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「安房神社」の版間の差分

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{{Otheruses|千葉県館山市にある神社}}
{{神社
{{神社
|名称 = 安房神社
|名称 = 安房神社
|画像 = [[ファイル:Precincts of Awa-jinja.JPG|280px|境内]]<br/>境内
|画像 = [[File:Awa-jinja, haiden2.jpg|270px]]<br />拝殿
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|創建 = (伝)初代[[神武天皇]]元年
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|別名 = 大神宮
|別名 = 大神宮
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'''安房神社'''(あわじんじゃ)は、[[千葉県]][[館山市]]にある[[神社]]。[[式内社]]([[名神大社]])、[[安房国]][[一宮]]。[[近代社格制度|旧社格]]は[[官幣大社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。
'''安房神社'''(あわじんじゃ)は、[[千葉県]][[館山市]]大神宮にある[[神社]]。[[式内社]]([[名神大社]])、[[安房国]][[一宮]]。[[近代社格制度|旧社格]]は[[官幣大社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。


== 概要 ==
別称として「'''大神宮'''」とも。[[日本神話|神話]]の時代に[[阿波国]]より渡ってきた[[忌部氏]]による創建とされる。
[[ファイル:Awa-jinja Gate (Springtime).JPG|代替文=|サムネイル|220x220ピクセル|{{center|桜花祭時の参道と一の鳥居}}]]
[[千葉県]]南部、[[房総半島]]最南端部の吾谷山(あづちやま)山麓に鎮座する神社である。伝承では、[[日本神話|神話時代]]に[[阿波国|阿波地方]](現在の[[徳島県]])から渡ってきた[[忌部氏]](いんべうじ、斎部氏)による創建といい、「安房」の国名・社名はこの阿波忌部の移住・開拓から起こったといわれる。

古代の[[安房国]]は[[アワビ]]の貢進地として朝廷から重要視され、安房国の中心的神社である安房神社もまた古くより重要視された。特に、全国でも数少ない[[神郡]]が設置された点や、[[出雲国造]]([[出雲大社]]奉斎氏族)・[[紀伊国造]]([[和歌山市|和歌山]]の[[日前神宮・國懸神宮|日前國懸神宮]]奉斎氏族)に並び[[阿波国造|安房国造]]が[[律令制]]下でも祭祀を担った点、および宮中の[[大膳職]]にも「御食津神」として祀られていた点が特筆される。[[中世]]以降は安房国の[[一宮]]に位置づけられ、[[明治維新]]後も[[近代社格制度]]で最高位の[[官幣大社]]に位置づけられたように、歴史を通じて崇敬を集めた古社になる。

境内は、抜歯習俗を示す人骨多数を包含した洞窟遺跡の発見でも知られ、その遺跡(現在は埋没)は千葉県指定史跡に指定されている。また、社宝のうちで八稜鏡・円鏡などの文化財を伝世するほか、阿波忌部の開拓に因んだ祭礼が現在まで続けられている。


== 祭神 ==
== 祭神 ==
本宮(上の宮)の祭神は次の7柱<ref name="祭神">[http://www.awajinjya.org/gosaijin.htm ご祭神・ご由緒](公式サイト)。</ref>。
[[ファイル:安房神社 二の鳥居.JPG|thumb|250px|right|二の鳥居]]
本宮は摂社の下の宮に対して「'''上の宮'''」と呼ばれる。安房国は[[忌部氏]]が開拓した土地であり、上の宮はその[[祖神]]を祀っている。また相殿神として、主祭神の妃神と忌部五部神を祀っている。
; 主祭神
; 主祭神
* '''[[天太玉命]]''' (あめのふとだまのみこと) - 忌部氏祖神
:* '''[[天太玉命]]'''(あめのふとだまのみこと) - [[忌部氏]](斎部氏)祖神
; 相殿神
; 相殿神
* 天比理刀咩命 (あめのひりとめのみこと) - 天太玉命の妃<ref>当社では「比理」と、「比理」とする文献もある([[洲崎神社#祭神]]を参照)。</ref>
:* [[天比理刀咩命]](あめのひりとめのみこと)<ref group="注" name="后">后神について、『延喜式』神名帳では「比理'''乃'''咩命(あめのひりのめのみこと)」と表記され一方『続日本後紀』・『日本文徳天皇実録』・『日本三代実録』では比理'''刀'''咩命(あめのひりとめのみこと、天比々理刀咩命)」と表記され異同がある([[洲崎神社#祭神]]を参照)。安房神社由緒では「刀」の表記が採用される。</ref> - 后神。
* 忌部五部神
:* 忌部五部神
** [[玉祖命|櫛明玉命]] (くしあかるたまのみこと) - [[出雲国|出雲]]忌部の祖
:** [[玉祖命|櫛明玉命]](くしあかるたまのみこと) - [[出雲国|出雲]]忌部の祖
** [[天日鷲神|天日鷲命]] (あめのひわしのみこと) - [[阿波国|阿波]]忌部の祖
:** [[天日鷲神|天日鷲命]](あめのひわしのみこと) - [[阿波国|阿波]]忌部の祖
** [[手置帆負命]] たおきほおいのみこと) - [[讃岐国|讃岐]]忌部の祖
:** [[彦狭知命]](ひこさしりのみこと) - [[紀伊国|紀伊]]忌部の祖
** [[彦狭知命]] ひこさしりのみこと) - [[紀伊国|紀伊]]忌部の祖
:** [[手置帆負命]](たおきほおいのみこと) - [[讃岐忌部氏|讃岐忌部]]の祖
** [[天目一箇命]] (あめのまひとつのみこと) - [[筑紫国|筑紫]]忌部・[[伊勢国|伊勢]]忌部の祖
:** [[天目一箇神|天目一箇命]](あめのまひとつのみこと) - [[筑紫国|筑紫]]忌部・[[伊勢国|伊勢]]忌部の祖


{{Double image aside|right|Susaki-jinja haiden.JPG|180|洲宮神社 拝殿.JPG|180|{{Center|[[洲崎神社]](館山市洲崎)と[[洲宮神社]](館山市洲宮)}}{{Small|式内大社。安房神の后神「天比理乃咩命(天比理刀咩命)」<ref group="注" name="后神"/>を祀る。}}}}
境内摂社「下の宮」に対し本宮を「上の宮」と呼ぶのは、[[伊勢神宮]]の[[皇大神宮|内宮]]・[[豊受大神宮|外宮]]に倣ったものといわれる<ref name="kamigami" />。
『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]での記載は「安房坐神社」の1座。同帳ではそれに続けて式内大社「后神天比理乃咩命神社(天比理刀咩命神社)」<ref group="注" name="后神"/>の記載がある。これは安房坐神社の后神(妃神/妻神)を祀る神社と見られ{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001|pp=604-612}}、現在では[[洲崎神社]](館山市洲崎)・[[洲宮神社]](館山市洲宮)に比定されているが、いつの頃からか安房神社でも上記のように相殿神として併祀されている{{Sfn|安房坐神社(式内社)|1976}}。

神名帳の記す「安房坐神社」とは「安房に鎮座する神の社」の意味になり、この記載からは元々の神格を明らかとしない。その具体的な神格を巡っては後述のように『[[古語拾遺]]』・『[[先代旧事本紀]]』・『[[高橋氏文]]』逸文の記述を基に諸説があるが、現在の安房神社由緒では上記のように忌部氏祖神の天太玉命を指すとしている。

