コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

西城秀樹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
西条秀樹から転送)
西城 秀樹
出生名 木本 龍雄(きもと たつお)
生誕
死没
学歴 明治大学付属中野高等学校定時制 卒業
ジャンル
職業
担当楽器 ボーカル
活動期間 1972年 - 2018年
レーベル
著名な家族 木本慎之介(長男)[2]
事務所 芸映→アースコーポレーション
公式サイト https://earth-corp.co.jp/HIDEKI/

(さいじょう ひでき、1955年昭和30年〉4月13日 - 2018年平成30年〉5月16日[3])は、日本歌手俳優タレント新御三家の1人。本名は木本 龍雄(きもと たつお)。広島県広島市東蟹屋町(現在の東区)出身。アースコーポレーション所属。血液型はAB型

来歴

[編集]

生い立ち

[編集]

父・木本三郎、母・とし子の間に三人姉弟の末っ子として広島県広島市東蟹屋町(現在の東区)愛宕町に生まれる[4]。1962年4月、広島市立尾長小学校に入学。ジャズギターが趣味だった父親の影響で幼少期から洋楽に親しみ、広島中央ジャズ・スクールに通うようになる。最初はエレキ・ギター、その後にベース、次いでドラムを勉強した[5]

1965年、小学4年生の時に兄とエレキ・バンド「ベガーズ(beggars)」を結成[6][7]。小学校在学中から小学生ドラマーとして活動する[8]。1968年4月、広島市立二葉中学校に入学。兄が中3、自身が中1の時には中学校の文化祭でステージ演奏をした[9]ザ・ベンチャーズローリング・ストーンズジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョプリンシカゴなどの洋楽に影響を受ける[10]。こうした洋楽通ぶりが後に、他のアイドル歌手とは一線を画す個性となった[11]

ドラマーから歌手へ

[編集]

1969年、中学2年生の時、兄たちが卒業したため「ベガーズ」からメンバーを入れ替え「ジプシー」を結成[12]。1971年4月、山陽高等学校商業科に入学。「ジプシー」のリード・ボーカルとなる[13]。それまではロックの世界でドラマーとして成功することを目指していたが、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」を聴いて歌謡曲のイメージが一変し、歌手に転向することになった[14]。「ジプシー」でヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストの第1回、第2回に出場し[12]、中国大会で優勝[15]。R&B喫茶「パンチ」から声がかかってレギュラー・バンドになり[13]、店で歌っていたところ、東京から来ていたマネージャーの目に止まりスカウトされる[15][16]

1971年10月3日、厳格で頑固だった父親の芸能界入りへの猛反対を押し切って[17]、家出同然で広島から夜行列車に乗りこみ、翌4日朝、東京駅に到着する[13]。芸能事務所「芸映」に所属[18]、都内の定時制高校へ転校する[注 2][20]。マネージャーと二人で3畳もない納戸(三角部屋)に同居し[13][21][20]、厳しいレッスンの毎日を送るようになる。12月、RCAのディレクターであるロビー和田に認められ、デビューが決定する。

芸能活動(年表)

[編集]

1972年 - 1975年

[編集]

1972年3月25日、RCAレーベル(日本ビクター、現在はソニー・ミュージックレーベルズ)よりシングル「恋する季節」で歌手デビューする。8月8日、東京・郵便貯金ホールでファースト・コンサート「ワイルドな17歳」を開催。11月5日、ファースト・アルバム『ワイルドな17才』発売。11月26日、第14回日本レコード大賞の最優秀新人賞候補として5組を選出、森昌子三善英史麻丘めぐみ、郷ひろみに次ぐ得票の青い三角定規(20票)に僅か1票差の19票に終わり惜敗、選に漏れる[22]

1973年3月26日、大阪毎日ホールでデビュー1周年記念コンサート「ヒデキ・オン・ステージ」を開催。6月25日、5枚目のシングル「情熱の嵐」で初めてオリコン週間チャートのベストテン入りを果たす。9月24日、「ちぎれた愛」が自身初となるオリコン1位を獲得(4週連続)[11][23]、70年代デビューの男性アイドルとしても初のオリコン1位となった[23]。12月24日、続く「愛の十字架」もオリコン1位を獲得。12月31日、「ちぎれた愛」で第15回日本レコード大賞歌唱賞を受賞、一方で初出場が確実視された『第24回NHK紅白歌合戦』は落選となる[24]

1974年1月16日から10月9日まで放送された『寺内貫太郎一家』(TBS系)にレギュラー出演、ホームドラマとして人気を博す。2月25日発売の「薔薇の鎖」でマイクスタンド・アクションを披露。5月25日発売の「激しい恋」が58.4万枚のセールスを記録し、オリコン年間チャートの第8位に輝く。6月8日、主演映画『愛と誠』公開。8月3日、日本でソロ歌手として初のスタジアムでのワンマン・コンサートを大阪球場で開催(以降、大阪球場では10年連続、後楽園球場では1978年から4年連続で開催)。10月6日、広島郵便貯金ホールにて凱旋コンサート「バック・ホーム・アゲイン・ヒロシマ」を開催[25]。12月31日、「傷だらけのローラ」で第16回日本レコード大賞歌唱賞を2年連続受賞(演歌歌手以外では史上初)、『第25回NHK紅白歌合戦』初出場。

1975年1月30日、第12回ゴールデン・アロー賞でグラフ賞を受賞。2月15日、初の海外進出作品として「傷だらけのローラ」のフランス語版「LOLA」がフランス、スイス、ベルギーで発売され、続いて3月31日に発売されたカナダでは[26][27]同国のヒットチャート第2位にランクインする[28][注 3]。5月、『寺内貫太郎一家2』(TBS系)で小林亜星との乱闘シーンの撮影中に腕を骨折。6月6日 - 9月26日、『あこがれ共同隊』(TBS系)で郷ひろみ、桜田淳子らと共演。6月29日、第4回東京音楽祭国内大会に出場しゴールデン・スター賞を受賞。

同年7月20日、富士山麓緑の休暇村の特設ステージにて日本歌謡史上初の大規模野外コンサートを開催。これを皮切りに「全国縦断コンサートツアー」をスタート、8月24日、大阪球場のエンディング・フェスティバルで閉幕。10月10日、このツアーを追ったドキュメンタリー映画『ブロウアップ ヒデキ』公開[29]。11月3日、日本人ソロ歌手としては初めての日本武道館公演を行う[30](以降、1985年まで11年連続で開催)。

1976年 - 1979年

[編集]

1976年2月25日発売の「君よ抱かれて熱くなれ」から作詞者に阿久悠、作曲者に三木たかしを起用する(翌年9月5日発売の「ボタンを外せ」まで継続)。6月27日、「ジャガー」で第5回東京音楽祭世界大会に出場。10月19日、東京・赤坂のナイトクラブ、ニューラテンクォーターで初のディナーショーを開催。11月3日、第2回日本武道館コンサート「ヒデキ・イン・武道館」を開催。12月31日、「若き獅子たち」で第18回日本レコード大賞歌唱賞を受賞。

1977年3月30日、デビュー5周年記念の第3回日本武道館コンサートを開催。7月5日 - 28日、台本・作詩は阿久悠、作曲は三木たかし、演出は浅利慶太による劇団四季わが青春の北壁』(日生劇場)に主演し、ミュージカルに初挑戦[31][32]。11月20日、NHK『ビッグショー』に出演(タイトルは「若さを誇らしく思う時に」)。

1978年2月9日、「ブーツをぬいで朝食を」が『ザ・ベストテン』(TBS系)で第1位を獲得。6月18日、「」で第7回東京音楽祭世界大会に出場し、外国審査員団賞を受賞。7月22日、東京・後楽園球場の第1回コンサート「BIG GAME'78 HIDEKI」を開催。12月、「ブルースカイ ブルー」が『ザ・ベストテン』で14週連続ランクインし年間ベストテン第9位を獲得、第7回FNS歌謡祭で最優秀歌唱賞を受賞。12月31日、第20回日本レコード大賞金賞を受賞(「ブルースカイ ブルー」)。

1979年1月4日 - 6日、大阪・厚生年金ホールで新春コンサートを開催。2月21日、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」発売、200万枚のセールスを記録する大ヒットとなり、4月5日、『ザ・ベストテン』で番組史上初にして唯一の満点(9999点)を記録した(翌週4月12日も記録)。その年度の賞レースでは第10回日本歌謡大賞、第8回FNS歌謡祭(以上、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」)、第5回日本テレビ音楽祭(「ホップ・ステップ・ジャンプ」)、第5回あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭(「勇気があれば」)でグランプリを獲得。12月31日、第21回日本レコード大賞金賞を受賞、決選投票の結果、僅差で大賞を逃す(「勇気があれば」)。

1980年 - 1984年

[編集]

1980年1月4日 - 6日、大阪・厚生年金ホールで新春コンサートを開催。6月5日発売の「俺たちの時代」が夏季モスクワ・オリンピックの日本人選手の応援歌に選出される(結局、日本は参加をボイコット)。6月13日、アニメ『坊っちゃん』(フジテレビ系)で声優初挑戦[33]。11月23日、東芝日曜劇場『遠くはなれて子守唄』(「日本民間放送連盟賞」受賞作品)に出演。12月31日、第22回日本レコード大賞金賞を受賞(「サンタマリアの祈り」)。

