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オワイン・グリンドゥール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オワイン・グリンドゥール
Owain Glyndŵr
プリンス・オブ・ウェールズ
在位 1401-c.1416
先代 Owain Lawgoch
配偶者 Margaret Hanmer
称号 プリンス・オブ・ウェールズ
グリンドブルドゥイ英語版
カンライス・オワイン (Cynllaith Owain) 卿
家名 マスラファル家英語版
父親 Gruffydd Fychan II
母親 エレン・ファーハ・トマス・アプ・リウェリン
出生 c. 1349
死亡 c. 1416
宗教 カトリック教会
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オワイン・グリンドゥールウェールズ語: Owain Glyndŵr (ウェールズ語発音: [ˈoʊain ɡlɨ̞nˈduːr])、Owain Glyn Dŵr、1349年ないし1359年ころ – 1415年ころ)は、ウェールズ人としては最後にプリンス・オブ・ウェールズ(ウェールズ公:ウェールズ語: Tywysog Cymru)と称した、ウェールズの統治者。イングランドによるウェールズ支配に抵抗する、強烈かつ長期にわたる反乱を煽動し続けたが、結局のところその試みは失敗に終わった[1]

日本語における表記は多様であり、オワイン・グリンドゥール[2]のほかに、オウエン・グリンドウ[3]オウェイン・グリルダウル[4]オーウェン・グリンドゥール[5]などが見られる。

概要

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グリンドゥールは、父グリフィズ・フィハン2世英語版を通して、ポーイス王国英語版の王家の血と、ポーイス・ファドッグ英語版の領主 (Tywysog)、グリンドブルドゥイ英語版卿を受け継いでおり、母エレン・ファーハ・トマス・アプ・リウェリン (Elen ferch Tomas ap Llywelyn) を通してデハイバース英語版の領地や称号も受け継いでいた。

1400年9月16日、グリンドゥールは、イングランド王ヘンリー4世の支配に対してグリンドゥールの反乱を起こした。当初、この蜂起は相当にうまく行き、たちまちウェールズのかなり広範囲を支配下に収めるまでになったが、決定的な諸々の弱点、特に、反乱側に大砲がないことで防御を固めた城塞の奪取が困難なこと、艦船を保有していないことで海岸線の防御が脆弱なこと、を抱えていた。蜂起は結局のところ、物量に優るイングランド勢によって圧倒された。グリンドゥールは、1409年に最後の拠点からも追い落とされたが捕縛は免れ、彼を目撃したとする記録は1412年を最後に途絶えた。グリンドゥールは、敵方の新王ヘンリー5世が示した恩赦の意向を、2度にわたって無視し、莫大な報酬まで用意されたにもかかわらず、ウェールズを裏切ってイングランド側に帰順することはなかった。1415年には、かつての配下が、グリンドゥールの死を記録した。

グリンドゥールは、ウィリアム・シェイクスピアの史劇『ヘンリー四世 第1部』において、英語化された綴りのオウエン・グレンダワー (Owen Glendower) という名で、魔術と感情に支配された野蛮でエキゾティックな人物として登場する[6]

その死によって、オワイン・グリンドゥールは、民衆を解放するために呼び返されることを待ち続ける英雄として、カドワラドル英語版、カナン (Cynan)、アーサー王に並ぶ、神話的存在となった[7]。19世紀後半には、カムリ・ファズ英語版(若きウェールズ)運動が、ウェールズのナショナリズム英語版の父としてのグリンドゥール像を再創出した。

結婚と家族

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オワインは若いうちに、デヴィッド・ハンマー (Sir David Hanmer、1332年-1387年) (英語版) の娘でウェールズ語名マレド・ベルッフ・ダヴィズ (Marred ferch Dafydd) として知られているマーガレット・ハンマー (Margaret Hanmer、1370年-1420年) (英語版) と結婚した[8]

