「チャールズ・チャップリン」の版間の差分
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| 画像コメント = チャールズ・チャップリン(1920年) |
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| 本名 = チャールズ・スペンサー・チャップリン |
| 本名 = チャールズ・スペンサー・チャップリン(Charles Spencer Chaplin) |
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| 別名義 = チャーリー・チャップリン(Charlie Chaplin) |
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| 生年 = 1889 |
| 生年 = 1889 |
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| 配偶者 = [[ミルドレッド・ハリス]](1918年 - 1920年)<br/>[[リタ・グレイ]](1924年 - 1928年)<br/>[[ポーレット・ゴダード]](1936年 - 1942年)<br/>[[ウーナ・オニール]](1943年 - 1977年) |
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| 公式サイト = {{url|https://www.charliechaplin.com/|charliechaplin.com}} |
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| 主な作品 = 『[[キッド (1921年の映画)|キッド]]』(1921年)<br />『[[黄金狂時代]]』(1925年)<br />『[[街の灯]]』(1931年)<br />『[[モダン・タイムス]]』(1936年)<br />『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』(1940年)<br />『[[殺人狂時代 (1947年の映画)|殺人狂時代]]』(1947年)<br/>『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』(1952年) |
| 主な作品 = 『[[キッド (1921年の映画)|キッド]]』(1921年)<br />『[[巴里の女性]]』(1923年)<br/>『[[黄金狂時代]]』(1925年)<br />『[[街の灯]]』(1931年)<br />『[[モダン・タイムス]]』(1936年)<br />『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』(1940年)<br />『[[殺人狂時代 (1947年の映画)|殺人狂時代]]』(1947年)<br/>『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』(1952年) |
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| アカデミー賞 = '''[[アカデミー作曲賞|作曲賞]]'''<br />[[第45回アカデミー賞| |
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー作曲賞|作曲賞]]'''<br />[[第45回アカデミー賞|1973年]]『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』<br /> '''[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]'''<br />[[第1回アカデミー賞|1929年]]『[[サーカス (映画)|サーカス]]』の製作・監督・脚本・演技で示した才能に対して<br />[[第44回アカデミー賞|1972年]] 今世紀が生んだ芸術である映画の製作における計り知れない功績に対して |
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| ブルーリボン賞 = '''外国映画賞'''<br />[[1952年]]『[[殺人狂時代 (1947年の映画)|殺人狂時代]]』 |
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[[ファイル:Firma de Charles Chaplin.svg|thumb|260px|チャールズ・チャップリンのサイン。]] |
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'''サー・チャールズ・スペンサー・チャップリン'''(Sir Charles Spencer "Charlie" Chaplin, [[KBE]]、[[1889年]][[4月16日]] - [[1977年]][[12月25日]])は、[[イギリス]]出身の[[映画]][[俳優]]、[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[映画プロデューサー]]、[[作曲家]]である。 愛称は「'''チャーリー'''」。 |
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'''サー・チャールズ・スペンサー・チャップリン'''({{Lang-en-short|Sir Charles Spencer Chaplin}}, [[KBE]]、[[1889年]][[4月16日]] - [[1977年]][[12月25日]])は、[[イギリス]]出身の[[映画]][[俳優]]、[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[映画プロデューサー]]、[[作曲家]]である。[[サイレント映画]]時代に名声を博した[[コメディアン]]で、[[山高帽]]に大きなドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装のキャラクター「{{仮リンク|小さな放浪者|en|The Little Tramp}}」を通じて世界的な人気者になり、[[映画史]]の中で最も重要な人物のひとりと考えられている。[[スラップスティック・コメディ|ドタバタ]]に[[ペーソス]]を組み合わせた作風が特徴的で、作品の多くには自伝的要素や社会的及び政治的テーマが取り入れられている。チャップリンのキャリアは70年以上にわたるが、その間にさまざまな称賛と論争の対象となった。 |
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チャップリンの子供時代は貧困と苦難に満ちており、貧民院に何度も収容される生活を送った。やがて舞台俳優や芸人として[[ミュージック・ホール]]などの舞台に立ち、19歳で名門の{{仮リンク|フレッド・カーノー|en|Fred Karno}}劇団と契約した。そのアメリカ巡業中に映画業界からスカウトされ、[[1914年]]に[[キーストン・スタジオ|キーストン社]]で映画デビューした。チャップリンはすぐに小さな放浪者を演じ始め、自分の映画を監督した。その後は[[エッサネイ・スタジオ|エッサネイ社]]、{{仮リンク|ミューチュアル社|en|Mutual Film}}、{{仮リンク|ファースト・ナショナル社|en|First National}}と移籍を重ね、[[1919年]]には配給会社[[ユナイテッド・アーティスツ]]を共同設立し、自分の映画を完全に管理できるようにした。1920年代に長編映画を作り始め、『[[キッド (1921年の映画)|キッド]]』(1921年)、『[[黄金狂時代]]』(1925年)、『[[街の灯]]』(1931年)、『[[モダン・タイムス]]』(1936年)などを発表した。『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』(1940年)からは[[トーキー]]に完全移行したが、1940年代に私生活のスキャンダルと[[共産主義]]的傾向の疑いで非難され、人気は急速に低下した。[[1952年]]に『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』のプレミア上映のためロンドンへ渡航中、アメリカへの再入国許可を取り消され、それ以後は亡くなるまで[[スイス]]に定住した。[[1972年]]に[[第44回アカデミー賞]]で「今世紀が生んだ芸術である映画の製作における計り知れない功績」により[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]を受賞した。 |
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映画の黎明期において、数々の傑作[[コメディ映画]]を作り上げ、「'''[[喜劇]]王'''」の異名をもつ。同年代に活躍したコメディアン、[[バスター・キートン]]や[[ハロルド・ロイド]]と並び、「世界の三大喜劇王」と呼ばれる。チャップリンは、[[ハリウッド]]において極めてマルチな才能を示した人物であり、徹底した完璧主義で知られていた。その作品は、笑いと[[ユーモア]]の陰に鋭い[[風刺|社会諷刺]]、下町に生きる庶民の哀愁や怒り、涙までも描かれている。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 初期の人生:1889年~1913年 === |
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==== 出生と子供時代 ==== |
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[[1889年]][[4月16日]]、[[イギリス]]・[[ロンドン]]のケニントン地区、ランベスのイースト・レーンで生まれた{{Efn|「近年発見されたチャップリン宛の手紙では、彼がバーミンガム郊外のジプシー集落で生まれたとある<ref>[http://www.guardian.co.uk/film/2011/feb/17/charlie-chaplin-gypsy-heritage Was Charlie Chaplin a Gypsy?]</ref>」などと報道されたが、チャップリン研究の大野裕之によると{{信頼性要検証|date=2013年1月}}、この手紙の存在は以前から研究者の間で知られており、「薄気味悪い話の好きなチャップリンは頭のおかしな人からの手紙をとっておいただけ」とのことである。}}。 |
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[[File:Chaplin at Hanwell.jpg|thumb|180px|ハンウェルの学校における7歳のチャップリン(上から3列目の中央)。]] |
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父は[[チャールズ・チャップリン・シニア]]、母は[[ハンナ・チャップリン]]で、ともに[[ミュージック・ホール]]の俳優である。1歳のときに両親は離婚し、以降は母親のもとで育てられた。 |
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{{Quote box|width=30%|align=right|quote=毎日毎日が窮乏の連続だったので、私自身としては、別に一家の危機といった感じはほとんどなかった。それに、まだ子供のことではあり、そんな不幸は簡単に忘れてしまっていた。|source=チャールズ・チャップリン、幼少期の回想{{Sfn|チャップリン|1966|pp=4-5}}}} |
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[[1889年]]4月16日、チャールズ・スペンサー・チャップリン(以下チャップリン)は父の[[チャールズ・チャップリン・シニア]](以下チャールズ)と母の[[ハンナ・チャップリン]]との間に生まれた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=32}}。チャップリンは自伝で、[[ロンドン]]南部の[[ウォルワース]]の{{仮リンク|イースト・ストリート|en|East Street Market}}で生まれたとしているが{{Sfn|チャップリン|1966|p=7}}、公式の出生記録は存在していない{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=32}}。両親は4年前に結婚したが、ハンナはその時までに非嫡出子の[[シドニー・チャップリン (1885年生)|シドニー]]を出産していた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=26}}{{Refnest|group="注"|シドニーの父親の身元は確かではないが、ホークスという金持ちの出版業者であるとされている{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=26}}。}}。両親は共に[[ミュージック・ホール]]の芸人で、チャールズは人気歌手だったが、ハンナは芽の出ない女優だった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=28-30}}。[[1891年]]までに両親は別居し、翌[[1892年]]にハンナは夫の芸人仲間の{{仮リンク|レオ・ドライデン|en|Leo Dryden}}との間に[[ウィーラー・ドライデン|ジョージ・ウィーラー・ドライデン]]を出産したが、ジョージは生後6ヶ月でレオに強引に連れ去られ、それから30年近くもチャップリンの前に姿を見せることはなかった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=36, 38-39}}。 |
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幼少期のチャップリンは、[[ロンドン特別区]]の{{仮リンク|ケニントン|en|Kennington}}でハンナとシドニーと生活していたが、ハンナには時折の洋裁や看護で小銭を稼ぐ以外に収入がなく、チャールズは養育費さえも支払わなかった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=40-41}}。貧困とハンナの病気入院により、チャップリンは7歳の時にシドニーと{{仮リンク|ランベス貧民院|en|Lambeth Workhouse}}に収容され、すぐに{{仮リンク|ハンウェル|en|Hanwell}}にある孤児や貧困児のための学校に移された{{Sfn|チャップリン|1966|pp=20-22}}{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=43-44}}。[[1898年]]1月にチャップリンは同校を退校し、ハンナとシドニーと屋根裏部屋を転々とする生活を送ったが、やがてそれも打つ手がなくなり、7月に三人ともランベス貧民院に収容された{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=48-49, 426}}。貧民院では親子兄弟といえどもばらばらに収容されたが、8月12日に三人で申し合わせて退院手続きをとり、ケニントン・パークで久しぶりに一緒に一日を過ごした。三人はシドニーが手に入れた9[[ペニー|ペンス]]で昼食をとり、新聞紙を丸めたボールでキャッチボールをしたりして、親子水入らずの時間を楽しんだあと、夕方に貧民院に再収容された{{Sfn|大野|2017|pp=16-18}}。チャップリンは収容後すぐに{{仮リンク|ノーウッド|en|West Norwood}}にある貧困児のための学校に移された{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=426}}。 |
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5歳のとき、[[オールダーショット]]の劇場での公演で、舞台に立っていた母ハンナが喉をつぶしてしまう。そこで支配人は、チャーリーが舞台裏で様々な芸で母親の友人たちを笑わせているところを見たため、彼を急きょ舞台に立たせることにした。チャーリーはそこで歌を歌って大喝采を浴びた。これがチャーリー・チャップリンの初舞台となった。しかし、これによって母親は二度と舞台に立つことができず、チャップリン家は貧窮生活に陥った。そして[[1896年]]頃に母親は精神に異常をきたし施設に収容された。 |
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1898年9月、ハンナは[[栄養失調]]と[[梅毒]]を原因とする精神病を発症したため、{{仮リンク|ケイン・ヒル精神病院|en|Cane Hill Hospital}}に収容された{{Sfn|Weissman|2009|pp=49-50}}。それに伴いチャップリンとシドニーはノーウッドの学校を退校し、ケニントンに住んでいた父のチャールズに引き取られた。チャップリンはそれまでに父の姿を2回しか見ていなかった{{Sfn|チャップリン|1966|pp=28-29}}。チャールズは重度の[[アルコール依存症]]に陥っており、そこでの生活は児童虐待防止協会が訪問するほど悪いものだった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=51-52}}。11月にハンナは病状が落ち着いたため退院し、チャップリンとシドニーは父のもとを離れ、再び三人で生活を始めた{{Sfn|チャップリン|1966|pp=36-38}}。チャールズは[[1901年]]に[[肝硬変]]のため38歳で亡くなった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=62}}。 |
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どん底生活を余儀なくされたチャーリーは、4歳違いの異父兄[[シドニー・チャップリン (1885年生)|シドニー]]といくつかの貧民院や孤児学校を渡り歩き、生きるために床屋、印刷工、ガラス職人、新聞やマーケットの売り子とあらゆる職を転々とし、時にはコソ泥まで働いた。その傍ら俳優斡旋所に通い、[[1899年]]に木靴ダンスの一座「エイト・ランカシア・ラッズ」に加わった。[[1901年]]、父チャールズ・シニアが[[アルコール依存症]]で死去。 |
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==== 舞台デビュー ==== |
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[[1903年]]、『ロンドン子ジムの物語』のサム役、『[[シャーロック・ホームズ]]』のビリー役を演じ、地方巡業にも参加。その後、様々な劇団を転々とし演技のスキルを積んでいった。 |
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[[File:Chaplin in Sherlock Holmes.jpg|thumb|left|160px|舞台『{{仮リンク|シャーロック・ホームズ (舞台)|label=シャーロック・ホームズ|en|Sherlock Holmes (play)}}』でビリー役を演じた10代のチャップリン。]] |
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チャップリンの初舞台は5歳の時だった。[[オールダーショット]]の劇場で舞台に立っていたハンナが出演中に喉をつぶして野次を浴びてしまい、支配人はチャップリンが舞台袖でさまざまな芸でハンナの友人たちを笑わせているのを見て、急遽代役として舞台に立たせることにした。チャップリンは舞台で歌を歌って大喝采を浴びた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=40-41}}{{Sfn|チャップリン|1966|pp=12-13}}。この舞台出演は一時的なものだったが、チャップリンは9歳までにハンナの教えで舞台に興味を持つようになった。自伝では「母はわたしに舞台に対する興味を植え付けだした。自分には才能があると、わたしが思い込むように仕向けた」と述べている{{Sfn|チャップリン|1966|pp=36-38}}。1898年末、チャップリンは父親とのつながりを通じて{{Sfn|Marriot|2005|p=4}}、木靴ダンスの{{仮リンク|エイト・ランカシア・ラッズ|en|The Eight Lancashire Lads}}の座員となり、[[1899年]]から[[1900年]]にかけてイギリス中のミュージック・ホールを巡業した{{Refnest|group="注"|チャップリンがエイト・ランカシア・ラッズを退団した正確な時期ははっきりとしていないが、映画史家のA.J.マリオットは調査に基づいて、その時期を1900年12月としている{{Sfn|Marriot|2005|p=213}}。}}。チャップリンは懸命に働き、舞台も人気を得ていたが、ダンスだけでは満足せず、コメディアンになることを夢見るようになった{{Sfn|チャップリン|1966|pp=40-41}}。 |
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チャップリンはエイト・ランカシア・ラッズと行動を共にした数年間、巡業先の学校を転々として通っていたが、13歳までに学業を断念した{{Sfn|チャップリン|1966|pp=40-41}}{{Sfn|Louvish|2010|p=19}}{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=66-69}}。チャップリンは俳優になるという目標を持ちながら、生活のために食品雑貨店の使いの小僧、診療所の受付、豪邸のボーイ、ガラス工場や印刷所の工員など、さまざまな仕事を経験した{{Sfn|チャップリン|1966|pp=58-59, 79}}。[[1903年]]5月にハンナは病気が再発し、再びケイン・ヒル精神病院に送られた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=66-69}}。8ヶ月後にハンナは退院したが、[[1905年]]3月に再び病状が悪化したため入院し、それ以降は病状が完全に回復することはなかった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=81-82, 84-85, 428-429}}。自伝では「もはや諦めて母の運命を受け容れるしかなかった」と述べている{{Sfn|チャップリン|1966|p=92}}。ハンナは[[1928年]]8月に亡くなり、チャップリンはその後数週間もショックで立ち直れなかったという{{Sfn|大野|2005|p=87}}。 |
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[[1908年]]、兄の勧めで名門{{仮リンク|フレッド・カーノー|en|Fred Karno}}劇団に入り{{Efn|この劇団には後に[[ローレル&ハーディ]]として有名になるスタン・ローレルも在籍していた。}}、寸劇『フットボール試合』のけちんぼ役、『恐れ知らずのジミー』などで成功。一座の若手看板俳優となった。この頃15歳のコーラス・ガール[[ヘティ・ケリー]]に恋をする。 |
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1903年にハンナが入院した直後、チャップリンは[[ウエスト・エンド (ロンドン)|ウエスト・エンド]]にある俳優周旋所に名前を登録した。まもなく興行主[[チャールズ・フローマン]]の事務所の紹介で、俳優{{仮リンク|H・A・セインツベリー|en|Harry Arthur Saintsbury}}の舞台『ロンドン子ジムのロマンス』の少年サム役を与えられた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=72-75, 428}}。舞台は1903年7月に開幕し、チャップリンのコミカルで快活な演技は批評家の賞賛を受けたが、舞台自体は成功せず2週間で打ち切られた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=72-75, 428}}{{Sfn|Marriot|2005|pp=42-44}}。続いてフローマンが興行する『{{仮リンク|シャーロック・ホームズ (舞台)|label=シャーロック・ホームズ|en|Sherlock Holmes (play)}}』でビリー役を演じ、3度の全国巡業に参加した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=81-82, 84-85, 428-429}}。1905年9月の3度目の巡業中には、[[シャーロック・ホームズ|ホームズ]]役者で有名な[[ウィリアム・ジレット]]の舞台に出演するためロンドンに呼ばれ、10月から12月にかけてジレット主演の『シャーロック・ホームズ』でビリー役を演じた{{Sfn|Marriot|2005|p=217}}{{Refnest|group="注"|ウィリアム・ジレットは、シャーロック・ホームズの舞台を[[アーサー・コナン・ドイル]]と共作し、1899年の初演以来ホームズを演じていた。1905年にジレットは新作喜劇『クラリス』をデューク・オブ・ヨーク劇場で上演したが不評で、急遽『苦境に立つシャーロック・ホームズ』を公演に追加し、チャップリンはこの作品でビリー役に抜擢された。公演は失敗したため数日で終了し、『シャーロック・ホームズ』の再演に引き継がれると、チャップリンも引き続きビリー役を演じた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=86-88}}。}}。[[1906年]]初頭に4度目の『シャーロック・ホームズ』の全国巡業に参加し、これを最後に2年半以上演じてきたビリー役と別れを告げた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=92}}。 |
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[[1909年]]、[[パリ]]巡業。[[1910年]]、寸劇『スケート』や『ワウワウ』に主演し好評を博す。 [[アメリカ合衆国|アメリカ]]および[[カナダ]]各地を巡業。ことにボックス席の酔っ払いが騒動を巻きおこす『マミング・バーズ(唖鳥)』は当たり役となり、以後『ロンドン・クラブの一夜』と題されて成功をおさめた。 |
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==== フレッド・カーノー劇団 ==== |
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=== 映画界へ === |
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[[File:Chaplin Karno advert.jpg|thumb|right|200px|[[フレッド・カーノー]]劇団とチャップリンのアメリカ巡業時の広告(1913年)。]] |
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チャップリンはすぐに新しい劇団で仕事を見つけ、1906年3月に[[スケッチ・コメディー]]『修繕』の巡業にシドニーとともに参加した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=94-100}}。同年5月にはケイシーズ・コート・サーカスの子供グループに参加し{{Sfn|Marriot|2005|p=71}}、[[1907年]]7月に退団するまで花形コメディアンとして活躍した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=94-100}}{{Sfn|チャップリン|1966|pp=99}}。しかし、チャップリンは次の仕事先を見つけるのに苦労し、しばらく失業状態となった。この頃に[[ユダヤ人]]のコメディアンとして一人で舞台に立とうと試みたが、テスト公演をしたのがユダヤ人地区の劇場にもかかわらず、反ユダヤ的なギャグを含む出し物をしたため、観客の野次を浴びて大失敗した{{Sfn|チャップリン|1966|pp=101-102}}。 |
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[[1913年]]、カーノー劇団の2度目のアメリカ巡業の際に、映画プロデューサー[[マック・セネット]]の目にとまり、週給150ドルの契約で、「[[キーストン・コップス]]」で有名な[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[カリフォルニア]]の映画会社[[キーストン・スタジオ]]に入社する。翌[[1914年]]、『[[成功争ひ]]』で映画デビュー。セネットに「面白い格好をしろ」と要求され、チャップリンは楽屋にいって山高帽に窮屈な上着、だぶだぶのズボンにドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装で、2作目の『[[ヴェニスの子供自動車競走]]』に出演。以降『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』(1940年)までこの扮装が彼のトレードマークとなった。 |
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一方、シドニーは1906年にコメディの名門{{仮リンク|フレッド・カーノー|en|Fred Karno}}劇団に入り、その花形コメディアンになっていた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=108-109}}{{Sfn|Kamin|2011|p=12}}{{Sfn|Marriot|2005|p=85}}。[[1908年]]2月、シドニーは失業中のチャップリンに仕事を与えるようカーノーに頼み、チャップリンは2週間のテスト出演のチャンスを貰った。カーノーは当初、チャップリンを「青白くて発育の悪い、無愛想な若者」「舞台もろくにできないぐらいの恥ずかしがり屋」と見なしていた。しかし、チャップリンはロンドンの{{仮リンク|コロシアム劇場|en|London Coliseum}}で行われたテスト出演で、アドリブのギャグで笑いを取ったことが認められ、2月21日にカーノーと契約を交わした{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=108-109}}。 |
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キーストン社のトップスターである[[フォード・スターリング]]や[[メーベル・ノーマンド]]、[[ロスコー・アーバックル]]らと共演し、たちまち人気者となったチャップリンは、同年に『[[恋の二十分]]』で初めて監督・脚本を務めた。この年だけでチャップリンは35本の短編と、『[[醜女の深情け|醜女の深情]]』というマック・セネット監督の長編に出演している。 |
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カーノー劇団でのチャップリンは脇役を演じることから始まり、[[1909年]]に主役級を演じるようになった{{Sfn|Marriot|2005|pp=103, 109}}。なかでも酔っ払いがドタバタを巻き起こす『啞鳥』が当たり役だった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=115-116}}。[[1910年]]4月には新作寸劇『恐れ知らずのジミー』の主役で成功を収め、批評家の注目を集めた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=118-120}}{{Sfn|Marriot|2005|pp=126-128}}。同年10月、チャップリンはカーノー劇団のアメリカ巡業に参加し{{Refnest|group="注"|このアメリカ巡業には、のちに[[ローレル&ハーディ]]で知られる[[スタン・ローレル]]が「スタン・ジェファソン」の芸名で参加していた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=110, 123}}。}}、批評家から「これまでに見た中で最高のパントマイム芸人の一人」と評された。最も成功した演目は『イギリス・ミュージックホールの一夜』(『啞鳥』の改題)で、その演技でアメリカでの名声を獲得した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=131}}。アメリカ巡業は21ヶ月も続き、[[1912年]]6月にイギリスに帰国したが、10月には再びアメリカ巡業に参加した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=132, 431-432}}。 |
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=== 国際的スター === |
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[[1915年]]、[[シカゴ]]の[[エッサネイ・スタジオ]]に週給1,250ドルの契約で移籍。自身で監督・脚本・主演した作品を14本作り、チャップリン演じる浮浪者が繰り広げる[[スラップスティック・コメディ映画|ドタバタコメディ]]は人気を博した。エッサネイ社第2作の『[[アルコール夜通し転宅]]』で[[エドナ・パーヴァイアンス]]が起用され、以後8年間、公私ともに良きパートナーとして過ごす。 |
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=== 映画スターに:1914年~1922年 === |
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[[ファイル:Charlie Chaplin circa 1916.jpg|thumb|right|200px|チャップリン (1916年頃)]] |
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==== キーストン社時代 ==== |
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[[1916年]]、週給1万ドルにボーナス15万ドル、年額67万ドル(アメリカ大統領の年俸の7倍)という破格の契約金で{{仮リンク|ミューチュアル・フィルム|en|Mutual Film}}に迎えられる。ここでは製作の自由を与えられ、よりよい環境とスタッフのもとで12本の傑作を世に送った。 |
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{{multiple image |align=left |direction=vertical |width=200 |image1=ChaplinMakinALiving.jpg |caption1=『[[成功争ひ]]』(1914年)のチャップリン(右側)。|image2=Chaplin Kid Auto Races.jpg |caption2=『[[ヴェニスの子供自動車競走]]』(1914年)で初めて「小さな放浪者」の扮装を披露したチャップリン。}} |
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[[1913年]]、チャップリンは2度目のアメリカ巡業中に{{仮リンク|ニューヨーク映画会社|en|New York Motion Picture Company}}の支配人{{仮リンク|アダム・ケッセル|en|Adam Kessel}}から、傘下の[[キーストン・スタジオ|キーストン社]]と契約する話を受けた{{Refnest|group="注"|キーストン社がチャップリンを見出した経緯は諸説ある。[[マック・セネット]]によると、ニューヨークの劇場で『イギリス・ミュージックホールの一夜』に出演したチャップリンを見て、彼を引き入れるようケッセルに頼んだという{{Sfn|セネット|2014|pp=195-196}}。チャップリンも自伝でこの話を採用している{{Sfn|チャップリン|1966|pp=153-154}}。これ以外の説では、ケッセルがニューヨークの劇場で発見したという説や、ニューヨーク映画会社重役の{{仮リンク|ハリー・エイトキン|en|Harry Aitken}}が発見したという説がある{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=138-139}}。}}。キーストン社はテンポの早いドタバタの短編喜劇を量産していた会社で{{Sfn|大野|2005|p=21}}、すでに退社した人気スターの{{仮リンク|フレッド・メイス|en|Fred Mace}}の穴を埋める俳優を探していた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=140-141}}。チャップリンはキーストン社の作風をあまり好まなかったが、舞台の仕事に変わるものを求めていたこともあり、9月25日に週給150ドルで契約を交わした{{Sfn|チャップリン|1966|pp=153-154}}{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=140-141}}。12月初旬にチャップリンはスタジオがある[[ロサンゼルス]]に到着し、撮影所長の[[マック・セネット]]と対面した。セネットはチャップリンの容貌が若すぎることに不安を感じたが、チャップリンは「老けづくりなら簡単にできる」と返事した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=145-147}}{{Sfn|チャップリン|1966|p=156}}。 |
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[[1914年]]1月末までチャップリンは映画に使われず、その間は映画製作の技術を学ぶための見学に充てられた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=145-147}}。チャップリンの映画デビュー作は、2月2日公開の『[[成功争ひ]]』である。この作品でチャップリンが演じたのは、洒落た[[フロックコート]]に[[シルクハット]]、[[モノクル]]を付け、八の字髭を生やした扮装の、女たらしの詐欺師である{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=145-147}}{{Sfn|チャップリン|1966|pp=160-161}}。チャップリンはこの作品を嫌ったが、マスコミはその演技に早くも注目し、「第一級のコメディアン」と賞賛する業界紙もあった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=148}}。チャップリンは2本目の出演作のために、セネットの指示で喜劇の扮装を決めることになり、トレードマークとなる「{{仮リンク|小さな放浪者|en|The Little Tramp}}」の扮装を作り上げた。チャップリンの自伝によると、衣裳部屋に行く途中でふとだぶだぶのズボン、大きなドタ靴、ステッキ{{Refnest|group="注"|チャップリンが持っている[[竹]]のステッキは、当時の特徴的な紳士用品だった。19世紀半ばから20世紀初頭のイギリス紳士の間では、ステッキの材質に竹や籐を使うのがポピュラーで、特にしなやかで丈夫な日本製の竹が流行した{{Sfn|セネット|2014|p=214}}。チャップリンが使用したステッキは、[[滋賀県]][[草津市]]産の竹根鞭細工で、これはイギリスでも広く普及したものだった<ref>{{Cite web |url=https://www.city.kusatsu.shiga.jp/citysales/miryoku/column/h30/chaplin20180720.html |date=2018/8/6 |title=チャップリンのトレードマーク!そのステッキはなんと草津市産 |website=[[草津市]]ホームページ |accessdate=2020年12月13日}}</ref>。}}と山高帽という組み合わせを思いついたという{{Sfn|チャップリン|1966|pp=160-161}}。自伝では扮装の狙いについて、以下のように述べている。 |
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この年に兄シドニーが弟のマネージャーとなり、運転手として日本人の[[高野虎市]]が雇われた。チャップリンは、「ミューチュアルで働いていた頃が、一番幸福な時期だったかもしれない」と語っている。またこれらの作品はアメリカのみならず、イギリスや[[フランス]]、[[日本]]など世界各国に配給され、高い人気を得た{{Efn|チャップリンはその当時、驚異的な人気ゆえに、扮装から軽妙な動作に至る模倣者が多く出現した。[[ビリー・ウェスト (俳優)|ビリー・ウェスト]]や[[ハロルド・ロイド]]もその一人で、1917年に、チャップリン側は物まね芸人を相手取って訴訟を起こした。無論、勝訴したが、権利概念の乏しかった時代に、後の[[ミッキーマウス]]などに代表される「キャラクター商標権」をこのとき初めて導入したのが兄シドニーであった。}}。 |
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{{Quote|だぶだぶのズボンにきつすぎるほどの上着、小さな帽子に大きすぎる靴という、とにかくすべてにチグハグな対照というのが狙いだった。年恰好のほうは若くつくるか年寄りにするか、そこまではまだよく分からなかったが…とりあえず小さな口髭をつけることにした。こうすれば無理に表情を隠す世話もなく、老けて見えるにちがいない、と考えたからである{{Sfn|チャップリン|1966|pp=160-161}}。}} |
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その2本目の作品は『[[メーベルの窮境]]』(1914年2月9日公開)であるが、それよりも後に撮影された『[[ヴェニスの子供自動車競走]]』の方が2日早く公開されたため、『ヴェニスの~』が小さな放浪者の扮装を初めて観客に披露した作品となった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=151-152}}。チャップリンはこれを自身の映画のキャラクターに採用し、自分からギャグを提案したりもしたが、監督の[[ヘンリー・レアマン]]や{{仮リンク|ジョージ・ニコルズ|en|George Nichols (actor and director)}}とは意見が合わず、対立を繰り返した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=148, 158, 160}}。11本目の出演作『[[メーベルの身替り運転]]』では、監督兼主演の[[メイベル・ノーマンド]]と衝突したことで解雇寸前にまで至ったが、[[ニューヨーク]]から「チャップリン映画が大当たりしているから、至急もっと彼の作品をよこせ」との電報が届いたため、チャップリンの解雇は回避され、彼に対するセネットたち周囲の態度も軟化した{{Sfn|チャップリン|1966|pp=166-171}}。チャップリンはそれに乗じて、作品が失敗したら1500ドルを支払うという条件で、自分で映画を監督することをセネットに認めさせた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=161}}。 |
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チャップリンの監督デビュー作は、1914年4月20日公開の『[[恋の二十分]]』である{{Sfn|大野|2017|p=53}}。監督2作目の『[[とんだ災難 (1914年の映画)|とんだ災難]]』はその時点までで最も成功したキーストン社作品の1本となった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=162}}。その後、チャップリンは1週間に1本のペースで新作の短編映画を監督・主演し{{Sfn|Kamin|2011|p=xi}}{{Sfn|Maland|1989|p=5}}、ショットの組み立てやストーリー構成などの映画技術を貪欲に身に付けていった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=162}}{{Sfn|大野|2005|p=26}}。自伝ではこの時期を「いちばん張りのあったすばらしい時期」としている{{Sfn|チャップリン|1966|pp=166-171}}。チャップリンの人気も高まり、その名前が出ただけで大ヒットが約束されるようになると、キーストン社内でのチャップリンの発言力も高まった{{Sfn|大野|2017|p=56}}。同年11月、セネットが監督した長編コメディ『[[醜女の深情け]]』で主演の[[マリー・ドレスラー]]の相手役を演じたが、これが他監督のもとで出演した最後の公式映画となった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=168}}。同年末、チャップリンはセネットと契約更新の話をし、週給1000ドルを要求するが拒否され、契約更新の話もそれで打ち切られた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=172}}。 |
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[[1918年]]、[[ハリウッド]]のラ・ブレア通りに自身の撮影スタジオを設け、{{仮リンク|ファースト・ナショナル|en|First National}}(後に[[ワーナー・ブラザース]]と合併)と、年間100万ドル超の契約を結び、名実ともに世界的ビッグスターとなる。一作ごとにかける時間と労力を惜しまず、マイペースで作品を作れる環境を整え、多くの名作を生みだした。また同年には、[[第一次世界大戦]]にイギリスや日本などとともに参戦した、アメリカ政府の発行する戦時[[公債]]促進キャンペーンに尽力し、[[プロパガンダ映画]]『[[公債 (映画)|公債]]』を製作。16歳の新進女優[[ミルドレッド・ハリス]]と初めての結婚もした。 |
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==== エッサネイ社時代 ==== |
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[[ファイル:United_Artists_contract_signature_1919.jpg|thumb|left|200px|UA創立メンバー(左から)[[D・W・グリフィス]]、[[メアリー・ピックフォード]]、'''チャップリン'''、[[ダグラス・フェアバンクス]]。<ref>{{youtube|yEBZU_KHSM0 Chaplin, Fairbanks, Pickford & Griffith Signing United Artists Contract - 1919}}</ref>(1919年)]] |
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[[ファイル:Charlie Chaplin.jpg|thumb|right|180px|『[[チャップリンの失恋]]』(1915年)で小さな放浪者を演じたチャップリン。]] |
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[[1919年]]、盟友の[[ダグラス・フェアバンクス]]、[[メアリー・ピックフォード]]、監督の[[D・W・グリフィス]]とともに配給会社[[ユナイテッド・アーティスツ]](現[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]傘下)を設立し、俳優がプロデューサーを介さず映画製作が出来る公益な場を提供する。 |
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キーストン社と契約満了をもって退社が確定したチャップリンは、週給1250ドルのギャラと1万ドルのボーナスを提示してきた[[シカゴ]]の[[エッサネイ・スタジオ|エッサネイ社]]に移籍し、1914年12月下旬にスタジオに参加した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=175-176}}。チャップリンは[[レオ・ホワイト]]や[[ベン・ターピン]]などの俳優を集めてグループを作り、同社2作目の『[[アルコール夜通し転宅]]』ではサンフランシスコのカフェで見つけた[[エドナ・パーヴァイアンス]]を相手役に採用した。パーヴァイアンスとは8年間に35本の映画で共演し、[[1917年]]までプライベートでも親密な関係を築いた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=180, 183, 277-278}}。チャップリンはそれまで会社の製作慣習に従い、流れ作業のように映画を作り続けてきたが、この頃から慣習には従わない姿勢を打ち出し、より時間をかけて映画を作るようになった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=184-186}}。『アルコール夜通し転宅』と次作の『[[チャップリンの拳闘]]』とでは封切り日に27日の間があり、それ以後の作品はさらに封切りの間隔が広がった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=184-186}}{{Sfn|Maland|1989|p=20}}。 |
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この時期にチャップリンは小さな放浪者のキャラクターを変え始めた。キーストン社時代のキャラクターは、女性や子供をいじめたりする卑劣で残酷な役柄や、性的にいやらしい性格であるものが多かった{{Sfn|大野|2005|p=26}}{{Sfn|Maland|1989|pp=6, 14-18}}。しかし、エッサネイ社時代になると、より穏やかでロマンティックな性格に変化した{{Sfn|Maland|1989|pp=21-24}}。1915年4月公開の『[[チャップリンの失恋]]』はキャラクターの変化のターニングポイントとなる作品と考えられている。この作品では放浪者がヒロインに失恋し、ラストシーンで一本道をとぼとぼと歩き去る姿が描かれている{{Sfn|大野|2005|pp=27-29}}。このシーンはその後の作品でも数通りに変化させて使用された<ref>{{Cite book|和書 |author=ジョルジュ・サドゥール |date=1997-7 |title=世界映画全史7:無声映画芸術の開花 アメリカ映画の世界制覇〈1〉 1914-1920 |translator=丸尾定、村山匡一郎、出口丈人、小松弘 |publisher=[[国書刊行会]] |page=97}}</ref>。チャップリン研究家の[[大野裕之]]は、この作品を「孤独な放浪者のロマンスというチャップリン・スタイルの芽生え」であるとしている{{Sfn|大野|2005|pp=27-29}}。同年8月公開の『[[チャップリンの掃除番]]』には悲しげな結末にペーソスが加えられたが、映画史家の{{仮リンク|デイヴィッド・ロビンソン (映画史家)|en|David Robinson (film critic)|label=デイヴィッド・ロビンソン}}はそれがコメディ映画の革新であるとしている{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=189-190}}。映画学者のサイモン・ルービッシュは、エッサネイ社時代のチャップリンは「小さな放浪者を定義するテーマとスタイルを見つけた」と述べている{{Sfn|Louvish|2010|p=87}}。 |
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[[1921年]]、全米で大ヒット中の映画『[[キッド (1921年の映画)|キッド]]』を携え、故郷ロンドンヘ凱旋帰国。たいへんな歓迎ぶりで、小説家[[H.G.ウェルズ]]や各界著名人と親交を結んだ。パリ、[[ベルリン]]と、戦後のヨーロッパの各都市を一巡したチャップリンは、戦禍の傷跡を人々の間に目の当たりにする<ref>{{youtube|meB0mszHHlI|Charlie Chaplin Returns Home Aboard RMS Olympic 1921 (HD/audio)}}</ref>。帰国後、口述で『My Trip Abroad』をしたためる{{efn|この書物は[[1922年]]に[[欧米]]で刊行され、日本では『僕の旅』(高瀬毅訳)として[[1930年]](昭和5年)に[[中央公論社]]より出版された。}}。 |
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1915年にチャップリンの人気は爆発的に上昇し、その人気にあやかって人形や玩具などの関連商品が売られたり、新聞に漫画や詩が掲載されたり、チャップリンについての曲が作られたりした{{Sfn|Kamin|2011|p=xi}}{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=196}}{{Sfn|Maland|1989|p=10}}。同年7月に{{仮リンク|モーション・ピクチャー・マガジン|en|Motion Picture Magazine}}のジャーナリストは、チャップリンの真似をする「チャップリニティス」がアメリカ全土で広まったと書いた{{Sfn|Maland|1989|p=8}}。チャップリンの人気は世界的に高まり、映画業界で最初の国際的なスターとなった{{Sfn|Louvish|2010|p=74}}。12月にエッサネイ社との契約が切れ、自分の価値を認識していたチャップリンは次の契約先に15万ドルのボーナスを要求した。[[ユニバーサル・スタジオ|ユニバーサル]]、{{仮リンク|フォックス・フィルム|label=フォックス|en|Fox Film}}、{{仮リンク|ヴァイタグラフ|en|Vitagraph Studios}}などの映画会社からオファーを受けたが、最終的にチャップリンが選んだのは、最も高額な条件を提示してきた{{仮リンク|ミューチュアル社|en|Mutual Film}}だった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=201-202}}。 |
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[[1923年]]、初の自身が出演しない監督作品『[[巴里の女性]]』をユナイテッド・アーティスツから発表。 |
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==== ミューチュアル社時代 ==== |
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[[1925年]]、『[[黄金狂時代]]』が記録的な大ヒット。 |
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[[File:Charlie Chaplin with doll.jpg|thumb|left|180px|1916年までにチャップリンは世界的人気を得た。写真は自身の人形を持つチャップリン(1918年頃)。]] |
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[[1916年]]2月、チャップリンは年収67万ドルでミューチュアル社と契約を結び、世界で最も給料が高い人物のひとりとなった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=201-206}}。その高額な給料は大衆に衝撃を与え、マスコミで広く報道された{{Sfn|Larcher|2011|p=29}}。社長のジョーン・R・フロイラーは「私たちがチャップリンにこれだけ巨額の金が払えるのは、大衆がチャップリンを求めており、そのために金を払うからである」と説明した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=201-206}}。チャップリンはロサンゼルスに自分専用のスタジオを与えられ、3月にローン・スター・スタジオとして開設した{{Sfn|大野|2017|pp=73-74}}。自身の俳優集団には、エッサネイ社からパーヴァイアンスやホワイトを引き連れ、その後の作品で大きな役割を占めることになる[[アルバート・オースチン]]と[[エリック・キャンベル]]、そして腹心の友となる[[ヘンリー・バーグマン]]を新たに加えた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=212-213, 224-225}}。 |
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チャップリンはミューチュアル社と、4週間に1本のペースで2巻物の映画を作ることを約束し、1916年中に公開した8本はすべてこの約束に従っていた。しかし、[[1917年]]に入るとこれまで以上に時間をかけて映画を作るようになり、同年に公開した『[[チャップリンの勇敢]]』『[[チャップリンの霊泉]]』『[[チャップリンの移民]]』『[[チャップリンの冒険]]』の4本を作るのに10ヶ月を要した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=229-230, 437}}。これらの作品は多くの専門家により、チャップリンの最良の作品のひとつと見なされている{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=243}}{{Sfn|Vance|2003|p=203}}{{Sfn|Brownlow|2010|p=45}}{{Sfn|Louvish|2010|p=104}}<ref>{{cite web|url=http://chaplin.bfi.org.uk/resources/bfi/biog/biog.php?fid=biog6 |title="The Happiest Days of My Life": Mutual |work=Charlie Chaplin |publisher=British Film Institute |accessdate=28 April 2012 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121122054424/http://chaplin.bfi.org.uk/resources/bfi/biog/biog.php?fid=biog6 |archivedate=22 November 2012}}</ref>。チャップリンは自伝で、ミューチュアル社時代がキャリアの中で最も幸福な時期だったとしている{{Sfn|チャップリン|1966|p=211}}。 |
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[[1928年]]、『[[サーカス (映画)|サーカス]]』を製作し、同年度の[[第1回アカデミー賞]]において、同作で脚本、演技、監督、製作に対して[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]を受賞した。だがチャップリンは授賞式には欠席し、後日、賞の授与の際も、「わずかの人間で決めた賞なんて、そうたいした名誉ではない。私の欲しいのは大衆の喝采だ。大衆が私の仕事を賞賛してくれるならば、それで十分だ」と語り、もらった[[オスカー像]]はドアのつっかいにされていた、と息子のチャールズJrは回想する<ref>C.チャップリンJr著『わが父チャップリン』p.41</ref>。なお、この受賞に伴い、ノミネートされていた喜劇監督賞{{Efn|この賞はこれ以降廃止された。}}と[[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]が取り消された。同年、母親が死去。 |
