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竹原樸一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
竹原樸一
たけはら ぼくいち
生年月日 1852年6月1日
出生地 日本の旗 日本 紀伊国牟婁郡鵜殿村
(現三重県南牟婁郡紀宝町)
没年月日 (1930-06-19) 1930年6月19日(78歳没)
出身校 大阪開成所
(現京都大学)
所属政党 (自由党→)
(憲政党→)
立憲政友会

選挙区 三重県第9選挙区
当選回数 1回
在任期間 1924年5月 - 1928年1月21日


在任期間 1882年 - 1924年

南牟婁郡会議員

鵜殿村会議員
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竹原 樸一(たけはら ぼくいち、1852年6月1日(嘉永5年4月14日[1])- 1930年昭和5年)6月19日[2][3][4][5])は、明治から昭和初期の政治家衆議院議員三重県南牟婁郡鵜殿村長。

経歴

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紀伊国牟婁郡鵜殿村(三重県[2]南牟婁郡宇和野村鵜殿村[1][5][6]を経て現紀宝町鵜殿)で、竹原季右衛門の二男として生まれ、1873年(明治6年)に家督を相続した[7]大阪開成所で学んだ[2][3][4]

鵜殿村会議員、南牟婁郡会議員、三重県会議員(1882年-1924年)を務め[1][2][3][4][5][6]、鵜殿村長には30余年在任した[4][5]。一貫して立憲政友会に所属して政治活動を行った[1][6]。1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙で三重県第9区から立憲政友会所属で出馬して、南為太郎との接戦を制して当選し[3][8]、衆議院議員に1期在任した[2][3][4]。この間、政友会協議員、同三重県支部長などを務めた[5]

また、紀勢鉄道(紀勢本線)の敷設に奥野市次郎山口熊野、遊木保太郎らと共に尽力した[5]

国政選挙歴

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脚注

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  1. ^ a b c d 『三重県紳士録 前編』479頁。
  2. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』389頁。
  3. ^ a b c d e 『日本政治史に残る三重県選出国会議員』113-114頁。
  4. ^ a b c d e 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』278頁。
  5. ^ a b c d e f 『立憲政友会功労者追遠録』223-224頁。
  6. ^ a b c 『新代議士名鑑』278頁。
  7. ^ 『人事興信録 第7版』た157頁。
  8. ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 第15回』15頁。
  9. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』25頁。
  10. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』85頁。
  11. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』14頁。

参考文献

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  • 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
  • 服部英雄編『三重県紳士録 前編』三重県紳士録編纂会、1916年。
  • 加藤紫泉『新代議士名鑑』国民教育会、1924年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第15回』衆議院事務局、1926年。
  • 青野権右衛門編『立憲政友会功労者追遠録』安久社、1933年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 廣新二『日本政治史に残る三重県選出国会議員』廣新二、1985年。
  • 衆議院参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。