏水
[編集]疏水は、灌漑、上水道、水運(舟運)、発電など利水のために土地を切り開いて作った人工の水路[3][4]。
「疏」が当用漢字の表外字であったため、同音の漢字による書きかえの対象として「疎水」として置き換えられたもの。
- 灌漑(カンガイ)・給水・舟運・発電などのために切り開いた水路。
- 灌漑 [かんがい] ,水運,発電などのために土地を切り開いて作った人工水路。
- ^ 『京都府レッドデータブック2015』, 「地質の概要」.
- ^ 『日本大百科全書(ニッポニカ)』, 「美濃‐丹波帯」.
- ^ 「そすい「疎水・疏水」」『大辞林 CD-ROM版 : EPWING』三省堂、1993年。ISBN 4-385-61200-5。
- ^ 「疎 (疏) 水[そすい]」『マイペディア PC Success版』日立デジタル平凡社、1999年。
- 「そすい「疎水・疏水」」『大辞林 CD-ROM版 : EPWING』三省堂、1993年。ISBN 4-385-61200-5。
- 「疎 (疏) 水[そすい]」『マイペディア PC Success版』日立デジタル平凡社、1999年。
日本歴史地理用語辞典
[編集]sideNo = pp/2+12
- 『日本歴史地理用語辞典』 (1981), p. 8, 「あざ(字)」(桑原公徳執筆)
- 『日本歴史地理用語辞典』 (1981), p. 1, 「あいきゅう(相給)」(大石学執筆)
- 『日本歴史地理用語辞典』 (1981), pp. 457–458, 「はんせいそん(藩政村)」(野崎清孝執筆)
- 『日本歴史地理用語辞典』 (1981), p. 528, 「むらぎり(村切)」(岡井毅芳執筆)
- 藤岡謙二郎・山崎謹哉・足利健亮 編『日本歴史地理用語辞典』柏書房、1981年。doi:10.11501/12188775。
高等小学校
[編集]京都市第一高等小学校
[編集]- (京都市立上京中学校)
- 1887年 (明治20年)7月1日 - 上京区高等小学校 設立。上京区(当時)を通学区域とする[1]。(同日、下京区(当時)を通学区域とする下京区高等小学校創立[2]。)
- 1889年 (明治22年)7月1日 -
京都市制により上京高等小学校に改称
- 1892年(明治25年)4月1日 - 京都市上京区中立売通室町西入三丁目に新築移転。
- 1897年 (明治30年)4月1日 - 第三高等小学校新設に伴い、京都市第一高等小学校と改称
- 1908年(明治41年)- 京都府女子師範学校の代用附属となる。
- 1941年(昭和16年)4月 - 国民学校令施行により、高等科のみの国民学校となり上京国民学校に改称
- 1947年 (昭和22年)
- 4月25日 - 学制改革により京都市立上京中学校が新制中学校として設立
- 5月5日 - 開校式 挙行
京都市第二高等小学校
[編集]- (京都市立二条高等女学校・京都市立成徳中学校・京都市立成徳小学校)
- 1887年 (明治20年)7月1日 - 下京区高等小学校創立。下京区(当時)を通学区域とする[2]。
- 1889年 (明治22年)7月1日 - 京都市制により下京高等小学校に改称
- 1892年(明治25年) - 下京区高辻通室町西入繁昌町に下京高等小学校が新築移転。
- 1897年 (明治30年)4月1日 - 下京高等小学校が第三高等小学校新設に伴い、第二高等小学校に改称。
- 明治41年4月 - 義務教育年限延長に伴い、修業年度を2か年とする。
- 1922年(大正11年)4月 - 第二高等小学校の校舎を利用して京都市立第二高等女学校が開校[3]。
- 1925年(大正14年)5月 - 京都市立第二高等女学校の移転が決まる[4]。
- 1926年(大正15年)3月 - 第二高等小学校閉校[5][6]。
- 1928年(昭和3年)4月 - 第二高等女学校が京都市立二条高等女学校に改称[7]。千本通二条下る東入主税町に移転[8]。(旧第二高等女学校・第二高等小学校地は、その後1930年(昭和5年)に成徳学区が取得し、翌1931年(昭和6年)に成徳小学校が室町通綾小路下る白楽天町から移転した[9]。)
