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「オードリー・ヘプバーン」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
死去の項目で、クリスマスのために家に帰ったのに、そのことが全く書かれていないので、死去の欄を強化。その他細かい訂正。
ノートに書かれていたドイツ語に関して。ユニセフの事務局長の言葉がありましたので、出典のページ数も添えて、ドイツ語を復活させます。また、日本の『スクリーン』での表記もありましたので、それも脚注として加えておきました。
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}}</ref>。このテレビ番組で、ヘプバーンは死後に1993年のエミー賞の情報番組個人業績賞 ({{lang|en|Outstanding Individual Achievement – Informational Programming}}) を受賞した<ref name=":6" />。
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1992年5月には2つの録音を行なっている。1つは[[ラロ・シフリン]]が指揮をする[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]の『[[動物の謝肉祭]]』で<ref name=":4" />、ヘプバーンは「鳥」のナレーターをつとめた<ref>バリー・パリスは、「マ・メール・ロワ組曲」を使った『オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語』と、『動物の謝肉祭』を同じCDだと思って書いているが、実際は別物であり、アマゾンなどではそれぞれのCDが発売されている。</ref>。もう1本の1992年に発売された子供向け昔話を朗読したアルバム『オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語』 ([[:en:Audrey Hepburn's Enchanted Tales]]) では、[[グラミー賞]]の「最優秀児童向け朗読アルバム賞」を受賞した<ref name=":6" />。ヘプバーンはグラミー賞とエミー賞をその死後に獲得した、数少ない人物の一人となっている。
1992年5月には2つの録音を行なっている。1つは[[ラロ・シフリン]]が指揮をする[[カミーユ・サン=サーンス|サン=サーンス]]の『[[動物の謝肉祭]]』で<ref name=":4" />、ヘプバーンは「鳥」のナレーターをつとめた<ref name=":6" /><ref>バリー・パリスは、「マ・メール・ロワ組曲」を使った『オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語』と、『動物の謝肉祭』を同じCDだと思って書いているが、実際は別物であり、アマゾンなどではそれぞれのCDが発売されている。</ref>。もう1本の1992年に発売された子供向け昔話を朗読したアルバム『オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語』 ([[:en:Audrey Hepburn's Enchanted Tales]]) では、[[グラミー賞]]の「最優秀児童向け朗読アルバム賞」を受賞した<ref name=":6" />。ヘプバーンはグラミー賞とエミー賞をその死後に獲得した、数少ない人物の一人となっている。


== ユニセフ親善大使 ==
== ユニセフ親善大使 ==
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マカオと東京での成功後、続々と各国のユニセフからの依頼が舞い込み<ref name=":4" /><ref name=":6" />、1988年3月9日に[[ユニセフ親善大使の一覧|ユニセフ親善大使]]の依頼を引き受けることとなった<ref name=":6" /><ref name=":7" /><ref name=":1" /><ref>バリー・パリスの伝記や、ユニセフのサイトなどで1989年になっているものがあるが、''『the audrey hepburn treasures』では1988年3月8日付のユニセフの辞令が添付されており、1988年4月22日発行の国連のパスポートには既に「ユニセフ親善大使」と書いてある''(''『the audrey hepburn treasures』『母、オードリーのこと』'')''。''</ref>。「私は全人生をこの仕事のためにリハーサルしてきて、ついに役を得たのよ」と言っている<ref name=":11" /><ref name=":6" />。
マカオと東京での成功後、続々と各国のユニセフからの依頼が舞い込み<ref name=":4" /><ref name=":6" />、1988年3月9日に[[ユニセフ親善大使の一覧|ユニセフ親善大使]]の依頼を引き受けることとなった<ref name=":6" /><ref name=":7" /><ref name=":1" /><ref>バリー・パリスの伝記や、ユニセフのサイトなどで1989年になっているものがあるが、''『the audrey hepburn treasures』では1988年3月8日付のユニセフの辞令が添付されており、1988年4月22日発行の国連のパスポートには既に「ユニセフ親善大使」と書いてある''(''『the audrey hepburn treasures』『母、オードリーのこと』'')''。''</ref>。「私は全人生をこの仕事のためにリハーサルしてきて、ついに役を得たのよ」と言っている<ref name=":11" /><ref name=":6" />。


第二次世界大戦後にユニセフの前身の [[UNRRA]]に助けてもらい、その後女優として大きな成功をおさめることができたという経験から、ヘプバーンは残りの人生を最貧困国の恵まれない子供たちへの支援活動に充てることを決めたのである。ヘプバーンは多くの国々を訪れているが、言葉の面で苦労したことはほとんどなかった。ヘプバーンは母国英語とオランダ語を、さらにフランス語、イタリア語、スペイン語の5ヶ国語を流暢操ることがでためである<ref>Paris 1996, p.91</ref><ref>{{cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=X2xdJiExvUk |title=Audrey Hepburn Speaking 5 languages|work=Youtube |accessdate=2017-12-14}}</ref>。
第二次世界大戦後にユニセフの前身の [[UNRRA]]に助けてもらい、その後女優として大きな成功をおさめることができたという経験から、ヘプバーンは残りの人生を最貧困国の恵まれない子供たちへの支援活動に充てることを決めたのである。ヘプバーンは多くの国々を訪れているが、言葉の面で苦労したことはほとんどなかった。東京のコンサートで初めて会って、後にヘプバーンの親友および世話役になる、ユニセフのジュネーヴ事務局の責任者クリスタ・ロート<ref name=":4" />「オードリーが持つ天性の才能で自分の仕事に生かしたものに学がありまた。(英語の他も)フランス語、イタリア語、ドイツ語を話しますし、スペイン語も少々。オランダは当然です。ユニセフの活動スポットで緊急流さないいけないとき、すぐその場でオードリーどの主要言語もアナウンスを流してくれまし」と語っている<ref>{{Cite book|title=『オードリー リアル・ストーリー』p362|date=2003年1月20日|year=|publisher=株式会社アルファベータ|author=アレグザンダー・ウォーカー}}</ref><ref>1963年5月15日発行.近代映画社刊.『スクリーン臨時増刊 オードリー・ヘプバーン特別号』p63でも、「オードリーは英語、フランス語、オランダ語をしゃべり、ドイツ語、イタリー語もわかる」と書かれている。</ref><ref>1998年5月4日発行.集英社.バリー・パリス『オードリー・ヘプバーン』上巻p194では、1953年ごろの宣伝係の質問に対してヘプバーンは「七ヶ国語をよどみなく話します」と答えていることになっている。言語の種類は不明。</ref><ref>{{cite web |url=https://www.youtube.com/watch?v=X2xdJiExvUk |title=Audrey Hepburn Speaking 5 languages|work=Youtube |accessdate=2017-12-14}}</ref>。


ヘプバーンのユニセフでの本格的な活動は、[[ユニセフ親善大使の一覧|ユニセフ親善大使]]の任命の発表から2週間と経たない1988年3月の[[エチオピア]]への訪問が最初だった<ref name=":4" /><ref name=":7" />。当時のエチオピアは軍事クーデターで大統領となった独裁者[[メンギスツ・ハイレ・マリアム]]と、反政府組織が内戦を繰り広げており、100万人を超える難民で疲弊しきった国だった。このエチオピアでヘプバーンは、ユニセフが食糧支援を行餓死寸前の子供たち500人を収容していたメケレ ([[:en:Mek'ele]]) の孤児院を慰問した<ref name=":7" /><ref name=":4" />。このエチオピア訪問でヘプバーンは「とても悲しく、絶望感すら覚えました。200万以上の人々が餓死寸前の危機にあり、その多くは子供たちなのです。エチオピアに食料がないわけではなく、分配できないだけです。エチオピアでは内戦が続いており、支援活動を行っていた赤十字とユニセフの職員は北部都市から避難するように勧告を受けました。私は反政府の地域へ赴き、そこで食料を求めて10日もあるいは3週間も歩き続ける母子を目にしました。床が砂でむき出しとなっているその場しのぎの難民キャンプで、人々は死を待つしかないのです。恐ろしいことです。耐えられません。「[[第三世界]]」という言葉が私は嫌いです。我々はともに一つの世界に暮らしているのです。人道上、非常な苦難に直面している多くの人々がいるのだということを世界中が認識してほしいと願っています」と語った<ref>
ヘプバーンのユニセフでの本格的な活動は、[[ユニセフ親善大使の一覧|ユニセフ親善大使]]の任命の発表から2週間と経たない1988年3月の[[エチオピア]]への訪問が最初だった<ref name=":4" /><ref name=":7" />。当時のエチオピアは軍事クーデターで大統領となった独裁者[[メンギスツ・ハイレ・マリアム]]と、反政府組織が内戦を繰り広げており、100万人を超える難民で疲弊しきった国だった。このエチオピアでヘプバーンは、ユニセフが食糧支援を行餓死寸前の子供たち500人を収容していたメケレ ([[:en:Mek'ele]]) の孤児院を慰問した<ref name=":7" /><ref name=":4" />。このエチオピア訪問でヘプバーンは「とても悲しく、絶望感すら覚えました。200万以上の人々が餓死寸前の危機にあり、その多くは子供たちなのです。エチオピアに食料がないわけではなく、分配できないだけです。エチオピアでは内戦が続いており、支援活動を行っていた赤十字とユニセフの職員は北部都市から避難するように勧告を受けました。私は反政府の地域へ赴き、そこで食料を求めて10日もあるいは3週間も歩き続ける母子を目にしました。床が砂でむき出しとなっているその場しのぎの難民キャンプで、人々は死を待つしかないのです。恐ろしいことです。耐えられません。「[[第三世界]]」という言葉が私は嫌いです。我々はともに一つの世界に暮らしているのです。人道上、非常な苦難に直面している多くの人々がいるのだということを世界中が認識してほしいと願っています」と語った<ref>

2019年9月22日 (日) 15:55時点における版

Audrey Hepburn
オードリー・ヘプバーン
オードリー・ヘプバーン
ローマの休日』(1953年)予告編より
本名 オードリー・キャスリーン・ヘプバーン=ラストン(: Audrey Kathleen Hepburn-Ruston
生年月日 (1929-05-04) 1929年5月4日
没年月日 (1993-01-20) 1993年1月20日(63歳没)
出生地 ベルギーの旗 ベルギーブリュッセルイクセル
死没地 スイスの旗 スイスヴォー州
国籍 イギリスの旗 イギリス
身長 170cm
職業 女優
ジャンル 映画
活動期間 1948年 - 1989年(女優)
配偶者 メル・ファーラー (1954年 - 1968)
アンドレア・ドッティ (1969年 - 1982)
著名な家族

ショーン・ヘプバーン・ファーラー (1960年生)
ルカ・ドッティ (1970年生)

エマ・ファーラー(1994年生、孫)
公式サイト www.audreyhepburn.com
主な作品
ローマの休日
ティファニーで朝食を
マイ・フェア・レディ
受賞
アカデミー賞
主演女優賞
1953年ローマの休日
ジーン・ハーショルト友愛賞
1992年Outstanding Contributions to Humanitarian Causes
ニューヨーク映画批評家協会賞
主演女優賞
1953年ローマの休日
1959年尼僧物語
AFI賞
映画スターベスト100
1998年(女優部門第3位)
英国アカデミー賞
主演英国女優賞
1953年『ローマの休日
1959年『尼僧物語
1964年『シャレード
アカデミー友愛賞
1991年
エミー賞
情報番組個人業績賞
1993年『オードリー・ヘプバーンの庭園紀行』
グラミー賞
児童向け朗読アルバム賞
1994年『オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語』
ゴールデングローブ賞
主演女優賞 (ドラマ部門)
1953年ローマの休日
セシル・B・デミル賞
1989年
全米映画俳優組合賞
生涯功労賞
1992年
トニー賞
最優秀演劇女優賞
1954年『オンディーヌ』
特別賞
1968年
その他の賞

ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞
最優秀外国語主演女優賞
1960年『尼僧物語』
1962年『ティファニーで朝食を』
1965年『マイ・フェア・レディ』
サン・セバスティアン映画祭
最優秀主演女優賞
1959年『尼僧物語』
ゴールデン・ローレル賞
最優秀女性コメディ演技賞

1958年『昼下りの情事』
備考

AFI(米国映画協会)の「最も偉大な女優50選」では第3位。

同協会の2002年選出で「最も愛すべきラブストーリー・映画ベスト100本」にも、第4位『ローマの休日』、第12位『マイ・フェア・レディ』、第54位『麗しのサブリナ』、第57位『いつも2人で』、第61位『ティファニーで朝食を』。
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ヘプバーンのサイン

オードリー・ヘプバーン: Audrey Hepburn1929年5月4日 - 1993年1月20日)は、イギリス人で、アメリカ合衆国で活動した女優。日本ではヘップバーンと表記されることも多い。ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびにファッション界のアイコンとして知られる。アメリカン・フィルム・インスティチュート (AFI) の「最も偉大な女優50選」では第3位にランクインしており、インターナショナル・ベスト・ドレッサーにも殿堂入りしている。

ヘプバーンはブリュッセルイクセルで生まれ、幼少期をベルギーイングランドで過ごした。オランダにも在住した経験があり、第二次世界大戦中にはドイツ軍が占領していたオランダアーネムに住んでいたこともあった。古い資料の一部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものがある。これは、戦時中にドイツ軍占領下にあったオランダで、「オードリー」という名があまりにイギリス風であることを心配した母エラが、自らの証明書の1つに手を加えて(EllaEddaとした)持たせた偽名である[1]。5歳ごろからバレエを初め、アムステルダムではソニア・ガスケル (en:Sonia Gaskell) のもとでバレエを習い、1948年にはマリー・ランバートにバレエを学ぶためにロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に立った経験がある。

