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|前職 = [[時事新報社]]取締役<br/>南米拓殖取締役<br/>[[昭和シェル石油|早川石油]]専務取締役<br/>[[東京農業大学]]学長 |
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|称号・勲章 = [[勲一等旭日大綬章]](1975年) |
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|親族(政治家) = |
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2020年12月26日 (土) 10:35時点における版
千葉 三郎 ちば さぶろう | |
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生年月日 | 1894年1月25日 |
出生地 | 日本 千葉県 |
没年月日 | 1979年11月29日(85歳没) |
死没地 | メキシコシティ |
出身校 |
東京帝国大学(現・東京大学) プリンストン大学 |
前職 |
時事新報社取締役 南米拓殖取締役 早川石油専務取締役 東京農業大学学長 |
所属政党 |
(実業同志会→) (無所属→) (民主党→) (国民民主党→) (改進党→) (日本民主党→) 自由民主党 |
称号 | 勲一等旭日大綬章(1975年) |
第9代 労働大臣 | |
内閣 | 第1次鳩山一郎内閣 |
在任期間 | 1954年12月10日 - 1955年3月19日 |
公選初代 宮城県知事 | |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1945年11月3日 - 1948年12月27日 |
衆議院議員(2期目) | |
選挙区 |
(宮城県第1区→) 千葉県第3区 |
当選回数 | 10回 |
在任期間 | 1949年1月24日 - 1976年12月9日 |
選挙区 | 千葉県第3区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1925年 - 1930年1月21日 |
千葉 三郎(ちば さぶろう、1894年1月25日 – 1979年11月29日[1])は、大正-昭和期の政治家。
来歴・人物
1894年(明治27年)、千葉県に生まれた。錦城中学、一高を経て、1919年(大正8年)東京帝国大学仏法科を卒業後、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)に入社するも、ほどなくして退職し、米国プリンストン大学に留学、石油業を学んだ。同大大学院を修了し、1922年(大正11年)に帰国。
帰国後は当時の鐘紡社長・武藤山治の片腕となり、大日本実業組合連合会理事に就任した[2]。1925年(大正14年)、旧千葉2区における衆議院補欠選挙に、武藤が会長を務める実業同志会から立候補、初当選した。1928年(昭和3年)に再選され、戦前・戦後を合わせて通算12回当選した。
1932年(昭和7年)、政界を離れて 時事新報社重役に就任、芦田均、津田信吾、石山賢吉らと親交を持った[2]。1932年(昭和7年)、武藤が社長を務めていた「南米拓殖会社」に取締役として入社、ブラジル・アマゾン開拓事業に従事した。1934年(昭和9年)には、早川石油(後の昭和シェル石油)専務になり、1938年(昭和13年)には日本油化工業を設立して人造石油の開発に着手、1943年(昭和18年)には日本硫鉄社長に就任するなど一貫して石油・エネルギー関連事業に従事[2]。そのかたわら昭和産業の引きで、一時期昭和傘下の相模鉄道社長(1939年 - 1941年[3])を務めている。
1945年(昭和20年)5月、工業技術院次長に就任したが、終戦直後に辞任した。千葉は同年9月、当時の内閣総理大臣・東久邇宮稔彦王に建白書を提出、国家再建政策を示すとともに、「地方自治に有能な人材を廻すべき」、「私の如きも千葉県知事なら勤まります」と自薦した[2]。同年10月には、幣原内閣の内務大臣・堀切善次郎より、「米軍部隊が多く駐留しているため、米国留学や海外視察の経験があり、英語のできる知事が必要」との理由から宮城県知事への就任を要請され、同年11月3日に仙台市に着任した[2]。就任後の施政方針演説において千葉は、「自主能動の民主的経営」と「民間公開主義」という所信を表明した[2]。また、このとき秘書課長兼調査課長に据えるために連れて行ったのが、後に法務大臣となる後藤正夫であった。1947年(昭和22年)、初の知事公選が実施されたが当選し、1948年(昭和23年)12月まで宮城県知事職に留まった。
1949年(昭和24年)、第24回衆議院議員総選挙旧宮城1区にて民主党から立候補し当選した。翌1950年、民主党幹事長となった。次の1952年総選挙からは選挙区を出身地の旧千葉3区に移し、1954年(昭和29年)に組閣された第1次鳩山内閣には労働大臣として入閣した。1955年(昭和30年)の保守合同により自由民主党結成に参加。
保守合同後は岸信介派-福田赳夫派に所属した。1956年(昭和31年)には産業計画会議委員(議長・松永安左ヱ門)に就任。労働大臣退任後は1955年(昭和30年)から1959年(昭和34年)まで東京農業大学の学長も務め、また当時の鐘紡社長・武藤絲治(武藤山治の次男)に請われ、1965年(昭和40年)から1974年(昭和49年)まで鐘紡の監査役を務めた。1960年には青木一男・木村篤太郎らとともに右派議員グループ「素心会」を結成し、代表世話人となるなど、自民党タカ派議員のリーダーとなり、改憲、自主防衛力の増強、戦後教育の刷新などを熱心に主張し続けた[2]。また、治安対策特別委員会の委員長を務め、治安の確立にも腐心した[2]。
1976年(昭和51年)に石橋一弥に地盤を譲って政界を引退した後は、ブラジルに燃料アルコールの原料となる熱帯イモ「マンジョカ」の栽培地をつくる計画に熱中したが、1979年(昭和54年)11月29日、メキシコシティにて客死した。
栄典
エピソード
千葉市長の荒木和成の差止めにより頓挫していた新東京国際空港(現・成田国際空港)への航空燃料輸送用パイプラインについて、「千葉県の発展に寄与するところ大な空港建設に反対するとは、もってのほか。保守が圧倒的に強い千葉3区にパイプラインを通せ」と、木更津-東金-成田のルートを提案したが、距離があまりにも遠大であるため実現しなかった[6]。
脚注
- ^ “千葉三郎(ちば さぶろう)とは”. コトバンク. 2019年2月17日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 1946年の市長公選運動(3) 功刀俊洋、福島大学行政社会学会 『行政社会論集』 1996年7月31日
- ^ 相模鉄道の概要
- ^ “旧・勲一等瑞宝章受章者一覧”. 中野文庫. 2020年9月28日閲覧。
- ^ “旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧”. 中野文庫. 2020年9月28日閲覧。
- ^ 佐藤文生 (1978). はるかなる三里塚. 講談社. p. 164
名誉職 | ||
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先代 益谷秀次 |
最年長衆議院議員 1972年 - 1976年 |
次代 船田中 |