利用者:うら/sandbox/test4
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賀茂川は元々堀川あるいは西洞院川の付近を流れ、都の建設予定地を南北に貫いていたため、堤を築いて平安京を避けるように東へ川筋を変更したのではないか、という『平安通志 巻乃一』(湯本文彦、1895年〈明治28年〉)の推論をもとに、これを支持発展させた自然科学者の塚本常雄が1932年(昭和7年)に提唱した学説である[1]。
現在高野川と合流している地点から上流約3.3 kmと下流2.7 kmの二つの直線状の部分[注釈 1]が、平安京の造成時に人工的に掘削して作られたものとし、おもに地勢・地形学的根拠、地質学的根拠、歴史的根拠の三つの根拠を挙げてつけかえ説を展開した。
すなわち、上賀茂付近の地形から、賀茂川(鴨川上流部)が南東に流路を取っているのは不自然で、もともと賀茂川は北の谷口から扇状地形を形成しつつ南下、分流し堀川・西洞院川付近を流れていたと考えられ、よって上賀茂から高野川との合流地点=出町までは人工河川であるとした。一方高野川については「京都市地質図」を示してそこに現れる出町付近を頂部として南西から南に広がる扇状地に含まれる花崗岩質の砂礫の存在により、現在の出町合流地点からやはり扇状に分流しながら南西から南方向に流れ、新町姉小路付近で北から流れてきた古賀茂川細流と合流していたとし、現在鴨川が出町から南に流路を取っているのは平安京建都のさいに付け替えられたためとした[注釈 2]。つまり塚本の「鴨川つけかえ説」は、出町から上流部の「賀茂川つけかえ」と下流部の「鴨川つけかえ(古高野川つけかえ)」の二つの主張により成り立っている[2]。この説は地質調査や地形観察という科学的根拠を伴っていたため、歴史学者の共感を広く得て、林屋辰三郎『京都』の「賀茂川の前身は北山から真南に向かって、堀川の位置に大きな河幅となって貫流しており」[3]との記載に代表されるような、現在の賀茂川に相当する流れが南下して後の平安京域を南北に貫いて流れていたというイメージを伴って、以後書籍のみならず新聞や観光パンフレットなどで広く引用され、歴史学者たちのこうしたイメージも交えたこの「鴨川つけかえ説」は1980年代までは主流であった[4]。一方で、史書、伝承などで鴨川に関する大工事のあったことが確認されないことから、この説に疑問を呈する史家も少なからずいた[注釈 3]。
こうした「鴨川つけかえ説」を、同志社大学教授(当時)の横山卓雄は地質学の観点から論じて否定した[5]。地下鉄烏丸線の工事のときに烏丸中学校付近を掘削したところ、地下5 mに岩盤が発見された。この地下の岩盤を重力測定を用いて調査したところ、地下山脈が船岡山地下の東から続いていることが判明。塚本説で唱えられた古賀茂川の流れをほぼ直角に横切っているため、この地下山脈を越えて流れていたとは考えられず現在の賀茂川の流れは自然な流れだとした[7]。 一方で、鴨川(高野川)つけかえについては、さまざまのデータをもって、塚本の示した「京都市地質図」は平安京遷都直前の扇状地の地質を示すものでなく「三万年以上前に形成された扇状地」のものであったとし[8]、「塚本による鴨川つけかえ説は彼の集めたデータがすべて正しいとするならば論理的にも誤りがなかった。ただしそのデータがすべて正しいという仮定が成り立たなかった」[9]と結論した。この横山の主張を受け、従来塚本説を支持して著書に紹介していた歴史学者たちも一斉に「つけかえはなかった」とするようになり、現在では塚本説に代わって定説化したかのようにうかがえる。
この横山説に対しては21世紀に入って、高橋学[10]、小谷愼二郎[11]、荒井まさお[12]、植村善博[13]、加藤繁生[14]など各分野の研究者を含む多くから批判が出されている。 まず船岡山から相国寺に続く基盤岩による地下山脈の存在によって賀茂川の南流を否定した点について、地下5 m[注釈 4]に伏在する基盤岩は扇状地帯の形成に何ら影響を与えないこと[15][16]、尾根の南側には堆積から取り残された湿地や凹地も存在しないこと[17]、地下基盤岩が標高差+20 m以上・4 km上流の上賀茂付近での賀茂川の進路選択に影響を与えないこと[18]が指摘される。 この賀茂川について、自然地理学の観点からは、3万年前以降、それまでに形成された扇状地を下刻し段丘化しつつ氾濫する範囲を西から東に移動しており、平安京造営時には、今出川通付近では御所(京都御苑)の中心、丸太町通付近では京都府庁の東端よりも東側を広い範囲[注釈 5]で氾濫し、多くの一時的流路があったという見解が示されている[15][17]。 