オワインの娘のアリス (Alys ferch Owain Glyndŵr) (英語版) は、王によりヘレフォードシャーのシェリフ (Sheriff) (英語版) に任命されていたジョン・スキューダモア (John Scudamore) (英語版) と秘密裏に結婚していた。どういうわけか彼は反乱を乗り越え、役職を維持していた。オワインは最後はケントチャーチ (Kentchurch) (英語版) の彼らの家に匿われていたと言われている。スキューダモアの孫はキッドウェリー (Kidwelly) (英語版) のジョン・ダン卿 (Sir John Donne、1420年代-1503年) (英語版) で、成功したヨーク朝の廷臣 (courtier) (英語版)外交官兵士だった。彼は1485年以降、彼と同じウェールズ人のヘンリー7世と和解した。ダン家を通じて、多くの有名なイギリスの家系がオワインの子孫となり、その中にはオックスフォード伯爵位を保有するド・ヴィアー家や、デヴォンシャー公爵位を持つキャベンディッシュ家 (House of Cavendish) (英語版) などが含まれる。

ヤコブ・ユード・ウィリアム・ロイド (Jacob Youde William Lloyd、1816年-1887年) [注 1] によると、オワインとマーガレットは5人の息子と4人[8]:211、あるいは5人[8]:199 の娘をもうけた。

5人目の娘カトリン (Catrin ferch Owain Glyndŵr、1413年没) (英語版) は、ロイドの著作には名前を書かれていないが、他の文献には記録されている。彼女は第3代マーチ伯エドマンド・モーティマーの息子、エドマンド・モーティマー卿 (Edmund Mortimer、1376年-1409年) と結婚した。

オワインの息子たちは皆捕虜になったか、あるいは戦死しており、誰も子供はいなかった。オワインにはその他に非嫡出子として、デヴィッド、グウェンシリアン (Gwenllian) 、レイアン (Ieuan) (英語版) 、ミヴァンウィー (Myfanwy) がいた[8]

注釈

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  1. ^ ヤコブ・ユード・ウィリアム・ロイド (英語版)イギリス人聖公会聖職者で歴史研究家。

脚注

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  1. ^ "Owain Glyn Dwr (c.1354 – c.1416)", Historic Figures, bbc.co.uk
  2. ^ 吉賀憲夫. “第24回------映画『ウェールズの山』のモーガンとジョーンズ師 (2)”. ウェールズ日本人会. 2015年5月17日閲覧。
  3. ^ 吉賀憲夫. “ウェールズ小史”. 吉賀憲夫. 2015年5月17日閲覧。
  4. ^ 1月15日”. ウェールズ歴史研究会 (2015年1月15日). 2015年5月17日閲覧。
  5. ^ ヨーロッパの歴史風景 中世編 西暦1400年、イギリスのウェールズでオーウェン・グリンドゥールの反乱が始まった。”. ウェールズ歴史研究会 (2015年1月15日). 2015年5月17日閲覧。
  6. ^ "at my nativity, The front of heaven was full of fiery shapes, Of burning cressets, and at my birth The frame and huge foundation of the earth Shaked like a coward." — Henry IV, Part 1, Act 3, scene 1
  7. ^ Encyclopaedia of Wales 2008 p.635
  8. ^ a b c d Lloyd, J (1881).The History of the Princes, the Lords Marcher, and the Ancient Nobility of Powys Fadog . 1. London: T. Richards. pp. 199, 211–219. 2016年8月9日閲覧
  9. ^ BBC wales history Owain Glyndwr 2016年8月9日閲覧

参考文献

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  • J.E. Lloyd, Owen Glendower, 1931 classic.
  • R. Rees Davies, The Revolt of Owain Glyn Dŵr (1995) Oxford University Press ISBN 0-19-285336-8
  • Geoffrey Hodge, Owain Glyn Dwr: The War of Independence in the Welsh Borders (1995) Logaston Press ISBN 1-873827-24-5
  • Burke's Peerage & Baronetage, 106th Edition, Charles Mosley Editor-in-Chief, 1999. pp. 714, 1295
  • Jon Latimer, Deception in War, (2001), John Murray, pp. 12–13.
  • A. G. Bradley, Owen Glyndwr and the Last Struggle for Welsh Independence. (1901) G. P. PUTNAM’S SONS

外部リンク

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先代
Owain Lawgoch
Titular Prince of Wales
1400-c.1416
次代
(空位)