1981年4月6日、「リトルガール」でオリコン史上初となるシングル30曲ベストテン入りを達成[注 4]。次作「セクシーガール」でシングル・レコードの総売上枚数が1,000万枚を突破(史上5組目)[注 5][注 6]。4月、司会担当の情報番組『モーニングサラダ』(日本テレビ系)放送開始。8月、第8回広島平和音楽祭開催、この日のために作られた楽曲「天と地の架け橋」と「リトルガール」を歌唱した。12月31日、第23回日本レコード大賞金賞を受賞(「センチメンタルガール」)。

1982年1月4日 - 5日、大阪・厚生年金ホールで新春コンサートを開催。3月25日、デビュー10周年記念シングル「南十字星」発売、東宝創立50周年記念の日豪合作映画『南十字星』の主題歌となる。4月13日、デビュー10周年誕生日パーティー「ありがとう青春3650日」を赤坂プリンスホテルで開催。12月31日、第24回日本レコード大賞金賞を受賞(「聖・少女」)。

1983年、芸映を円満退社し独立[34]、1月21日、有限会社「アースコーポレーション」(現在は株式会社)を設立する[35]。2月1日、独立第1弾シングル「ギャランドゥ」発売。8月6日、大阪球場コンサート「BIG GAME '83 HIDEKI FINAL IN STADIUM CONCERT」をもって、10年続いたスタジアム・コンサートに幕を下ろす。11月20日、第10回日本武道館コンサートを開催。12月31日、第25回日本レコード大賞金賞を受賞(「ギャランドゥ」)。

1984年2月5日、体調不良を訴え東京女子医大病院へ、低髄液圧症候群と診断され入院、3月25日に退院する。4月1日、「Do You Know」で第13回東京音楽祭世界大会に出場し、初の銀賞を受賞。5月4日から28日まで、『デュエット』で7年ぶりとなるミュージカル主演(日生劇場)。8月12日、主演声優を務めるアニメ映画『黒い雨にうたれて』公開[36]。8月14日、大阪城ホールでコンサート「JUST RUN '84 HIDEKI」を開催。

1985年 - 1994年

[編集]

1985年1月19日、シングル50枚目を記念した第12回日本武道館コンサート「'85 HIDEKI Special in Budokan - for 50 songs -」を開催、記念シングル「一万光年の愛」が「科学万博つくば '85」のテーマ・ソングに選出されたことを発表。2月、「科学万博つくば '85」開会式で「一万光年の愛」を皇太子明仁親王(現:上皇)と文仁親王(現:秋篠宮文仁親王)の臨席上でNHK交響楽団をバックに歌唱する[37]。11月21日、バリー・マニロウとのデュエット曲「腕の中へ -In Search of Love-」を発売、『夜のヒットスタジオ』での共演も実現する。

1986年5月17日、主演映画『傷だらけの勲章』が全国公開。

1987年5月21日、プロデューサーにジョージ・デュークを迎えた「New York Girl」を発売。10月4日、昭和記念公園で開催されたロック・フェス「Japan Aid 2nd」にジョージ・デュークのゲストとして出演し「New York Girl」を披露する。

1988年9月、ソウル・オリンピック前夜祭にチョー・ヨンピル(韓国)、ダニー・チャン(香港)、胡寅寅(フー・インイン、中国)とともに出演、日本人として初めて韓国の公式の場において日本語で歌唱する(「傷だらけのローラ」)。この模様はKBSをキー・ステーションとして衛星中継で世界各国に放映された[38]

1989年6月、主演ミュージカル『坂本龍馬』公演。大阪・新歌舞伎座で座長公演(以降、3年連続で公演)。

1990年、クイーン・エリザベス2世号(香港~日本)で船上ディナーショーを開催。

1991年4月、「走れ正直者」がアニメ『ちびまる子ちゃん』(フジテレビ系)のエンディング・テーマに起用される。5月11日、東京・厚生年金会館でデビュー20周年記念コンサート「HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '91 FRONTIER ROAD」を開催。初の学園祭ライブを早稲田大学で開催。

1992年4月14日 - 9月29日、『徳川無頼帳』(テレビ東京系)で時代劇ドラマに初レギュラー出演。

1993年3月、「STOP AIDS CONCERT」(横浜文化体育館)をプロデュース、自身の呼び掛けでもんたよしのり寺田恵子沢田知可子男闘呼組、海外からはディオンヌ・ワーウィックなど多数のアーティストが参加する。

1994年、主演ミュージカル『ラヴ』公演。12月31日、『第45回NHK紅白歌合戦』に10年ぶりに出場し「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱する。

1995年 - 1999年

[編集]

1995年、1月17日に発生した阪神・淡路大震災の被災者のために数度、神戸市に足を運びチャリティー募金を行う。8月5日 - 6日、サザンオールスターズのコンサート「ホタル・カリフォルニア」にゲスト出演、2日間で16万人の観客と「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を合唱する。

1996年7月3日 - 14日、主演ロック・ミュージカル「D・LIVE Rock To The Future」公演。

1997年1月21日、デビュー25周年を記念してヒストリー・ビデオ『HIDEKI SAIJO LIFE WORK 7 TREASURES』を発売。

1998年4月から2002年3月まで放送された音楽番組『青春のポップス』(NHK総合)では司会を担当、歌手としても幅広いジャンルの洋楽を歌唱した[39][40]

1999年2月7日、舞台『寺内貫太郎一家』に出演(新橋演舞場)。11月17日、ポリドールに移籍しての第1弾シングル「Bailamos 〜Tonight we dance〜」発売。

2000年 - 2009年

[編集]

2000年3月31日、東京・厚生年金会館でシングル80曲記念コンサート「Bailamos 2000」を開催。シドニー・オリンピックのサッカー日本代表壮行試合で「君が代」を斉唱。11月28日、第12回日本ジュエリーベストドレッサー賞を男性部門で受賞。

2001年6月30日、大阪府在住の一般女性との結婚を発表し、静岡県の伊古奈比咩命神社で挙式する。7月、ディズニー映画『ラマになった王様』の主題歌「ラッキー☆ムーチョ」を「ムーチョ☆ヒデキ」として歌唱。10月、デビュー30周年記念コンサートツアーを開催。

2002年4月28日から5月13日まで、舞台『新・演歌の花道』に出演(新宿コマ劇場、梅田コマ劇場)。7月、プロ野球オールスターゲームのオープニング・イベントで「君が代」と「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱する。

2003年6月21日、ディナーショーのため訪れていた韓国で脳梗塞を発症、闘病・リハビリを経て復帰を果たす。9月1日~13日、『Forever '70s 〜青春〜 伝説のステージ』に出演(中日劇場、新宿コマ劇場、梅田コマ劇場)。

2004年3月6日、ミュージック・イン・ドラマ『ホシに願いを』(NHK総合)に出演[41][42]。7月2日、神奈川県川崎市の市制80周年記念マッチとして開催された川崎フロンターレ‐横浜FC戦(Jリーグ2部、川崎市等々力陸上競技場)のハーフタイムショーに出演、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱する[43](以後、2013年まで毎年フロンターレ主催の川崎市制記念試合に出演(2006年を除く))[44]。10月、著書『あきらめない 脳梗塞からの挑戦』(リベロ)発売。

2006年9月、「西城秀樹歌手生活35周年、奇跡の復活 ヒデキカンゲキ!」連載(東京スポーツ)。9月27日、3年ぶりのシングル「めぐり逢い」発売。

2008年5月30日、『青春のポップス』で共演した早見優森口博子などと共にコンサート「思い出の青春ポップス」を開催する(中野サンプラザホール)。

2009年3月30日~9月26日、NHK朝の連続ドラマ『つばさ』に出演。9月15日、大阪・厚生年金ホールでのコンサート「HIDEKI SAIJO CONCERT 2009」を開催、同ホールでの公演は89回目にして最後となる。

2010年 - 2018年

[編集]

2011年3月17日~28日、ミュージカル『マルグリット』に初の悪役として出演。9月30日、デビュー40周年記念コンサートを渋谷C.C.Lemonホールで開催。12月20日~30日、脳梗塞が再発していることが判明し都内の病院で入院・治療、右半身麻痺の後遺症が残るも、リハビリにより杖をついて歩けるまで回復する。

2012年1月28日、静岡で行われたチャリティー・コンサートに出演。6月28日、日本スイミングクラブ協会主催の「ベストスイマー2012」を受賞。10月26日、著書『ありのままに 「三度目の人生」を生きる』(廣済堂出版)を発売。

2013年4月17日~12月4日、紀行番組『ぐるっと食の旅 キッチンがゆく』(NHK BSプレミアム)に月1回のレギュラー出演。

2014年4月5日~9月27日、情報番組『ヒデキの感激! NEXTハウス』(BSジャパン)にレギュラー出演。8月9日、第46回『思い出のメロディー』(NHK総合・ラジオ第1)に出演、同局の音楽番組への4年ぶりの出演となる。

2015年4月11日、東日本大震災復興イベント「フラワードリーム in 東京ビッグサイト 2015」で、60歳以上の著名人にバラを贈る「第8回 Happy Rose アワード」を受賞[45]。 4月13日、60歳の誕生日に還暦記念アルバム『心響 -KODOU-』を発売。同日、「ヒデキ還暦!」と題した記念ライブを開催(赤坂BLITZ)、ゲストとして野口五郎が登場し祝福される[46]。同日、自身がプロデュースした体験型市民農園「西城秀樹体験型市民農園 百果百菜」開園(埼玉県入間市)[47]

2016年2月13日、自身が監修した「Y!mobile」(ソフトバンク)のテレビCMが放送開始[48]、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」のメロディーにのせた歌とダンスをプロデュースした。

