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大石正巳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大石正巳 『明治人物評論』より

大石 正巳(おおいし まさみ、正しくは「まさき」、安政2年4月11日1855年5月26日) - 昭和10年(1935年7月12日)は、日本政治家衆議院議員農商務大臣などを務めた。土佐国高知県)出身。

来歴・人物

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高知藩士・大石良則の次男として生まれる。明治7年(1874年)に板垣退助立志社に参加し、自由民権運動に従事。明治14年(1881年自由党幹事。三菱商業学校明治義塾)卒業。明治15年(1882年)板垣の洋行に反対して離党。明治20年(1887年)には後藤象二郎大同団結運動に参加。明治25年(1892年朝鮮駐在弁理公使となる。明治29年(1896年進歩党結成に参加。明治31年(1898年憲政党結成創立委員。第1次大隈重信内閣農商務大臣として入閣。憲政党分裂後は憲政本党立憲国民党に参加。明治44年(1911年)には犬養毅河野広中と並んで不在の党首にかわる常務委員となる。大正2年(1913年)、犬養との確執から桂太郎新党である立憲同志会に参加。準備段階から参画し、桂総裁の下で後藤新平、河野広中、大浦兼武加藤高明と並んで総務5人の一人となった。大正4年(1915年)政界引退。衆議院議員当選6回。

万朝報姦通スキャンダルを書き立てられたことがある。万朝報で人気を博した黒岩涙香の「弊風一斑蓄妾の実例」には「農相大石正巳が一個の色道餓鬼たることは彼れが姦通事件の露見以来世人のあまねく知る所」とまで書かれている。墓所は青山霊園

家族

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栄典

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位階
勲章等

脚注

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  1. ^ 大石正巳『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  2. ^ 大石明徳『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  3. ^ 大石正巳『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  4. ^ 『官報』第4504号「叙任及辞令」1898年7月6日。
  5. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。

外部リンク

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先代
金子堅太郎
農商務大臣
1898年
次代
曾禰荒助