=== 古語拾遺・先代旧事本紀の記述 ===
[[File:Amefutotamanomikoto-jinja, haiden.jpg|thumb|210px|right|{{center|[[天太玉命神社]]([[奈良県]][[橿原市]])}}{{small|[[忌部氏]]本貫地に鎮座する忌部氏本宗の氏神。}}]]
安房神社祭神に関しては、[[忌部氏]](いんべうじ、のち斎部氏)の手になる『[[古語拾遺]]』([[大同 (日本)|大同]]2年([[807年]])成立)<ref group="原" name="古語拾遺">『古語拾遺』({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>、および『[[先代旧事本紀]]』<ref group="原" name="天皇本紀">『先代旧事本紀』「[[天皇本紀]]」。</ref>([[平安時代]]初期頃成立か)に記された阿波忌部の東遷説話が知られる。これによれば、忌部氏遠祖の'''[[天富命]]'''(あめのとみのみこと/あまのとみのみこと:天太玉命の孫)は、各地の斎部を率いて種々の祭祀具を作っていたが、さらに良い土地を求めようと阿波地方(現在の[[徳島県]])の斎部を率いて東に赴き、そこに麻([[アサ]])・穀([[カジノキ]])を植えた。そして、阿波斎部が移住したのでその地は「[[安房郡]]」と名付けられてこれが[[安房国]]の国名になったとするほか、同地には祖神を祀る「太玉命社」が建てられてこれが「安房社」であるとし、その[[神戸 (民戸)|神戸]](神社付属の民戸)には斎部氏があるとする{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001|pp=604-612}}{{Sfn|千葉県の歴史(山川)|2012|pp=33-35}}。
{{Quotation|即於其地立'''太玉命社'''。今謂之'''安房社'''。故其神戸。有斎部氏。|『[[古語拾遺]]』<ref group="原" name="古語拾遺"/>}}

このように、説話では阿波地方から安房地方に忌部(斎部)が移住したように記されるが、安房神社の由緒でもこれを踏襲し、安房神社の神職もかつては安房忌部の正統を称する岡島氏が担っていた{{Sfn|安房坐神社(式内社)|1976}}。加えて『延喜式』神名帳に記される「安房坐神社」という社名についても、忌部氏本貫地に鎮座する[[天太玉命神社]]([[奈良県]][[橿原市]])と区別する意味の「安房坐天太玉命神社」を省略したものとする説が挙げられている{{Sfn|安房坐神社(式内社)|1976}}{{Sfn|安房神社(神々)|1984}}{{Sfn|安房神社(平凡社)|1996}}。また「大神宮」という旧称と、[[豊受大神宮]]([[伊勢神宮]]外宮)の相殿に天太玉命が祀られることとを関連付ける説もある{{Sfn|安房坐神社(式内社)|1976}}。安房地方では、安房神社のほかにも[[洲崎神社]](館山市洲崎)、[[洲宮神社]](館山市洲宮)、[[布良崎神社]](館山市布良)、[[下立松原神社]](南房総市白浜町・南房総市千倉町の2社)などで同様の忌部氏による開拓伝承が残ることも知られる<ref>[http://furusato.mbit.or.jp/modules/dbx/?op=story&storyid=214 古代の館山と神話](南房総データベース)。</ref>。

以上の一方、古代史料では安房郡司・安房神社神職など安房地方の在地関連人物で忌部の存在は知られず、むしろ安房地方に濃密に分布したのは後述する膳大伴部(かしわでのおおともべ)であったことが知られる{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001|pp=604-612}}{{Sfn|川尻秋生|2003|pp=70-117}}{{Sfn|千葉県の歴史(山川)|2012|pp=33-35}}。そのため『古語拾遺』の説話の史実性は否定の向きが強く、『古語拾遺』自体が中臣氏との勢力争いの中で忌部氏の正統性と格差是正の目的で編纂されたものであるため{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001|pp=959-964}}、安房への東遷説話は造作で東国(特に常総地方)の中臣氏勢力と対抗する目的があったと指摘する説がある{{Sfn|忌部(国史)}}。また、数少ない安房関係人物として[[天平]]2年([[730年]])の「[[安房国義倉帳]]」に安房国司の目と見える忌部宿禰登理万里(忌部鳥麻呂か:中央から赴任した可能性が高い{{Sfn|安房国(平凡社)|1996}}{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001|pp=604-612}})の存在から関連づけたと推測する説や{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001|pp=604-612}}、安房神社の祭祀・神戸に忌部氏の関与を仮定すればこれに阿波忌部が結びつけられたと推測する説{{Sfn|安房斎部(千葉大百科)|1982}}{{Sfn|川尻秋生|2003|pp=70-117}}{{Sfn|千葉県の歴史(山川)|2012|pp=33-35}}、そのほか古くから黒潮を通じて人々の交流があったこと(黒潮文化圏)が説話成立の背景にあると見る説などもある{{Sfn|館山市史|1981|pp=105-107}}{{Sfn|総論(平凡社)|1996}}。

=== 高橋氏文の記述 ===
一方、膳氏(かしわでうじ)から派生した[[高橋氏]]の手になる『[[高橋氏文]]』においても、安房神社祭神に関する説話が記されている。『[[本朝月令]]』所引『高橋氏文』逸文<ref group="原" name="本朝月令">『本朝月令』6月朔日内膳司供忌火御飯事所引『高橋氏文』逸文({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>によれば、[[景行天皇]]53年10月に安房浮島宮に至った景行天皇(第12代)に対して、[[磐鹿六鴈|磐鹿六獦命]](いわかむつかりのみこと:膳氏遠祖)が[[カツオ|堅魚]]・白蛤(うむぎ:[[ハマグリ]])を膾・煮物・焼物にして献上した。天皇はこれを誉め、永く御食を供進するように命じ、また六獦命に大刀を授けるとともに大伴部(おおともべ)を与えた。さらに諸氏族・東方諸国造12氏から枕子(赤子)各1人を進上させ六獦命に付属せしめた。そしてこの時に上総国<ref group="注">安房神社は『延喜式』神名帳において安房国の所在であるが、上総国とする『高橋氏文』の記載は、『高橋氏文』の成立当時に安房国が上総国のうちに含まれていたことによる。</ref>の安房大神を御食都神(みけつかみ、御食津神)として奉斎したが、この神は[[大膳職]]の祭神でもあるという{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001|pp=604-612}}。
{{Quotation|是時上総国'''安房大神'''乎'''御食都神'''止坐奉天。(中略)安房大神為御食神者。今'''大膳職祭神'''也。|『[[本朝月令]]』所引『[[高橋氏文]]』逸文<ref group="原" name="本朝月令"/>}}

『[[日本書紀]]』<ref group="原">『日本書紀』景行天皇53年10月条。</ref>にも同様の伝承が簡略的に見え、やはり安房に至った景行天皇に対して磐鹿六鴈が白蛤を膾にして献上し、その功で六鴈は膳大伴部(かしわでのおおともべ)を賜ったという<ref>『新編日本古典文学全集 2 日本書紀 (1)』小学館、2002年(ジャパンナレッジ版)、pp. 390-391。</ref>。また『[[古事記]]』<ref group="原">『古事記』景行天皇段。</ref>においても、六鴈の記載はないものの景行天皇のときに「膳之大伴部」が定められた旨が記されている<ref>『新編日本古典文学全集 1 古事記』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、p. 217。</ref>。