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チャップリンは[[第一次世界大戦]]で戦わなかったとして、イギリスのメディアに攻撃された{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=236-239}}。チャップリンはアメリカで徴兵登録を行い、「祖国の命令には進んで従うつもりである」と声明を出したが、結局どちらの国からも召喚されなかった{{Refnest|group="注"|イギリス大使館はチャップリンの主張を裏書きするように、「チャップリンはその気になりさえすればいつでも志願兵になることはできる。しかし、彼は現在、大金を稼いで戦時公債に出資することで前線で戦うのと同じほど国家のために尽くしている」と述べている{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=236-239}}。}}。こうした批判にもかかわらず、チャップリンは前線の兵士にも人気があった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=236-239}}。チャップリンの人気は世界的に高まり続け、{{仮リンク|ハーパーズ・ウィークリー|en|Harper's Weekly}}誌は、チャップリンの名前が「世界のほぼあらゆる国に深く浸透している」と報告した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=265}}。その人気ぶりは、1917年に[[仮面舞踏会]]に参加した男性の10人のうち9人までがチャップリンの扮装をしたと報告されるほどだった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=270}}。舞台女優の{{仮リンク|ミニー・マダン・フィスク|en|Minnie Maddern Fiske}}は「多くの教養ある芸術愛好家たちが、イギリス出身の若き道化師チャールズ・チャップリンを、天才コメディアンとしてだけでなく、世にも稀な芸術家であると考えるようになってきている」と述べている{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=265}}。こうした人気ぶりの一方で、チャップリンは数多くの模倣者の出現に悩まされ、彼らに対して法的措置を講じることになった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=272-273}}{{Refnest|group="注"|主なチャップリンの模倣者には、[[ビリー・ウェスト (俳優)|ビリー・ウェスト]]やビリー・リッチーがいる。リッチーは自分が放浪者の扮装の考案者だと主張し、チャップリンに対して訴訟を起こしたことで知られる{{Sfn|セネット|2014|p=213}}。[[ハロルド・ロイド]]もチャップリンを模倣したロンサム・リュークなる人物を演じていた<ref>{{Cite book|和書 |author=スティーブン・ジェイ・シュナイダー編 |date=2009-3 |title=501映画スター |publisher=講談社 |page=52}}</ref>。}}。 |
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[[ファイル:Chaplin and Gandhi 1931.jpg|thumb|right|200px|[[マハトマ・ガンディー]]と会談するチャップリン。機械文明について意見が交わされた。<ref>{{youtube|Fs-kEt3pEO0|"Charlie" Meets Gandhi (1931)}}</ref>1931年9月、[[ロンドン]]にて]] |
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[[1931年]]、[[トーキー]]隆盛の中、[[サイレント映画|サイレント]]の孤塁を守って3年がかりで撮った『[[街の灯]]』が興行的な成功をおさめ、人気のピークを迎えていたチャップリンは、一年半に及ぶ世界旅行へと出立。10年ぶりに訪れたロンドンでは[[ウィンストン・チャーチル|チャーチル]]や劇作家の[[ジョージ・バーナード・ショー|バーナード・ショー]]と、ベルリンでは『街の灯』のプレミアに招聘した[[アルベルト・アインシュタイン|アインシュタイン]]や[[マレーネ・ディートリヒ]]と再会を果たす。 |
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==== ファースト・ナショナル社 ==== |
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[[1932年]]、イギリスの[[植民地]]である[[シンガポール]]に[[ジャワ島]]、[[バリ島]]を経て兄シドニーとともに日本へ。[[神戸]]や[[東京]]を訪問するものの、訪日中にたまたま発生した[[国粋主義]]的な[[士官]]による[[クーデター]]未遂事件である[[五・一五事件]]の巻添えになりかける。「日本に退廃文化を流した元凶」として、首謀者たちの間でチャップリンの[[暗殺]]が画策されていた。 |
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[[File:Poster - A Dog's Life 01.jpg|thumb|right|180px|『[[犬の生活]]』(1918年)のポスター。]] |
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ミューチュアル社はチャップリンの生産本数の減少に腹を立てず、契約は友好的な関係のまま終了した。チャップリンは契約スケジュールに縛られた映画作りによる品質低下を懸念し、これまで以上に独立することを望んだ。チャップリンのマネージャーだったシドニーは、「今後どんな契約を結ぶとしても必ず条項にしたいものがひとつある。それはチャップリンには必要なだけの時間と、望み通りの予算が与えられるということである。私たちが目指すのは量ではなくて質なのだ」と表明した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=279-280}}。1917年6月17日、チャップリンは新しく設立された{{仮リンク|ファースト・ナショナル社|en|First National}}と「100万ドル契約」と広く呼ばれた配給契約を結んだ。この契約ではチャップリン自らがプロデューサーとなり、会社のために8本の映画を完成させる代わりに、作品1本あたり12万5000ドルの前金を受け取ることが決定した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=281, 437}}<ref name="BFI first national">{{cite web|url=http://chaplin.bfi.org.uk/resources/bfi/biog/biog.php?fid=biog7 |title=Independence Won: First National |work=Charlie Chaplin |publisher=British Film Institute |accessdate=5 May 2012 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120324095424/http://chaplin.bfi.org.uk/resources/bfi/biog/biog.php?fid=biog7 |archivedate=24 March 2012}}</ref>。 |
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チャップリンは[[ハリウッド]]の{{仮リンク|サンセット・ブールバード|label=サンセット大通り|en|Sunset Boulevard}}と{{仮リンク|ラ・ブレア通り|en|La Brea Avenue}}が交差する角に面した5エーカーの土地に、自前のスタジオである{{仮リンク|チャップリン・スタジオ|en|Jim Henson Company Lot }}を建設し、[[1918年]]1月に完成した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=284-285, 438}}{{Sfn|チャップリン|1966|p=235}}。このスタジオは地域の外観にうるさい近隣住民を安心させるため、イギリスの田舎のコテージが並んだような外見をもつように設計された{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=284-285, 438}}。こうしてチャップリンは自由な映画製作環境を手に入れ、以前よりも膨大な時間と労力をかけて映画を作るようになった。また、それまでは1巻物や2巻物の短編映画を主に作っていたが、この頃からは3巻物の中編映画を作るようになった{{Sfn|大野|2005|p=58}}。新しい契約先での最初の作品は、同年4月公開の『[[犬の生活]]』である。この作品でチャップリンは小さな放浪者を一種の[[道化師|ピエロ]]として扱い、コメディ映画に複雑な人間的感情を与えた{{Sfn|チャップリン|1966|p=241}}。大野は、この作品で心優しい小さな放浪者のキャラクターが完成したとしている{{Sfn|大野|2017|p=118}}。この作品でチャップリンの芸術的評価は決定的なものとなり{{Sfn|大野|2005|p=58}}、フランスの映画批評家[[ルイ・デリュック]]は「映画史上初のトータルな芸術作」と呼んだ{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=288}}。 |
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[[1936年]]、機械文明と[[資本主義]]を批判した『[[モダン・タイムス]]』と、[[1940年]]に[[ナチス]]政権下の[[ドイツ]]をあからさまに批判した『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』を発表。 |
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1918年4月、チャップリンは[[ダグラス・フェアバンクス]]や[[メアリー・ピックフォード]]とともに、第一次世界大戦のための{{仮リンク|自由公債|en|Liberty Bond}}募集ツアーに駆り出され、約1ヶ月間アメリカ国内を遊説した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=297, 300, 438}}。[[ワシントンD.C.]]で演説した時には、興奮の余り演壇から足を滑らし、当時海軍次官補をしていた[[フランクリン・ルーズベルト]]の頭上に転げ落ちたという{{Sfn|チャップリン|1966|pp=245-246}}。さらにチャップリンは[[アメリカ合衆国連邦政府|アメリカ政府]]のために、公債購入促進を訴える短編[[プロパガンダ映画]]『[[公債 (映画)|公債]]』を自費で製作した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=305}}。次作の『[[担へ銃]]』では戦争をコメディ化し、小さな放浪者を[[塹壕]]の兵士に変えた。周囲は悲惨な戦争からコメディを作ることに反対したが、喜劇と悲劇の近似性を意識していたチャップリンの考えは揺るがなかった{{Sfn|チャップリン|1966|pp=250-251}}{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=302-303}}。この作品は大戦の[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦協定]]の締結直前に公開され、チャップリン映画として当時最高の興行記録を打ち立てた{{Sfn|大野|2005|p=61}}。 |
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[[1941年]]12月にはアメリカが[[第二次世界大戦]]に参戦したことで戦時体制下に入ったために、戦時中は映画製作の停止を余儀なくされた。 |
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==== ユナイテッド・アーティスツと『キッド』 ==== |
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[[File:Fairbanks - Pickford - Chaplin - Griffith.jpg|thumb|left|200px|[[ユナイテッド・アーティスツ]]の創立メンバー(1919年)。左から[[ダグラス・フェアバンクス]]、[[メアリー・ピックフォード]]、チャップリン、[[D・W・グリフィス]]。]] |
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[[1945年]]8月に第二次世界大戦が終結し、まもなく[[ソビエト連邦]]をはじめとする[[東側諸国]]との[[冷戦]]が始まったアメリカで、『モダン・タイムス』以降の一連の作風が「[[容共]]的である」とされ、非難の的とされた。 |
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『担へ銃』の公開後、チャップリンはより高品質な映画を作るため、ファースト・ナショナル社に製作費の増額を要求したが拒否された{{Sfn|チャップリン|1966|pp=252-254}}。作品の品質低下の懸念に加え、映画会社が結託してスターのギャラを下げようとしているという噂話を心配したチャップリンは、 [[1919年]]2月5日にフェアバンクス、ピックフォード、[[D・W・グリフィス]]とともに、新しい配給会社[[ユナイテッド・アーティスツ]]を設立した{{Sfn|チャップリン|1966|pp=252-254}}{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=334}}。同社は共同設立者の4人がそれぞれ独立製作した映画を配給する会社で、雇用主の束縛なしに自由に映画を作ることができるうえに、これまで雇用主に吸い上げられていた利益も手にすることができた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=334}}。チャップリンはこの新会社での映画作りを望み、ファースト・ナショナル社に契約解除を求めたが拒否され、残る6本の契約を消化しなければならなくなった{{Sfn|チャップリン|1966|p=256}}。 |
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ユナイテッド・アーティスツの設立前、チャップリンは最初の結婚をした。17歳の女優[[ミルドレッド・ハリス]]はチャップリンとの間の子を妊娠したことを明らかにし、チャップリンはスキャンダルを回避するため、1918年10月にロサンゼルスで秘密裏に結婚したが、すぐに妊娠は嘘であることが判明した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=307-309, 439}}。チャップリンは結婚生活に気分が乗らず、結婚が創作力に悪影響を及ぼすと考えていた{{Sfn|チャップリン|1966|pp=263-264}}。事実、11月に次回作『[[サニーサイド]]』の撮影を始めたが、アイデアが湧かなくてスランプに陥り、自伝では「虫歯を抜くような苦労をして作り上げた」と述べている{{Sfn|チャップリン|1966|pp=263-264}}{{Sfn|大野|2009|pp=80-81}}。1919年にミルドレッドは本当に妊娠し、7月7日に[[奇形]]児の息子ノーマン・スペンサー・チャップリンを出産したが、わずか3日後に死亡した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=315-316}}。 |
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特に[[1947年]]公開の『[[殺人狂時代 (1947年の映画)|殺人狂時代]]』以降はバッシングも最高潮に達し、[[1950年代]]に入り、[[ジョセフ・マッカーシー]][[アメリカ合衆国上院|上院議員]]指揮の下、[[赤狩り]]を進める[[下院非米活動委員会]]から、(上院議員の指揮の下で下院の委員会が動いたというのは論理的におかしい。要根拠)他の「容共的である」とされた俳優や監督とともに何度も召喚命令を受ける。しかし、[[1948年]]にフランス映画批評家協会は彼を[[ノーベル平和賞]]に推薦した。 |
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チャップリンの幼少時代の貧困経験は、次の映画『[[キッド (1921年の映画)|キッド]]』に影響を与えたと考えられており、それは小さな放浪者を捨て子の保護者に変えた<ref name="BFI first national"/>{{Sfn|Louvish|2010|p=148}}。チャップリンは劇場で見つけた4歳の子役俳優[[ジャッキー・クーガン]]と契約し、1919年7月に撮影を始めた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=315-316}}。撮影は順調に進んだが、これまで以上の大作になることが分かり、早く新作を求めるファースト・ナショナル社をなだめるため、数週間撮影を中断して急拵えで『[[一日の行楽]]』を製作した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=319-320}}。『キッド』の製作は約1年かかったが{{Sfn|大野|2005|pp=61-62}}、その間にミルドレッドとの結婚生活は破綻した。[[1920年]]8月に彼女は離婚訴訟を起こし、『キッド』の撮影済みフィルムを差し押さえようとした{{Sfn|大野|2009|pp=89-91}}。チャップリンはそれから逃れるため、州を越えて[[ソルトレイクシティ]]に避難して編集作業を行い、完成後の11月に離婚が成立した{{Sfn|大野|2009|pp=89-91}}{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=330}}。『キッド』はチャップリンの最初の長編映画で、「笑い」に「涙」を組み合わせたチャップリン特有のスタイルを完成させた{{Sfn|大野|2005|pp=61-62}}。[[1921年]]2月に公開されると大ヒットし、3年以内に50ヶ国以上で配給された{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=330}}。 |
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[[1952年]]、ロンドンで『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』のプレミアのために向かう船の途中、アメリカの[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]政権の[[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]]{{仮リンク|ジェームズ・P・マグラネリー|en|James P. McGranery}}から事実上の国外追放命令を受ける。自身の意にはそぐわなかったが、[[スイス]]・[[ローザンヌ]]のアメリカ[[領事館]]で再入国許可証を返還した。 |
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チャップリンは次回作『[[のらくら]]』の製作に5ヶ月を費やしたあと{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=335}}、突如としてヨーロッパ旅行を決断し、1921年9月にロンドン、[[パリ]]、[[ベルリン]]を訪問した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=340-341, 442}}。ロンドンとパリでは大群衆の熱狂的な歓迎を受け、著名人との社交生活を送ったが、ロンドン訪問中は少年時代を過ごしたケニントンを訪れたり、[[H・G・ウェルズ]]家に滞在したりもした{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=350-357}}<ref name="famous">{{Cite web |url=http://chaplin.bfi.org.uk/resources/bfi/biog/biog.php?fid=biog8 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120802215604/http://chaplin.bfi.org.uk/resources/bfi/biog/biog.php?fid=biog8 |archivedate=2012-8-2 |title=The Most Famous Man in the World |website=Charlie Chaplin |work=BFI |accessdate=2021年1月26日}}</ref>。ベルリンでは大戦でチャップリン映画の配給が遅れたため知名度が低く、熱狂的な歓迎を受けなかった<ref name="famous"/>{{Sfn|チャップリン|1966|pp=322-323}}。帰国後、チャップリンは旅行記『''My Wonderful Visit''』を執筆し、残る2本のファースト・ナショナル社との契約を、[[1922年]]公開の『[[給料日 (映画)|給料日]]』と[[1923年]]公開の『[[偽牧師]]』で完了させた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=361, 366, 443}}。 |
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アメリカの一般国民はこのチャップリンの追放劇に激しく抗議。決定した司法長官のもとに国内だけで数万通に及ぶ抗議の手紙が殺到した。マグラネリーは特別に、「チャップリン氏がアメリカにとって危険な人物である証拠は存在するが、今は明らかにできない」と声明を出した。 |
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=== 長編映画時代:1923年~1938年 === |
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この追放劇はチャップリンの名声を利用しようとした世界各国の右派、左派両方から政治的に利用される結果となった。 |
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==== 『巴里の女性』と『黄金狂時代』 ==== |
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[[ファイル:Chaplin the gold rush boot.jpg|thumb|right|200px|『[[黄金狂時代]]』(1925年)で靴を食べる小さな放浪者(チャップリン)。]] |
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ファースト・ナショナル社との契約を終えたチャップリンは、ようやく独立したプロデューサーとして自前のスタジオで映画を作り、自分の会社で配給するというワンマン体制を手に入れ、完全に自由な映画作りを行うことができた{{Sfn|大野|2017|p=158}}。そこでチャップリンはパーヴァイアンスを一本立ちしたスターに仕立てるため、ロマンティックなドラマ映画『[[巴里の女性]]』を製作した{{Sfn|チャップリン|1966|pp=345, 347}}。この作品でチャップリンは監督に徹し、主演はせずにノンクレジットで[[カメオ出演]]するにとどまった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=386-387}}。チャップリンは俳優に抑制のきいた自然な演技を求め、新しいリアルな演技スタイルを取り入れた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=387, 398}}。作品は1923年9月に公開され、その革新的で洗練された表現方法で批評家から高い賞賛を受けた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=395, 397-398}}。しかし、一般観客はチャップリンが出てこないチャップリン映画に興味がなく、興行的に失敗した{{Sfn|Louvish|2010|p=193}}。作品の出来栄えに誇りを持っていたチャップリンはこの結果に失望し、すぐに作品を劇場から撤退させた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=400}}。 |
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チャップリンは次回作でコメディに戻り、『キッド』以上の作品、それも偉大な[[叙事詩]]を作ろうと考えた。そこで[[クロンダイク (ユーコン準州)|クロンダイク]]の[[ゴールドラッシュ]]の写真と[[ドナー隊]]の悲劇に触発されて『[[黄金狂時代]]』を製作した{{Sfn|チャップリン|1966|p=352}}。この作品では小さな放浪者が孤独な金鉱探しになり、逆境に直面しながら黄金と恋を求める姿が描かれている。飢えをしのぐために靴を食べるシーンや、ロールパンのダンス、崖から落ちる山小屋のシーンなど、チャップリン映画で最も有名なシーンのいくつかも含まれている{{Sfn|大野|2005|pp=76-78}}{{Sfn|Kemp|2011|pp=63-64}}{{Sfn|Louvish|2010|p=200}}{{Sfn|Schickel|2006|p=19}}。撮影は[[1924年]]2月に開始したが、600人のエキストラを動員したり、豪華なセットや特殊効果を使用したりするなど、製作はより大規模なものになった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=10, 18-20}}。撮影日数は約14ヶ月もかかり、製作費は92万ドルを計上した{{Sfn|大野|2005|pp=76-78}}。[[1925年]]8月に公開されると全米で500万ドルの興行収入を記録し、サイレント映画で最も高収入をあげた映画の1本となった{{Sfn|Kemp|2011|pp=63-64}}{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=33}}。ジャーナリストのジェフリー・マクナブは、この作品を「チャップリン映画の典型」と呼んでいる{{Sfn|Kemp|2011|pp=63-64}}。 |
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=== スイスに === |
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[[File:Visited the family and Ukai sightseeing Chaplin.jpg|thumb|200px|家族と鵜飼見物に訪れ、鵜匠と記念写真を撮るチャップリン (右端).]] |
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==== リタ・グレイと『サーカス』 ==== |
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アメリカを去ったチャップリンは、映画への出演もめっきり少なくなるが、スイスの[[葡萄園|ブドウ畑]]を臨む広大な邸宅「マノワール・ド・バン」に移り住み、妻[[ウーナ・オニール|ウーナ]]や8人の子供たちと晩年を送る。世界的な名士として、[[クララ・ハスキル]]や[[パブロ・カザルス]]、[[ジャン・コクトー]]、[[山口淑子]]、[[周恩来]]らと交友関係を持った。 |
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[[ファイル:Lita Grey.jpg|thumb|left|170px|チャップリンの2番目の妻である[[リタ・グレイ]]。]] |
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『黄金狂時代』の撮影中、チャップリンは16歳の女優[[リタ・グレイ]]と2度目の結婚をした。1924年9月、リタはミルドレッドの時と同じように、チャップリンとの子を妊娠したことを明らかにした。カリフォルニア州法では未成年女性と関係を持つと[[強姦罪]]が適用され、最高30年の刑が科せられたため、リタの両親はそれをタネにチャップリンに結婚を強要した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=21}}。そのためチャップリンは結婚を余儀なくされ、11月26日に[[メキシコ]]で内密に結婚式を挙げた{{Sfn|Vance|2003|p=170}}。リタは『黄金狂時代』のヒロイン役に予定されていたが、結婚により降板し、代わりに[[ジョージア・ヘイル]]が演じることになった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=26}}。リタとの間には、[[チャールズ・チャップリン・ジュニア]](1925年5月5日生)と[[シドニー・チャップリン (1926年生)|シドニー・アール・チャップリン]](1926年3月30日生)の二人の息子をもうけた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=32, 48}}。 |
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リタとの結婚生活は不幸であり{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=32, 48}}、チャップリンは妻と会うのを避けるためスタジオで仕事に没頭した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=26}}。[[1926年]]11月末、リタは息子を連れて家出し、翌[[1927年]]1月に離婚訴訟を起こした{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=51, 53}}。訴訟書類はチャップリンだけでなくその関係者も相手取り、チャップリンを誹謗中傷する内容が書かれていた{{Sfn|大野|2009|p=108}}。この事件は大見出しのニュースとなり、全米各地でチャップリン映画のボイコットが起きたため、チャップリンは神経衰弱に陥った{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=56}}{{Sfn|Louvish|2010|pp=220-221}}。8月にチャップリンの弁護士は、その種のものではアメリカの裁判史上最高の金額である60万ドルの和解金を支払うことに同意し、リタとの離婚が成立した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=59}}。チャップリンは心労で一夜にして白髪になったが、幸いにも事件はすぐに忘れられ、チャップリンの人気にほとんど影響を与えることはなかった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=58, 60, 63-64}}{{Sfn|Maland|1989|pp=99-105}}。 |
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[[1965年]]に[[エラスムス賞]]を受賞。その頃に公刊された『私の自叙伝』は空前の[[ベストセラー]]となった。[[1969年]]、3女ヴィクトリアのために新作を構想。「[[フリーク (チャップリンの映画)|ザ・フリーク]]」([[:en:The Freak|The Freak]])の台本にとりかかる。また旧作を再公開するため、[[バックグラウンドミュージック]]の作曲を続けた。 |
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離婚訴訟が起きる前に、チャップリンは新作『[[サーカス (映画)|サーカス]]』の撮影を始めていた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=445}}。この作品は猿に囲まれて[[綱渡り]]をするというアイデアから物語が作られ、小さな放浪者をサーカスのスターに変えた{{Sfn|大野|2017|pp=177, 188}}。撮影は離婚訴訟のため8ヶ月間中断され、撮影中もさまざまなトラブルに直面した{{Sfn|大野|2017|pp=180-183}}。この時の大きなストレスは長年にわたり感じ続け、自伝でもこの作品について言及されていない{{Sfn|Brownlow|2010|p=73}}{{Sfn|Louvish|2010|p=224}}。作品は1927年10月に完成し、[[1928年]]1月にプレミア上映が行われて好評を博した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=63-65}}。[[1929年]]、チャップリンは[[第1回アカデミー賞]]で「『サーカス』の脚本・演技・演出・製作で示した優れた才能」に対して[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]を受賞したが、授賞式は欠席した{{Sfn|大野|2017|pp=180-183}}。 |
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[[1971年]]、フランス政府により[[レジオンドヌール勲章]]、パリ市議会からは[[名誉市民]]の称号を与えられる。 |
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==== 『街の灯』 ==== |
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{{Quote box|width=30%|align=right|quote=私はサイレント映画を作り続ける決心をした…もともと私はパントマイム役者だった。そのかぎりでは誰にもできないものを持っていたつもりだし、心にもない謙遜など抜きにして言えば、名人というくらいの自信はあった。|source=チャールズ・チャップリン、 [[トーキー]]に対する自身の姿勢{{Sfn|チャップリン|1966|p=385}}}} |
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[[ファイル:Chaplin oscar.JPG|thumb|200px|[[アカデミー名誉賞]]を受賞するチャップリン(右)。左はプレゼンターの[[ジャック・レモン]](1972年)]] |
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『サーカス』が公開された頃、ハリウッドでは[[トーキー]]の導入が進んでいた。しかし、チャップリンはトーキーについて否定的な立場をとり、トーキーはサイレント映画の芸術性を損なわせてしまうと考えていた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=72}}。また、チャップリンは小さな放浪者に言葉を入れることで、その国際的魅力と世界共通言語としてのパントマイムの普遍性が失われることを恐れ、自身に成功をもたらしたこの方式を変えることに躊躇した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=72}}{{Sfn|Maland|2007|p=29}}。そのためチャップリンはトーキーの流行に従うのを拒否し、サイレント映画を作り続けることにした。それにもかかわらず、この決断はチャップリンを不安にさせ、次回作である『[[街の灯]]』の製作中もずっと悩み続けた{{Sfn|Maland|2007|p=29}}{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=73}}。 |
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[[1972年]]、[[第44回アカデミー賞]]で[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]に選ばれ、授賞式に出席するため、20年ぶりにアメリカの地を踏んだ<ref>{{youtube|J3Pl-qvA1X8|Charlie Chaplin's Honorary Award: 1972 Oscars}}</ref>。授賞式では数分間の[[スタンディングオベーション]]で迎えられ、プレゼンターの[[ジャック・レモン]]からオスカー像を受け取った。自身作曲による“[[スマイル (チャールズ・チャップリンの曲)|スマイル]]”(『モダン・タイムス』)も会場のゲスト全員で歌われ、「'''チャップリンは単なる名前以上のもの。チャップリンは映画用語の一つである'''」とアカデミーの会長[[ダニエル・タラダッシュ]]([[:en:Daniel Taradash|Daniel Taradash]])は述べた。また、[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]から名前が消されていた事実も、この20年ぶりの帰国によって、ロサンゼルス市議会が11対3で星印を残すことに可決した。これらのことはアメリカとの事実上の和解となった。 |
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[[File:Chaplin City Lights still.jpg|right|170px|thumb|『街の灯』(1931年)のチャップリンと[[ヴァージニア・チェリル]]。]] |
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同年には『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』がアメリカで再公開され、翌年の[[第45回アカデミー賞]]で[[アカデミー作曲賞|作曲賞]]を受賞した。本作は[[1952年]]に東海岸で封切られたが、[[アカデミー賞#選考|アカデミー賞の選考基準]]である'''ロサンゼルスでの公開'''はされていなかったので、この年度の受賞対象作品となった。 |
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チャップリンは約1年かけて『街の灯』のストーリー作りに取り組み、1928年末に撮影を始めた{{Sfn|ロビンソン(下)| 1993|p=83}}{{Sfn|Maland|2007|pp=33-34, 41}}。この作品は小さな放浪者が[[ヴァージニア・チェリル]]演じる盲目の花売り娘を愛し、彼女の視力を回復させるための手術代を調達しようと奮闘する姿が描かれている。撮影は約21ヶ月間も続けられ{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=447-449}}、チャップリンは自伝で「完璧を望むあまり、神経衰弱気味になっていた」と述べている{{Sfn|チャップリン|1966|p=387}}。チャップリンがサウンド技術で見つけた利点のひとつは、自分で作曲した映画音楽を録音する機会を得たことだった。以前から映画音楽の作曲に関心を抱いていたチャップリンは、この作品のためにオリジナルの伴奏音楽を作曲し、[[サウンド版]]として公開することにした{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=98-100}}{{Sfn|大野|2017|p=202}}。 |
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[[1930年]]12月に『街の灯』の編集作業が終了したが、この頃にはサイレント映画は時代遅れになっていた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=98}}。[[1931年]]1月に行われた一般向け試写は成功しなかったが、その翌日のマスコミ向け試写では好意的な評価を受けた。あるジャーナリストは「それが可能な人物は世界中でチャップリンだけだろう。彼は、『観客へのアピール』と呼ばれる独特のものを、話す映画へとなびく大衆の好みに挑めるくらい十分に備えているただ一人の人物である」と書いた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=101-103}}。同月末に正式公開されると高い人気を集め、最終的に300万ドルを超える収益を上げるほどの興行的成功を収めた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=101-103}}{{Sfn|Maland|2007|pp=108-110}}。[[英国映画協会]]は、批評家の[[ジェームズ・エイジー]]がラストシーンを「映画の中で最高の演技で最高のシーン」と賞賛したことを引用して、チャップリンの最高の作品と評価した<ref name="bfi great features">{{cite web|url=http://chaplin.bfi.org.uk/resources/bfi/biog/biog.php?fid=biog9 |title=United Artists and the Great Features |work=Charlie Chaplin |publisher=British Film Institute |accessdate=21 June 2012 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120406094725/http://chaplin.bfi.org.uk/resources/bfi/biog/biog.php?fid=biog9 |archivedate=6 April 2012}}</ref>。 |
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[[1975年]]、それまでの活動を評価され[[エリザベス2世]]より[[ナイト]]に叙され「サー・チャールズ」となった<ref name="Gazette19741231">{{Cite web|url=https://www.thegazette.co.uk/London/issue/46444/supplement/8|title=1975 New Year Honours|accessdate=2020-03-19|publisher=The London Gazette}}</ref>。 |
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しかし、左寄りとされた思想や女性問題で叙勲がかなり遅れたことが分かっている([[#スキャンダル|後述]])。 |
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==== 世界旅行と『モダン・タイムス』 ==== |
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[[1976年]]の秋、スイスの「{{仮リンク|クニー・サーカス|en|Circus Knie}}」の公演に[[車椅子]]姿で目撃される。これはチャップリンがスイスに居住して以来、毎年欠かさない鑑賞行事であった。 |
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[[1931年]]初めにチャップリンは休暇を取ることを決心し、16ヶ月間に及ぶ世界旅行に出かけた{{Sfn|Louvish|2010|p=243}}。チャップリンはイギリス、フランス、[[スイス]]の[[サン・モリッツ]]での長期滞在を含めて、西ヨーロッパを何ヶ月間も旅行した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=447-449}}。チャップリンは至る所で大歓迎され<ref name="famous"/>、多くの著名人と社交的関係を持った。ロンドンでは[[ジョージ・バーナード・ショー]]、[[ウィンストン・チャーチル]]、[[マハトマ・ガンジー]]、[[ジョン・メイナード・ケインズ]]と会談し、[[ドイツ]]を訪問した時は[[アルベルト・アインシュタイン]]の自宅に招待された{{Sfn|大野|2009|pp=158-163}}{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=112}}。チャップリンはヨーロッパ旅行を終えると、休暇を延ばして[[日本]]へ行くことを決めた。[[シンガポール]]や[[バリ島]]を経由して、[[1932年]]5月に日本を訪れ、6月に帰国した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=130-133}}。 |
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[[File:Modern Times poster.jpg|thumb|left|180px|『[[モダン・タイムス]]』(1936年)のポスター。]] |
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=== 死去 === |
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ロサンゼルスに戻ったチャップリンは、トーキー導入で大きく変化したハリウッドに嫌気がさした{{Sfn|大野|2017|p=236}}。自伝では当時の心境を「まったくの混迷、将来の計画もなんにもない。ただ不安なばかりで、底知れぬ孤独にさいなまれていた」と回想している{{Sfn|チャップリン|1966|p=442}}。チャップリンは引退して[[中国]]に移住することも考えたが、1932年7月に[[ポーレット・ゴダード]]と出会ったことで孤独感が解消され、二人はすぐに親密な関係を築いた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=141}}{{Sfn|Maland|1989|p=147}}。しかし、チャップリンはなかなか次回作に取りかかろうとはせず、旅行記『コメディアンが見た世界』の執筆に集中した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=147-148}}。チャップリンは世界旅行をして以来、[[世界恐慌|恐慌]]後の世界情勢に関心を持つようになった{{Sfn|Louvish|2010|p=256}}。実際にチャップリンは、経済問題に関する論文「経済解決論」を執筆したり、[[ニューディール政策]]の熱熱な支持者として、[[1933年]]に[[全国産業復興法]]を支持するラジオ番組に出演したりしている{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=153-156}}。アメリカの労働状況の悪化はチャップリンを悩ませ、機械化が失業率を高めるのではないかと恐れた。こうした懸念から次回作の『[[モダン・タイムス]]』が構想された{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=153-156}}。 |
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[[Image:Charlie Chaplin grave.jpg|200px|thumb|チャップリンの墓]] |
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[[1977年]]の[[クリスマス]]の朝、スイス・[[ヴェヴェイ]]の街を見渡せる村、コルズィエ=スュール=ヴェヴェイの自宅で死去。88歳だった。 |
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[[1934年]]10月に『モダン・タイムス』の撮影が始まり、約10ヶ月半かけて終了した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=162-163}}。チャップリンはトーキーで作ることを考えていたが、リハーサル中に気が変わり、前作と同様に効果音と伴奏音楽を採用し、会話シーンはほとんど使わなかった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=164-165}}。しかし、小さな放浪者がデタラメ語で「ティティナ」を歌うシーンで、チャップリンは初めて映画で肉声を披露した{{Sfn|大野|2017|pp=242-243}}。大野は、この作品を「機械文明に抵抗して個人の幸福を求める物語」としており{{Sfn|大野|2017|p=244}}、『キッド』以来の政治的言及と社会的リアリズムが取り入れられた。チャップリンはこの問題を重視しないようにしたにもかかわらず、こうした側面が多くのマスコミの注目を引き付けた{{Sfn|Maland|1989|p=150}}。作品は[[1936年]]2月に公開されたが、一部の大衆観客は政治的要素を嫌ったため、アメリカでの興行収入は前作の半分にも満たない150万ドルにとどまり、評価も賛否両論となった{{Sfn|Maland|1989|p=157}}{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=172}}{{Sfn|大野|2017|pp=242-243}}。それでも現代ではチャップリンの最も優れた長編映画のひとつと見なされている<ref name="bfi great features"/>。 |
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生前は隣村に移住していたイギリスの俳優[[ジェームズ・メイソン]](1984年没)と親交を深めていた。両者は死後、村の墓地に3メートルほどの距離で埋葬された。 |
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『モダン・タイムス』の公開直後、チャップリンはポーレットとともにアジア旅行に出発し、[[香港]]や日本などを訪問した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=451}}。チャップリンとポーレットはお互いの関係について言及することはなく、正式な夫婦であったかどうかは明らかにしていない{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=167-168}}。その後、チャップリンは旅行中の1936年に[[広東]]で結婚したことを明らかにした{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=184}}。ポーレットは『モダン・タイムス』と次回作の『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』でヒロイン役を演じたが、二人はそれぞれの仕事に重点を置いていたため、お互いの気持ちは離れていった。[[1942年]]にメキシコで二人の離婚が成立したが、その後もお互いの関係は良好だった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=215-216}}。 |
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死後、金銭目的で墓から柩が持ち出される事件があったが、柩は墓地から17キロメートル離れた[[レマン湖]]畔のトウモロコシ畑で発見された<ref>{{youtube|UoJv_dMjzrE|Story of Charlie Chaplin's Kidnapping}}</ref>。後日、主犯の[[ポーランド人]]ロマン・ワルダス(Roman Wardas)と、[[ブルガリア人]]ガンチョ・ガネフ(Gantscho Ganev)の2人が逮捕された<ref>[http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/may/17/newsid_2512000/2512129.stm 1978: Charlie Chaplin's stolen body found]</ref>。 |
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=== 論争と人気の低下:1939年~1952年 === |
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ヴェヴェイのレマン湖畔にはチャップリンの銅像が建立された。なお、ロンドンの[[レスター・スクウェア]]にも同型のチャップリン立像がある。 |
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==== 『独裁者』 ==== |
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[[ファイル:Dictator charlie5.jpg|thumb|right|210px|『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』(1940年)の風船の地球儀を弄ぶシーン。]] |
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チャップリンは、1930年代の世界の政治的緊張と[[ファシズム]]の台頭に不安を感じ、これらの問題を自分の仕事から遠ざけることはできないと考えていた{{Sfn|Maland|1989|p=159}}{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=185-188}}。この頃、各国のメディアではチャップリンと[[アドルフ・ヒトラー]]との類似点が話題に取り上げられた{{Sfn|大野|2017|p=248}}。二人はわずか4日違いで生まれ、どちらも社会の底辺の出身から世界的な有名人となり、鼻の下に{{仮リンク|トゥースブラッシュ|en|Toothbrush moustache}}形の[[口髭]]を付けていた。こうした類似性は、チャップリンに次の映画『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』のアイデアを提供した。この作品ではヒトラーを直接的に風刺し、ファシズムを攻撃した{{Sfnm|1a1=ロビンソン(下)|1y=1993|1pp=185-188|2a1=Maland|2y=1989|2pp=165, 170|3a1=Schickel|3y=2006|3p=28|4a1=Louvish|4y=2010|4p=271|5a1=Larcher|5y=2011|5p=67|6a1=Kemp|6y=2011|6p=158}}。 |
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チャップリンは『独裁者』の脚本執筆に2年も費やし{{Sfn|チャップリン|1966|p=458}}、イギリスがドイツに宣戦布告した6日後の[[1939年]]9月に撮影を始めた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=198}}。チャップリンは政治的メッセージを伝えるために適した方法であることから、この作品をサイレントではなくオール・トーキーで製作したが、この時にはもはやトーキーを導入する以外に選択肢はなかった{{Sfn|Maland|1989|p=165}}。ヒトラーを主題にしたコメディを作ることは大きな物議を醸すと思われたが、チャップリンの経済的独立はそのリスクを冒すことを可能にした{{Sfn|Maland|1989|p=164}}。チャップリンは自伝で「ヒトラーという男は、笑いものにしてやらなければならないのだ」と述べている{{Sfn|チャップリン|1966|p=459}}。チャップリンは小さな放浪者を、同じ服装のユダヤ人の床屋に置き換えて、[[反ユダヤ主義]]の[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]を攻撃した{{Refnest|group="注"|1910年代に名声を得た頃から、チャップリンはユダヤ人であるという憶測が広まったが、それを示す証拠は存在しない{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=199-200}}。大野によると、公的な記録に基づいて、父母双方の家系を4代遡ってもユダヤ人はいないが、母方の祖母が[[ロマ]]であるという{{Sfn|大野|2017|pp=18-19}}。1915年にチャップリンは、記者の「あなたはユダヤ人か」という質問に対し、「残念ながらそんな幸運には恵まれていない」と答えている。しかし、ナチスはチャップリンがユダヤ人であると思い込んでいたため、『黄金狂時代』の国内上映を禁止し、チャップリンを攻撃した。チャップリンは『独裁者』でユダヤ人を演じることでこれに反撃し、「私は世界中のユダヤ人のためにこの映画を作った」と発言した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=199-200}}。しかし、自伝では「もしあのナチス収容所の実態を知っていたら、『独裁者』はできていなかったかもしれないし、ナチどもの殺人狂を笑いものにする勇気も出なかったかもしれない」と述べている{{Sfn|チャップリン|1966|p=459}}。}}。さらにチャップリンは、ヒトラーをパロディ化した独裁者のアデノイド・ヒンケルも演じた{{Sfn|Maland|1989|pp=172-173}}。 |
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== 作品の特徴 == |
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{{出典の明記|date=2017年1月|section=1}} |
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=== 役柄 === |
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[[image:Chaplin - Kid Auto Races in Venice.png|thumb|200px|left|初めて「トランプさん」の扮装で登場した『ヴェニスの子供自動車競走』<ref>{{youtube|-j2K3A1S5ak|Charlie Chaplin - Kids Auto Races In Venice}}</ref>]] |
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チャップリンの最もよく知られている役柄は「小さな放浪者=[[:en:The Tramp|The Little Tramp]]」である。窮屈な上着に、だぶだぶのズボンと大きすぎる靴([[ドタ靴]])、[[山高帽]]に竹の[[ステッキ]]といったいでたち。[[パーマ]]頭にチョビ[[髭]]の人物で、[[アヒル]]のように足を大きく広げてガニ股で歩く特徴をもつ。[[ホームレス]]だが紳士としての威厳をもち、優雅な物腰と持ち前の反骨精神で[[ブルジョワジー|ブルジョワ]]を茶化し、権力を振りかざすものを笑い飛ばした。 |
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『独裁者』の製作には約1年かかり、[[1940年]]10月に公開された{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=452-453}}。この作品は[[ニューヨーク・タイムズ]]の批評家から「今年最も熱狂的に待望された映画」と呼ばれるなど多くの注目を集め{{Sfn|Maland|1989|pp=169, 178-179}}、それまでのチャップリン映画で最高の興行収入を記録した{{Sfn|大野|2017|p=274}}。しかし、結末のシーンは人気がなく、論争を引き起こした{{Sfn|Maland|1989|p=176}}{{Sfn|Schickel|2006|pp=30-31}}。その結末シーンでは、チャップリンが床屋のキャラクターを捨てて、カメラ目線で戦争とファシズムに反対する5分間の演説をした{{Sfn|Maland|1989|pp=178-181}}{{Sfn|Louvish|2010|p=282}}。映画史家のチャールズ・J・マーランドは、この説教がチャップリンの人気の低下を引き起こしたと考え、「今後、映画ファンはチャップリンから政治的側面を切り離すことができなくなった」と述べている{{Sfn|Maland|1989|pp=178-181}}。『独裁者』は[[第13回アカデミー賞]]で[[アカデミー作品賞|作品賞]]、[[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]、[[アカデミー脚本賞|脚本賞]]など5部門でノミネートされた<ref name="oscar1941">{{Cite web |url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1941 |title=THE 13TH ACADEMY AWARDS | 1941 |website=oscar.org |language=英語 |accessdate=2020年1月23日}}</ref>。 |
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この独特の扮装と役柄は、映画出演2作目の『[[ヴェニスの子供自動車競走]]』([[1914年]])で初めて登場している (チャップリン本人も当初、観客に受け入れられるとは思わなかったという)。 |