年表
[編集]- 1892年(明治25年) - 下京区高辻通室町西入繁昌町に下京高等小学校が新築移転[2][注釈 1]。
- 1897年(明治30年)4月1日 - 下京高等小学校が第三高等小学校新設に伴い、第二高等小学校に改称。
- 1922年(大正11年)4月 - 第二高等小学校の校舎を利用して京都市立第二高等女学校が開校[3]。
- 1926年(大正15年)3月 - 第二高等小学校閉校[10][6]
- 1928年(昭和3年)4月 - 京都市立第二高等女学校が京都市立二条高等女学校に改称[7]。千本通二条下る東入主税町に移転[8][注釈 2]。
- 1947年(昭和22年)
- 1948年(昭和23年)
京都市第三高等小学校
[編集]- (京都市立洛東中学校)
- 1897年(明治30年)4月 - 第三高等小学校として開校[5]。
- 1912年(明治45年)4月 - 周辺校に高等科が設置されたことにより、廃校[5]。
- 1917年(大正6年)4月 - 第三高等小学校として再び開校[5]。
- 1941年(昭和16年)4月 - 国民学校令施行により、東山国民学校(高等科)に改称。
- 1947年(昭和22年)4月 - 学制改革により新制中学校に改組。
- 1947年(昭和22年)5月 - 京都市立洛東中学校として開校。
京都市第四高等小学校
[編集]- (京都市立第二商業学校)
- 1899年(明治32年)3月 - 第四高等小学校が五辻通浄福寺西入一色町に設立される[10][12]。
- 1910年(明治43年)
- 3月31日 - 第四高等小学校閉校。
- 5月28日 - 第四高等小学校跡地(五辻通浄福寺西入一色町)に、京都市立第二商業学校が開校[13]。
- 1917年(大正6年)3月 - 京都市立第二商業学校が、西ノ京中保町に移転[14]。
- 1947年(昭和22年)5月5日 - 学制改革により付設された新制中学校の開校式が行われる[15]。
- 1948年(昭和23年)
- 4月 - 京都市立第二商業学校の校地校舎により京都市立北野中学校が創立する[15]。京都市立第二商業学校の校名が京都市立西陣商業高等学校となる。
- 10月 - 閉校(京都市立西京高等学校に統合)。
京都市第五高等小学校
[編集]- (富小路殿公園)
- 1901年(明治34年)- 京都市第五高等小学校が富小路二条上るに開校[5]
- 1908年(明治41年)
- 1936年(昭和11年)4月 - 京都市立商業実修学校が右京区西院馬場町へ移転[17][18]。
京都市第六高等小学校
[編集]出典
[編集]- ^ 『京都小学五十年誌』 (1918), pp. 151–152, 「第一高等小学校」.
- ^ a b c 『京都小学五十年誌』 (1918), pp. 153–154, 「第二高等小学校」.
- ^ a b 『京都府百年の年表 5 (教育編)』 (1970), p. 164, 「大11(1922)年」.
- ^ 『京都府百年の年表 5 (教育編)』 (1970), p. 170, 「大14(1925)年」.
- ^ a b c d e f g 『京都市学区大観』 (1937), pp. 170–171, 「第一高等小学校・第三高等小学校」
- ^ a b 『京都府百年の年表 5 (教育編)』 (1970), p. 172, 「大15・昭和1(1926)年」.
- ^ a b 『京都府百年の年表 5 (教育編)』 (1970), p. 176, 「昭和3(1928)年」.
- ^ a b 『京都市学区大観』 (1937), p. 190, 「市立第二高等女学校」.
- ^ a b 『京都市学区大観』 (1937), pp. 82–83, 「下京区成徳学区」.
- ^ a b 『京都市学区大観』 (1937), pp. 170–171, 「第一高等小学校・第三高等小学校」.
- ^ a b 『京都市立学校園沿革史』 (1981), p. 225, 「京都市立二条中学校」.
- ^ 『京都府百年の年表 5 (教育編)』 (1970), p. 118, 「明32(1899)年」.