このように古代の安房地方は膳氏および高橋氏と密接な関係を持ち、天皇の食膳調達(特に[[アワビ]]の貢納)にあたる[[部民]]氏族の膳大伴部(かしわでのおおともべ、大伴部)、およびその在地統率氏族の膳大伴直(大伴直/伴直)が分布したことが知られる{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001|pp=604-612}}{{Sfn|川尻秋生|2003|pp=70-117}}{{Sfn|千葉県の歴史(山川)|2012|pp=33-35}}。この膳大伴直・膳大伴部の人物名は国史(後述)・『先代旧事本紀』<ref group="原" name="国造本紀">『先代旧事本紀』「[[国造本紀]]」阿波国造条。</ref>・平城京出土木簡に散見される{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001|pp=604-612}}。特に[[阿波国造]](安房国造)も同氏族の大伴直(伴直)一族として見えることから、安房神もこの一族の奉斎神であったと考えられている{{Sfn|安房斎部(千葉大百科)|1982}}{{Sfn|安房国(平凡社)|1996}}{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001|pp=604-612}}。その具体的な神格については、『高橋氏文』逸文で磐鹿六鴈命は死後に宮中の膳職に祀られたと記述されることを基に磐鹿六鴈命であった可能性を指摘する説の一方、元来は神格を持たない安房地方の一地方神と推測する説がある{{Sfn|川尻秋生|2003|pp=70-117}}。

上記伝承に関連する史料として、『延喜式』神名帳では宮中の大膳職坐神三座のうちに「御食津神社」の記載がある(「[[宮中・京中の式内社一覧]]」参照)。[[天平]]3年([[731年]])の格<ref group="原">『類聚三代格』収録 天平3年(731年)9月12日の格([{{NDLDC|991102/377}} 『国史大系 第12巻』]<経済雑誌社、国立国会図書館デジタルコレクション>377コマ参照)。</ref>で「阿房の刀自部(あわのとじべ)」に「膳神(かしわでのかみ)」を祀らせるようにとあることから、古くは安房地方の女性(刀自)が上京してこの膳神(御食津神)の祭祀を担ったとされ{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001|pp=604-612}}{{Sfn|千葉県の歴史(山川)|2012|pp=33-35}}、この記述が『高橋氏文』の記す安房神の宮中勧請の傍証とされる{{Sfn|川尻秋生|2003|pp=70-117}}。この宮中勧請は在地神々による天皇への奉仕および朝廷による在地祭祀の吸収を表すことから、服属儀礼の1つといわれる{{Sfn|川尻秋生|2003|pp=70-117}}。なお、上記の安房地方の女性祭祀集団(巫女集団;国造一族出身女性か{{Sfn|川尻秋生|2003|pp=70-117}})が神格化されたのが、『延喜式』神名帳に見える「后神天比理乃咩命神社」になるとする説もある{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001|pp=604-612}}。

== 特徴 ==
<div class="thumb tright">
{| class="wikitable" style="font-size:85%;background-color:#ffffff;text-align:center;white-space: nowrap"
|+八神郡の一覧{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001|pp=604-612}}
!国!!郡!!奉斎社
|-
|rowspan=2|[[伊勢国]]||[[度会郡]]||rowspan=2|[[伊勢神宮|大神宮]]
|-
|[[多気郡]]
|-
|[[安房国]]||[[安房郡]]||'''安房坐神社'''
|-
|[[下総国]]||[[香取郡]]||[[香取神宮]]
|-
|[[常陸国]]||[[鹿島郡 (茨城県)|鹿島郡]]||[[鹿島神宮]]
|-
|[[出雲国]]||[[意宇郡]]||[[熊野大社|熊野坐神社]]
|-
|[[紀伊国]]||[[名草郡]]||[[日前神宮・國懸神宮|日前神社<br />国懸神社]]
|-
|[[筑前国]]||[[宗像郡]]||[[宗像大社|宗像神社]]
|}</div>
安房神社は、古代に'''[[神郡]]'''(一郡全体を特定神社の所領・神域と定めた郡)を持った数少ない神社の1つとして知られる。『[[令集解]]』<ref group="原" name="令集解">『令集解』巻16(選叙令)同司主典条 不得用三等以上親令釈({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>や『[[延喜式]]』<ref group="原">『延喜式』巻18(式部上)郡司条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>によると、当時全国には神郡として安房国[[安房郡]]のほか[[伊勢国]][[度会郡]]・伊勢国[[多気郡]]・[[下総国]][[香取郡]]・[[常陸国]][[鹿島郡 (茨城県)|鹿島郡]]・[[出雲国]][[意宇郡]]・[[紀伊国]][[名草郡]]・[[筑前国]][[宗像郡]]の計8郡があり、これらは「八神郡」と総称された{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001|pp=604-612}}。

安房神郡に関する記事としては、[[文武天皇]]4年([[700年]])<ref group="原">『続日本紀』文武天皇4年(700年)2月乙酉(5日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>に上総国司が申請して安房郡の大少領職に父子兄弟の連任が許された旨のほか、[[養老]]7年([[723年]])の太政官処分<ref group="原" name="令集解"/>における郡司職の三親等以上の連任許可の記事が見え、他の神郡同様に郡司任用で特別措置が取られている{{Sfn|安房郡(平凡社)|1996}}。この郡司職および安房神社祭祀を担ったのは、[[出雲国造]]・[[紀伊国造]](紀国造)の例のように[[阿波国造|'''安房国造'''(阿波国造)]]一族であったと見られている{{Sfn|安房国(平凡社)|1996}}{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001|pp=604-612}}{{Sfn|千葉県の歴史(山川)|2012|pp=33-35}}。この国造一族は、前述のように膳大伴部を在地で統率する大伴直(膳大伴直、のち伴直)氏族とされ、この国造による神郡統括に見られるように、安房国・安房神は朝廷から「御食都国」・「御食都神」と認識されて重要視された{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001|pp=604-612}}。

文献では『[[先代旧事本紀]]』<ref group="原" name="国造本紀"/>で「大伴直大瀧」が初めて国造に任じられたとする伝説が見えるが、この大伴直(伴直)一族が国造を担ったことは[[嘉祥]]3年([[850年]])記事<ref group="原">『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850年)6月己酉(3日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>の「安房国々造正八位上伴直千福麻呂」の記載からも裏付けられる{{Sfn|安房国(平凡社)|1996}}{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001|pp=604-612}}{{Sfn|川尻秋生|2003|pp=70-117}}。そのほか[[弘仁]]2年([[811年]])記事<ref group="原">『日本後紀』弘仁2年(811年)3月庚子(6日)条。</ref>に見える安房国人の「大伴直勝麻呂(大伴登美宿禰勝麻呂)」、また[[承和 (日本)|承和]]3年([[836年]])記事<ref group="原">『続日本後紀』承和3年(836年)12月辛丑(7日)条。</ref>に見える安房郡人の「伴直家主」も安房国造一族と推測される{{Sfn|安房国(平凡社)|1996}}{{Sfn|安房郡(平凡社)|1996}}。『洞院家記』や『[[北山抄]]』によれば、この安房国造は[[10世紀]]頃までの継続が確認される{{Sfn|安房国(平凡社)|1996}}{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001|pp=604-612}}{{Sfn|川尻秋生|2003|pp=70-117}}。