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==== ジョーン・バリーとウーナ・オニール ==== |
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{{quotation|''「流れ者、紳士、詩人、夢想家、孤独な人、いつも皆ロマンスと冒険に憧れてるんだ。」 -チャップリン自伝''}} |
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1940年代半ば、チャップリンは自身の公的イメージに大きな影響を与えた一連の裁判に関わり、それにほとんどの時間を費やした{{Sfn|Maland|1989|pp=197-198}}。[[1941年]]にチャップリンは{{仮リンク|ポール・ヴィンセント・キャロル|en|Paul Vincent Carroll}}原作の戯曲『{{仮リンク|影と実体|en|Shadow and Substance}}』の映画化を企画し、その主演女優として無名の[[ジョーン・バリー (アメリカの女優)|ジョーン・バリー]]と契約した。しかし、バリーは精神的に不安定で奇行が目立ったため、[[1942年]]5月に契約を解消した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=219}}。その後、バリーは2度もチャップリン家に侵入して逮捕され、[[1943年]]にはチャップリンの子供を妊娠していると発表した。チャップリンはこれを否定したため、バリーはチャップリンに対して子供の父権認知の訴訟を起こした{{Sfn|Maland|1989|pp=198-201}}。 |
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チャップリンの政治的傾向を長年にわたり疑っていた[[連邦捜査局]](FBI)は、チャップリンの評判を傷つけるための[[ネガティブ・キャンペーン]]の一環として{{Sfn|Nowell-Smith|1997|p=85}}、このスキャンダルに関する4件の罪状でチャップリンを訴えた。これらの中で最も問題になったのが、性的目的で州を越えて女性を移動させることを禁じる{{仮リンク|マン法|en| Mann Act}}に違反したという申し立てである{{Refnest|group="注"|検察官は、チャップリンが1942年10月にニューヨークに行った時に、性的目的でバリーをロサンゼルスからニューヨークへ移動させ、彼女にニューヨークまでの旅費を支払ったことが、マン法に違反していると主張した。二人はニューヨークで会ったことは認めたが、バリーはそこで性的関係を結んだと主張した{{Sfn|Maland|1989|pp=204-206}}。チャップリンは1942年5月以降に関係を持ったことはないと主張した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=230-231}}。}}。歴史家の[[オットー・フリードリック]]は、これを「時代遅れの法」による「馬鹿げた訴追」と呼んでいるが{{Sfn|Friedrich|1986|pp=190, 393}}、チャップリンが有罪となった場合は23年の懲役刑になる可能性があった{{Sfn|Maland|1989|pp=214-215}}。他の3件の告発は法廷に持ち込むのに十分な証拠がなかったが、マン法違反の裁判は[[1944年]]3月21日に始まり<ref>{{Cite news |title=Tentative Jury in Chaplin Case – British Nationality Of Actor Made Issue |location=San Bernardino, California |newspaper=The San Bernardino Daily Sun |agency=Associated Press |date=22 March 1944 |volume=50 |page=1}}</ref>、2週間後の4月4日に無罪となった{{Sfn|Maland|1989|pp=204-206}}。この事件はトップ級のニュースとして報道され、[[ニューズウィーク]]は「1921年の[[ロスコー・アーバックル]]事件の裁判以来の最大のスキャンダル」と呼んだ{{Sfn|Maland|1989|pp=214-215}}。 |
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以後、このTrampは年代とともに徐々に変化し、滑稽味の中にもペーソス(悲壮感)を湛えたハートフルな[[キャラクター]]に成長。貧しくとも人間としての誇りを失わない永遠の“放浪紳士チャーリー”が誕生する。アメリカの反動的なマスコミから、「危険思想をバラ撒き、健全な市民階級に毒素を注入している」などと揶揄されたが、[[プロレタリアート]]の立場から[[資本主義]]社会に対する不平等への“怒り”を表現するスタイルは終始一貫している。 |
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キャロル・アンと名付けられたバリーの子供(1943年10月生)の父権認知の裁判は、1944年12月に開廷した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=230, 233}}。原告側弁護士はチャップリンを不道徳であると強く非難し{{Sfn|Louvish|2010|p=xiii}}、[[1945年]]4月の判決でチャップリンが父親であることが認定された。血液検査では「[[O型]]のチャップリンと[[A型]]のジョーンから、[[B型]]のキャロル・アンが生まれる可能性はない」と結論付けられていたが、裁判が行われたカリフォルニア州では、血液検査は裁判の証拠として認められなかった{{Sfn|Maland|1989|pp=204-206}}。チャップリンは判決に従って、キャロル・アンが21歳になるまで養育費を支払うことになった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=236}}。この裁判でチャップリンは、FBIの影響を受けたメディアから過度な批判を受けた{{Sfn|Maland|1989|pp=207-213}}{{Sfn|Sbardellati|Shaw|2003|p=508}}{{Sfn|Friedrich|1986|pp=190, 393}}。 |
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=== 作風 === |
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初期は15〜30分前後のショート作品が主体で、放浪者のキャラクターも心優しさよりは寧ろコミカルな動き一辺倒で笑わせる非道な[[スラップスティック・コメディ映画|ドタバタ]]が主流であった。貧困階層の市民として、当時の世相や政府を風刺したものが多く、また思想的には[[アナキズム|アナーキー]]でドライな作風が多い{{Efn|女たらしで喧嘩っ早く、周囲との揉め事は始終絶えない。ラストは偽った身分もバレて巡査との追いかけっこ、というパターンがお決まりである。}}。 |
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この裁判でチャップリンが受けた打撃は大きかったが、そんな傷心の彼を慰めたのは4番目の妻である[[ウーナ・オニール]]だった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=237}}。1942年10月にチャップリンはタレントエージェントを介してウーナと初めて出会い、1943年6月16日に結婚した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=225-226, 229-230}}。チャップリンは自伝で、ウーナとの出会いは「長きにわたるであろう私の最良の幸福のはじまり」と述べている{{Sfn|チャップリン|1966|p=497}}。しかし、二人が結婚したのはバリーが父権認知訴訟を起こしてから2週間後のことであり、それはチャップリンをめぐる論争を高めることになった{{Sfn|Louvish|2010|p=135}}。チャップリンは亡くなるまでウーナと連れ添い、8人の子供をもうけた。その子供たちは上から[[ジェラルディン・チャップリン|ジェラルディン]](1944年7月生)、{{仮リンク|マイケル・チャップリン|label=マイケル・ジョン|en|Michael Chaplin (actor)}}(1946年3月生)、{{仮リンク|ジョゼフィン・チャップリン|label=ジョゼフィン・ハンナ|en|Josephine Chaplin}}(1949年3月生)、{{仮リンク|ヴィクトリア・チャップリン|label=ヴィクトリア|en|Victoria Chaplin}}(1951年5月生)、{{仮リンク|ユージン・チャップリン|label=ユージン・アンソニー|en|Eugene Chaplin}}(1953年8月生)、ジェーン・セシル(1957年5月生)、アネット・エミリー(1959年12月生)、{{仮リンク|クリストファー・チャップリン|label=クリストファー・ジェイムズ|en|Christopher Chaplin}}(1962年7月生)である{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=454-460}}。 |
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しかし、[[1917年]]の『[[チャップリンの勇敢]]』・『[[チャップリンの移民]]』あたりから、社会的弱者に対する同情が彼独自の[[ヒューマニズム]]となり、コメディー路線に新たな境地を切り拓く。 |
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==== 『殺人狂時代』と共産主義の告発 ==== |
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[[ファイル:Chaplin The Kid 2.jpg|200px|left|thumb|『キッド』(1921年)]] |
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[[File:Monsieur Verdoux poster.jpg|thumb|left|180px|『[[殺人狂時代 (1947年の映画)|殺人狂時代]]』(1947年)のポスター。]] |
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[[ファイル:Chaplin The Kid.jpg|200px|right|thumb|『キッド』のワンシーン。[[ジャッキー・クーガン]]と]] |
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チャップリンはバリーの裁判で「自分の創作意欲をひどく傷つけられた」と感じ、再び映画製作を始めるまでには時間がかかった{{Sfn|チャップリン|1966|pp=509-510}}。チャップリンの新作は『[[殺人狂時代 (1947年の映画)|殺人狂時代]]』で、フランスの失職した元銀行家ヴェルドゥが家族を養うために裕福な未亡人と結婚して殺害するという内容のブラックコメディである。このアイデアを思いついたきっかけは、1942年秋に[[オーソン・ウェルズ]]がチャップリン主演でフランスの連続殺人犯[[アンリ・デジレ・ランドリュー]]が主人公の映画を作りたいと提案したことだった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=227}}{{Sfn|大野|2017|pp=290-294}}。チャップリンはこの申し出を断ったが、このアイデアがすばらしい喜劇になると考えた{{Sfn|チャップリン|1966|p=495}}。そこでウェルズに原案料として5000ドルを支払い、当時進めていた『影と実体』の企画を棚上げして、4年がかりで完成させた{{Sfn|大野|2017|pp=290-294}}。 |
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[[1918年]]の『[[犬の生活]]』でよく知られる「心優しき放浪者」が完成された後、『[[担へ銃]]』では戦争の愚かさと一兵卒の悲哀を[[ユーモア]]のなかに描き、『[[偽牧師]]』(1923) では、宗教を笠に着る偽善を巧みに暴いてみせた。また『[[サニーサイド]]』(1919) では、甘美な夢と痛ましい現実が交錯し、初の長編『[[キッド (1921年の映画)|キッド]]』(1921) ではドタバタも控えめに、ドラマ性重視の[[コミックリリーフ|コメディリリーフ]]を試みた。捨て子と実母との再会までの奇跡を、実の親子以上の絆で結ばれた二人の物語となって、観客の胸を打つ。 |
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チャップリンは『殺人狂時代』で再び政治的姿勢を主張し、[[資本主義]]や戦争における[[大量破壊兵器]]の使用を批判した{{Sfn|Sbardellati|Shaw|2003|p=501}}{{Sfn|Louvish|2010|p=304}}。そのため[[1947年]]4月に公開されると物議を醸した{{Sfn|Louvish|2010|pp=296-297}}{{Sfn|Larcher|2011|p=77}}。プレミア上映ではブーイングされ、ボイコットの呼びかけもあった{{Sfn|Louvish|2010|pp=296-297}}{{Sfn|Sbardellati|Shaw|2003|p=503}}。この作品はアメリカで批評的にも興行的にも失敗した最初のチャップリン映画だったが、海外では高い成功を収め{{Sfn|Maland|1989|pp=235-245, 250}}、[[第20回アカデミー賞]]では脚本賞にノミネートされた<ref name="oscar1947">{{Cite web |url=https://www.oscars.org/oscars/ceremonies/1948 |title=THE 20TH ACADEMY AWARDS | 1948 |website=oscar.org |language=英語 |accessdate=2020年1月23日}}</ref>。チャップリンはこの作品に誇りを持っており、自伝では「『殺人狂時代』は自分の作品中でも最高の傑作、実によくできた作品だと信じている」と述べている{{Sfn|チャップリン|1966|p=531}}。 |
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さらに[[リアリズム]]に徹した意欲作『[[巴里の女性]]』(1923)。[[アラスカ地区|アラスカ]]・[[クロンダイク (ユーコン準州)|クロンダイク]]の金鉱発掘者たちのドラマ『[[黄金狂時代]]』(1925)。曲馬団の少女に恋をして奮闘する『[[サーカス (映画)|サーカス]]』(1928) などで、高い芸術性が評価されるようになる。<br>また、背中を向けてひとり悄然と、しかし朗らかに歩み去っていくラストシーンは、初期の『[[チャップリンの失恋|失恋]]』(1915) で初めて登場して以来の定石であるが、[[エドナ・パーヴァイアンス]]との出会いから生み出されたと言われる。 |
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『殺人狂時代』に対する否定的反応は、チャップリンの公のイメージが変化した結果だった{{Sfn|Maland|1989|p=251}}。チャップリンはバリーとのスキャンダルの被害に加えて、政治的姿勢が[[共産主義]]的であると公に非難された{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=248-249}}{{Sfn|Friedrich|1986|p=287}}。チャップリンの政治活動は、[[第二次世界大戦]]中に[[ソビエト連邦]]を支援するために第二戦線を開くことを呼びかける演説を行い、さまざまなアメリカの親ソ組織を支援した時に激化した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=222-224}}。また、[[ハンス・アイスラー]]や[[ベルトルト・ブレヒト]]などの共産主義者とされる著名人と交友があり、ロサンゼルスでソ連外交官が主催したレセプションにも出席した{{Sfn|Maland|1989|pp=221-226, 253-254}}。1940年代のアメリカの政治情勢では、そのような活動は「危険なほど[[進歩主義 (政治)|進歩主義]]的で不道徳」と見なされた{{Sfn|Louvish|2010|p=xiii}}{{Sfn|Larcher|2011|p=75}}{{Sfn|Sbardellati|Shaw|2003|p=506}}。FBIはチャップリンの国外追放を考え、1947年に公式な調査を開始した{{Sfn|Maland|1989|pp=265-266}}{{Refnest|group="注"|チャップリンは1940年代以前からFBIに注目されており、報告書で最初に言及されたのは1922年だった。1946年9月にFBI長官の[[ジョン・エドガー・フーヴァー]]は、チャップリンに関する特別な報告書の作成を要求したが、FBIロサンゼルス支局の反応は遅く、翌年春に活発な調査を始めた{{Sfn|Maland|1989|pp=265-266}}。FBIはチャップリンがイギリス人ではなくフランスまたは東ヨーロッパで生まれ、本名がイズレイル・ゾーンシュタインであるという誤った申し立てを調査するため[[MI5]]に協力を求めたが、MI5はそのような証拠を発見できなかった{{Sfn|大野|2017|pp=288-289}}<ref>{{cite news|last=Norton-Taylor |first=Richard |date=17 February 2012 |title=MI5 Spied on Charlie Chaplin after the FBI Asked for Help to Banish Him from US |url=https://www.theguardian.com/uk/2012/feb/17/mi5-spied-on-charlie-chaplin |newspaper=The Guardian |location=London |accessdate=17 February 2012 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100702232703/http://www.guardian.co.uk/culture/2009/nov/05/charlie-chaplin-ebay-reel-tin |archivedate=2 July 2010 |url-status=live }}</ref>。}}。 |
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以降、美しいものへの憧憬と、放浪者のまなざしが社会の歪みや冷酷さへ向けられると、その作風もまた大きく変わってゆく。 |
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チャップリンは共産主義者であることを否定し、代わりに自分を「平和主義者」と呼んだが{{Sfn|チャップリン|1966|p=525}}{{Sfn|Maland|1989|p=238}}{{Sfn|Louvish|2010|p=310}}、イデオロギーを抑圧する政府のやり方は[[自由権]]を侵害していて容認できないと主張した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=256-257}}。チャップリンはこの問題について沈黙を拒否し、[[アメリカ共産党|共産党]]員の裁判と[[下院非米活動委員会]]の活動に公然と抗議した{{Sfn|Maland|1989|pp=255-256}}。チャップリンの活動はマスコミで広く報道され、[[冷戦]]の恐れが高まるにつれて、チャップリンがアメリカ市民権を取らなかったことにも疑問が投げかけられ、国外追放を求める声も上がった{{Sfn|Louvish|2010|p=xiii}}{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=256-257}}{{Sfn|Larcher|2011|p=80}}{{Sfn|Sbardellati|Shaw|2003|p=510}}。例えば、1947年6月に非米活動委員会の委員である{{仮リンク|ジョーン・E・ランキン|en|John E. Rankin}}議員は、「チャップリンがハリウッドにいること自体が、アメリカの体制には有害なのです…今すぐ彼を国外追放処分にして追放すべきであります」と発言した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=256-257}}。同年9月、チャップリンは非米活動委員会から召喚状を受け取ったが、証言するために出頭されることはなかった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=454-460}}{{Sfn|Friedrich|1986|p=286}}{{Sfn|Maland|1989|p=261}}。 |
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街角で出会った盲目の花売り娘に、無償の愛を注ぐ『[[街の灯]]』。大不況のさ中に苦悶する労働者の実態を通し、幸福とはなにかを問い掛ける『[[モダン・タイムス]]』。ナチス・ドイツが台頭するヨーロッパで、ヒトラーをこてんぱんにカリカチュアした『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』。“チャーリー”スタイルから脱却し、反戦メッセージを含ます異色のブラック・コメディ『[[殺人狂時代 (1947年の映画)|殺人狂時代]]』。落ちぶれた老芸人が、足の不自由なバレリーナと再起の舞台を賭ける『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』。現代アメリカの矛盾点を鋭くえぐった『[[ニューヨークの王様]]』など。 |
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==== 『ライムライト』とアメリカ追放 ==== |
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フランスの映画監督[[ジャン・ルノワール]]は 「チャップリンはただ一つの作品をつくったのだ」 と言っている。 |
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[[File:Limelight promo crop.jpg|thumb|right|200px|『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』(1952年)で人気を失くした舞台芸人のカルヴェロを演じたチャップリン。]] |
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チャップリンは『殺人狂時代』の失敗後も政治的活動を続けたが{{Refnest|group="注"|1947年11月、チャップリンは[[パブロ・ピカソ]]に、ハンス・アイスラーの国外追放に抗議するためのデモをパリのアメリカ大使館前で行うよう要請し、12月に国外追放手続きの中止を求める請願書に署名した。チャップリンは[[1948年アメリカ合衆国大統領選挙]]で[[ヘンリー・A・ウォレス]]を支持し、[[1949年]]に起きた[[ピークスキル暴動]]に抗議する請願書に署名した{{Sfn|Maland|1989|pp=256-257}}。}}、次回作の『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』は忘れられたミュージック・ホールのコメディアンと若いバレリーナが主人公の作品で、政治的テーマからかけ離れていた。この作品はチャップリンの子供時代と両親の人生だけでなく、アメリカでの人気の喪失をほのめかしており、非常に自伝的なものになった{{Sfn|Maland|1989|pp=288-290}}{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=261-262}}{{Sfn|Louvish|2010|p=312}}。出演者にはチャップリンの5人の子供や異父弟のウィーラー・ドライデンなどの家族が含まれていた{{Sfn|Maland|1989|p=293}}。チャップリンは3年間も脚本に取り組み、[[1951年]]11月に撮影を始めた{{Sfn|Louvish|2010|p=317}}。チャップリンのパントマイムシーンの相手役には[[バスター・キートン]]が出演したが、サイレント映画時代に人気を分けた二人が共演したのはこれ限りだった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=283}}。 |
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チャップリンは『ライムライト』のワールド・プレミアを、作品の舞台となったロンドンで開催することに決めたが{{Sfn|Louvish|2010|p=326}}、ロサンゼルスを去ればもう戻ってくることはないだろうと予感した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=287}}。[[1952年]]9月17日、チャップリンは家族と[[クイーン・エリザベス (客船)|クイーン・エリザベス]]に乗船し、イギリスへ向けてニューヨークを出航した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=454-460}}。その2日後、アメリカ合衆国司法長官の{{仮リンク|ジェームズ・P・マクグラネリー|en|James P. McGranery}}はチャップリンの再入国許可を取り消し、アメリカに戻るには政治的問題と道徳的行動に関する審問を受けなければならないと述べた{{Sfn|Maland|1989|pp=280-287}}。マクグラネリーは「チャップリンを国外追放した根拠を明らかにすれば、チャップリン側の防御を助けることになる」と述べたが{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=292}}、マーランドは1980年代に開示されたFBIの記録に基づき、アメリカ政府はチャップリンの再入国を阻止するための証拠を持っていなかったと結論付けた{{Sfn|Maland|1989|pp=280-287}}。チャップリンは船上で再入国許可取り消しの知らせを受け取り、アメリカとの関係を断ち切ることに決めた。 |
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専属の[[キャメラマン]]に、エッサネイ時代から『殺人狂時代』までの長きにわたり{{仮リンク|ローランド・H・トザロー|en|Roland Totheroh}}が務めた。 |
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{{Quote|あの不幸な国に再入国できるかどうかは、ほとんど問題ではなかった。できることなら答えたやりたかった―あんな憎しみに充ちた雰囲気からは、一刻でも早く解放されればされるほどうれしいことはない。アメリカから受けた侮辱と、もったいぶったその道徳面には飽き飽きだし、もうこの問題にはこりごりだ、と{{Sfn|チャップリン|1966|p=542}}。}} |
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チャップリンの全財産はアメリカに残っており、合衆国政府に何らかの口実で没収されるのを恐れたため、政府の決定について否定的なコメントをするのは避けた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=289}}。この事件はセンセーショナルに報道されたが{{Sfn|Louvish|2010|p=330}}、チャップリンと『ライムライト』はヨーロッパで温かく受け入れられた{{Sfn|Maland|1989|pp=280-287}}。アメリカではチャップリンに対する敵意が続き、『ライムライト』はいくつかの肯定的なレビューを受けたものの、大規模なボイコットにさらされた{{Sfn|Maland|1989|pp=295-298, 307-311}}。マーランドは、チャップリンの人気の「前例のない」レベルからの低下は、「アメリカのスターダムの歴史の中で最も劇的かもしれない」と述べている{{Sfn|Maland|1989|p=189}}。 |
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=== ヨーロッパ時代:1953年~1977年 === |
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[[ファイル:Chaplin The Immigrant.jpg|200px|thumb|『チャップリンの移民』(1917年) より。ヒロイン役のエドナ・パーヴァイアンスとは30本以上の作品で共演した。エドナ最後のチャップリン映画は『巴里の女性』である。]] |
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==== スイス移住と『ニューヨークの王様』 ==== |
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出演者には同じ俳優を起用することが多く、[[ヒロイン]]役には[[エドナ・パーヴァイアンス]]が[[1915年]]から[[1923年]]までの全35本の作品に出演している。そのほかのヒロイン役としては[[ジョージア・ヘイル]](『黄金狂時代』)、[[ヴァージニア・チェリル]](『街の灯』)、[[ポーレット・ゴダード]](『モダン・タイムス』『独裁者』)、[[クレア・ブルーム]](『ライムライト』)などが挙げられる。助演者にはチャップリンの右腕で良き親友でもあった[[ヘンリー・バーグマン]](全20本に出演)をはじめ、[[アルバート・オースチン]]、[[アラン・ガルシア (俳優)|アラン・ガルシア]]、[[エリック・キャンベル]]、[[ジョン・ランド]]、[[レオ・ホワイト]]などが常連出演した。また[[マック・スウェイン]]、[[フィリス・アレン]]、[[チェスター・コンクリン]]、[[ハンク・マン]]といったキーストン・スタジオ出身の喜劇俳優たちも長くチャップリン映画で活躍した。 |
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{{Quote box|width=30%|align=right|quote=私は強力な反動的グループによる虚偽と悪意あるプロパガンダの対象にされてきた。彼らは自らの影響力とアメリカのイエロー・ジャーナリズムの助けで、リベラルな考えの人々を選び出して迫害することを許す不健康な空気を作り出している。このような状況下では、映画製作を続けることは事実上不可能であり、アメリカに居住することを諦めました。|source=チャールズ・チャップリン、アメリカに戻らないという決定に関する声明{{Sfn|Larcher|2011|p=89}}}} |
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チャップリンは再入国許可が取り消されたあと、アメリカに戻ろうとはせず、代わりにウーナをロサンゼルスに送って、財産をヨーロッパに持ち出すという問題を解決させた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=297}}。チャップリン一家は[[スイス]]に移住することに決め、[[1953年]]1月に[[レマン湖]]近くにある村{{仮リンク|コルシエ=シュル=ヴヴェイ|en|Corsier-sur-Vevey}}にある、広さ14ヘクタールの邸宅{{仮リンク|マノワール・ド・バン|en|Manoir de Ban}}に居を定めた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=298-299}}<ref>{{cite web|url=http://www.swissinfo.ch/eng/film-legend-found-peace-on-lake-geneva/12814 |title=Film Legend Found Peace on Lake Geneva |author=Dale Bechtel |year=2002 |website=swissinfo.ch/eng |publisher=Vevey |accessdate=5 December 2014 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20141209213503/http://www.swissinfo.ch/eng/film-legend-found-peace-on-lake-geneva/12814 |archivedate= 9 December 2014}}</ref>。同年3月に[[ビバリーヒルズ]]にある家とスタジオは売りに出され、4月にアメリカへの再入国許可証を放棄した。[[1955年]]にはユナイテッド・アーティスツの残りの株式を売却し、アメリカとの最後の仕事上の関係を断ち切った{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=301-302}}。 |
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1950年代もチャップリンは、[[世界平和評議会]]から{{仮リンク|世界平和評議会賞|label=国際平和賞|en|World Peace Council prizes}}を受賞したり、[[周恩来]]や[[ニキータ・フルシチョフ]]と会談したりするなど、物議を醸す人物であり続けた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=301-302}}。[[1954年]]にはヨーロッパでの最初の作品となる『[[ニューヨークの王様]]』の脚本執筆を始めた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=303-304}}。チャップリンは国を追われてアメリカに亡命した国王を演じ、自身が最近経験したことのいくつかを脚本に取り入れた。チャップリンの息子のマイケルは、両親がFBIの標的にされた少年役にキャスティングされ、チャップリンが演じた国王は共産主義の告発に直面するという設定だった{{Sfn|Louvish|2010|pp=xiv-xv}}。また、チャップリンは非米活動委員会をパロディ化し、アメリカの[[消費主義]]や大画面映画なども攻撃した{{Sfn|Larcher|2011|pp=89-90}}{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=305-308}}{{Sfn|Louvish|2010|p=341}}{{Sfn|Maland|1989|pp=320-322}}。劇作家の{{仮リンク|ジョン・オズボーン (劇作家)|label=ジョン・オズボーン|en|John Osborne}}は、それを「チャップリンの映画の中で最も辛辣」で「公然たる個人的映画」と呼んだ{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=305-308}}。[[1957年]]のインタビューで、チャップリンは自身の政治的姿勢について「政治に関しては、私はアナーキストだよ。政府や規則、束縛は嫌いだ…人間は自由であるべきだ」と発言した<ref>{{Cite book |last1=Chaplin |first1=Charlie |last2=Hayes |first2=Kevin |title=Charlie Chaplin: Interviews |date=2005 |publisher=Univ. Press of Mississippi |page=121}}</ref>。 |
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=== ペーソス === |
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チャップリンに関して伝えられる物語の一つに、彼が子供の時に見た[[屠畜場|食肉処理場]]から逃げ出した[[ヒツジ|羊]]の話がある。周囲の人間は慌てて羊を追いかけるのだが、羊も必死で逃げるから羊も人間も右往左往、あちこちぶつかってはひっくり返った。そのおかしな光景に周りの人間は腹を抱えて笑ったが、やがて羊がつかまえられたとき、「あの羊、殺されるよ…」と泣きながら母のもとに走って行った。喜劇と悲劇が紙一重になっているチャップリンの作風の原点となっている<ref>『自伝』より。</ref>。 |
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チャップリンは『ニューヨークの王様』を作るために新しい製作会社アッティカを設立し、ロンドン郊外にある{{仮リンク|シェパートン撮影所|en|Shepperton Studios}}をスタジオに借用した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=303-304}}。チャップリンは今まで自分のスタジオで気心の知れたスタッフと映画を作っていたため、仲間がほとんどおらず、スケジュールにも縛られたイギリスでの撮影は困難な仕事となった。それは映画の完成度に大きな影響を及ぼした{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=305-308}}{{Sfn|Epstein|1988|p=137}}。作品は1957年9月にロンドンで初公開され、さまざまな評価を受けたが、ヨーロッパではヒットした{{Sfn|Maland|1989|pp=320-322}}{{Sfn|大野|2017|p=328}}{{Sfn|Lynn|1997|p=506}}{{Sfn|Louvish|2010|pp=341-342}}。チャップリンはパリでの初公開時にアメリカの記者を追い出し、[[1973年]]までアメリカで上映しなかった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=310}}{{Sfn|Louvish|2010|p=347}}。 |
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[[image:Charlie Chaplin by Charles C. Zoller 4.jpg|left|200px|thumb|『犬の生活』のセットで ([[ジョージ・イーストマン]]・ハウス収蔵)]] |
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“永遠の放浪者チャーリー”のモデルとされる人物には、幼少のころに見たルンペンたち、ミュージック・ホール時代のスターたち、草創期の映画スターたち(特にフランスの喜劇王[[マックス・ランデー]])など多くのモデルがいる。<br>チャップリンの母[[ハンナ・チャップリン|ハンナ]]は、タウンハウスの地下部屋から通りを往く足だけ見える人々の心情を[[パントマイム]]で表現し、幼い彼に人間観察の大切さを教えたという。 |
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==== 最後の作品と晩年 ==== |
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映画の中で笑いの起爆剤となる[[靴|ドタ靴]]について、[[淀川長治]]は著書や講演の際に、「寒い雪の中を教会の慈善スープを貰いに、チャップリンの小さな身体には大きすぎる母親の靴を履かされた思い出」などを語ることがあるが、作り話であった。 |
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[[File:Charlie Chaplin and Oona ONeill 1965.jpg|thumb|left|220px|チャップリンと妻の[[ウーナ・オニール]](1965年)。]] |
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チャップリンはキャリアの最後の20年間で、過去の作品の所有権と配給権を確保し、それらを再公開するために音楽を付けて再編集することに精力を傾けた{{Sfn|Maland|1989|p=326}}。その最初の仕事として、チャップリンは『犬の生活』『担へ銃』『偽牧師』の3本をまとめて、[[1959年]]に『[[チャップリン・レヴュー]]』として再公開した{{Sfn|大野|2017|p=333}}。この頃のアメリカでは政治的な雰囲気が変わり始め、世間の注目はチャップリンの政治的問題ではなく、再びチャップリン映画に向けられた{{Sfn|Maland|1989|p=326}}。[[1962年]]7月にニューヨーク・タイムズは、「いまだ忘れられていない小さな放浪者がアメリカの港に上陸するのを許したところで、この国が危険にさらされるとは思えない」と社説で述べた{{Sfn|Lynn|1997|pp=507-508}}。[[1963年]]11月にはニューヨークのプラザシアターで、『殺人狂時代』『ライムライト』を含むチャップリン映画の回顧上映が1年かけて行われ、アメリカの批評家から高い評価を受けた{{Sfn|Lynn|1997|p=509}}{{Sfn|Maland|1989|p=330}}。[[1964年]]9月、チャップリンは7年前から執筆していた『{{仮リンク|チャップリン自伝|en|My Autobiography}}』を刊行した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=323-327}}。この自伝は初期の人生と私生活に焦点を当てており、映画のキャリアに関する情報が不足していると指摘されたが、世界的なベストセラーとなった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=327-329}}{{Sfn|Lynn|1997|pp=510-512}}。 |
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チャップリンは自伝の出版直後、1930年代にポーレット・ゴダードのために書いた脚本に基づくロマンティック・コメディ『[[伯爵夫人 (映画)|伯爵夫人]]』の製作を始めた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=329-331}}。物語は豪華客船を舞台とし、[[マーロン・ブランド]]が乗客のアメリカ大使、[[ソフィア・ローレン]]が彼の部屋に隠れる密航者を演じた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=329-331}}。チャップリンが国際的な大スターを起用したのはこれが初めてで、自身は[[端役|ちょい役]]で出演するにとどめ、監督に徹した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=334}}{{Sfn|大野|2017|p=335}}。また、この作品ではチャプリン映画として初めてカラーフィルムとワイドスクリーンを導入した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=334}}。作品は[[1967年]]1月に[[ユニバーサル・スタジオ|ユニバーサル・ピクチャーズ]]の配給で公開されたが、否定的な批評が多く、興行的にも失敗した{{Sfn|Epstein|1988|pp=192-196}}{{Sfn|Lynn|1997|p=518}}{{Sfn|Maland|1989|p=335}}。チャップリンは自身最後の映画となったこの作品の否定的反応に深く傷ついた{{Sfn|Epstein|1988|pp=192-196}}。 |
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チャップリンの幼少期の経験は、後に作られる数々の作品の中で断片的に投影されていく。 |
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1960年代後半、チャップリンは軽微な[[脳卒中]]を起こし、そこからチャップリンの健康状態はゆっくりと低下し始めた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=344}}。それでも創作意欲が衰えることはなく、すぐに新しい映画の脚本『[[フリーク (チャップリンの映画)|フリーク]]』に取りかかった。これは翼が生えた少女が主人公のドラマ仕立てのコメディで、娘のヴィクトリアを主演に想定していた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=344}}。しかし、チャップリンの健康状態の低下は映画化の実現を妨げた{{Sfn|Epstein|1988|pp=203}}。1970年代初頭、チャップリンは『キッド』『サーカス』などの自作を再公開することに専念した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=346-348}}。チャップリン映画を配給するためにブラック社が設立され、「ビバ・チャップリン」と題したリバイバル上映が各国で行われたが、これは日本だけの収益で元が取れた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=346-348}}{{Sfn|大野|2017|p=340}}。 |
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劇団の巡業で渡米する際、母親の入国許可は下りなかったが、ハリウッドで成功してからは母を呼び寄せることができた。風光明媚な海岸の一軒家に住まわせ、面倒見のいい夫婦と経験豊かな看護婦を雇った。しかしハンナは最後まで息子の成功を理解できぬまま、[[1928年]]に亡くなった。「もう生活の気苦労はなかったはずなのに、この先何か問題が起こるのではないかと、常に不安そうな表情を浮かべ心配していた」と後年チャップリンは回想している。 |
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[[ファイル:Chaplin oscar.JPG|thumb|200px|1972年の[[アカデミー賞]]授賞式で[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]を受賞したチャップリン(右)。左はプレゼンターの[[ジャック・レモン]]。]] |
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=== 反ファシズム === |
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1970年代、チャップリンは[[カンヌ国際映画祭]]特別賞や[[レジオンドヌール勲章]]など、その業績に対してさまざまな栄誉を受けるようになった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=346-348}}。[[1972年]]に[[映画芸術科学アカデミー]]は、チャップリンに[[アカデミー名誉賞]]を授与することに決めた。ロビンソンは、これで「アメリカも償いをする気になった」と述べている。最初チャップリンはこれを受けるのをためらったが、20年ぶりにアメリカに戻ることを決心した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=346-348}}。授賞式では、同賞の歴史の中で最長となる12分間の[[スタンディングオベーション]]を受け、チャップリンは「今世紀が生んだ芸術である映画の製作における計り知れない功績」を理由に名誉賞を受け取った<ref>{{cite web|url=http://www.history.com/this-day-in-history/charlie-chaplin-prepares-for-return-to-united-states-after-two-decades |title=Charlie Chaplin Prepares for Return to United States after Two Decades |publisher=A&E Television Networks |accessdate=7 June 2010 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20101205061522/http://www.history.com/this-day-in-history/charlie-chaplin-prepares-for-return-to-united-states-after-two-decades |archivedate=5 December 2010 |url-status=dead }}</ref>{{Sfn|Maland|1989|p=347}}。チャップリンはその2年後に著した『映画のなかのわが人生』の中で、授賞式について「私はその温かな意思表示に感動したが、あの出来事にはなにがしかの[[アイロニー]]があった」と述べている{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=351-352}}。 |
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[[image:Bundesarchiv Bild 102-11347, Berlin, Charly Chaplin mit Schutzpolizisten.jpg|right|170px|thumb|ドイツ、[[国会議事堂 (ドイツ)|ベルリン国会議事堂]]前のチャップリン(1931年3月)]] |
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チャップリンは、[[ドイツ]]・[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]の指導者で、選挙を経て同国の総統となり、その後独裁体制を敷いた[[アドルフ・ヒトラー]]に強い反感を持ち、[[1940年]]に発表した『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』ではヒトラーを痛烈に批判している。 |
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チャップリンはまだ新しい映画のための企画を考えており、[[1974年]]には「アイデアが次々と頭の中に飛び込んでくるから」引退することはできないと語っていたが、1970年代半ばまでにチャップリンの健康状態はさらに低下した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=353-355}}。チャップリンは数回の脳卒中を起こし、やがて歩くこともできなくなった<ref name="EugeneChaplin">{{cite news|last=Thomas |first=David |title=When Chaplin Played Father |url=https://www.telegraph.co.uk/culture/film/3587749/When-Chaplin-played-father.html |newspaper=The Telegraph |date=26 December 2002 |accessdate=26 June 2012 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120715051303/http://www.telegraph.co.uk/culture/film/3587749/When-Chaplin-played-father.html |archivedate=15 July 2012}}</ref>{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=353-355}}。チャップリンの最後の仕事は、[[1976年]]に『巴里の女性』を再公開するためにスコアを付けて再編集する作業だった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=353-355}}。[[1975年]]にはチャップリンの人生についてのドキュメンタリー『放浪紳士チャーリー』に出演した{{Sfn|Lynn|1997|pp=534-536}}。同年3月、イギリス女王[[エリザベス2世]]より[[ナイト]]の称号を与えられた<ref name="Gazette19741231">{{Cite web |url=https://www.thegazette.co.uk/London/issue/46444/supplement/8 |title=1975 New Year Honours |accessdate=2020-03-19 |publisher=The London Gazette |language=英語}}</ref>。授与式には車椅子姿で登場し、座ったまま栄誉を受け取った{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=353-355}}<ref>{{Cite news|title=Little Tramp Becomes Sir Charles|date=5 March 1975 |newspaper=Daily News|location=New York |url=http://www.nydailynews.com/entertainment/movies/charlie-chaplin-knighted-queens-elizabeth-1975-article-1.2548959 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160303192525/http://www.nydailynews.com/entertainment/movies/charlie-chaplin-knighted-queens-elizabeth-1975-article-1.2548959 |archivedate=3 March 2016 |url-status=live}}</ref>。 |
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ただ、『独裁者』製作時のアメリカはまだ[[第二次世界大戦]]に参戦しておらず、国内にはドイツ系市民を中核とする親ナチ派が歴として存在していた。[[ファシズム]]色を濃くし、[[ユダヤ人]]への弾圧強化、[[オーストリア]]や[[チェコスロバキア]]を併合していった上に、第二次世界大戦を引き起こしたヒトラーに対してさえ、「[[共産主義]]の防波堤」と称賛する者もいたほどで、チャップリンの元には連日のように製作中止を求めるクレーム、暗殺を仄めかす脅迫状が届いた。 |
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==== 死去 ==== |
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しかし、そんな陰の圧力にも屈せず公開させると、批評家からは概ね好評で、熱烈な反ファシストを宣言していた[[フランクリン・ルーズベルト|F・D・ルーズベルト]]大統領から[[ホワイトハウス]]に招かれるなど、それまでのチャップリン映画中、最も興収を上げた作品となった。 |
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[[File:Charles Chaplin Grave in Corsier-sur-Vevey.jpg|170px|thumb|スイスのコルシエ=シュル=ヴヴェイにあるチャップリンの墓。]] |
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[[1977年]]10月15日、チャップリンはスイスに居住してからの恒例行事だったヴヴェイの{{仮リンク|ニー・サーカス|en|Circus Knie}}の見物に出かけたが、それがチャップリンの最後の外出となった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=353-355}}。それ以降は絶えず看護が必要になるまでに健康状態が悪化した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=356}}。12月25日の[[クリスマス]]の早朝、チャップリンは自宅で睡眠中に脳卒中のため88歳で亡くなった<ref name="EugeneChaplin"/>{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=356}}。その2日後にヴヴェイにある[[聖公会|アングリカン・チャーチ]]の教会で、チャップリンの生前の希望による内輪の質素な葬儀が行われ、棺はコルシエ=シュル=ヴヴェイの墓地に埋葬された{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=357-358}}{{Sfn|Vance|2003|p=359}}。チャップリンが亡くなったあと、世界中の映画人が賛辞の言葉を寄せた。フランスの[[ルネ・クレール]]監督は「彼は国と時代を超えた、映画の記念碑的存在だった。彼は文字どおりすべてのフィルムメイカーの励みだった」と述べた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=357-358}}。俳優の[[ボブ・ホープ]]は「私たちは、彼と同じ時代に生きることができて幸運だった」と述べた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=359}}。 |
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[[1978年]]3月1日、チャップリンの棺は移民の失業者であるポーランド人のロマン・ヴォルダスとブルガリア人のガンチョ・ガネフにより掘り起こされ、墓から盗み出された。二人は自動車修理工場の開業資金を手に入れるために棺を盗み、ウーナに60万[[スイス・フラン]]の身代金を要求したが、大規模な警察の作戦により逮捕された。5月、チャップリンの棺は墓地に近いノヴィーユ村の[[麦畑]]に埋められている状態で発見され、再発防止のため[[鉄筋コンクリート]]で周りを固めて同じ墓地に埋め戻された{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=357-358}}<ref>{{cite news|url=https://www.bbc.co.uk/news/magazine-20507503 |title=Yasser Arafat: 10 Other People Who Have Been Exhumed |date=27 November 2012 |accessdate=27 November 2012 |publisher=BBC |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121127151521/http://www.bbc.co.uk/news/magazine-20507503 |archivedate=27 November 2012}}</ref>。 |
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[[Image:Dictator_charlie5.jpg|left|220px|thumb|『独裁者』(1940)より、風船の地球儀を弄ぶ名シーン]] |
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なお、この映画に出てくる床屋のイメージからか「チャップリン=ユダヤ人」と捉える人も根強くいるが、チャップリンはユダヤ人ではない{{Efn|兄のシドニーがユダヤ人の[[クォーター]]であると主張しており、それが関連している可能性がある。詳しくは英語版Wikipedia ‐ [[:en:Sydney Chaplin|Sydney Chaplin]]を参照のこと。}}。 |
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チャップリンはカーノー劇団所属時での寸劇や、ごく初期の作品でユダヤ人を小馬鹿にする[[ギャグ]]を使っており(挨拶の際、ユダヤ人特有の長い顎鬚で涙を拭ったり引張ったりする)、ある人には「ユダヤ人と思われて光栄だ」などとも語っており、それが「チャップリン=ユダヤ人」説の原因になった。 |
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== 作風 == |
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=== 影響 === |