2018年、川崎フロンターレの川崎市市制記念試合ハーフタイムショーにおいて、逝去による本人不在ながらも等身大パネルと過去の歌唱音源・映像で参加、場内のサポーターから熱く迎えられる。

脳梗塞発症

[編集]

2001年秋に脳梗塞を発症(この時は「二次性多血症」と発表)[49]

2003年6月21日、公演先の韓国で2度目の脳梗塞を発症する。軽度の言語障害の後遺症は残ったが、闘病の末復帰し、2006年9月27日、3年ぶりに『めぐり逢い/Same old story - 男の生き様 -』が両A面で発売された。

だが8年後の2011年12月20日に、脳梗塞の再発との診断を受け、2週間程度入院する。右半身麻痺と言語障害の後遺症が残ったが、その後は快方へ向けてリハビリに励み、徐々に歩行の状態などが改善していた[50][51]

晩年・闘病・死去

[編集]

2018年4月14日、栃木県足利市で開催された『〜一緒に歌おう!青春の歌〜同窓会コンサート2018 in足利』(企画・運営、三貴エージェンシー)[52]に出演。結果的にこのコンサートが西城にとって公での最後の歌唱となった。それから5日後の4月19日、東京都練馬区の練馬文化センターで開催された『第23回 紅白歌合戦』(日本歌手協会主催)[53]に知人が出場するため、プライベートで観覧。最後方の席に西城が座っている事に気づいた総合司会で歌手協会理事、合田道人が駆け寄ってインタビューを敢行。紹介された際、西城は自ら立ち上がって観客にアピール。この場で11月開催の歌謡祭への出演を打診されると「はい、ぜひ」と答えたが、結局これが最後の公の姿となった[54]

この日から6日後の2018年4月25日、自宅で夕食中に突然倒れ、全身痙攣ののち心停止。救急搬送で緊急入院。救命処置により再び心臓は動き出すが、約40分間の心停止により、医師から脳死の可能性が高いことを告げられる。「持って1週間だと思ってください」との説明だったが、深い昏睡状態で3週間闘病を続け、同年5月16日23時53分、急性心不全のために神奈川県横浜市内の昭和大学藤が丘病院で死去[55]。63歳没。法名は「修音院釋秀樹(しゅうおんいんしゃくひでき)」[56]

西城の訃報を受け、「新御三家」としてライバルでもあり戦友でもあった郷ひろみと野口五郎を始め[57]、数多くの著名人が追悼コメントを発した。

死去から9日後の5月25日に青山葬儀所で通夜が営まれ、新御三家の二人を始めとする歌手仲間・芸能関係者・多数のファン達が参列[58]。翌日の告別式では野口と郷が終始涙ぐみながら弔辞を読み[59]、出棺の際には代表曲「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」「ブルースカイ ブルー」等が流され、約1万人のファンから「ヒデキ!」コールを浴びながら斎場を後にした[60]。その後、遺体は品川区の桐ヶ谷斎場にて荼毘に付された。

死後の事実公表

[編集]

没後の11月、妻・木本美紀が『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』を上梓した[61]。この中で西城は1996年頃に糖尿病の診断を受け、インスリンを投与していたこと[62]、報道では2回とされていた脳梗塞が、実際には結婚直後の2001年に発症していたほか、「隠れ脳梗塞」を含めると計8回発症していたこと、2014年の暮れ頃には、これらの疾患に加えて、脳の神経細胞が徐々に脱落する「多系統萎縮症」の診断を受けていたこと[63]、そして脳梗塞と多系統萎縮症に関する事実は妻とマネージャーの間で伏せられていたことを公表した[49]。実際に西城の病状は2014年頃から徐々に進行。転倒しやすくなり、言語の出にくさも顕著になった。2017年の暮れごろには歩行にも支障が出ていたが、改善することを信じて、急変する直前まで真面目にリハビリメニューに臨んでいた[64]

作品

[編集]

業績

[編集]

スタジアム・コンサート

[編集]

西城は、スタジアム・コンサートを日本人ソロアーティストとして初めて開催した(グループでの日本初は1968年のザ・タイガース[65][8][66]

1974年夏、ワンマン・コンサート『ヒデキ・イン・スタジアム“真夏の夜のコンサート”』を大阪球場で開く。これは、「ウッドストック・フェスティバル」の影響を受け、「野外イベントを誰よりも早く日本でやりたかった」と西城自身が企画し、このコンサートが実現した。観客2万5000人。 コンサートは設営から解体までに3日かかり、その間の弁当代だけで300万円、1回にかかる費用は当時の金額で6000万円かかり、満員になっても儲けが出ることは無かったという[67]。 大阪球場での公演は、1974年から1983年まで10年連続で行われた。派手な仕掛けに加え、「雨男」と言われるぐらい雨中でのライブも多かった。

西城の球場コンサートでは、ただ歌と演奏をするだけではなく、現在では許可が下りない危険な演出も行われた。具体的には、建設用クレーンに吊るされたゴンドラの中での歌唱や[8]、ヘリコプターを使った演出など。これらの演出は自身のアイデアで実行した。 クレーンとゴンドラは、二塁ベース付近に作られたステージから観客席に少しでも近づく手段として考えられたものである[66]。 また、日本での初導入とされるレーザー光線や[28]、衣装に電飾を仕込む演出効果など、球場の大きな空間を利用しての派手な仕掛け、演出が売りであり、毎年赤字覚悟でエスカレートしていった[67]。時代的にどれも人が操作したり手動で動かす手作りライブであった。

後楽園球場での初ライブ『BIG GAME'78 HIDEKI』は1978年7月22日[68]。ソロシンガーとしての初の開催であり、以降、1981年まで毎年コンサートを行い計4回。後楽園球場の最多公演アーティストとなる(後楽園球場#コンサートを開催したミュージシャン)。

1978年夏の全国縦断ツアーでは、5回目の大阪球場の他、三重県の合歓の郷(7月9日)、千葉県東部の九十九里浜特設ステージ(7月26日)で野外ライブを行った[68]

1979年の後楽園球場では、豪雨と雷鳴の中でマイクから感電しながら歌唱を行った。 西城は球場コンサートを振り返って「本当に死んでもかまわないと思いながらやってた」[69]、「俺たちの時代の人ってのはみんな命を賭けてた」と述べている[70]

なんばパークスガーデンのモニュメント

大阪球場跡地に建設されたなんばパークスの屋上にあるパークスガーデンには、難波及び大阪球場にゆかりのある人物の手形モニュメントが展示されていた。その中には西城の手形とサインが入ったモニュメントもあった[71][72]。 その後、2024年にそれらのモニュメントは7階パークスミュージアム横に移転された[73]

ペンライト

[編集]

アイドルのコンサートで使われるペンライトは、西城のコンサートが発祥とされる[67][74][75]。その経緯は、サイモンとガーファンクルの海外のライブでファンがライターを灯す姿にヒントを得て、1974年の球場ライブで「(火は危ないから)なにか光るものを用意してきて!」と観客に呼びかけると、それ以降、観客がペンライトを用意するようになった、というもの[75][76]

ペンライトが使用された具体例として、3回目の大阪球場ライブを伝える1976年11月の『月刊平凡』の記事に「ヒデキの登場に、赤、黄、グリーンのペンライトを持ったファンが応える」[77]という記述や、 1976年11月の武道館リサイタルをレポートした『mimi』1977年1月号の記事に「全方向から見られるように、八角形にしつらえたステージ。秀樹のステージでおなじみとなったペンライトのゆれる中で..」という記述が見られる[78]

野外ライヴ

[編集]

1975年7月20日、富士山麓(緑の休暇村)での野外ライヴでは[79]、広大な空き地に一からステージを設営し、バスで全国から観客を運んだ[80]。当初は10万人の動員を予定していたが[79]、観客は3万人だった[81]。 当時の週刊誌で「史上初、空前絶後の大イベント」と書かれた[80]

松竹と日本テレビによる撮影

本コンサートを皮切りに同年8月30日まで続いた『全国縦断サマー・フェスティバル』の模様とステージを離れた西城のプライベートタイムを、松竹日本テレビの2社が撮影した[81][82] この松竹版がドキュメンタリー映画『ブロウアップ ヒデキ』である[29]。 1960年代にGSのバンドなどを主役とする歌謡映画がよく作られたが、このようなアイドルのひと夏のツアーを追ったドキュメンタリー映画が日本中でロードショーされるのは珍しく[83]、『エルビス・オン・ステージ』をヒントに製作されたと評された[83]。 日本テレビは1975年9月25日の『木曜スペシャル』枠で『西城秀樹日本縦断20歳の絶唱!』というタイトルで放送した[82]

スタジアム・コンサートおよび野外ライヴへの評価

[編集]

社会学者の宮入恭平は、スタジアムコンサートやペンライト、日本武道館でのコンサート、野外ライヴを例に挙げて、西城はライブ文化に影響を与えたが、正当な評価を受けていたとは言い切れない。その理由のひとつは、70年代当時のアイドルに対する一般的な認識が「テレビで活躍する芸能人」であったからと考察している。また、西城はみずからのコンサートにロックの要素を取り入れたが、あくまでもアイドルとして評価されていたわけであって、ライブ文化と親和性が高いロック・アーティストとして評価されていたわけではなかった[84]と評している。

アジア進出

[編集]
香港

1981年5月、亜細亜テレビの香港音楽祭にスペシャルゲストとして出演[85]。20分のゲスト出演だったが[86]、番組視聴率は90%を超えた[87][88]。西城についての問い合わせが殺到し、香港のマスメディアに大きく取り上げられた[88]。当時の香港にもかつての日本の歌謡界と同様、歌う時に体を動かす人があまりおらず、現地の新聞に"ボディアクション""ボディランゲージ"とやたら書かれた[86]。西城からの影響で現地の歌手がそれをみんな真似し始めた[86]