イギリスで数本の映画に出演した後に、1951年のブロードウェイ舞台作品『ジジ』(en:Gigi (1951 play)) で主役を演じ、1953年には『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得した。その後も『麗しのサブリナ』(1954年)、『尼僧物語』(1959年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『暗くなるまで待って』(1967年)などの人気作、話題作に出演している。女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞英国アカデミー賞を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品である『オンディーヌ』(en:Ondine (play)) でトニー賞を受賞している。さらにヘプバーンは死後にグラミー賞エミー賞も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっている。

ヘプバーンの女優業は年齢と共に減っていき、後半生のほとんどを国際連合児童基金(ユニセフ)での仕事に捧げた。ユニセフ親善大使として1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。1992年終わりにはアメリカ合衆国における文民への最高勲章である大統領自由勲章を授与された。この大統領自由勲章受勲一カ月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で虫垂癌のために63歳で死去した[2][3][4]

前半生

ヘプバーンは、1929年5月4日にベルギーの首都ブリュッセルイクセルに生まれ、オードリー・キャスリーン・ラストンと名付けられた[1]

父親はオーストリア・ハンガリー帝国ボヘミアのウジツェ出身のジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ラストン(1889年 - 1980年)である[5][6][7]。ジョゼフの母親はオーストリア系のアンナ・ユリアナ・フランツィスカ・カロリーナ・ラストンで[8]、父親はイギリス、オーストリア系のヴィクター・ジョン・ジョージ・ラストンだった[9]。ジョゼフはヘプバーンの母エラと再婚する以前に、オランダ領東インドで知り合ったオランダ人女性コルネリア・ウィルへルミナ・ビスコプと結婚していたことがある[10]。ジョゼフはヘプバーンの各伝記によって銀行家など、色々な職業にされていることがあるが、実際には一度もまともに職業に就いたことはない[1][5]。ただし、趣味は一流で、13ヶ国語を話せた[1]

ヘプバーンの母エラ・ファン・ヘームストラ(1900年 - 1984年)はフリース人の血を引く、バロネスの称号を持つオランダ貴族だった[10]。エラの父親は男爵アールノート・ファン・ヘームストラ (en:Aarnoud van Heemstra) で、1910年から1920年にかけてアーネム市長を、1921年から1928年にかけてスリナム総督を務めた政治家である[5][11]。エラの母親のエルブリフ・ヘンリエッテもオランダ貴族の出身だった[11]。エラは19歳のときに、ナイト爵位を持つヘンドリク・グスターフ・アドルフ・クアレス・ファン・ユフォルトと結婚したが、1925年に離婚している[5]。エラとヘンドリクの間には、ヘプバーンの異父兄のアールノート・ロベルト・アレクサンデル・クアレス・ファン・ユフォルト(1920年 - 1979年)と、イアン・エドハル・ブルーセ・クアレス・ファン・ユフォルト(1924年 - 2010年)の二人の男子が生まれている[6][5][10]

ジョゼフとエラは、1926年9月にジャカルタで結婚式を挙げた。その後二人はベルギーのイクセルへ戻り、1929年にオードリー・ヘプバーンが生まれた。さらに一家は1932年1月にリンケベーク (en:Linkebeek) へと移住している[12][5]。ヘプバーンはベルギーで生まれたが、父ジョゼフの家系を通じてイギリス国籍も持っており[10]母の実家はオランダであるため、一家はこの三カ国を頻繁に行き来していた。このような生い立ちもあって、ヘプバーンは英語、オランダ語、フランス語、スペイン語、イタリア語を身につけるようになった。

結婚後、家系図マニアだったエラはジョゼフの祖父(ヘプバーンの曾祖父)ジョン・ジョゼフ・ラストンの妻にイザベラ・ヘプバーン(スコットランド女王メアリの三番目の夫である第4代ボスウェル伯ジェームズ・ヘプバーンの末裔[9] )がいるのを発見し[13][14]、それを機にヘプバーン=ラストンを公式に使用するようになった[13][15]。そのためオードリーの戸籍上でもヘプバーンが足されることになった[1]。1948年英国大使館にて発行されたヘプバーンの身分証明には“オードリー・ヘプバーン=ラストン”と書かれており[1][13]、1982年以降のパスポートにはオードリー・K・ヘプバーンと書かれている[1][13][16]。ジョゼフもオードリーも死ぬまで自分がヘプバーン家の血をひいていると信じていたが[10]、オードリーの従兄弟の調べたところによるとジョゼフの父は祖父の2番目の妻のバーバラ・ヴィクトリア・ベルハの子供であったため、ヘプバーン家の血は本当は入っていないと言われている[10]

幼少時代と第二次世界大戦期の少女時代

ヘプバーンの両親は1930年代にイギリスファシスト連合に参加し[5][10]、父ジョゼフは過激なナチズムの信奉者となっていき、1935年5月に家庭を捨てて出て行った[5]。1938年、正式に離婚している[5]。ジョゼフはイギリスに渡り、戦争が始まると逮捕されマン島で過ごした[5]。その後1960年代になってから、当時の夫メル・ファーラーの尽力でヘプバーンは赤十字社の活動を通じて父ジョゼフとダブリンで再会することができた[1][5][17]。その後もスイスの自宅で会っている[1]。ヘプバーンはジョゼフが死去するまで連絡を保ち、経済的な援助を続けている[1][5][18]。ジョゼフは愛情を表現できない人物であったが、1980年、ジョゼフが危篤状態になったとき、再度ダブリンを訪れたヘプバーンには話さなかったものの、同行したロバート・ウォルダーズ (en:Robert Wolders) には娘オードリーのことを大事に思っている、父親らしいことをしなかったことを後悔している、そして娘を誇りに思っていると伝えた[1]

ジョゼフが家庭を捨てた後、1935年にエラは子供たちと故郷のアーネムへと戻った。このときエラの最初の夫ヘンドリク・グスターフ・アドルフ・クアレス・ファン・ユフォルトとの間の息子たちは、父親と共にデン・ハーグに住んでいた。1937年にエラと幼いヘプバーンはイギリスのケントへと移住した。ヘプバーンはエラム (en:Elham) という村の小さな私立女学校に入学し、14人の少女たちのまとめ役となった[10][19]第二次世界大戦が勃発する直前の1939年に、母エラは再度アーネムへの帰郷を決めた。オランダは第一次世界大戦では中立国であり、再び起ころうとしていた世界大戦でも中立を保ち、ドイツからの侵略を免れることができると思われていたためである。1939年から1945年にわたってヘプバーンはアーネム音楽院に通い、通常の学科に加えてウィニャ・マローヴァのもとでバレエを学んだ。1940年にドイツがオランダに侵攻し、ドイツ占領下のオランダでは、オードリーという「イギリス風の響きを持つ」名前は危険だと母エラは考え、ヘプバーンはエッダ・ファン・ヘームストラという偽名を名乗るようになった。1942年に、母エラの姉ミーシェと結婚していた貴族の伯父オットー・ファン・リンブルク=シュティルムが、反ドイツのレジスタンス運動に関係したとして処刑された。また、ヘプバーンの異父兄イアンは国外追放を受けてベルリンの強制労働収容所に収監されており、もう一人の異父兄アレクサンデルも弟イアンと同様に強制労働収容所に送られるところだったが、捕まる前に身を隠している[6][5][20]。オットーが処刑された後に、エラ、ヘプバーン母娘と夫を亡くしたミーシェは、ヘプバーンの祖父アールノート・ファン・ヘームストラとともに、ヘルダーラントのフェルプ (en:Velp, Gelderland) 近郊へと身を寄せた[5]。後にヘプバーンは回顧インタビューで「駅で貨車に詰め込まれて輸送されるユダヤ人たちを何度も目にしました。とくにはっきりと覚えているのが一人の少年です。青白い顔色と透き通るような金髪で、両親と共に駅のプラットフォームに立ち尽くしていました。そして、身の丈にあわない大きすぎるコートを身につけたその少年は列車の中へと呑み込まれていきました。そのときの私は少年を見届けることしか出来ない無力な子供だったのです」と語っている[10]

1944年ごろには、ヘプバーンはひとかどのバレリーナとなっていた。そしてオランダの反ドイツレジスタンス (en:Dutch resistance) のために、秘密裏に公演を行って資金稼ぎに協力していた。ヘプバーンはこのときのことを「私の踊りが終わるまで物音ひとつ立てることのない最高の観客でした」と振り返っている[5]。連合国軍がノルマンディーに上陸しても一家の生活状況は好転せず、アーネムは連合国軍によるマーケット・ガーデン作戦の砲撃にさらされ続けた。当時のオランダの食料、燃料不足は深刻なものとなっていた。1944年にオランダ大飢饉が発生したときも、ドイツ占領下のオランダで起こった鉄道破壊などのレジスタンスによる妨害工作の報復として、物資の補給路はドイツ軍によって断たれたままだった。飢えと寒さによる死者が続出し、ヘプバーンたちはチューリップの球根を食べて飢えをしのぐ有様だった[5][11][21]。当時のヘプバーンは何もすることがなかったときには絵を描いていたことがあり、少女時代のヘプバーンの絵が今も残されている[1][22]。大戦中にヘプバーンは栄養失調に苦しみ、戦況が好転しオランダが解放された時には貧血喘息黄疸水腫にかかっていた[5]。ヘプバーンの回復を助けたのは、ユニセフの前身の連合国救済復興機関(UNRRA)から届いた食料と医薬品だった[10][5]。ヘプバーンは後年に受けたインタビューの中で、このときに配給された物資から、砂糖を入れすぎたオートミールとコンデンスミルクを一度に平らげたおかげで気持ち悪くなってしまったと振り返っている[23]。そして、ヘプバーンが少女時代に受けたこれらの戦争体験が、後年のユニセフへの献身につながったといえる[21]

女優業

キャリア初期

1945年の第二次世界大戦終結後に、母エラとオードリーはアムステルダムへと移住した。アムステルダムでヘプバーンは3年にわたってソニア・ガスケルにバレエを学び、オランダでも有数のバレリーナとなっていった[24]。1948年にヘプバーンは初めて映像作品に出演している。カルル・ファン・デル・リンデンとヘンリー・ジョセフソンが製作した教育用の旅行フィルム『オランダの七つの教訓』で、ヘプバーンの役どころはオランダ航空のスチュワーデスだった[5][6][25]。オランダでのバレエの師ガスケルからの紹介で、1948年にヘプバーンは母親と共にロンドンへと渡り、イギリスのバレエ界で活躍していたユダヤ系ポーランド人の舞踊家マリー・ランバートが主宰するランバート・バレエ団 (en:Rambert Dance Company) で学んだ。ヘプバーンが自身の将来の展望を尋ねたときに、ランバートはヘプバーンが優秀で、セカンド・バレリーナとしてキャリアを積める、この学校で教えていくことで生活もできる、と答えた[1]。ただしヘプバーンの170cmという身長と[13]、体格や筋肉を作る成長期に第二次世界大戦下で十分な栄養が摂れず、練習も満足にできなかったことから[1]、ヘプバーンがプリマ・バレリーナになることは難しいと言われている[5][6][26]。ヘプバーンのバレリーナへの夢はこの時に潰え、演劇の世界で生きていくことを決心した[1][27]。ヘプバーンが映画スターになった後に、ランバートは「彼女(ヘプバーン)は大変な努力家でした。私はバレリーナの道を勧めなかったけれど、もし彼女がバレエを諦めなければ、傑出したバレリーナとなったかもしれない。私のバレエ団で使おうと思えなかったのは身長のせいでした」と語っている[11][13][10]

当時ヘプバーンの母エラは下働きの仕事で家計を支えていたが、ヘプバーン自身も金銭を稼ぐ必要に迫られていた。ヘプバーンは自身がバレエで研鑽を積んでいることから、舞台作品のコーラスガールがいいのではないかと考えた。後にヘプバーンは「私にはお金が必要でした。舞台の仕事はバレエの仕事よりも3ポンド以上高給だったのです」と語っている[28]。ヘプバーンが出演した舞台劇として、ロンドンのヒッポドローム劇場 (en:Hippodrome, London) で上演された『ハイ・ボタン・シューズ』(1948年)、ウエスト・エンドのケンブリッジ・シアター (en:Cambridge Theatre) で上演されたセシル・ランドーの『ソース・タルタル』(1949年)と『ソース・ピカンテ』(1950年)がある。舞台に立つようになってから、ヘプバーンは自身の声質が舞台女優としては弱いことに気付き、高名な舞台俳優フェリックス・エイルマーのもとで発声の訓練を受けたことがある[29]。『ソース・ピカンテ』の出演時に、イギリスの映画会社アソシエイテッド・ブリティッシュ・ピクチュア・コーポレーション (en:Associated British Picture Corporation) の配役担当者に認められたヘプバーンは、フリーランスの女優としてイギリスの映画俳優リストに登録されたが、依然としてウエスト・エンドの舞台にも立っていた[3]。ヘプバーンは1950年に映画に出演するようになり、『若気のいたり』 (en:One Wild Oat)、『素晴らしき遺産』 (en:Laughter in Paradise)、『ラベンダー・ヒル・モブ』 (en:The Lavender Hill Mob) 、『若妻物語』 (en:Young Wives' Tale)といった作品が1951年に公開された。1951年2月にはソロルド・ディキンスン (en:Thorold Dickinson) の監督作品『初恋』に、主人公の妹役で出演した[5][6]。ヘプバーンは1952年に公開されたこの映画で優れた才能を持つバレリーナを演じており、バレエのシーンではヘプバーンが踊っている姿を見ることができる[5]

1951年にヘプバーンはフランス語と英語で撮影される『モンテカルロへ行こう』への出演依頼を受け、フランスのリヴィエラでの撮影ロケに参加した。この現場に、当時自身が書いたブロードウェイ戯曲『ジジ (en:Gigi (1951 play))』の主役・ジジを演じる女優を探していたフランス人女流作家シドニー=ガブリエル・コレットが訪れた。そしてコレットがヘプバーンを見て「私のジジを見つけたわ!」とつぶやいたという有名なエピソードがある[6][5][11][30][10]

