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[[1906年]](明治39年)[[北海道第一師範学校|北海道尋常師範学校]](現在の[[北海道教育大学]]札幌校)卒業後、北海道の[[旧制]][[小学校]]の[[訓導]]や[[校長]]を経て、[[1918年]]([[大正]]7年)[[中央大学]][[法学部]]卒業。[[1921年]](大正10年)[[判事検事登用試験]]に合格。[[弁護士]]・[[弁理士 (日本)|弁理士]]事務所を開く。 |
[[1906年]](明治39年)[[北海道第一師範学校|北海道尋常師範学校]](現在の[[北海道教育大学]]札幌校)卒業後、北海道の[[旧制]][[小学校]]の[[訓導]]や[[校長]]を経て、[[1918年]]([[大正]]7年)[[中央大学]][[法学部]]卒業。[[1921年]](大正10年)[[判事検事登用試験]]に合格。[[弁護士]]・[[弁理士 (日本)|弁理士]]事務所を開く。 |
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[[1924年]](大正13年)[[小選挙区制]]で実施された[[第15回衆議院議員総選挙]]に旧北海道第10区から[[憲政会]]公認で出馬して、衆議院議員に初当選<ref>[https://web.archive.org/web/20140714110945/http://go2senkyo.com/precinct/shugiin/hokkaido/18555 第15回衆議院議員選挙 北海道10区 - ザ選挙] - [http://voicejapan.org/ 株式会社VoiceJapan]が運営するサイト・[http://go2senkyo.com/ ザ選挙]内のページ(但し会員限定公開ページに変更されたため[[インターネット |
[[1924年]](大正13年)[[小選挙区制]]で実施された[[第15回衆議院議員総選挙]]に旧北海道第10区から[[憲政会]]公認で出馬して、衆議院議員に初当選<ref>[https://web.archive.org/web/20140714110945/http://go2senkyo.com/precinct/shugiin/hokkaido/18555 第15回衆議院議員選挙 北海道10区 - ザ選挙] - [http://voicejapan.org/ 株式会社VoiceJapan]が運営するサイト・[http://go2senkyo.com/ ザ選挙]内のページ(但し会員限定公開ページに変更されたため[[インターネットアーカイブ]]内のページにリンク)。</ref>。[[中選挙区制]]が導入された[[1928年]](昭和3年)の[[第16回衆議院議員総選挙]]には旧北海道第4区から[[立憲民政党]]公認で出馬するものの次点に終わったが<ref>[https://web.archive.org/web/20140714181228/http://go2senkyo.com/precinct/shugiin/hokkaido/19045 第16回衆議院議員選挙 北海道4区 - ザ選挙] - 同上。</ref>、[[1930年]](昭和5年)の[[第17回衆議院議員総選挙]]に前回と同じく民政党公認で出馬しトップ当選で返り咲いて<ref>『議会開設百周年記念 コンピュータ編集版 歴代国会議員経歴要覧』、965頁。</ref>からは連続5回当選し、[[1934年]](昭和9年)には[[岡田内閣]]の[[拓務省|拓務]][[参与官]]に就任した。政党解消後は[[翼賛議員同盟]]・[[翼賛政治会]]・[[大日本政治会]]に所属し、[[1942年]](昭和17年)の[[第21回衆議院議員総選挙]]には[[大政翼賛会|翼賛政治体制協議会]]の推薦候補として出馬しトップ当選した<ref>[https://web.archive.org/web/20140714162933/http://go2senkyo.com/precinct/shugiin/hokkaido/18923 第21回衆議院議員選挙 北海道4区 - ザ選挙] - 株式会社VoiceJapanが運営するサイト・ザ選挙内のページ(但し会員限定公開ページに変更されたためインターネット・アーカイブ内のページにリンク)。</ref>。 |