9月12日 - 9月14日、香港で初めてのコンサートをクイーンエリザベス・スタジアムで開催[89][85]。現地のプロモーターから「香港の人は評価がストレートだから一回目でブーイングが来たら二度と香港では出来ないよ」と言われ、大変な重圧の中で歌い切り[88]、翌日の新聞の見出しはそれまでの「赤旗星(スーパースター)」から「天皇巨星(超スーパースター)」と表記され、「最もセクシーな歌手」と絶賛された[90]。香港のゴールドディスクを四年連続、プラチナディスクも計6回受賞[91]

アジアでの日本人歌手進出の先がけとなる[92][93][94][95][96][97]。 当時の香港はアイドル歌手の存在はなく、歌唱力など実力のある人でないと人気は出ない土地柄だった[98]

1982年9月22日 - 9月24日の3日間、香港にて2回目のコンサートを開催(クイーンエリザベス・スタジアム)[99]。 当時の香港では、教科書問題が起こり、同時期コンサートを予定していたさだまさし三原順子は中止を余儀なくされたが、西城だけは特別扱い[87]。このとき、西城のコメント「僕は広島で生まれ、原爆ドームを見ながら育った。平和を思う気持ちは人一倍です。僕は平和を求める歌手として香港に来ました。歌に国境はない。あってはいけない」が香港の新聞に大きく掲載された[99]。香港メディアも「歌と政治は切り離すべき」という論調を載せ、平和の使者としての西城を歓迎した[87][99]。 日本のファンも熱狂的だが、香港の人たちも熱狂的だった[87]と当時の雑誌は書いている。具体的には、コンサートが開催される半年前から、書店に西城の特集を組んだ芸能誌『好時代』が置かれた。『愛と誠』が上映された。西城の過去のコンサートの映像を編集したものがゴールデンタイムに放送された[87]。コンサートの観客は熱狂的で、西城も「はじめは信じられない世界を見ているようだった」と話した[87]。 アジアでは圧倒的に男性客が多かった[5]。 香港で西城が人気を得た理由について、香港観光協会は「香港の人間はメンタリティーの部分で、欧米人よりも日本人によく似ています。ジャズよりも当然、日本のポピュラーソングの方がなじみやすいし、リズムとかイントネーションもこっちにマッチしています。香港のショービジネスはアメリカ型というか、下積みから叩き上げていく、いわば本格志向なんです。逆にいうとアイドルの存在が香港にはないんですね。西城はジェネラルだし新鮮さがある。おまけに声量はあるし、歌がうまい。歌プラスショーとでもいうか、仕掛けのあるステージも香港の若い人たちを熱狂させるに充分でした」などと解説した[87]

1985年9月7日 - 9月11日、香港のほかシンガポールでもコンサートを開催。1986年、シチズンの広告で、海外(アジア各国)広告に初出演[100]。広告曲は「City Dreams From Tokyo」。10月14日 - 10月19日、香港、シンガポールにてコンサート『Caravan From Tokyo - HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '8-06-』を開催。10月14日に香港コロシアムで行われたコンサートの入場料は180香港ドル(約3600円)[100]。香港の当時のOLの平均月収は約6万円だったため、気軽にコンサートを楽しむというレベルではなくファンの見る目も厳しかった[100]。この日のコンサートの模様は、ビージーズでもロッド・スチュワートでもやらなかった前例のないTV完全中継が行われた[101]。毎年の日本武道館公演に香港からファンが数百人単位で鑑賞に訪れるので[87]、負担も大きいと考え、1980年代後半は香港を中心にアジアでの活動を増やした[87]。香港でも歌が売れ、ベストテン上位をキープ[85][102]。1986年に香港でも発売したカバー・アルバムStrangers in the Night』は、香港のアルバムチャートで47週トップを独走した[103]。 香港での人気は、フランク・シナトラは別格にしても、ロッド・スチュワートを凌ぐとも称された[100]。1980年代後半は、日本より香港の人気の方が高いぐらいであった。また現地の歌手を活かすため、ステージや番組の演出にも関わり、日本と同様、香港のエンターテインメントの制作にも革命を起こした[86]

1987年3月10日 - 5月5日、香港で初の主演映画『天使行動(Angel)』撮影(1989年、日本でも上映)[93]。撮影の3か月間、ジャッキー・チェン、レスリー・チャン、ジョイ・ウォンなどと友好を深める。

2007年3月22日、香港のレコード協会にあたるIFPI香港の設立40周年記念のイベント『IFPI Top Sales Music Award』に、約35年間の広東ポップに大きな影響を与えた海外アーティストとして表彰された[93][104][105]

アジアのスターとの交友関係

アニタ・ムイは西城の追っかけからファンクラブ副会長を務めた後、スカウトされ大スターになった[98][106][107][108]。1985年に香港の新聞に「西城秀樹聞梅艶芳暗恋」と書かれ、西城の恋人と騒がれたこともあった[98]。アニタは「日本で西城秀樹さんと共演したことが生涯最高の思い出」と話していた[109][注 7]ジャッキー・チェンサミュエル・ホイジョイ・ウォンなどが、早くから西城のステージを観に訪れた[88][91]

中国

1987年3月5日 - 3月8日、中国本土で初のコンサートを首都北京首都体育館及び廣州・中山記念堂で開催[97][110][111]。中国人民対外友好協会の二年越しのオファーに応える形で行われた[111]。廣州のコンサートは児童福祉会館のエレベーター建設のためのチャリティー・コンサートで、そのエレベーターは「西城号」と命名された[110]。香港の流行は中国にも伝わった[86]。廣州は香港から120kmしか離れておらず、香港での知名度が高い西城は、廣州でも大スターで、ホテルを一歩出るとあっという間に人垣ができた[111]。当時の中国の労働者の平均月収は約120人民元(当時の為替では約5000円)で、チケットは40元だったが飛ぶように売れた[111]。コンサートは5000人収容の中山記念堂で2回行われたが、収容しきれず、リハーサルを公開すると3000人集まった[111]。このとき、廣州に初めてレーザー光線が運び込まれた[111]。ここでも観客は熱狂的だった[111]

1997年10月開校した上海新偶像芸術学校(シャンハイ・ニューアイドル・アート・スクール)名誉教授[112]

1998年、「日中友好条約締結20周年」のイベントとして、中国世界文化遺産万里の長城において外国人歌手初の野外コンサートを開催する[113]。アジア・ツアーの一環として広州市・珠海市でもコンサートを開催。中国唱片廣州公司(CHINA RECORD)より「moment」北京語ヴァージョンを含むベストアルバム『瞬間』発売。中国でも西城の知名度は高いといわれる[92]

2007年9月24日には、「日中国交正常化35周年」と「中韓国交開始30年」の節目として中国・南通市スポーツ・スタジアムで開催された『第9回アジア国際芸術祭』に松田聖子と共に招待され、「傷だらけのローラ」と「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を観客約8万人に披露[114][115]。この模様は10月13日、中国全土に放映された。

韓国

1988年9月16日、ソウルオリンピック前夜祭にチョー・ヨンピルダニー・チャンと共に出演。「傷だらけのローラ」を歌う。 このとき、韓国の公式の場において、初めて日本語の歌が放送された(参考:韓国での日本大衆文化の流入制限[116][117][注 8]。この模様は衛星中継で世界137か国に放映された。

"K-POPブームの仕掛人"といわれるSMエンタテインメント創業者・李秀満(イ・スマン)も西城の影響を受けたといわれる[要出典]

その他

自ら構築したステージ狭しと駆け回り、派手な身振り手振りで楽曲の世界観を表現する、「日本のアイドル歌手」というスタイルをいち早くアジア各国へ輸出した。 『ミス・インターナショナル・クイーン』でタイのテレビに出演したはるな愛は、タイ王国の司会者が「スシ!テンプラ!西城秀樹!」と連呼するので驚いたと話している[118]

西城は「アジアの人たちにはアイドルだどうのこうのという先入観がないため、自分が今ここで出す音しか信用してもらえない。音だけの世界で人気を積み重ねた結果で、自分でも自信になった」と話している[5]

1990年、広島・アジア音楽祭『Asian Harmony』を初プロデュースし、出演する。チョー・ヨンピルなど各国からトップ・アーティストを招聘した。1993年にも同種のアジア音楽祭をプロデュースし、出演する。

1991年、バングラデシュ救援コンサート『俺らだけのヒットパレード』(以降3年連続)に出演。

1996年5月28日、『アジア音楽祭イン福岡』(TXN九州主催)出演と蓮舫とともに司会を務める[119]。中国、韓国、香港、タイ、マレーシアのトップシンガーが出演し、テレビ東京系で全国中継(19:00-20:54)。アジアのポップス音楽祭が民放のゴールデンタイムで生中継されるのは初めてといわれた[119]。同年、中国・大連市で行なわれた『国際ファッションショー前夜祭』に日本からのゲストとして出演。大連体育場約4万人の前で歌唱。中国全土及びアジア各国にテレビ放映された。

1999年9月、日本からペルー共和国への移民100周年記念年としてペルーリマで開催された『NHKのど自慢』(NHK総合・ラジオ第1)に八代亜紀と共にゲスト出演[120]

2012年9月16日、ブラジル・サンパウロヴィア・フンシャル劇場英語版)で23年振りにコンサートを開催[121]