- ^ 『京都府百年の年表 5 (教育編)』 (1970), p. 136, 「明43(1910)年」.
- ^ 『京都府百年の年表 5 (教育編)』 (1970), p. 154, 「大6(1917)年」.
- ^ a b 『京都市立学校園沿革史』 (1981), p. 227, 「京都市立北野中学校」.
- ^ a b c d 『京都府百年の年表 5 (教育編)』 (1970), p. 136, 「明41(1908)年」.
- ^ 『京都府百年の年表 5 (教育編)』 (1970), p. 192, 「昭11(1936)年」.
- ^ “NA110 京都市立商業実修学校跡”. www2.city.kyoto.lg.jp. 2024年1月9日閲覧。
- ^ 『京都府百年の年表 5 (教育編)』 (1970), p. 124, 「明35(1902)年」.
- ^ 「京都市立松原中学校」『京都市立学校園沿革史 2001』京都報道センター、2001年、229頁。
- ^ 『京都市学区大観』 (1937), p. 211, 「市立松原商務学校」
- ^ 『京都市立学校園沿革史』 (1981), p. 233, 「京都市立松原中学校」
- ^ “京都市立小学校の変遷”. 京都市学校歴史博物館. 2024年1月27日閲覧。
参考文献
[編集]- 『京都市学区大観』京都市学区調査会、1937年。doi:10.11501/1440637。
- 京都府立総合資料館 編『京都府百年の年表 5 (教育編)』京都府、1970年。doi:10.11501/9537074。
- 京都市 編『京都小学五十年誌』京都市、1918年。doi:10.11501/939394。
- 『京都市立学校園沿革史』京都報道センター、1981年。doi:10.11501/12111830。
下書き
[編集]- 京都市立第二錦林小学校(1948年閉校。校地校舎を新制中学校の近衛中に転用)[1]
- 京都市立滋野小学校(1948年閉校。校地校舎を新制中学校の滋野中に転用)[1]
- 京都市立郁文小学校(1948年閉校。校地校舎を新制中学校の郁文中に転用)[1]
- 京都市立成徳小学校(1948年閉校。校地校舎を新制中学校の成徳中に転用)[1]
- 京都市立皆山小学校(1948年閉校。校地校舎を新制中学校の皆山中に転用)[1]
- 京都市立九条小学校(1948年閉校。校地校舎を新制中学校の九条中に転用)[1]
- 京都市立西院第二小学校(1948年閉校。校地校舎を新制中学校の西院中に転用)[1]
- 京都市立銅駝小学校(1948年閉校。校地校舎を新制中学校の銅駝中に転用)[1]
- 京都市立弥栄小学校(1948年閉校。校地校舎を新制中学校の弥栄中に転用)[1]
智恵光院通では、1945年3月から行われた第3次建物疎開において消防空地(消防活動用の道路)として寺之内通から丸太町通の間で拡幅が行われた[2]。 笹屋町通以北では通りの東側の家屋を、以南では西側の家屋を取り壊して道路を拡幅した[3]。 また、下長者町通北東角にある辰巳公園には、1945年6月26日の「西陣空襲」を記録する碑が建てられている[4] [5]。
市電(京都電気鉄道関連)
[編集]明治31年(1898年)12月16日 - 出町線工事着工[6] 終点の出町(出町橋西詰)から、賀茂川と高野川を渡り、三宅八幡神社付近までの三宅線が計画されていたが、着工されず、1916年(大正5年)に三宅線敷設中止の報告がなされた[6]。
『出町線一部撤去申請書』(大正13年7月)の「出町線平面図」では、河原町今出川以北の現在の河原町通には、「出町通」との名称が付されている[6]。
昭和2年に営業を開始(再開)した東洞院線と新高倉線は、東洞院線が南行専用、新高倉線が北行専用となっていた[7]。
- 『こんにちは京都市電:「京都市電関係資料」をひもとく』 第35集、京都市文化市民局文化芸術都市推進室文化財保護課〈京都市文化財ブックス〉、2022年。
大字[8]
平安宮北辺拡大説
[編集]平安京北端の南側2町分については「北辺(北辺坊)」と呼ばれているが、平安京北端の街路は当初設計では現在の土御門大路の位置にあたり、後に北へ2町拡張し、現在の一条大路の位置に造られたという説がある。