『ジジ』出演決定後、同時期にパラマウントの英国の制作部長の推薦で『ローマの休日』の王女役のテストが行われることになった[5][11][10]。ベッドで寝ているシーンを撮り、「カット」の声がかかった後に起き上がったヘプバーンだが、実はまだカメラは回っていた[5][6][10]。そこで見せた笑顔と反応を見た監督ウィリアム・ワイラーとパラマウント本社は王女役にヘプバーンに決定した[5][6][30][31]。ヘプバーンは映画撮影の合間には舞台やテレビ出演も認めるという条件でパラマウント映画社と契約した[5][10][11][32]

『ジジ』は1951年11月24日にブロードウェイのフルトン・シアター (en:Fulton Theatre) で初演を迎え、劇場入り口に張出された公演タイトルの上にヘプバーンの名前が掲げられた。『ジジ』の総公演回数は219回を数え、1952年5月31日に千秋楽を迎えた[33]。ヘプバーンはこのジジ役で、ブロードウェイ、オフ・ブロードウェイで初舞台を踏んだ優れた舞台俳優に贈られるシアター・ワールド・アワード (en:Theatre World Award) を受賞している[33]。『ローマの休日』撮影終了後、『ジジ』は1952年10月13日のピッツバーグ公演を皮切りにアメリカ各地を巡業し、1953年5月16日のサンフランシスコ公演を最後に、ボストン、クリーヴランド、シカゴ、デトロイト、ワシントン、ロサンゼルスで上演された[5]

『ローマの休日』と高まる人気

ローマの休日』のスクリーンテスト時のヘプバーン(1952年)。この写真は映画の宣伝素材としても使用された。

1952年夏に撮影が始まったアメリカ映画『ローマの休日』(公開は1953年)で、ヘプバーンは初の主役を射止めた。『ローマの休日』はイタリアのローマを舞台とした作品で、ヘプバーンは王族としての窮屈な暮らしから逃げ出し、グレゴリー・ペックが演じたアメリカ人新聞記者と恋に落ちるヨーロッパ某国の王女アンを演じた。『ローマの休日』の製作者は、当初アン王女役にエリザベス・テイラージーン・シモンズを望んでいたが、どちらも出演できなかった[5][11][30][25]。後にウィリアム・ワイラーは「彼女(ヘプバーン)は私がアン王女役に求めていた魅力、無邪気さ、才能をすべて備えていた。さらに彼女にはユーモアがあった。すっかり彼女に魅了された我々は「この娘だ!」と叫んだよ」と振り返っている[34]

製作当初は、主演としてグレゴリー・ペックの名前が作品タイトルの前に表示され、ヘプバーンの名前はタイトルの後に共演として載る予定だった[5][11]。しかしペックは撮影が始まってすぐ[35]に自分のエージェントに問い合わせ、自分と対等にするように要求[5][11]。エージェントもスタジオも最初は渋ったが、ペックは「後で恥をかく。彼女は初めての主演でアカデミー賞を手にするぞ」と主張[36]、ヘプバーンの名前は作品タイトルが表示される前に、ペックの名前と同じ主演として表示することになった[5][11]。各国のポスターなどの宣材でもペックと同等の扱いになった[37]

『ニューヨークタイムズ』では「このイギリスの女優はスリムで妖精のようで、物思いに沈んだ美しさを持ち、反面堂々としていて、新しく見つけた単純な喜びや愛情に心から感動する無邪気さも兼ね備えている。恋の終わりに勇敢にも謝意を表した笑顔を見せるが、彼女の厳格な将来に立ち向かって気の毒なくらい寂しそうな姿が目に残る」と評されている[25]。ヘプバーンの人気は高まり、1953年9月に『タイム』誌、12月には『LIFE』誌とアメリカのメジャー誌の表紙を飾った[38][39]。『ローマの休日』のヘプバーンは評論家からも大衆からも絶賛され、アカデミー主演女優賞のほかに、英国アカデミー最優秀主演英国女優賞ゴールデングローブ主演女優賞をヘプバーンにもたらした。

『麗しのサブリナ』

ウィリアム・ホールデンと共演した『麗しのサブリナ』(1954年公開)。

『ローマの休日』で大成功を収めたヘプバーンは、続いてビリー・ワイルダー監督の『麗しのサブリナ』に出演した。1953年に撮影され、1954年に公開されたこの作品は、お抱え運転手の娘で美しく成長したヘプバーン演じるサブリナが、ハンフリー・ボガートウィリアム・ホールデンが演じる富豪の兄弟の間で心が揺れ動くという物語である。『ニューヨークタイムズ』誌では「彼女はその華奢な身体から限りなく豊かな感情と動作を生み出せる女性だ。彼女は昨年の王女役よりもこの役の方がはるかに光り輝いている[25]」と評された。ヘプバーンはこのサブリナ役でアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞最優秀主演英国女優賞を受賞した。

『麗しのサブリナ』が公開された1954年には、ブロードウェイの舞台作品『オンディーヌ』(en:Ondine (play)) でメル・ファーラーと共演した。ヘプバーンはそのしなやかな痩身を活かして水の精オンディーヌを演じ、ファーラー演じる人間の騎士ハンスとの恋愛悲劇を繰り広げた。この作品について『ニューヨークタイムズ』は彼女には「魔力」があり、「熱狂するほど美しい」と評した[25]

そしてヘプバーンは『オンディーヌ』で1954年のトニー賞 主演舞台女優賞を受賞した。同じ年には前年の『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得しており、ヘプバーンはシャーリー・ブースに次いで2番目のトニー賞とアカデミー賞のダブル同年受賞者になった[5]。(その後、1974年にエレン・バースティンも受賞して3人になった[5]。2013年現在)。『オンディーヌ』で共演したヘプバーンとファーラーは、1954年9月25日にスイスで結婚式を挙げ[40][41][42][43]、二人の結婚生活は14年間続いた。

ヘプバーンは1955年にはゴールデングローブ賞の「世界でもっとも好かれた女優賞」を受賞し[44]、ファッション界にも大きな影響力を持つようになった。

『パリの恋人』と「昼下りの情事」

戦争と平和』のヘプバーン。1956年公開。

ヘプバーンはハリウッドでもっとも集客力のある女優のひとりとなり、10年間にわたって話題作、人気作に出演するスター女優であり続けた。ヘンリー・フォンダ、夫メル・ファーラーらと共演した、ロシアの文豪レフ・トルストイの作品を原作とした1955年撮影の3時間28分の超大作『戦争と平和』(公開は1956年)のナターシャ・ロストワ役で、英国アカデミー賞とゴールデングローブ賞にノミネートされている。

1956年にはバレエで鍛えた踊りの能力を活かした最初のミュージカル映画『パリの恋人』に出演した。ヘプバーンはパリ旅行に誘い出された本屋の店員ジョー役で、フレッド・アステア演じるファッション・カメラマンに見出されて美しいモデルになっていくという物語である。

この年には『昼下りの情事』にも出演しており、ゲイリー・クーパーモーリス・シュヴァリエと共演した。こちらはゴールデン・ローレル賞(Laurel Awards)の最優秀女性コメディ演技賞を受賞し[13]、ゴールデングローブ賞にもノミネートされている。どちらも1957年に公開された。

1957年にはヘプバーンは映画出演を一切しておらず、唯一2月にテレビ映画『マイヤーリング』にのみ夫メル・ファーラーと共に出演している。

また、ヘプバーンは、1957年にアンネ・フランクの『アンネの日記』を題材とした映画作品への出演依頼を受けた[1][5][22]。監督のジョージ・スティーヴンスの頼みでアンネの父、オットー・フランクが出演を説得するためにオードリーに会いに来たが[1][22]、アンネと同年の生まれであるヘプバーンはアンネ役を引き受けることが「戦時中の記憶に戻るのが辛すぎる」[1]さらに「アンネの一生と死を出演料や名誉で自分の利益とするために利用する気になれない」として断っている[5]。ヘプバーンの親友のドリス・ブリンナーは現実的に「彼女は15歳の役をやるのは無理なことを知っていた」とも語っている[5]。最終的に映画のアンネ役はミリー・パーキンスが演じた。

『尼僧物語』

1958年に入るとピーター・フィンチと共演した『尼僧物語』に出演する(公開は1959年)。この映画では心の葛藤に悩む修道女ルークを演じた。ヘプバーンは撮影前のキャラクターの準備のために、実際に修道院で数日過ごした[45]。『バラエティ』誌は「彼女としては最高の演技を見せてくれた」と評し、『フィルムズ・イン・レビュー』誌はヘプバーンの演技が「映画界でも最も優れた演技である」と評した[25]。このルーク役で3度目となるアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞を獲得した。他にゴールデングローブ賞にもノミネートされている。

緑の館』のヘプバーンとアンソニー・パーキンス。1959年公開。

ヘプバーンは『尼僧物語』に続いて同じく1958年に『緑の館』に出演した(公開は1959年)。この作品でヘプバーンは、アンソニー・パーキンス演じるベネズエラ人アベルと恋に落ちる、密林で暮らす妖精のような少女リーマを演じた。

1959年にはヘプバーンが出演した唯一の西部劇許されざる者』(公開は1960年)でレイチェル役を演じた。レイチェルはバート・ランカスターリリアン・ギッシュが演じる家族に育てられたカイオワ族の娘で、取り戻しに来たカイオワ族と育ての家族の間で苦悩するという役である。

『ティファニーで朝食を』

ティファニーで朝食を』のオープニング・シーン。ヘプバーンが着用している黒のドレスはユベール・ド・ジバンシィがデザインしたものである。

ファーラーとの間の長男ショーンが生まれた三カ月後の1960年10月に、ヘプバーンはブレイク・エドワーズの監督作品『ティファニーで朝食を』に出演した(公開は1961年)。この映画はアメリカ人小説家トルーマン・カポーティの同名の小説を原作としているが、原作からは大きく内容が変更されて映画化されている。カポーティは失望し、主役の気まぐれな娼婦ホリー・ゴライトリーを演じたヘプバーンのことも「ひどいミスキャストだ」と公言した[46][47]。これは、カポーティがホリー役にはマリリン・モンローが適役だと考えていたためだった[48]。ヘプバーンは撮影前には「この役に必要なのはとても外交的な性格だけど、私は内向的な人間だから」と自分のエージェントに不安を語っている[5][49]

映画のヘプバーンは高く評価されて1961年度のアカデミー主演女優賞とゴールデングローブ賞にノミネートされた。このホリー・ゴライトリーはヘプバーンを代表する役といわれることも多く[50]、清純派であったヘプバーンが清純でないホリーを演じて以来、映画の中の女性像が変わったと言われている[47]。『ティファニーで朝食を』の冒頭シーンで、ヘプバーンが身にまとっているジバンシィがデザインしたリトル・ブラックドレス(シンプルな黒のカクテルドレス (en:Little black Givenchy dress of Audrey Hepburn)) は、20世紀のファッション史を代表するリトル・ブラックドレスであるだけでなく、おそらく史上最も有名なドレスだといわれている[51][52][53][54]

噂の二人』(1961年)の予告編のシャーリー・マクレーンとヘプバーン。

ヘプバーンは1961年のウィリアム・ワイラー監督作品『噂の二人』で、シャーリー・マクレーンジェームズ・ガーナーと共演した。『噂の二人』はレズビアンをテーマとした作品で、ヘプバーンとマクレーンが演じる女教師が、学校の生徒に二人がレズビアンの関係にあるという噂を流されてトラブルとなっていくという物語だった。レズビアンを取り上げた作品としてはハリウッドで最初の映画のひとつだといわれている[50]。当時の保守的な社会的背景のためか、映画評論家はあら探しをするばかりであったが[25]、『バラエティ』誌はヘプバーンの「柔らかな感性、深い心理描写と控えめな感情表現が見られる」と高く評価し、さらにヘプバーンとマクレーンを「互いを引き立てあう素晴らしい相手役」だと賞賛した[13]。アカデミー賞にも5部門でノミネートされている。

『シャレード』

ヘプバーンは1962年に2本の映画を撮影した。1つ目は『パリで一緒に』で、『麗しのサブリナ』で共演したウィリアム・ホールデンと、9年ぶりにコンビを組んだ。パリで撮影されたこの作品は2年後の1964年に公開された。ヘプバーンの演技は「大げさに誇張された話のなかで、一服の清涼剤だった」といわれている[55]

後年のヘプバーンの伝記ではホールデンがアルコール使用障害になっていたことなどが、撮影現場の雰囲気や状況を悪化させ、撮影日数が遅れたと書かれている[6][5][10][30]。しかし、撮影中に実際に現場にいて宣伝写真を撮っていたボブ・ウィロビーによると、監督、ホールデン、ヘプバーンが「この撮影を通して人生をエンジョイしていた」「このときのオードリーは最高の輝きを見せていた」と逆のことを述べている[56]。オードリー自身も息子ショーンに「パリで一緒に」の撮影はとても楽しかったと語っており、「映画を製作するときの体験とその出来栄えは関係ない」と述べている[1]

ケーリー・グラントと共演した『シャレード』(1963年公開)。

ヘプバーンは続いて『シャレード』でケーリー・グラントと共演した。ヘプバーンは、亡き夫が盗んだとされる金塊を求める複数の男たちに付け狙われる未亡人レジーナ・ランパートを演じている。かつてヘプバーンが主演した『麗しのサブリナ』と『昼下りの情事』の相手役にも目されていたグラントは撮影当時58歳で、年齢差がある当時33歳のヘプバーンを相手に恋愛劇を演じることに抵抗を感じていた。このようなグラントの意を汲んだ製作側は、ヘプバーンの方からグラントに心惹かれていくという脚本に変更している[5][11][57]。グラントはヘプバーン個人に対しては好印象を持っており、「クリスマスに欲しいものは、ヘプバーンと共演できる新しい作品だ」と語った[13][11]。1963年に公開された時にヘプバーンはこの役で、三回目にして最後となる英国アカデミー最優秀主演英国女優賞を獲得し、ゴールデングローブ賞にもノミネートされた。