歌番組

[編集]
夜のヒットスタジオ

フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』への初出演は1972年12月4日(第214回)。3枚目のシングル『チャンスは一度』での出演であった。1974年以降、準レギュラー格としてほぼ1月に1、2回のハイペースで出演を重ね、五木ひろし森進一に次いで歴代3位の190回にわたり同番組に登場。

1984年11月19日放送では、ワム!の「Careless Whisper」のカバーで、「抱きしめてジルバ -Careless Whisper-」と競作となった郷ひろみの「ケアレス・ウィスパー」と対決した。西城より1か月遅れでリリースした郷の発売時(11月10日発売)の宣伝企画に乗せられる形で、フジテレビ番組スタッフに「同一曲のカバーでの対決」を持ちかけられた際、西城は「全く同じセット、同じ演出で唄う」という条件で了承し、この前代未聞ともいえる企画が実現した。ただし、歌う順番は西城が先行、歌唱時間は郷が長めに設定された。
ザ・ベストテン

『ザ・ベストテン』では第1回から常連として出演し、斬新な衣装や振付けで番組を盛り上げた。 「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が、番組史上一例の満点(9999点)を2週連続で獲得するなど、番組の立ち上げと隆盛に貢献した[122]

テレビ・広告 他

[編集]
バーモントカレーのCM
1973年から1985年にかけてハウス食品(旧・ハウス食品工業)の「バーモントカレー」の広告に出演した。キャッチコピーの"ヒデキ、感激!!"、"ヒデキ、ご機嫌!!"、"ヒデキ、満足!!"などがお茶の間の人気を呼び、大人から子供まで幅広い世代の支持を得る[123][124]
材料にリンゴ蜂蜜を使っているという商品の特徴は、西城の歌う広告曲を通じて広く浸透し、同製品の知名度を一気に高め、カレーライスの国民食押し上げに貢献した[123]
「ヒデキ、感激!!」の右手で頬を2回たたくアクションは、撮影見学に訪れていた小さな子どもが西城を見て喜んだ時の仕草を取り入れ、西城自ら考案したもの[124]
季節に応じて3か月周期で広告の撮影が行われ、その中で西城が発するフレーズもさまざまだったが、特に"ヒデキ、感激!!"という初期の頃のフレーズは、いまだにマスメディアで西城の記事が掲載される際によく見出しとして登場する。
ハウスは西城と独占契約し、西城は12年間、ほかの広告には一切出演せずバーモントカレーの顔であり続けた[123]
2001年に結婚した際には、夫人とのツーショット写真と「超甘口」「Happy Wedding」の文字を配した特製パッケージのバーモントカレー甘口が披露宴の引き出物として配られた。2015年に行われた還暦記念コンサートでは、「ヒデキ、カンレキィ〜!」の文字を配した還暦お祝いパッケージのバーモントカレーが来場者に記念品として配られた[125]
なお、西城本人は甘めのカレーがあまり好きではなく、収録のテイクの度に何度も食べるのがつらかった、と後に語っている。1986年にバーモントカレーを「卒業」し、辛さを前面に押し出した「ジャワカレー」のテレビ広告に起用されたことを喜んでいた。
2018年に西城が逝去した際には、ハウス食品グループ本社から「(西城出演の)バーモントカレーの広告で、カレーが国民食となり愛されることとなった」など感謝を込めた追悼メッセージが発せられた[123][126]。また、西城の通夜では参列者に会葬御礼としてバーモントカレーが用意され、関係者によって配られた[127]
寺内貫太郎一家
西城のお茶の間人気を高めたのは、バーモントカレーの広告で見せる庶民的で人懐っこいキャラクターに加え、昭和を代表する国民的ホームドラマともいわれた[128]寺内貫太郎一家』(1974年、TBS)への俳優としての出演が大きかった[8][129]
久世光彦プロデューサーは、西城抜擢の経緯について「秀樹がテレビやステージでみせる、あの炎のような激しいアクション、力感、エネルギー。だがその影には、きっと涙があるに違いない。バンカラではなく、少年のようにセンサイで、悲しいものを持っている。それが本当の"男"の魅力です。今度のドラマで追求したいのは「日本人の男らしさ」―それを表現する素材として、秀樹以外に考えられなかったからです。秀樹は将来、役者としても大物の素材であることは間違いない。日本のアラン・ドロンは沢田研二だが、ぼくは秀樹には日本のジェームズ・ディーンになってもらいたいんです。ドラマは秀樹の弟と姉の将来をタテの線に、人間の傷つけあい、かばいあいをヨコの線に進めていきます」などと話した。当時の人気タレントはドラマの収録に充てる日にちはせいぜい一週間に2日だったが、西城は一週間に4日空けて、久世からのオファーに応えた[130]
毎週、お約束のように登場するのが貫太郎こと小林亜星と長男周平役の西城との親子げんかで、西城が小林に投げ飛ばされ腕を骨折し入院したエピソードはよく知られる[131][132]
当時を振り返って西城は「やってる方は愛情もクソもない。亜星さんを本気で張り倒すつもりでやっていた」と話している[133]
小林も「ボクもヒデキも本気だった。リアルな芝居を求める久世光彦さんが収録現場でどんどんNGを出す。ボクもヒデキもお互いに『このヤロー!』となり最後には本気になって喧嘩してしまう」「当時のヒデキはスーパーアイドル。スケジュールは真っ黒で、本来なら長時間拘束されるドラマに出演している余裕などなかったはずだ。それでもヒデキは文句ひとつ言わずに熱心にリハーサルを行う。出演者は収録後、しょっちゅう飲みに行ったが、多忙を極めていたヒデキは自分の出番が終わると次の現場に急行だ。時にはワガママを言うのが普通のアイドルだろうけど、ヒデキのそんな姿は見たことがない。今、あんなことが収録現場で起こったら大事件とみなされ、すぐに番組は打ち切られるだろう。当時だって事情はそんなに変わらなかったと思う。打ち切りにならなかった最大の理由は、ヒデキが騒がなかったことにある」などと話し、番組の継続は俳優の仕事にも理解を示していた西城のお陰であると述べている[132]
オールスター運動会・水泳大会
中学3年の時、広島県の中学水泳大会で優勝したこともあり[7][134]、1970年代から1980年代に頻繁に民放テレビで放映された「オールスター運動会・水泳大会」では、スポーツ万能を活かして競泳、走高跳などで活躍した(走高跳では芸能人記録を樹立)[134][135][136]。フジテレビの「紅白スター対抗水泳大会」が番組最高視聴率28.9%を獲った1978年2月7日放送回では白組キャプテンを務めた(紅組キャプテン・郷ひろみ[137]
郷との対決は番組のハイライトだったが、西城は水泳大会では、花形の自由形ではなく平泳ぎに出場。自由形での泳ぎは最後のリレーでしか見ることができなかった。
また西城の幅の狭いブーメランパンツから覗く剛毛は「ギャランドゥ」と呼ばれた[6][89][138][139][140][141][142]
陸上をやっていたつんく♂は、芸能人運動会で西城秀樹を第3コーナーで抜くことが子どもの頃の夢で[143]、中学二年で走り高跳びで165cmくらい跳んでたとき、西城がレコード会社対抗運動会で、走り高跳びで150cm跳んで優勝したのをテレビで観て「この運動会出たら、オレ1位になれる」と思ったことが将来の目標を芸能人と決めた切っ掛けと言う[144]
ちびまる子ちゃん
さくらももこの漫画『ちびまる子ちゃん』では、主人公まる子の姉さきこが大の西城ファンという設定があり、漫画・アニメ問わずしばしば西城に因んだ話が登場している。また、作者のさくら自身も西城のファンであった事から、さくら側が西城に依頼する形で、同作のテレビアニメ第1期後半のエンディングテーマ「走れ正直者」の歌唱を担当した[145]
その後、2007年から2008年に放送された同作のテレビドラマ版『まるまるちびまる子ちゃん』では、第20回の2時間スペシャルに西城が魚屋の主人「魚辰の辰」役で出演[146]
西城の訃報が報じられた際には、さくらはブログで追悼のコメントを記した[147]
後進タレントの発掘
芸映在籍中は看板スターとして活動すると共に、デビュー間もない1972年夏、事務所関係者と共に浅田美代子を街頭でスカウト。無名の新人アイドルだった相本久美子の芸映への移籍を推薦した[148]
また、自らの名前を冠した新人コンテスト「HIDEKIの弟・妹募集オーディション」からは河合奈保子石川秀美がデビューした[149]。河合も石川もオーディションの1位ではなく、他の人が選ばれそうなところを西城の強い推しで逆転1位になった[150]
また西城のコンサートで、熱狂の余り突然ステージ上に乱入した、ファンの岸本加世子を「自分の事務所に入らないか。」とスカウトした[151]

家族・親戚

[編集]