なお、[[平安時代]]中期の『[[和名抄]]』では安房国安房郡に神戸郷・神余郷の記載が見えるが、これらは安房郡が神郡であったことに関わると見られる{{Sfn|安房神社(角川)|1984}}{{Sfn|安房神社(平凡社)|1996}}。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 創建 ===
=== 創建 ===
社伝では、前述の『[[古語拾遺]]』<ref group="原" name="古語拾遺"/>・『[[先代旧事本紀]]』<ref group="原" name="天皇本紀"/>の説話を基にしたうえで、[[神武天皇]]元年に[[天富命]](下の宮祭神)が阿波地方(現在の[[徳島県]])から安房地方に至り、当地を開拓したのちに布良浜の男神山・女神山に祖神の天太玉命・天比理刀咩命を祀ったとし、これをもって創祀とする<ref name="祭神"/>。続けて、[[養老]]元年([[717年]])には、吾谷山(あづちやま)山麓の現在地に遷座し、その際に天富命・天忍日命が「下の宮」に祀られたとする<ref name="祭神"/><ref name="由緒書"/>。
[[大同 (日本)|大同]]2年([[807年]])の『[[古語拾遺]]』によれば、神武天皇元年に[[神武天皇]]の命を受けた[[天富命]]が肥沃な土地を求めて阿波国へ上陸し、開拓したとされる。その後、さらに肥沃な土地を求めて阿波忌部氏の一部を率い[[房総半島]]に上陸、その周辺を[[安房郡]]と名附けて天太玉命を祀る社を創建した。さらに続けて、その社が今は安房社と呼ばれており、[[神封|神戸]]には[[忌部氏|斎部氏]]が住んでいると書かれている。

館山市布良(めら)にある[[布良崎神社]]の『郷社布良崎神社略誌』では、天富命は上陸した房総半島南端の布良にある男神山へ天太玉命、女神山へ天乃比理刀咩命を祀り、その後さらに上ノ谷に天太玉命、下ノ谷に天忍日命の仮宮を建てたのが当社の「上の宮」と「下の宮」の起源だとしている。やがて布良を出発点として半島開拓を進めた天富命は、宮ノ谷(みやのやつ)に「太玉命ノ社」(当社)を創建したのだという。『安房忌部家系之図』によれば、[[養老]]元年([[717年]])に布良から西へ数百メートルの現在地に遷座し、同時に天富命を下の宮に祀ったとしている。


前述のように、忌部氏による開拓を示す確実な史料はないため、上記伝承の史実性は確かではない。確かな史料の上では、前述のように古代安房地方は食膳(特にアワビ)の供給地としての性格が強く、安房神もまた古くから朝廷の「御食都神」としての性格を持ったとされる{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001|pp=604-612}}。なお、境内からは[[古墳時代]]の高坏が出土しており、一帯が古墳時代の祭祀地であったことが知られるほか{{Sfn|安房神社(平凡社)|1996}}<ref>[http://furusato.mbit.or.jp/modules/dbx/?op=story&storyid=399 安房神社(大神宮)](南房総データベース)。</ref>、祭祀との関連は不明ながら[[縄文時代]]から[[弥生時代]]頃に墓地として使用された洞窟遺跡も発見されている<ref name="安房神社洞窟遺跡"/>。
『[[令集解]]』によると、養老7年([[723年]])に[[神郡]]として8郡が見え、安房郡は全国八神郡の一つであり当社の神郡とされている。『[[新抄格勅符抄]]』によれば大同元年([[806年]])に[[神封]]94戸が充てられ、さらに10戸が加増されている。これについて、神郡が定められたのは[[大化]]5年([[649年]])で、その後当地は『[[和名類聚抄]]』にある神戸郷に属することになったのではないかと推測されている。また、『[[延喜式]]』の「民部式」にも、安房郡は当社の神郡である旨が記載され、安房郡全体が神領であった。しかし、この神郡も[[中世#日本|中世]]以降は有名無実となったのだと考えられている<ref name="kamigami" />。


=== 概史 ===
=== 概史 ===
<div class="thumb tright">
==== 平安時代から室町時代 ====
{| class="wikitable" style="font-size:85%;background-color:#ffffff;white-space: nowrap;text-align:center"
当社は度々[[六国史]]に登場し、[[神階]]の陞叙を受けている([[安房神社#神階|後述]])。また『続日本後紀』承和14年([[847年]])7月9日の条には、祭祀料として正税穀100[[石 (単位)|斛]]を加えると記されている。
|+安房主要2神の神階{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001|pp=604-612}}
!年!!安房神!!后神天比理刀咩命神<br />(天比理乃咩命神)
|-
|836年||無位<br />→従五位下||--
|-
|842年||従五位下<br />→正五位下||無位<br />→従五位下
|-
|852年||従三位||従三位
|-
|859年||従三位勲八等<br />→正三位勲八等||従三位勲八等<br />→正三位勲八等
|-
|[[延喜式神名帳|神名帳]]||名神大||式内大
|}</div>
文献では、前述のように『古語拾遺』・『先代旧事本紀』・『高橋氏文』逸文などにそれぞれ記述が見える。また『[[新抄格勅符抄]]』[[大同 (日本)|大同]]元年([[806年]])牒<ref group="原" name="新抄格勅符抄">『新抄格勅符抄』巻10(神事諸家封戸)大同元年(806年)牒({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>では、「安房神」には[[神戸 (民戸)|神戸]]としてすでに94戸が充てられていたが、当時さらに10戸が加えられたと見える{{Sfn|安房神社(平凡社)|1996}}。これは東国随一の鹿島神([[茨城県]][[鹿嶋市]]の[[鹿島神宮]])の105戸に次ぐ規模になる{{Sfn|川尻秋生|2003|pp=70-117}}。


[[六国史|国史]]では、[[承和 (日本)|承和]]3年([[836年]])<ref group="原" name="承和3年"/>に「安房大神」の[[神階]]が無位から従五位下に昇叙された旨のほか、続けて承和9年([[842年]])<ref group="原" name="承和9年"/>に正五位下に昇叙され、承和14年([[847年]])<ref group="原">『続日本後紀』承和14年(847年)7月壬申(9日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref>には「安房国大神」の祭祀料に正税の穀100[[石 (単位)|斛]]が加えられた旨の記事が見える{{Sfn|安房神社(平凡社)|1996}}。その後も、神階は[[仁寿]]2年([[852年]])<ref group="原" name="仁寿2年"/>には従三位、[[天安 (日本)|天安]]3年([[859年]])<ref group="原" name="天安3年"/>には正三位勲八等にまでそれぞれ昇叙された{{Sfn|安房神社(平凡社)|1996}}。
[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])の『[[延喜式神名帳]]』では「安房国[[安房郡]] 安房坐神社 名神大 月次新嘗」と記載され、[[名神大社]]に列格された。この「坐」は、忌部氏の総氏神たる[[大和国]]の[[天太玉命神社]]を意識してのものとされる<ref name="kamigami" />。