この北辺の拡張については、瀧浪貞子の説[9]がもとになっている。 中山忠親の日記『山槐記』に、昔は土御門大路が宮城(大内裏)の北側に接して一条大路と呼ばれ、後に北辺の二町分(約200メートル)を取り込んで宮城を拡張した結果、この大路が一条大路と呼ばれるようになった[注釈 3]、という記載がある。このことに基づき、平安京は藤原京と同じく当初は大内裏の北側に空地(北辺)をもつ構造であって、元々12門であった大内裏が平安京造営後に2町分北に広げられ14門となり、平安京北端とされる「北京極大路」が一条大路に、元の一条大路(拡張前の大内裏北端)が土御門大路となったとするのが瀧浪説である。さらには冒頭のように平安京全体が北に拡張されたとする説[10]も唱えられている。
これらの説に基づけば、指図に残る平安京は変更後の姿ということになり、北辺まで大内裏が拡張された時期はおよそ9世紀後半と推定されるが[11]、論拠のもとになった『山槐記』の記載について、この「昔」とは初期の平安京を指すものとは限らず、平安京以前の都城のことを指すのではないかという疑義が示され[12]、さらに「昔」とは、後期造営により宮城が北に拡張することになった初期の長岡京のことを指すのが適切である[13]との批判があり、いまだ仮説の域を脱していない。
京都電気鉄道
[編集]明治42年北野線の複線化、 明治45年東廻り線の複線化、 伏見線についても、勧進橋・棒鼻間に開通した新竹田街道においてそれまでの竹田街道の軌道を移設して複線化し、 大正4年までに出町線を残して全線を複線化 『京都の市電 : 古都に刻んだ80年の軌跡』 (1978), p. 40, 「ライバル・市営電車の開通」。
- 『京都の市電 : 古都に刻んだ80年の軌跡』立風書房、1978年。doi:10.11501/12065078 。(国立国会図書館デジタルコレクション)
大和街道の道筋は、京都府庁より、柳原町に至り、東九条村、竹田村、伏見町及北海老屋、桝形、下板橋、字京町六丁目、同一丁目、観月橋、向島村端詰町より久世郡界に至る『京都府紀伊郡誌』 (1915), p. 16, 「第一節 陸運」。
- 『京都府紀伊郡誌』紀伊郡、1915年 。 (国立国会図書館デジタルコレクション)
- 明治42年3月、京都電気鉄道西廻り線複線化工事竣成。https://dl.ndl.go.jp/pid/9537076/1/82
- 明治43年9月、京都電気鉄道京都・鳥羽街道軌道敷設工事竣成 https://dl.ndl.go.jp/pid/9537076/1/85
- 明治44年
- 御池通西堀川・二条駅間道路改修工事(3月起工、11月竣工。マカダム式による。)
- 4月7日京都電気鉄道勧進橋・稲荷間複線化竣工。4.12開通。
- https://dl.ndl.go.jp/pid/9537076/1/86
- 京都府立総合資料館 編『京都府百年の年表』 7 (建設・交通・通信編)、京都府、1970年。doi:10.11501/9537076。
新寺町通
[編集]新寺町通[注釈 4]京都電気鉄道敷設に伴い、明治27年に五条小橋・上珠数屋町通間が開設[1]。その後、明治34年に七条通まで開設される。後に平居町・七条内浜までは市電河原町線が敷設、また道路は拡幅され河原町通となった。
伏見線改軌
[編集]市電伏見線は、大正9年に改軌工事が始まり、大正10年6月上旬には、した。なお、1920年(大正9年)12月25日に始まった伏見線の狭軌から標準軌への改軌工事の許認可上の運転開始日は1923年(大正12年)6月26日であるが[14]、それに先立つ1921年(大正10年)6月上旬には仮運転され[15]、完成したとされる[16]。
山紫水明
[編集]「山紫」は唐の王勃が春の夕暮を詠んだ詩の一部で、「水明」は杜甫が夏の朝の景をよんだ詩の一部であり、賴山陽はこれらを合わせ「山紫水明」という言葉に表したとする説がある。
- 鈴木康久; 大滝裕一; 平野圭祐『もっと知りたい!水の都 京都』人文書院、2003年2月。ISBN 9784409540640。
- 『1:20,000地形図「京都北部」(明治42年測図 大正元年製版)』大日本帝国陸地測量部、1912年。