『マイ・フェア・レディ』

マイ・フェア・レディ』(1964年公開)の撮影現場。左は撮影監督のハリー・ストラドリング

1964年のミュージカル映画『マイ・フェア・レディ』(撮影は1963年)は、ジーン・リングゴールドが「『風と共に去りぬ』以来、これほど世界を熱狂させた映画はない」と1964年の『サウンドステージ』誌 (en:Soundstage) で絶賛した[58]。しかしながら、ヘプバーンが演じた下町訛りの花売り娘イライザ・ドゥーリトルの配役決定の経緯は大きな論争を巻き起こした。ジョージ・キューカーが監督したこの作品は、同名の舞台ミュージカル『マイ・フェア・レディ』の映画化である。舞台でイライザを演じていたのはジュリー・アンドリュースだったが、製作のジャック・ワーナー(en:Jack Warner) がアンドリュースにスクリーン・テストを持ちかけたところ、アンドリュースは「スクリーン・テストですって?私があの役を立派にやれることを知っているはずよ」と拒否[59]。ワーナーは「映画未経験の君のスクリーン写りを確かめる必要がある」と言ったが、アンドリュースはテストを断った[59]。ジャック・ワーナー は1700万ドルというワーナー映画史上最大の制作費を回収するために実績のあるヘプバーンを考えることとなった[59][11]。イライザ役を持ちかけられたヘプバーンは、アンドリュースがイライザ役を自分のものにしているとして一旦断った[25][59][13]。しかしジャック・ワーナーはアンドリュースに演じさせるつもりは無く、次はエリザベス・テイラー[60]に役を回すとわかり、最終的にイライザ役を引き受けた[59][25][13]

ヘプバーンは以前出演したミュージカル映画『パリの恋人』で歌った経験があり、さらに『マイ・フェア・レディ』出演に備えて撮影3ヶ月前の1963年5月[6]から、撮影に入った後も毎日発声練習をこなしていた[59][11]。ヘプバーンが歌う場面はマーニ・ニクソンによってある程度吹き換えられると聞いていたが、どの程度使われるのかはヘプバーンにもマーニ・ニクソンにも知らされていなかった[59]。そのためヘプバーンはニクソンと一緒に録音スタジオに入り、歌い方のアドバイスも求めていた[59]。撮影のかなり後半のインタビューでも「歌は私も全部録音しましたが、別にマーニ・ニクソンも吹き込んであるのです。どちらを使うかは会社が決めるでしょう」と答えている[61]。しかし結局大部分の歌を吹き替えると知らされたヘプバーンは深く傷つき、「おお!」と一言だけ言ってセットから立ち去った[59]。翌日になって戻ってきたヘプバーンはわがままな行動を全員に謝罪している[59][6]。そして吹き替えも使うが、ヘプバーンの歌はできるだけ残すという約束だったにも関わらず、最終的にはヘプバーンの歌が残っていたのは10パーセントほどだった[59]。ヘプバーンの歌声が残されているのは「踊り明かそう」の一節、「今に見てろ」の前半と後半、「スペインの雨」での台詞と歌の掛け合い部分、「今に見てろ」のリプライズ全部である。

映画のプレミアの前からヘプバーンの声が吹き替えであるということが外部に漏れたが、多くの評論家は『マイ・フェア・レディ』でのヘプバーンの演技を「最高」だと賞賛した[62]。ボズリー・クロウザーは『ニューヨークタイムズ』誌で「『マイ・フェア・レディ』で最も素晴らしいことは、オードリー・ヘプバーンを主演にするというジャック・ワーナーの決断が正しかったことを、ヘプバーン自身が最高のかたちで証明して見せたことだ」と評した[63]。『サウンドステージ』誌のジーン・リングゴールドも「オードリー・ヘプバーンはすばらしい。彼女こそ現在のイライザだ」「ジュリー・アンドリュースがこの映画に出演しないのであれば、オードリー・ヘプバーン以外の選択肢はありえないという意見に反対するものは誰もいないだろう」とコメントしている[58]

ところが、ゴールデングローブ賞ではノミネートされたものの、第37回アカデミー賞のノミネートでは『マイ・フェア・レディ』はアカデミー賞に12部門でノミネートされたが、ヘプバーンは主演女優賞にノミネートすらされなかった[59][10]。ヘプバーンはひどく落胆したが、ジュリー・アンドリュースにオスカーが取れるように祈ると祝辞を送っている[11]キャサリン・ヘプバーンはすぐオードリーに「ノミネートされなくても気にしないで。そのうち大したことのない役で候補に選ばれるから」と慰めの電報を送っている[59][10][11]ジュリー・アンドリュースや共演者レックス・ハリソンもヘプバーンはノミネートされるべきだった、ノミネートされなくて残念だと述べている[59]。ノミネートされていなくても、ヘプバーンに投票しようという運動まで起こっているが[11]、結局その年の主演女優賞を獲得したのはミュージカル作品『メリー・ポピンズ』でのジュリー・アンドリュースだった。ヘプバーンは後でアンドリュースにお祝いの花束を贈っている[25]。『マイ・フェア・レディ』はその年最高の8部門でアカデミー賞を受賞した[59][25]

このような騒動はあったものの、大多数の観客はヘプバーンに満足しており、1993年にヘプバーンが亡くなった時にも『エンターテイメント・ウィークリー』誌が見出しに大きく「さようなら、フェア・レディ」と哀悼の意を表し、他にも似たような見出しが数多くみられた[25]

『いつも2人で』と『暗くなるまで待って』

ヘプバーンは1965年撮影のコメディ映画『おしゃれ泥棒』(公開は1966年)で、有名な美術コレクターだが実は所有しているのは全て偽物であるという贋作者の娘で、父親の悪事が露見することを恐れる娘ニコルを演じた。ニコルはピーター・オトゥール演じる探偵サイモン・デルモットに、相手が父親のことを調べている探偵だとは知らずに父親の悪事の隠蔽を依頼するという役だった。

1967年には2本の映画が公開された。1966年に撮影された『いつも2人で』は、一組の夫婦の12年間の軌跡を、6つの時間軸を交錯させて描き出すという映画である。監督のスタンリー・ドーネンは、「この作品は結婚の困難な一面を描いた作品だった。彼女の作品は恋の喜びを描いたものがほとんどだが、これはその後の試練を描いている」と語っている[64]。そして撮影中のヘプバーンがそれまでになく快活で楽しそうに見えたと語り、共演したアルバート・フィニーのおかげだったと言っている[26][59][47]。そして多くの人々は『いつも2人で』がヘプバーンの最高の演技であるとしている[6][59][13][26]

1967年公開のもう1本の映画が、サスペンススリラー映画『暗くなるまで待って』であり、ヘプバーンは脅迫を受ける盲目の女性を演じた。この『暗くなるまで待って』はヘプバーンとメル・ファーラーの別居直前に撮影された映画だった。ヘプバーンは撮影前にローザンヌの視覚障害者の訓練を専門にしている医師について勉強し[6][59][11]、ニューヨークでは視覚障害者福祉施設(ライトハウス)で数日から数週間目隠しをして訓練をした[65][11][30]。撮影中は午後四時になるとティー・ブレイクがあり、キャストやスタッフは和気藹々と撮影出来た[6][59]。ただしヘプバーンの体重は撮影中に15ポンドも痩せてしまった。監督のテレンス・ヤングは「この役はオードリーがそれまでやった中で一番大変な役だった。あまりの辛さに一日ごとに体重が減っていくのが目に見えるようだった」と述べている[59][11]

ヘプバーンは68年に『いつも2人で』『暗くなるまで待って』それぞれでゴールデン・グローブ賞にノミネートされ、『暗くなるまで待って』では5回目のアカデミー主演女優賞にノミネートされている。

最後の映画作品

1967年に、ヘプバーンはハリウッドにおける15年間にわたる輝かしい経歴に区切りをつけ、家族との暮らしに時間を費やすことを決めた。その後ヘプバーンが映画への復帰を企図したのは1975年のことで、ショーン・コネリーと共演した歴史映画『ロビンとマリアン』(公開は1976年)への出演だった。映画の評価は高く[6][59][10][26]、『ロビンとマリアン』はヘプバーンの才能にふさわしい最後の作品となったと評されている[30]

1979年にはサスペンス映画『華麗なる相続人』の主役エリザベス・ロフを演じた。この作品は『暗くなるまで待って』のテレンス・ヤング監督が、乗り気でないヘプバーンを説得してやっと出演が決まった[59][11]。共演はベン・ギャザラジェームズ・メイソンロミー・シュナイダーらだった。『華麗なる相続人』の原作はシドニー・シェルダンの小説『血族』(Bloodline) で、シェルダンは映画化に当たり、ヘプバーンの実年齢にあわせてエリザベス・ロフを23歳から35歳の女性に書き直している[59][11]。大富豪の一族を巡る国際的な陰謀や人間関係をテーマとした映画だったが、評論家からは酷評され、興行的にも失敗した[25]

ヘプバーンが映画で最後に主役を演じたのは、ピーター・ボグダノヴィッチが監督した1980年に撮影されたコメディ映画『ニューヨークの恋人たち』(en:They All Laughed) である。しかしながら、ボグダノヴィッチの交際相手でこの作品にも出演していたドロシー・ストラットンが、撮影終了数週間後に離婚寸前だった夫に1980年8月に殺害され[59]、その上、配給を予定していた20世紀フォックスが出来上がりに不満を示し、ピーター・ボグダノヴィッチ監督が自ら買い戻した[25]。最終的には81年に公開までこぎつけたが、それでも短期間の上映に留まってしまっている。

テレビ映画では1987年に『おしゃれ泥棒2』(en:Love Among Thieves) に最後の主演で出演した。出演を決めたのは、共演のロバート・ワグナーがヘプバーンが欠かさず見ていた『探偵ハート&ハート』の出演者であり、グシュタードの別荘の隣に住んでおり、友人であり俳優としても好きだったからである[65][59]

ヘプバーンはスティーヴン・スピルバーグ監督の『E.T.』を公開時に見て感動していたので、スピルバーグから1989年の作品『オールウェイズ』の天使の役でのカメオ出演の依頼の手紙が来た時は喜んで引き受けた[65][13]。そしてこれがヘプバーンの最後の出演映画となった[13]

1990年以降

それ以降、ヘプバーンが携わった娯楽関連の作品はわずかしかないが、非常に高く評価されており、ヘプバーンの死後ではあるが国際的な賞を受賞しているものもある。

ヘプバーンは指揮者のマイケル・ティルソン・トーマスに請われて1990年3月19日からアメリカの5つの都市と、91年にはロンドンでユニセフのための慈善コンサートを行った[59][65]。それはヘプバーンが『アンネの日記』からの抜粋を朗読し、トーマスがオリジナルの管弦楽曲『アンネ・フランクの日記より』と合わせて全体を構成するという試みだった[59][10][25]。ヘプバーンはそれまでアンネ・フランクを演じる話を全て断っていたが、「今度は、私はアンネ・フランクを演じるのではなく、読むだけなのです。今でも彼女を演じようとは思いません。それはあの戦争の恐怖の中へ自分を押し戻すことだからです」と語っている[59]。ロンドンの舞台に立つのは40年ぶりのことであり、これが最後となった[59]。トーマスは1995年の4月と5月に再度コンサートをやって、きちんと録音することを望んだが、それは叶わなかった[59]。「彼女は意に反してアンネ・フランクになりきっていた。ヴィデオ・テープが残っていないのが残念でならない」とトーマスは語っている[59]

PBSのテレビドキュメントシリーズ『オードリー・ヘプバーンの庭園紀行』(en:Gardens of the World with Audrey Hepburn) は、1990年の春から夏にかけて撮影された、世界7カ国の美しい庭園を紹介するという紀行番組だった。本放送に先立って1991年3月に1時間のスペシャル番組が放送され、シリーズ本編の放送が開始されたのはヘプバーンが死去した翌日の1993年1月21日からだった[59][66]。このテレビ番組で、ヘプバーンは死後に1993年のエミー賞の情報番組個人業績賞 (Outstanding Individual Achievement – Informational Programming) を受賞した[13]

1992年5月には2つの録音を行なっている。1つはラロ・シフリンが指揮をするサン=サーンスの『動物の謝肉祭』で[59]、ヘプバーンは「鳥」のナレーターをつとめた[13][67]。もう1本の1992年に発売された子供向け昔話を朗読したアルバム『オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語』 (en:Audrey Hepburn's Enchanted Tales) では、グラミー賞の「最優秀児童向け朗読アルバム賞」を受賞した[13]。ヘプバーンはグラミー賞とエミー賞をその死後に獲得した、数少ない人物の一人となっている。

ユニセフ親善大使

1970年12月22日、ヘプバーンはジュリー・アンドリュースが司会を務める『愛の世界』というユニセフの特別番組に当時住んでいたイタリアを代表して出演した[65]。これが晩年に人生を捧げることになるユニセフへの最初の貢献だった[65]

1987年10月、ヘプバーンはオランダ大使としてポルトガルにいた従兄弟から、マカオで開かれる国際音楽祭の来賓として招待され、そこでユニセフのポルトガル支部のためにスピーチをするように頼まれた[1][13]。2分間のスピーチは全世界にテレビ放送され、ユニセフの活動に人々の目を向けさせることに成功した[13]。これがユニセフのための本格的な活動の始まりだった[59]。ヘプバーンはスピーチ後、ユニセフの職員と会って「もし私が必要とされるなら、ユニセフのために喜んで役に立ちたい」と自分から申し出た[59][10]

次にジュゼッペ・シノーポリ指揮で世界中の演奏家を集めたワールド・フィルハーモニック・オーケストラのチャリティコンサートが東京で行われるので、ヘプバーンは演奏前のスピーチをユニセフに依頼され、喜んで12月に東京に向かった[68][59][69]