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監督、主演だけではなく脚本や演出も担当し、『街の灯』以降の全作品、[[1918年]]からの『キッド』、『黄金狂時代』、『サーカス』などの一連のサイレント作品をリバイバル上映用に再編集して、自ら[[劇伴]]を作曲したこと、わずか数秒のシーンを納得のいくまで何百テイクと撮り直したことなどから、業界随一の'''完璧主義者'''と呼ばれた。特に『街の灯』における花売り娘との出会いのシーン(正味3分ほど)では、一年以上にわたって342回もの[[NG (放送用語)|NG]]を出した{{Efn|チャップリンが主演の[[ヴァージニア・チェリル]]を根本的に好かなかったという理由がある。}}。この映画は完成までに534日かかっているが、たった一つの場面だけに368日が費やされている。前作の『サーカス』においては、地上数十メートルの高さで[[スタント]]なしで綱渡りを披露したことも例に挙げられる。 |
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最初にチャップリンに影響を与えたのは、芸人である母のハンナだった。ハンナはよく窓際に座って通行人の真似をして、幼少期のチャップリンを楽しませた。これを通してチャップリンは、手ぶりや表情で自分の感情を表現する方法と、人間を観察して掘り下げる方法を学んだ{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=42}}。チャップリンはミュージック・ホールの舞台で活動し始めた頃、{{仮リンク|ダン・リーノ|en|Dan Leno}}などのコメディアンの芸を間近で見て学んだ{{Sfn|チャップリン|1966|pp=44-45}}{{Sfn|Weissman|2009|pp=82-83, 88}}。フレッド・カーノー劇団で過ごした日々は、俳優及び監督としてのチャップリンのキャリア形成に影響を与えた{{Sfn|Louvish|2010|p=38}}。チャップリンはカーノーからギャグのテンポを変えることや、ドタバタにペーソスを混ぜることを学んだ{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=121}}。映画業界からは、フランスの喜劇俳優[[マックス・ランデー]]の影響を受けており、チャップリンは彼の作品を賞賛した{{Sfn|Lynn|1997|pp=99-100}}{{Sfn|Brownlow|2010|p=22}}{{Sfn|Louvish|2010|p=122}}。小さな放浪者の扮装とキャラクターは、浮浪者のキャラクターがよく演じられていたアメリカの[[ヴォードヴィル]]の舞台に触発されたと考えられている{{Sfn|Louvish|2010|pp=48-49}}。 |
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=== 製作方法 === |
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また、唯一のシリアスメロドラマ『[[巴里の女性]]』(1923年)においては、映画作家としての手腕を発揮し、後世の映画人に与えた影響は大きい。最後に撮った『[[伯爵夫人 (映画)|伯爵夫人]]』(1967年)同様、監督にのみ徹し主演はしていないが、後者は[[ソフィア・ローレン]]、[[マーロン・ブランド]]という二大ビッグスターを起用し話題にはなったものの、コメディに不向きなマーロンを抜擢したのが良くなかったのか、「時代おくれ」 「偉大な天才の凡作」という評価が多かった。一方『巴里の女性』は、永年の相手役エドナ・パーヴァイアンスを大女優にすべく製作されたもので、それまでのハリウッド製娯楽映画にはみられなかった[[ソフィスティケイテッド・コメディ|ソフィスティケート]]された演出が話題をさらい、当時の批評家やインテリ層を唸らせた。しかし一般受けせず、興行成績も芳しくなかったため、長らくの[[お蔵入り]]となる。この「幻の名作」がサウンド版として再び世に出たのは[[1976年]]、チャップリンの死の前年のことであった。 |
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[[File:Chaplin Studios postcard.jpg|thumb|right|220px|チャップリン・スタジオ(1922年)。1918年から1952年までのチャップリン映画はすべてここで作られた。]] |
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チャップリンは自分の映画の製作方法についてほとんど話そうとはせず、もし作り方がわかってしまえば「魔法はすっかり消し飛んでしまう」と主張した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=323, 327-329}}。また、1918年にチャップリンは業界のスパイが記者に化けて製作会議を盗み聞きしたという事件に遭遇し、それ以来映画製作において秘密主義を貫き、スタジオの訪問も禁じていた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=288}}{{Sfn|大野|2017|p=115}}。そのためチャップリンの生涯を通じて、その製作方法が知られることはほとんどなかったが{{Sfn|Brownlow|2010|p=7}}、没後に映画史家の[[ケヴィン・ブラウンロー]]と{{仮リンク|デイヴィッド・ギル|en|David Gill (film historian)}}により研究が行われ、その調査結果が3部構成のテレビドキュメンタリー『{{仮リンク|知られざるチャップリン|en|Unknown Chaplin}}』(1983年)の中で紹介されて以来、チャップリンのユニークな製作方法が明らかになった{{Sfn|Louvish|2010|p=103}}{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=216-217}}。 |
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チャップリンは『独裁者』で会話付きの映画を作り始めるまで、決定稿の脚本を用意してから撮影を始めることがほとんどなかった{{Sfnm|1a1=ロビンソン(上)|1y=1993|1pp=222, 246, 385|2a1=ロビンソン(下)|2y=1993|2p=192}}。初期作品の多くは「小さな放浪者が保養所に入る」や「小さな放浪者が質屋で働く」などの漠然としたアイデアから出発し、そこからセットを組み立て、俳優と協力してギャグを即興で作りながら、それぞれのシークエンスを順序通りに撮影した{{Sfn|Louvish|2010|p=103}}{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=216-217, 222}}。チャップリンは頭の中にあるアイデアをもとに、何度も撮り直しを行い、アイデアの破棄や変更を繰り返しながらストーリーを構築した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=192}}{{Sfn|大野|2017|pp=93, 203}}。そのためすでに完成したシーンがストーリーと矛盾していれば再撮影する必要が生じた{{Sfn|Louvish|2010|p=168}}{{Sfn|Brownlow|2010|p=187}}。『巴里の女性』以後は、準備された[[プロット]]から撮影を始めたが{{Sfn|Louvish|2010|p=182}}、デイヴィッド・ロビンソンによると、『モダン・タイムス』までの作品は「ストーリーが最終的に出来上がるまでに、アイデアは多くの変更と修正を経た」という{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=157}}。 |
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== 技術や音楽的な特徴 == |
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[[ファイル:Charlie Chaplin playing the cello 1915.jpg|170px|right|thumb|チェロを弾くチャップリン]] |
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出演した作品は[[無声映画|サイレント映画]]がほとんどで、こういったことから「チャップリンは[[トーキー]]を軽蔑し、サイレントに固執していた」という印象が強いが、軽蔑していたのではなく放浪者のイメージが声で崩れることを恐れたとされる。 |
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{{Quote box|width=30%|align=left|quote=チャップリン以外には、製作のすべての面でこれほどまでに完璧に支配し、あらゆる仕事をこなした映画製作者はいない。もしも可能であったなら、チャップリンはすべての役を自分で演じ、(息子のシドニーが冗談半分ながら指摘したように)すべての衣装を自分で縫ったことだろう。|source=チャップリンの伝記作家デイヴィッド・ロビンソン{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=327-329}}}} |
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[[1929年]]には、アメリカの大半がトーキー(サウンド)映画に移行する中で、「'''パントマイム芸こそが世界共通語'''」だと疑わぬチャップリンには信念があった。実際[[1931年]]の『[[街の灯]]』では、サイレント形式にこだわりつつも、全編にわたって初めて音響効果を伴うサウンドを付けた{{Efn|作品の重要な[[モチーフ]]となっている「{{仮リンク|La Violetera|en|La Violetera}}(すみれの花売り娘)」は、[[スペイン]]の歌手[[ラケル・メレエ]]によって広く歌われた[[シャンソン]]で、チャップリンはこの曲をこよなく愛した。}}。 |
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この方法で映画を作るということは、チャップリンが当時の他の映画監督よりも、映画を完成させるのにより長い時間を要したということを意味した{{Sfn|Louvish|2010|p=228}}。チャップリンはアイデアが煮詰まると、インスピレーションを取り戻すまでスタジオを離れて撮影を休み、それが何日間も続くこともあった{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=295-296}}{{Sfn|Cousins|2004|p=71}}。チャップリンの厳格な[[完璧主義]]は、撮影をさらに遅らせた{{Sfnm|1a1=ロビンソン(上)|1y=1993|1pp=226, 296, 386|2a1=ロビンソン(下)|2y=1993|2pp=63, 84-85}}{{Sfn|Brownlow|2010|pp=59, 75, 82, 92, 147}}。友人の{{仮リンク|アイバー・モンタギュー|en|Ivor Montagu}}によると、チャップリンにとって「完璧以外に正しいものはない」という{{Sfn|Brownlow|2010|p=82}}。チャップリンは完璧な映像を作るため、同じシーンを何十回でも撮り直し、そのために膨大な長さのフィルムを使用したが、どれだけの費用と時間をかけても満足するシーンでなければ、何千フィートもの撮影フィルムをカットした{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=226, 296}}{{Sfn|大野|2017|pp=91-92}}。『キッド』は完成作品が約5300フィートなのに対し、総撮影量は約27万9000フィートに及んだ{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=417}}。 |
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続く[[1936年]]の『[[モダン・タイムス]]』では、ストーリー上必要な部分にだけトーキーを使い{{Efn|当初はトーキー映画として構想されたが、撮影初期段階でできばえに満足せず、サイレントに切り替えられた。}}、[[1940年]]公開の『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』で初めて、完全なトーキーに踏みきった。全編[[カラー映画|カラー]]の[[画面アスペクト比|シネマスコープ]]作品は『伯爵夫人』のみである。 |
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チャップリンは私生活が入り込む余地がないほど映画作りに没頭し{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=167-168}}{{Sfn|Brownlow|2010|p=157}}、晩年でさえも、ほかのすべてのことや人よりも優先して仕事にすべてをささげた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=321}}。そんなチャップリンは製作過程のすべてを自分でコントロールした{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=327-329}}。他の俳優が演じる役も、自分が解釈した通りに演じることを求めた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=334}}{{Sfn|Brownlow|2010|pp=59, 98, 138, 154}}。チャップリンはすべての映画を自分で編集し、数万フィートに及ぶ撮影フィルムを処理して、自分が求める完全な作品を完成させた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=181, 255, 296}}。こうした完全な独立性により、映画批評家の[[アンドリュー・サリス]]は、チャップリンを最初の[[作家主義]]的監督のひとりと見なした{{Sfn|Maland|1989|p=353}}。しかし、チャップリンには長年のカメラマンである{{仮リンク|ドナルド・トザロー|en|Roland Totheroh}}{{Sfn|大野|2017|pp=91-92}}、マネージャーを務めたシドニー・チャップリン、常連俳優で助手のヘンリー・バーグマン、助監督の{{仮リンク|ハリー・クロッカー|en|Harry Crocker}}や{{仮リンク|チャールズ・ライスナー|en|Charles Reisner}}などの協力者がおり、その助けを借りながら映画作りを行った<ref>{{cite web|url=http://chaplin.bfi.org.uk/programme/essays/collaborators.html |title=Chaplin's Writing and Directing Collaborators |publisher=British Film Institute |accessdate=27 June 2012 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120214092650/http://chaplin.bfi.org.uk/programme/essays/collaborators.html |archivedate=14 February 2012}}</ref>。 |
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音楽家になる夢を捨てきれず、[[1916年]]にチャーリー・チャップリン音楽会社を設立し、自作の曲3曲を出版した(「Peace Patrol」、「Oh!That Cello」、「There's Always One You Can't Forget」)。しかし2000部刷った楽譜は3部しか売れず、すぐに頓挫してしまったらしい。[[1925年]]には、{{仮リンク|エイブ・ライマン|en|Abe Lyman|label=エイブ・ライマン・オーケストラ}}をバックに2曲(「Sing A Song」、「With You Dear In Bombay」<ref>{{youtube|eA6j_SFy47k|Charlie Chaplin Conducts The Abe Lyman Orchestra - 1925}}</ref>)をレコーディング。ゲスト・コンダクターとして指揮をとり、ヴァイオリンのソロパートも自ら演奏した。 |
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=== スタイルとテーマ === |
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正式な音楽教育は受けていないため、[[譜面]]の読み書きは出来なかったという意見もあるが、サイレント映画における伴奏音楽の重要性を早くから認識し、『[[キッド (1921年の映画)|キッド]]』を上映の際には全ての劇場に[[キューシート]]を配付するなど、音に対して万全であった。チャップリンの作曲は、思いついたメロディを[[ピアノ]]で弾いたり口ずさんだりしたものを、専属の[[アレンジャー]]が写譜する形を取った。撮影の合間を縫っては、かけだしの頃に独学で習得した[[チェロ]]や[[ヴァイオリン]]{{Efn|左利きだったため、弦は通常とは逆の並びに張られている特注品を愛用していた。}}を奏で、アイディアに行き詰まると自宅に備え付けられた[[ハーモニウム]]を何時間でも鳴らしたという。 そこでチェロ、ヴァイオリン、ピアノ、ハーモニウムを自在に演奏し、音楽会社まで設立した人間が、「譜面の読み書きは出来ない」というのは無理があり、チャップリンが全く出来なかったことは[[オーケストレーション]]と[[編曲|アレンジ]]であったと考えるのが妥当である。 ただ、多くのチャップリンについての伝記には依然として、「譜面の読み書きは出来ない」と書かれている。 |
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[[ファイル:Chaplin The Kid.jpg|180px|right|thumb|『[[キッド (1921年の映画)|キッド]]』(1921年)には、チャップリン映画の特徴的な作風であるドタバタ、ペーソス、社会批評が含まれている。]] |
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チャップリンのコメディ・スタイルは、[[スラップスティック・コメディ映画|スラップスティック]](ドタバタ)と広く定義されているが{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=268}}、それは抑制された知的なものと見なされている{{Sfn|Brownlow|2010|p=30}}。映画史家のフィリップ・ケンプは、そのスタイルを「巧みでバレエのようにフィジカルなコメディと、よく考えられたシチュエーション・コメディ」を組み合わせたものと考えている{{Sfn|Kemp|2011|p=63}}。チャップリンはギャグのテンポを遅くし、シーンからシーンへ素早く移動するのではなく、各シーンで可能な限りのギャグを使い尽くしてから次のシーンに移り、感情表現に重きを置く性格喜劇的なタッチにすることで、従来のスラップスティック・コメディとは異なるスタイルを見せた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=151-152}}{{Sfn|Mast|1985|pp=83-92}}。ロビンソンは、チャップリンのギャグは滑稽な出来事自体からではなく、それに対するチャップリンの態度から生み出されていると指摘している。例えば、小さな放浪者が木にぶつかる時、ユーモアは衝突そのものではなく、反射的に帽子をとり木に向かって詫びることから起きている{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=151-152}}。チャップリンの伝記作家ダン・カミンは、チャップリンの他のコメディ・スタイルの重要な特徴として、「風変わりな癖」と「ドタバタの最中での真面目な行動」を指摘している{{Sfn|Kamin|2011|pp=6-7}}。 |
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チャップリンのサイレント映画は通常、小さな放浪者が貧困の中で生活し、しばしば悲惨な目にあうが、必死に努力して[[紳士]]として見られるように振舞う姿が描かれている{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=257}}。小さな放浪者はどんな困難に見舞われても、いつも親切で明るいままである{{Sfn|Kemp|2011|p=63}}{{Sfn|Hansmeyer|1999|p=4}}。大野裕之は、小さな放浪者には「イノセントな性格」があると指摘している{{Sfn|大野|2017|p=120}}。小さな放浪者は権威的な存在に抵抗するが{{Sfn |Dale|2000|p=17}}、大野はこうした特徴から、チャップリンを社会的弱者や大衆を象徴する存在と見なし、そのために大衆観客の共感を得たと指摘している{{Sfn|大野|2017|p=120}}。また、小さな放浪者は冒険や恋を夢見るが、現実で成就することはない{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=189-190}}{{Sfn|大野|2017|pp=205-207}}。いくつかの作品では、小さな放浪者が再び夢を求めて放浪し続けるために、背を向けて一人で去って行く姿がラストシーンで描かれている{{Sfn|大野|2017|pp=205-207}}{{Sfn|Hansmeyer|1999|p=4}}。 |
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チャップリンは[[後期ロマン派]]の爛熟した時代に生まれ、現代音楽の黎明期をリアルタイムで接し「前衛の時代の終焉」の時代に没したため、特に音楽的な語彙の豊富な映画監督になった。ロンドンの街角で辻楽士が弾く「スイカズラと蜂<ref>{{youtube|A9wYs5LV2kM|Honeysuckle and the Bee - Ragtime Parlour!}}</ref>」という[[流行歌]]に魅せられた幼少期から、[[ミュージック・ホール]]に根ざした[[ポピュラー音楽|大衆音楽]]に慣れ親しんだ彼だからこそ書けるメロディーラインが、そこにはあった。アメリカの風刺画家{{仮リンク|ラルフ・バートン|en|Ralph Barton}}を通じて知り合った[[ジェルメーヌ・タイユフェール|タイユフェール]]、ナチス政権を逃れてハリウッドに定住していた[[イーゴリ・ストラヴィンスキー|ストラヴィンスキー]]や[[アルノルト・シェーンベルク|シェーンベルク]]、[[ハンス・アイスラー]]と分け隔てなく交流したことも、彼にインスピレーションを与えた。また[[レオポルド・ゴドフスキー]]とは友人であり、一緒に写った写真が残されている。チャップリンの作曲は「ずぶの素人」にでも分かりやすい同じフレーズの反復を多用したが、これはゴドフスキーが「古きウィーン」でみせた作曲法と全く同一である。この点、プロの作曲や難解な[[和声]][[イディオム]]を前面に押し出した[[ヒッチコック]]とは対照的である。 『独裁者』及び『[[黄金狂時代]]』のサウンド版で、[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]、[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]といった[[クラシック音楽|クラシック]]の既成曲を大胆なアレンジで聞かせているのも、センスの良さが窺える。『[[ニューヨークの王様]]』の出だしから[[星条旗 (国歌)|アメリカ国歌]]を直裁に引用したのも、最後まで反骨精神を失わなかった証である。 |
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{{Quote box|width=30%|align=left|quote=悲劇がかえって笑いの精神を刺激してくれるのである…笑いとは、すなわち反抗精神であるということである。私たちは、自然の威力というものの前に立って、自分の無力ぶりを笑うよりほかにない-笑わなければ気が違ってしまうだろう。|source=チャールズ・チャップリン、悲劇的な題材からコメディを作る理由について{{Sfn|チャップリン|1966|p=352}}}} |
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チャップリンの作曲した楽曲としては、“[[スマイル (チャールズ・チャップリンの曲)|スマイル]]”(Smile)(『モダン・タイムス』)や“[[エターナリー (チャールズ・チャップリンの曲)|エターナリー]]”(Eternally)(『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』)が有名。[[プッチーニ]]の[[アリア]]にも似た美しい“スマイル”は、最初歌詞が付けられていなかったが、[[1954年]]に歌詞が付けられ、[[ナット・キング・コール]]の歌により大ヒットした。その後は[[マイケル・ジャクソン]]や[[エルヴィス・コステロ]]らによってカヴァーされ、今日でも[[スタンダード・ナンバー]]として多くのアーティストにより歌い継がれている。<br>また、『モダン・タイムス』の劇中においてチャップリンが歌ったデタラメ語による“[[ティティーナ]]”(Titina)は、ロサンゼルスの[[ラッパー]]、[[J-Five]]によって[[サンプリング]]され、[[ラップ]]でも歌われた。 |
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[[ペーソス]]の導入は、チャップリン映画のよく知られた特徴である{{Sfn |Dale|2000|pp=9, 19-20}}{{Sfn|Louvish|2010|p=203}}。大野は、チャプリン映画の特色を「笑いだけでなく涙の要素も入れた物語」と指摘している{{Sfn|大野|2005|pp=61-62}}。ルービッシュは、チャップリン映画の感傷性を作る要素として「個人的な失敗、社会の狭窄、経済的損害」を特定している{{Sfn|Louvish|2010|p=204}}。『担へ銃』『黄金狂時代』などでは、悲劇的な状況を題材にコメディを作っている{{Sfnm|1a1=ロビンソン(上)|1y=1993|1p=302|2a1=ロビンソン(下)|2y=1993|2pp=7-8}}。このスタイルの原点となったのは、チャップリンが幼少時代に見た[[屠殺]]場から[[ヒツジ|羊]]が逃げ出したエピソードである。チャップリンは羊が無茶苦茶に走り回り、通りが大騒ぎになる光景を見て笑ってばかりいたが、やがて羊が捕まり屠殺場に連れ戻されると、母に泣きながら「あの羊、みんな殺されるよ!」と訴えた。チャップリンはこのエピソードが喜劇と悲劇を結合する作風の基調になったと述べている{{Sfn|チャップリン|1966|pp=36-38}}。 |
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社会批評は、チャップリン映画の特徴的なテーマである{{Sfn|大野|2017|p=3}}。チャップリンはキャリアの初期から社会的弱者を同情的に描き、貧しい人々の窮状を描いてきた{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=319}}。また、『チャップリンの移民』では[[移民]]、『チャップリンの勇敢』では[[麻薬]]中毒、『キッド』では非摘出子を描くなど、社会的に物議を醸す題材を扱うこともあった{{Sfn|Mast|1985|pp=83-92}}。その後、チャップリンは[[経済学]]に強い関心を持ち、その見解を公表する義務を感じるようになると{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=153-156}}、映画に明白な政治的メッセージを取り入れ始めた{{Sfn|Maland|1989|p=159}}。『モダン・タイムス』では過酷な状況にある工場労働者を描き、『独裁者』ではヒトラーと[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]をパロディ化し、[[ナショナリズム]]に反対する演説をラストシーンに挿入した。『殺人狂時代』では戦争と資本主義を批判し、『ニューヨークの王様』では[[マッカーシズム]]を攻撃した{{Sfn|Larcher|2011|pp=62-89}}。 |
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近年は生の[[オーケストラ]]をバックに、チャップリンの色褪せぬ[[映画音楽|フィルム・ミュージック]]を[[スクリーン]]とともに愉しむ機会が世界的に増えてきた。[[指揮者]]の[[カール・デイヴィス]]([[:en:Carl Davis|Carl Davis]])や[[ティモシー・ブロック]]([[:en:Timothy Brock|Timothy Brock]])が基あるオリジナル・スコアを忠実に復元したものが、劇場で新たな命を吹き込まれ、「ライブ・シネマ」という形で甦っている。 |
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チャップリン映画のいくつかには、自伝的要素が取り入れられている。『キッド』は幼少時代に孤児院に送られた時のトラウマを反映していると考えられている{{Sfn|Weissman|2009|pp=439-445}}。『ライムライト』の主人公は舞台芸人だった両親の人生から多くの要素を取り入れており{{Sfn|Bloom|1982|p=107}}、『ニューヨークの王様』はアメリカを追放された経験が関係している{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=305-308}}。映画に登場するストーリート・シーンは、チャップリンが育ったロンドンのケニントンの街と類似している。チャップリンの伝記作家{{仮リンク|スティーヴン・M・ワイスマン|en|Stephen M. Weissman}}は、チャップリンと精神病を患った母親との関係が、チャップリン映画に登場する[[ヒロイン]]と、彼女たちを救いたいという小さな放浪者の願望に反映されていると指摘している{{Sfn|Weissman|2009|pp=439-445}}。 |
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『ライムライト』で助監督を務めた[[ロバート・アルドリッチ]]は、フランスを訪れた際に[[映画評論家]]時代の[[フランソワ・トリュフォー]]のインタビューで、チャップリンを「説明不要に偉大な芸術家だ」とチャップリンへの尊敬を語った上で「しかし、彼は少しテクニックを疎かにする面もある」と評している<ref>「ロバート・オルドリッチ読本1 - カリフォルニア・ドールズ / 合衆国最後の日」.[[遠山純生]].通販番号RS121112-03.2012年11月12日.EAN 2122101000050.boid.</ref>。 |
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映画史家の{{仮リンク|ジェラルド・マスト|en|Gerald Mast}}は、チャップリン映画の構造に関して、密接に順序付けられたストーリーではなく、同じテーマと設定で結び付けられたスケッチで構成されていると見なしている{{Sfn|Mast|1985|pp=123-128}}。視覚的にはシンプルで、固定カメラで撮影したシーンが多く、その映像は舞台上で演じているように見えた{{Sfn|Mast|1985|pp=83-92}}{{Sfn|Epstein|1988|pp=84-85}}{{Sfn|Louvish|2010|pp=185, 298}}。『ライムライト』の美術監督{{仮リンク|ウジェーヌ・ルーリエ|en|Eugène Lourié}}によると、チャップリンは撮影時に芸術的な映像を作ることは考えず、カメラに俳優の演技を収めることを第一に考えていたという{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=280}}。チャップリンは自伝で「単純なアプローチ、それが結局いちばんよい…特別な技法はただ演出のスピード感をなくすだけで、退屈で、しかも不愉快である。カメラ操作はもっぱら俳優の動きを楽にするような演出に基づいて決定される…カメラがのさばり出してはいけない」と述べている{{Sfn|チャップリン|1966|p=290}}。こうしたアプローチは、1940年代以降に時代遅れであると批判された{{Sfn|Louvish|2010|pp=185, 298}}{{Sfn|Brownlow|2010|p=91}}{{Sfn|Kamin|2011|p=35}}。映画学者のドナルド・マカフリーは、それはチャップリンが[[メディア (媒体)|メディア]]としての映画を完全に理解していなかったことを示していると考えているが{{Sfn|McCaffrey|1971|pp=82-95}}、カミンはチャップリンが「映画的なシーンを考案し、演出する才能」を持っていたら、スクリーン上で十分に笑わせることはできなかっただろうと述べている{{Sfn|Kamin|2011|p=29}}。 |
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== 家族 == |
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[[image:Charles-chaplin 1920.jpg|150px|thumb|right|素顔のチャップリン(Photo by Homer Peyton, c.1929)]] |
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* 父:[[チャールズ・チャップリン・シニア]] |
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* 母:[[ハンナ・チャップリン]] |
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* 異父兄:[[シドニー・チャップリン]] |
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* 異父弟:[[ウィーラー・ドライデン]] |
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=== 音楽 === |
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チャップリンは生涯に4度の結婚を行ったとされる。〈〉は妻との間に生まれた子。()内は結婚期間 |
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[[ファイル:Charlie Chaplin playing the cello 1915.jpg|170px|right|thumb|[[チェロ]]を弾くチャップリン(1915年)。]] |
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チャップリンは子供の頃から音楽を学び、[[チェロ]]や[[バイオリン]]を猛練習したり、[[ピアノ]]で即興演奏をしたりした{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=98-100}}{{Sfn|大野|2005|p=184}}。1916年にはチャップリン音楽会社を設立し、自分で作曲した3つの曲を出版した。1925年にも自作の曲を2つ出版し、{{仮リンク|エイブ・ライマン|en|Abe Lyman}}の[[オーケストラ]]でレコーディングした{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=98-100}}。そんなチャップリンはサイレント期から[[映画音楽]]の重要性を口にし{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=63-65}}、『キッド』以降は伴奏音楽を指示した[[キューシート]]を付けて配給した{{Sfn|大野|2005|p=184}}。トーキーが出現すると、チャップリンは『街の灯』からのすべての作品で、自ら映画音楽を作曲した{{Sfn|大野|2005|p=184}}。1950年代以降にいくつかのサイレント映画を再公開した時も、自分で作曲した伴奏音楽を付けている{{Sfn|Maland|1989|p=326}}。 |
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チャップリンは正式な音楽教育を受けていたわけではないため、楽譜を読むことができず、スコアを作る時は[[デイヴィッド・ラクシン]]、{{仮リンク|レイモンド・ラッシュ|en|Raymond Rasch}}、エリック・ジェイムズなどのプロの作曲家の助けを必要とした。一部の批評家は、チャップリンの映画音楽の功績は一緒に働いた作曲家に与えられるべきだと主張したが、ラクシンはチャップリンの創造的な立場と作曲過程における大きな貢献を強調した{{Sfn|Raksin|Berg|1979|pp=47-50}}。チャップリンの作曲は、思いついたメロディをピアノで弾いたりハミングしたりして、それを作曲家が譜面に書き取るという形で進められ、満足するメロディになるまで何度もやり直しをした{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=169-170, 209}}。チャップリンは作曲家に自分が求めるものを正確に説明したが{{Sfn|Raksin|Berg|1979|pp=47-50}}、その際に「ここは[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]風でいこう」というように、作曲家の名前を挙げて表現することが多かった{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=169-170, 209}}。 |
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* 最初の妻:[[ミルドレッド・ハリス]]([[1918年]] - [[1920年]])※当時16歳で結婚 |
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** 長男〈長男〉:[[ノーマン・スペンサー・チャップリン]]([[1919年]]生、生後3日で死去) |
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:『キッド』制作中の1920年3月、ミルドレッドは精神上の虐待を理由に離婚申し立ての訴訟を起こし、『キッド』のフィルムを差し押さえようとした。それを逃れるため、チャップリンは州を越えた[[ソルトレイクシティ]]へ逃避し、ホテルの一室を借りて編集作業を行った。同年8月に裁判が開始し、11月にミルドレッドに10万ドルの[[損害賠償|慰謝料]]と共有財産折半の条件を飲んで離婚が成立した。 |
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チャップリンは自らの作曲作品から、3つの人気曲を生み出した。『モダン・タイムス』のために作曲した「[[スマイル (チャールズ・チャップリンの曲)|スマイル]]」は、[[1954年]]に作詞家の{{仮リンク|ジョン・ターナー (作詞家)|label=ジョン・ターナー|en|John Turner (lyricist)}}と{{仮リンク|ジェフリー・パーソンズ|en|Geoffrey Parsons (lyricist)}}により歌詞が付けられ、[[ナット・キング・コール]]の歌唱でヒットした<ref name="vance">Vance, Jeffrey (4 August 2003). "Chaplin the Composer: An Excerpt from Chaplin: Genius of the Cinema". ''Variety'' Special Advertising Supplement, pp. 20–21.</ref>。『ライムライト』のために作曲した「テリーのテーマ」は、{{仮リンク|ジミー・ヤング|en|Jimmy Young (broadcaster)}}により「[[エターナリー (チャールズ・チャップリンの曲)|エターナリー]]」のタイトルで広まった{{Sfn|Kamin|2011|p=198}}。そして『伯爵夫人』のために作曲し、[[ペトゥラ・クラーク]]が歌った劇中歌「''[[:en: This Is My Song (1967 song)|This Is My Song]]''」は、イギリスのシングルチャートで1位を獲得した{{Sfn|大野|2017|p=336}}。また、チャップリンは[[1973年]]に再公開された『ライムライト』で、[[第45回アカデミー賞]]の[[アカデミー作曲賞|作曲賞]]を受賞した<ref name="vance"/>{{Refnest|group="注"|『ライムライト』は1952年に公開されたが、ロサンゼルスではボイコットのため1週間以上公開されなかったため、1972年に再公開されるまでアカデミー賞のノミネート基準を満たしていなかった<ref>{{cite news|last=Weston |first=Jay |title=Charlie Chaplin's Limelight at the Academy After 60 Years |url=https://www.huffingtonpost.com/jay-weston/charlie-chaplin-limelight_b_1938236.html |work=HuffPost |date=10 April 2012 |accessdate=2 February 2013 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130513093513/http://www.huffingtonpost.com/jay-weston/charlie-chaplin-limelight_b_1938236.html |archivedate=13 May 2013 }}</ref>。}}。 |
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* 2人目の妻:[[リタ・グレイ]]([[1924年]] - [[1928年]])※当時16歳で結婚 |
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** 次男〈長男〉:[[チャールズ・チャップリン・ジュニア|チャールズ・チャップリンJr]]([[1925年]]生 - [[1968年]]没) |
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** 三男〈次男〉:[[シドニー・チャップリン (1926年生)|シドニー・アール・チャップリン]]([[1926年]]生 - [[2009年]]没、俳優で『ライムライト』、『伯爵夫人』などに出演) |
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:リタとは『キッド』などで共演しており、『黄金狂時代』のヒロインに起用したことで、関係が始まった。1924年にリタの妊娠が発覚し、リタの両親が激怒。カリフォルニア州法では未成年女性と関係を持つと[[強姦罪]]に問われ、最高30年の刑になるため、リタの両親はそれをタネにチャップリンに結婚を強要し、11月に[[メキシコ]]で密かに式を挙げた。これにより、リタは『黄金狂時代』のヒロインを降板し、代わりに[[ジョージア・ヘイル]]が務めることとなった。 |
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== 評価と影響 == |
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* 3人目の妻:[[ポーレット・ゴダード]]([[1936年]] - [[1942年]]) |
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[[File:The Tramp Essanay.jpg|thumb|140px|小さな放浪者に扮したチャップリン(1915年)。]] |
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:ただし法的な籍はいれておらず、内縁関係であったという{{Refnest|大野裕之著『チャップリン・未公開NGフィルムの全貌』p.8{{Efn|また、チャップリンの従兄弟も二人は結婚していなかったと回想している。}}。}}。 |
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[[1998年]]にアンドリュー・サリスは、チャップリンを「おそらく映画が生み出した最も重要な芸術家であり、間違いなく優れたパフォーマーであり、そしておそらく最も普遍的なアイコンである」と呼んだ{{Sfn|Sarris|1998|p=139}}。チャップリンは英国映画協会に「世界文化の中でそびえ立つ人物」と評され<ref>{{cite web|url=http://chaplin.bfi.org.uk/ |title=Charlie Chaplin |publisher=British Film Institute |accessdate=7 October 2012 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120622161153/http://chaplin.bfi.org.uk/ |archivedate=22 June 2012}}</ref>、[[タイム (雑誌)|タイム]]誌の「{{仮リンク|20世紀の最も影響力のある100人|en|Time 100: The Most Important People of the Century}}」のリストに「何百万人もの人々に笑いをもたらし」「多かれ少なかれ世界的な名声を作り、映画を芸術に変えるのを助けた」として選出された<ref>{{cite web|title=TIME 100: Charlie Chaplin|url= http://www.time.com/time/time100/artists/profile/chaplin.html|archiveurl= https://web.archive.org/web/20110523194732/http://www.time.com/time/time100/artists/profile/chaplin.html|archivedate=23 May 2011|work=Time Magazine|first=Joshua|last=Quittner|date=8 June 1998|accessdate=11 November 2013}}</ref>。[[1999年]]に[[アメリカン・フィルム・インスティチュート]]が発表した「[[映画スターベスト100]]」では、男優部門の10位に選ばれた<ref>{{Cite web |url=https://www.afi.com/afis-100-years-100-stars/ |title=AFI's 100 YEARS...100 STARS |website=AFI |language=英語 |accessdate=2021年2月3日}}</ref>。 |
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チャップリンが演じた小さな放浪者のイメージは、[[文化史]]の一部となっている{{Sfn|Hansmeyer|1999|p=3}}。サイモン・ルービッシュは、このキャラクターがチャップリンの映画を見たことがない人や、その映画が上映されていない地域でも認知されているとしている{{Sfn|Louvish|2010|p=xvii}}。映画批評家の{{仮リンク|レオナルド・モルティン|en|Leonard Maltin}}は、チャップリンの世界的影響に匹敵するコメディアンはいないと主張した<ref>{{cite news |url=http://blogs.indiewire.com/leonardmaltin/chaplinfirst_last_and_always |title=Chaplin – First, Last, And Always |work=Indiewire |accessdate=7 October 2012 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130525165601/http://blogs.indiewire.com/leonardmaltin/chaplinfirst_last_and_always |archivedate=25 May 2013 }}</ref>。映画批評家の{{仮リンク|リチャード・シッケル|en|Richard Schickel}}は、チャップリンの小さな放浪者の映画には、映画史上最も「説得力のある豊かなコメディ表現」があると述べている{{Sfn|Schickel|2006|p=41}}。キャラクターに関するメモラビリアは、[[オークション]]で高値で落札されている。[[2006年]]にロサンゼルスで行われたオークションでは、衣装のひとつである山高帽と竹のステッキが14万ドルで落札された<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/5116474.stm |title=Record Price for Chaplin Hat Set |publisher=BBC |accessdate=7 October 2012 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120423104143/http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/5116474.stm |archivedate=23 April 2012}}</ref>。 |
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* 4人目の妻:[[ウーナ・オニール]]([[1943年]] - [[1977年]])※18歳になった誕生日に結婚 |
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** 長女〈長女〉:[[ジェラルディン・チャップリン]](1944年生 - 、女優で『[[ドクトル・ジバゴ (1965年の映画)|ドクトル・ジバゴ]]』、『[[チャーリー (映画)|チャーリー]]』などに出演。女優としては最も有名) |
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** 四男〈長男〉:[[マイケル・チャップリン]](1946年生 - 、『ニューヨークの王様』に出演) |
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*** 孫:[[ドロレス・チャップリン]](女優、J-FIVE ''Modern Times'' の[[ミュージックビデオ]]に出演) |
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*** 孫:[[カルメン・チャップリン]](女優) |
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** 次女〈次女〉:[[ジョゼフィン・チャップリン]](1949年生 - 、女優で『[[カンタベリー物語]]』に出演。[[日本チャップリン協会]]最高顧問) |
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** 三女〈三女〉:[[ヴィクトリア・チャップリン]](1951年生 - 、女優、『独裁者』のメイキングフィルム(カラー)を発見した) |
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** 五男〈次男〉:[[ユージーン・チャップリン]](1953年生 - 、[[レコーディング・エンジニア]]、ノック・サーカス(Circus Nock)芸術監督) |
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*** 孫:{{仮リンク|キエラ・チャップリン|en|Kiera Chaplin}}([[モデル (職業)|モデル]]、[[実業家]]でもある) |
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** 四女〈四女〉:[[ジェーン・チャップリン]](1957年生 - ) |
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** 五女〈五女〉:[[アネット・チャップリン]](1959年生 - 、[[モーリス・ベジャール]]振付によるバレエ「Mr.C」(1994年)に主演) |
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** 六男〈三男〉:[[クリストファー・チャップリン]](1962年生 - ) |
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映画監督として、チャップリンはパイオニアと見なされ、20世紀初頭の最も影響力のある監督のひとりと考えられている{{Sfn|Sarris|1998|p=139}}{{Sfn|Hansmeyer|1999|p=3}}{{Sfn|Kemp|2011|pp=8, 22}}{{Sfn|Cousins|2004|p=72}}。また、チャップリンはしばしば最初の映画の芸術家のひとりと認められている{{Sfn|Schickel|2006|pp=3-4}}{{Sfn|Kamin|2011|p=xiv}}{{Sfn|Cousins|2004|p=36}}。映画史家の{{仮リンク|マーク・カズンズ|en|Mark Cousins (filmmaker)}}は、チャップリンが「映画のイメージだけでなく、その社会学と文法も変えた」と指摘し、[[D・W・グリフィス]]がドラマの発展に貢献したのと同じくらいに、チャップリンがコメディの発展に重要な役割を果たしたと主張した{{Sfn|Cousins|2004|p=70}}。チャップリンは長編コメディを普及させ、コメディの動きのペースを遅くし、そこに哀愁と繊細さを加えた最初の人物だった{{Sfn|Schickel|2006|pp=7, 13}}<ref name="silent clowns">{{Cite episode|title=Charlie Chaplin|series=Silent Clowns|credits=Presented by Paul Merton, directed by Tom Cholmondeley|network=British Broadcasting Corporation|station=BBC Four|airdate=1 June 2006}}</ref>。その作品はドタバタ劇に分類されているが、『巴里の女性』は[[エルンスト・ルビッチ]]監督の『[[結婚哲学]]』(1924年)に大きな影響を与え、[[ソフィスティケイテッド・コメディ]]の創始に貢献した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=395, 397-398}}{{Sfn|Thompson|2001|pp=398-399}}。ロビンソンによると、この作品でのチャップリンの革新的スタイルは、すぐに当たり前な映画技法になったという{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=395, 397-398}}。チャップリンはユナイテッド・アーティスツの創設メンバーとして、映画産業の発展にも大きな役割を果たした。ジェラルド・マストは、この会社が[[MGM]]や[[パラマウント映画|パラマウント]]に匹敵する大企業にはならなかったが、監督が独自で映画を作るというアイデアは、時代を何年も先取っていたとしている{{Sfn|Mast|1985|p=100}}。 |
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== スキャンダル == |
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チャップリンの華やかな女性遍歴を指摘する声も多々あるが、映画史家デイヴィッド・ロビンソンによると、チャップリンは女性との関係において、「ハリウッドの標準としては慎ましやかなものだった」という。3度の結婚が未成年者であることから、[[ロリータ・コンプレックス|ロリータ嗜好]]があったというのは後の人間による憶測に過ぎない。 |
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チャップリンの影響を受けた映画監督には、[[フェデリコ・フェリーニ]](チャップリンを「一種の[[アダム]]、私たちのルーツとなる存在」と呼んだ){{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=359}}、[[ジャック・タチ]](「彼がいなかったら、私は映画を作ってはいなかった」と述べた){{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=359}}、[[ルネ・クレール]]{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=357-358}}、[[マイケル・パウエル (映画監督)|マイケル・パウエル]]{{Sfn|Brownlow|2010|p=77}}、[[ビリー・ワイルダー]]<ref name="story of film">{{Cite episode|title=Episode 2 - The Hollywood Dream |series=[[:en:The Story of Film: An Odyssey|The Story of Film: An Odyssey]] |credits=Mark Cousins |network=[[Channel 4]]|station=More4|airdate=10 September 2011|time=27:51–28:35}}</ref>、[[ヴィットリオ・デ・シーカ]]<ref>{{cite book|last=Cardullo|first=Bert|title=Vittorio De Sica: Actor, Director, Auteur|year=2009|publisher=Cambridge Scholars Publishing|location=Cambridge|pages=16, 212}}</ref>、[[リチャード・アッテンボロー]]<ref>{{cite web|title=Attenborough Introduction |url=http://chaplin.bfi.org.uk/programme/attenborough.html |work=Charlie Chaplin |publisher=British Film Institute |accessdate=11 February 2013 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131105202221/http://chaplin.bfi.org.uk/programme/attenborough.html |archivedate=5 November 2013}}</ref>がいる。ロシアの映画監督[[アンドレイ・タルコフスキー]]は、チャップリンを「疑いの余地なしに映画史を作った唯一の人物で、彼の映画は決して古くなることはない」と賞賛した<ref>{{Cite journal |title=Tarkovsky's Choice |author=Lasica, Tom |journal=Sight & Sound |date=March 1993 |volume=3 |issue=3 |url=http://people.ucalgary.ca/~tstronds/nostalghia.com/TheTopics/Tarkovsky-TopTen.html |accessdate=1 February 2014 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140214101036/http://people.ucalgary.ca/~tstronds/nostalghia.com/TheTopics/Tarkovsky-TopTen.html |archivedate=2014年2月14日}}</ref>。また、チャップリンは後続のコメディアンにも影響を与えた。[[マルセル・マルソー]]はチャップリンを見てパントマイム・アーティストを志し<ref name="silent clowns"/>、[[インド]]の俳優[[ラージ・カプール]]は『{{仮リンク|放浪者 (映画)|label=放浪者|en|Awaara}}』(1951年)などでチャップリンを元にした放浪者のキャラクターを演じた<ref name="story of film"/>。マーク・カズンズは、イタリアの喜劇俳優[[トト (俳優)|トト]]がチャップリンのコメディ・スタイルの影響を受けていると指摘した<ref name="story of film"/>。他の分野では、[[フィリックス・ザ・キャット]]や[[ミッキー・マウス]]などの漫画のキャラクター<ref>{{cite book|last=Canemaker|first=John |title=Felix: The Twisted Tale of the World's Most Famous Cat |year=1996 |publisher=Da Capo Press|location=Cambridge, MA|pages=38, 78}}</ref><ref>{{Cite journal|last=Jackson|first=Kathy Merlock|title= Mickey and the Tramp: Walt Disney's Debt to Charlie Chaplin |journal=The Journal of American Culture|volume=26|issue=1|pages=439-444|year=2003}}</ref>、芸術運動の[[ダダイスム]]に影響を与えた{{Sfn|Simmons|2001|pp=3-34}}。 |