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終戦後は日政会の後身である進歩党の結党に参加し、[[幣原内閣]]の[[司法省|司法]][[政務次官]]にも就任したが、[[翼賛選挙]]で翼賛政治体制協議会の推薦候補として当選したため[[公職追放]]。追放中は日本生活資材社長や松前タルク陶石社長等を歴任した。追放解除後も政治熱が冷めやらず、[[1952年]](昭和27年)の[[第25回衆議院議員総選挙]]<ref name="北海道歴史人物事典241">『北海道歴史人物事典』、241頁。</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20140714112931/http://go2senkyo.com/precinct/shugiin/hokkaido/14529 第25回衆議院議員選挙 北海道4区 - ザ選挙] - 同上。</ref>及び[[1953年]](昭和28年)の[[第26回衆議院議員総選挙]]には[[改進党]]公認で<ref name="北海道歴史人物事典241"/><ref>[https://web.archive.org/web/20140714203520/http://go2senkyo.com/precinct/shugiin/hokkaido/14412 第26回衆議院議員選挙 北海道4区 - ザ選挙] - 同上。</ref>、[[1955年]](昭和30年)の[[第27回衆議院議員総選挙]]には[[日本民主党]]公認で<ref>[https://web.archive.org/web/20140714132639/http://go2senkyo.com/precinct/shugiin/hokkaido/14294 第27回衆議院議員選挙 北海道4区 - ザ選挙] - 同上。</ref>、さらに[[1956年]](昭和31年)の[[第4回参議院議員通常選挙]]にも[[緑風会]]公認でそれぞれ出馬したが落選し<ref name="北海道歴史人物事典241"/><ref>[https://web.archive.org/web/20140714122159/http://go2senkyo.com/precinct/sangiin/hokkaido/9375 第4回参議院議員選挙 北海道選挙区 - ザ選挙] - 同上。</ref>、政界に復帰することはなかった。 |
終戦後は日政会の後身である進歩党の結党に参加し、[[幣原内閣]]の[[司法省|司法]][[政務次官]]にも就任したが、[[翼賛選挙]]で翼賛政治体制協議会の推薦候補として当選したため[[公職追放]]。追放中は日本生活資材社長や松前タルク陶石社長等を歴任した。追放解除後も政治熱が冷めやらず、[[1952年]](昭和27年)の[[第25回衆議院議員総選挙]]<ref name="北海道歴史人物事典241">『北海道歴史人物事典』、241頁。</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20140714112931/http://go2senkyo.com/precinct/shugiin/hokkaido/14529 第25回衆議院議員選挙 北海道4区 - ザ選挙] - 同上。</ref>及び[[1953年]](昭和28年)の[[第26回衆議院議員総選挙]]には[[改進党]]公認で<ref name="北海道歴史人物事典241"/><ref>[https://web.archive.org/web/20140714203520/http://go2senkyo.com/precinct/shugiin/hokkaido/14412 第26回衆議院議員選挙 北海道4区 - ザ選挙] - 同上。</ref>、[[1955年]](昭和30年)の[[第27回衆議院議員総選挙]]には[[日本民主党]]公認で<ref>[https://web.archive.org/web/20140714132639/http://go2senkyo.com/precinct/shugiin/hokkaido/14294 第27回衆議院議員選挙 北海道4区 - ザ選挙] - 同上。</ref>、さらに[[1956年]](昭和31年)の[[第4回参議院議員通常選挙]]にも[[緑風会]]公認でそれぞれ出馬したが落選し<ref name="北海道歴史人物事典241"/><ref>[https://web.archive.org/web/20140714122159/http://go2senkyo.com/precinct/sangiin/hokkaido/9375 第4回参議院議員選挙 北海道選挙区 - ザ選挙] - 同上。</ref>、政界に復帰することはなかった。 |
2017年9月4日 (月) 18:50時点における版