マカオと東京での成功後、続々と各国のユニセフからの依頼が舞い込み[59][13]、1988年3月9日にユニセフ親善大使の依頼を引き受けることとなった[13][10][70][71]。「私は全人生をこの仕事のためにリハーサルしてきて、ついに役を得たのよ」と言っている[65][13]

第二次世界大戦後にユニセフの前身の UNRRAに助けてもらい、その後女優として大きな成功をおさめることができたという経験から、ヘプバーンは残りの人生を最貧困国の恵まれない子供たちへの支援活動に充てることを決めたのである。ヘプバーンは多くの国々を訪れているが、言葉の面で苦労したことはほとんどなかった。東京のコンサートで初めて会って、後にヘプバーンの親友および世話役になる、ユニセフのジュネーヴ事務局の責任者クリスタ・ロート[59]は「オードリーが持つ天性の才能で自分の仕事に生かしたものに語学がありました。(英語の他にも)フランス語、イタリア語、ドイツ語を話しますし、スペイン語も少々。オランダ語は当然です。ユニセフの活動をスポットで緊急に流さないといけないとき、すぐその場でオードリーがどの主要言語でもアナウンスを流してくれました」と語っている[72][73][74][75]

ヘプバーンのユニセフでの本格的な活動は、ユニセフ親善大使の任命の発表から2週間と経たない1988年3月のエチオピアへの訪問が最初だった[59][10]。当時のエチオピアは軍事クーデターで大統領となった独裁者メンギスツ・ハイレ・マリアムと、反政府組織が内戦を繰り広げており、100万人を超える難民で疲弊しきった国だった。このエチオピアでヘプバーンは、ユニセフが食糧支援を行餓死寸前の子供たち500人を収容していたメケレ (en:Mek'ele) の孤児院を慰問した[10][59]。このエチオピア訪問でヘプバーンは「とても悲しく、絶望感すら覚えました。200万以上の人々が餓死寸前の危機にあり、その多くは子供たちなのです。エチオピアに食料がないわけではなく、分配できないだけです。エチオピアでは内戦が続いており、支援活動を行っていた赤十字とユニセフの職員は北部都市から避難するように勧告を受けました。私は反政府の地域へ赴き、そこで食料を求めて10日もあるいは3週間も歩き続ける母子を目にしました。床が砂でむき出しとなっているその場しのぎの難民キャンプで、人々は死を待つしかないのです。恐ろしいことです。耐えられません。「第三世界」という言葉が私は嫌いです。我々はともに一つの世界に暮らしているのです。人道上、非常な苦難に直面している多くの人々がいるのだということを世界中が認識してほしいと願っています」と語った[76]

ヘプバーンは1988年8月に、予防接種のキャンペーンのためにトルコを訪れ、10月には南米諸国を訪れた[59]ベネズエラエクアドルをめぐったヘプバーンは「小さな山村やスラム街、貧民街にも水道が設置されています。これはユニセフによるちょっとした奇跡といってもいいでしょう。また、少年たちがユニセフから送られたレンガとセメントで自分たちの学校を立てているのも目にしました」と振り返っている。1989年2月には中米を訪問し、ホンジュラスエルサルバドルグアテマラでそれぞれの大統領と面会している[59]。同年4月にはロバート・ウォルダースとともに「ライフライン作戦」計画の一環としてスーダンを訪れた[59]。当時のスーダンは内戦下にあり、援助団体からの食糧支援が途絶えており、この計画はスーダン南部へ食料を運びこもうとするものだった[59]。さらに10月にヘプバーンとウォルダースはバングラデシュへ赴いた[59]。国連の報道写真家ジョン・アイザック (en:John Isaac (Photographer)) は「身体中に蝿がたかった子供たちにしばしば出会ったが、彼女(ヘプバーン)はいやな顔一つせず彼らを抱きしめる。そんな光景は見たことがなかった。他の人間は躊躇したが、彼女は全く気にせずに手を差し伸べた。子供たちは吸い寄せられるように近づいてきて、彼女の手を握ったりまとわりついたりしてくるんだ。彼女はまるでハーメルンの笛吹きみたいだったよ」とそのときの様子を振り返っている[59][13]。1990年10月にヘプバーンはベトナムを訪れ、ユニセフが支援する予防接種の普及と水道設備設置に協力した[59]

死去する4カ月前の1992年9月に、ヘプバーンはソマリアを訪問した[59][10]。当時のソマリアは、以前ヘプバーンが心を痛めたエチオピアやバングラデシュを上回るほどの悲惨な状況にあった。それでもなおヘプバーンは希望を捨ててはいなかった。「政治家たちは子供たちのことにはまったく無関心です。でもいずれの日にか人道支援の政治問題化ではなく、政治が人道化する日がやってくるでしょう」「奇跡を信じない人は現実主義者とはいえません。私はユニセフがもたらした、水という奇跡を目にしてきたのです。何百年にもわたって、水を汲むために少女や女性たちが何マイルも歩く必要がありました。でもいまでは家のすぐそばに綺麗な水があるのです。水は生命です。綺麗な水はこの村の子供たちの健康と同義なのです」「貧しい場所に住む人々はオードリー・ヘプバーンはご存知ないでしょうが、ユニセフという名前を覚えてくださいました。ユニセフという文字を目にしたときにそのような人々の顔が明るくなります。何かが起こるということが分かっているからです。例えばスーダンでは、水を汲み上げるポンプは「ユニセフ」と呼ばれているのです」

1992年、ユニセフでの活動をたたえてアメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュが、文民に与えられるアメリカ最高位の勲章である大統領自由勲章をヘプバーンに授与することとなった[65][59]。しかしすでにヘプバーンは授与式には参加出来ず、メダルはヘプバーンが亡くなった後に届けられた[65]。さらに映画芸術科学アカデミーが、人道活動への貢献をたたえてヘプバーンの死後にジーン・ハーショルト友愛賞を贈り、息子が代理として賞を受け取った[59]

私生活

『戦争と平和』撮影中のヘプバーンとメル・ファーラー。1955年。

ヘプバーンは1949年に舞台『ソース・タルタル』で共演したフランス人の歌手、マルセル・ル・ボンに心惹かれ、初めて真剣な交際をした[77][78][5]。マルセル・ル・ボンは『ソース・ピカント』の後にヘプバーンや舞台の仲間と新しいショーで巡業を計画したが頓挫。責任を感じてアメリカに逃げてしまった[5]。ヘプバーンはこの新しいショーの為に、『素晴らしき遺産』では主要人物の役が割り振られていたが断っている[5]。ショーの頓挫後、慌てて再度監督に会いに行ったが、既に配役が決まっており、ヘプバーンは残っていたシガレット・ガールの役を演じることになった[5]

1950年に『ラベンダー・ヒル・モブ』撮影直後にヘプバーンは男爵ジェイムズ・ハンソン (en:James Hanson, Baron Hanson) と知り合いすぐに恋に落ち[5]、1951年12月には婚約した[5][11]。しかしながら、ウェディングドレスが出来上がり、日程も決まっていたにもかかわらず、この結婚は1952年『ローマの休日』撮影後に破談となった[5][10]。二人の仕事があまりにも異なっており、ほとんどすれ違いの結婚生活になってしまうとヘプバーンが判断したためだった[79]。当時のヘプバーンの言葉に「私は結婚するのなら「本当の」結婚がしたいのです」というものがある[5][11]

ヘプバーンは1952年撮影の『ローマの休日』で共演したグレゴリー・ペックとコラムニストに噂を書き立てられたが、傷つき怒ってこの噂を一蹴している[5][10]。ヘプバーンは「多かれ少なかれ女優は主演男優に好意を抱くものですし、その逆の場合もあるでしょう。演じられているキャラクターを好きになった経験がある人には理解できると思います。珍しいことではありません。ただ、それは映画や舞台の上以上には進展させてはならない感情で、少なくとも私自身は今後もそれを実行していくつもりです」と語っている[79]。後年、ヘプバーンは『ローマの休日』出演での最大の宝物はウィリアム・ワイラーとグレゴリー・ペックとの終生の友情だと語っている[13]

1953年撮影の『麗しのサブリナ』で、ヘプバーンと既婚だったウィリアム・ホールデンは恋愛関係にあったといわれている。ヘプバーンはホールデンとの結婚と子供を望んだが、ホールデンは病気のため精管を切除しており、子供ができないことを告げられる。これによりヘプバーンが別れを切り出したといわれている[5][11][80] 。また、『麗しのサブリナ』で共演したハンフリー・ボガートがヘプバーンに辛く当たっていたと言われているが[6][11]、息子ショーンがヘプバーンに訊いてみたところ、関係は良かったと答えている[1]。ただ、一人の女優としては認めてないと感じていたし、ボガートがそう言っているという噂も耳にしていたとも言っている[1]。ショーンがそんなのフェアじゃないと言うと「あの方がそう思う理由があったのよ」と息子を諌めている[1]

ヘプバーンとアンドレア・ドッティ

母エラが1953年7月に開いたパーティーで、ヘプバーンはグレゴリー・ペックに紹介されてアメリカ人俳優メル・ファーラーと出会った[5][10][26]。ファーラーは「僕たちは劇場について話しはじめた。彼女は僕とグレゴリー・ペックが舞台を共同製作したこともある、ラ・ジョラ・プレイハウス・サマー劇場のことをとてもよく知っていた。僕が出ていた映画『リリー』は3回観たとも言っていた。別れ際に彼女は、僕と共演したいからいい作品があればぜひ声をかけて欲しいと言ってきた」と、ファーラーはこの出会いを振り返っている[11]。ファーラーはヘプバーンの役を獲得するために奔走し、ブロードウェイ作品『オンディーヌ』の脚本をヘプバーンに送った[5]。ヘプバーンはこの舞台への出演を承諾し、1954年1月1日から稽古が始まっている[13]。出会い、共演し、そして愛し合うようになった二人は、1954年9月25日にスイスのビュルゲンシュトックで結婚した[40][42][43]。二人の共演が決まっていた映画『戦争と平和』の撮影準備中のことだった。

結婚後ファーラーがヘプバーンを支配下に置き、自分のキャリアのための踏み台として彼女のキャリアを利用していると噂されるようになり[5][11]、小説『トリルビー』の登場人物であるスヴェンガーリのように「一種の主人と奴隷の関係」と記事にされた時にはヘプバーンは激怒している[5]

ファーラーとの間の唯一の子供が誕生する以前に、1955年と1959年の二度にわたってヘプバーンは流産している[6]。二度目の流産は『許されざる者』の撮影中に起こった落馬事故によるもので、投げ出されたヘプバーンは背中を4箇所骨折し、結局撮影終了後に流産してしまった[65][6]。このことはヘプバーンにとって心身ともに大きな傷となった。その後間もなく妊娠したヘプバーンは、子供を無事に出産するために一年間仕事を休んでいる。そして1960年7月17日に二人の長男ショーン・ヘプバーン・ファーラーが生まれた[1][81]

それまでも何度かメル・ファーラーとの不仲の噂があったが、『マイ・フェア・レディ』撮影中からまた離婚説が囁かれるようになった[5][11][82]

その後も1965年12月にヘプバーンは妊娠したが1966年1月には流産[59][13][10]、1967年7月にまたもや流産となってしまった[59][10]

そして1967年7月22日、スペインの別荘に行くために空港に降り立ったオードリーをメルが迎えに行ったが、それまでとは違い一切写真を撮らせず、7月31日にはオードリーはスイスへ帰って行った[83][84]。そしてヘプバーンとメルは1967年8月31日に別居を世界中に発表[85]。二人の代理人は8月はじめには別居に同意していたと述べている[83]。最終的に二人は1968年12月に離婚し[86]、二人の結婚生活は14年間で終わりを告げた。その後ファーラーは長寿を保ったが、2008年6月に心不全のために90歳で死去している。

左から、当時のアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガン、ヘプバーン、オランダ人俳優ロバート・ウォルダース。1981年。

ヘプバーンは1965年にスイス、レマン湖地方、モルジュ近郊のトロシュナ村にある「ラ・ペジブル」という家を購入[59][13][6]。息子、ショーンとの生活をはじめ、穏やかな生活を楽しみながら後半生を過ごした。その後、1968年6月ヘプバーンは船旅でイタリア人精神科医アンドレア・マリオ・ドッティと出会い、ギリシア遺跡を巡る旅行中にドッティに惹かれていった[59][13][26]。ヘプバーンはさらに子供を望んでおり、そのためには女優を辞めてもいいと思っていた。当時40歳のヘプバーンと30歳のドッティは1969年1月18日に結婚し、1970年2月8日には帝王切開で男子ルカ・ドッティが生まれている[59][10]。ルカを妊娠中のヘプバーンは日々の暮らしに非常に気を使い、「ラ・ペジブル」で数か月間、読書や庭いじりや絵を描いたりしながら過ごしていた[13][59]。1974年にヘプバーンは再びドッティの子を身篭ったが流産している[13]。ドッティはヘプバーンを愛し、前夫メル・ファーラーとの息子ショーンとの仲も良好だったが、若い女性と関係を持つようになっていった[59]。そしてヘプバーンのほうも1979年の映画『華麗なる相続人』の撮影中に、共演したベン・ギャザラと不倫の関係になっていた[6][59][87]。ヘプバーンとドッティは1980年夏に離婚を決意、別居した[65]。1982年に正式に離婚し、二人の結婚は13年で終わった[59][10]。離婚したファーラーとの接触は徹底的に避けていたヘプバーンだったが、ドッティとは息子ルカの養育のことで離婚後も連絡を取り合った[1]。ドッティは2007年10月に消化器官の合併症で死去している。