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[[1922年]]に婚約説が流れた[[ポーラ・ネグリ]]。『黄金狂時代』のヒロイン[[ジョージア・ヘイル]]。新聞王[[ウィリアム・ランドルフ・ハースト]]の妾の[[マリオン・デイヴィス]]といった女優との浮名も流している。 |
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== レガシー == |
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『サーカス』制作中の[[1927年]]、[[リタ・グレイ]]に離婚訴訟を起こされ、自身の私生活を公表される。示談金62万5000ドルを支払うことで終結し、離婚が成立するが、この騒動は当時38歳のチャップリンを心労で白髪にさせるほどのものであった。後年に執筆した[[自伝]]では彼女についてほとんど触れられていない。後にリタは「じゃあ私が書きます。」と自分で赤裸々な暴露本を書いた。また、撮影スタジオの[[火災]]や、[[1928年]]には最愛の母の死もあり、チャップリンにとってあまり良い時期ではないようだ。 |
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[[ファイル:Vevey Chaplin.jpg|right|170px|thumb|[[スイス]]の[[ヴェヴェイ]]にあるチャップリンの銅像。]] |
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チャップリンが晩年の25年間を過ごした、スイスのコルシエ=シュル=ヴヴェイにある邸宅マノワール・ド・バンは、チャップリンの生涯と作品を展示する博物館「{{仮リンク|チャップリン・ワールド|en|Manoir de Ban#Chaplin's World museum}}」に改装され、[[2016年]]4月にオープンした<ref>{{Cite news|last1=Poullain-Majchrzak, Ania|title=Chaplin's World museum opens its doors in Switzerland|url=http://uk.reuters.com/article/us-chaplin-museum-idUKKCN0XF212|work=Reuters|date=18 April 2016}}</ref>。[[ヴヴェイ]]の町はチャップリンに敬意を表して、[[1980年]]にその名前に因んだ庭園を開園し{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=462-463}}、[[2011年]]には二つのビルにチャップリンを描いた大きな壁画を発表した<ref>{{cite web|url=http://www.rts.ch/info/suisse/3490412-vevey-les-tours-chaplin-ont-ete-inaugurees.html |title=Vevey: Les Tours "Chaplin" Ont Été Inaugurées |date=8 October 2011 |publisher=RTS.ch |accessdate=22 July 2012 |urlstatus=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121028101229/http://www.rts.ch/info/suisse/3490412-vevey-les-tours-chaplin-ont-ete-inaugurees.html|archivedate=28 October 2012}}</ref>。ロンドンでは、[[1981年]]に彫刻家{{仮リンク|ジョン・ダブルディ|en|John Doubleday}}作のチャップリンの銅像が[[レスター・スクウェア]]に設置された{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=462-463}}。ロンドンや[[ハンプシャー]]、[[ヨークシャー]]には、チャップリンを記念する9つの[[ブルー・プラーク]]が設置されている<ref>{{Cite web|title=Charlie Chaplin|url=http://www.blueplaqueplaces.co.uk/subject/sir-charlie-chaplin-2190|website=Blue Plaque Places|accessdate=20 July 2017|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180501143558/http://www.blueplaqueplaces.co.uk/subject/sir-charlie-chaplin-2190|archivedate=1 May 2018|url-status=dead}}</ref>。1960年代にチャップリンが家族と夏を過ごした[[アイルランド]]の{{仮リンク|ウォータービル|en|Waterville, County Kerry}}では、[[2011年]]からチャップリンの人生と仕事を称えるために「チャーリー・チャップリン・コメディ映画祭」を開催している<ref>{{Cite web |url=http://chaplinfilmfestival.com/ |title=Chaplin Film Festival |website=ChaplinFilmFestival.Com |language=英語 |accessdate=2021年1月28日}}</ref>。 |
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また、[[1981年]]に[[ソビエト連邦]]の天文学者[[リュドミーラ・カラチキナ]]が発見した[[小惑星]](3623) Chaplinは、チャップリンに因んで命名された<ref>{{Cite book|last=Schmadel |first=Lutz D |year=2003 |title=Dictionary of Minor Planet Names |edition=5 |publisher=Springer Verlag |location=New York |page=305}}</ref>。1980年代に[[IBM]]は、小さな放浪者のキャラクターを[[パーソナルコンピュータ]]の広告で使用した{{Sfn|Maland|1989|pp=362-370}}。2011年4月15日には、[[Google]]がチャップリンの生誕122周年を祝して[[Google Doodle]]を作成し、多くの国のホームページに掲載した<ref>{{Cite web|title=Google Doodles a Video Honouring Charlie Chaplin |url=http://www.news18.com/news/india/google-doodles-a-video-honouring-charlie-chaplin-366297.html |publisher=CNN-News18 |date=15 April 2011 |accessdate=15 April 2011 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160509104424/http://www.news18.com/news/india/google-doodles-a-video-honouring-charlie-chaplin-366297.html |archivedate= 9 May 2016}}</ref>。六大陸にわたる多くの国では、チャップリンを記念した[[郵便切手]]が発行された<ref>{{Cite web|title=Charlie Chaplin Stamps |url=http://chaplinstamps.blogspot.co.uk/ |publisher=Blogger |accessdate=8 February 2013 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131102193256/http://chaplinstamps.blogspot.co.uk/ |archivedate=2 November 2013}}</ref>。 |
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18年間チャップリンの元で秘書として仕え、身の回りの世話を任されていた日本人[[高野虎市]]は、3番目の妻([[事実婚]])とされる[[ポーレット・ゴダード]]のあまりの浪費癖に辟易し、[[1934年]]に彼のもとを去っている。 |
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チャップリンが遺した著作物や資料は、彼の子供たちがパリに設立したチャップリン・オフィス/チャップリン協会により管理されている<ref>{{Cite web |url=http://www.charliechaplinarchive.org/en/about/chi-siamo/chaplin-office-association-chaplin |title=Chaplin Office / Association Chaplin |website=Charlie Chaplin Archive |language=英語 |accessdate=2021年1月28日}}</ref><ref name="Archive">{{Cite web |url=http://chaplin.bfi.org.uk/resources/worldwide/chaplin-archive.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120710003742/http://chaplin.bfi.org.uk/resources/worldwide/chaplin-archive.html |archivedate=2012-7-10 |title=Chaplin Archive |website=Charlie Chaplin |work=BFI |language=英語 |accessdate=2021年1月28日}}</ref>。この事務所は、1918年以降のほとんどの映画の[[著作権]]を保有するRoy Export SASと、チャップリンとキャラクターの名前やイメージに対する[[商標権]]を保有するBubbles Incorporated SAを代表している<ref>{{Cite web |url=https://www.charliechaplin.com/en/articles/130-The-Chaplin-Office |title=The Chaplin Office |website=charliechaplin.com |language=英語 |accessdate=2021年1月28日}}</ref>。チャップリンの膨大な文書や写真などのアーカイブは、スイスの[[モントルー]]公文書館に保管されている<ref name="Archive"/>。1990年代後半に[[イタリア]]の[[フィルム・アーカイヴ]]の{{仮リンク|チネテカ・ディ・ボローニャ|it|Cineteca di Bologna}}は「チャップリン・プロジェクト」を立ち上げ、チャップリン映画を復元したり、膨大なアーカイブをスキャンしてオンラインで公開したりした<ref>{{Cite web |url=http://www.charliechaplinarchive.org/en/about/chi-siamo/la-fondazione-cineteca-di-bologna |title=Fondazione Cineteca di Bologna |website=Charlie Chaplin Archive |work=Cineteca di Bologna |language=英語 |accessdate=2021年1月28日}}</ref>。[[2002年]]には英国映画協会が「チャップリン研究財団」を設立し{{Sfn|大野|2005|pp=3-4}}、[[2005年]]7月に最初の「チャールズ・チャップリン国際会議」をロンドンで開催した<ref>{{cite web|title=The BFI Charles Chaplin Conference July 2005 |url=http://chaplin.bfi.org.uk/programme/conference/ |work=Charlie Chaplin |publisher=British Film Institute |accessdate=11 February 2013 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20131105205524/http://chaplin.bfi.org.uk/programme/conference/ |archivedate= 5 November 2013}}</ref>。 |
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[[1943年]]、女優[[ジョーン・バリー (アメリカの女優)|ジョーン・バリー]]([[:en:Joan Barry (American actress)|英語版]])には子供の父権認知訴訟を起こされる。[[ABO式血液型#判定方法|血液判定]]ではチャップリンの子ではないと判定されたが、血液検査を無視した滅茶苦茶な裁判の結果、1対11の[[陪審員]]評決で扶養義務を負うことになった。バリーは、これ以前に銃を携行してチャップリン邸に押し入るなど奇行がみられた。 |
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また戦争への出兵拒否、[[ソビエト連邦|ソ連]]を助けるための第二戦線開始のアジ演説をしたことで[[連邦捜査局|FBI]]から牽制を受けるなど、チャップリンをめぐる[[噂|ゴシップ]]は[[マスメディア|マスコミ]]の餌食となり、[[第二次世界大戦]]から[[冷戦]]期のアメリカでは、その平和思想もあいまって[[ネガティブ・キャンペーン]]の的となった。 |
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== チャップリンと日本 == |
== チャップリンと日本 == |
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=== 受容 === |
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* [[大正|大正時代]]から日本では「'''変凹君'''(へんぺこくん)<ref>{{Cite web|author=Tokyo Art Beat|url=http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2007/12/chaplin.html|title=チャップリンの日本|accessdate=2018-10-10}}</ref>」「'''アルコール先生'''」という愛称で親しまれた。これは当時の日本人にはチャップリンの名が発音しにくかったことから、[[映画会社の一覧|配給会社]]がチャップリンが演じるキャラクターには酔いどれ役も多かったことからそのようなあだ名で紹介をしたためである。 |
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[[ファイル:Katsudo-kyo jidai 1926.jpg|thumb|180px|[[曾根純三]]監督の『活動狂時代』(1926年)では、[[柳妻麗三郎]]と[[松尾文人]]がチャップリンを真似る大道芸人を演じた{{Sfn|山本|1983|pp=309-310}}。]] |
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* 正月興行として恒例だった[[ニコニコ大会]]では、[[ロスコー・アーバックル]](通称デブ君)、[[メーベル・ノーマンド]]、[[チェスター・コンクリン]]、[[マック・スウェイン]]、[[ベン・ターピン]]など花形の喜劇役者がお目見えする中、ひと際子供たちに人気があったのがチャップリンだった。 |
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チャップリンが日本の映画雑誌で初めて紹介されたのは、『キネマ・レコード』の[[1914年]]7月号である。その記事でチャップリンは、特異な扮装と滑稽な歩き方から「変凹君(へんぺこくん)」と名付けられていた{{Sfn|大野|2017|p=226}}。同年から日本でチャップリン映画が公開され、すぐに高い人気を集めるようになり、当時は酔いどれ役のイメージから「アルコール先生」という愛称で呼ばれた{{Sfn|大野|2017|p=226}}{{Sfn|山本|1983|pp=302-303}}。[[1916年]]から出演作は『チャップリンの~』の邦題で封切られ{{Sfn|山本|1983|pp=302-303}}、正月とお盆にはチャップリンを中心に短編喜劇を集めた「[[ニコニコ大会]]」という上映会が日本各地で始まり、人気を不動のものとした{{Sfn|大野|2017|pp=227-228}}<ref name="活弁時代">{{Cite book|和書 |author=御園京平 |date=1990-3 |title=活辨時代 |publisher=岩波書店 |pages=54-58}}</ref>。その人気ぶりに注目した映画会社の[[日活]]は、[[1917年]]に同社としては破格の金額でミューチュアル社と契約を結び、チャップリン映画の日本興行権を獲得した<ref>{{Cite book|和書 |author=[[田中純一郎]] |date=1975-12 |title=[[日本映画発達史|日本映画発達史Ⅰ 活動写真時代]] |publisher=[[中央公論社]] |page=265}}</ref>。チャップリン映画を得意とする[[活動弁士]]も現れ、その中でも[[大蔵貢]]はチャップリンの扮装をして映画説明をしたことから「チャップリン弁士」と呼ばれた<ref name="活弁時代"/>。 |
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* チャップリン喜劇を得意とした映画説明者([[活動弁士]])に[[大蔵貢]]、[[杉浦市郎]]、[[松竹]]で活躍した俳優・[[小倉繁]]は“和製チャップリン”といわれた。 |
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[[image:Great Dictator speech.jpg|thumb|250px|『独裁者』日本公開版での演説シーン。]] |
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笑いと涙を融合したチャップリン映画は、日本の大衆観客から人情喜劇として高い支持を受けた{{Sfn|大野|2009|pp=126-127}}{{Sfn|山本|1983|pp=305-307}}。大野裕之は当時の封切チラシから、日本人がチャップリン映画の中に「情」や「悲しみ」の要素を多く見出していると指摘している{{Sfn|大野|2009|pp=126-127}}。それと同時にチャップリン映画の芸術性の高さも指摘され、インテリ層からも芸術家として支持された{{Sfn|大野|2009|pp=126-127}}。[[キネマ旬報ベスト・テン]]では、[[1924年]]に『巴里の女性』が「芸術的に最も優れた映画」の1位に選ばれ、その後も『黄金狂時代』『殺人狂時代』『独裁者』が「外国映画ベスト・テン」の1位に選ばれた<ref>{{Cite book|和書 |date=2012-5 |title=キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011 |publisher=キネマ旬報社 |page=6, 11, 97, 171頁}}</ref>。しかし、1920年代に[[左翼]]運動が高まる時代に入ると、社会風刺の強いチャップリンのイメージは変化し、危険なコメディアンという扱いを受けるようになった{{Sfn|千葉|2017|pp=33-35}}。[[芥川龍之介]]はチャップリンを[[社会主義者]]と見なし、[[甘粕事件]]を引き合いに出して「もし社会主義者を迫害するとすれば、チャップリンもまた迫害しなければならない」と述べている<ref>{{Cite web |author=[[芥川龍之介]] |url=https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3745_27318.html |title=澄江堂雑記 |website=[[青空文庫]] |accessdate=2020年12月5日}}</ref>。 |
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* 日本で公開されたチャップリン映画は[[日中戦争]]中に公開された『[[モダン・タイムス]]』([[1938年]]/昭和13年封切)までで、[[大東亜戦争]]による空白期間を経て、戦後初のチャップリン作品は『[[黄金狂時代]]』サウンド版だった([[1946年]]/昭和21年)。第二次世界大戦中の[[1940年]]製作の『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』は[[1960年]](昭和35年)に封切られた。 |
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* チャップリンが映画の中で使用した[[杖|ステッキ]]は[[寒竹]]製で日本の職人が作ったものである<ref name="Cloth&Stick">[http://www.rehab.go.jp/ri/event/fashion/paper/2013-12-06.pdf 布とステッキの素敵な関係(柳谷廣之)] 繊維と工業 Vol.69 No.12、2019年12月10日閲覧。</ref>。[[滋賀県]][[草津市]]の[[特産品]]でしなりが強い。ただし最初からステッキを使っていたわけではなく、当初は[[雨傘]]を用いていた。 |
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戦前に日本公開されたチャップリン映画は『モダン・タイムス』(1938年公開)が最後となり{{Sfn|千葉|2017|p=193}}、『独裁者』は完成当時に[[日独伊三国同盟]]を結んでいたため輸入されず、それから20年後の[[1960年]]に初公開されると大ヒットした{{Sfn|大野|2009|p=315}}。[[1972年]]には[[東宝東和]]が「ビバ! チャップリン」と題したリバイバル上映を行い、若者を中心に高い支持を集めた{{Sfn|大野|2009|p=325}}。没後もリバイバル上映が行われ、[[2003年]]には[[日本ヘラルド映画]]により「Love Chaplin! チャップリン映画祭」と題して代表作12本が上映され{{Sfn|大野|2005|pp=3-4}}、[[2012年]]には「チャップリン・ザ・ルーツ」と題して初期作品63本の[[デジタルリマスター]]版が上映された<ref>{{Cite web |url=http://elevenarts-japan.net/chaplin.html |title=チャップリン・ザ・ルーツ 傑作短編集・完全デジタルリマスター |accessdate=2020年12月5日}}</ref>。[[2006年]]には日本チャップリン協会が設立され、日本国内での上映会やシンポジウムなどの活動が行われている<ref>{{Cite web |url=http://www.chaplinjapan.com/index.html |title=日本チャップリン協会について |website=日本チャップリン協会 |accessdate=2021年1月28日}}</ref>。 |
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* チャップリンの日本好きは運転手(後に[[秘書]])として採用した[[高野虎市]]の影響が大きい<ref name="Cloth&Stick" />。彼の仕事ぶりを高く評価していたため、一時家の[[家事使用人|使用人]]がすべて日本人で占められていた。2番目の夫人リタ・グレイは、「まるで日本の中で暮らしているかのよう」と評した。ただ、その次にチャップリンに身を寄せていた[[ポーレット・ゴダード]]と高野は、ゴダードの浪費癖をめぐって衝突し、高野は辞任した(高野解雇説は『チャップリンの影』のなかで大野裕之が資料を元に否定)。 |
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* 『[[サーカス (映画)|サーカス]]』の製作中、映画監督の[[牛原虚彦]]が高野の紹介で弟子入りしていた。撮影されたシーンの出来をチャップリンが試写室で確認する際、彼も見学することができたという。非常に勉強になったと後に[[淀川長治]]との対談などで振り返っている。 |
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チャップリンは日本の作品や人物にも影響を与えている。チャップリンの模倣者や翻案作品は、[[大正時代]]から数多く登場している。その最初は『[[成金 (1921年の映画)|成金]]』(1921年)で、主演の[[中島好洋]]は自らを「日本チャップリン」と称した{{Sfn|山本|1983|p=309}}。日活の俳優の[[御子柴杜雄]]は、『娘やるなら学士様へ』『夢泥棒』(1926年)でチャップリンの扮装を真似した{{Sfn|山本|1983|pp=309-310}}。『キッド』は[[野村芳亭]]監督の『地獄船』(1922年)で翻案されたのをはじめ、『小さき者の楽園』(1924年)や『父』(1929年)など多くの影響作品を生み{{Sfn|山本|1983|pp=241-242}}、『街の灯』は[[木村錦花]]脚色で『蝙蝠の安さん』(1931年)として[[歌舞伎]]化された{{Sfn|大野|2017|p=230}}。喜劇映画監督の[[斎藤寅次郎]]は、チャップリンをパロディ化した『チャップリンよなぜ泣くか』(1932年)を作り、主演の[[小倉繁]]は「和製チャップリン」と呼ばれた<ref>{{Cite book|和書 |author=[[斎藤寅次郎]] |date=2005-7 |title=日本の喜劇王 斎藤寅次郎自伝 |publisher=清流出版 |page=313}}</ref>。漫画家の[[手塚治虫]]とお笑い芸人の[[太田光]]は、チャップリン映画から影響を受けていることを明らかにしている<ref>{{Cite book|和書 |author=[[石子順]] |date=2007 |title=平和の探求・手塚治虫の原点 |publisher=新日本出版社 |page=47}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-24577820070205 |date=2007-4-27 |title=爆笑問題の太田さん「チャップリンのように影響を与えたい」 |website=Reuters |accessdate=2021年2月7日}}</ref>。また、漫才師の[[日本チャップリン・梅廼家ウグイス]]、声優の[[茶風林]]のように、チャップリンに因んだ芸名を付けた芸能人もいる{{Sfn|大野|2017|pp=227-228}}<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E8%8C%B6%E9%A2%A8%E6%9E%97-191818 |title=知恵蔵mini「茶風林」の項目 |website=コトバンク |accessdate=2021年2月7日}}</ref>。 |
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* [[プロレタリア文学|プロレタリア作家]]・[[小林多喜二]]は小樽映画鑑賞会の会員としてその機関誌「シネマ」に次々と映画批評を執筆した。{{要出典|範囲=中でもチャップリンが大好きで何度も見ているが、チャップリンのセンチメンタルなヒューマニズムの限界を指摘し、「高収入を上げすぎたゆえ、自らとは全く違う立場の人間である」と頓珍漢な批判をした|date=2020年8月}}。 |
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* 文豪・[[芥川龍之介]]はその随筆で、「あのチャーリー・チャップリンもやはり[[社会主義|社会主義者]]の一人である。もし社会主義者を迫害するとすれば、チャップリンもまた迫害しなければなるまい」と述べている<ref>『[[澄江堂雑記]]』第十七節「チヤプリン」。</ref>。 |
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=== 日本人の使用人 === |
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[[File:Charles Chaplin and Sumo wrestlers.jpg|250px|thumb|right|初来日時に撮影されたチャップリン一行と力士たち。右から3人目がチャップリン、同2人目が[[高野虎市]]]] |
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チャップリンは自宅の使用人に、何人もの日本人を雇い入れていた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=240}}。とくに知られているのが、1916年に運転手として雇われた[[高野虎市]]である。チャップリンは高野の誠実な仕事ぶりを評価し、やがて運転手だけでなく経理を含めた個人秘書の役割も任せるようになった{{Sfn|大野|2017|pp=222-223}}{{Sfn|大野|2009|p=97}}。高野に厚い信頼を寄せたチャップリンは、彼の仕事ぶりから日本人の使用人を好むようになり、何人もの日本人を次々に雇い入れた{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|p=240}}。例えば、[[ハワイ]]出身の[[二世 (日系人)|日系二世]]のフランク・ヨネモリやヒロサワ、運転手のヤマモトである{{Sfn|大野|2009|pp=132-133}}。1926年頃にはチャップリン家の使用人は全員日本人となり、当時の妻のリタ・グレイは「日本人のなかで暮らしているようだった」と回想している{{Sfn|大野|2017|pp=222-223}}。1934年に高野はポーレット・ゴダードと衝突したため辞任し、フランク・ヨネモリが秘書に昇格した{{Sfn|大野|2009|p=205}}。しかし、1941年12月の[[真珠湾攻撃]]でアメリカが[[第二次世界大戦]]に参戦すると、日本人の使用人は[[日系人の強制収容#強制収容所|強制収容所]]に収容された。そのためチャップリンは新たにイギリス人の使用人を雇い入れたが、日本人の迅速で能率的な仕事ぶりに慣れていたため、イギリス人の仕事ぶりはうんざりするほどのろく感じたという{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=221-222}}。 |
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* [[1932年]](昭和7年)5月14日に初来日。アジアで唯一の先進国で、大きな市場であった日本は無視できない市場であった。[[東京駅]]には推定4万人の群衆が押し寄せた。当時の新聞記事は「何のことはない、震災当時の避難民の喧騒と怒号が渦巻いていた」と伝えた。翌日には首相官邸で歓迎会に出席する予定であったが、ただならぬ[[五・一五事件]]に遭遇して{{Efn|チャップリンは[[犬養毅]]首相との面会予定をキャンセルし、犬養の息子・[[犬養健|健]]と[[両国国技館|国技館]]で[[相撲]]を観戦したあと散歩をしていたため、事件そのものには遭わなかった。しかし狙われている可能性があると、高野と親しかった元陸軍少将・[[櫻井忠温]]からの情報により助けられた。陸軍青年将校らの不穏な動きを知らされた高野は東京駅から帝国ホテルに向かう車中、チャップリンに車から降りて[[皇居]]に遥拝してほしいと頼む。6月2日の帰国当日の朝、[[斎藤実]]首相を官邸に訪問した後、犬養毅が暗殺された現場に案内されたチャップリンは、板戸に残る弾痕を見て、思わず「テリブル、テリブル」と呟いたという。}}、多大な衝撃を受けた。[[歌舞伎座]]や[[明治座]]で念願だった[[伝統芸能]]を鑑賞。[[中村吉右衛門 (初代)|初代中村吉右衛門]]や[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]、[[市川左團次 (2代目)|二代目市川左團次]]の楽屋を訪ね、所感を述べた。また喜劇役者の[[曾我廼家五郎]]とは、互いに[[富士山]]を色紙に描いて交換しあう。 記者会見で「各国の文化水準は監獄を見れば解る」との持論から、5月20日に小菅刑務所(現・[[東京拘置所]])を視察。「恐らく設備、明るさの点からいって世界一」と絶賛した。またその際、「私はどの国でも猥褻犯の質問をします。この犯のパーセンテージでその国の国民性がわかる」と話したという<ref>[[読売新聞]] 2018年3月5日 P.8 「時代の証言者」『冤罪のち次官 村木 厚子 28 最終回</ref>。[[帝国ホテル]]に定宿し、[[和牛]][[ステーキ]]をえらく気に入った。また[[箱根町|箱根]]の[[富士屋ホテル]]、[[横浜市|横浜]]の[[ホテルニューグランド]]に逗留。[[銀座|日本橋]]の「花長」では[[エビ|海老]]の[[天ぷら]]を36尾も平らげ、その後の来日でも好んで[[えび天|エビ天]]を食べたことから、「'''天ぷら男'''」のあだ名がついた。さらに「花長」で修行した[[板前]]が乗船しているということで、帰国時の船を[[氷川丸]]に決めたのはこの時だった。なお、花長での記録は現在も破られていないという。 |
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*5月19日に五・一五事件で殺害された[[犬養毅|犬養総理]]の葬儀が総理官邸の大ホールで執り行われた。その際にチャップリンは「憂国の大宰相・犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す」との弔電を寄せた。この事に驚く参列者も多かった。 |
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=== 4度の来日 === |
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* その1932年の初来日の際、通訳を務めたのは当時[[読売新聞]]文芸部長を務め、後に小説家に転身した[[小野金次郎]]で、小野金次郎がチャップリンからもらったサイン入りポートレートは孫である俳優の[[小野武彦]]が自身の自宅に保存していることを明かしている<ref>『[[ウチくる!?]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]] 2013年3月10日放送)にて小野武彦自身の述懐。</ref>。 |
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{{multiple image |align=right |direction=vertical |width=220 |image1=Charles Chaplin and Sumo wrestlers.jpg |caption1=[[1932年]]の初来日時に力士たちと記念写真を撮るチャップリン一行。左から[[清水川元吉|清水川]]、シドニー、[[武藏山武|武蔵山]]、チャップリン、[[高野虎市]]、[[玉錦三右エ門|玉錦]]。 |image2=Visited the family and Ukai sightseeing Chaplin.jpg |caption2=[[1961年]]に家族と鵜飼見物に訪れ、鵜匠と記念写真を撮るチャップリン(右端)。}} |
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* [[1936年]](昭和11年)3月に再来日。[[ユナイト映画]]の大阪支社に勤務していた[[淀川長治]]が、[[神戸港]]に停泊するクーリッジ号で、45分の単独インタビューに成功。同年5月には、当時の愛人[[ポーレット・ゴダード]]との[[新婚旅行]]を兼ねた世界漫遊の途中で3度目の来日。船上で[[ジャン・コクトー]]と合流する。[[京都市|京都]]に足を運び、最高級の[[老舗]][[旅館]]「柊家」に宿泊。名所旧跡を訪ね、[[西陣]]で[[絹]]のガウンを購入した。[[銀座|銀ブラ]]、[[浅草]]、[[相撲]]見物と愉しみ、足早に離日。チャップリンは船のタラップを駆け上り、やおら振り向くと、帽子をつぶして、[[セントヘレナ島]]へ流される[[ナポレオン]]のポーズをとって、見送りの人々をドッと笑わせたという。 |
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チャップリンは[[小泉八雲]]の書物を読んで以来、日本に興味を持ち、生涯で4回来日した{{Sfn|大野|2005|pp=105-106}}。初来日したのは[[1932年]]5月であるが、この時にチャップリンは[[犬養毅]]首相が暗殺された[[五・一五事件]]に遭遇した{{Sfn|大野|2017|pp=213-215}}。首謀者の[[大日本帝国海軍|海軍]]青年将校は、当初チャップリンの暗殺も計画していた{{Sfn|大野|2017|pp=213-215}}{{Sfn|千葉|2017|pp=73-74}}。来日前の4月に青年将校は、チャップリンの入京翌日に首相官邸で歓迎会が行われることを新聞報道で知り、その歓迎会を襲撃する計画を立てた{{Sfn|大野|2017|pp=213-215}}。首謀者のひとりの[[古賀清志]]は、歓迎会を襲撃すれば「日米関係を困難にして人心の動揺をおこし、その後の革命進展を速やかにすることができる」と裁判で証言している{{Sfn|千葉|2017|pp=73-74}}。彼らは5月15日を決行日にしたが、チャップリンが滞在先のシンガポールで熱病に罹り、少なくとも5月16日以降に日本に到着することが判明したため、チャップリンを襲撃する計画は流れた{{Sfn|大野|2017|pp=213-215}}。ところが、チャップリンは予定よりも早い5月14日に到着することになり、再び暗殺の標的に自ら飛び込む危険が生まれた{{Sfn|千葉|2017|pp=81-82}}。 |
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* この時は[[岐阜市|岐阜]]を訪れ、[[長良川鵜飼|鵜飼]]を鑑賞した。鵜匠山下幹司の絶妙な手縄さばきに「ワンダフル」を連発。幻想的な篝火にも魅了され、「鵜飼は一遍の詩であり、鵜匠は詩人である」と言い残した。 |
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[[ファイル:Shibuya in 1950s.jpg|thumb|250px|チャップリンが『義経千本桜』を鑑賞した「東横ホール」があった東急百貨店東横店(1959年の写真)]] |
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5月14日、チャップリンはシドニー夫妻と[[神戸港]]に到着し、数万人の人々に出迎えられた{{Sfn|大野|2009|pp=179-180}}。一行は東京に向かったが、[[東京駅]]では4万人もの群衆が押し寄せ、翌日に[[東京日日新聞]]はその混乱ぶりを「[[関東大震災]]当時の避難民の喧騒と怒号」のようだと報じた{{Sfn|大野|2009|pp=183-184}}。チャップリンは宿泊先の[[帝国ホテル]]に向かう途中、同行した高野に頼まれて[[皇居]]に遥拝した。これは[[軍国主義]]が台頭していた日本で、チャップリンの身の安全を守るために高野が考えた演出だった{{Sfn|大野|2009|pp=185-187}}。翌5月15日、チャップリンは当日に行われる[[首相官邸]]での歓迎会に出席することを承諾したが、突然予定を延期して[[両国国技館]]で相撲見物に出かけた。その夕方に犬養は首相官邸で暗殺され、チャップリンは事なきを得た{{Sfn|大野|2017|pp=213-215}}。チャップリンは身の危険を感じて帰国することも考えたが、結局6月2日まで日本に滞在した{{Sfn|千葉|2017|pp=101, 149}}。日本の伝統文化を好んだチャップリンは、[[歌舞伎]]や[[人形浄瑠璃]]などの古典芸能を鑑賞したり、[[上野]]の美術館で[[浮世絵]]を楽しんだりして過ごした{{Sfn|大野|2009|pp=196-197}}。また、チャップリンは滞在中に何度も[[天ぷら]]を食し、一度に海老の天ぷらを30本も平らげたため、新聞では「天ぷら男」とあだ名された{{Sfn|大野|2009|pp=196-197}}{{Sfn|千葉|2017|pp=101-102, 116, 138, 144}}。チャップリンは初来日の感想について、自伝で「もちろん日本の思い出が、すべて怪事件と不安ばかりだったわけではない。むしろ全体としては、非常に楽しかったと言ってよい」と述べている{{Sfn|チャップリン|1966|p=439}}。 |
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* 4度目の来日は戦後で[[1961年]](昭和36年)7月に[[ウーナ・オニール|ウーナ夫人]]、長女の[[ジェラルディン・チャップリン|ジェラルディン]]、長男のマイケルを連れての来日。通訳を務めたのは[[山口淑子]]。[[渋谷]]の[[東急百貨店東横店|東横ホール]]で、[[中村富十郎 (5代目)|五代目中村富十郎]]の『[[義経千本桜]]』を鑑賞。[[日光東照宮]]では靴下に草履ばきで、指が入らず突っ掛けて、お参り。藁ぶき屋根の農家や、風情ある[[銭湯]]を見つけるとふらり立ち寄り、お茶をご馳走になったり、脱衣場に居合わせた人々にビールやアイスクリームを振る舞ったという。[[高度経済成長|高度成長]]期で変貌著しい[[東京都|東京]]の風景には失望するも、チャップリンがもっとも愛したと言われる京都に来て、「古き良き日本の姿」を見て喜んだと伝えられる。 |
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*4度目の来日の際にも再び岐阜を訪れたが、3度目の来日時とはすっかり変わり果てた鵜飼の姿に「戦前はこんなのではなかった……」と落胆した。岐阜市内での鵜飼の[[ポスター]]には、鵜とチャップリンが共にいる[[デザイン]]が採用されたりもした。[[下呂温泉]]の白鷺橋には記念の[[銅像|ブロンズ像]]が[[2001年]]に設置された。 |
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[[1936年]]3月6日、チャップリンはゴダードとアジア旅行の途中、乗船したクーリッジ号が[[神戸港]]に停泊した一日半を利用して再来日した{{Sfn|千葉|2017|pp=173-183}}。その後、2ヶ月半ほどアジア諸国を旅行したあと、5月16日に三度目の来日を果たし、[[京都市|京都]]観光や[[岐阜市|岐阜]]の[[鵜飼]]を見物したりして6日間滞在した{{Sfn|千葉|2017|pp=184-192}}。[[1961年]]7月にはウーナと息子のマイケルを連れて、最後の来日を果たした{{Sfn|大野|2009|pp=315-318}}。美しい日本の姿を求めていたチャップリンは、[[高度経済成長]]で近代化された東京の風景に失望し、再び鵜飼を鑑賞した時も、その大きく変化した光景に落胆した{{Sfn|大野|2009|pp=315-318}}{{Sfn|千葉|2017|pp=232-234}}。しかし、京都を訪れると、古き良き日本の風景が残っているのを見て安心し、宿泊先から雨が降る東山の景色を見て「浮世絵のようだ」と感嘆したり、[[龍安寺]]ではお茶を点てる女性の動きを見て「まるでバレエだ」と表現したりして楽しんだ{{Sfn|大野|2009|pp=315-318}}。京都見物の途中に[[銭湯]]に急遽立ち寄った時には、居合わせた人々にビールを振舞った{{Sfn|千葉|2017|p=236}}。 |
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* 第44回アカデミー賞の授賞式に先立って行われた[[ニューヨーク]]での歓迎会では[[黒柳徹子]]と面会している。彼女と対面した時、チャップリンは大変感激して「キョウト、フジヤマ、ウカイ」と感涙した。 |
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* [[1970年]](昭和45年)の[[日本万国博覧会|大阪万博]]の時に、日本側が招聘を試みたが実現しなかった。[[1972年]](昭和47年)の[[リバイバル]]上映時も来日が企画されたが実現せず、代わりに次女ジョゼフィンが来日した。 |
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* 晩年[[マスメディア|マスコミ]]から遠ざかり、[[スイス]]に隠棲していたチャップリンに、幸運にも接する機会を得た著名人として[[タレント]]の[[萩本欽一]]、[[ヴァイオリニスト]]の[[前橋汀子]]がいる。萩本は[[1971年]]、[[フジテレビ]]の番組企画で[[ヴヴェイ]]のチャップリン邸にアポなしで訪問。4日粘ってやっと会えたという。この辺りの経緯は、萩本のページに詳しい。前橋汀子は[[1976年]]の秋、ヴヴェイのクニーサーカス公演にウーナ夫人ら家族とともに姿を見せたチャップリンに、サインをもらう写真が残されている。 |
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* [[1972年]](昭和47年)、世界中でチャップリン回顧ブームとなる中、日本では[[東宝東和]]が「ビバ! チャップリン」と銘打ち、『モダン・タイムス』を皮切りに代表作10本(併映小品あり)を順次公開すると、異例の大ヒットを記録した。 |
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* 1977年の11月、「チャップリンと私」という作文を募った雑誌[[ロードショー (雑誌)|ロードショー]]の企画で、優秀賞に選ばれた読者がスイスのチャップリン邸を訪問するツアーが敢行された。喜劇俳優の[[伴淳三郎]]も参加し、一行はウーナ夫人に温かく迎えられたものの、チャップリン本人には会えなかった。置土産に持参した[[市松人形]]は、永くチャップリンの自室に飾られたという。 |
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* {{要出典範囲|[[1977年]](昭和52年)の[[クリスマス]]、折しも[[有楽町]]で上映されていた、彼の半生を綴る[[ドキュメンタリー]]『[[放浪紳士チャーリー]](The Gentleman Tramp)』(1975)。上映終了後、館内に訃報のアナウンスが流れると、客席からはすすり泣きや感動の拍手が沸き起こった|date=2020年11月}}。 |
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*[[1977年]]12月、[[月曜ロードショー]]を急遽変更し、チャップリンの追悼番組「さようなら喜劇の王様」を放送。前橋は解説者の[[荻昌弘]]の横でアシスタントを務めていた。また翌、[[1978年]]の「[[欽ドン!]] 追悼チャップリン特集」で、1971年放送の「拝啓チャップリン様・[[コント55号]]只今参上!」のダイジェストを放送している。 |
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*[[ロングラン]]は続き、[[1986年]](昭和61年)に国内での上映権が一旦切れた後は、[[日本における衛星放送|衛星放送]]や市販[[磁気テープ|ビデオ]]、[[レーザーディスク]]などで楽しむ他はなかった。しかし[[2003年]](平成15年)、[[角川ヘラルド・ピクチャーズ|日本ヘラルド映画]]が『[[犬の生活]]』以降の国内上映権を再購入し、同年5月から[[朝日新聞]]と日本ヘラルド映画の主催で「Love Chaplin! チャップリン映画祭」が全国各地の[[映画館]]で行われ、後に[[DVD-Video|DVDソフト]]として[[デジタルリマスター]]された版が日本ヘラルド映画(発売元)、[[ジェネオンエンタテインメント]](販売元)からリリースされた{{Efn|このコレクターズ・ボックスは廃盤となり、現在メモリアル・エディションとして[[紀伊國屋書店]]から再リリースされている。特典映像を含め、内容は同一のものである。しかし[[PAL]]マスター(ヨーロッパ仕様の規格)を流用しているため、再生速度の問題(4%の早回しで国内の既発盤より音声ピッチが高いこと)、『[[チャップリン・レヴュー]]』の原版違いによるカットなどが指摘されている。}}。これらチャップリンの名作は、現在[[KADOKAWA]]より[[Blu-ray Disc|ブルーレイディスク]]が出ており、最良のクオリティーで視聴可能である。 |
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[[File:Newtokyo sukiyabasibldg.jpg|thumb|200px|『放浪紳士チャーリー』のメイン上映館であったニュー東宝シネマ<ref>{{PDFlink|[https://www.toho.co.jp/files/pdf/%E4%B8%8A%E6%98%A0%E4%BD%9C%E5%93%81%EF%BC%98%EF%BC%93.pdf 直営洋画劇場上映作品 1965-1983 有楽町、ロードショー(洋画)上映作品リスト]}} - [[東宝|東宝株式会社]]</ref>(後の[[TOHOシネマズ有楽座]]。[[ニユートーキヨー]]ビル内)]] |
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* ビデオテープが普及する前、権利なしのチャップリンの映画は家庭用[[8ミリ映画|8mm]]や[[16mmフィルム]]でよく見られていた{{Efn|中でも人気だったのが『[[チャップリンの冒険]]』や『[[キッド (1921年の映画)|キッド]]』※但しサイレント版。サウンド版には著作権が存在する。}}。アメリカの[[ブラックホーク社]]が大量のクラシック映画を一般家庭用に分売しており、輸入業者を通じて手軽に入手できた。[[マツダ映画社]]や[[公共図書館]]などの弁士付き上映会でも頻繁にかかっていた。 |
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* [[テレビ]]でもチャップリン映画は盛んに放映されており、古くは[[フランキー堺]](「チャップリン小劇場〔[[日本放送協会|NHK]]〕」)や[[愛川欽也]](『キッド』)による[[ナレーター|ナレーション]]入りで、[[1990年代|90年代]]は[[永井一郎]]や[[小松政夫]]が[[吹き替え]]た短編コメディーの放送があった。 |
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* 生誕100年となる[[1989年]]、[[NHKスペシャル]]で若き日のチャップリンを描いたイギリス発[[テレビドラマ]](吹き替えはハンナ役に[[木の実ナナ]]、チャーリー役に[[浪川大輔]])と、チャップリンの未公開NG映像で構成された『知られざるチャップリン』が放送された。それは本編をかなり短縮して2部構成にし、元の[[ジェームズ・メイソン]]のナレーションをカットして、[[加賀美幸子]]アナウンサーと萩本欽一が番組進行に当たっている。淀川長治の解説映像も別録りで付いていたが、大半は萩本欽一の[[アテレコ]]とトークが占めていた。 |
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* [[郵政民営化]]以前の1989年、郵便局の[[郵便貯金|MMC貯金]]POSTのイメージキャラクターに起用され、実写ではない[[イラスト]]のチャップリンが動く[[CM]]が放送されていた。 |
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* [[2006年]]に[[日本チャップリン協会]]が設立された。名誉会長は[[黒柳徹子]]、最高顧問にジョゼフィン・チャップリン、名誉顧問に山口淑子、会長に[[大野裕之]]が就任、本部は[[京都大学]]にある。2006年3月25日から4月2日まで、「チャップリンの日本」と題して、高野虎市遺品展と国際[[シンポジウム]]が[[京都市]]で開催され、大きな話題を呼んだ。国際シンポジウムではジョゼフィン・チャップリン、黒柳徹子、チャップリン研究の権威[[デイヴィッド・ロビンソン]]、大野裕之、[[ハリウッド]]の[[日系人]]俳優[[クライド・クサツ]]らが講演した。[[2007年]]3月には、京都市で日本チャップリン協会の主催で、「チャップリンと戦争」と題して、第二回チャップリン国際シンポジウムが開催され、チャップリンの孫のチャーリー・シストヴァリス、[[市川染五郎 (7代目)|市川染五郎]]、大野裕之らが講演した。第三回にあたる[[2009年]]3月には、次男のユージーンが招かれ、父親との思い出を語った。 |
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* [[手塚治虫]]は、生前「どうすれば、人々の記憶に残る[[漫画]]が描けるのですか?」という質問に対して「とにかくチャップリンの映画を観ろ。あれにすべての答えがある」と決まって答えている。また「私の漫画の手法はチャップリンなしに考えられない」と語っており、[[ヒゲオヤジ]]のキャラクターの足の先が太くしゃんと立てないのはチャップリンの真似であったと明かし、さらに画面の[[齣|コマ]]を斜めにして、それまでの漫画の常識を壊したのも『黄金狂時代』のラストの真似だったと明かした。自著においても、[[ウォルト・ディズニー]]と同等にチャップリンを敬愛している旨を述べている{{要出典|date=2020年8月}}。 |
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* 日本におけるチャップリンの[[評論家]]としては長く[[淀川長治]]が代表的な存在だったが、淀川の死後は[[劇団とっても便利]]の[[大野裕之]]がチャップリン評論家の第一人者となった。まだ20歳代の大野は「Love Chaplin! チャップリン映画祭」(劇場パンフレット執筆)、「Love Chaplin! DVDコレクターズ・エディション」([[ライナーノーツ]]執筆)の監修を行い、[[2005年]]7月に[[ロンドン]]で行われたチャップリン国際会議にも、日本を代表して出席した。 |
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* [[黒澤明]]は自身の「映画ベスト100」企画で、『黄金狂時代』と共に[[北野武]]『[[HANA-BI]]』を入れて、同じコメディアンで映画の監督・主演も行う[[ビートたけし]](北野武)に「チャップリンと重なることがある」と評している<ref>『増補新版 黒澤明ムック』A5/ソフトカバー 304ページ ISBN:978-4-309-97730-0 Cコード 9474 2010.01.15。このベスト100の初出は『文芸春秋』1999年4月号。その他に日本版『PLAYBOY』2008年3月号にも再録され、2014年4月には文藝春秋より黒澤和子の解説つきで『黒澤明が選んだ100本の映画』ISBN-13:9784166609673 として出ている。 </ref>。またチャップリンは[[日本映画]]は黒澤の[[三船敏郎]]主演・[[京マチ子]]出演の『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』しか見ていないが「非常に高い水準の作品」と絶賛{{要出典|date=2020年8月}}。 |
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*[[三谷幸喜]]は小学生の頃、「ビバ! チャップリン」シリーズを見てファンになり、自分の描いた似顔絵を持って会いに行ったが会うことはできず、秘書に手渡したら1ヵ月後にサイン付きで送り返してくれたと語っている{{Efn|『[[スタジオパークからこんにちは]]』(NHK 2011年10月26日放送)、『[[新堂本兄弟]]』(フジテレビ 2013年11月3日放送)にゲスト出演した際、現物を披露した。}}。 |
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*[[爆笑問題]]の[[太田光]]は幼少期からチャップリンの大ファンであることが知られており、著書などでもチャップリンへの尊敬を語ることが多い<ref>爆笑問題の死のサイズ.2000/06/23.ISBN 9784594029333.[[扶桑社]].</ref><ref>「[[オー!!マイ神様!!]]」 2017年11月14日(火)放送 [http://kakaku.com/tv/channel=6/programID=74242/episodeID=1113241/ 「オー!!マイ神様!!」 2017年11月14日(火)放送内容]</ref>。 |
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== フィルモグラフィー == |
== フィルモグラフィー == |
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{{Main|チャールズ・チャップリンの映画作品一覧}} |
{{Main|チャールズ・チャップリンの映画作品一覧}} |
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チャップリンが出演・監督した公式映画は82本存在す |
チャップリンが出演・監督した公式映画は82本存在するが、それ以外にも未完成及び未公開の作品、再編集して公開された作品、[[カメオ出演]]した他監督の作品がある。[[2020年]]時点で[[アメリカ国立フィルム登録簿]]には、『[[ヴェニスの子供自動車競走]]』(1914年)、『[[チャップリンの移民]]』(1917年)、『[[キッド (1921年の映画)|キッド]]』(1921年)、『[[黄金狂時代]]』(1925年)、『[[街の灯]]』(1931年)、『[[モダン・タイムス]]』(1936年)、『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』(1940年)の7本の公式映画と、カメオ出演した[[キング・ヴィダー]]監督の『{{仮リンク|活動役者|en|Show People}}』(1928年)が登録されている<ref>{{Cite web |url=https://www.loc.gov/programs/national-film-preservation-board/film-registry/complete-national-film-registry-listing/ |title=Complete National Film Registry Listing |website=Library of Congress |language=英語 |accessdate=2021年1月29日}}</ref>。 |
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'''監督した長編映画''' |
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== 受賞歴 == |
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* [[キッド (1921年の映画)|キッド]](1921年) |