手代木 隆吉 てしろぎ りゅうきち | |
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生年月日 | 1884年1月30日 |
出生地 | 北海道有珠郡紋鼈 |
没年月日 | 1967年3月31日(83歳没) |
出身校 | 中央大学 |
所属政党 |
憲政会 立憲民政党 日本進歩党 改進党 日本民主党 緑風会 |
手代木 隆吉(てしろぎ りゅうきち、1884年(明治17年)1月30日[1] - 1967年(昭和42年)3月31日)は、日本の教育者・政治家・弁護士・実業家。衆議院議員(当選6回、日本進歩党)。北海道有珠郡紋鼈(現・北海道伊達市)出身[2]。号は「胡山」。
経歴
1906年(明治39年)北海道尋常師範学校(現在の北海道教育大学札幌校)卒業後、北海道の旧制小学校の訓導や校長を経て、1918年(大正7年)中央大学法学部卒業。1921年(大正10年)判事検事登用試験に合格。弁護士・弁理士事務所を開く。
1924年(大正13年)小選挙区制で実施された第15回衆議院議員総選挙に旧北海道第10区から憲政会公認で出馬して、衆議院議員に初当選[3]。中選挙区制が導入された1928年(昭和3年)の第16回衆議院議員総選挙には旧北海道第4区から立憲民政党公認で出馬するものの次点に終わったが[4]、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に前回と同じく民政党公認で出馬しトップ当選で返り咲いて[5]からは連続5回当選し、1934年(昭和9年)には岡田内閣の拓務参与官に就任した。政党解消後は翼賛議員同盟・翼賛政治会・大日本政治会に所属し、1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙には翼賛政治体制協議会の推薦候補として出馬しトップ当選した[6]。
終戦後は日政会の後身である進歩党の結党に参加し、幣原内閣の司法政務次官にも就任したが、翼賛選挙で翼賛政治体制協議会の推薦候補として当選したため公職追放。追放中は日本生活資材社長や松前タルク陶石社長等を歴任した。追放解除後も政治熱が冷めやらず、1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙[7][8]及び1953年(昭和28年)の第26回衆議院議員総選挙には改進党公認で[7][9]、1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙には日本民主党公認で[10]、さらに1956年(昭和31年)の第4回参議院議員通常選挙にも緑風会公認でそれぞれ出馬したが落選し[7][11]、政界に復帰することはなかった。
脚注・出典
- ^ 衆議院『第四十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1924年、36頁。
- ^ 『北海道歴史人物事典』(北海道新聞社編集・発行、1993年(平成5年)7月21日第1刷発行、ISBN 4-89363-696-0)
- ^ 第15回衆議院議員選挙 北海道10区 - ザ選挙 - 株式会社VoiceJapanが運営するサイト・ザ選挙内のページ(但し会員限定公開ページに変更されたためインターネットアーカイブ内のページにリンク)。
- ^ 第16回衆議院議員選挙 北海道4区 - ザ選挙 - 同上。
- ^ 『議会開設百周年記念 コンピュータ編集版 歴代国会議員経歴要覧』、965頁。
- ^ 第21回衆議院議員選挙 北海道4区 - ザ選挙 - 株式会社VoiceJapanが運営するサイト・ザ選挙内のページ(但し会員限定公開ページに変更されたためインターネット・アーカイブ内のページにリンク)。
- ^ a b c 『北海道歴史人物事典』、241頁。
- ^ 第25回衆議院議員選挙 北海道4区 - ザ選挙 - 同上。
- ^ 第26回衆議院議員選挙 北海道4区 - ザ選挙 - 同上。
- ^ 第27回衆議院議員選挙 北海道4区 - ザ選挙 - 同上。
- ^ 第4回参議院議員選挙 北海道選挙区 - ザ選挙 - 同上。
参考文献
- 『議会開設百周年記念 コンピュータ編集版 歴代国会議員経歴要覧』宮川隆義編集、政治広報センター発行、1990年(平成2年)11月24日第1刷第1版、ISBN 4-88094-422-X
- 『北海道歴史人物事典』北海道新聞社編集・発行、1993年(平成5年)7月21日初刷、ISBN 4-89363-696-0
- 『北海道人物・人材情報リスト2004 か-と』日外アソシエーツ編集・発行、2003年(平成15年)