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'''岡野 敬次郎'''(おかの けいじろう、[[1865年]][[11月9日]]([[慶応]]元年[[9月21日 (旧暦)|9月21日]]) - [[1925年]]([[大正]]14年)[[12月23日]])は、[[日本]]の[[官僚]]、[[政治家]]、[[法学者]]、[[男爵]]。[[法制局長官]](第11代、第13代、第15代)[[司法大臣]](第25代)、[[農商務大臣]](第33代)、[[文部大臣]](第41代)、第9代[[枢密院副議長]]、[[東京帝国大学法学部]][[教授]]、[[中央大学]][[学長]]を務めた。 |
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2020年12月30日 (水) 09:07時点における版
岡野 敬次郎(おかの けいじろう、1865年11月9日(慶応元年9月21日) - 1925年(大正14年)12月23日)は、日本の官僚、政治家、法学者、男爵。法制局長官(第11代、第13代、第15代)司法大臣(第25代)、農商務大臣(第33代)、文部大臣(第41代)、第9代枢密院副議長、東京帝国大学法学部教授、中央大学学長を務めた。
来歴
上野国生まれ。共立学校、第一高等中学校等を経て、帝国大学法科大学(のちの東京帝国大学)を卒業した後、同大学大学院に進学。法学博士となり、教授に就任する。同時に政府に入り、農商務省官房長、内閣恩給局長、高等捕獲審検所評定官を歴任。1906年、第1次西園寺内閣で法制局長官に就任。1908年4月21日、宮中顧問官を兼任[1]。同年12月28日に貴族院勅選議員となる[2]。1911年、第2次西園寺内閣で再び内閣法制局長官に就任。1913年、第1次山本内閣で三度内閣法制局長官に就任。同年6月9日、宮中顧問官を辞任[3]。1922年、加藤友三郎内閣で司法大臣に就任し初入閣。1923年、第2次山本内閣で文部大臣兼農商務大臣として二度目の入閣を果たした。1925年10月に枢密院副議長に就任し、男爵を授けられたがその年の暮れに没した。
著述
- 『法学士 岡野敬次郎講義 英国保険法』。東京専門学校(1896年)、NDLJP:792795。
- 『法学士 岡野敬次郎講義 会社法』。中央大学(1906年)、NDLJP:792817。
- 『故 法学士 岡野敬次郎著 会社法』。岡野奨学会(1929年)、NDLJP:1442407。
- 文部大臣・法学博士岡野敬次郎『国際教育の必要』。国際連盟協会(1923年)『我国の震災に対する諸外国の同情と震災に関する諸名士の所感』、NDLJP:976936/6。
親族
栄典
- 位階
- 1891年(明治24年)7月6日 - 従七位[5]
- 1896年(明治29年)1月20日 - 正七位[5]
- 1898年(明治31年)
- 1906年(明治39年)1月31日 - 従四位[5][8]
- 1911年(明治44年)2月10日 - 正四位[5][9]
- 1914年(大正3年)4月20日 - 従三位[5][10]
- 1919年(大正8年)5月10日 - 正三位[5][11]
- 1925年(大正14年)12月23日 - 従二位[5][12]
- 勲章
- 1898年(明治31年)6月29日 - 勲四等旭日小綬章・金杯一組[5]
- 1903年(明治36年)5月21日 - 金杯一組[5][13]
- 1905年(明治38年)6月24日 - 勲三等瑞宝章[5][14]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 明治三十七八年従軍記章[5]
- 1907年(明治40年)2月21日 - 勲二等旭日重光章[5]
- 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[5]
- 1913年(大正2年)12月27日 - 勲一等瑞宝章[5]
- 1914年(大正3年)3月24日 - 旭日大綬章[5][15]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[5][16]
- 1916年(大正5年)1月19日 - 金杯一個[5]
- 1919年(大正8年)
- 1920年(大正9年)11月15日 - 金杯一個[5]
- 1924年(大正13年)5月31日 - 金杯一組[5][17]
- 1925年(大正14年)
脚注
- ^ 『官報』第7443号、明治41年4月22日。
- ^ 『官報』第7654号、明治41年12月29日。
- ^ 『官報』第258号、大正2年6月10日。
- ^ 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 「岡野敬次郎」 アジア歴史資料センター Ref.A06051175900
- ^ 『官報』第4401号「叙任及辞令」1898年3月8日。
- ^ 『官報』第4448号「叙任及辞令」1898年5月2日。
- ^ 『官報』第6774号「叙任及辞令」1906年2月1日。
- ^ 『官報』第8290号「叙任及辞令」1911年2月13日。
- ^ 『官報』第516号「叙任及辞令」1914年4月21日。
- ^ 『官報』第2029号「叙任及辞令」1919年5月12日。
- ^ a b 『官報』第4001号、1925年12月24日。
- ^ 『官報』第5964号「叙任及辞令」1903年5月22日。
- ^ 『官報』第6595号「叙任及辞令」1905年6月26日。
- ^ 『官報』第498号「叙任及辞令」1914年3月30日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第3533号「叙任及辞令」1924年6月4日。
- ^ 『官報』第3998号「叙任及辞令」1925年12月21日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。※岡崎敬次郎と誤記
外部リンク
公職 | ||
---|---|---|
先代 穂積陳重 |
枢密院副議長 第9代:1925年 |
次代 倉富勇三郎 |
先代 穂積陳重 |
臨時法制審議会総裁 1925年 |
次代 倉富勇三郎 |
先代 犬養毅 |
航空評議会会長 1923年 - 1924年 |
次代 江木千之 |
先代 (新設) |
教育評議会会長 1921年 - 1922年 |
次代 鎌田栄吉 |
先代 山脇玄 |
行政裁判所長官 第6代:1913年 - 1922年 |
次代 窪田静太郎 |
学職 | ||
先代 馬場愿治 学長事務取扱 |
中央大学長 1924年 - 1925年 |
次代 馬場愿治 学長事務取扱 |
先代 奥田義人 |
中央大学長 1917年 - 1923年 |
次代 馬場愿治 学長事務取扱 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 岡野(敬次郎)家初代 1925年 |
次代 岡野節 |