ドッティとの結婚生活が続いていた1980年から死去するまでヘプバーンは、妻であるイギリス人女優マール・オベロンと死別したオランダ人俳優ロバート・ウォルダース (en:Robert Wolders) と恋愛関係にあった[13][88]。二人が知り合ったのは友人を介してであり、ヘプバーンとドッティとの結婚生活が終わりを迎えようとしていた時期だった[13][59][10]。ドッティとの離婚が成立すると、ヘプバーンとウォルダースは一緒に暮らし始めたが、正式に結婚することはなかった。1989年のアメリカ人ジャーナリストバーバラ・ウォルターズとのインタビューで、ウォルダースと暮らしたそれまでの9年間を人生で最良の日々と振り返っている。

死去

スイスのトロシュナ (en:Tolochenaz) にあるヘプバーンの墓。

1992年9月終わりに、ユニセフの活動で赴いていたソマリアからスイスの自宅へ戻ったヘプバーンは、腹痛に悩まされるようになった。専門医の診察を受けたが原因がはっきりせず、精密検査を受けるために10月にロサンゼルスへと渡った。11月1日にシダーズ=サイナイ医療センター (Cedars-Sinai Medical Center) で診察を受け、担当医が腹腔鏡検査でヘプバーンの腹部に悪性腫瘍を発見し、虫垂で原発していることが判明した。これは腹膜偽粘液腫と呼ばれる極めて珍しいがんの一種だった[59][89]。何年もかけて成長した悪性腫瘍が転移しており、小腸をも薄く覆い尽くしていた。外科手術のあと、医者はヘプバーンに抗がん剤フルオロウラシルフォリン酸の投与による化学療法を開始した[90]。手術から数日後ヘプバーンは腸閉塞にかかり、薬物療法だけでは身体の痛みを和らげることができなくなった。12月1日に再手術が行われたが、すでに悪性腫瘍が身体各部に転移しており、外科手術による摘出は不可能であるという決断がなされた。

ヘプバーンの余命がわずかであることを知らされた家族たちは、ヘプバーンの希望で、最後になるであろうクリスマスを自宅で過ごさせるために、スイスの自宅へとヘプバーンを送り返すことを決めた[59]。しかしながら術後のヘプバーンはかなり衰弱していたので、通常の国際便での旅には耐えることができない状態だった[10]。このことを知ったヘプバーンの衣装デザイナーで長年にわたる友人だったユベール・ド・ジバンシィが、メロン財閥ポール・メロンの妻レイチェル・ランバート・メロンに頼んで、メロンが所有するプライベートジェット機をヘプバーンのために手配した[26][91][10]

出発前日の12月19日に、医師たちは離陸時の気圧の変化に耐えられず、ヘプバーンの腸の血管が破れ腹膜炎をおこす可能性がある、と告げた[1]。そうなると毒血症で1時間ともたないだろうと[1]。それでも12月20日、ロサンゼルスの友人の家で過ごしていたヘプバーンは、ビリー・ワイルダー夫妻やグレゴリー・ペック夫妻という親しい友人に会って最後の別れを告げて出発している[59][26]。そして多くの花々で満たされたジェット機が、ヘプバーンを乗せロサンゼルスから飛び立った[26][91]。パイロットは非常にゆっくりとした早さで上昇させ、着陸時にもできるだけ気圧の変化が無いように少しずつ降下させていった[1]。途中、グリーンランドで給油する必要があったため、危険性は2倍であった[1]。ジュネーヴの滑走路に降りたとき「帰ってきたわ」とヘプバーンの顔は輝き、長男のショーンは、家に帰れたことがどれだけヘプバーンにとって重大な意味を持っていたか、そのとき知った[1]

クリスマス、食べることの出来なかったヘプバーンはみんなのディナーの後で苦労して2階から降りてきて、友人や家族にクリスマスプレゼントを渡した[1][59]。ヘプバーンは買い物に出かけられないため、これまで持っていたスカーフ、セーター、ロウソクなどから一人一人に選んだものであったが、皆が感動した[1]。そのあとヘプバーンはサム・レヴェンソンの「時の試練によって磨かれる美」の一部を息子のショーンとルカのために読んでいる[1][59]。ロバート・ウォルダーズはヘプバーンが超人的な勇気を奮い起こして、ウォルダーズと子供達がヘプバーンを失うことに耐えられるよう助けようとしていると感じたという[59]。ウォルダーズは、その夜ヘプバーンが暗闇のベッドの中で「今年のクリスマスが今までで一番幸せだったわ」という声が、今も耳に残っている、と語っている[59]

スイスの自宅では、ヘプバーンは家族や友人に付き添ってもらって毎日庭に出て20分散歩するのが精神的な支えであったが、塀越しに隠し撮りしたり、ヘリコプターで上空からどこまでも追いかけてくるパパラッチのために諦めないといけないことがあった[1][59]。ジバンシィがパリから来た時にも一緒に庭を散歩したが、10歩ごとに立ち止まって休まなくてはならなかった[59]。ヘプバーンは最後の贈り物として3着のキルトのコートをジバンシィから買った[59]。ショーンとウォルダーズに1着ずつ、そしてジバンシィが帰り際にヘプバーンはそのうちのネイビー・ブルーのコートを贈った[59]。軽く口づけし、「これを着たらわたしのことを思い出してね」と小声で言いながらジバンシィに渡した[59]。1月17日にヘプバーンは最後の散歩をしている[1]。ヘプバーンは死の2、3日前まで「わたしのために笑って」とウォルダーズに言っていた[59]

病が進行するにつれ、ヘプバーンは次第に長い時間を眠って過ごすようになり、最後の2日間はヘプバーンはいっときに数分以上起きていられなかったという[1]。そして1993年1月20日の午後7時、ヘプバーンはスイスのトロシュナ (Tolochenaz) の自宅で、がんのために息を引き取った[1][59]。ヘプバーンの死を知った旧友グレゴリー・ペックは、ヘプバーンが好きだったラビンドラナート・タゴールの詩を涙ながらに朗読している[92]

ヘプバーンの葬儀は、1993年1月24日にトロシュナの教会で執り行われた[1][30]。ヘプバーンとメル・ファーラーの結婚式で牧師を務め、1960年に生まれた二人の息子ショーンの洗礼も担当したモーリス・アインディグエルがこの葬儀を取り仕切った[59][10]。ユニセフからはサドルッディン・アガ・カーン皇太子 (Prince Sadruddin Aga Khan) が弔辞を述べ、高官たちがこの葬儀に加わっている。家族や友人、知人としては、ヘプバーンの息子たちや共に暮らしていたロバート・ウォルダース、異父兄イアン・クアレス・ファン・ユフォルト、元夫のアンドレア・ドッティとメル・ファーラー、ユベール・ド・ジバンシィ、アラン・ドロンロジャー・ムーアらが参列した[59][10][93]。また、グレゴリー・ペック、エリザベス・テイラー、オランダ王室からは献花が届けられた[10][94]。葬儀の後、ショーンが挨拶に立った。最後のクリスマスにヘプバーンが読んだサム・レヴェンソンの「時の試練によって磨かれる美」を読んだ後、最後に庭を散歩した時のことを語っている[1]。「庭師のジョバンニがやって来てこう言いました。『奥様、よくおなりになったら枝を刈り込んだり花を植えたりするのを手伝ってくださいまし。』母はにっこり笑って答えました。『ジョバンニ、お手伝いするわ……でもこれまでとは違うやり方でね』[1]」そしてヘプバーンはトロシュナを一望できる小高い丘の小さな墓地に埋葬された[59][95]

エピソード

・日本人では1971年テレビCM(エクスラン・ヴァリーエ)のコーディネートがきっかけで加藤タキとの交友が知られている[96]

・日本には3回来日している。1回目は1983年、友人ジバンシィのサロン開設30周年記念のショーのために。2回目は1987年、ユニセフ主催の両国国技館でのチャリティーコンサートでの前説のために。最後は1990年にテレビ番組『庭園紀行』の「日本の庭園」編撮影のために。

・オードリーの名言として広くネットで拡散されてしまっている、

  “魅力的な唇になるために、優しい言葉を話しなさい。

  愛らしい瞳を持つためには、人の良いところを探しなさい

  スリムな体型のためには、お腹を空かした人に食べ物を分けてあげなさい”

  “大人になればきっと自分にも二つの手があることに気づくだろう。

  一つは自分を支えるため、もう一つは誰かを助けるため。”(翻訳は色々有り)

というのはオードリー・ヘプバーンの言葉では無い。これはサム・レヴェンソンの“Time Tested Beauty Tips(時の試練によって磨かれる美)”という詩をオードリーが気に入って、最後のクリスマスに息子たちに読み聞かせた[97][98]、というのが誤っていつの間にかオードリーの言葉として広がってしまったものである。

後世への影響や評価

どのように言えばいいのでしょう。とにかく私の人生はとても幸せでした。 — オードリー・ヘプバーン、[99]

ヘプバーンの女優としての業績とその人間性は死後も長く伝えられている。米国映画協会が選定した「最も偉大な女優50選」でヘプバーンは第3位になっている。ハリウッドから遠ざかった晩年においても、ヘプバーンは映画界で存在感を放っていた。1991年にはリンカーン・フィルム・ソサエティから表彰を受け、アカデミー授賞式では何度もプレゼンターを務めている。ヘプバーンが死後に受けた賞としては、1993年のジーン・ハーショルト友愛賞、グラミー賞、エミー賞などがある。

ヘプバーンは生前、自伝を書くように多くの出版社から求められたが、「人間はほかの多くの人との関わりの中で生きているのだから、必然的に他人についても語らなくてはいけません。そんなことをする権利は私にはないし、するつもりもありません」としてそのたびに断っている[59][65]。ヘプバーンの死後、奔流のように他人が書いた伝記本が発売されたが[59]、書籍によって内容が凄まじく異なっている[100]

広告媒体

ヘプバーンの映像は、世界中の広告媒体に使用されている。

世界で唯一日本だけに、オードリー・ヘプバーン本人が新しく撮り下ろしたテレビCMに出演した。1971年(日本エクスラン工業のエクスラン・ヴァリーエ[78][101][25])・82年(株式会社ワールドの銀座リザ[6][102])と2度も出演している。海外では放送されておらず、日本でのみ放送された[25][59]

既存のフィルムを使うものとしては、2000年〜2001年に『ローマの休日』のモノクロフィルムを着色してデジタル化された映像がキリン午後の紅茶CMに採用されていたほか[103]、2005年〜2007年には三井住友銀行が、インターネットを利用した銀行サービスや女性顧客向けの総合口座サービスのCMキャラクターにヘプバーンを起用していた[103]。このCMは、ヘプバーンが出演した映画から有名な場面を抜き出し、宣伝する商品に合うような日本語の台詞を吹き込む形式を取っている。この吹替を担当した声優がヘプバーンの映画作品でヘプバーンの声を多く担当した池田昌子だった。その他多くの企業がオードリー・ヘプバーンを使用している。

アメリカでは『パリの恋人』でヘプバーンが踊るシーンが、AC/DCの曲『バック・イン・ブラック』とともに衣料メーカのGAPのCMに採用された。GAPはオードリー・ヘプバーン子供基金に多額の献金をしている[104]。2013年には、3DCG制作されたヘプバーンの映像が、イギリス製チョコレートのギャラクシー (en:Galaxy (chocolate)) の広告に使用された[105]

ファッション

ヘプバーンは1961年にインターナショナル・ベスト・ドレッサー (en:International Best Dressed List) に選ばれて殿堂入りしており、死後においてもファッション界から敬意を払われている。アメリカの通信販売大手QVCによる「20世紀最高の美女」を決めるアンケート調査(女性2000人を対象に実施)と、飲料水エビアンを発売するダノンによる「史上最高の美女」の調査アンケートで、ともに1位となった[106][107][108]。当時のハリウッドでもてはやされていた、マリリン・モンロージェーン・マンスフィールドといった豊満な女優たちとは異なり、ヘプバーンは大きな瞳をもつ細身で優雅な女優だった[26]。当時の女性に対する典型的なイメージとは正反対のブラウンの眉を持つヘプバーンのことを、映画監督ビリー・ワイルダーは「忘れ難いファニーフェイス」と回想している。ワイルダーは「この女性が大きな胸を過去の遺物としてしまうだろう」と言った[79][42][59][11]

ヘプバーンのイメージを作りあげたのは、ファッションデザイナーのユベール・ド・ジバンシィがデザインした洋服だった[30][1]。ジバンシィがヘプバーンのドレスを最初にデザインしたのは、1954年の映画『麗しのサブリナ』からである。衣装はイーディス・ヘッドの担当だったが、監督のビリー・ワイルダーは、パリで美しく変貌を遂げたサブリナの衣装は、パリのマネキンが着るような最新モードであるべきだと考え、ジバンシィのサロンで自分で直接買い付けるようヘプバーンをフランスに送り出した[6][5][30][26]

パラマウントの関係者から、「ヘプバーン」という女優が今パリに来ており、次の映画で使う衣装を探していると言われたジバンシィは、その名前から、憧れの大女優キャサリン・ヘプバーンだと思い込み、大喜びでアポイントメントを受けた[5][26]。そのためオードリーと初めて顔を合わせたジバンシィは失望し、秋冬コレクション前で空いている時間がほとんどないため衣装を新たに作る時間はないとヘプバーンに答えている[5][26]。それでもジバンシィは「すでにある服を試して衣装としてふさわしいならなんとかなるかもしれません」と答えた。ヘプバーンはそれを受け入れ、1953年春夏コレクションの中から最終的に3つのドレスとそれに合わせた帽子を選びだし[26]、パリ・コレクションの一流モデルに合わせて作られたドレス(ウエスト50.8cm)を着こなしてみせた[26][109]。その後もヘプバーンは彼がデザインした多くの洋服を着こなし、そのファッションスタイルはジバンシィの名とともに世界的に高く評価されることになっていった。二人の友情と協力関係はヘプバーンが死去するまで続いた[1][26]