[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])成立の『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]では安房国[[安房郡]]に「安房坐神社 名神大 月次新嘗」として、[[名神大社]]に列するとともに朝廷の[[月次祭]]・[[新嘗祭]]で[[幣帛]]に預かった旨が記載されている{{Sfn|安房神社(平凡社)|1996}}。『延喜式』臨時祭式では「安房神社」として記載される{{Sfn|安房神社(平凡社)|1996}}。なお、神名帳に見える[[下野国]][[寒川郡 (栃木県)|寒川郡]]の式内社「阿房神社」(栃木県小山市の安房神社に比定)も関連社とする説がある{{Sfn|館山市史|1981|pp=688-694}}。
[[平安時代]]以降は安房国一宮とされ、朝廷・武門から篤い崇敬を受けた。[[治承]]4年([[1180年]])に源頼朝が当社に参籠、その後[[神田]]8[[町 (単位)|町]]を寄進し、[[文治]]2年([[1186年]])には安房[[四等官#日本の四等官制|判官代]]高重の訴えにより社殿の造営修復を厳命したとされる<ref name="kiso">中世諸国一宮制研究会 編 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 (岩田書院、2000年2月)より。</ref>。さらに、[[明応]]8年([[1499年]])6月の大地震で社殿全てが倒壊したことから、[[文亀]]3年([[1503年]])に前[[在庁官人|在庁]]安西氏の推挙で当国領主の[[里見成義|里見義成]]が本殿・[[玉垣|瑞垣]]を造営、[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])に改めて[[里見義弘]]が造営したとされる<ref name="kiso">中世諸国一宮制研究会 編 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 (岩田書院、2000年2月)より。</ref>。この他にも領主[[里見氏]]は社領の寄進や社殿の修造を行い、その寄進状などが残っている。


[[中世]]以降については確かな史料がなく詳らかでないが、[[近世]]成立の『安房忌部家系』に伝承が記されている{{Sfn|安房神社(角川)|1984}}。これによれば、[[治承]]4年([[1180年]])には[[源頼朝]]が当社に祈祷を命じ、その後[[神田]]8[[町 (単位)|町]]を寄進したという{{Sfn|安房神社(角川)|1984}}{{Sfn|安房神社(平凡社)|1996}}。そして[[文治]]2年([[1186年]])には、安房[[四等官#日本の四等官制|判官代]]高重の訴えにより社殿の造営修復を厳命し、以後は在庁の沙汰で造営するよう定めたという{{Sfn|安房神社(角川)|1984}}{{Sfn|安房神社(平凡社)|1996}}。[[建久]]6年([[1195年]])には、在庁による押領のあった上総国千田荘の神領において、[[鎌倉幕府]]からその停止を命じられたという{{Sfn|安房神社(角川)|1984}}{{Sfn|安房神社(平凡社)|1996}}。また[[寛喜]]元年([[1229年]])の記事を初見として、中世以降は安房国で[[一宮]]に位置づけられたとされる{{Sfn|一宮制|2000|p=202}}。
[[室町時代]]以降、下の宮は廃絶して[[社家]]岡嶋家の邸宅となった。その後、数百年にわたって途絶えたが[[大正時代]]に復活している。


[[室町時代]]には、[[明応]]8年([[1499年]])6月の大地震で社殿全てが倒壊し、[[文亀]]3年([[1503年]])に前[[在庁官人|在庁]]の安西氏の推挙で領主の[[里見成義|里見義成]]が本殿・[[玉垣|瑞垣]]を造営し、[[天文 (元号)|天文]]5年([[1536年]])には改めて[[里見義弘]]が造営したという{{Sfn|一宮制|2000|p=202}}。その後も[[文禄]]-[[慶長]]年間([[1592年]]-[[1615年]])に里見氏によって社殿の修造が行われている{{Sfn|安房神社(平凡社)|1996}}。
==== 江戸時代 ====
[[江戸時代]]に入り、[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])[[江戸幕府|幕府]][[代官]]中村吉繁より社領の安堵状が出された。また、寛永13年([[1637年]])には[[徳川家光]]が[[朱印状]]により社領30[[石 (単位)|石]]余を安堵するなど幕府より保護を受け、これが[[明治]]まで続いた。


[[江戸時代]]に入り、[[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])には[[江戸幕府]]からの社領寄進があった{{Sfn|安房神社(角川)|1984}}。また、寛永13年([[1637年]])には3代将軍[[徳川家光]]から「安房郡正一位大神宮領」として[[朱印地]]30[[石 (単位)|石]]余が安堵された{{Sfn|安房神社(角川)|1984}}{{Sfn|安房神社(平凡社)|1996}}。
==== 明治以後 ====
明治6年([[1873年]])[[近代社格制度]]が制定されると、当社は官幣大社に列せられた。


戦後は神社本庁が包括する[[別表神社]]となった。[[平成]]21年([[2009年]])初頭より拝殿および本殿の大修造が行われ、同年6月21日に完工している。
[[明治維新]]後、[[明治]]4年([[1871年]])5月には[[近代社格制度]]において最高位の[[官幣大社]]に列した{{Sfn|安房神社(角川)|1984}}。戦後は[[神社本庁]]の[[別表神社]]に列した。また[[平成]]21年([[2009年]])には殿・拝殿の大修造が行われている。


=== 神階 ===
=== 神階 ===
* [[承和 (日本)|承和]]3年([[836年]])7月17日、無位から従五位下 (『[[続日本後紀]]』) - 表記は「安房大神」
* [[承和 (日本)|承和]]3年([[836年]])7月17日、無位から従五位下 (『[[続日本後紀]]』)<ref group="原" name="承和3年">『続日本後紀』承和3年(836年)7月甲申(17日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「安房大神」
* 承和9年([[842年]])10月2日、正五位下 (『続日本後紀』) - 表記は「安房大神」
* 承和9年([[842年]])10月2日、従五位下から正五位下 (『続日本後紀』)<ref group="原" name="承和9年">『続日本後紀』承和9年(842年)10月壬戌(2日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「安房大神」
* [[仁寿]]2年([[852年]])8月22日、従三位 (『[[日本文徳天皇実録]]』) - 表記は「安房神」
* [[仁寿]]2年([[852年]])8月22日、従三位 (『[[日本文徳天皇実録]]』)<ref group="原" name="仁寿2年">『日本文徳天皇実録』仁寿2年(852年)8月丙辰(22日)条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「安房神」
* [[貞観 (日本)|貞観]]年([[859年]])1月27日、正三位勲八等 (『[[日本三代実録]]』) - 表記は「安房神」
* [[天安 (日本)|天安]]3年([[859年]])1月27日、従三位勲八等から正三位勲八等 (『[[日本三代実録]]』)<ref group="原" name="天安3年">『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条({{Harvnb|神道・神社史料集成}}参照)。</ref> - 表記は「安房神」


== 境内 ==
== 境内 ==
=== 社殿 ===
=== 社殿 ===
[[ファイル:Awa-jinja, shaden.JPG|thumb|220px|right|{{center|社殿}}{{small|中央に拝殿、左奥に本殿。}}]]
<gallery widths="200px" heights="150px">
本宮は摂社(下の宮)に対して「'''上の宮'''」と称される。境内摂社「下の宮」に対し本宮を「上の宮」と称するのは、[[伊勢神宮]]の[[皇大神宮|内宮]]・[[豊受大神宮|外宮]]に倣ったとする説がある{{Sfn|安房神社(神々)|1984}}{{Sfn|安房神社(平凡社)|1996}}。
ファイル:Awa-jinja honden.JPG|本殿