- 「東北部」『大正の御即位記念地図 1:10,000地形図「京都近傍図」』大日本帝国陸地測量部、1915年10月10日。
- 今尾恵介 監修『日本鉄道旅行地図帳』 9号「関西2」、新潮社〈新潮「旅」ムック〉、2009年。ISBN 978-4-10-790027-2。
- 町丁
- “大津市町丁名読み方一覧表”. 2024年5月22日閲覧。
参考文献
[編集]京都大事典
[編集]- 『京都大事典』淡交社、1984年。ISBN 4-473-00885-1。
京都の大路小路
[編集]- 千宗室・森谷尅久監修 編『京都の大路小路』小学館、1994年。ISBN 978-4-09387-105-1。
丸太町通の全長は約8.5km[17] 鴨川以東では、熊野神社の境内を東西に貫き明治26年(1893年)に拓かれた[18]
続・京都の大路小路
[編集]上御霊前通の全長は約1.9km[20]。 『続・京都の大路小路』 (1995)
- 千宗室・森谷尅久 編『続・京都の大路小路』小学館、1995年。ISBN 978-4-09387-158-7。
- 杉田博明 著「上御霊前通」、千宗室・森谷尅久 編『続・京都の大路小路』小学館、1995年。ISBN 978-4-09387-158-7。
京都市政史
[編集]- 京都市市政史編さん委員会 編『京都市政史』 第1巻、京都市、2009年3月31日。
- 『京都市政史 第1巻』 (2009), p. 589
- 1943年(昭和18年)10月に京都市電の外周線が完成した[21]。
- 九条通は、1937年(昭和12年)11月までに東福寺から西大路九条までの大部分(油小路通・大宮通間を除く。)が完成した[22]。
- 西大路通は、1936年(昭和11年)11月までに白梅町・円町間を除き、千本北大路から西大路七条までほぼ完成した[22]。
- 北大路通は、1934年(昭和9年)10月までに既設の部分と合わせて、千本北大路から大原街道まで東西に完成した[22]。
- 今出川通は、1931年(昭和6年)9月に最後の未完成部分であった百万遍・河原町通間が開通し、銀閣寺道から千本今出川まで全通した[23]。
- 七条通は、1934(昭和9年)年10月に七条千本から西大路七条が開通し、東山七条から西大路七条まで全通した[23]。
- 千本通・大宮通は、1935(昭和10年)年8月に最後の未完成部分であった七条通・九条通間が開通し、千本大宮から九条大宮まで全通した[23]。
- 『京都市政史 第1巻』 (2009), p. 589
建設行政のあゆみ
[編集]- 建設局小史編さん委員会 編『建設行政のあゆみ -京都市建設局小史-』京都市建設局、1983年3月。
角川日本地名大辞典
[編集]- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 26 京都府』 上巻、角川書店、1982年。ISBN 4-040-01261-5。
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 26 京都府』 下巻、角川書店、1982年。ISBN 4-040-01262-3。
京都市 都市計画街路・道路
[編集]『京都市 都市計画街路・道路』 (2000), p. 186-193, 「第8節 道路路線名一覧」
昭和3年5月24日京都市告示252号による「道路路線名一覧表」により、旧名称「三中東道」から新路線名「馬代通」に改称された『京都市 都市計画街路・道路』 (2000), p. 190, 「第8節 道路路線名一覧」。
昭和3年5月24日京都市告示252号による「道路路線名一覧表」により、旧名称「旧二条通」から新路線名「太子道」に改称された『京都市 都市計画街路・道路』 (2000), p. 192, 「第8節 道路路線名一覧」。
『京都市 都市計画街路・道路』 (2000), p. 156-165, 「第2節 京都市区改正設計路線の街路拡築工事」
『京都都市計画概要』京都市役所(1944年)によれば、河原町通は市区改正設計第5号線として、大正12年に着工され、昭和3年11月に竣工した『京都市 都市計画街路・道路』 (2000), p. 158,163, 「第2節 京都市区改正設計路線の街路拡築工事」。