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* [[巴里の女性]](1923年) |
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* [[黄金狂時代]](1925年) |
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* [[サーカス (映画)|サーカス]](1928年) |
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* [[街の灯]](1931年) |
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* [[モダン・タイムス]](1936年) |
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* [[独裁者 (映画)|独裁者]](1940年) |
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* [[殺人狂時代 (1947年の映画)|殺人狂時代]](1947年) |
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* [[ライムライト (映画)|ライムライト]](1952年) |
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* [[ニューヨークの王様]](1957年) |
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* [[伯爵夫人 (映画)|伯爵夫人]](1967年) |
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== 受賞 == |
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[[File:Charlie Chaplin walk of fame.jpg|thumb|180px|[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]にあるチャップリンの星。]] |
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チャップリンは生涯に多くの賞と栄誉を受けた。[[1962年]]に[[オックスフォード大学]]と[[ダラム大学]]から[[名誉博士号]]を与えられ、[[1965年]]には[[イングマール・ベルイマン]]とともに[[エラスムス賞]]を受賞した{{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=460-461}}。[[1971年]]にはフランス政府から[[レジオンドヌール勲章]]のコマンドゥールの称号を授けられ{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=346-348}}、[[1975年]]には[[エリザベス2世]]から[[大英帝国勲章]]の{{仮リンク|ナイト・コマンダー|en|Commander (order)#United Kingdom}}(KBE)の称号を与えられた<ref name="Gazette19741231"/>。映画業界からは、1971年の[[第25回カンヌ国際映画祭]]でチャップリンの全作品に対して特別賞が贈られ{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=346-348}}、[[1972年]]の[[ヴェネツィア国際映画祭]]では[[栄誉金獅子賞]]を受賞した{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=351-352}}。同年に[[リンカーン・センター映画協会]]から生涯功労賞を受賞し、同賞はそれ以来「チャップリン賞」の名称で毎年映画人に贈られている<ref>{{cite web|url= http://www.filmlinc.com/blog/entry/the-birth-of-the-chaplin-award| title=40 Years Ago – The Birth of the Chaplin Award |publisher=Lincoln Center Film Society |date=30 March 2012 |author=E. Segal, Martin |accessdate=25 June 2012 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120502165257/http://www.filmlinc.com/blog/entry/the-birth-of-the-chaplin-award |archivedate=2 May 2012}}</ref>。また、1972年に[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]で星を獲得したが、それまではチャップリンの政治的問題のために除外されていた{{Sfn|Williams|2006|p=311}}。 |
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以下の表は、チャップリンが受賞した、もしくはノミネートされた映画賞(作品自体に与えられた賞を含む)の一覧である。 |
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{| class="sortable wikitable" style="font-size:small" |
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small" |
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|+チャールズ・チャップリンの主な映画賞の受賞とノミネートの一覧 |
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!賞!!年!!部門!!作品!!結果 |
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!rowspan="4" style="text-align:left"|[[キネマ旬報ベスト・テン]] |
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|1924年||芸術的に最も優れた映画||『[[巴里の女性]]』||{{won|1位}} |
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|1926年||外国映画ベスト・テン||『[[黄金狂時代]]』||{{won|1位}} |
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|1952年||外国映画ベスト・テン||『[[殺人狂時代 (1947年の映画)|殺人狂時代]]』||{{won|1位}} |
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! 賞 !! 年 !! 部門 !! 作品名 !! 結果 !! 出典 |
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|1960年||外国映画ベスト・テン||『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』||{{won|1位}} |
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|- |
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!rowspan="7" style="text-align: |
!rowspan="7" style="text-align:center"|[[アカデミー賞]] |
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|[[第1回アカデミー賞|1929年]]||[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]||『[[サーカス (映画)|サーカス]]』||{{won}} |
|[[第1回アカデミー賞|1929年]]||[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]||『[[サーカス (映画)|サーカス]]』||{{won}}||{{Sfn|大野|2017|pp=180-183}} |
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|- |
|- |
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|rowspan="3"|[[第13回アカデミー賞| |
|rowspan="3"|[[第13回アカデミー賞|1941年]]||[[アカデミー作品賞|作品賞]]||rowspan="3"|『[[独裁者 (映画)|独裁者]]』||{{nom}}|| rowspan="3"|<ref name="oscar1941"/> |
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|- |
|- |
||
|[[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]||{{nom}} |
|[[アカデミー主演男優賞|主演男優賞]]||{{nom}} |
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337行目: | 334行目: | ||
|[[アカデミー脚本賞|脚本賞]]||{{nom}} |
|[[アカデミー脚本賞|脚本賞]]||{{nom}} |
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|- |
|- |
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|[[第20回アカデミー賞| |
|[[第20回アカデミー賞|1948年]]||脚本賞||『[[殺人狂時代 (1947年の映画)|殺人狂時代]]』||{{nom}}||<ref name="oscar1947"/> |
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|- |
|- |
||
|[[第44回アカデミー賞| |
|[[第44回アカデミー賞|1972年]]||名誉賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|pp=346-348}} |
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|- |
|- |
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|[[第45回アカデミー賞| |
|[[第45回アカデミー賞|1973年]]||[[アカデミー作曲賞|作曲賞]]||『[[ライムライト (映画)|ライムライト]]』||{{won}}||<ref name="vance"/> |
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|- |
|- |
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!rowspan=" |
!rowspan="3" style="text-align:center"|[[ニューヨーク映画批評家協会賞]] |
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|[[第6回ニューヨーク映画批評家協会賞|1940年]]||[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]||『独裁者』||{{won}} |
|[[第6回ニューヨーク映画批評家協会賞|1940年]]||[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演男優賞|主演男優賞]]||『独裁者』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.nyfcc.com/awards/?awardyear=1940 |title=1940 Awards |website=New York Film Critics Circle |language=英語 |accessdate=2020年1月23日}}</ref> |
||
|- |
|- |
||
|[[第18回ニューヨーク映画批評家協会賞|1952年]]|| |
|rowspan="2"|[[第18回ニューヨーク映画批評家協会賞|1952年]]||[[ニューヨーク映画批評家協会賞 監督賞|監督賞]]||rowspan="2"|『ライムライト』||{{nom}}||rowspan="2"|<ref name="imdb">{{Cite web |url=https://www.imdb.com/name/nm0000122/awards?ref_=nm_awd |title=Awards |website=IMDb |language=英語 |accessdate=2021年1月23日}}</ref> |
||
|- |
|- |
||
|主演男優賞||{{nom}} |
|||
!rowspan="2" style="text-align:left"|[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]] |
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|[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 (1940年)|1940年]]||演技賞||『独裁者』||{{won}} |
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|- |
|- |
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!rowspan="2" style="text-align:center"|[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]] |
|||
|[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 (1940年)|1940年]]||演技賞||『独裁者』||{{won}}||<ref name="imdb"/> |
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|- |
|- |
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|1947年||[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 作品賞|作品賞]]||『殺人狂時代』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://nationalboardofreview.org/award-years/1947/ |title=1947 Award Winners |website=National Board of Review |language=英語 |accessdate=2021年1月23日}}</ref> |
|||
!rowspan="2" style="text-align:left"|[[ボディル賞]] |
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|1949年||アメリカ映画賞||『殺人狂時代』||{{won}} |
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|- |
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!rowspan="2" style="text-align:center"|[[ボディル賞]] |
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|1949年||{{仮リンク|ボディル賞 アメリカ映画賞|label=アメリカ映画賞|en|Bodil Award for Best American Film }} ||『殺人狂時代』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.bodilprisen.dk/priskategorier/amerikanske-film/ |title=amerikanske film |website=Bodilprisen |language=デンマーク語 |accessdate=2021年1月23日}}</ref> |
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|1959年||{{仮リンク|ボディル賞 名誉賞|label=名誉賞|en|Bodil Honorary Award|}}||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=http://www.bodilprisen.dk/priskategorier/aeres-bodil/ |title=Æres-Bodil |website=Bodilprisen |language=デンマーク語 |accessdate=2021年1月23日}}</ref> |
|||
!rowspan="2" style="text-align:left"|[[英国アカデミー賞]] |
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|1952年||[[英国アカデミー賞 作品賞|総合作品賞]]||『ライムライト』||{{nom}} |
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!style="text-align:center"|[[ブルーリボン賞 (映画)|ブルーリボン賞]] |
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|1952年||外国映画賞||『殺人狂時代』||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1952/ |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090207075503/http://cinemahochi.yomiuri.co.jp/b_award/1952/ |archivedate=2009/2/7 |title=ブルーリボン賞ヒストリー 第3回 |website=シネマ報知 |accessdate=2021年1月23日}}</ref> |
|||
|- |
|- |
||
!style="text-align: |
!rowspan="2" style="text-align:center"|[[英国アカデミー賞]] |
||
|1953年||[[英国アカデミー賞 作品賞|総合作品賞]]||『ライムライト』||{{nom}}||<ref>{{Cite web |url=http://awards.bafta.org/award/1953/film? |title=Film in 1953 |website=BAFTA Awards |language=英語 |accessdate=2021年1月23日}}</ref> |
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|1952年||外国作品賞||『殺人狂時代』||{{won}} |
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|1976年||{{仮リンク|アカデミー友愛賞|en|BAFTA Fellowship}}||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=http://awards.bafta.org/award/1976/film/fellowship |title=Film | Fellowship in 1976 |website=BAFTA Awards |language=英語 |accessdate=2021年1月23日}}</ref> |
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!style="text-align:left"|[[ナストロ・ダルジェント賞]] |
|||
|1953年||外国監督賞||『ライムライト』||{{won}} |
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|- |
|- |
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!style="text-align: |
!style="text-align:center"|[[ナストロ・ダルジェント賞]] |
||
|1953年||{{仮リンク|ナストロ・ダルジェント賞 外国監督賞|label=外国監督賞|it|Nastro d'argento al regista del miglior film straniero}}||『ライムライト』||{{won}}||<ref name="imdb"/> |
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|1972年||[[栄誉金獅子賞]]||style="text-align:center"|-||{{won}} |
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|- |
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!style="text-align: |
!style="text-align:center"|[[全米監督協会賞]] |
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|1974年||名誉終身会員賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web |url=https://www.dga.org/Awards/History/1970s/1973.aspx?value=1973 |title=26 DGA AWARDS |website=dga.org |language=英語 |accessdate=2021年1月23日}}</ref> |
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|1972年||Chaplin Award Gala||style="text-align:center"|-||{{won}} |
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|- |
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!style="text-align:left"|[[全米監督協会賞]] |
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|1974年||名誉終身会員賞||style="text-align:center"|-||{{won}} |
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|} |
|} |
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== 家族 == |
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=== その他の受賞・勲章・称号 === |
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[[File:Chaplin family 1961.jpg|thumb|280px|チャップリン(左から4番目)と4番目の妻[[ウーナ・オニール]](チャップリンの右隣り)とその子供たち(左からジェラルディン、ユージン・アンソニー、ヴィクトリア、アネット、ジョゼフィン、マイケル)。]] |
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*[[1954年]]:[[世界平和評議会]]平和国際賞 |
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{{Main|en:Chaplin family}} |
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*[[1962年]]:[[オックスフォード大学]]名誉博士号 |
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* 父:[[チャールズ・チャップリン・シニア]](1863年 - 1901年、舞台俳優) |
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*1962年:[[ダラム大学]]名誉博士号 |
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* 母:[[ハンナ・チャップリン]](1865年 - 1928年、舞台女優) |
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*[[1965年]]:[[エラスムス賞]] |
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* 異父兄:[[シドニー・チャップリン (1885年生)|シドニー・チャップリン]](1885年 - 1965年、俳優) |
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*[[1971年]]:パリ[[名誉市民]] |
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* 異父弟:[[ウィーラー・ドライデン]](1892年 - 1957年、俳優) |
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*1971年:[[レジオンドヌール勲章]]コマンドゥール |
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* 最初の妻:[[ミルドレッド・ハリス]](1918年 - 1920年、女優) |
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*[[1975年]]:[[大英帝国勲章]]KBE<ref name="Gazette19741231"/> |
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** 長男:ノーマン・スペンサー・チャップリン(1919年、生後3日で死去) |
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* 2番目の妻:[[リタ・グレイ]](1924年 - 1928年、女優) |
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** 次男:[[チャールズ・チャップリン・ジュニア]](1925年 - 1968年、俳優) |
|||
** 三男:[[シドニー・チャップリン (1926年生)|シドニー・アール・チャップリン]](1926年 - 2009年、俳優) |
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* 3番目の妻:[[ポーレット・ゴダード]](1936年 - 1942年、女優) |
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* 4番目の妻:[[ウーナ・オニール]](1925年 - 1991年、[[ユージン・オニール]]の娘) |
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** 長女:[[ジェラルディン・チャップリン]](1944年 - 、女優) |
|||
*** 孫:[[ウーナ・チャップリン]](1986年 - 、女優) |
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** 四男:{{仮リンク|マイケル・チャップリン|en|Michael Chaplin (actor)}}(1946年3月 - 、俳優) |
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*** 孫:{{仮リンク|ドロレス・チャップリン|fr|Dolores Chaplin}}(1970年 - 、女優) |
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*** 孫:[[カルメン・チャップリン]](1972年 - 、女優) |
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** 次女:{{仮リンク|ジョゼフィン・チャップリン|en|Josephine Chaplin}}(1949年 - 、女優) |
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** 三女:{{仮リンク|ヴィクトリア・チャップリン|en|Victoria Chaplin}}(1951年 - 、女優) |
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*** 孫:{{仮リンク|ジェームス・ティエレ|en|James Thiérrée}}(1974年 - 、俳優) |
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** 五男:{{仮リンク|ユージン・アンソニー・チャップリン|en|Eugene Chaplin}}(1953年 - 、[[レコーディング・エンジニア]]) |
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*** 孫:{{仮リンク|キエラ・チャップリン|en|Kiera Chaplin}}(1982年 - 、[[モデル (職業)|モデル]]) |
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** 四女:ジェーン・セシル・チャップリン(1957年 - ) |
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** 五女:アネット・エミリー・チャップリン(1959年 - ) |
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** 六男:{{仮リンク|クリストファー・チャップリン |en|Christopher Chaplin}}(1962年 - 、作曲家・俳優) |
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== チャップリンを題材にした作品 == |
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* 映画『[[チャーリー (映画)|チャーリー]]』(1993年、[[リチャード・アッテンボロー]]監督) - チャップリンの生涯を描いた[[伝記映画]]で、[[ロバート・ダウニー・Jr]]がチャップリンを演じた<ref>{{cite web|title=Robert Downey, Jr. profile, Finding Your Roots |url=https://www.pbs.org/weta/finding-your-roots/profiles/robert-downey-jr/ |publisher=PBS |accessdate=9 February 2013 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20151123205555/http://www.pbs.org/weta/finding-your-roots/profiles/robert-downey-jr/ |archivedate=23 November 2015}}</ref>。 |
|||
* 映画『[[ブロンドと柩の謎]]』(2001年、[[ピーター・ボグダノヴィッチ]]監督) - [[エディー・イザード]]がチャップリンを演じた<ref>{{cite news|title=The Cat's Meow – Cast|url=https://www.nytimes.com/movies/movie/251894/The-Cat-s-Meow/cast|newspaper=The New York Times|accessdate=9 November 2013|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151124051810/http://www.nytimes.com/movies/movie/251894/The-Cat-s-Meow/cast|archivedate=24 November 2015}}</ref>。 |
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* 舞台『''[[:en:Chaplin (2006 musical)|Limelight: The Story of Chaplin]]''』(2006年発表・2010年初演、トーマス・ミーハン、クリストファー・カーティス作) - チャップリンの人生に基づく[[ミュージカル]]<ref>{{cite web|url= http://www.lajollaplayhouse.org/the-season/2010-2011-season/limelight| title=Limelight – The Story of Charlie Chaplin |publisher=La Jolla Playhouse |accessdate=25 June 2012|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130721141919/http://www.lajollaplayhouse.org/the-season/2010-2011-season/limelight|archivedate=21 July 2013}}</ref>。2012年に[[ブロードウェイ]]で『''Chaplin: The Musical''』のタイトルで上演<ref>{{cite web|url=http://chaplinbroadway.com/ |title=Chaplin – A Musical |publisher=Barrymore Theatre |accessdate=25 June 2012 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120615070714/http://www.chaplinbroadway.com/ |archivedate=15 June 2012 }}</ref>。 |
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* テレビアニメ『{{仮リンク|チャップリン&CO|en|Chaplin & Co}}』(2011年、[[フランス3]]) - チャップリンの小さな放浪者が主人公の[[CGアニメーション]]シリーズ<ref>{{Cite web |last=Dickson |first=Jeremy |url=http://kidscreen.com/2012/10/01/new-global-tv-deals-for-chaplin-and-co/ |date=2012-10-1 |title=New global TV deals for Chaplin and Co. |publisher=Kidscreen |accessdate=2020年1月30日}}</ref>。 |
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* 映画『[[ダンシング・チャップリン]]』(2011年、[[周防正行]]監督) - フランスの振付師[[ローラン・プティ]]による、チャップリンを題材にした[[バレエ]]の舞台を映像化した作品<ref>{{Cite web |url=https://eiga.com/movie/55913/ |title=ダンシング・チャップリン |website=映画.com |accessdate=2021年1月30日}}</ref>。 |
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* 映画『[[チャップリンからの贈りもの]]』(2014年、[[グザヴィエ・ボーヴォワ]]監督) - チャップリンの遺体が誘拐された実話をもとに、その犯人を主人公にしたフィクション作品<ref>{{Cite web |url=https://eiga.com/movie/80086/ |title=チャップリンからの贈りもの |website=映画.com |accessdate=2021年1月27日}}</ref>。 |
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== ドキュメンタリー作品 == |
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== その他 == |
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* 『放浪紳士チャーリー』(1975年、リチャード・パターソン監督) - ヴヴェイの自宅で撮影されたシーンを含む{{Sfn|ロビンソン(下)|1993|p=418}}。 |
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=== 著作権問題 === |
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* 『{{仮リンク|知られざるチャップリン|en|Unknown Chaplin}}』(1982年、ケヴィン・ブラウンロー、デイヴィッド・ギル監督){{Sfn|ロビンソン(上)|1993|pp=216-217}} |
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上記の主要な作品の内、1952年までの作品は[[著作権の保護期間]](公開後50年)が終了したと考えられたことから、幾つかの作品が[[パブリックドメインDVD|激安DVD]]で発売された。これに対し、製作者([[版権]]継承者)の[[リヒテンシュタイン]]の法人は、米国で[[パブリックドメイン]]となった作品を含む全作品の著作権が2015年(監督没後38年)まで日本で存続すると主張して発売業者を相手取り、発売差し止めと在庫の廃棄を求める訴えを[[東京地方裁判所|東京地裁]]に起こした。2007年8月29日に東京地裁で[[原告]]全面勝訴の判決が下った。このうち、『殺人狂時代』は2017年、『ライムライト』は2022年まで保護期間が存続するとされた{{Efn|何れも監督没後38年と、公開後70年の長い現行法を適用。}}<ref>{{cite web|title=平成18(ワ)15552 著作権侵害差止等請求事件 : 裁判所 裁判例情報:検索結果詳細画面|url=http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail7?id=35065|format=PDF|work=裁判所ウェブサイト|publisher=東京地方裁判所 民事第29部|date=2007-08-29|accessdate=2016-12-18}}</ref>。発売業者は[[知的財産高等裁判所|知財高裁]]に[[控訴]]したが、2008年2月28日に控訴棄却の判決を下した。2009年10月8日に[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第一[[小法廷]]は発売業者の[[上告]]を棄却、判決が確定した。 |
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* 『チャーリー・チャップリン ライフ・アンド・アート』(2003年、リチャード・シッケル監督) - [[ウディ・アレン]]や[[ジョニー・デップ]]などのインタビュー映像を含む<ref>{{Cite web |url=https://www.tcm.com/tcmdb/title/541007/charlie-the-life-and-art-of-charles-chaplin#articles-reviews?articleId=70830 |date=2004-2-27 |title=Charlie: The Life And Art Of Charles Chaplin |website=TCM.com |language=英語 |accessdate=2021年1月27日}}</ref>。 |
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* 『''Charlie Chaplin: The Forgotten Years''』(2003年、フェリス・ゼノーニ監督)<ref>{{Cite web |url=https://variety.com/2003/film/reviews/charlie-chaplin-the-forgotten-years-1200538458/ |title=Charlie Chaplin - The Forgotten Years |website=Variety |language=英語 |accessdate=2021年1月30日}}</ref> |
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* 『''Chaplin, la légende du siècle''』(2014年、フレデリック・マーティン監督)- フランスのテレビドキュメンタリー<ref>{{Cite web |url=https://www.imdb.com/title/tt4052144/ |title=Chaplin, la légende du siècle |website=IMDb |language=英語 |accessdate=2021年1月30日}}</ref>。 |
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== 著書 == |
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* 『僕の旅』高瀬毅訳、[[中央公論社]]、1930年。 |
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[[Image:Vevey_Chaplin.jpg|right|190px|thumb|[[スイス]]の[[ヴェヴェイ]]に立つ銅像]] |
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* 『チャップリン自伝』中野好夫訳、[[新潮社]]、1966年。 |
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*チャップリンが晩年を過ごしたスイスの自宅「マノワール・ド・バン」が、チャップリンの記念博物館となり、[[2016年]]春にオープンした<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/3084291 チャップリン博物館、ついに開館 スイス西部] 2016年4月18日付 [[AFP通信]]</ref>。 |
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** 文庫化『チャップリン自伝〈上〉 若き日々』『チャップリン自伝〈下〉 栄光の日々』中野好夫訳、[[新潮文庫]]、1981年(上)・1992年(下)。 |
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*[[1992年]]、チャップリンが生前に出版した自伝を基に、[[リチャード・アッテンボロー]]監督によってチャップリンの生涯を描いた伝記映画『[[チャーリー (映画)|チャーリー]]』([[ロバート・ダウニー・Jr]]主演)が公開されている。 |
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** 新訳版『チャップリン自伝 若き日々』『チャップリン自伝 栄光と波瀾の日々』中里京子訳、新潮文庫、2017年。 |
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*[[1999年]]、アメリカ『[[タイム (雑誌)|タイム]]』誌は、「[[タイム100|20世紀の最も影響力のある100人]]」から“アーティストとエンターテイナー”を20人選出した。絵画の世界では[[パブロ・ピカソ]]、服飾では[[ココ・シャネル]]、音楽では[[ビートルズ]]と、時代を変えた世界的なアーティストたちが名を連ねる中、映画界から[[スティーヴン・スピルバーグ]]と並び選出されている。 |
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* チャールズ・チャップリン、デイヴィッド・ロビンソン『小説ライムライト チャップリンの映画世界』上岡伸雄、南條竹則訳、[[集英社]]、2017年。 |
|||
*チャップリンが、ある記者に『あなたが関わった作品の中で最高傑作は何ですか?』と聞かれ、"Next One (次作だよ)"と即答したというエピソードがよく語られるが、チャップリン研究家の大野裕之によるとそのような事実はないということである<ref>[http://ameblo.jp/onohiroyuki/entry-11248659872.html トヨタの豊田章男社長の偽チャップリン発言について、「ウォール・ストリート・ジャーナル」の取材に答 - 大野裕之 amebaブログ]</ref>。 |
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* [[2000年]]に発表された『[[キネマ旬報]]』の「[[キネマ旬報20世紀の映画スター|20世紀の映画スター]]」で読者選出の外国男優部門の第1位に輝いた。 |
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*没後30年にあたる[[2007年]]12月、名場面と[[ウディ・アレン]]や[[ジョニー・デップ]]ら豪華出演者へのインタビューで構成されたドキュメンタリー『[[チャーリー・チャップリン ライフ・アンド・アート]]』(2003)が劇場公開され、DVDも同時発売された。 |
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*[[2009年]]、未公開映画 "Charlie Chaplin in Zepped" のフィルムが発見との報道がされたが、実際は編集版の作品だった<ref>[http://www.guardian.co.uk/culture/2009/nov/05/charlie-chaplin-ebay-reel-tin Collector finds unseen Charlie Chaplin film in tin sold for £3.20 on eBay] |
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</ref>。 |
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*[[周防正行]]監督による映画『[[ダンシング・チャップリン]]』が、[[2011年]]に公開された<ref>[http://www.dancing-chaplin.jp/ 映画「ダンシング・チャップリン」公式サイト] |
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</ref>。 |
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*[[2012年]]に、『チャップリン・ザ・ルーツ』と題して、初期作の完全[[デジタルリマスター]]版が大野裕之監修のもと世界初劇場公開された。うち16本に[[羽佐間道夫]]、[[野沢雅子]]、[[山寺宏一]]らの[[声優]]・[[活動弁士|弁士]]が声を充てた吹替え版も同時公開された。これらは[[DVD-BOX]]として発売中<ref>[http://elevenarts-japan.net/chaplin.html 映画「チャップリン・ザ・ルーツ」公式サイト] |
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</ref>。 |
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*チャップリンがもし現代にいたら…!?という設定のもと制作された[[コンピュータアニメーション|CGアニメーション]]シリーズ『チャップリン&CO』が、[[カートゥーン ネットワーク]]で放送された<ref>[http://www.cartoonnetwork.jp/cn_programs/view/00515 カートゥーンネットワーク - チャップリン&CO] |
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</ref>。 |
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*[[2014年]]、チャップリン死後に金銭目的で遺体を誘拐したおマヌケな二人組のドジな犯行劇(実話)を基にしたフランス映画『[[チャップリンからの贈りもの]]』が公開された。 |
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*1952年から亡くなるまでの25年間、スイスでの日々を諜報機関ファイル、アーカイブクリップ、[[ペトゥラ・クラーク]]及び家族へのインタビューなどで記録した『Charlie Chaplin : The Forgotten Years』(2003)、1972年の再渡米を軸に、チャップリンとアメリカの関係を苦い視線から描いたフランス制作のドキュメンタリー『チャップリン20世紀の伝説』(2014)などもある。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
=== 注釈 === |
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{{Reflist|group="注"}} |
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{{Notelist}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|4}} |
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== 参考文献 == |
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* {{Cite book|和書 |author=[[大野裕之]] |date=2005-4 |title=チャップリン再入門 |publisher=[[日本放送出版協会]] |isbn=978-4140881415 |ref={{Harvid|大野|2005}}}} |
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*『チャップリン自伝』 [[中野好夫]]訳、[[新潮社]]、1966年 |
|||
* {{Cite book|和書 |author=大野裕之 |date=2009-12 |title=チャップリンの影 日本人秘書 高野虎市 |publisher=[[講談社]] |isbn=978-4063397598 |ref={{Harvid|大野|2009}}}} |
|||
**『チャップリン自伝〈上〉 若き日々』 [[新潮文庫]]、1981年、改版2005年 |
|||
* {{Cite book|和書 |author=大野裕之 |date=2017-4 |title=チャップリン 作品とその生涯 |series=中公文庫 |publisher=[[中央公論社]] |isbn=978-4122064010 |ref={{Harvid|大野|2017}}}} |
|||
**『チャップリン自伝〈下〉 栄光の日々』 新潮文庫、1992年。解説[[淀川長治]] |
|||
* {{Cite book|和書 |author=チャールズ・チャップリン |translator=[[中野好夫]] |date=1966-11 |title=チャップリン自伝 |publisher=[[新潮社]] |isbn=978-4105050016 |ref={{Harvid|チャップリン|1966}}}} |
|||
*各 新訳版『チャップリン自伝 若き日々』 [[中里京子]]訳、新潮文庫、2017年4月 |
|||
* {{Cite book|和書 |author=[[マック・セネット]] |translator=新野敏也監訳、石野たき子 |date=2014-3 |title=〈喜劇映画〉を発明した男 帝王マック・セネット、自らを語る |publisher=[[作品社]] |isbn=978-4861824722 |ref={{Harvid|セネット|2014}}}} |
|||
*『チャップリン自伝 栄光と波瀾の日々』 中里京子訳、新潮文庫、2017年12月 |
|||
* {{Cite book|和書 |author=[[千葉伸夫]] |date=2017-5 |title=チャプリンが日本を走った |edition=新装版 |publisher=青蛙房 |isbn=978-4790508908 |ref={{Harvid|千葉|2017}}}} |
|||
*『小説ライムライト チャップリンの映画世界』 [[集英社]]、2017年 |
|||
* {{Cite book|和書 |author=山本喜久男 |date=1983-3 |title=日本映画における外国映画の影響 比較映画史研究 |publisher=早稲田大学出版部 |isbn= |ref={{Harvid|山本|1983}}}} |
|||
*:デイヴィッド・ロビンソン編、[[大野裕之]]監修、[[上岡伸雄]]・[[南條竹則]]訳 |
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* {{Cite book|和書 |author=デイヴィッド・ロビンソン |translator=宮本高晴、高田恵子 |date=1993-4 |title=チャップリン |publisher=[[文藝春秋]] |volume=上 |isbn=978-4163474304 |ref={{Harvid|ロビンソン(上)|1993}}}} |
|||
* {{Cite book|和書 |author=デイヴィッド・ロビンソン |translator=宮本高晴、高田恵子 |date=1993-4 |title=チャップリン |publisher=文藝春秋 |volume=下 |isbn=978-4163474403 |ref={{Harvid|ロビンソン(下)|1993}}}} |
|||
* {{Cite book|last=Bloom |first=Claire |authorlink=クレア・ブルーム |title=Limelight and After |year=1982 |publisher=Weidenfeld & Nicolson |location=London |isbn=978-0-297-78051-9 |ref={{Harvid|Bloom|1982}}}} |
|||
* {{Cite book|last=Brownlow |first=Kevin |authorlink=ケヴィン・ブラウンロー |year=2010 |title=The Search for Charlie Chaplin |publisher=UKA Press |location=London |isbn=978-1-905796-24-3 |ref={{Harvid|Brownlow|2010}}}} |
|||
* {{Cite book|last=Cousins |first=Mark |year=2004 |title=The Story of Film: An Odyssey |publisher=Pavilion Books |location=London |isbn=978-1-86205-574-2 |ref={{Harvid|Cousins|2004}}}} |
|||
* {{Cite book|last=Dale|first=Alan S.|title=Comedy is a Man in Trouble: Slapstick in American Movies|url=https://archive.org/details/comedyismanintro00alan|year=2000|publisher=University of Minnesota Press|location=Minneapolis, MN|isbn=978-0-8166-3658-7|ref={{Harvid|Dale|2000}}}} |
|||
* {{Cite book|last=Epstein |first=Jerry |year=1988 |title=Remembering Charlie |publisher=Bloomsbury |location=London |isbn=978-0-7475-0266-1 |ref={{Harvid|Epstein|1988}}}} |
|||
* {{Cite book|last=Friedrich |first=Otto |authorlink=オットー・フリードリック |year=1986 |title=City of Nets: A Portrait of Hollywood in the 1940s |publisher=University of California Press |location=Berkeley, CA |isbn=978-0-520-20949-7 |ref={{Harvid|Friedrich|1986}}}} |
|||
* {{Cite book|last=Hansmeyer |first=Christian |title=Charlie Chaplin's Techniques for the Creation of Comic Effect in his Films |year=1999 |publisher=University of Portsmouth |location=Portsmouth |isbn=978-3-638-78719-2 |ref={{Harvid|Hansmeyer|1999}}}} |
|||
* {{Cite book|last=Kamin |first=Dan |year=2011 |title=The Comedy of Charlie Chaplin: Artistry in Motion |publisher=Scarecrow Press |location=Lanham, MD |isbn=978-0-8108-7780-1 |ref={{Harvid|Kamin|2011}}}} |
|||
* {{Cite book|last=Kemp |first=Philip, ed. |year=2011 |title=Cinema: The Whole Story |publisher=Thames & Hudson |location=London |isbn=978-0-500-28947-1 |ref={{Harvid|Kemp|2011}}}} |
|||
* {{Cite book|last=Larcher |first=Jérôme |year=2011 |title=Masters of Cinema: Charlie Chaplin |publisher=Cahiers du Cinéma |location=London |isbn=978-2-86642-606-4 |ref={{Harvid|Larcher|2011}}}} |
|||
* {{Cite book|last=Louvish |first=Simon |year=2010 |title=Chaplin: The Tramp's Odyssey |publisher=Faber and Faber |location=London |isbn=978-0-571-23769-2 |ref={{Harvid|Louvish|2010}}}} |