ファイル:安房神社 拝殿.JPG|拝殿
現在の本殿は、明治14年([[1881年]])の造営。間口三間・奥行二間の[[神明造]]で{{Sfn|安房坐神社(式内社)|1976}}、屋根は[[檜皮葺]]であり、平成21年(2009年)に大修造が実施されている<ref name="境内"/>。本殿前に建てられている拝殿は、[[昭和]]52年([[1977年]])の造営で、鉄筋コンクリートによる神明造<ref name="境内">[http://www.awajinjya.org/keidai.htm 境内案内](公式サイト)。</ref>。また本殿北側には、主に置炭神事で使用される神饌所が接続する<ref name="境内"/>。
ファイル:安房神社 神饌所.JPG|神饌所
<gallery>
ファイル:安房神社 御仮屋.JPG|御仮屋<br/>以前は渡御してきた神輿が安置された。
ファイル:Awa-jinja, honden.JPG|本殿
ファイル:Awa-jinja, ichi-no-torii.JPG|一の鳥居
ファイル:Awa-jinja, keidai.JPG|拝殿前の参道
ファイル:Awa-ijnja, shinsenjo.JPG|神饌所
ファイル:Awa-jinja, okariya.JPG|御仮屋<br />{{small|以前は渡御してきた神輿が安置された。}}
ファイル:Awa-jinja, ni-no-torii.JPG|二の鳥居
</gallery>
</gallery>


=== 洞窟遺跡 ===
=== 洞窟遺跡 ===
[[ファイル:Awa-jinja, Inbe-zuka.JPG|thumb|220px|right|{{center|忌部塚}}]]
[[昭和]]7年([[1932年]])、井戸の掘削工事の際に地下1mほどのところで見つかった海食洞窟の遺跡。発掘調査の結果、人骨22体、貝製の腕輪193個、石製の丸玉3個、縄文土器・古墳時代の土師器など[[弥生時代]]のものと推定される品々が出土した。洞窟は現在は埋め戻されているが、昭和42年に千葉県史跡に指定された<ref>[http://furusato.mbit.or.jp/modules/dbx/?op=story&storyid=591 安房神社洞窟遺跡](南房総データベース)。</ref>。
あづち茶屋の裏手には「安房神社洞窟遺跡」として、[[昭和]]7年([[1932年]])の井戸掘削工事の際に地下約1メートルで見つかった海食洞窟の遺跡がある。洞窟の大きさは推定全長22メートル以上、幅3.5メートル<ref name="説明板">境内説明板。</ref><!--平成27年3月設置の説明板による-->。発掘調査により人骨22体、貝製の腕輪193個、石製の丸玉3個、縄文土器などが出土した。この洞窟は昭和42年(1967年)に千葉県指定史跡に指定されたが<ref name="安房神社洞窟遺跡"/>、現在は埋め戻されている。


出土した人骨22体のうち15体に[[抜歯]]が見られ、縄文時代未開時代風習が弥生時代頃まで続いているこを示いる。人骨は当社祭祀に関係した安房忌部の一族と推測され社の創始は弥生時代に遡るもの考える説あるが<ref name="kamigami" />、頭にある館山市教育委員会の案板では弥生時代とされる時期については再検討が必要と慎重な考えを示している。人骨の一部は近くの宮ノ谷に丁重に埋葬され忌部氏に仮託され「忌部塚」として祀られてる。忌部塚は、二の鳥居前の階段の手前をに道なりに行った場所にる。
出土した人骨22体のうちでは、15体に[[抜歯]]の習俗が見られることが注目される<ref name="安房神社洞窟遺跡"/>{{Sfn|千葉県の歴史 資料編 考古2|2003|pp=293-294}}。洞窟からは弥生土器が発見されたというが土器存在明らかでなく詳細が不明であるため、従来弥生時代とした人骨の年代につては再検討が必要とされ{{Sfn|千葉県の歴史 資料編 考古2|2003|pp=293-294}}<ref name="説明板"/>これらの人骨を安房神社祭祀に関係する一族に比定して安房神社の創祀を弥生時代に遡ると推定する説ある{{Sfn|安房坐神(式社)|1976}}{{Sfn|安房神社(神々)|1984}}。人骨の一部は近くの宮ノ谷に埋葬されたうえで忌部氏に仮託して「忌部塚」として祀られており、毎年7月10日には神事として「忌部塚祭」が行われる。この忌部塚は、二の鳥居前の階段の手前をに道なりに行った場所に位置する。
<gallery>

ファイル:Awa-jinja, dokutsu-iseki.JPG|洞窟遺跡の位置(現在は埋め戻し)
<gallery widths="200px" heights="150px">
ファイル:安房神社 海食洞窟遺跡.JPG|洞窟遺跡<br/>斎館裏手に所在。標柱の前の平地(画像外)が埋められた洞窟跡。
ファイル:Inbezuka.JPG|忌部塚
</gallery>

=== その他 ===
<gallery widths="200px" heights="150px">
ファイル:Awa-jinja Gate (Springtime).JPG|参道(一の鳥居方向、桜花祭時)<br/>参道両脇には桜が植えられている。
ファイル:Awa-jinja 1st Gate.jpg|一の鳥居
</gallery>
</gallery>


== 摂末社 ==
== 摂末社 ==
=== 下の宮(摂社 ===
=== 摂社 ===
[[ファイル:Awa-jinja, Shimo-no-miya.JPG|thumb|220px|right|{{center|下の宮}}]]
* [[天富命]] (あめのとみのみこと) - 天太玉命の孫神
* '''下の宮'''<ref name="祭神"/>
* [[天忍日命]] (あめのおしひのみこと) - 天太玉命の弟神
** 祭神:[[天富命]](あめのとみのみこと、天太玉命の孫神)、[[天忍日命]](あめのおしひのみこと、天太玉命の弟神<ref group="注">安房神社由緒では天忍日命を天太玉命の弟神とするが、『古語拾遺』の記述に基づけばむしろ兄神にあたるとされる {{Harv|安房坐神社(式内社)|1976}}。</ref>)

*: 社伝では養老元年(717年)の創祀とする<ref name="境内"/>。ただし[[寛永]]年間([[1624年]]-[[1645年]])の旧記には祭神が天日鷲命・天神立命・大宮売命・豊磐窓命・櫛磐窓命と記されており、祭神には変遷があったことが知られる{{Sfn|安房神社(神々)|1984}}。
<gallery widths="200px" heights="150px">
ファイル:Awa-jinja Shimonomiya.jpg|下の宮 社殿
ファイル:安房神社 下の宮本殿.JPG|下の宮 本殿
ファイル:安房神社 下の宮拝殿.JPG|下の宮 拝殿
</gallery>

[[寛永|寛永年間]]([[1624年]]-[[1643年]])の当社旧記には祭神が天日鷲命・天神立命・大宮売命・豊磐窓命・櫛磐窓命と記されており、祭神に変遷があったとされる<ref name="kamigami">[[谷川健一]]編 『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』(白水社、1984年12月)より。</ref>。