- 京都市 編『京都市 都市計画街路・道路』2000年。
京都市 地名・町名の沿革
[編集]明治23年(1890年)3月の京都府告示第24号で、「諸官庁へ差出す書面記載の儀は…」によって、明治22年(1889年)4月1日以降に京都市に編入された地域を除く旧市内の所在地について、戸籍簿・登記簿等の公式なものは、この通り名を用いた記載することが定められた。ただし、祇園町南側、祇園町北側、元祇園新地と呼ばれた土地の一帯の宮川町筋、清水一丁目~五丁目、本町一丁目~二十二丁目や、元島原遊郭は通り名を用いず、町名のみで示される。『京都市 地名・町名の沿革』 (1994), p. 95
- 京都市 編『京都市 地名・町名の沿革』1994年。(国立国会図書館サーチ:R100000001-I26211102032436, R100000001-I2611B10552675)
土地制度の沿革
[編集]- 京都市理財局財務部財産管理課 編『土地制度の沿革』京都市、2003年。
京都市町通り名一覧表
[編集]- 京都市文化市民局『京都市町通り名一覧表』京都市、1998年。
国立国会図書館デジタルコレクション収蔵
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- 村上善輔『京都市町名録』1889年。doi:10.11501/991412 。
史料京都の歴史
[編集]- 『史料京都の歴史 第6巻 (北区)』平凡社、1993年。doi:10.11501/9576694。ISBN 4-582-47706-2。
- 『史料京都の歴史 第7巻 (上京区)』平凡社、1980年。doi:10.11501/9574460。ISBN 9784582477078。
- 『史料京都の歴史 第9巻 (中京区)』平凡社、1985年。doi:10.11501/9575674。ISBN 9784582477092。
その他
[編集]- 朝尾直弘 著「『洛中洛外町続』の成立 -京都町触の前提としての-」、京都町触研究会 編『京都町触の研究』岩波書店、1996年。ISBN 4-000-02753-0。
- 高橋康夫「室町期京都の空間構造と社会」『日本史研究』、第436号、日本史研究会、1998年。(桃崎有一郎・山田邦和編著『室町政権の首府構想と京都―室町・北山・東山―』文理閣、2016年。に所収)
- 高橋慎一朗『中世の都市と武士』吉川弘文館、1996年。ISBN 4642027521。
- 三枝暁子 著「西之京の前近代をさぐる」、上杉和央・加藤政洋 編『地図で楽しむ京都の近代』風媒社、2019年、56-61頁。ISBN 978-4-8331-0182-0。
- 高橋康夫「豊臣秀吉の「王都」」『海の「京都」 日本琉球都市史研究』東京大学出版会、2015年、211-251頁。ISBN 978-4-87698-876-1。
- 山田邦和『変貌する中世都市京都』吉川弘文館〈京都の中世史 7〉、2022年。ISBN 978-4-642-06866-6。
- 桃崎有一郎 著、桃崎有一郎・山田邦和 著 編『室町政権の首府構想と京都 ―室町・北山・東山―』文理閣、2016年。ISBN 978-4-89259-798-5。
- 増田潔『京の古道を歩く』光村推古書院、2006年。ISBN 978-4838199372。
- 中村武生『御土居堀ものがたり』京都新聞出版センター、2005年。ISBN 978-4763805669。
- 河内将芳「中世京都「七口」考」『中世京都の民衆と社会』思文閣出版、2000年。ISBN 978-4784210572。
- 川嶋將生; 鎌田道隆『京都町名ものがたり』京都新聞社、1979年。doi:10.11501/9574405 。
- 三枝暁子 著「豊臣秀吉の京都改造と「西京」」、吉田伸之・伊藤毅 編『伝統都市1 イデア』東京大学出版会、2010年、109-130頁。ISBN 978-4-13-025131-0。
- 丸山俊明『京都の町家と町なみ』昭和堂、2007年。ISBN 978-4-8122-0725-3。