2001年6月30日、長らく独身であったが、大阪府在住の会社員の一般女性[152]と結婚[注 9]。2002年6月3日に長女、2003年9月1日に長男、2005年1月7日に次男が誕生している。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 現・ソニー・ミュージックレーベルズ
  2. ^ 明治大学付属中野高校で、1976年に卒業する[19]
  3. ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1970〜1979」⇒「10.傷だらけのローラ」の項を参照。
  4. ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1980〜1989」⇒「37.リトルガール」の項を参照。
  5. ^ 西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1980〜1989」⇒「38.セクシーガール」の項を参照。
  6. ^ オリコンの集計では1982年の「南十字星」により同記録を達成する。
  7. ^ 1984年『ヤングアジア歌謡祭』[98]
  8. ^ これより一ヶ月前の1988年8月18日、少女隊が韓国側の放送局の了解なしに日本語で歌う[116]
  9. ^ 同じく新御三家の野口も同年2月に三井ゆりと結婚している。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d 西城秀樹(サイジョウヒデキ)の情報まとめ”. OKMusic. ジャパンミュージックネットワーク株式会社. 2019年7月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月12日閲覧。
  2. ^ 《西城秀樹さん七回忌》長男・木本慎之介が歌手デビューに向けて本格始動 朝倉未来の芸能事務所に所属、公式YouTubeもスタート”. ポストセブン. 2024年5月17日閲覧。
  3. ^ "歌手・西城秀樹さん死去 63歳 傷だらけのローラ、ヤングマンなど大ヒット". スポニチ. 2018年5月17日. 2018年5月17日閲覧
  4. ^ 広島駅ちかくで生まれた西城秀樹さん、急性心不全で死去」『鉄道チャンネルニュースエキスプレス、2018年5月17日。2018年5月23日閲覧
  5. ^ a b c まついなつき「《Young Bloods 気になる奴らの青春時代をプレイバックする彼らの若き日々》 ポップス重鎮 西城秀樹」『宝島』1991年5月24日号、宝島社、183-185頁。 
  6. ^ a b 2月2日〜2月6日の邦流は、西城秀樹さん”. くにまるワイド ごぜんさま〜|文化放送 (2009年2月1日). 2021年6月8日閲覧。
  7. ^ a b 「常識を打ち破ったヒデキ どんなに疲れていてもベストをつくさなくっちゃ...!」『近代映画』1973年12月号、近代映画社、70 - 73頁。 
  8. ^ a b c d 「日本のエンターテイメントを切り拓いた西城秀樹」#40年男、47-51頁(【間もなく発売!昭和40年男 2016年12月号】岩崎宏美と西城秀樹にインタビュー!”. 昭和40年男 (2016年11月9日). 2021年6月8日閲覧。バックナンバー 昭和40年男Vol.40 【特集】俺たちの歌謡曲。70's”. 株式会社クレタ・パブリッシング. 2021年6月8日閲覧。)
  9. ^ 【ヒデキ!カンレキ!! 西城秀樹 感謝の歴史】 (10)「プロ歌手に」と勧誘 16歳の夏休みに東京へ”. 東京新聞 TOKYO Web (2016年2月24日). 2018年2月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年2月27日閲覧。
  10. ^ 絶唱型、異彩放ったヒデキ…晩年は脳梗塞で闘病」『読売新聞読売新聞社、2018年5月17日。2018年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年5月18日閲覧
  11. ^ a b 久保田泰平・木下拓海. “音楽偉人伝 第1回西城秀樹(前編)”. 音楽ナタリー. 2024年7月11日閲覧。
  12. ^ a b 「乞食たちのバンド」#いま、光の中で、125-130頁。
  13. ^ a b c d 「情熱の男 西城秀樹自叙伝(前編) 『夜行列車は期待と不安でいっぱいだった 歌がおれの青春だ ヒデキはたった一人広島をたった』」『月刊平凡』1974年2月号、平凡出版、70-72頁。 
  14. ^ お下がりだったデビュー曲のショックを、長い年月を経て自分のロックとして完成させた西城秀樹”. TAP the POP (2021年3月24日). 2022年11月4日閲覧。
  15. ^ a b 「がんばれ!春のフレッシュ・ヤング!」『月刊平凡』1972年5月号、平凡出版、81頁。 
  16. ^ 「ありがとう、姐さん」#いま、光の中で、130-135頁。
  17. ^ <西城秀樹 ヒデキ!カンレキ!!> (11)父の猛反対”. 東京新聞 TOKYO Web (2016年3月9日). 2016年3月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月22日閲覧。
  18. ^ 89歳で死去 西城秀樹“育ての親”芸映・青木伸樹会長の功績”. 日刊ゲンダイ DIGITAL (2016年10月17日). 2021年6月8日閲覧。
  19. ^ 西城秀樹 - 人物情報・関連映画”. キネマ旬報WEB. 2024年2月19日閲覧。
  20. ^ a b 【西城秀樹 ヒデキ!カンレキ!!】 (13)デビューの日まで”. 東京新聞 TOKYO Web (2016年4月6日). 2016年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年5月20日閲覧。
  21. ^ 【ヒデキ!カンレキ!! 西城秀樹 感謝の歴史】(12)三角部屋 希望に燃え、寒さも平気”. 東京新聞 TOKYO Web (2016年3月23日). 2016年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月27日閲覧。
  22. ^ 濱口英樹・山本貴政「西城秀樹デビュー いまだかつてないアイドル誕生 スポットを浴びたワイルドな17歳!」『昭和40年男』2020年12月号、クレタパブリッシング、90-93頁。 
  23. ^ a b 「オリコンデータで見るヒットチャートの殿堂攻防史『走れコータロー』から『スニーカーぶる〜す』まで、首位曲の変遷」#sv、56-57頁
  24. ^ 「ヤング・アイドルが独占することしの『紅白歌合戦』(NHK)完全予想 ゴローは連続 ひろみ、ヒデキはの初出場は確実!」『週刊セブンティーン』1973年10月16日号、集英社、38-41頁。 
  25. ^ 「西城秀樹74年の総決算 『大阪球場 広島リサイタル オレは燃えた』」『月刊平凡』1975年1月号、平凡出版、50-51頁。 
  26. ^ 「西城秀樹 誕生日にヒデキがキミとする3つの約束 4月13日に20歳をむかえる西城秀樹のある計画 約束1 専属のロックバンドを作る! 約束2 世界の舞台で『西城秀樹ショー』」『週刊セブンティーン』1975年4月22日号、集英社、54–57頁。 
  27. ^ 「ST芸能記者座談会 4人のアイドル10大ニュース' 75年総決算! アイドル(秘)全行動をご報告しま〜す」『週刊セブンティーン』1975年12月23日号、集英社、32-37頁。 
  28. ^ a b 鈴木英之「洋楽はアイドルが教えてくれた──70年代アイドルのライヴ・アルバムを聴く」(通算第13回) 西城秀樹-アルテス電子版、アルテスパブリッシング
  29. ^ a b 西城秀樹の記録映画『ブロウアップ ヒデキ』、東名阪Zeppで大音量上映!”. OKMusic. OKWAVE (2018年6月13日). 2018年6月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月29日閲覧。
  30. ^ 「HIDEKI 1975 RECITAL 11月3日・東京・日本武道館」『週刊セブンティーン』1975年12月2日号、集英社、99-103頁。 
  31. ^ 阿久悠オフィシャル・ウェブサイト あんでぱんだん
  32. ^ 朝丘雪路さんと西城秀樹さん、ともに舞台でも活躍」日刊スポーツ(2018年6月9日)
  33. ^ 坊っちゃん”. トムス・エンタテインメント 公式サイト. トムス・エンタテインメント. 2024年5月12日閲覧。
  34. ^ 西城秀樹さん事務所独立時の裏話 正真正銘の円満退社だった”. NEWSポストセブン (2018年5月29日). 2024年2月20日閲覧。
  35. ^ BIOGRAPHY”. 西城秀樹オフィシャルサイト. 2024年2月20日閲覧。
  36. ^ 西城さん、原爆への思い 絶頂期に出演したアニメ映画:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2021年6月23日閲覧。
  37. ^ 科学博テーマ曲熱唱 つくば、西城さん悼む声 - ウェイバックマシン(2018年6月3日アーカイブ分)
  38. ^ 西城秀樹公式サイトBiography
  39. ^ 「なんで、もう会えないんだろう」 西城秀樹の訃報に“80年代アイドル”西田ひかる、森口博子、早見優が思い明かす”. ねとらぼ (2018年5月19日). 2024年2月18日閲覧。
  40. ^ 西城秀樹が司会を務めた音楽番組『青春のポップス』をCSの歌謡ポップスチャンネルで2023年4月よりレギュラー放送スタート!”. PR TIMES (2023年3月30日). 2024年2月18日閲覧。
  41. ^ ミュージックinドラマ「ホシに願いを」|NHKクロニクル”. NHKアーカイブス. 2024年2月18日閲覧。
  42. ^ 大杉漣さん 西城秀樹さんを しのんで ミュージックinドラマ「ホシに願いを」[リンク切れ] - NHK
  43. ^ 川崎フロンターレ公式サイト 2004年5月22日付お知らせ、「「川崎市制80周年記念マッチ」7月2日(金)vs横浜FC イベント開催のお知らせ多くの芸能事務所から「冗談でしょ?」って言われるような費用しか用意できなかったのに...
  44. ^ 【ヒデキ!カンレキ!! 西城秀樹 感謝の歴史】(20)ヤングマン 競技場で精いっぱい歌う ”. 東京新聞 TOKYO Web (2016年7月13日). 2018年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月22日閲覧。