=== 末社 ===
=== 末社 ===
境内末社として次の2社がある<ref name="祭神"/>。
いずれも境内末社。
* 厳島社
* 厳島社
** 祭神:[[イチキシマヒメ|市杵島姫命]] (いちきしまひめのみこと)
** 祭神:[[イチキシマヒメ|市杵島姫命]](いちきしまひめのみこと)
:: 本宮拝殿前の巨岩をくり貫いて小祠を作っており、古代[[磐座]]ではないかと推察されてい<ref name="kamigami" />
*: 本宮拝殿前の巨岩をくり貫いて小祠を作るため元を古代[[磐座]]と推測す説がある{{Sfn|安房坐神社(式内社)|1976}}{{Sfn|安房神社(神々)|1984}}
* 琴平社
* 琴平社
** 祭神:[[大物主|大物主神]] (おおものぬしのかみ)
** 祭神:[[大物主|大物主神]](おおものぬしのかみ)

<gallery>
<gallery>
ファイル:安房神社 境内厳島社.JPG|厳島社<br/>手前の巨岩内。
File:Awa-jinja, Itsukushima-jinja.JPG|厳島社<br />{{small|手前の巨岩内。}}
ファイル:安房神社 境内琴平社.JPG|琴平社
File:Awa-jinja, Kotohira-sha.JPG|琴平社
</gallery>
</gallery>


== 祭事 ==
== 祭事 ==
=== 年間祭事 ===
:{|style="border-collapse:collapse"
<div class="NavFrame" style="width:100%;">
| rowspan=4 style="background-color:#C0C0C0; border-bottom:1px solid #C0C0C0" |'''1月'''|| style="text-align:right" |1日|| || style="width:1em" |   ||[[歳旦祭]]|| style="width:5em" |   || style="text-align:right; background-color:#C0C0C0; border-bottom:1px solid #C0C0C0" |'''7月'''|| style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"|10日||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"| || style="width:1em; border-bottom:1px solid #C0C0C0"|   ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"|忌部塚祭
<div class="NavHead" style="padding:1.5px; line-height:1.7; letter-spacing:1px;">年間祭事一覧</div>
|-
<div class="NavContent" style="text-align:left;">
| style="text-align:right" |4日|| || ||有明祭|| || style="text-align:right; border-bottom:1px solid #C0C0C0" |'''8月'''||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"|10日||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"|[[例祭]]
安房神社で年間に行われる祭事の一覧<ref name="由緒書">神社由緒書。</ref>。
|-
* 毎月
|14日|| || ||置炭神事|| || rowspan=3 style="text-align:right; background-color:#C0C0C0; border-bottom:1px solid #C0C0C0" |'''9月'''||10日|| || ||御仮屋祭
** 月次祭(毎月1日)
|-
* 1月
| style="text-align:right; border-bottom:1px solid #C0C0C0"|15日||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"|粥占神事|| ||14日||~15日|| ||国司祭
** 歳旦祭(1月1日)
|-
** 有明祭(1月4日)
| rowspan=3 style="border-bottom:1px solid #C0C0C0" |'''2月'''||style="text-align:right"|3日|| || ||[[節分|節分祭]]|| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"|27日||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"|琴平社祭
** 置炭神事(1月14日)
|-
** 粥占神事(1月15日)
|11日|| || ||建国祭|| || style="text-align:right; border-bottom:1px solid #C0C0C0" |'''10月'''||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"|上旬||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"|抜穂祭
* 2月
|-
** 節分祭(2月3日)
| style="border-bottom:1px solid #C0C0C0" |17日||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"|[[祈年祭]]|| || rowspan=2 style="text-align:right; background-color:#C0C0C0; border-bottom:1px solid #C0C0C0" |'''11月'''||23日|| || ||[[新嘗祭]]
** 建国祭(2月11日)
|-
** 祈年祭(2月17日)
| style="background-color:#C0C0C0; border-bottom:1px solid #C0C0C0" |'''4月'''|| style="text-align:right; border-bottom:1px solid #C0C0C0"|初旬||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"|桜花祭|| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"|下旬||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"|新穀感謝祭
* 4月
|-
** 桜花祭(4月初旬)
| rowspan=2 style="border-bottom:1px solid #C0C0C0" |'''5月'''||上旬|| || ||[[御田植祭]]|| ||rowspan=2 style="text-align:right; border-bottom:1px solid #C0C0C0" |'''12月'''||26日|| || ||神狩祭
* 5月
|-
** 御田植祭(5月上旬)
|style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"|10日||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"|下の宮祭|| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"|31日||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"|大祓式 [[除夜|除夜祭]]
** 下の宮祭(5月10日)
|-
* 6月
| rowspan=2 style="background-color:#C0C0C0; border-bottom:1px solid #C0C0C0" |'''6月'''||10日|| || ||厳島社祭
** 厳島社祭(6月10日)
|-
** 大祓式(6月30日)
| style="border-bottom:1px solid #C0C0C0" |30日||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"| ||style="border-bottom:1px solid #C0C0C0"|[[大祓|大祓式]]
* 7月
|-
** 忌部塚祭(7月10日)
|}
* 8月

** '''例祭'''(8月10日)
* 9月
** 御仮屋祭(9月10日)
** 国司祭(9月中旬)
** 琴平社祭(9月27日)
* 10月
** 抜穂祭(10月上旬)
* 11月
** 新嘗祭(11月23日)
** 新穀感謝祭(11月下旬)
* 12月
** 神狩祭(12月26日)
** 大祓式、除夜祭(12月31日)
</div></div>


=== 主な祭事 ===
上記のほか、毎月1日に[[月次祭]]を実施。
[[ファイル:Tsurugaya-hachimangu, haiden and yohaijo.JPG|thumb|220px|right|{{center|[[鶴谷八幡宮]](館山市八幡)境内}}{{small|安房国[[総社]]。左に八幡宮社殿、右奥に安房神社遥拝所。}}]]
; 有明祭
: 「ありあけさい」。1月4日。かつては神狩祭(12月26日)から10日間に神職・総代は神社に参籠し、有明祭で籠もり明けを迎えた<ref name="年中行事"/>。現在も有明祭では「舌餅」などの特殊神饌が供えられる<ref name="年中行事"/>。
; 置炭神事
: 「おきずみしんじ」。1月14日夕刻、門松の松材で起こした火で粥を炊き、燃え残った松材12本を取り出して並べ、それらの燃え具合によりその年の天候を占う<ref name="年中行事">[http://www.awajinjya.org/nenjyuu.htm 年中行事](公式サイト)。</ref><ref name="由緒書"/>{{Sfn|安房神社置炭・粥占神事(年中行事)|2009}}。
; [[粥占|粥占神事]]
: 「かゆうらしんじ」。1月14日夕刻の置炭神事の際に粥の中にすのこ状に編んだ葦筒12本を沈め、1月15日朝に葦筒を取り出して筒を割り、筒中の粥の入り具合・色つやでその年の作物の豊凶を占う<ref name="年中行事"/><ref name="由緒書"/>{{Sfn|安房神社置炭・粥占神事(年中行事)|2009}}。
; [[例祭]]
: 8月10日(旧暦9月28日)。各種祭事のうち最も重要な祭で、「浜降祭」や「磯出の神事」とも称する。天富命の開拓がなってより毎年、各地の忌部が相浜に集い安房神社に参拝したとする故事に因む神事。かつては近郷9社([[洲宮神社]]・[[下立松原神社]]・[[布良崎神社]]・日吉神社・相浜神社・犬石神社・八坂神社・熊野神社・白浜神社)から安房神社までの神輿渡御があったが、現在は行われていない<ref name="年中行事"/>{{Sfn|安房神社(平凡社)|1996}}。
; 国司祭
: 「こくしさい」。9月中旬、[[敬老の日]]前の土曜・日曜。安房国[[総社]]の[[鶴谷八幡宮]](館山市八幡)で行われる例祭の安房国司祭(通称「やわたんまち」:千葉県指定無形民俗文化財)では、安房神社などの神輿11基・山車5台が集結して神事が行われるが、そのうち2日目に八幡宮境内の安房神社遥拝殿で行われる神事<ref name="年中行事"/>。
; 神狩祭
: 「みかりさい」。12月26日。天富命による開拓の際、田畑を荒らした猪・鹿を狩猟したとする故事に因む神事。あるいは天富命による害獣狩猟に感謝する神事であるともいう。かつては、1月4日に明けるまで神職・総代が神社に参籠した。現在でも獣の舌を象徴する「舌餅」などの特殊神饌が供えられる<ref name="年中行事"/>{{Sfn|安房神社(平凡社)|1996}}{{Sfn|安房神社神狩神事(年中行事)|2009}}。なお、この「みかり」を「身代わり」と見て、清浄な状態になるための神事とする説もある{{Sfn|安房神社(角川)|1984}}。