- 丸山俊明「古代から近世初頭の京都」『京都の町家と町なみ』昭和堂、2007年、2-29頁。ISBN 978-4-8122-0725-3。
- 日本史研究会 編『豊臣秀吉と京都』文理閣、2001年。ISBN 978-4892593918。
- 中村武生 著「豊臣政権の京都都市改造」、日本史研究会 編『豊臣秀吉と京都』文理閣、2001年、89-112頁。ISBN 978-4892593918。
- 仁木宏 編『都市 【もの】から見る日本史』青木書店、2002年。ISBN 4-250-20238-0。
- 福島克彦 著「「惣構」の展開と御土居」、仁木宏 編『都市 【もの】から見る日本史』青木書店、2002年、73-104頁。ISBN 4-250-20238-0。
- 馬瀬智光「秀吉洛中を構えるー御土居跡ー」『天下人の城』京都市〈京都市文化財ブックス 第31集〉、2017年、50-55頁。
- 京都市考古資料館『8 御土居跡』(pdf)京都市、京都市埋蔵文化財研究所〈~文化財と遺跡を歩く~京都歴史散策マップ〉、2012年 。
- 京都市考古資料館『御土居跡[北半]』(pdf)京都市考古資料館〈遺跡見て歩きマップ〉、2019年 。
- 京都市考古資料館『御土居跡[南半]』(pdf)京都市考古資料館〈遺跡見て歩きマップ〉、2019年 。
- 今尾恵介『住所と地名の大研究』新潮社〈新潮選書〉、2004年。ISBN 4-10-603535-9。
- 楠原佑介、溝手理太郎『地名用語語源辞典』東京堂出版、1983年。doi:10.11501/12191297。ISBN 4-490-10176-7 。
区画整理
[編集]昭和初期に西大路通を中心とする地域で行われた以下の土地区画整理事業区域の概ね西辺に位置し、それぞれの土地区画整理事業により整備された。これらの土地区画整理事業は旧都市計画法の13条認可により施行された[25]。
- 西第二(昭和9年3月事業決定、昭和16年8月換地処分・公共団体施行)
- 西第三(昭和10年6月事業決定、昭和35年3月換地処分・公共団体施行)
- 西第五(昭和13年6月事業決定、昭和35年3月換地処分・公共団体施行)
- 西ノ京北部(昭和3年5月事業決定、昭和25年10月換地処分・組合施行)
- 西第四(昭和10年10月事業決定、昭和42年10月換地処分・公共団体施行)
右京の大路小路
[編集]左京の東西の大路小路と右京での別名は、正親町小路が音町小路、鷹司小路が筑紫町小路、勘解由小路が松井小路、春日小路が木蘭(いちい)小路、大炊御門大路が馬寮(うまつかさ)大路、冷泉小路が経師小路である[26]。
西靱負小路の名は、近年まで行衛通にその名をとどめていたが、現在は天神通にその名が変わっている[26]。 宇多小路は、中京区宇多小路町にその名を遺す[27]。
木辻大路は、左京の東洞院大路に対応する。江戸期から明治期にかけて、葛野郡に木辻村があった。 花園鷹司団地(右京区花園鷹司町)において昭和49~50年に行った発掘調査において、木辻大路東辺の築垣跡、西土御門大路と木辻大路の北東角の側溝などが確認されている[28]。
道祖大路は、南の延長が紀伊郡石原郷佐比里にあたることから佐比大路(さえのおおじ)とも呼ばれ、左京の西洞院大路に相当し、その側を北から南に佐比川が流れていた[26][29]。
佐比川は、平安時代前期からに史料に見えるが、西堀川が埋没する10世紀中期から後半に前後して、道祖大路に掘削された人工河川(道祖川)として10世紀から12世紀までの間存在したことが発掘調査により判明している。この道祖川は、平安時代の中頃には、幅9メートル以上、深さが1.8メートル以上の規模であった。また、道祖川の埋まる頃に前後する11世紀後半以降12世紀までの間には、野寺小路に人工河川(野寺川)が掘削され、およそ14世紀頃埋没した[30]。
1944年に付け替えられた旧天神川は、その余水路と思われる大溝の発掘調査から15世紀代の土師器が出土しており、それ以前の開削と考えられる[31]。
紙屋川を水源とする西堀川は10世紀中頃に大量の土砂の流入により埋没する[32]。
東一条通