|||
* {{Cite book|last=Lynn |first=Kenneth S. |year=1997 |title=Charlie Chaplin and His Times |publisher=Simon & Schuster |location=New York |isbn=978-0-684-80851-2 |ref={{Harvid|Lynn|1997}}}} |
|||
* {{Cite book|last=Maland |first=Charles J. |year=1989 |title=Chaplin and American Culture |publisher=Princeton University Press |location=Princeton, NJ |isbn=978-0-691-02860-6 |ref={{Harvid|Maland|1989}}}} |
|||
* {{Cite book|last=Maland |first=Charles J. |year=2007 |title=City Lights |publisher=British Film Institute |location=London |isbn=978-1-84457-175-8 |ref={{Harvid|Maland|2007}}}} |
|||
* {{Cite book|last=Marriot |first=A. J. |year=2005 |title=Chaplin: Stage by Stage |publisher=Marriot Publishing |location=Hitchin, Herts |isbn=978-0-9521308-1-9 |ref={{Harvid|Marriot|2005}}}} |
|||
* {{Cite book|last=Mast |first=Gerald |year=1985 |title=A Short History of the Movies: Third Edition |publisher=Oxford University Press |location=Oxford |isbn=978-0-19-281462-3 |ref={{Harvid|Mast|1985}}}} |
|||
* {{Cite book|last=McCaffrey |first=Donald W., ed. |title=Focus on Chaplin |year=1971 |publisher=Prentice Hall |location=Englewood Cliffs, NJ |isbn=978-0-13-128207-0 |ref={{Harvid|McCaffrey|1971}}}} |
|||
* {{Cite book|editor-last=Nowell-Smith|editor-first=Geoffrey|title=Oxford History of World Cinema|year=1997|publisher=Oxford University Press|location=Oxford|isbn=978-0-19-874242-5 |url=https://archive.org/details/oxfordhistoryofw00geof |ref={{Harvid|Nowell-Smith|1997}}}} |
|||
* {{Cite journal|last1=Raksin |first1=David |last2=Berg |first2=Charles M. |title=Music Composed by Charles Chaplin: Auteur or Collaborateur? |journal=Journal of the University Film Association |volume=31|issue=1 |pages=47-50 |year=1979 |ref={{Harvid|Raksin|Berg|1979}}}} |
|||
* {{Cite book|last=Sarris|first=Andrew|title=You Ain't Heard Nothin' Yet: The American Talking Film – History and Memory, 1927–1949|year=1998|publisher=Oxford University Press|location=New York|isbn=978-0-19-503883-5|authorlink=アンドリュー・サリス|url=https://archive.org/details/youaintheardnoth00sarr|ref={{Harvid|Sarris|1998}}}} |
|||
* {{Cite journal||last1=Sbardellati |first1=John |last2=Shaw |first2=Tony |year=2003 |title=Booting a Tramp: Charlie Chaplin, the FBI, and the Construction of the Subversive Image in Red Scare America |url=https://web.viu.ca/davies/H323Vietnam/CharlieChaplin.McCarthyism.pdf |format=PDF |journal=Pacific Historical Review |volume=72 |issue=4 |pages=495-530 |doi=10.1525/phr.2003.72.4.495 |ref={{Harvid|Sbardellati|Shaw|2003}}}} |
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* {{Cite book|last=Schickel |first=Richard, ed. |year=2006 |title=The Essential Chaplin – Perspectives on the Life and Art of the Great Comedian |publisher=Ivan R. Dee |location=Chicago, Illinois |isbn=978-1-56663-682-7 |ref={{Harvid|Schickel|2006}}}} |
|||
* {{Cite journal|last=Simmons|first=Sherwin|title=Chaplin Smiles on the Wall: Berlin Dada and Wish-Images of Popular Culture|journal=New German Critique|issue=84|pages=3-34|year=2001|doi=10.2307/827796|jstor=827796|ref={{Harvid|Simmons|2001}}}} |
|||
* {{Cite journal|last=Thompson|first=Kristin|title= Lubitsch, Acting and the Silent Romantic Comedy |journal=Film History|volume=13|issue=4|pages=390-408|year=2001|doi=10.2979/FIL.2001.13.4.390|ref={{Harvid|Thompson|2001}}}} |
|||
* {{Cite book|last1=Vance|first1=Jeffrey|title=Chaplin: Genius of the Cinema|year=2003|publisher=Harry N. Abrams|location=New York|isbn=978-0-8109-4532-6|url=https://archive.org/details/chaplingeniusofc00vanc|ref={{Harvid|Vance|2003}}}} |
|||
* {{Cite book|last=Weissman |first=Stephen M. |year=2009 |title=Chaplin: A Life |publisher=JR Books |location=London |isbn=978-1-906779-50-4 |ref={{Harvid|Weissman|2009}}}} |
|||
* {{Cite book |last=Williams|first=Gregory Paul|title=The Story of Hollywood: An Illustrated History|publisher=B L Press|location=Los Angeles, CA|year=2006|isbn=978-0-9776299-0-9|ref={{Harvid|Williams|2006}}}} |
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== 関連 |
=== 関連文献 === |
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* [[ |
* [[伊藤千尋 (ジャーナリスト)|伊藤千尋]]『凛凛チャップリン』[[新日本出版社]]、2020年4月。ISBN 978-4406064071。 |
||
* |
* [[岩崎昶]]『チャーリー・チャップリン』講談社〈講談社現代新書〉、1973年1月。 |
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* |
* [[江藤文夫]]『チャップリンの仕事』[[みすず書房]]、1989年6月。ISBN 978-4622042327。 |
||
* 大野裕之『チャップリン・未公開NGフィルムの全貌』日本放送出版協会、2007年3月。ISBN 978-4140811832。 |
|||
:([[NHK教育テレビ]]『[[知るを楽しむ]]』のテキスト、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]併録。 大野がチャップリンの魅力を語った4回シリーズ) |
|||
* 大野裕之 |
* 大野裕之『チャップリン暗殺 5.15事件で誰よりも狙われた男』[[メディアファクトリー]]、2007年11月。ISBN 978-4840120906。 |
||
* 大野裕之 |
* 大野裕之『チャップリンとヒトラー メディアとイメージの世界大戦』[[岩波書店]]、2015年6月。ISBN 978-4000238861。 |
||
* |
* 銀河協会編『チャップリンの世界 その人と作品』[[英知出版]]、1978年3月。 |
||
* |
* ジョルジュ・サドゥール『チャップリン その映画とその時代』鈴木力衛、清水馨訳、岩波書店、1966年1月。 |
||
* チャールズ・チャップリン・ジュニア、N.&M.ロー『わが父チャップリン 息子が見た喜劇王の素顔』木槿三郎訳、[[恒文社]]、1975年1月。 |
|||
* 大野裕之編 『チャップリンのために』 とっても便利出版部、2000年 |
|||
* 林冬子、清水馨編『チャップリン その愛と神話』[[芳賀書店]]〈デラックス・シネアルバム〉、1978年4月。ISBN 978-4826105071。 |
|||
*:チャップリン自身と[[淀川長治]]・[[江藤文夫]]・[[澤登翠]]・小松弘・千葉伸夫・大野裕之の著作を収録 |
|||
* ロバート・パリッシュ『わがハリウッド年代記 チャップリン、フォードたちの素顔』[[鈴木圭介 (翻訳家)|鈴木圭介]]訳、[[筑摩書房]]〈リュミエール叢書〉、1995年3月。ISBN 978-4480873002。 |
|||
*『チャップリンと戦争 『チャップリンの独裁者』展 チャップリン没後30年記念』 |
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* [[淀川長治]]『私のチャップリン』[[筑摩書房]]〈ちくま文庫〉、1995年4月。ISBN 978-4480030207。 |
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*:デイヴィッド・ロビンソン企画・監修/日本版・大野裕之編・監修、伊藤恵一・林愛沙訳、日本チャップリン協会、2007年 |
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* 『世界の映画作家19 チャールズ・チャップリン』[[キネマ旬報社]]、1973年2月。 |
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* [[橋本勝]] 『チャップリン イラスト版オリジナル』 [[現代書館]]「FOR BEGINEERSシリーズ」、1986年 |
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*『チャップリンのために』とっても便利出版部、2000年11月。ISBN 978-4925095020。 |
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* 『サイレント・コメディ全史』 新野敏也ほか、[[喜劇映画研究会]]編・刊、1992年、ISBN 978-4906409013 |
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* [[マック・セネット]] 『〈喜劇映画〉を発明した男 帝王マック・セネット、自らを語る』 石野たき子訳・新野敏也監訳、[[作品社]]、2014年、ISBN 4861824729 |
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=== 品切・絶版書籍 === |
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* デイヴィッド・ロビンソン、[[宮本高晴]]・高田恵子訳 |
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**『チャップリン』 [[文藝春秋]](上下)、1993年 |
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**『チャップリンの愛した女たち』 [[文春文庫]]。同時刊 |
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* {{仮リンク|ジョルジュ・サドゥール|en|Georges Sadoul}}『チャップリン その映画とその時代』 [[鈴木力衛]]・清水馨訳、[[岩波書店]]、1966年 |
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* [[岩崎昶]] 『チャーリー・チャップリン』 [[講談社現代新書]]、1973年 |
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* [[淀川長治]] 『私のチャップリン』 [[ちくま文庫]]、1995年 - ※初版は[[PHP研究所|PHP]] |
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* [[江藤文夫]] 『チャップリンの仕事』 [[みすず書房]]、1989年 |
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* ロバート・パリッシュ『わがハリウッド年代記 チャップリン、フォードたちの素顔』 |
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*: [[鈴木圭介 (翻訳家)|鈴木圭介]]訳、筑摩書房<リュミエール叢書>、1995年 |
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* [[チャールズ・チャップリン・ジュニア|C.チャップリンJr.]]/N.&M.ロー『わが父チャップリン - 息子が見た喜劇王の素顔』 木槿三郎訳、[[恒文社]]、1975年 |
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* 『世界の映画作家19 チャールズ・チャップリン』 [[キネマ旬報社]]、1973年 |
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* 『世界の映画作家26 バスター・キートンと喜劇の黄金時代』 [[キネマ旬報社]]、1975年 |
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* [[小林信彦]] 『世界の喜劇人』 [[晶文社]]、1978年/新潮文庫、1983年 - ※加筆・再編版 |
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:*初版は中原弓彦の名義「喜劇の王様たち」校倉書房、1963年 |
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:*中原弓彦「笑殺の美学―映像における笑いとは何か」大光社、1971年 |
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* 杜こなて 『チャップリンと音楽狂時代 - クラシックとポピュラーをめぐる近・現代史』 [[春秋社]]、1995年 |
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* [[森田拳次]]『伝記まんが チャップリン』講談社、1976年 |
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* 『チャップリンの世界―その人と作品』[[英知出版]]、1978年 |
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* 『チャップリン―その愛と神話 (デラックス・シネアルバム 7) 』[[芳賀書店]]、1978年 |
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* 『チャールズ・チャップリン永久保存版』[[近代映画社]]、1978年 |
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===歴史ミステリ小説=== |
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* [[川田武]] 『五月十五日のチャップリン』 [[光文社文庫]]、2005年 |
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* [[日下圭介]] 『チャップリンを撃て』 [[講談社ノベルス]]、1986年/[[光文社]]文庫、1993年 |
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* [[千葉伸夫]] 『チャプリンが日本を走った』 [[岡本経一|青蛙房]]、1992年、新装版2017年 |
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* [[土橋章宏]] 『チャップリン暗殺指令』 [[文藝春秋]]、2017年/[[文春文庫]]、2020年 |
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* [[松田十刻]] 『チャップリン謀殺計画』[[原書房]]、1998年/『チャップリン謀殺指令』 [[新人物往来社|新人物文庫]]、2010年 |
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* 森毅 『泣いてチャップリン』 [[幻冬舎メディアコンサルティング]]、2019年 |
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*:※以上は、[[1932年]](昭和7年)の[[5・15事件]]来日時を舞台にした歴史[[ミステリ]]ー。 |
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== 関連項目 == |
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* [[チャップリン (曖昧さ回避)]] |
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* [[ハロルド・ロイド]] |
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* [[シドニー・チャップリン (1885年生)]] |
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* [[高野虎市]] |
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* [[バスター・キートン]] |
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* [[エドナ・パーヴァイアンス]] |
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* [[カンティンフラス]] |
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* [[クライド・クサツ]] |
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* [[Mr.ビーン]] |
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* [[茶風林]] |
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* [[チョップリン]] |
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* [[日本チャップリン・梅廼家ウグイス]] |
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* [[杖]] |
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* [[ロマ]] |
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* [[喜劇映画研究会]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* [https://www.charliechaplin.com/ Association Chaplin] |
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* [http://www.chaplinmuseum.com/en/ Chaplin's World - The Modern Times Museum] |
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2021年2月28日 (日) 06:40時点における版
チャールズ・チャップリン Charles Chaplin | |||||||||||||||||||||||||||||
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チャールズ・チャップリン(1920年) | |||||||||||||||||||||||||||||
本名 | チャールズ・スペンサー・チャップリン(Charles Spencer Chaplin) | ||||||||||||||||||||||||||||
別名義 | チャーリー・チャップリン(Charlie Chaplin) | ||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1889年4月16日 | ||||||||||||||||||||||||||||
没年月日 | 1977年12月25日(88歳没) | ||||||||||||||||||||||||||||
出生地 | イギリス ロンドン | ||||||||||||||||||||||||||||
死没地 | スイス コルシエ=シュル=ヴヴェイ | ||||||||||||||||||||||||||||
職業 | 俳優、映画監督、映画プロデューサー、脚本家、作曲家 | ||||||||||||||||||||||||||||
ジャンル | 映画、舞台 | ||||||||||||||||||||||||||||
活動期間 | 1899年 - 1976年 | ||||||||||||||||||||||||||||
配偶者 |
ミルドレッド・ハリス(1918年 - 1920年) リタ・グレイ(1924年 - 1928年) ポーレット・ゴダード(1936年 - 1942年) ウーナ・オニール(1943年 - 1977年) | ||||||||||||||||||||||||||||
公式サイト | charliechaplin.com | ||||||||||||||||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||||||||||||||||
『キッド』(1921年) 『巴里の女性』(1923年) 『黄金狂時代』(1925年) 『街の灯』(1931年) 『モダン・タイムス』(1936年) 『独裁者』(1940年) 『殺人狂時代』(1947年) 『ライムライト』(1952年) | |||||||||||||||||||||||||||||
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サー・チャールズ・スペンサー・チャップリン(英: Sir Charles Spencer Chaplin, KBE、1889年4月16日 - 1977年12月25日)は、イギリス出身の映画俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサー、作曲家である。サイレント映画時代に名声を博したコメディアンで、山高帽に大きなドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装のキャラクター「小さな放浪者」を通じて世界的な人気者になり、映画史の中で最も重要な人物のひとりと考えられている。ドタバタにペーソスを組み合わせた作風が特徴的で、作品の多くには自伝的要素や社会的及び政治的テーマが取り入れられている。チャップリンのキャリアは70年以上にわたるが、その間にさまざまな称賛と論争の対象となった。
チャップリンの子供時代は貧困と苦難に満ちており、貧民院に何度も収容される生活を送った。やがて舞台俳優や芸人としてミュージック・ホールなどの舞台に立ち、19歳で名門のフレッド・カーノー劇団と契約した。そのアメリカ巡業中に映画業界からスカウトされ、1914年にキーストン社で映画デビューした。チャップリンはすぐに小さな放浪者を演じ始め、自分の映画を監督した。その後はエッサネイ社、ミューチュアル社、ファースト・ナショナル社と移籍を重ね、1919年には配給会社ユナイテッド・アーティスツを共同設立し、自分の映画を完全に管理できるようにした。1920年代に長編映画を作り始め、『キッド』(1921年)、『黄金狂時代』(1925年)、『街の灯』(1931年)、『モダン・タイムス』(1936年)などを発表した。『独裁者』(1940年)からはトーキーに完全移行したが、1940年代に私生活のスキャンダルと共産主義的傾向の疑いで非難され、人気は急速に低下した。1952年に『ライムライト』のプレミア上映のためロンドンへ渡航中、アメリカへの再入国許可を取り消され、それ以後は亡くなるまでスイスに定住した。1972年に第44回アカデミー賞で「今世紀が生んだ芸術である映画の製作における計り知れない功績」により名誉賞を受賞した。
生涯
初期の人生:1889年~1913年
出生と子供時代
1889年4月16日、チャールズ・スペンサー・チャップリン(以下チャップリン)は父のチャールズ・チャップリン・シニア(以下チャールズ)と母のハンナ・チャップリンとの間に生まれた[2]。チャップリンは自伝で、ロンドン南部のウォルワースのイースト・ストリートで生まれたとしているが[3]、公式の出生記録は存在していない[2]。両親は4年前に結婚したが、ハンナはその時までに非嫡出子のシドニーを出産していた[4][注 1]。両親は共にミュージック・ホールの芸人で、チャールズは人気歌手だったが、ハンナは芽の出ない女優だった[5]。1891年までに両親は別居し、翌1892年にハンナは夫の芸人仲間のレオ・ドライデンとの間にジョージ・ウィーラー・ドライデンを出産したが、ジョージは生後6ヶ月でレオに強引に連れ去られ、それから30年近くもチャップリンの前に姿を見せることはなかった[6]。
幼少期のチャップリンは、ロンドン特別区のケニントンでハンナとシドニーと生活していたが、ハンナには時折の洋裁や看護で小銭を稼ぐ以外に収入がなく、チャールズは養育費さえも支払わなかった[7]。貧困とハンナの病気入院により、チャップリンは7歳の時にシドニーとランベス貧民院に収容され、すぐにハンウェルにある孤児や貧困児のための学校に移された[8][9]。1898年1月にチャップリンは同校を退校し、ハンナとシドニーと屋根裏部屋を転々とする生活を送ったが、やがてそれも打つ手がなくなり、7月に三人ともランベス貧民院に収容された[10]。貧民院では親子兄弟といえどもばらばらに収容されたが、8月12日に三人で申し合わせて退院手続きをとり、ケニントン・パークで久しぶりに一緒に一日を過ごした。三人はシドニーが手に入れた9ペンスで昼食をとり、新聞紙を丸めたボールでキャッチボールをしたりして、親子水入らずの時間を楽しんだあと、夕方に貧民院に再収容された[11]。チャップリンは収容後すぐにノーウッドにある貧困児のための学校に移された[12]。
1898年9月、ハンナは栄養失調と梅毒を原因とする精神病を発症したため、ケイン・ヒル精神病院に収容された[13]。それに伴いチャップリンとシドニーはノーウッドの学校を退校し、ケニントンに住んでいた父のチャールズに引き取られた。チャップリンはそれまでに父の姿を2回しか見ていなかった[14]。チャールズは重度のアルコール依存症に陥っており、そこでの生活は児童虐待防止協会が訪問するほど悪いものだった[15]。11月にハンナは病状が落ち着いたため退院し、チャップリンとシドニーは父のもとを離れ、再び三人で生活を始めた[16]。チャールズは1901年に肝硬変のため38歳で亡くなった[17]。
舞台デビュー
チャップリンの初舞台は5歳の時だった。オールダーショットの劇場で舞台に立っていたハンナが出演中に喉をつぶして野次を浴びてしまい、支配人はチャップリンが舞台袖でさまざまな芸でハンナの友人たちを笑わせているのを見て、急遽代役として舞台に立たせることにした。チャップリンは舞台で歌を歌って大喝采を浴びた[7][18]。この舞台出演は一時的なものだったが、チャップリンは9歳までにハンナの教えで舞台に興味を持つようになった。自伝では「母はわたしに舞台に対する興味を植え付けだした。自分には才能があると、わたしが思い込むように仕向けた」と述べている[16]。1898年末、チャップリンは父親とのつながりを通じて[19]、木靴ダンスのエイト・ランカシア・ラッズの座員となり、1899年から1900年にかけてイギリス中のミュージック・ホールを巡業した[注 2]。チャップリンは懸命に働き、舞台も人気を得ていたが、ダンスだけでは満足せず、コメディアンになることを夢見るようになった[21]。
チャップリンはエイト・ランカシア・ラッズと行動を共にした数年間、巡業先の学校を転々として通っていたが、13歳までに学業を断念した[21][22][23]。チャップリンは俳優になるという目標を持ちながら、生活のために食品雑貨店の使いの小僧、診療所の受付、豪邸のボーイ、ガラス工場や印刷所の工員など、さまざまな仕事を経験した[24]。1903年5月にハンナは病気が再発し、再びケイン・ヒル精神病院に送られた[23]。8ヶ月後にハンナは退院したが、1905年3月に再び病状が悪化したため入院し、それ以降は病状が完全に回復することはなかった[25]。自伝では「もはや諦めて母の運命を受け容れるしかなかった」と述べている[26]。ハンナは1928年8月に亡くなり、チャップリンはその後数週間もショックで立ち直れなかったという[27]。
1903年にハンナが入院した直後、チャップリンはウエスト・エンドにある俳優周旋所に名前を登録した。まもなく興行主チャールズ・フローマンの事務所の紹介で、俳優H・A・セインツベリーの舞台『ロンドン子ジムのロマンス』の少年サム役を与えられた[28]。舞台は1903年7月に開幕し、チャップリンのコミカルで快活な演技は批評家の賞賛を受けたが、舞台自体は成功せず2週間で打ち切られた[28][29]。続いてフローマンが興行する『シャーロック・ホームズ』でビリー役を演じ、3度の全国巡業に参加した[25]。1905年9月の3度目の巡業中には、ホームズ役者で有名なウィリアム・ジレットの舞台に出演するためロンドンに呼ばれ、10月から12月にかけてジレット主演の『シャーロック・ホームズ』でビリー役を演じた[30][注 3]。1906年初頭に4度目の『シャーロック・ホームズ』の全国巡業に参加し、これを最後に2年半以上演じてきたビリー役と別れを告げた[32]。
フレッド・カーノー劇団
チャップリンはすぐに新しい劇団で仕事を見つけ、1906年3月にスケッチ・コメディー『修繕』の巡業にシドニーとともに参加した[33]。同年5月にはケイシーズ・コート・サーカスの子供グループに参加し[34]、1907年7月に退団するまで花形コメディアンとして活躍した[33][35]。しかし、チャップリンは次の仕事先を見つけるのに苦労し、しばらく失業状態となった。この頃にユダヤ人のコメディアンとして一人で舞台に立とうと試みたが、テスト公演をしたのがユダヤ人地区の劇場にもかかわらず、反ユダヤ的なギャグを含む出し物をしたため、観客の野次を浴びて大失敗した[36]。
一方、シドニーは1906年にコメディの名門フレッド・カーノー劇団に入り、その花形コメディアンになっていた[37][38][39]。1908年2月、シドニーは失業中のチャップリンに仕事を与えるようカーノーに頼み、チャップリンは2週間のテスト出演のチャンスを貰った。カーノーは当初、チャップリンを「青白くて発育の悪い、無愛想な若者」「舞台もろくにできないぐらいの恥ずかしがり屋」と見なしていた。しかし、チャップリンはロンドンのコロシアム劇場で行われたテスト出演で、アドリブのギャグで笑いを取ったことが認められ、2月21日にカーノーと契約を交わした[37]。
カーノー劇団でのチャップリンは脇役を演じることから始まり、1909年に主役級を演じるようになった[40]。なかでも酔っ払いがドタバタを巻き起こす『啞鳥』が当たり役だった[41]。1910年4月には新作寸劇『恐れ知らずのジミー』の主役で成功を収め、批評家の注目を集めた[42][43]。同年10月、チャップリンはカーノー劇団のアメリカ巡業に参加し[注 4]、批評家から「これまでに見た中で最高のパントマイム芸人の一人」と評された。最も成功した演目は『イギリス・ミュージックホールの一夜』(『啞鳥』の改題)で、その演技でアメリカでの名声を獲得した[45]。アメリカ巡業は21ヶ月も続き、1912年6月にイギリスに帰国したが、10月には再びアメリカ巡業に参加した[46]。
映画スターに:1914年~1922年
キーストン社時代
1913年、チャップリンは2度目のアメリカ巡業中にニューヨーク映画会社の支配人アダム・ケッセルから、傘下のキーストン社と契約する話を受けた[注 5]。キーストン社はテンポの早いドタバタの短編喜劇を量産していた会社で[50]、すでに退社した人気スターのフレッド・メイスの穴を埋める俳優を探していた[51]。チャップリンはキーストン社の作風をあまり好まなかったが、舞台の仕事に変わるものを求めていたこともあり、9月25日に週給150ドルで契約を交わした[48][51]。12月初旬にチャップリンはスタジオがあるロサンゼルスに到着し、撮影所長のマック・セネットと対面した。セネットはチャップリンの容貌が若すぎることに不安を感じたが、チャップリンは「老けづくりなら簡単にできる」と返事した[52][53]。
1914年1月末までチャップリンは映画に使われず、その間は映画製作の技術を学ぶための見学に充てられた[52]。チャップリンの映画デビュー作は、2月2日公開の『成功争ひ』である。この作品でチャップリンが演じたのは、洒落たフロックコートにシルクハット、モノクルを付け、八の字髭を生やした扮装の、女たらしの詐欺師である[52][54]。チャップリンはこの作品を嫌ったが、マスコミはその演技に早くも注目し、「第一級のコメディアン」と賞賛する業界紙もあった[55]。チャップリンは2本目の出演作のために、セネットの指示で喜劇の扮装を決めることになり、トレードマークとなる「小さな放浪者」の扮装を作り上げた。チャップリンの自伝によると、衣裳部屋に行く途中でふとだぶだぶのズボン、大きなドタ靴、ステッキ[注 6]と山高帽という組み合わせを思いついたという[54]。自伝では扮装の狙いについて、以下のように述べている。
だぶだぶのズボンにきつすぎるほどの上着、小さな帽子に大きすぎる靴という、とにかくすべてにチグハグな対照というのが狙いだった。年恰好のほうは若くつくるか年寄りにするか、そこまではまだよく分からなかったが…とりあえず小さな口髭をつけることにした。こうすれば無理に表情を隠す世話もなく、老けて見えるにちがいない、と考えたからである[54]。
その2本目の作品は『メーベルの窮境』(1914年2月9日公開)であるが、それよりも後に撮影された『ヴェニスの子供自動車競走』の方が2日早く公開されたため、『ヴェニスの~』が小さな放浪者の扮装を初めて観客に披露した作品となった[58]。チャップリンはこれを自身の映画のキャラクターに採用し、自分からギャグを提案したりもしたが、監督のヘンリー・レアマンやジョージ・ニコルズとは意見が合わず、対立を繰り返した[59]。11本目の出演作『メーベルの身替り運転』では、監督兼主演のメイベル・ノーマンドと衝突したことで解雇寸前にまで至ったが、ニューヨークから「チャップリン映画が大当たりしているから、至急もっと彼の作品をよこせ」との電報が届いたため、チャップリンの解雇は回避され、彼に対するセネットたち周囲の態度も軟化した[60]。チャップリンはそれに乗じて、作品が失敗したら1500ドルを支払うという条件で、自分で映画を監督することをセネットに認めさせた[61]。
チャップリンの監督デビュー作は、1914年4月20日公開の『恋の二十分』である[62]。監督2作目の『とんだ災難』はその時点までで最も成功したキーストン社作品の1本となった[63]。その後、チャップリンは1週間に1本のペースで新作の短編映画を監督・主演し[64][65]、ショットの組み立てやストーリー構成などの映画技術を貪欲に身に付けていった[63][66]。自伝ではこの時期を「いちばん張りのあったすばらしい時期」としている[60]。チャップリンの人気も高まり、その名前が出ただけで大ヒットが約束されるようになると、キーストン社内でのチャップリンの発言力も高まった[67]。同年11月、セネットが監督した長編コメディ『醜女の深情け』で主演のマリー・ドレスラーの相手役を演じたが、これが他監督のもとで出演した最後の公式映画となった[68]。同年末、チャップリンはセネットと契約更新の話をし、週給1000ドルを要求するが拒否され、契約更新の話もそれで打ち切られた[69]。
エッサネイ社時代
キーストン社と契約満了をもって退社が確定したチャップリンは、週給1250ドルのギャラと1万ドルのボーナスを提示してきたシカゴのエッサネイ社に移籍し、1914年12月下旬にスタジオに参加した[70]。チャップリンはレオ・ホワイトやベン・ターピンなどの俳優を集めてグループを作り、同社2作目の『アルコール夜通し転宅』ではサンフランシスコのカフェで見つけたエドナ・パーヴァイアンスを相手役に採用した。パーヴァイアンスとは8年間に35本の映画で共演し、1917年までプライベートでも親密な関係を築いた[71]。チャップリンはそれまで会社の製作慣習に従い、流れ作業のように映画を作り続けてきたが、この頃から慣習には従わない姿勢を打ち出し、より時間をかけて映画を作るようになった[72]。『アルコール夜通し転宅』と次作の『チャップリンの拳闘』とでは封切り日に27日の間があり、それ以後の作品はさらに封切りの間隔が広がった[72][73]。
この時期にチャップリンは小さな放浪者のキャラクターを変え始めた。キーストン社時代のキャラクターは、女性や子供をいじめたりする卑劣で残酷な役柄や、性的にいやらしい性格であるものが多かった[66][74]。しかし、エッサネイ社時代になると、より穏やかでロマンティックな性格に変化した[75]。1915年4月公開の『チャップリンの失恋』はキャラクターの変化のターニングポイントとなる作品と考えられている。この作品では放浪者がヒロインに失恋し、ラストシーンで一本道をとぼとぼと歩き去る姿が描かれている[76]。このシーンはその後の作品でも数通りに変化させて使用された[77]。チャップリン研究家の大野裕之は、この作品を「孤独な放浪者のロマンスというチャップリン・スタイルの芽生え」であるとしている[76]。同年8月公開の『チャップリンの掃除番』には悲しげな結末にペーソスが加えられたが、映画史家のデイヴィッド・ロビンソンはそれがコメディ映画の革新であるとしている[78]。映画学者のサイモン・ルービッシュは、エッサネイ社時代のチャップリンは「小さな放浪者を定義するテーマとスタイルを見つけた」と述べている[79]。
1915年にチャップリンの人気は爆発的に上昇し、その人気にあやかって人形や玩具などの関連商品が売られたり、新聞に漫画や詩が掲載されたり、チャップリンについての曲が作られたりした[64][80][81]。同年7月にモーション・ピクチャー・マガジンのジャーナリストは、チャップリンの真似をする「チャップリニティス」がアメリカ全土で広まったと書いた[82]。チャップリンの人気は世界的に高まり、映画業界で最初の国際的なスターとなった[83]。12月にエッサネイ社との契約が切れ、自分の価値を認識していたチャップリンは次の契約先に15万ドルのボーナスを要求した。ユニバーサル、フォックス、ヴァイタグラフなどの映画会社からオファーを受けたが、最終的にチャップリンが選んだのは、最も高額な条件を提示してきたミューチュアル社だった[84]。
ミューチュアル社時代
1916年2月、チャップリンは年収67万ドルでミューチュアル社と契約を結び、世界で最も給料が高い人物のひとりとなった[85]。その高額な給料は大衆に衝撃を与え、マスコミで広く報道された[86]。社長のジョーン・R・フロイラーは「私たちがチャップリンにこれだけ巨額の金が払えるのは、大衆がチャップリンを求めており、そのために金を払うからである」と説明した[85]。チャップリンはロサンゼルスに自分専用のスタジオを与えられ、3月にローン・スター・スタジオとして開設した[87]。自身の俳優集団には、エッサネイ社からパーヴァイアンスやホワイトを引き連れ、その後の作品で大きな役割を占めることになるアルバート・オースチンとエリック・キャンベル、そして腹心の友となるヘンリー・バーグマンを新たに加えた[88]。
チャップリンはミューチュアル社と、4週間に1本のペースで2巻物の映画を作ることを約束し、1916年中に公開した8本はすべてこの約束に従っていた。しかし、1917年に入るとこれまで以上に時間をかけて映画を作るようになり、同年に公開した『チャップリンの勇敢』『チャップリンの霊泉』『チャップリンの移民』『チャップリンの冒険』の4本を作るのに10ヶ月を要した[89]。これらの作品は多くの専門家により、チャップリンの最良の作品のひとつと見なされている[90][91][92][93][94]。チャップリンは自伝で、ミューチュアル社時代がキャリアの中で最も幸福な時期だったとしている[95]。
チャップリンは第一次世界大戦で戦わなかったとして、イギリスのメディアに攻撃された[96]。チャップリンはアメリカで徴兵登録を行い、「祖国の命令には進んで従うつもりである」と声明を出したが、結局どちらの国からも召喚されなかった[注 7]。こうした批判にもかかわらず、チャップリンは前線の兵士にも人気があった[96]。チャップリンの人気は世界的に高まり続け、ハーパーズ・ウィークリー誌は、チャップリンの名前が「世界のほぼあらゆる国に深く浸透している」と報告した[97]。その人気ぶりは、1917年に仮面舞踏会に参加した男性の10人のうち9人までがチャップリンの扮装をしたと報告されるほどだった[98]。舞台女優のミニー・マダン・フィスクは「多くの教養ある芸術愛好家たちが、イギリス出身の若き道化師チャールズ・チャップリンを、天才コメディアンとしてだけでなく、世にも稀な芸術家であると考えるようになってきている」と述べている[97]。こうした人気ぶりの一方で、チャップリンは数多くの模倣者の出現に悩まされ、彼らに対して法的措置を講じることになった[99][注 8]。
ファースト・ナショナル社
ミューチュアル社はチャップリンの生産本数の減少に腹を立てず、契約は友好的な関係のまま終了した。チャップリンは契約スケジュールに縛られた映画作りによる品質低下を懸念し、これまで以上に独立することを望んだ。チャップリンのマネージャーだったシドニーは、「今後どんな契約を結ぶとしても必ず条項にしたいものがひとつある。それはチャップリンには必要なだけの時間と、望み通りの予算が与えられるということである。私たちが目指すのは量ではなくて質なのだ」と表明した[102]。1917年6月17日、チャップリンは新しく設立されたファースト・ナショナル社と「100万ドル契約」と広く呼ばれた配給契約を結んだ。この契約ではチャップリン自らがプロデューサーとなり、会社のために8本の映画を完成させる代わりに、作品1本あたり12万5000ドルの前金を受け取ることが決定した[103][104]。
チャップリンはハリウッドのサンセット大通りとラ・ブレア通りが交差する角に面した5エーカーの土地に、自前のスタジオであるチャップリン・スタジオを建設し、1918年1月に完成した[105][106]。このスタジオは地域の外観にうるさい近隣住民を安心させるため、イギリスの田舎のコテージが並んだような外見をもつように設計された[105]。こうしてチャップリンは自由な映画製作環境を手に入れ、以前よりも膨大な時間と労力をかけて映画を作るようになった。また、それまでは1巻物や2巻物の短編映画を主に作っていたが、この頃からは3巻物の中編映画を作るようになった[107]。新しい契約先での最初の作品は、同年4月公開の『犬の生活』である。この作品でチャップリンは小さな放浪者を一種のピエロとして扱い、コメディ映画に複雑な人間的感情を与えた[108]。大野は、この作品で心優しい小さな放浪者のキャラクターが完成したとしている[109]。この作品でチャップリンの芸術的評価は決定的なものとなり[107]、フランスの映画批評家ルイ・デリュックは「映画史上初のトータルな芸術作」と呼んだ[110]。
1918年4月、チャップリンはダグラス・フェアバンクスやメアリー・ピックフォードとともに、第一次世界大戦のための自由公債募集ツアーに駆り出され、約1ヶ月間アメリカ国内を遊説した[111]。ワシントンD.C.で演説した時には、興奮の余り演壇から足を滑らし、当時海軍次官補をしていたフランクリン・ルーズベルトの頭上に転げ落ちたという[112]。さらにチャップリンはアメリカ政府のために、公債購入促進を訴える短編プロパガンダ映画『公債』を自費で製作した[113]。次作の『担へ銃』では戦争をコメディ化し、小さな放浪者を塹壕の兵士に変えた。周囲は悲惨な戦争からコメディを作ることに反対したが、喜劇と悲劇の近似性を意識していたチャップリンの考えは揺るがなかった[114][115]。この作品は大戦の休戦協定の締結直前に公開され、チャップリン映画として当時最高の興行記録を打ち立てた[116]。
ユナイテッド・アーティスツと『キッド』
『担へ銃』の公開後、チャップリンはより高品質な映画を作るため、ファースト・ナショナル社に製作費の増額を要求したが拒否された[117]。作品の品質低下の懸念に加え、映画会社が結託してスターのギャラを下げようとしているという噂話を心配したチャップリンは、 1919年2月5日にフェアバンクス、ピックフォード、D・W・グリフィスとともに、新しい配給会社ユナイテッド・アーティスツを設立した[117][118]。同社は共同設立者の4人がそれぞれ独立製作した映画を配給する会社で、雇用主の束縛なしに自由に映画を作ることができるうえに、これまで雇用主に吸い上げられていた利益も手にすることができた[118]。チャップリンはこの新会社での映画作りを望み、ファースト・ナショナル社に契約解除を求めたが拒否され、残る6本の契約を消化しなければならなくなった[119]。
ユナイテッド・アーティスツの設立前、チャップリンは最初の結婚をした。17歳の女優ミルドレッド・ハリスはチャップリンとの間の子を妊娠したことを明らかにし、チャップリンはスキャンダルを回避するため、1918年10月にロサンゼルスで秘密裏に結婚したが、すぐに妊娠は嘘であることが判明した[120]。チャップリンは結婚生活に気分が乗らず、結婚が創作力に悪影響を及ぼすと考えていた[121]。事実、11月に次回作『サニーサイド』の撮影を始めたが、アイデアが湧かなくてスランプに陥り、自伝では「虫歯を抜くような苦労をして作り上げた」と述べている[121][122]。1919年にミルドレッドは本当に妊娠し、7月7日に奇形児の息子ノーマン・スペンサー・チャップリンを出産したが、わずか3日後に死亡した[123]。
チャップリンの幼少時代の貧困経験は、次の映画『キッド』に影響を与えたと考えられており、それは小さな放浪者を捨て子の保護者に変えた[104][124]。チャップリンは劇場で見つけた4歳の子役俳優ジャッキー・クーガンと契約し、1919年7月に撮影を始めた[123]。撮影は順調に進んだが、これまで以上の大作になることが分かり、早く新作を求めるファースト・ナショナル社をなだめるため、数週間撮影を中断して急拵えで『一日の行楽』を製作した[125]。『キッド』の製作は約1年かかったが[126]、その間にミルドレッドとの結婚生活は破綻した。1920年8月に彼女は離婚訴訟を起こし、『キッド』の撮影済みフィルムを差し押さえようとした[127]。チャップリンはそれから逃れるため、州を越えてソルトレイクシティに避難して編集作業を行い、完成後の11月に離婚が成立した[127][128]。『キッド』はチャップリンの最初の長編映画で、「笑い」に「涙」を組み合わせたチャップリン特有のスタイルを完成させた[126]。1921年2月に公開されると大ヒットし、3年以内に50ヶ国以上で配給された[128]。
チャップリンは次回作『のらくら』の製作に5ヶ月を費やしたあと[129]、突如としてヨーロッパ旅行を決断し、1921年9月にロンドン、パリ、ベルリンを訪問した[130]。ロンドンとパリでは大群衆の熱狂的な歓迎を受け、著名人との社交生活を送ったが、ロンドン訪問中は少年時代を過ごしたケニントンを訪れたり、H・G・ウェルズ家に滞在したりもした[131][132]。ベルリンでは大戦でチャップリン映画の配給が遅れたため知名度が低く、熱狂的な歓迎を受けなかった[132][133]。帰国後、チャップリンは旅行記『My Wonderful Visit』を執筆し、残る2本のファースト・ナショナル社との契約を、1922年公開の『給料日』と1923年公開の『偽牧師』で完了させた[134]。
長編映画時代:1923年~1938年
『巴里の女性』と『黄金狂時代』
ファースト・ナショナル社との契約を終えたチャップリンは、ようやく独立したプロデューサーとして自前のスタジオで映画を作り、自分の会社で配給するというワンマン体制を手に入れ、完全に自由な映画作りを行うことができた[135]。そこでチャップリンはパーヴァイアンスを一本立ちしたスターに仕立てるため、ロマンティックなドラマ映画『巴里の女性』を製作した[136]。この作品でチャップリンは監督に徹し、主演はせずにノンクレジットでカメオ出演するにとどまった[137]。チャップリンは俳優に抑制のきいた自然な演技を求め、新しいリアルな演技スタイルを取り入れた[138]。作品は1923年9月に公開され、その革新的で洗練された表現方法で批評家から高い賞賛を受けた[139]。しかし、一般観客はチャップリンが出てこないチャップリン映画に興味がなく、興行的に失敗した[140]。作品の出来栄えに誇りを持っていたチャップリンはこの結果に失望し、すぐに作品を劇場から撤退させた[141]。
チャップリンは次回作でコメディに戻り、『キッド』以上の作品、それも偉大な叙事詩を作ろうと考えた。そこでクロンダイクのゴールドラッシュの写真とドナー隊の悲劇に触発されて『黄金狂時代』を製作した[142]。この作品では小さな放浪者が孤独な金鉱探しになり、逆境に直面しながら黄金と恋を求める姿が描かれている。飢えをしのぐために靴を食べるシーンや、ロールパンのダンス、崖から落ちる山小屋のシーンなど、チャップリン映画で最も有名なシーンのいくつかも含まれている[143][144][145][146]。撮影は1924年2月に開始したが、600人のエキストラを動員したり、豪華なセットや特殊効果を使用したりするなど、製作はより大規模なものになった[147]。撮影日数は約14ヶ月もかかり、製作費は92万ドルを計上した[143]。1925年8月に公開されると全米で500万ドルの興行収入を記録し、サイレント映画で最も高収入をあげた映画の1本となった[144][148]。ジャーナリストのジェフリー・マクナブは、この作品を「チャップリン映画の典型」と呼んでいる[144]。
リタ・グレイと『サーカス』
『黄金狂時代』の撮影中、チャップリンは16歳の女優リタ・グレイと2度目の結婚をした。1924年9月、リタはミルドレッドの時と同じように、チャップリンとの子を妊娠したことを明らかにした。カリフォルニア州法では未成年女性と関係を持つと強姦罪が適用され、最高30年の刑が科せられたため、リタの両親はそれをタネにチャップリンに結婚を強要した[149]。そのためチャップリンは結婚を余儀なくされ、11月26日にメキシコで内密に結婚式を挙げた[150]。リタは『黄金狂時代』のヒロイン役に予定されていたが、結婚により降板し、代わりにジョージア・ヘイルが演じることになった[151]。リタとの間には、チャールズ・チャップリン・ジュニア(1925年5月5日生)とシドニー・アール・チャップリン(1926年3月30日生)の二人の息子をもうけた[152]。
リタとの結婚生活は不幸であり[152]、チャップリンは妻と会うのを避けるためスタジオで仕事に没頭した[151]。1926年11月末、リタは息子を連れて家出し、翌1927年1月に離婚訴訟を起こした[153]。訴訟書類はチャップリンだけでなくその関係者も相手取り、チャップリンを誹謗中傷する内容が書かれていた[154]。この事件は大見出しのニュースとなり、全米各地でチャップリン映画のボイコットが起きたため、チャップリンは神経衰弱に陥った[155][156]。8月にチャップリンの弁護士は、その種のものではアメリカの裁判史上最高の金額である60万ドルの和解金を支払うことに同意し、リタとの離婚が成立した[157]。チャップリンは心労で一夜にして白髪になったが、幸いにも事件はすぐに忘れられ、チャップリンの人気にほとんど影響を与えることはなかった[158][159]。
離婚訴訟が起きる前に、チャップリンは新作『サーカス』の撮影を始めていた[160]。この作品は猿に囲まれて綱渡りをするというアイデアから物語が作られ、小さな放浪者をサーカスのスターに変えた[161]。撮影は離婚訴訟のため8ヶ月間中断され、撮影中もさまざまなトラブルに直面した[162]。この時の大きなストレスは長年にわたり感じ続け、自伝でもこの作品について言及されていない[163][164]。作品は1927年10月に完成し、1928年1月にプレミア上映が行われて好評を博した[165]。1929年、チャップリンは第1回アカデミー賞で「『サーカス』の脚本・演技・演出・製作で示した優れた才能」に対して名誉賞を受賞したが、授賞式は欠席した[162]。
『街の灯』
『サーカス』が公開された頃、ハリウッドではトーキーの導入が進んでいた。しかし、チャップリンはトーキーについて否定的な立場をとり、トーキーはサイレント映画の芸術性を損なわせてしまうと考えていた[167]。また、チャップリンは小さな放浪者に言葉を入れることで、その国際的魅力と世界共通言語としてのパントマイムの普遍性が失われることを恐れ、自身に成功をもたらしたこの方式を変えることに躊躇した[167][168]。そのためチャップリンはトーキーの流行に従うのを拒否し、サイレント映画を作り続けることにした。それにもかかわらず、この決断はチャップリンを不安にさせ、次回作である『街の灯』の製作中もずっと悩み続けた[168][169]。
チャップリンは約1年かけて『街の灯』のストーリー作りに取り組み、1928年末に撮影を始めた[170][171]。この作品は小さな放浪者がヴァージニア・チェリル演じる盲目の花売り娘を愛し、彼女の視力を回復させるための手術代を調達しようと奮闘する姿が描かれている。撮影は約21ヶ月間も続けられ[172]、チャップリンは自伝で「完璧を望むあまり、神経衰弱気味になっていた」と述べている[173]。チャップリンがサウンド技術で見つけた利点のひとつは、自分で作曲した映画音楽を録音する機会を得たことだった。以前から映画音楽の作曲に関心を抱いていたチャップリンは、この作品のためにオリジナルの伴奏音楽を作曲し、サウンド版として公開することにした[174][175]。
1930年12月に『街の灯』の編集作業が終了したが、この頃にはサイレント映画は時代遅れになっていた[176]。1931年1月に行われた一般向け試写は成功しなかったが、その翌日のマスコミ向け試写では好意的な評価を受けた。あるジャーナリストは「それが可能な人物は世界中でチャップリンだけだろう。彼は、『観客へのアピール』と呼ばれる独特のものを、話す映画へとなびく大衆の好みに挑めるくらい十分に備えているただ一人の人物である」と書いた[177]。同月末に正式公開されると高い人気を集め、最終的に300万ドルを超える収益を上げるほどの興行的成功を収めた[177][178]。英国映画協会は、批評家のジェームズ・エイジーがラストシーンを「映画の中で最高の演技で最高のシーン」と賞賛したことを引用して、チャップリンの最高の作品と評価した[179]。
世界旅行と『モダン・タイムス』
1931年初めにチャップリンは休暇を取ることを決心し、16ヶ月間に及ぶ世界旅行に出かけた[180]。チャップリンはイギリス、フランス、スイスのサン・モリッツでの長期滞在を含めて、西ヨーロッパを何ヶ月間も旅行した[172]。チャップリンは至る所で大歓迎され[132]、多くの著名人と社交的関係を持った。ロンドンではジョージ・バーナード・ショー、ウィンストン・チャーチル、マハトマ・ガンジー、ジョン・メイナード・ケインズと会談し、ドイツを訪問した時はアルベルト・アインシュタインの自宅に招待された[181][182]。チャップリンはヨーロッパ旅行を終えると、休暇を延ばして日本へ行くことを決めた。シンガポールやバリ島を経由して、1932年5月に日本を訪れ、6月に帰国した[183]。
ロサンゼルスに戻ったチャップリンは、トーキー導入で大きく変化したハリウッドに嫌気がさした[184]。自伝では当時の心境を「まったくの混迷、将来の計画もなんにもない。ただ不安なばかりで、底知れぬ孤独にさいなまれていた」と回想している[185]。チャップリンは引退して中国に移住することも考えたが、1932年7月にポーレット・ゴダードと出会ったことで孤独感が解消され、二人はすぐに親密な関係を築いた[186][187]。しかし、チャップリンはなかなか次回作に取りかかろうとはせず、旅行記『コメディアンが見た世界』の執筆に集中した[188]。チャップリンは世界旅行をして以来、恐慌後の世界情勢に関心を持つようになった[189]。実際にチャップリンは、経済問題に関する論文「経済解決論」を執筆したり、ニューディール政策の熱熱な支持者として、1933年に全国産業復興法を支持するラジオ番組に出演したりしている[190]。アメリカの労働状況の悪化はチャップリンを悩ませ、機械化が失業率を高めるのではないかと恐れた。こうした懸念から次回作の『モダン・タイムス』が構想された[190]。
1934年10月に『モダン・タイムス』の撮影が始まり、約10ヶ月半かけて終了した[191]。チャップリンはトーキーで作ることを考えていたが、リハーサル中に気が変わり、前作と同様に効果音と伴奏音楽を採用し、会話シーンはほとんど使わなかった[192]。しかし、小さな放浪者がデタラメ語で「ティティナ」を歌うシーンで、チャップリンは初めて映画で肉声を披露した[193]。大野は、この作品を「機械文明に抵抗して個人の幸福を求める物語」としており[194]、『キッド』以来の政治的言及と社会的リアリズムが取り入れられた。チャップリンはこの問題を重視しないようにしたにもかかわらず、こうした側面が多くのマスコミの注目を引き付けた[195]。作品は1936年2月に公開されたが、一部の大衆観客は政治的要素を嫌ったため、アメリカでの興行収入は前作の半分にも満たない150万ドルにとどまり、評価も賛否両論となった[196][197][193]。それでも現代ではチャップリンの最も優れた長編映画のひとつと見なされている[179]。
『モダン・タイムス』の公開直後、チャップリンはポーレットとともにアジア旅行に出発し、香港や日本などを訪問した[198]。チャップリンとポーレットはお互いの関係について言及することはなく、正式な夫婦であったかどうかは明らかにしていない[199]。その後、チャップリンは旅行中の1936年に広東で結婚したことを明らかにした[200]。ポーレットは『モダン・タイムス』と次回作の『独裁者』でヒロイン役を演じたが、二人はそれぞれの仕事に重点を置いていたため、お互いの気持ちは離れていった。1942年にメキシコで二人の離婚が成立したが、その後もお互いの関係は良好だった[201]。