  45. ^ フラワードリーム in 東京ビッグサイト2015 公式サイト[リンク切れ]
  46. ^ 還暦ヒデキ感激…盟友・五郎登場に涙”. デイリースポーツ (2015年4月14日). 2024年2月18日閲覧。
  47. ^ 西城秀樹プロデュース 体験型市民農園「百果百菜」[リンク切れ]
  48. ^ 2月13日より西城秀樹監修「Y!mobile」CMが放送スタート![リンク切れ]
  49. ^ a b "西城秀樹さんの妻が明かした出会いと別れと「最初の脳梗塞」". NEWポストセブン. 2018年11月16日. 2018年11月16日閲覧
  50. ^ Jcastニュース「西城秀樹が脳梗塞再発 年内の仕事はキャンセル」(2011年12月21日 12:35配信)(2013年1月28日閲覧)
  51. ^ スポニチAnnex「西城秀樹 脳梗塞で2週間の入院予定」(2011年12月22日6:00配信) (2013年1月28日閲覧)
  52. ^ ※当日券あり 2018年4月14日(土) 足利市民会館 ※ネットからの受付は終了致しました。当日券の販売がございます。会場の当日券受付にお越し下さい。”. 同窓会コンサート-Club DSK-. 2021年8月7日閲覧。
  53. ^ 日本歌手協会”. www.nkk.or.jp. 2021年8月7日閲覧。
  54. ^ 西城秀樹「63歳突然死」までの傷だらけの「15年闘病」(1)心肺停止状態で救急搬送」『Asasgei+plus』2018年5月26日。2018年6月26日閲覧
  55. ^ 西城秀樹さんの妻が明かした出会いと別れと「最初の脳梗塞」”. NEWSポストセブン (2018年11月16日). 2021年8月1日閲覧。
  56. ^ 歌手、西城秀樹さんの通夜に列 法名は「修音院釋秀樹」 郷ひろみさん「心に穴」”. 産経新聞 (2018年5月25日). 2024年2月18日閲覧。
  57. ^ 新御三家 ヒデキと突然の別れ…野口五郎「言葉見つからない」郷ひろみ「寂しい」」『Sponichi ANNEX』 スポーツニッポン新聞社、2018年5月18日。2018年5月18日閲覧
  58. ^ 西城秀樹さん通夜に4000人 戒名にも「秀樹」」『Sponichi ANNEX』 スポーツニッポン新聞社、2018年5月25日。2018年5月25日閲覧
  59. ^ 西城秀樹さん告別式 郷ひろみ、野口五郎が弔辞」『ORICON NEWS』2018年5月26日。2018年5月26日閲覧
  60. ^ 西城秀樹さん出棺、1万人が「ヒデキ!」コール」『Nikkansports』 日刊スポーツ新聞社、2018年5月26日。2018年5月26日閲覧
  61. ^ 西城秀樹さんの妻が執筆した闘病記、オリコン初登場7位にランクイン”. RBB TODAY (2018年11月23日). 2024年2月18日閲覧。
  62. ^ 実はヘビースモーカー、20年前からインシュリン注射… 「西城秀樹さん」が抱えていた不摂生のリスク”. デイリー新潮. 2021年7月29日閲覧。
  63. ^ 西城秀樹さん“病に負けない心” 脳梗塞と多系統萎縮症に挑み続けた日々【第3回】 (1/2)”. 介護ポストセブン (2020年1月29日). 2021年7月28日閲覧。
  64. ^ 「西城秀樹さん」が明かしていた家族への感謝 献身「18歳年下妻」は実姉の紹介”. デイリー新潮. 2021年8月13日閲覧。
  65. ^ 日本初のスタジアム・ライブをしたアーティスト – 日本記録(公式)”. 日本記録認定協会. 2024年2月19日閲覧。
  66. ^ a b 【ヒデキ!カンレキ!! 西城秀樹 感謝の歴史】(17)球場コンサート 空中芸に父カンカン”. 東京新聞 TOKYO Web (2016年6月1日). 2018年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月22日閲覧。
  67. ^ a b c 「ただいまギネスブック申請考慮中 大阪球場コンサート連続10年 西城秀樹」『週刊平凡』1983年7月28日号、平凡出版、30-31頁。 
  68. ^ a b 「ビッグ・ゲームへの挑戦!!BIG GAME '78 HIDEKI 西城秀樹」『月刊平凡』1978年7月号、平凡出版、81-83頁。 
  69. ^ 「1人でも多くの人に喜ばれたい」西城秀樹”. R25 (2006年9月21日). 2016年12月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月28日閲覧。
  70. ^ 「西城秀樹」#みうら、177頁
  71. ^ 「なんばパークス」が全館グランドオープンします』(PDF)(プレスリリース)南海都市創造株式会社、2007年4月12日http://www.nankai.co.jp/library/company/news/pdf/070412.pdf2018年5月22日閲覧 
  72. ^ 西城秀樹さん死去 大阪でも悲しみの声「大阪球場コンサート行った」」『The Page OSAKA』 Wordleaf Corporation、2018年5月17日。2018年5月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月29日閲覧
  73. ^ @parks_official (2024年3月21日). "なんばゆかりの方々の手形が移設リニューアルしました!". X(旧Twitter)より2024年6月29日閲覧
  74. ^ 太田覚・生駒奈保美「《元祖 タコのキン肉本舗》 西城秀樹&山本リンダ"活火山化"の秘密」『Asahi journal』1991年6月21日号、朝日新聞社、55-57頁。 
  75. ^ a b 【ヒデキ!カンレキ!! 西城秀樹 感謝の歴史】(23)ペンライト 始まりは74年の懐中電灯”. 東京新聞 TOKYO Web (2016年8月24日). 2018年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月22日閲覧。
  76. ^ 「ケミカルライト(サイリウム)」の歴史は、こんなに壮大だった! 老舗・ルミカに聞く開発秘話”. Jタウンネット. ジェイ・キャスト (2016年10月31日). 2024年2月18日閲覧。
  77. ^ 「BIG3 HOT NEWS / 西城秀樹 郷ひろみ 野口五郎 第3回 "西城秀樹・情熱のファンキー・カーニバル"(8月14日大阪球場)完全ルポ」『月刊平凡』1976年11月号、平凡出版、86-87頁。 
  78. ^ 「〔mimi NEWS CENTER〕BIG3のビッグイベント 武道館リサイタル 西城秀樹」『mimi』1977年1月号、講談社、90頁。 
  79. ^ a b 「GUIDE 《西城秀樹》 Vol.5」『スタア』1975年9月号、平凡出版、108頁。 
  80. ^ a b 「西城秀樹 富士山での7月20日コンサート これが興奮の現場だ!—」『週刊セブンティーン』1975年7月8日号、集英社、36-39頁。 
  81. ^ a b 「内幕ニュース 西城秀樹をめぐり血みどろの強奪合戦 テレビ局vs.映画会社」『週刊平凡』1975年8月21日号、平凡出版、178-179頁。 
  82. ^ a b 「サンデートピックス ヒデキでテレビに負けた」『サンデー毎日』1975年9月21日号、毎日新聞社、42頁。 
  83. ^ a b 由原木七郎「日本映画評 映画の本質について考えてみませんか」『近代映画』、近代映画社、1979年5月13日号、164-165頁。 
  84. ^ #宮入、109-110頁
  85. ^ a b c 「炎のごとく赤旗星 西城秀樹香港コンサートが大成功!」『近代映画』1981年12月号、近代映画社、92 - 94頁。 
  86. ^ a b c d e 山口敏弘「INTERVIEW 西城秀樹」『ジャッキー・チェン 成龍讃歌』2017年7月20日、辰巳出版、3-06- 39頁、ISBN 978-4-7778-1754-2 
  87. ^ a b c d e f g h i 「《TVアングル》 ヒデキ、香港で大モテ! 12月公演を目指して広東語を特訓中ー」『週刊平凡』1983年6月30日、7月7日号、平凡出版、112-113頁。 
  88. ^ a b c d 「アジアのショー・ビジネスは日本よりレベルが高い」#熱き想い、142-146頁。
  89. ^ a b 第2回西城秀樹(後編)”. 2024年7月9日閲覧。
  90. ^ 『歌謡曲見えたっ』(平岡正明著)、ミュージック・マガジン、1982年、18頁
  91. ^ a b 「テレサ・テンと激戦した『ゴールド・ディスク大賞』」#熱き想い、146-151頁
  92. ^ a b 遠藤誉中国、人民網までが西城秀樹さんを悼む」『ニューズウィーク日本版CCCメディアハウス、2018年5月18日。2018年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月4日閲覧
  93. ^ a b c “【A1要聞】港人第一代東瀛偶像 西城秀樹病逝”. 蘋果新聞. (2018年5月18日). オリジナルの2018年7月3日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180703090919/https://hk.news.appledaily.com/local/realtime/article/20180518/58205416 2018年7月4日閲覧。 
  94. ^ 川崎浩 (1994年12月5日). "〔登場〕 西城秀樹 同世代へ共感伝える". 毎日新聞. 毎日新聞社. p. 21.
  95. ^ ザ・スター リバイバル 第2回ゲスト 西城秀樹”. BSフジ. 2016年12月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年7月9日閲覧。
  96. ^ 西城秀樹さん 香港でも大スター アグネス悼む「日本語ができなかった私にも…」”. デイリー (2018年5月18日). 2024年2月20日閲覧。
  97. ^ a b "【甘口辛口】 西城秀樹さん、脳梗塞発症後15年も病魔と闘い続けたのは壮絶の一語に尽きる". SANSPO COM. 産業経済新聞社. 2018年5月22日. 2018年5月20日閲覧
  98. ^ a b c d 「独占スクープ! 西城秀樹に香港の恋人がいた! "香港の百恵"アニタ・ムイの熱烈歓迎の陰に秘められたるものは?」『週刊明星』、集英社、1985年11月2日号、34-35頁。 