また、南流して平安京域に至る堀川は、更新世に形成された扇状地帯を侵食した時の鴨川(賀茂川)の河道のひとつであるが[15]、縄文時代晩期には概ね地形が形成されていた[19]地形面[注釈 7] に位置し、平安京造営時には旧河道となっていたことが指摘される[15]。 以上によれば、賀茂川の細流が堀川付近を南流するという塚本の賀茂川つけかえ説の主張[注釈 8]は否定されるが、より現在の賀茂川側(東側)に偏っていたとしても扇状地上を分流し細流していた古賀茂川が人為的に一本化され現在に近い流路に変更された可能性は否定できないことになる。なお荒井・加藤はこの賀茂川のつけかえが行われたのは平安建都に際してではなく、6世紀以降付近に定住した賀茂氏による開発の途上で行われたものとの仮説を示している[12][21]。
高野川(鴨川)については、横山は古高野川が出町付近から南西に流れていたとする塚本の「京都市地質図」に描かれる花崗岩質の砂礫の分布は「三万年以上前に形成された扇状地」であると指摘し[22]、横山と同じく「鴨川つけかえ説」に否定的な見解を示す石田志朗は扇状地の形成時期については更新世であるという当時の知見に基づき「高野川が南西に流れていたのは最終氷期までで、縄文時代以降は現在の鴨川の流路を南流していた[23]」という記述をしているが、 鴨川扇状地の形成時期を更新世以前のものとする横山や石田の主張は、これを完新世とする自然地理学の知見(河角[24]、植村[25]、高橋[26]など[注釈 9])により現在では否定されている。 加藤は、考古学的痕跡からは建都直前まで(平安時代にも[27])平安京左京域に北東から南西に向けた水の流れがあったことが明らかにされている[28]ことから、これを古高野川の細分流が造営時に平安京左京を貫いていた証拠であるとして「造都に先立って流路を南に変えたのは確か」などと主張する[29]。
なお、鴨川の工事が記録に現れないことについては、旧流路を利用したことから大規模な掘削は必要でなかった[17]、造都という大事業の中では特記するほどの工事ではなかった[30]との指摘がある。
このように、塚本の「鴨川つけかえ説」を否定し過去のものとした横山説であるが、地質学・自然地理学などの自然科学分野からの検討により、平安京造営時に「北山から真南に向かって、堀川の位置に大きな河幅となって貫流[3]」していたという「鴨川つけかえ説」として流布するイメージについては改めて否定される一方で、元から概ね現在の流路であったということについては疑義が示されている。さらに、加藤は考古学、歴史学などからの論考を期待して、横山説の結論だけを受け入れ引用して広めてきた歴史家たちに対し、単なる追従ではない対応を求めている[31]。
- ^ おおまかにいうと上賀茂神社のあたりから四条大橋のあたりまで
- ^ 「鴨川つけかえ」とすると現在の鴨川を念頭にさも大工事だったかのように錯覚するが、この説では扇状地上を分流する細流を現在の位置に一本化したのであり、さほどの大工事でなかったことになる。
- ^ これは塚本の主張に相違して、古賀茂川があたかも大河となって南流していたように述べる上記歴史学者たちのイメージによって惹起された「鴨川つけかえ説」に対する疑問であるといえる。
- ^ 高橋 2012, p. 37では、「とくに、横山卓雄は船岡山から同志社大学の校地の地下四メートルに基盤岩が存在することから、後者の説(註:鴨川が人工流路であることを否定する説)を強く主張した。しかし、地下四メートルに伏在する基盤岩は扇状地帯の形成に何ら影響をあたえないと考えられることから、地形学的には根拠になりえない。」と「4m」と記す。
- ^ 植村 2011では「扇状地II面」及び「扇状地III面」、高橋 2012では「完新世段丘II面」及び「現氾濫原面」と呼ぶ範囲。
- ^ 河角 2001によれば、縄文時代の河川堆積の作用が見られる一方で、縄文時代晩期の遺構が見られるとし、その時期(縄文時代晩期)には概ね地形が形成されていたことを示している。すなわちある時代の生活遺構が載るということは、その時代以降には概ね地形が形成されていたことを示している。
- ^ 植村 2011では「扇状地I面」、高橋 2012では「完新世段丘I面」、河角 2001では「段丘面III(完新世段丘面)」の上に位置する。
- ^ 塚本は「必ずや堀川・西洞院通はその主たる方向なるべく、なお往古の賀茂川として想像すべきものなるべし」と主張している[20]。
- ^ 平安京造営時における出町以南における鴨川水系の氾濫原の範囲には、現在の鴨川流路が含まれる[15][17]が、このことは、現在のような鴨川の流路をとっていたことを直接は意味しない。
- ^ 塚本常雄「京都市域の変遷と其地理学的考察」『地理論叢』(第一輯)所収
- ^ 加藤 2021a, p. 53.