[編集]東一条通の鞠小路通以西の幅員の広い区間は、第二次大戦時の建物疎開によるものではなく(建物疎開後の跡地利用が行われた場所を示した図面 [33] に掲載されていない。)、 京都市三大事業における今出川河原町一条線の整備過程において、京都帝国大学から理工科大学物理学教室に設置する電流計による測定の妨げになるという主張を踏まえ、内務省が東山線の丸太町線以北と一条線における電気軌道敷設を許可の対象としなかったこと [34] により、当該区間の電気軌道敷設を行わなかったものの、当該区間における整備計画 [35] の道路拡築の一環として、現在の鞠小路通から川端通までの里道新設 [37] を行ったことによるものであり、 当時の地形図 [38] や地籍図 [39] により、既に大正元年(1912年)には、現在の鞠小路通以東とともに開通していることが確認できる。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i 京都市立中学校校長会・京都市立中学校退職校長会 編『京都市立中学校教育50年』1998年、10頁。なお、城巽、梅逕、初音、柳池、朱雀第五、嘉楽、尚徳については、1943年(昭和18年)に国民学校の初等科を廃して高等科単独の国民学校あるいは青年学校となっている。
- ^ 中西宏次『戦争の中の京都』岩波書店〈岩波ジュニア新書644〉、2009年、94-95頁。ISBN 978-4-00-500644-1。
- ^ 「上京40人超犠牲の空襲から79年 当時の西陣歩いて知る」『京都新聞』2024年7月11日、朝刊。
- ^ 中西 (2009), pp. 152–153.
- ^ “KA129 空爆被災を記録する碑”. 2024年7月14日閲覧。
- ^ a b c 『こんにちは京都市電』 (2022), pp. 28–29, 「出町線平面図をたどる」
- ^ 『こんにちは京都市電』 (2022), p. 14, 「循環軌道新高倉線許可及び認可申請書」.
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編「〔近代〕六地蔵」『角川日本地名大辞典 26 京都府』 上巻、角川書店、1982年、1496頁。ISBN 4-040-01261-5。
- ^ 瀧浪貞子『日本古代宮廷社会の研究』思文閣出版、1991年、330-340頁。
- ^ 桃崎有一郎『平安京はいらなかった』吉川弘文館、2016年。
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- ^ 南孝雄 著「衰退後の右京 十世紀後半から十二世紀の様相」、西山良平・鈴木久男・藤田勝也 編『平安京の地域形成』京都大学学術出版会、2016年、115-147頁。ISBN 978-4-8140-0045-6。特に122-126ページ
- ^ 南孝雄 著「衰退後の右京 十世紀後半から十二世紀の様相」、西山良平・鈴木久男・藤田勝也 編『平安京の地域形成』京都大学学術出版会、2016年、115-147頁。ISBN 978-4-8140-0045-6。特に125ページ
- ^ 南孝雄 著「衰退後の右京 十世紀後半から十二世紀の様相」、西山良平・鈴木久男・藤田勝也 編『平安京の地域形成』京都大学学術出版会、2016年、115-147頁。ISBN 978-4-8140-0045-6。特に123ページ
- ^ 建設局小史編さん委員会 編「別添地図その2 建物疎開跡地利用計画図」『建設行政のあゆみ -京都市建設局小史-』京都市建設局、1983年3月。doi:10.11501/9671879 。
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- ^ 京都市 編「今出川線事項」『京都市三大事業誌 道路拡築編 第4集』京都市、1914年、118頁。doi:10.11501/945961 。
- ^ 「上京区吉田町字腰前五番地先ヨリ西ヘ加茂川ヲ渡リ(中略)ニ至ル新設里道」 [36]
- ^ 1:20,000地形図「京都北部」大日本帝国陸地測量部 (明治42年測図 大正元年製版)
- ^ 京都地籍編纂所 編「(元三十四組ノ内)吉田町ノ内」『京都市及接続町村地籍図 第1』京都地籍編纂所、1912年。doi:10.11501/966157 。