  99. ^ a b c 「〔やじウマ〕 平和の使者は"歌に国境はない" 西城秀樹」『月刊明星』1982年12月号、集英社、72–73頁。 
  100. ^ a b c d 「西城秀樹、海外で活躍 香港で成功、米進出狙う」『読売新聞』読売新聞社、1986年11月25日。
  101. ^ 「いちどウワサになってみたいね!? 西城秀樹・藤谷美和子 『ホームスイートホーム』(NTV)」『月刊平凡』1982年12月号、平凡出版、72–73頁。 
  102. ^ 「日本の有名スター死去」香港台湾でも西城さん報道”. 日刊スポーツ (2018年5月17日). 2024年2月18日閲覧。
  103. ^ 川崎浩「〔創造最前線〕 かつてのヒット曲を再び歌う、西城秀樹」『毎日新聞夕刊』毎日新聞社、1993年11月30日、11面。
  104. ^ 西城秀樹、逝去”. BARKS (2018年5月17日). 2024年2月20日閲覧。
  105. ^ 香港「IFPI Top Sales Music Award」表彰式に出席(サンケイスポーツ/2007年3月23日)
  106. ^ 「人気女優のアニタ・ムイはボクのファンクラブの副会長だった」#熱き想い、164-170頁。
  107. ^ 香港スターまで魅了した西城秀樹さん、「“妹”の元に旅立った」驚きと悲しみの声―香港”. Record China (2018年5月18日). 2024年2月20日閲覧。
  108. ^ 西城秀樹の死去 香港中が深い悲しみに包まれる”. 香港BS (2018年5月18日). 2024年2月20日閲覧。
  109. ^ 渡部圭「世界の町から 香港 天国に輝く友好の星」『東京新聞夕刊』中日新聞東京本社、2004年1月8日、6面。
  110. ^ a b 西城秀樹さん 中国のファンからも惜しむ声」『NHK NEWS WEB』NHK、2018年5月17日。2018年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月3日閲覧
  111. ^ a b c d e f g 「熱いコールに多謝(どおちえ) きっといつか再見(つあいちえん) 西城秀樹」『週刊明星』、集英社、1987年2月2日号、188-191頁。 
  112. ^ 白石徹「芸は上海にあり 目指すは世界デビュー 『芸術学校』若者に人気 日本の安室やSPEED夢見て猛特訓」『東京新聞夕刊』中日新聞東京本社、1998年8月24日、10面。
  113. ^ “新生面/コラム/5月18日付”. 熊本日日新聞 (熊本日日新聞社). (2018年5月18日). オリジナルの2018年5月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180518073840/https://kumanichi.com/column/shinseimen/475762/ 2018年6月4日閲覧。 
  114. ^ 西城秀樹オフィシャルサイトBiography
  115. ^ NEWS|丸井グループ 丸井織物株式会社
  116. ^ a b 鈴置高史ソウル特派員 (1988年9月17日). “前夜祭で西城秀樹、日本語のまま韓国で歌う。”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): pp. 31 
  117. ^ 山本浩 (2020年1月21日). “スポーツジャーナリストが見た五輪とTOKYO2020 「しびれた前夜祭」、88年ソウル大会の濃い思い出-山本浩の五輪の風景(1)”. 2024年7月8日閲覧。
  118. ^ 「あげるよねえ〜はるなの愛」、日刊スポーツ、2010年11月8日
  119. ^ a b 「『アジア音楽祭イン福岡』 司会は西城秀樹と蓮舫 テレビ東京・あす生中継」『毎日新聞』毎日新聞社、1996年5月27日、17面。
  120. ^ 「〔エッセイ〕 ふるさと 望郷の歌 西城秀樹」『海外移住KAIGAIIJU』、国際協力機構、2000年1月号 NO.591、1頁。 
  121. ^ 23年ぶりに歌声を披露=西城秀樹がドリームコンサート出演=万雷の拍手、感動の舞台”. ニッケイ新聞 (2012年9月18日). 2024年2月20日閲覧。
  122. ^ <西城秀樹 ヒデキ!カンレキ!!> (21)続・ヤングマン”. TOKYO Web. 中日新聞 (2016年7月27日). 2016年7月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月22日閲覧。
  123. ^ a b c d 【変革 ハウス食品グループ】ヒデキ、感激! 宮崎アニメ 多様化する広告戦略」『産経ニュース』 産業経済新聞社、2020年1月28日。2020年3月23日閲覧
  124. ^ a b 【西城秀樹 ヒデキ!カンレキ!!】(18)テレビコマーシャル 「ピース」の陰に“演出家””. 東京新聞 TOKYO Web (2016年6月15日). 2018年6月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月22日閲覧。
  125. ^ あのカレーのパッケージが秀樹還暦仕様”. デイリースポーツ online (2015年4月13日). 2024年2月19日閲覧。
  126. ^ 「大変お世話になりました」ハウス食品グループ本社 カレー「ヒデキ、感激」で国民食に」『産経ニュース』 産業経済新聞社、2018年5月17日。2018年5月19日閲覧
  127. ^ 西城秀樹さん通夜、会葬御礼は「バーモントカレー」」『日刊スポーツ』 日刊スポーツ、2018年5月25日。2018年5月26日閲覧
  128. ^ 伝説の昭和の家庭が甦る!「寺内貫太郎一家」DVD-BOX発売へ”. サンスポ (2016年3月20日). 2024年2月20日閲覧。
  129. ^ 西城秀樹さんの“伝説”と元フライデー記者もお手上げだった優しい素顔”. 週刊女性PRIME (2018年5月19日). 2024年2月20日閲覧。
  130. ^ 「独占スクープ 西城秀樹が連続TVドラマ『寺内貫太郎一家』(TBS)に初のレギュラー出演 『ヒデキ日本のジェームス・ディーンになれ!』」『週刊セブンティーン』1973年12月18日号、集英社、34–37頁。 
  131. ^ <西城秀樹 ヒデキ!カンレキ!!> (19)寺内貫太郎一家”. 東京新聞 TOKYO Web (2016年6月29日). 2018年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月22日閲覧。
  132. ^ a b 小林亜星「アセイのあなろぐ語録」(37) 東京スポーツ、2008年6月11日
  133. ^ #みうら、186頁
  134. ^ a b 【復刻】スポーツ万能「金メダル」の西城秀樹さん
  135. ^ 海育ちの山川豊、西城秀樹さんをしのぶ「水泳大会ではかなわなかった」
  136. ^ キャシー中島明かす 西城さんのプロ魂「ファンのために歌うから、女の子とは…」
  137. ^ 竹島勇「フジ名物番組『オールスターー〜』 "芸能人水泳大会"どこへ 『水着はイヤ!』派増えて幕...アイドル像とともに浮沈」『東京新聞夕刊』中日新聞東京本社、2001年8月16日、16面。
  138. ^ 音楽偉人伝 第2回 西城秀樹(後編)”. 音楽ナタリー. 2024年7月11日閲覧。
  139. ^ 西城秀樹さん 45歳の“ギャランドゥ”、よみがえる独身最後の写真集”. スポニチ (2018年7月24日). 2018年7月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月25日閲覧。
  140. ^ 松任谷由実、西城秀樹さんとの共演を振り返る「切ないです」”. マイナビニュース (2018年5月28日). 2024年2月18日閲覧。
  141. ^ 【帰ってきたアイドル親衛隊】人気絶頂の頃は近づくことすらできなかった西城秀樹…やっと撮れる日が来たのだが”. リアルライブ (2016年8月27日). 2024年2月20日閲覧。
  142. ^ 西城秀樹が死去。「ギャランドゥ」という憧れスタイル”. まいじつ (2018年5月18日). 2024年2月20日閲覧。
  143. ^ 【新堂本兄弟】 ゲスト:つんく♂[リンク切れ] – フジテレビ公式サイト
  144. ^ 「【話の肖像画】 音楽プロデューサー つんく♂さん」『産経新聞』産業経済新聞、2003年5月13日。
  145. ^ 西城秀樹「走れ正直者」の誕生秘話”. ニッポン放送 NEWS ONLINE (2018年5月9日). 2024年2月20日閲覧。
  146. ^ まるまるちびまる子ちゃん-第20話-”. フジテレビ. 2024年2月18日閲覧。
  147. ^ さくらももこ公式ブログ ご冥福を御祈りします。 - ウェイバックマシン(2018年5月18日アーカイブ分)
  148. ^ 天才テリー伊藤対談「相本久美子」芸能界デビューはサイン会見学から”. アサ芸プラス. 徳間書店 (2015年9月15日). 2024年2月18日閲覧。
  149. ^ 増殖中“妹分アイドル”のメリットとデメリット
  150. ^ 「復活大ブーム あの素晴らしい『70年代歌謡曲』をもう一度! インタビュー西城秀樹」『アサヒ芸能』2010年7月5日号、徳間書店、65-66頁。 
  151. ^ 「堤清二のこの女(ひと)に会いたい 第2回ゲスト 岸本加世子」『サンデー毎日』、毎日新聞社、1984年6月24日、42-46頁。 
  152. ^ a b 西城秀樹さんの妻が『徹子の部屋』に出演。壮絶な闘病生活を明かす”. テレ朝POST. テレビ朝日 (2018年12月3日). 2024年8月16日閲覧。
  153. ^ Cano, Rachelle (2015年7月2日). “Music, Magic, and Masa: From Anime to J-Pop in the Blink of an Eye - Part 1” (英語). Discover Nikkei. Nikkei. 2018年6月15日閲覧。
  154. ^ 西城さん長男“イケメン登竜門”書類審査通過 芸能界入りへ”. 日刊ゲンダイDIGITAL. 日刊現代 (2021年1月28日). 2024年2月18日閲覧。
  155. ^ 西城秀樹さん長男が木梨憲武ステージにサプライズ登場「お父さんそっくり。まもなくデビュー」”. 日刊スポーツ. 日刊スポーツ新聞社 (2023年11月12日). 2023年11月13日閲覧。

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]