後年、ジバンシィはヘプバーンから「あなたの作ってくれたブラウスやスーツを着ていると、服が私を守ってくれている気がするわ」と言われて感激したと話している[26][5][110]。ジバンシィは『麗しのサブリナ』以降も『パリの恋人』、『昼下りの情事』、『ティファニーで朝食を』、『パリで一緒に』、『シャレード』、『おしゃれ泥棒』、『華麗なる相続人』、『おしゃれ泥棒2』でヘプバーンの衣装を担当した[25]。また、ジバンシィはヘプバーンとの35年にわたる交友で「彼女(ヘプバーン)の身体のサイズは、1インチとして変わらない」と述べている[5]。ジバンシィはヘプバーンの生涯を通じての友人、理解者であり、ヘプバーンはジバンシィにとって芸術の女神ミューズだった[26]。また、ジバンシィは「ランテルディ」という香水をヘプバーンのために調合している[11][111]

ジバンシィと同様に、著名なファッションカメラマンのリチャード・アヴェドンにとってもヘプバーンはミューズだった。アヴェドンが撮影したヘプバーンの顔のクローズアップ写真は、国際的に有名になった。この写真にはヘプバーンの特徴である眼差し、眉、口元が見事に映し出されていた。アヴェドンはヘプバーンについて「カメラの前に立ったときのオードリー・ヘプバーンの天性の素晴らしさには永遠に圧倒され続けるだろう。私には彼女の更なる魅力を引き出すことはできない。彼女はただそこに在り、私はそれを記録するのがやっとだ。何も付け加えることができない素晴らしい女性といえる。彼女の存在それ自身が完璧な肖像写真だ」と語っている[30]

『ティファニーで朝食を』(1961年公開)のサングラスをかけたヘプバーン。

イタリアの靴デザイナーであるサルヴァトーレ・フェラガモとは1954年から親交があり[1][70]、ヘプバーンの足の木型は現在でもフィレンツェのサルヴァトーレ・フェラガモ博物館が所蔵している[70]。1999年にはそのフェラガモ博物館で「オードリー・ヘプバーン:私のスタイル(Audrey Hepburn, a woman, the style)」と銘打った展示会が開かれ[112]、2000年〜2001年には日本各地を巡回した[113][112]。この展示会はヘプバーンの映画や私生活での衣装や靴、写真などが大量に展示される、大規模な展示会だった。フェラガモは虐待児童をケアするオードリー・ヘプバーン・チルドレンズ・ハウスを作る資金を集めると発表し、この展示会の収益もこれに充てられた[1]。(2004年〜2009年には息子ショーンによって、「timeless audrey」展という大規模な展示会も世界で開かれた。こちらも世界に先駆けて2004年〜2005年に日本全国を巡回している[114]。)

またヘプバーンがドッティと結婚していてローマに住んでいた70年代、ジバンシィでは高価すぎるので、友人に頼んでイタリアの当時新進気鋭のデザイナー、ヴァレンティノ・ガラヴァーニを紹介してもらい、友人となっている[65][26][59]。日本のCM「エクスラン・ヴァリーエ」に出演した時や[78]、『ロビンとマリアン』のポスターやパンフレットで着ていた衣装[42]はヴァレンティノのものである[70][22]。後年、ヴァレンティノのデビュー25周年の展示会で使うために、ヘプバーンのために作られた衣装を貸したところ、「こんなに大切に扱ってくれたのは貴方だけだ。新品のようだね」とヴァレンティノに言われて、ヘプバーンはずっと誇りに思っていたという[65]

ヘプバーンは晩年にはラルフ・ローレンの服も多用しており、『庭園紀行』の企画が持ち込まれたとき、衣装で相談したのもローレンだった[59]。「夜はジバンシィを着るのが好きだけど、昼間はあなたのスポーティーな衣装の方がいいわ」とローレンに言っている[59]

しかしヘプバーンは自分が魅力ある女性だとは思っていなかった[5][115]。痩せ過ぎで、鼻筋がまっすぐではなく、足が大きすぎると悩んでいた[1][26]。それ以外にも歯並びが悪く[6][49]、鼻孔が広いのを気にしていた[26][49]。「映画の仕事をするなんて思ってもみなかったわ。こんな顔なのに」とヘプバーンは言っていた[26]。だから目をかけてもらうだけでもありがたいと感謝し、時間を遵守し、セリフは完璧に覚え、周囲の人たちへの礼儀と尊敬を忘れなかった[1]

ヘプバーンはその生涯を通じてファッション界に刺激を与え、死後も影響を及ぼし続けている[26]。ヘプバーンが現代ファッションに及ぼした影響は飛び抜けており、デザイナーのマイケル・コースは「今のファッションを、女性たちは当然のように思って着ているが、もしオードリー・ヘプバーンがいなかったら、そういった服を今着てはいないだろう」と述べている[26]

2006年12月5日に、『ティファニーで朝食を』のためにジバンシィがデザインしたリトル・ブラックドレスがクリスティーズのオークションにかけられた。落札予想額は70,000ポンドだったが、最終的にはその7倍近い467,200ポンド(約92万ドル)で落札された。映画由来の衣装についた価格としては当時最高額だったが[116]、マリリン・モンローが『七年目の浮気』で着用した、地下鉄の通気口からの風でまくれ上がった「サブウェイ・ドレス」が2011年6月に460万ドルで売却されてヘプバーンの記録を更新している[117]。このヘプバーンのドレスの収益金は、インドの恵まれない子供たちを救済するチャリティー基金に寄付された。基金の責任者は「私は涙を禁じえません。伝説的とも言える女優が着用した衣装がレンガやセメントの購入資金となり、世界中の貧しい子供たちが通える学校を建てられることになるとは、本当に信じられない気持ちです」と述べた[118]。しかしながら、このクリスティーズのオークションに出品されたドレスは[119]、ヘプバーンが『ティファニーで朝食を』で着用したドレスではなかった[118][120]。『ティファニーで朝食を』のオープニングシーンの為にジバンシィが3着の同じドレスを用意したが、ジバンシィのデザインはサイドに深いスリットが入っていたためヘプバーンの映画には不適として、パラマウントでイーディス・ヘッドによってスリットの無い複製が作られることとなった[120][121]。実際にヘプバーンが着用したドレスは撮影後に廃棄され、現存していない[120]

2009年12月にもロンドンでヘプバーンが映画で使用した衣装のオークションが開催され、60,000ポンドの価格がついた『おしゃれ泥棒』で着用した黒のカクテルガウンなど、総額270,200ポンド(437,000ドル)で落札された。そしてオークションの収益金のうち半分が、オードリー・ヘプバーン子供基金とユニセフが共同で行っている学童支援活動に寄付された[122]

出演作品

映画作品
公開年 邦題
原題
配役 備考
1948年 オランダの七つの教訓
Nederlands in Zeven Lessen
オランダ航空のスチュワーデス オランダ語: Nederlands in Zeven Lessen日本未公開、全世界でビデオ・DVD未発売
1951年 若気のいたり
One Wild Oat
ホテルの受付嬢 端役

日本未公開、日本ではビデオ・DVD未発売

1951年 素晴らしき遺産
Laughter in Paradise
煙草売りのフリーダ 端役。ヘプバーンが英国で撮った最初の作品[5][11][123]。公開は『若気のいたり』の後になった

日本未公開

1951年 ラベンダー・ヒル・モブ
The Lavender Hill Mob
チキータ 端役

日本未公開(1975年8月5日に東京国立近代美術館のフィルムセンターで1日だけ特別上映、2019年6月15日に『オードリー・ヘプバーン映画祭』で109シネマズ二子玉川にて1回のみ特別上映)

1951年 若妻物語
Young Wives' Tale
イヴ・レスター クレジットの7番目に登場

日本未公開(2019年6月14日に『オードリー・ヘプバーン映画祭』で109シネマズ二子玉川にて1回のみ特別上映)

1952年 初恋
The Secret People
ノラ・ブレンターノ クレジットの4番目に登場
1952年 モンテカルロへ行こう

(フランス語版)
Nous irons à Monte Carlo

モンテカルロ・ベイビー

(英語版)
Monte Carlo Baby

メリッサ・ウォルター

(フランス語版)

リンダ・ファレル

(英語版)

英語版とフランス語版の二種類が製作された。

配役はそれぞれで違う。
ヘプバーンの衣装はクリスチャン・ディオール[5][10]

日本未公開、英語版は全世界でビデオ・DVD未発売

1953年 ローマの休日
Roman Holiday
アン王女(アーニャ・スミス) アカデミー賞 最優秀主演女優賞受賞
英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞
ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞受賞(ドラマ部門)
ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞受賞
1954年 麗しのサブリナ
Sabrina
サブリナ・フェアチャイルド アカデミー賞 最優秀主演女優賞ノミネート
英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞ノミネート
ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート
1956年 戦争と平和
War and Peace
ナターシャ・ロストワ 英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞ノミネート
ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ドラマ部門)

ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート

1957年 パリの恋人
Funny Face
ジョー・ストックトン 最初のミュージカル映画作品
1957年 昼下りの情事
Love in the Afternoon
アリアーヌ・シャバス ゴールデン・ローレル賞(Laurel Awards)女性コメディ演技賞受賞

ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ミュージカル・コメディ部門)
ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート

1959年 緑の館
Green Mansions
リマ 「尼僧物語」よりも撮影は後だった
1959年 尼僧物語
The Nun's Story
シスター・ルーク(ガブリエル・ヴァン・デル・マル) 英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞受賞
ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞受賞

サン・セバスティアン映画祭女優賞受賞

ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞外国女優賞受賞
アカデミー賞 最優秀主演女優賞ノミネート
ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ドラマ部門)

ゴールデン・ローレル賞女性ドラマ演技賞2位

1960年 許されざる者
The Unforgiven
レイチェル・ザカリー 唯一の西部劇映画
1961年 ティファニーで朝食を
Breakfast at Tiffany's
ホリー・ゴライトリー ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞外国女優賞受賞

アカデミー賞 最優秀主演女優賞ノミネート
ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ミュージカル・コメディ部門)

ゴールデン・ローレル賞女性コメディ演技賞3位

1961年 噂の二人
The Children's Hour
カレン・ライト ゴールデン・ローレル賞女性ドラマ演技賞4位
1963年 シャレード
Charade
レジーナ・ランパート 英国アカデミー賞 最優秀主演英国女優賞受賞
ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ドラマ部門)

ゴールデン・ローレル賞女性コメディ演技賞3位

1964年 パリで一緒に
Paris When It Sizzles
ガブリエル・シンプソン/

ギャビーの二役

「シャレード」よりも撮影は先だった
1964年 マイ・フェア・レディ
My Fair Lady
イライザ・ドゥーリトル ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞外国女優賞受賞

ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ミュージカル・コメディ部門)
ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート

ゴールデン・ローレル賞女性コメディ演技賞3位

1966年 おしゃれ泥棒
How to Steal a Million
ニコル・ボネ
1967年 いつも2人で
Two for the Road
ジョアンナ・ウォレス ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ミュージカル・コメディ部門)
1967年 暗くなるまで待って
Wait Until Dark
スージー・ヘンドリクス アカデミー賞 最優秀主演女優賞ノミネート
ゴールデングローブ賞 最優秀主演女優賞ノミネート(ドラマ部門)
ニューヨーク映画批評家協会賞 女優賞ノミネート

ゴールデン・ローレル賞女性ドラマ演技賞3位

1976年 ロビンとマリアン
Robin and Marian
レディ・マリアン
1979年 華麗なる相続人
Bloodline
エリザベス・ロフ 唯一のR指定作品
1981年 ニューヨークの恋人たち
They All Laughed
アンジェラ・ニオティーズ 日本未公開・日本ではビデオのみ発売
1989年 オールウェイズ
Always
天使ハップ
テレビ番組
放送年 番組名 配役 Notes
1951年 サンデー・ナイト・シアター
Sunday Night Theatre
セリア エピソード "The Silent Village"
1952年 トースト・オブ・ザ・タウン

Toast of the Town

2月10日放送。「九日間の女王(レディ・ジェーン)」のジェーン・グレイを演じる。
1952年 CBSテレビジョン・ワークショップ
CBS Television Workshop
本人 4月13日放送。

エピソード "Rainy Day at Paradise Junction"

1952年 トースト・オブ・ザ・タウン

Toast of the Town

5月25日放送。後に『マイ・フェア・レディ』で共演するレックス・ハリスンと初共演。「1000日のアン」のアン・ブーリンを演じる。
1957年 マイヤーリング
Mayerling
マリー・フォン・ヴェッツェラ アメリカのNBCが制作したテレビ映画
日本では2014年1月4日から劇場公開された[124]
1970年 愛の世界

A World of Love

本人 12月22日放送。ジュリー・アンドリュースが司会を務めるユニセフのドキュメンタリー。ヘプバーンがユニセフに関わった最初のもの[65]
1987年 おしゃれ泥棒2
Love Among Thieves
男爵夫人キャロライン・デュラック テレビ映画
1993年 オードリー・ヘプバーンの庭園紀行
Gardens of the World with Audrey Hepburn
進行 エミー賞 情報番組個人業績賞
1993年 Audrey Hepburn: In Her Own Words 本人 ユニセフのドキュメンタリー(DVDのみの発売)
舞台作品
上演年 作品名 配役 劇場名 Notes
1948年 - 1949年 ハイ・ボタン・シューズ
High Button Shoes
コーラスガール ロンドン・ヒッポドローム劇場 (London Hippodrome) 1948年12月22日初演、全291回公演
1949年 ソース・タルタル
Sauce Tartare
コーラスガール ケンブリッジ・シアター (Cambridge Theatre)) 1949年5月18日初演
1950年 ソース・ピカンテ
Sauce Piquante
主役級 ケンブリッジ・シアター 1950年4月27日初演
1951年 - 1952年 ジジ
Gigi
ジジ フルトン・シアター (Fulton Theatre) 1951年11月24日初演、1952年5月31日終演
シアター・ワールド賞受賞 (en:Theatre World Award)
1952年 - 1953年 ジジ
Gigi
ジジ アメリカ各地 アメリカ巡業公演
1952年10月13日にピッツバーグで開幕、1953年5月16日にサンフランシスコで閉幕
その他、ボストン、クリーヴランド、シカゴ、デトロイト、ワシントン、ロサンゼルスで上演
1954年 オンディーヌ
Ondine
オンディーヌ リチャード・ロジャース・シアター
Richard Rodgers Theatre
1954年2月18日初演、1954年6月26日終演
トニー賞 最優秀演劇女優賞受賞