論争と人気の低下:1939年~1952年
『独裁者』
チャップリンは、1930年代の世界の政治的緊張とファシズムの台頭に不安を感じ、これらの問題を自分の仕事から遠ざけることはできないと考えていた[202][203]。この頃、各国のメディアではチャップリンとアドルフ・ヒトラーとの類似点が話題に取り上げられた[204]。二人はわずか4日違いで生まれ、どちらも社会の底辺の出身から世界的な有名人となり、鼻の下にトゥースブラッシュ形の口髭を付けていた。こうした類似性は、チャップリンに次の映画『独裁者』のアイデアを提供した。この作品ではヒトラーを直接的に風刺し、ファシズムを攻撃した[205]。
チャップリンは『独裁者』の脚本執筆に2年も費やし[206]、イギリスがドイツに宣戦布告した6日後の1939年9月に撮影を始めた[207]。チャップリンは政治的メッセージを伝えるために適した方法であることから、この作品をサイレントではなくオール・トーキーで製作したが、この時にはもはやトーキーを導入する以外に選択肢はなかった[208]。ヒトラーを主題にしたコメディを作ることは大きな物議を醸すと思われたが、チャップリンの経済的独立はそのリスクを冒すことを可能にした[209]。チャップリンは自伝で「ヒトラーという男は、笑いものにしてやらなければならないのだ」と述べている[210]。チャップリンは小さな放浪者を、同じ服装のユダヤ人の床屋に置き換えて、反ユダヤ主義のナチスを攻撃した[注 9]。さらにチャップリンは、ヒトラーをパロディ化した独裁者のアデノイド・ヒンケルも演じた[213]。
『独裁者』の製作には約1年かかり、1940年10月に公開された[214]。この作品はニューヨーク・タイムズの批評家から「今年最も熱狂的に待望された映画」と呼ばれるなど多くの注目を集め[215]、それまでのチャップリン映画で最高の興行収入を記録した[216]。しかし、結末のシーンは人気がなく、論争を引き起こした[217][218]。その結末シーンでは、チャップリンが床屋のキャラクターを捨てて、カメラ目線で戦争とファシズムに反対する5分間の演説をした[219][220]。映画史家のチャールズ・J・マーランドは、この説教がチャップリンの人気の低下を引き起こしたと考え、「今後、映画ファンはチャップリンから政治的側面を切り離すことができなくなった」と述べている[219]。『独裁者』は第13回アカデミー賞で作品賞、主演男優賞、脚本賞など5部門でノミネートされた[221]。
ジョーン・バリーとウーナ・オニール
1940年代半ば、チャップリンは自身の公的イメージに大きな影響を与えた一連の裁判に関わり、それにほとんどの時間を費やした[222]。1941年にチャップリンはポール・ヴィンセント・キャロル原作の戯曲『影と実体』の映画化を企画し、その主演女優として無名のジョーン・バリーと契約した。しかし、バリーは精神的に不安定で奇行が目立ったため、1942年5月に契約を解消した[223]。その後、バリーは2度もチャップリン家に侵入して逮捕され、1943年にはチャップリンの子供を妊娠していると発表した。チャップリンはこれを否定したため、バリーはチャップリンに対して子供の父権認知の訴訟を起こした[224]。
チャップリンの政治的傾向を長年にわたり疑っていた連邦捜査局(FBI)は、チャップリンの評判を傷つけるためのネガティブ・キャンペーンの一環として[225]、このスキャンダルに関する4件の罪状でチャップリンを訴えた。これらの中で最も問題になったのが、性的目的で州を越えて女性を移動させることを禁じるマン法に違反したという申し立てである[注 10]。歴史家のオットー・フリードリックは、これを「時代遅れの法」による「馬鹿げた訴追」と呼んでいるが[228]、チャップリンが有罪となった場合は23年の懲役刑になる可能性があった[229]。他の3件の告発は法廷に持ち込むのに十分な証拠がなかったが、マン法違反の裁判は1944年3月21日に始まり[230]、2週間後の4月4日に無罪となった[226]。この事件はトップ級のニュースとして報道され、ニューズウィークは「1921年のロスコー・アーバックル事件の裁判以来の最大のスキャンダル」と呼んだ[229]。
キャロル・アンと名付けられたバリーの子供(1943年10月生)の父権認知の裁判は、1944年12月に開廷した[231]。原告側弁護士はチャップリンを不道徳であると強く非難し[232]、1945年4月の判決でチャップリンが父親であることが認定された。血液検査では「O型のチャップリンとA型のジョーンから、B型のキャロル・アンが生まれる可能性はない」と結論付けられていたが、裁判が行われたカリフォルニア州では、血液検査は裁判の証拠として認められなかった[226]。チャップリンは判決に従って、キャロル・アンが21歳になるまで養育費を支払うことになった[233]。この裁判でチャップリンは、FBIの影響を受けたメディアから過度な批判を受けた[234][235][228]。
この裁判でチャップリンが受けた打撃は大きかったが、そんな傷心の彼を慰めたのは4番目の妻であるウーナ・オニールだった[236]。1942年10月にチャップリンはタレントエージェントを介してウーナと初めて出会い、1943年6月16日に結婚した[237]。チャップリンは自伝で、ウーナとの出会いは「長きにわたるであろう私の最良の幸福のはじまり」と述べている[238]。しかし、二人が結婚したのはバリーが父権認知訴訟を起こしてから2週間後のことであり、それはチャップリンをめぐる論争を高めることになった[239]。チャップリンは亡くなるまでウーナと連れ添い、8人の子供をもうけた。その子供たちは上からジェラルディン(1944年7月生)、マイケル・ジョン(1946年3月生)、ジョゼフィン・ハンナ(1949年3月生)、ヴィクトリア(1951年5月生)、ユージン・アンソニー(1953年8月生)、ジェーン・セシル(1957年5月生)、アネット・エミリー(1959年12月生)、クリストファー・ジェイムズ(1962年7月生)である[240]。
『殺人狂時代』と共産主義の告発
チャップリンはバリーの裁判で「自分の創作意欲をひどく傷つけられた」と感じ、再び映画製作を始めるまでには時間がかかった[241]。チャップリンの新作は『殺人狂時代』で、フランスの失職した元銀行家ヴェルドゥが家族を養うために裕福な未亡人と結婚して殺害するという内容のブラックコメディである。このアイデアを思いついたきっかけは、1942年秋にオーソン・ウェルズがチャップリン主演でフランスの連続殺人犯アンリ・デジレ・ランドリューが主人公の映画を作りたいと提案したことだった[242][243]。チャップリンはこの申し出を断ったが、このアイデアがすばらしい喜劇になると考えた[244]。そこでウェルズに原案料として5000ドルを支払い、当時進めていた『影と実体』の企画を棚上げして、4年がかりで完成させた[243]。
チャップリンは『殺人狂時代』で再び政治的姿勢を主張し、資本主義や戦争における大量破壊兵器の使用を批判した[245][246]。そのため1947年4月に公開されると物議を醸した[247][248]。プレミア上映ではブーイングされ、ボイコットの呼びかけもあった[247][249]。この作品はアメリカで批評的にも興行的にも失敗した最初のチャップリン映画だったが、海外では高い成功を収め[250]、第20回アカデミー賞では脚本賞にノミネートされた[251]。チャップリンはこの作品に誇りを持っており、自伝では「『殺人狂時代』は自分の作品中でも最高の傑作、実によくできた作品だと信じている」と述べている[252]。
『殺人狂時代』に対する否定的反応は、チャップリンの公のイメージが変化した結果だった[253]。チャップリンはバリーとのスキャンダルの被害に加えて、政治的姿勢が共産主義的であると公に非難された[254][255]。チャップリンの政治活動は、第二次世界大戦中にソビエト連邦を支援するために第二戦線を開くことを呼びかける演説を行い、さまざまなアメリカの親ソ組織を支援した時に激化した[256]。また、ハンス・アイスラーやベルトルト・ブレヒトなどの共産主義者とされる著名人と交友があり、ロサンゼルスでソ連外交官が主催したレセプションにも出席した[257]。1940年代のアメリカの政治情勢では、そのような活動は「危険なほど進歩主義的で不道徳」と見なされた[232][258][259]。FBIはチャップリンの国外追放を考え、1947年に公式な調査を開始した[260][注 11]。
チャップリンは共産主義者であることを否定し、代わりに自分を「平和主義者」と呼んだが[263][264][265]、イデオロギーを抑圧する政府のやり方は自由権を侵害していて容認できないと主張した[266]。チャップリンはこの問題について沈黙を拒否し、共産党員の裁判と下院非米活動委員会の活動に公然と抗議した[267]。チャップリンの活動はマスコミで広く報道され、冷戦の恐れが高まるにつれて、チャップリンがアメリカ市民権を取らなかったことにも疑問が投げかけられ、国外追放を求める声も上がった[232][266][268][269]。例えば、1947年6月に非米活動委員会の委員であるジョーン・E・ランキン議員は、「チャップリンがハリウッドにいること自体が、アメリカの体制には有害なのです…今すぐ彼を国外追放処分にして追放すべきであります」と発言した[266]。同年9月、チャップリンは非米活動委員会から召喚状を受け取ったが、証言するために出頭されることはなかった[240][270][271]。
『ライムライト』とアメリカ追放
チャップリンは『殺人狂時代』の失敗後も政治的活動を続けたが[注 12]、次回作の『ライムライト』は忘れられたミュージック・ホールのコメディアンと若いバレリーナが主人公の作品で、政治的テーマからかけ離れていた。この作品はチャップリンの子供時代と両親の人生だけでなく、アメリカでの人気の喪失をほのめかしており、非常に自伝的なものになった[273][274][275]。出演者にはチャップリンの5人の子供や異父弟のウィーラー・ドライデンなどの家族が含まれていた[276]。チャップリンは3年間も脚本に取り組み、1951年11月に撮影を始めた[277]。チャップリンのパントマイムシーンの相手役にはバスター・キートンが出演したが、サイレント映画時代に人気を分けた二人が共演したのはこれ限りだった[278]。
チャップリンは『ライムライト』のワールド・プレミアを、作品の舞台となったロンドンで開催することに決めたが[279]、ロサンゼルスを去ればもう戻ってくることはないだろうと予感した[280]。1952年9月17日、チャップリンは家族とクイーン・エリザベスに乗船し、イギリスへ向けてニューヨークを出航した[240]。その2日後、アメリカ合衆国司法長官のジェームズ・P・マクグラネリーはチャップリンの再入国許可を取り消し、アメリカに戻るには政治的問題と道徳的行動に関する審問を受けなければならないと述べた[281]。マクグラネリーは「チャップリンを国外追放した根拠を明らかにすれば、チャップリン側の防御を助けることになる」と述べたが[282]、マーランドは1980年代に開示されたFBIの記録に基づき、アメリカ政府はチャップリンの再入国を阻止するための証拠を持っていなかったと結論付けた[281]。チャップリンは船上で再入国許可取り消しの知らせを受け取り、アメリカとの関係を断ち切ることに決めた。
あの不幸な国に再入国できるかどうかは、ほとんど問題ではなかった。できることなら答えたやりたかった―あんな憎しみに充ちた雰囲気からは、一刻でも早く解放されればされるほどうれしいことはない。アメリカから受けた侮辱と、もったいぶったその道徳面には飽き飽きだし、もうこの問題にはこりごりだ、と[283]。
チャップリンの全財産はアメリカに残っており、合衆国政府に何らかの口実で没収されるのを恐れたため、政府の決定について否定的なコメントをするのは避けた[284]。この事件はセンセーショナルに報道されたが[285]、チャップリンと『ライムライト』はヨーロッパで温かく受け入れられた[281]。アメリカではチャップリンに対する敵意が続き、『ライムライト』はいくつかの肯定的なレビューを受けたものの、大規模なボイコットにさらされた[286]。マーランドは、チャップリンの人気の「前例のない」レベルからの低下は、「アメリカのスターダムの歴史の中で最も劇的かもしれない」と述べている[287]。
ヨーロッパ時代:1953年~1977年
スイス移住と『ニューヨークの王様』
チャップリンは再入国許可が取り消されたあと、アメリカに戻ろうとはせず、代わりにウーナをロサンゼルスに送って、財産をヨーロッパに持ち出すという問題を解決させた[289]。チャップリン一家はスイスに移住することに決め、1953年1月にレマン湖近くにある村コルシエ=シュル=ヴヴェイにある、広さ14ヘクタールの邸宅マノワール・ド・バンに居を定めた[290][291]。同年3月にビバリーヒルズにある家とスタジオは売りに出され、4月にアメリカへの再入国許可証を放棄した。1955年にはユナイテッド・アーティスツの残りの株式を売却し、アメリカとの最後の仕事上の関係を断ち切った[292]。
1950年代もチャップリンは、世界平和評議会から国際平和賞を受賞したり、周恩来やニキータ・フルシチョフと会談したりするなど、物議を醸す人物であり続けた[292]。1954年にはヨーロッパでの最初の作品となる『ニューヨークの王様』の脚本執筆を始めた[293]。チャップリンは国を追われてアメリカに亡命した国王を演じ、自身が最近経験したことのいくつかを脚本に取り入れた。チャップリンの息子のマイケルは、両親がFBIの標的にされた少年役にキャスティングされ、チャップリンが演じた国王は共産主義の告発に直面するという設定だった[294]。また、チャップリンは非米活動委員会をパロディ化し、アメリカの消費主義や大画面映画なども攻撃した[295][296][297][298]。劇作家のジョン・オズボーンは、それを「チャップリンの映画の中で最も辛辣」で「公然たる個人的映画」と呼んだ[296]。1957年のインタビューで、チャップリンは自身の政治的姿勢について「政治に関しては、私はアナーキストだよ。政府や規則、束縛は嫌いだ…人間は自由であるべきだ」と発言した[299]。
チャップリンは『ニューヨークの王様』を作るために新しい製作会社アッティカを設立し、ロンドン郊外にあるシェパートン撮影所をスタジオに借用した[293]。チャップリンは今まで自分のスタジオで気心の知れたスタッフと映画を作っていたため、仲間がほとんどおらず、スケジュールにも縛られたイギリスでの撮影は困難な仕事となった。それは映画の完成度に大きな影響を及ぼした[296][300]。作品は1957年9月にロンドンで初公開され、さまざまな評価を受けたが、ヨーロッパではヒットした[298][301][302][303]。チャップリンはパリでの初公開時にアメリカの記者を追い出し、1973年までアメリカで上映しなかった[304][305]。
最後の作品と晩年
チャップリンはキャリアの最後の20年間で、過去の作品の所有権と配給権を確保し、それらを再公開するために音楽を付けて再編集することに精力を傾けた[306]。その最初の仕事として、チャップリンは『犬の生活』『担へ銃』『偽牧師』の3本をまとめて、1959年に『チャップリン・レヴュー』として再公開した[307]。この頃のアメリカでは政治的な雰囲気が変わり始め、世間の注目はチャップリンの政治的問題ではなく、再びチャップリン映画に向けられた[306]。1962年7月にニューヨーク・タイムズは、「いまだ忘れられていない小さな放浪者がアメリカの港に上陸するのを許したところで、この国が危険にさらされるとは思えない」と社説で述べた[308]。1963年11月にはニューヨークのプラザシアターで、『殺人狂時代』『ライムライト』を含むチャップリン映画の回顧上映が1年かけて行われ、アメリカの批評家から高い評価を受けた[309][310]。1964年9月、チャップリンは7年前から執筆していた『チャップリン自伝』を刊行した[311]。この自伝は初期の人生と私生活に焦点を当てており、映画のキャリアに関する情報が不足していると指摘されたが、世界的なベストセラーとなった[312][313]。
チャップリンは自伝の出版直後、1930年代にポーレット・ゴダードのために書いた脚本に基づくロマンティック・コメディ『伯爵夫人』の製作を始めた[314]。物語は豪華客船を舞台とし、マーロン・ブランドが乗客のアメリカ大使、ソフィア・ローレンが彼の部屋に隠れる密航者を演じた[314]。チャップリンが国際的な大スターを起用したのはこれが初めてで、自身はちょい役で出演するにとどめ、監督に徹した[315][316]。また、この作品ではチャプリン映画として初めてカラーフィルムとワイドスクリーンを導入した[315]。作品は1967年1月にユニバーサル・ピクチャーズの配給で公開されたが、否定的な批評が多く、興行的にも失敗した[317][318][319]。チャップリンは自身最後の映画となったこの作品の否定的反応に深く傷ついた[317]。
1960年代後半、チャップリンは軽微な脳卒中を起こし、そこからチャップリンの健康状態はゆっくりと低下し始めた[320]。それでも創作意欲が衰えることはなく、すぐに新しい映画の脚本『フリーク』に取りかかった。これは翼が生えた少女が主人公のドラマ仕立てのコメディで、娘のヴィクトリアを主演に想定していた[320]。しかし、チャップリンの健康状態の低下は映画化の実現を妨げた[321]。1970年代初頭、チャップリンは『キッド』『サーカス』などの自作を再公開することに専念した[322]。チャップリン映画を配給するためにブラック社が設立され、「ビバ・チャップリン」と題したリバイバル上映が各国で行われたが、これは日本だけの収益で元が取れた[322][323]。
1970年代、チャップリンはカンヌ国際映画祭特別賞やレジオンドヌール勲章など、その業績に対してさまざまな栄誉を受けるようになった[322]。1972年に映画芸術科学アカデミーは、チャップリンにアカデミー名誉賞を授与することに決めた。ロビンソンは、これで「アメリカも償いをする気になった」と述べている。最初チャップリンはこれを受けるのをためらったが、20年ぶりにアメリカに戻ることを決心した[322]。授賞式では、同賞の歴史の中で最長となる12分間のスタンディングオベーションを受け、チャップリンは「今世紀が生んだ芸術である映画の製作における計り知れない功績」を理由に名誉賞を受け取った[324][325]。チャップリンはその2年後に著した『映画のなかのわが人生』の中で、授賞式について「私はその温かな意思表示に感動したが、あの出来事にはなにがしかのアイロニーがあった」と述べている[326]。
チャップリンはまだ新しい映画のための企画を考えており、1974年には「アイデアが次々と頭の中に飛び込んでくるから」引退することはできないと語っていたが、1970年代半ばまでにチャップリンの健康状態はさらに低下した[327]。チャップリンは数回の脳卒中を起こし、やがて歩くこともできなくなった[328][327]。チャップリンの最後の仕事は、1976年に『巴里の女性』を再公開するためにスコアを付けて再編集する作業だった[327]。1975年にはチャップリンの人生についてのドキュメンタリー『放浪紳士チャーリー』に出演した[329]。同年3月、イギリス女王エリザベス2世よりナイトの称号を与えられた[330]。授与式には車椅子姿で登場し、座ったまま栄誉を受け取った[327][331]。
死去
1977年10月15日、チャップリンはスイスに居住してからの恒例行事だったヴヴェイのニー・サーカスの見物に出かけたが、それがチャップリンの最後の外出となった[327]。それ以降は絶えず看護が必要になるまでに健康状態が悪化した[332]。12月25日のクリスマスの早朝、チャップリンは自宅で睡眠中に脳卒中のため88歳で亡くなった[328][332]。その2日後にヴヴェイにあるアングリカン・チャーチの教会で、チャップリンの生前の希望による内輪の質素な葬儀が行われ、棺はコルシエ=シュル=ヴヴェイの墓地に埋葬された[333][334]。チャップリンが亡くなったあと、世界中の映画人が賛辞の言葉を寄せた。フランスのルネ・クレール監督は「彼は国と時代を超えた、映画の記念碑的存在だった。彼は文字どおりすべてのフィルムメイカーの励みだった」と述べた[333]。俳優のボブ・ホープは「私たちは、彼と同じ時代に生きることができて幸運だった」と述べた[335]。
1978年3月1日、チャップリンの棺は移民の失業者であるポーランド人のロマン・ヴォルダスとブルガリア人のガンチョ・ガネフにより掘り起こされ、墓から盗み出された。二人は自動車修理工場の開業資金を手に入れるために棺を盗み、ウーナに60万スイス・フランの身代金を要求したが、大規模な警察の作戦により逮捕された。5月、チャップリンの棺は墓地に近いノヴィーユ村の麦畑に埋められている状態で発見され、再発防止のため鉄筋コンクリートで周りを固めて同じ墓地に埋め戻された[333][336]。
作風
影響
最初にチャップリンに影響を与えたのは、芸人である母のハンナだった。ハンナはよく窓際に座って通行人の真似をして、幼少期のチャップリンを楽しませた。これを通してチャップリンは、手ぶりや表情で自分の感情を表現する方法と、人間を観察して掘り下げる方法を学んだ[337]。チャップリンはミュージック・ホールの舞台で活動し始めた頃、ダン・リーノなどのコメディアンの芸を間近で見て学んだ[338][339]。フレッド・カーノー劇団で過ごした日々は、俳優及び監督としてのチャップリンのキャリア形成に影響を与えた[340]。チャップリンはカーノーからギャグのテンポを変えることや、ドタバタにペーソスを混ぜることを学んだ[341]。映画業界からは、フランスの喜劇俳優マックス・ランデーの影響を受けており、チャップリンは彼の作品を賞賛した[342][343][344]。小さな放浪者の扮装とキャラクターは、浮浪者のキャラクターがよく演じられていたアメリカのヴォードヴィルの舞台に触発されたと考えられている[345]。
製作方法
チャップリンは自分の映画の製作方法についてほとんど話そうとはせず、もし作り方がわかってしまえば「魔法はすっかり消し飛んでしまう」と主張した[346]。また、1918年にチャップリンは業界のスパイが記者に化けて製作会議を盗み聞きしたという事件に遭遇し、それ以来映画製作において秘密主義を貫き、スタジオの訪問も禁じていた[110][347]。そのためチャップリンの生涯を通じて、その製作方法が知られることはほとんどなかったが[348]、没後に映画史家のケヴィン・ブラウンローとデイヴィッド・ギルにより研究が行われ、その調査結果が3部構成のテレビドキュメンタリー『知られざるチャップリン』(1983年)の中で紹介されて以来、チャップリンのユニークな製作方法が明らかになった[349][350]。
チャップリンは『独裁者』で会話付きの映画を作り始めるまで、決定稿の脚本を用意してから撮影を始めることがほとんどなかった[351]。初期作品の多くは「小さな放浪者が保養所に入る」や「小さな放浪者が質屋で働く」などの漠然としたアイデアから出発し、そこからセットを組み立て、俳優と協力してギャグを即興で作りながら、それぞれのシークエンスを順序通りに撮影した[349][352]。チャップリンは頭の中にあるアイデアをもとに、何度も撮り直しを行い、アイデアの破棄や変更を繰り返しながらストーリーを構築した[353][354]。そのためすでに完成したシーンがストーリーと矛盾していれば再撮影する必要が生じた[355][356]。『巴里の女性』以後は、準備されたプロットから撮影を始めたが[357]、デイヴィッド・ロビンソンによると、『モダン・タイムス』までの作品は「ストーリーが最終的に出来上がるまでに、アイデアは多くの変更と修正を経た」という[358]。
この方法で映画を作るということは、チャップリンが当時の他の映画監督よりも、映画を完成させるのにより長い時間を要したということを意味した[359]。チャップリンはアイデアが煮詰まると、インスピレーションを取り戻すまでスタジオを離れて撮影を休み、それが何日間も続くこともあった[360][361]。チャップリンの厳格な完璧主義は、撮影をさらに遅らせた[362][363]。友人のアイバー・モンタギューによると、チャップリンにとって「完璧以外に正しいものはない」という[364]。チャップリンは完璧な映像を作るため、同じシーンを何十回でも撮り直し、そのために膨大な長さのフィルムを使用したが、どれだけの費用と時間をかけても満足するシーンでなければ、何千フィートもの撮影フィルムをカットした[365][366]。『キッド』は完成作品が約5300フィートなのに対し、総撮影量は約27万9000フィートに及んだ[367]。
チャップリンは私生活が入り込む余地がないほど映画作りに没頭し[199][368]、晩年でさえも、ほかのすべてのことや人よりも優先して仕事にすべてをささげた[369]。そんなチャップリンは製作過程のすべてを自分でコントロールした[312]。他の俳優が演じる役も、自分が解釈した通りに演じることを求めた[315][370]。チャップリンはすべての映画を自分で編集し、数万フィートに及ぶ撮影フィルムを処理して、自分が求める完全な作品を完成させた[371]。こうした完全な独立性により、映画批評家のアンドリュー・サリスは、チャップリンを最初の作家主義的監督のひとりと見なした[372]。しかし、チャップリンには長年のカメラマンであるドナルド・トザロー[366]、マネージャーを務めたシドニー・チャップリン、常連俳優で助手のヘンリー・バーグマン、助監督のハリー・クロッカーやチャールズ・ライスナーなどの協力者がおり、その助けを借りながら映画作りを行った[373]。
スタイルとテーマ
チャップリンのコメディ・スタイルは、スラップスティック(ドタバタ)と広く定義されているが[374]、それは抑制された知的なものと見なされている[375]。映画史家のフィリップ・ケンプは、そのスタイルを「巧みでバレエのようにフィジカルなコメディと、よく考えられたシチュエーション・コメディ」を組み合わせたものと考えている[376]。チャップリンはギャグのテンポを遅くし、シーンからシーンへ素早く移動するのではなく、各シーンで可能な限りのギャグを使い尽くしてから次のシーンに移り、感情表現に重きを置く性格喜劇的なタッチにすることで、従来のスラップスティック・コメディとは異なるスタイルを見せた[58][377]。ロビンソンは、チャップリンのギャグは滑稽な出来事自体からではなく、それに対するチャップリンの態度から生み出されていると指摘している。例えば、小さな放浪者が木にぶつかる時、ユーモアは衝突そのものではなく、反射的に帽子をとり木に向かって詫びることから起きている[58]。チャップリンの伝記作家ダン・カミンは、チャップリンの他のコメディ・スタイルの重要な特徴として、「風変わりな癖」と「ドタバタの最中での真面目な行動」を指摘している[378]。
チャップリンのサイレント映画は通常、小さな放浪者が貧困の中で生活し、しばしば悲惨な目にあうが、必死に努力して紳士として見られるように振舞う姿が描かれている[379]。小さな放浪者はどんな困難に見舞われても、いつも親切で明るいままである[376][380]。大野裕之は、小さな放浪者には「イノセントな性格」があると指摘している[381]。小さな放浪者は権威的な存在に抵抗するが[382]、大野はこうした特徴から、チャップリンを社会的弱者や大衆を象徴する存在と見なし、そのために大衆観客の共感を得たと指摘している[381]。また、小さな放浪者は冒険や恋を夢見るが、現実で成就することはない[78][383]。いくつかの作品では、小さな放浪者が再び夢を求めて放浪し続けるために、背を向けて一人で去って行く姿がラストシーンで描かれている[383][380]。
ペーソスの導入は、チャップリン映画のよく知られた特徴である[384][385]。大野は、チャプリン映画の特色を「笑いだけでなく涙の要素も入れた物語」と指摘している[126]。ルービッシュは、チャップリン映画の感傷性を作る要素として「個人的な失敗、社会の狭窄、経済的損害」を特定している[386]。『担へ銃』『黄金狂時代』などでは、悲劇的な状況を題材にコメディを作っている[387]。このスタイルの原点となったのは、チャップリンが幼少時代に見た屠殺場から羊が逃げ出したエピソードである。チャップリンは羊が無茶苦茶に走り回り、通りが大騒ぎになる光景を見て笑ってばかりいたが、やがて羊が捕まり屠殺場に連れ戻されると、母に泣きながら「あの羊、みんな殺されるよ!」と訴えた。チャップリンはこのエピソードが喜劇と悲劇を結合する作風の基調になったと述べている[16]。
社会批評は、チャップリン映画の特徴的なテーマである[388]。チャップリンはキャリアの初期から社会的弱者を同情的に描き、貧しい人々の窮状を描いてきた[389]。また、『チャップリンの移民』では移民、『チャップリンの勇敢』では麻薬中毒、『キッド』では非摘出子を描くなど、社会的に物議を醸す題材を扱うこともあった[377]。その後、チャップリンは経済学に強い関心を持ち、その見解を公表する義務を感じるようになると[190]、映画に明白な政治的メッセージを取り入れ始めた[202]。『モダン・タイムス』では過酷な状況にある工場労働者を描き、『独裁者』ではヒトラーとムッソリーニをパロディ化し、ナショナリズムに反対する演説をラストシーンに挿入した。『殺人狂時代』では戦争と資本主義を批判し、『ニューヨークの王様』ではマッカーシズムを攻撃した[390]。
チャップリン映画のいくつかには、自伝的要素が取り入れられている。『キッド』は幼少時代に孤児院に送られた時のトラウマを反映していると考えられている[391]。『ライムライト』の主人公は舞台芸人だった両親の人生から多くの要素を取り入れており[392]、『ニューヨークの王様』はアメリカを追放された経験が関係している[296]。映画に登場するストーリート・シーンは、チャップリンが育ったロンドンのケニントンの街と類似している。チャップリンの伝記作家スティーヴン・M・ワイスマンは、チャップリンと精神病を患った母親との関係が、チャップリン映画に登場するヒロインと、彼女たちを救いたいという小さな放浪者の願望に反映されていると指摘している[391]。
映画史家のジェラルド・マストは、チャップリン映画の構造に関して、密接に順序付けられたストーリーではなく、同じテーマと設定で結び付けられたスケッチで構成されていると見なしている[393]。視覚的にはシンプルで、固定カメラで撮影したシーンが多く、その映像は舞台上で演じているように見えた[377][394][395]。『ライムライト』の美術監督ウジェーヌ・ルーリエによると、チャップリンは撮影時に芸術的な映像を作ることは考えず、カメラに俳優の演技を収めることを第一に考えていたという[396]。チャップリンは自伝で「単純なアプローチ、それが結局いちばんよい…特別な技法はただ演出のスピード感をなくすだけで、退屈で、しかも不愉快である。カメラ操作はもっぱら俳優の動きを楽にするような演出に基づいて決定される…カメラがのさばり出してはいけない」と述べている[397]。こうしたアプローチは、1940年代以降に時代遅れであると批判された[395][398][399]。映画学者のドナルド・マカフリーは、それはチャップリンがメディアとしての映画を完全に理解していなかったことを示していると考えているが[400]、カミンはチャップリンが「映画的なシーンを考案し、演出する才能」を持っていたら、スクリーン上で十分に笑わせることはできなかっただろうと述べている[401]。
音楽
チャップリンは子供の頃から音楽を学び、チェロやバイオリンを猛練習したり、ピアノで即興演奏をしたりした[174][402]。1916年にはチャップリン音楽会社を設立し、自分で作曲した3つの曲を出版した。1925年にも自作の曲を2つ出版し、エイブ・ライマンのオーケストラでレコーディングした[174]。そんなチャップリンはサイレント期から映画音楽の重要性を口にし[165]、『キッド』以降は伴奏音楽を指示したキューシートを付けて配給した[402]。トーキーが出現すると、チャップリンは『街の灯』からのすべての作品で、自ら映画音楽を作曲した[402]。1950年代以降にいくつかのサイレント映画を再公開した時も、自分で作曲した伴奏音楽を付けている[306]。
チャップリンは正式な音楽教育を受けていたわけではないため、楽譜を読むことができず、スコアを作る時はデイヴィッド・ラクシン、レイモンド・ラッシュ、エリック・ジェイムズなどのプロの作曲家の助けを必要とした。一部の批評家は、チャップリンの映画音楽の功績は一緒に働いた作曲家に与えられるべきだと主張したが、ラクシンはチャップリンの創造的な立場と作曲過程における大きな貢献を強調した[403]。チャップリンの作曲は、思いついたメロディをピアノで弾いたりハミングしたりして、それを作曲家が譜面に書き取るという形で進められ、満足するメロディになるまで何度もやり直しをした[404]。チャップリンは作曲家に自分が求めるものを正確に説明したが[403]、その際に「ここはワーグナー風でいこう」というように、作曲家の名前を挙げて表現することが多かった[404]。
チャップリンは自らの作曲作品から、3つの人気曲を生み出した。『モダン・タイムス』のために作曲した「スマイル」は、1954年に作詞家のジョン・ターナーとジェフリー・パーソンズにより歌詞が付けられ、ナット・キング・コールの歌唱でヒットした[405]。『ライムライト』のために作曲した「テリーのテーマ」は、ジミー・ヤングにより「エターナリー」のタイトルで広まった[406]。そして『伯爵夫人』のために作曲し、ペトゥラ・クラークが歌った劇中歌「This Is My Song」は、イギリスのシングルチャートで1位を獲得した[407]。また、チャップリンは1973年に再公開された『ライムライト』で、第45回アカデミー賞の作曲賞を受賞した[405][注 13]。
評価と影響
1998年にアンドリュー・サリスは、チャップリンを「おそらく映画が生み出した最も重要な芸術家であり、間違いなく優れたパフォーマーであり、そしておそらく最も普遍的なアイコンである」と呼んだ[409]。チャップリンは英国映画協会に「世界文化の中でそびえ立つ人物」と評され[410]、タイム誌の「20世紀の最も影響力のある100人」のリストに「何百万人もの人々に笑いをもたらし」「多かれ少なかれ世界的な名声を作り、映画を芸術に変えるのを助けた」として選出された[411]。1999年にアメリカン・フィルム・インスティチュートが発表した「映画スターベスト100」では、男優部門の10位に選ばれた[412]。
チャップリンが演じた小さな放浪者のイメージは、文化史の一部となっている[413]。サイモン・ルービッシュは、このキャラクターがチャップリンの映画を見たことがない人や、その映画が上映されていない地域でも認知されているとしている[414]。映画批評家のレオナルド・モルティンは、チャップリンの世界的影響に匹敵するコメディアンはいないと主張した[415]。映画批評家のリチャード・シッケルは、チャップリンの小さな放浪者の映画には、映画史上最も「説得力のある豊かなコメディ表現」があると述べている[416]。キャラクターに関するメモラビリアは、オークションで高値で落札されている。2006年にロサンゼルスで行われたオークションでは、衣装のひとつである山高帽と竹のステッキが14万ドルで落札された[417]。
映画監督として、チャップリンはパイオニアと見なされ、20世紀初頭の最も影響力のある監督のひとりと考えられている[409][413][418][419]。また、チャップリンはしばしば最初の映画の芸術家のひとりと認められている[420][421][422]。映画史家のマーク・カズンズは、チャップリンが「映画のイメージだけでなく、その社会学と文法も変えた」と指摘し、D・W・グリフィスがドラマの発展に貢献したのと同じくらいに、チャップリンがコメディの発展に重要な役割を果たしたと主張した[423]。チャップリンは長編コメディを普及させ、コメディの動きのペースを遅くし、そこに哀愁と繊細さを加えた最初の人物だった[424][425]。その作品はドタバタ劇に分類されているが、『巴里の女性』はエルンスト・ルビッチ監督の『結婚哲学』(1924年)に大きな影響を与え、ソフィスティケイテッド・コメディの創始に貢献した[139][426]。ロビンソンによると、この作品でのチャップリンの革新的スタイルは、すぐに当たり前な映画技法になったという[139]。チャップリンはユナイテッド・アーティスツの創設メンバーとして、映画産業の発展にも大きな役割を果たした。ジェラルド・マストは、この会社がMGMやパラマウントに匹敵する大企業にはならなかったが、監督が独自で映画を作るというアイデアは、時代を何年も先取っていたとしている[427]。
チャップリンの影響を受けた映画監督には、フェデリコ・フェリーニ(チャップリンを「一種のアダム、私たちのルーツとなる存在」と呼んだ)[335]、ジャック・タチ(「彼がいなかったら、私は映画を作ってはいなかった」と述べた)[335]、ルネ・クレール[333]、マイケル・パウエル[428]、ビリー・ワイルダー[429]、ヴィットリオ・デ・シーカ[430]、リチャード・アッテンボロー[431]がいる。ロシアの映画監督アンドレイ・タルコフスキーは、チャップリンを「疑いの余地なしに映画史を作った唯一の人物で、彼の映画は決して古くなることはない」と賞賛した[432]。また、チャップリンは後続のコメディアンにも影響を与えた。マルセル・マルソーはチャップリンを見てパントマイム・アーティストを志し[425]、インドの俳優ラージ・カプールは『放浪者』(1951年)などでチャップリンを元にした放浪者のキャラクターを演じた[429]。マーク・カズンズは、イタリアの喜劇俳優トトがチャップリンのコメディ・スタイルの影響を受けていると指摘した[429]。他の分野では、フィリックス・ザ・キャットやミッキー・マウスなどの漫画のキャラクター[433][434]、芸術運動のダダイスムに影響を与えた[435]。
レガシー
チャップリンが晩年の25年間を過ごした、スイスのコルシエ=シュル=ヴヴェイにある邸宅マノワール・ド・バンは、チャップリンの生涯と作品を展示する博物館「チャップリン・ワールド」に改装され、2016年4月にオープンした[436]。ヴヴェイの町はチャップリンに敬意を表して、1980年にその名前に因んだ庭園を開園し[437]、2011年には二つのビルにチャップリンを描いた大きな壁画を発表した[438]。ロンドンでは、1981年に彫刻家ジョン・ダブルディ作のチャップリンの銅像がレスター・スクウェアに設置された[437]。ロンドンやハンプシャー、ヨークシャーには、チャップリンを記念する9つのブルー・プラークが設置されている[439]。1960年代にチャップリンが家族と夏を過ごしたアイルランドのウォータービルでは、2011年からチャップリンの人生と仕事を称えるために「チャーリー・チャップリン・コメディ映画祭」を開催している[440]。
また、1981年にソビエト連邦の天文学者リュドミーラ・カラチキナが発見した小惑星(3623) Chaplinは、チャップリンに因んで命名された[441]。1980年代にIBMは、小さな放浪者のキャラクターをパーソナルコンピュータの広告で使用した[442]。2011年4月15日には、Googleがチャップリンの生誕122周年を祝してGoogle Doodleを作成し、多くの国のホームページに掲載した[443]。六大陸にわたる多くの国では、チャップリンを記念した郵便切手が発行された[444]。
チャップリンが遺した著作物や資料は、彼の子供たちがパリに設立したチャップリン・オフィス/チャップリン協会により管理されている[445][446]。この事務所は、1918年以降のほとんどの映画の著作権を保有するRoy Export SASと、チャップリンとキャラクターの名前やイメージに対する商標権を保有するBubbles Incorporated SAを代表している[447]。チャップリンの膨大な文書や写真などのアーカイブは、スイスのモントルー公文書館に保管されている[446]。1990年代後半にイタリアのフィルム・アーカイヴのチネテカ・ディ・ボローニャは「チャップリン・プロジェクト」を立ち上げ、チャップリン映画を復元したり、膨大なアーカイブをスキャンしてオンラインで公開したりした[448]。2002年には英国映画協会が「チャップリン研究財団」を設立し[449]、2005年7月に最初の「チャールズ・チャップリン国際会議」をロンドンで開催した[450]。
チャップリンと日本
受容
チャップリンが日本の映画雑誌で初めて紹介されたのは、『キネマ・レコード』の1914年7月号である。その記事でチャップリンは、特異な扮装と滑稽な歩き方から「変凹君(へんぺこくん)」と名付けられていた[452]。同年から日本でチャップリン映画が公開され、すぐに高い人気を集めるようになり、当時は酔いどれ役のイメージから「アルコール先生」という愛称で呼ばれた[452][453]。1916年から出演作は『チャップリンの~』の邦題で封切られ[453]、正月とお盆にはチャップリンを中心に短編喜劇を集めた「ニコニコ大会」という上映会が日本各地で始まり、人気を不動のものとした[454][455]。その人気ぶりに注目した映画会社の日活は、1917年に同社としては破格の金額でミューチュアル社と契約を結び、チャップリン映画の日本興行権を獲得した[456]。チャップリン映画を得意とする活動弁士も現れ、その中でも大蔵貢はチャップリンの扮装をして映画説明をしたことから「チャップリン弁士」と呼ばれた[455]。
笑いと涙を融合したチャップリン映画は、日本の大衆観客から人情喜劇として高い支持を受けた[457][458]。大野裕之は当時の封切チラシから、日本人がチャップリン映画の中に「情」や「悲しみ」の要素を多く見出していると指摘している[457]。それと同時にチャップリン映画の芸術性の高さも指摘され、インテリ層からも芸術家として支持された[457]。キネマ旬報ベスト・テンでは、1924年に『巴里の女性』が「芸術的に最も優れた映画」の1位に選ばれ、その後も『黄金狂時代』『殺人狂時代』『独裁者』が「外国映画ベスト・テン」の1位に選ばれた[459]。しかし、1920年代に左翼運動が高まる時代に入ると、社会風刺の強いチャップリンのイメージは変化し、危険なコメディアンという扱いを受けるようになった[460]。芥川龍之介はチャップリンを社会主義者と見なし、甘粕事件を引き合いに出して「もし社会主義者を迫害するとすれば、チャップリンもまた迫害しなければならない」と述べている[461]。
戦前に日本公開されたチャップリン映画は『モダン・タイムス』(1938年公開)が最後となり[462]、『独裁者』は完成当時に日独伊三国同盟を結んでいたため輸入されず、それから20年後の1960年に初公開されると大ヒットした[463]。1972年には東宝東和が「ビバ! チャップリン」と題したリバイバル上映を行い、若者を中心に高い支持を集めた[464]。没後もリバイバル上映が行われ、2003年には日本ヘラルド映画により「Love Chaplin! チャップリン映画祭」と題して代表作12本が上映され[449]、2012年には「チャップリン・ザ・ルーツ」と題して初期作品63本のデジタルリマスター版が上映された[465]。2006年には日本チャップリン協会が設立され、日本国内での上映会やシンポジウムなどの活動が行われている[466]。
チャップリンは日本の作品や人物にも影響を与えている。チャップリンの模倣者や翻案作品は、大正時代から数多く登場している。その最初は『成金』(1921年)で、主演の中島好洋は自らを「日本チャップリン」と称した[467]。日活の俳優の御子柴杜雄は、『娘やるなら学士様へ』『夢泥棒』(1926年)でチャップリンの扮装を真似した[451]。『キッド』は野村芳亭監督の『地獄船』(1922年)で翻案されたのをはじめ、『小さき者の楽園』(1924年)や『父』(1929年)など多くの影響作品を生み[468]、『街の灯』は木村錦花脚色で『蝙蝠の安さん』(1931年)として歌舞伎化された[469]。喜劇映画監督の斎藤寅次郎は、チャップリンをパロディ化した『チャップリンよなぜ泣くか』(1932年)を作り、主演の小倉繁は「和製チャップリン」と呼ばれた[470]。漫画家の手塚治虫とお笑い芸人の太田光は、チャップリン映画から影響を受けていることを明らかにしている[471][472]。また、漫才師の日本チャップリン・梅廼家ウグイス、声優の茶風林のように、チャップリンに因んだ芸名を付けた芸能人もいる[454][473]。
日本人の使用人
チャップリンは自宅の使用人に、何人もの日本人を雇い入れていた[474]。とくに知られているのが、1916年に運転手として雇われた高野虎市である。チャップリンは高野の誠実な仕事ぶりを評価し、やがて運転手だけでなく経理を含めた個人秘書の役割も任せるようになった[475][476]。高野に厚い信頼を寄せたチャップリンは、彼の仕事ぶりから日本人の使用人を好むようになり、何人もの日本人を次々に雇い入れた[474]。例えば、ハワイ出身の日系二世のフランク・ヨネモリやヒロサワ、運転手のヤマモトである[477]。1926年頃にはチャップリン家の使用人は全員日本人となり、当時の妻のリタ・グレイは「日本人のなかで暮らしているようだった」と回想している[475]。1934年に高野はポーレット・ゴダードと衝突したため辞任し、フランク・ヨネモリが秘書に昇格した[478]。しかし、1941年12月の真珠湾攻撃でアメリカが第二次世界大戦に参戦すると、日本人の使用人は強制収容所に収容された。そのためチャップリンは新たにイギリス人の使用人を雇い入れたが、日本人の迅速で能率的な仕事ぶりに慣れていたため、イギリス人の仕事ぶりはうんざりするほどのろく感じたという[479]。
4度の来日
チャップリンは小泉八雲の書物を読んで以来、日本に興味を持ち、生涯で4回来日した[480]。初来日したのは1932年5月であるが、この時にチャップリンは犬養毅首相が暗殺された五・一五事件に遭遇した[481]。首謀者の海軍青年将校は、当初チャップリンの暗殺も計画していた[481][482]。来日前の4月に青年将校は、チャップリンの入京翌日に首相官邸で歓迎会が行われることを新聞報道で知り、その歓迎会を襲撃する計画を立てた[481]。首謀者のひとりの古賀清志は、歓迎会を襲撃すれば「日米関係を困難にして人心の動揺をおこし、その後の革命進展を速やかにすることができる」と裁判で証言している[482]。彼らは5月15日を決行日にしたが、チャップリンが滞在先のシンガポールで熱病に罹り、少なくとも5月16日以降に日本に到着することが判明したため、チャップリンを襲撃する計画は流れた[481]。ところが、チャップリンは予定よりも早い5月14日に到着することになり、再び暗殺の標的に自ら飛び込む危険が生まれた[483]。
5月14日、チャップリンはシドニー夫妻と神戸港に到着し、数万人の人々に出迎えられた[484]。一行は東京に向かったが、東京駅では4万人もの群衆が押し寄せ、翌日に東京日日新聞はその混乱ぶりを「関東大震災当時の避難民の喧騒と怒号」のようだと報じた[485]。チャップリンは宿泊先の帝国ホテルに向かう途中、同行した高野に頼まれて皇居に遥拝した。これは軍国主義が台頭していた日本で、チャップリンの身の安全を守るために高野が考えた演出だった[486]。翌5月15日、チャップリンは当日に行われる首相官邸での歓迎会に出席することを承諾したが、突然予定を延期して両国国技館で相撲見物に出かけた。その夕方に犬養は首相官邸で暗殺され、チャップリンは事なきを得た[481]。チャップリンは身の危険を感じて帰国することも考えたが、結局6月2日まで日本に滞在した[487]。日本の伝統文化を好んだチャップリンは、歌舞伎や人形浄瑠璃などの古典芸能を鑑賞したり、上野の美術館で浮世絵を楽しんだりして過ごした[488]。また、チャップリンは滞在中に何度も天ぷらを食し、一度に海老の天ぷらを30本も平らげたため、新聞では「天ぷら男」とあだ名された[488][489]。チャップリンは初来日の感想について、自伝で「もちろん日本の思い出が、すべて怪事件と不安ばかりだったわけではない。むしろ全体としては、非常に楽しかったと言ってよい」と述べている[490]。
1936年3月6日、チャップリンはゴダードとアジア旅行の途中、乗船したクーリッジ号が神戸港に停泊した一日半を利用して再来日した[491]。その後、2ヶ月半ほどアジア諸国を旅行したあと、5月16日に三度目の来日を果たし、京都観光や岐阜の鵜飼を見物したりして6日間滞在した[492]。1961年7月にはウーナと息子のマイケルを連れて、最後の来日を果たした[493]。美しい日本の姿を求めていたチャップリンは、高度経済成長で近代化された東京の風景に失望し、再び鵜飼を鑑賞した時も、その大きく変化した光景に落胆した[493][494]。しかし、京都を訪れると、古き良き日本の風景が残っているのを見て安心し、宿泊先から雨が降る東山の景色を見て「浮世絵のようだ」と感嘆したり、龍安寺ではお茶を点てる女性の動きを見て「まるでバレエだ」と表現したりして楽しんだ[493]。京都見物の途中に銭湯に急遽立ち寄った時には、居合わせた人々にビールを振舞った[495]。
フィルモグラフィー
チャップリンが出演・監督した公式映画は82本存在するが、それ以外にも未完成及び未公開の作品、再編集して公開された作品、カメオ出演した他監督の作品がある。2020年時点でアメリカ国立フィルム登録簿には、『ヴェニスの子供自動車競走』(1914年)、『チャップリンの移民』(1917年)、『キッド』(1921年)、『黄金狂時代』(1925年)、『街の灯』(1931年)、『モダン・タイムス』(1936年)、『独裁者』(1940年)の7本の公式映画と、カメオ出演したキング・ヴィダー監督の『活動役者』(1928年)が登録されている[496]。
監督した長編映画
- キッド(1921年)
- 巴里の女性(1923年)
- 黄金狂時代(1925年)
- サーカス(1928年)
- 街の灯(1931年)
- モダン・タイムス(1936年)
- 独裁者(1940年)
- 殺人狂時代(1947年)
- ライムライト(1952年)
- ニューヨークの王様(1957年)
- 伯爵夫人(1967年)
受賞
チャップリンは生涯に多くの賞と栄誉を受けた。1962年にオックスフォード大学とダラム大学から名誉博士号を与えられ、1965年にはイングマール・ベルイマンとともにエラスムス賞を受賞した[497]。1971年にはフランス政府からレジオンドヌール勲章のコマンドゥールの称号を授けられ[322]、1975年にはエリザベス2世から大英帝国勲章のナイト・コマンダー(KBE)の称号を与えられた[330]。映画業界からは、1971年の第25回カンヌ国際映画祭でチャップリンの全作品に対して特別賞が贈られ[322]、1972年のヴェネツィア国際映画祭では栄誉金獅子賞を受賞した[326]。同年にリンカーン・センター映画協会から生涯功労賞を受賞し、同賞はそれ以来「チャップリン賞」の名称で毎年映画人に贈られている[498]。また、1972年にハリウッド・ウォーク・オブ・フェームで星を獲得したが、それまではチャップリンの政治的問題のために除外されていた[499]。
以下の表は、チャップリンが受賞した、もしくはノミネートされた映画賞(作品自体に与えられた賞を含む)の一覧である。
賞 | 年 | 部門 | 作品名 | 結果 | 出典 |
---|---|---|---|---|---|
アカデミー賞 | 1929年 | 名誉賞 | 『サーカス』 | 受賞 | [162] |
1941年 | 作品賞 | 『独裁者』 | ノミネート | [221] | |
主演男優賞 | ノミネート | ||||
脚本賞 | ノミネート | ||||
1948年 | 脚本賞 | 『殺人狂時代』 | ノミネート | [251] | |
1972年 | 名誉賞 | - | 受賞 | [322] | |
1973年 | 作曲賞 | 『ライムライト』 | 受賞 | [405] | |
ニューヨーク映画批評家協会賞 | 1940年 | 主演男優賞 | 『独裁者』 | 受賞 | [500] |
1952年 | 監督賞 | 『ライムライト』 | ノミネート | [501] | |
主演男優賞 | ノミネート | ||||
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 | 1940年 | 演技賞 | 『独裁者』 | 受賞 | [501] |
1947年 | 作品賞 | 『殺人狂時代』 | 受賞 | [502] | |
ボディル賞 | 1949年 | アメリカ映画賞 | 『殺人狂時代』 | 受賞 | [503] |
1959年 | 名誉賞 | - | 受賞 | [504] | |
ブルーリボン賞 | 1952年 | 外国映画賞 | 『殺人狂時代』 | 受賞 | [505] |
英国アカデミー賞 | 1953年 | 総合作品賞 | 『ライムライト』 | ノミネート | [506] |
1976年 | アカデミー友愛賞 | - | 受賞 | [507] | |
ナストロ・ダルジェント賞 | 1953年 | 外国監督賞 | 『ライムライト』 | 受賞 | [501] |
全米監督協会賞 | 1974年 | 名誉終身会員賞 | - | 受賞 | [508] |
家族
- 父:チャールズ・チャップリン・シニア(1863年 - 1901年、舞台俳優)
- 母:ハンナ・チャップリン(1865年 - 1928年、舞台女優)
- 異父兄:シドニー・チャップリン(1885年 - 1965年、俳優)
- 異父弟:ウィーラー・ドライデン(1892年 - 1957年、俳優)
- 最初の妻:ミルドレッド・ハリス(1918年 - 1920年、女優)
- 長男:ノーマン・スペンサー・チャップリン(1919年、生後3日で死去)
- 2番目の妻:リタ・グレイ(1924年 - 1928年、女優)
- 次男:チャールズ・チャップリン・ジュニア(1925年 - 1968年、俳優)
- 三男:シドニー・アール・チャップリン(1926年 - 2009年、俳優)
- 3番目の妻:ポーレット・ゴダード(1936年 - 1942年、女優)
- 4番目の妻:ウーナ・オニール(1925年 - 1991年、ユージン・オニールの娘)
- 長女:ジェラルディン・チャップリン(1944年 - 、女優)
- 孫:ウーナ・チャップリン(1986年 - 、女優)
- 四男:マイケル・チャップリン(1946年3月 - 、俳優)
- 孫:ドロレス・チャップリン(1970年 - 、女優)
- 孫:カルメン・チャップリン(1972年 - 、女優)
- 次女:ジョゼフィン・チャップリン(1949年 - 、女優)
- 三女:ヴィクトリア・チャップリン(1951年 - 、女優)
- 孫:ジェームス・ティエレ(1974年 - 、俳優)
- 五男:ユージン・アンソニー・チャップリン(1953年 - 、レコーディング・エンジニア)
- 孫:キエラ・チャップリン(1982年 - 、モデル)
- 四女:ジェーン・セシル・チャップリン(1957年 - )
- 五女:アネット・エミリー・チャップリン(1959年 - )
- 六男:クリストファー・チャップリン (1962年 - 、作曲家・俳優)
- 長女:ジェラルディン・チャップリン(1944年 - 、女優)
チャップリンを題材にした作品
- 映画『チャーリー』(1993年、リチャード・アッテンボロー監督) - チャップリンの生涯を描いた伝記映画で、ロバート・ダウニー・Jrがチャップリンを演じた[509]。
- 映画『ブロンドと柩の謎』(2001年、ピーター・ボグダノヴィッチ監督) - エディー・イザードがチャップリンを演じた[510]。
- 舞台『Limelight: The Story of Chaplin』(2006年発表・2010年初演、トーマス・ミーハン、クリストファー・カーティス作) - チャップリンの人生に基づくミュージカル[511]。2012年にブロードウェイで『Chaplin: The Musical』のタイトルで上演[512]。
- テレビアニメ『チャップリン&CO』(2011年、フランス3) - チャップリンの小さな放浪者が主人公のCGアニメーションシリーズ[513]。
- 映画『ダンシング・チャップリン』(2011年、周防正行監督) - フランスの振付師ローラン・プティによる、チャップリンを題材にしたバレエの舞台を映像化した作品[514]。
- 映画『チャップリンからの贈りもの』(2014年、グザヴィエ・ボーヴォワ監督) - チャップリンの遺体が誘拐された実話をもとに、その犯人を主人公にしたフィクション作品[515]。
ドキュメンタリー作品
- 『放浪紳士チャーリー』(1975年、リチャード・パターソン監督) - ヴヴェイの自宅で撮影されたシーンを含む[516]。
- 『知られざるチャップリン』(1982年、ケヴィン・ブラウンロー、デイヴィッド・ギル監督)[350]
- 『チャーリー・チャップリン ライフ・アンド・アート』(2003年、リチャード・シッケル監督) - ウディ・アレンやジョニー・デップなどのインタビュー映像を含む[517]。
- 『Charlie Chaplin: The Forgotten Years』(2003年、フェリス・ゼノーニ監督)[518]
- 『Chaplin, la légende du siècle』(2014年、フレデリック・マーティン監督)- フランスのテレビドキュメンタリー[519]。
著書
- 『僕の旅』高瀬毅訳、中央公論社、1930年。
- 『チャップリン自伝』中野好夫訳、新潮社、1966年。
- 文庫化『チャップリン自伝〈上〉 若き日々』『チャップリン自伝〈下〉 栄光の日々』中野好夫訳、新潮文庫、1981年(上)・1992年(下)。
- 新訳版『チャップリン自伝 若き日々』『チャップリン自伝 栄光と波瀾の日々』中里京子訳、新潮文庫、2017年。
- チャールズ・チャップリン、デイヴィッド・ロビンソン『小説ライムライト チャップリンの映画世界』上岡伸雄、南條竹則訳、集英社、2017年。
脚注
注釈
- ^ シドニーの父親の身元は確かではないが、ホークスという金持ちの出版業者であるとされている[4]。
- ^ チャップリンがエイト・ランカシア・ラッズを退団した正確な時期ははっきりとしていないが、映画史家のA.J.マリオットは調査に基づいて、その時期を1900年12月としている[20]。
- ^ ウィリアム・ジレットは、シャーロック・ホームズの舞台をアーサー・コナン・ドイルと共作し、1899年の初演以来ホームズを演じていた。1905年にジレットは新作喜劇『クラリス』をデューク・オブ・ヨーク劇場で上演したが不評で、急遽『苦境に立つシャーロック・ホームズ』を公演に追加し、チャップリンはこの作品でビリー役に抜擢された。公演は失敗したため数日で終了し、『シャーロック・ホームズ』の再演に引き継がれると、チャップリンも引き続きビリー役を演じた[31]。
- ^ このアメリカ巡業には、のちにローレル&ハーディで知られるスタン・ローレルが「スタン・ジェファソン」の芸名で参加していた[44]。
- ^ キーストン社がチャップリンを見出した経緯は諸説ある。マック・セネットによると、ニューヨークの劇場で『イギリス・ミュージックホールの一夜』に出演したチャップリンを見て、彼を引き入れるようケッセルに頼んだという[47]。チャップリンも自伝でこの話を採用している[48]。これ以外の説では、ケッセルがニューヨークの劇場で発見したという説や、ニューヨーク映画会社重役のハリー・エイトキンが発見したという説がある[49]。
- ^ チャップリンが持っている竹のステッキは、当時の特徴的な紳士用品だった。19世紀半ばから20世紀初頭のイギリス紳士の間では、ステッキの材質に竹や籐を使うのがポピュラーで、特にしなやかで丈夫な日本製の竹が流行した[56]。チャップリンが使用したステッキは、滋賀県草津市産の竹根鞭細工で、これはイギリスでも広く普及したものだった[57]。
- ^ イギリス大使館はチャップリンの主張を裏書きするように、「チャップリンはその気になりさえすればいつでも志願兵になることはできる。しかし、彼は現在、大金を稼いで戦時公債に出資することで前線で戦うのと同じほど国家のために尽くしている」と述べている[96]。
- ^ 主なチャップリンの模倣者には、ビリー・ウェストやビリー・リッチーがいる。リッチーは自分が放浪者の扮装の考案者だと主張し、チャップリンに対して訴訟を起こしたことで知られる[100]。ハロルド・ロイドもチャップリンを模倣したロンサム・リュークなる人物を演じていた[101]。
- ^ 1910年代に名声を得た頃から、チャップリンはユダヤ人であるという憶測が広まったが、それを示す証拠は存在しない[211]。大野によると、公的な記録に基づいて、父母双方の家系を4代遡ってもユダヤ人はいないが、母方の祖母がロマであるという[212]。1915年にチャップリンは、記者の「あなたはユダヤ人か」という質問に対し、「残念ながらそんな幸運には恵まれていない」と答えている。しかし、ナチスはチャップリンがユダヤ人であると思い込んでいたため、『黄金狂時代』の国内上映を禁止し、チャップリンを攻撃した。チャップリンは『独裁者』でユダヤ人を演じることでこれに反撃し、「私は世界中のユダヤ人のためにこの映画を作った」と発言した[211]。しかし、自伝では「もしあのナチス収容所の実態を知っていたら、『独裁者』はできていなかったかもしれないし、ナチどもの殺人狂を笑いものにする勇気も出なかったかもしれない」と述べている[210]。
- ^ 検察官は、チャップリンが1942年10月にニューヨークに行った時に、性的目的でバリーをロサンゼルスからニューヨークへ移動させ、彼女にニューヨークまでの旅費を支払ったことが、マン法に違反していると主張した。二人はニューヨークで会ったことは認めたが、バリーはそこで性的関係を結んだと主張した[226]。チャップリンは1942年5月以降に関係を持ったことはないと主張した[227]。
- ^ チャップリンは1940年代以前からFBIに注目されており、報告書で最初に言及されたのは1922年だった。1946年9月にFBI長官のジョン・エドガー・フーヴァーは、チャップリンに関する特別な報告書の作成を要求したが、FBIロサンゼルス支局の反応は遅く、翌年春に活発な調査を始めた[260]。FBIはチャップリンがイギリス人ではなくフランスまたは東ヨーロッパで生まれ、本名がイズレイル・ゾーンシュタインであるという誤った申し立てを調査するためMI5に協力を求めたが、MI5はそのような証拠を発見できなかった[261][262]。
- ^ 1947年11月、チャップリンはパブロ・ピカソに、ハンス・アイスラーの国外追放に抗議するためのデモをパリのアメリカ大使館前で行うよう要請し、12月に国外追放手続きの中止を求める請願書に署名した。チャップリンは1948年アメリカ合衆国大統領選挙でヘンリー・A・ウォレスを支持し、1949年に起きたピークスキル暴動に抗議する請願書に署名した[272]。
- ^ 『ライムライト』は1952年に公開されたが、ロサンゼルスではボイコットのため1週間以上公開されなかったため、1972年に再公開されるまでアカデミー賞のノミネート基準を満たしていなかった[408]。
出典
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