- ^ a b 林屋辰三郎『京都』岩波書店〈岩波新書〉、1962年、6頁。ISBN 4-00-413095-6。
- ^ 横山 1988, pp. 9–40.
- ^ 横山 1988.
- ^ 横山 1988, p. 131.
- ^ 横山 1988, pp. 124–131。表流水が岩盤によってせき止められることだけではなく、「(「鴨川つけかえ説」による)古賀茂川の流路は地下の岩盤の尾根をほぼ直角に越えねばならない。もちろん理屈としては水は地表面を流れるのだから不可能ではないが、川は地下水とともに流動していて、地下に存在する旧河道いわゆる先行河川を大きくそれることはほとんどないという自然史学上の常識と大きく異なっている」[6]と、地下の岩盤の存在による地下水流の影響も含めて考察している。
- ^ 横山 1988, pp. 92, 123.
- ^ 横山 1988, p. 152.
- ^ 高橋学 著「近世における京都鴨川・桂川の水害」、吉越昭久・片平博文 編『京都の歴史災害』思文閣出版、2012年、33-45頁。ISBN 978-4-7842-1643-7。
- ^ 小谷愼二郎 著、法政大学大学院エコ地域デザイン研究所歴史プロジェクト 編『水から見た京都:都市形成の歴史と生活文化』2007年。
- ^ a b 荒井まさお『賀茂川の謎を追って』文芸社、2001年。ISBN 4-8355-2457-8。
- ^ 植村 2011, pp. 34–56, 「第2章 鴨川と京都の水害史」.
- ^ 加藤繁生「『鴨川つけかえ説』再び(上)ー横山卓雄「鴨川非つけかえ説」の不審ー」『史迹と美術』 912号、史迹美術同攷会、2021年、50-62頁。ISSN 0386-9393。加藤繁生「『鴨川つけかえ説』再び(中)ー横山卓雄「鴨川非つけかえ説」の不審ー」『史迹と美術』 913号、史迹美術同攷会、2021年、72-84頁。ISSN 0386-9393。加藤繁生「『鴨川つけかえ説』再び(下)ー横山卓雄「鴨川非つけかえ説」の不審ー」『史迹と美術』 914号、史迹美術同攷会、2021年、123-130頁。ISSN 0386-9393。
- ^ a b c d e 高橋 2012, p. 37.
- ^ 加藤 2021a, p. 51.
- ^ a b c d 植村 2011, p. 38.
- ^ 加藤 2021a, pp. 59–60.
- ^ 河角龍典「平安京における地形環境変化と都市的土地利用の変遷」『考古学と自然科学 = Archaeology and natural science : 日本文化財科学会誌』第42巻、奈良 : 日本文化財科学会、35-54頁、2001年。ISSN 0288-5964 。[注釈 6]
- ^ 加藤 2021a, pp. 51–52.
- ^ 加藤 2021a, pp. 55–57.
- ^ 横山 1988, pp. 91, 123.
- ^ 石田志朗「京都盆地北部の扇状地-平安京遷都時の京都の地勢-」『古代文化』 34-12巻。
- ^ 河角龍典「歴史時代における京都の洪水と氾濫原の地形変化 遺跡に記録された災害情報を用いた水害史の再構築」『京都歴史災害研究』第1巻、立命館大学歴史都市防災研究センター京都歴史災害研究会、13-23頁、2004年3月19日。doi:10.24484/sitereports.118316-44701。ISSN 1349-3388 。
- ^ 植村 2011.
- ^ 高橋 2012.
- ^ 河角 2003, p. 15では、平安京左京の鴨川流域では、10世紀頃まで流れていた旧河道が存在することを示す。
- ^ 久世康博「『平安京』下層地形の復元」『古代文化』 61-3巻、2009年。久世康博「桓武天皇が見た平安京前夜の京都盆地」『史迹と美術』 824号、2012年。 この久世 2012の論考は、自身が平安京跡の発掘調査に携わる中で小河川の痕跡を丹念に収集し、横山の主張を採り入れつつ「平安京前夜」の京都盆地の流路を復元・図示したものである。
- ^ 加藤 2021c, pp. 125–128.
- ^ 加藤 2021b, pp. 77–78.
- ^ 加藤 2021c, pp. 128–129。加藤は横山説を「自然科学の衣を二重三重に纏って真実らしさを装っているようなもの」と評する一方で、一様に「最近の地質学の研究によれば」と横山説に同調する歴史学者に対し、「その地質学が分かっていない」と辛辣に批判する。