受賞

『the audrey hepburn treasures』には巻末にヘプバーンが受賞、あるいはノミネートされた賞や名誉が117掲載されている。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at (ヘプバーンの長男)ショーン・ヘプバーン・フェラー(2004年5月18日初版発行)『AUDREY HEPBURN―母、オードリーのこと』.竹書房.(ISBN 4-8124-1668-X).
  2. ^ Ferrer, Sean (2005). Audrey Hepburn, an Elegant Spirit. New York: Atria. p. 148. ISBN 978-0-671-02479-6 
  3. ^ a b Paris, Barry (2001). Audrey Hepburn. City: Berkley Trade. ISBN 978-0-425-18212-3 
  4. ^ Yann-Brice Dherbier, ed (2007). 『AUDREY HEPBURN A Life in Pictures』の中のAxelle Emdennoの文章. London: Pavilion. p. 19. ISBN 978-1-86205-775-3 
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk バリー・パリス著 『オードリー・ヘプバーン』上巻 1998年5月4日初版発行
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x チャールズ・ハイアム (1986年3月15日). オードリー・ヘプバーン 映画に燃えた華麗な人生. 近代映画社 
  7. ^ ヘプバーンの出生証明書には、父ジョゼフはロンドン生まれだと記されている。しかしながらこの記録は1952年になって生母エラによって「(オーストリア領)ボヘミアのウジツェ出身」と改められた。ウジツェは現在ではチェコに属している[1]
  8. ^ 母アンナはスロヴァキア出身だった。 [http://www.pitt.edu/~votruba/qsonhist/celebrities/hepburnaudrey.html
  9. ^ Walker, page 6
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am アレグザンダー・ウォーカー (2003年1月20日). 『オードリー リアル・ストーリー』. 株式会社アルファベータ 
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag イアン・ウッドワード (1993年12月25日初版発行). 『オードリーの愛と真実』. 日本文芸社 
  12. ^ vrijdag 6 mei 2011, 07u26. “De vijf hoeken van de wereld: Amerika in Elsene”. brusselnieuws.be. 14 March 2012閲覧。
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af エレン・アーウィン&ジェシカ・Z・ダイヤモンド (2006年9月25日). 『the audrey hepburn treasures』. 講談社 
  14. ^ 日本では未訳の、Warren G.Harris の伝記に書かれている、とバリー・パリスの伝記の日本版上巻p36(単行本版)に書いている。
  15. ^ 2004年に発行された息子ショーンの『母、オードリーのこと』ではジョセフが発見したことになっていたが、2006年の『the audrey hepburn treasures』はショーンも関わっているので、後年のエラが発見した方を採用。
  16. ^ それ以前のパスポートではオードリー・ドッティ、さらにそれ以前はA・ファーラーとサインされている。
  17. ^ ヘプバーンの次男ルカ・ドッティ、及びアレグザンダー・ウォーカーの伝記では1959年、となっている。
  18. ^ Klein, Edward. (5 March 1989). "You Can't Love Without the Fear of Losing". Parade.
  19. ^ Famous and Notable People 'In and Around' the Elham Valley”. www.elham.co.uk. 4 September 2009閲覧。
  20. ^ Cox, Alex (20 January 2011). “Audrey Hepburn: an iconic problem”. The Guardian (UK). http://www.guardian.co.uk/film/2011/jan/20/audrey-hepburn-breakfast-at-tiffanys 
  21. ^ a b James, Caryn (1993年). “Audrey Hepburn, Actress, Is Dead at 63”. New York Times. オリジナルの18 January 2007時点におけるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20070118162914/http://www.nytimes.com/specials/magazine4/articles/hepburn1.html 26 November 2006閲覧。 
  22. ^ a b c d 『timeless Audrey』. シーボルト・ブックス. (2004年5月22日) 
  23. ^ Seigel, Jessica. Interview with Audrey Hepburn, The Chicago Tribune, 20 January 1992
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  25. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r ジェリー・バーミリー (1997年6月13日初版発行). 『スクリーンの妖精 オードリー・ヘップバーン』p137. シンコー・ミュージック 
  26. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x パメラ・クラーク・キオ (2000年12月18日). オードリー・スタイル. 講談社 
  27. ^ "Audrey Hepburn's Son Remembers Her Life". Larry King Live. 24 December 2003. CNNhttp://transcripts.cnn.com/TRANSCRIPTS/0312/24/lkl.00.html {{cite episode}}: |transcripturl=に対応するタイトル引数を入力してください。 (説明)
  28. ^ Nichols, Mark Audrey Hepburn Goes Back to the Bar, Coronet, November 1956
  29. ^ Walker, Alexander (1994). Audrey, Her Real Story. London: Orion. p. 55. ISBN 1-85797-352-6 
  30. ^ a b c d e f g h i j ロビン・カーニー (1994年1月20日). 『ライフ・オブ・オードリー・ヘップバーン』. キネマ旬報社 
  31. ^ このテストのフィルムは現存するか不明だが、1954年9月号の『スクリーン』や1993年10月5日初版発行スクリーン特別編集『ハリウッドの妖精 オードリー・ヘプバーン写真集』などで写真を見ることができる。
  32. ^ この契約についてバリー・パリスの伝記では2年、アレグザンダー・ウォーカーの伝記では7本、イアン・ウッドワードの伝記では短期間に2本、となっている。
  33. ^ a b Gigi - インターネット・ブロードウェイ・データベース(英語)
  34. ^ Filmography: Roman Holiday”. audrey1.com. 2008年1月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。14 January 2008閲覧。
  35. ^ イアン・ウッドワードの伝記では撮影が始まって2・3日、となっている。p140
  36. ^ この話はグレゴリー・ペック自身が語っている映像が残っている。ただし『想い出のオードリー・ヘップバーン』ではエージェントに、『ローマの休日』デジタル・ニューマスター2枚組の特典DVDの「『ローマの休日』の思い出」ではスタジオに要求したことになっている。
  37. ^ トニー・ヌールマンド (2006年12月26日初版). 『オードリー・ヘップバーン 華麗なるパラマウント映画時代』. 東京書籍 
  38. ^ 『マイ ファニーフェイス/オードリー・ヘプバーン』p17. 近代映画社. (2009年12月15日初版発行) 
  39. ^ “Audrey Hepburn: Behind the sparkle of rhinestones, a diamond's glow”. TIME. (1953年9月7日). オリジナルの2009年5月12日時点におけるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20090512220104/http://www.time.com/time/covers/0,16641,19530907,00.html 2009年5月28日閲覧。 
  40. ^ a b 泉 三樹夫, ed (1954年11月20日発行). 『オードリー・ヘップバーン物語』. 東京タイムズ 
  41. ^ 『スクリーン臨時増刊 オードリー・ヘプバーン特別号』. 近代映画社. (1963年5月15日発行) 
  42. ^ a b c d 『カタログ オードリー・ヘプバーン』. 雄鶏社. (1977年1月25日) 
  43. ^ a b 結婚した日には24日説と25日説がある。24日説の本が長男ショーン、バリー・パリス、ジェリー・バーミリー、『the audrey hepburn treasures』25日説の本がチャールズ・ハイアム、イアン・ウッドワード、アレグザンダー・ウォーカー、ロビン・カーニー、ショーンも関わった『timeless audrey』、『オードリー・ヘプバーン:私のスタイル』など。1954年『スクリーン』12月号(10月発売)にそのことの詳細が書かれており、24日にルツェルン湖畔のブオクスで町長に執り行ってもらったもので、出席者はヘプバーンとファーラー以外には2名だけ。25日に正式にビュルゲンシュトックで親族が呼ばれて結婚式が挙げられている。
  44. ^ Hepburn's Golden Globe nominations and awards”. Goldenglobes.org (2010年1月14日). 2010年4月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年3月10日閲覧。
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  46. ^ E.A. Hanks. [2], Vanity Fair, 2010-6-22
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  60. ^ エリザベス・テイラーは乗り気で、バリー・パリスの伝記では、「『マイ・フェア・レディ』の役を取ってきて」と当時の夫エディー・フィッシャーやエージェントに言っていたとなっている。イアン・ウッドワードの伝記ではヘプバーンに決定後も「『マイ・フェア・レディ』を私にやらせて」と何度もエディー・フィッシャーに言っていた、となっている。
  61. ^ 『映画の友』p250. 株式会社映画の友. (1964年2月号(1963年12月発売)) 
  62. ^ “Audrey Hepburn”. The Daily Telegraph (London). (1993年1月22日). http://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/5894883/Audrey-Hepburn.html 
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  64. ^ 日本コロムビアや20世紀フォックスからDVDが発売され、BS11でも放送された『想い出のオードリー・ヘプバーン』、ドーネン監督自身の言葉。
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  67. ^ バリー・パリスは、「マ・メール・ロワ組曲」を使った『オードリー・ヘプバーン 魅惑の物語』と、『動物の謝肉祭』を同じCDだと思って書いているが、実際は別物であり、アマゾンなどではそれぞれのCDが発売されている。
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  69. ^ 『the audrey hepburn treasures』とアレグザンダー・ウォーカー、イアン・ウッドワードの伝記では東京へは1988年3月に行ったとなっているが、間違い。当時の『スクリーン』で来日は1987年12月18日となっている。コンサートは12月20日。
  70. ^ a b c d ステファニア・リッチ、サルバトーレ・フェラガモ博物館 (2001年6月). オードリー・ヘプバーン:私のスタイル. 朝日新聞社 
  71. ^ バリー・パリスの伝記や、ユニセフのサイトなどで1989年になっているものがあるが、『the audrey hepburn treasures』では1988年3月8日付のユニセフの辞令が添付されており、1988年4月22日発行の国連のパスポートには既に「ユニセフ親善大使」と書いてある『the audrey hepburn treasures』『母、オードリーのこと』
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  81. ^ ほとんどのヘプバーンの伝記ではショーンの誕生日を1月17日にしており、2003年発行の『母、オードリーのこと』でショーン本人が明確に否定している。ところが2009年に原著が出ているマーティン・ギトリンの伝記(日本版は2019年株式会社クレヴィス発行)でも未だに1月17日になっている。正確に7月17日にしているのは『the audrey hepburn treasures』と『ライフ・オブ・オードリー・ヘップバーン』など、ごく一部である。
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  86. ^ イアン・ウッドワードの伝記では11月21日、ロビン・カーニーの『ライフ・オブ・オードリー・ヘプバーン』では11月、アレグザンダー・ウォーカーの伝記では11月20日、息子ショーンも関わっている『the audrey hepburn tresures』では12月となっている。ここでは息子の本が一番信憑性が高いと判断している。
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  109. ^ この最初の出会いについては、ジバンシィ本人が何度も語っている。日本コロムビアや20世紀フォックスからDVDが発売され、BS11でも放送された『想い出のオードリー・ヘプバーン』や、2013年11月23日にNHK BSプレミアムで放送された『松下奈緒 永遠のオードリー』など。ここでの記述も一部ジバンシィ本人の言い方に直している。
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参考文献

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  • チャールズ・ハイアム 『オードリー・ヘプバーン 映画に燃えた華麗な人生』 柴田京子訳、近代映画社 1986年
  • バリー・パリス 『オードリー・ヘップバーン』 永井淳訳、集英社 1998年(2001年の文庫版タイトルは『オードリー・ヘップバーン物語』)
  • イアン・ウッドワード 著、坂口玲子 訳『オードリーの愛と真実』日本文芸社、1993年12月25日。 
  • アレグザンダー・ウォーカー 著、斎藤静代 訳『オードリー リアル・ストーリー』株式会社アルファベータ、2003年1月20日。 
  • ロビン・カーニー『ライフ・オブ・オードリー・ヘップバーン』中俣真知子訳、キネマ旬報社、1994年
  • ステファニア・リッチ『オードリー・ヘプバーン:私のスタイル』朝日新聞社、2001年
  • 『timeless audrey』(timeless audrey 展図録)シーボルト・ブックス、2004年
  • サム・ワッソン『オードリー・ヘプバーンとティファニーで朝食を オードリーが創った、自由に生きる女性像』清水晶子、マーブルトロン発行、中央公論新社発売、2011年
  • エレン・アーウィン&ジェシカ・Z・ダイヤモンド『the audrey hepburn treasures』講談社、2006年
  • エレン・フォンタナ&ショーン・ヘプバーン・ファーラー『AUDREY100 オードリー物語 100枚の写真に秘められた伝説』二見書房、2011年
  • ジェリー・バーミリー『スクリーンの妖精 オードリー・ヘップバーン』シンコー・ミュージック、1997年
  • 『映画の友11月号臨時増刊 オードリイ・ヘップバーン全集』株式会社映画の友、1966年
  • シネアルバム5 『オードリー・ヘプバーン きらめく真珠のように夢みる白鳥のように』芳賀書店、1971年
  • 『カタログ オードリー・ヘプバーン』雄鶏社、1977年
  • シュプール特別編集『永遠のオードリー・ヘップバーン』集英社、1993年
  • 清藤秀人 『永遠のファッション・アイコン オードリーに学ぶおしゃれ練習帳』 近代映画社、2008年
  • パメラ・クラーク・キオ『オードリー・スタイル 〜エレガントにシックにシンプルに』講談社、2000年。ISBN 978-4062105323
  • Harris, Warren G. (1994). Audrey Hepburn: A Biography. Simon & Schuster. ISBN 9780671758004 
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関連項目

外部リンク

  1. ^ Tynan, William (200-3-27). “The Audrey Hepburn Story”. TIME. http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,996489,00.html 2010年3月10日閲覧。