== 文化財 ==
== 文化財 ==
=== 千葉県指定史跡 ===
=== 千葉県指定文化財 ===
* 史跡
* 安房神社洞窟遺跡 - 昭和42年3月7日指定
** 安房神社洞窟遺跡 - 1967年(昭和42年)3月7日指定<ref name="安房神社洞窟遺跡">[https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p411-037.html 安房神社洞窟遺跡](千葉県教育委員会)。<br />[http://furusato.mbit.or.jp/modules/dbx/?op=story&storyid=591 安房神社洞窟遺跡](南房総データベース)。</ref>。


=== 館山市指定有形文化財 ===
=== 館山市指定文化財 ===
* 有形文化財
* 高杯
** 双鳥花草文八陵鏡・双鳥花草文円鏡(工芸品)
:: [[大正]]8年([[1919年]])の下宮再建工事時、現在の社殿の下から出土した[[土師器]]の高坏。5世紀初頭の祭祀に使われたものとみられる。昭和44年2月21日指定<ref>[http://furusato.mbit.or.jp/modules/dbx/?op=story&storyid=595 安房神社高杯](南房総データベース)。</ref>。
**: 八陵鏡(正しい用字は「八'''稜'''鏡」)<ref group="注">[http://www.city.tateyama.chiba.jp/syougaigaku/page000790.html 館山市の指定文化財](館山市ホームページ)・境内説明板などの記載では館山市での文化財指定名称を「八'''陵'''鏡」とするが、これは銅鏡の分類名称としては明かな誤字になる。</ref>は[[鎌倉時代]]末期頃の作、円鏡は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]頃の作。[[1893年]]([[明治]]26年)に東京の装束師から奉納された。1969年(昭和44年)2月21日指定<ref>[http://furusato.mbit.or.jp/modules/dbx/?op=story&storyid=636 双鳥花草文八陵鏡・双鳥花草文円鏡](南房総データベース)。</ref>。
* 双鳥花草文八陵鏡・双鳥花草文円鏡
** 安房神社高坏(考古資料)
:: [[明治]]26年([[1893年]])に東京の装束師から奉納されたもの。八陵鏡は鎌倉時代末期頃、円鏡は南北朝期のものとされる。昭和44年2月21日指定<ref>[http://furusato.mbit.or.jp/modules/dbx/?op=story&storyid=636 双鳥花草文八陵鏡・双鳥花草文円鏡](南房総データベース)。</ref>。
**: [[古墳時代]]、[[5世紀]]初頭頃の祭祀で使われたものとされる[[土師器]]の高坏。[[1919年]]([[大正]]8年)の下宮再建工事時に、現在の社殿の下から出土した。1969年(昭和44年)2月21日指定<ref>[http://furusato.mbit.or.jp/modules/dbx/?op=story&storyid=595 安房神社高坏](南房総データベース)。</ref>。
* 有形民俗文化財
** 狛犬・燧筐・木椀 4点
**: 木造[[狛犬]]は鎌倉時代末頃の作、燧筐(ひうちばこ)は御狩神事における神燈点火用具で鎌倉時代の作、木椀は[[神饌]]を供えるもので鎌倉時代の作。1962年(昭和37年)7月23日指定<ref>[http://furusato.mbit.or.jp/modules/dbx/?op=story&storyid=616 狛犬・燧筐・木椀](南房総データベース)。</ref>。


=== 館山市指定有形民俗文化財 ===
=== 関連文化財 ===
* 岡嶋家所伝安房忌部系図 - 館山市指定有形文化財(書跡典籍等)。安房神社社家の岡嶋家に伝わる系図。1969年(昭和44年)2月21日指定。
* 狛犬・燧筐・木椀
:: 木造の[[狛犬]]は鎌倉時代末、燧筐(ひうちばこ)は御狩神事における神燈点火用具で鎌倉時代、木椀は[[神饌]]を供えるもので鎌倉時代とされている。昭和37年7月23日指定<ref>[http://furusato.mbit.or.jp/modules/dbx/?op=story&storyid=616 狛犬・燧筐・木椀](南房総データベース)。</ref>。


== 現地情報 ==
== 現地情報 ==
170行目: 260行目:


; 交通アクセス
; 交通アクセス
* 最寄駅:[[館山駅]]([[東日本旅客鉄道|JR東日本]][[内房線]]) - 神社までは約10km
* [[館山駅]]([[東日本旅客鉄道]](JR東日本[[内房線]])から 神社までは約10km)
** バス:JRバス(神戸経由・安房白浜行き)「安房神社前」バス停下車 (乗車時間約20分、徒歩約10分)
** バス:JRバス(神戸経由・安房白浜行き)「安房神社前」バス停下車 (乗車時間約20分、下車後徒歩約10分)
* 主要都市から館山駅まで
** JR鉄道線
** 高速バス:[[東京駅]]発([[房総なのはな号]])、[[千葉駅]]発([[南総里見号]])、[[横浜駅]]発[[東京国際空港|羽田空港]]経由


; 周辺
{{underline|館山駅まで}}
* 大神宮義民七人様の供養碑 - 館山市指定史跡。江戸時代に大神宮村で起こった農民一揆の犠牲者を供養した碑。
* JR鉄道線
* 高速バス:[[東京駅]]発([[房総なのはな号]])、[[千葉駅]]発([[南総里見号]])、[[横浜駅]]発[[東京国際空港|羽田空港]]経由


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
; 注釈
{{reflist|group="注"}}

; 原典
{{reflist|group="原"|2}}

; 出典
{{reflist|2}}
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== 参考文献 ==
== 参考文献・サイト ==
* 安房国一之宮 安房神社略記』(神社由緒書)
* 神社由緒書「安房国一之宮 安房神社略記
* 境内説明板
* [[黒板勝美]]、國史大系編修会 編 『[[国史大系|國史大系]] 第27巻 [[新抄格勅符抄]]・[[法曹類林]]・[[類聚符宣抄]]・[[続左丞抄]]・[[別聚符宣抄]]』 ([[吉川弘文館]]、1965年1月)

* 黒板勝美、國史大系編修会 編 『國史大系 第4巻 [[日本三代実録]]』 (吉川弘文館、1966年4月)
; 書籍
* 黒板勝美、國史大系編修会 編 『國史大系 第3巻 [[日本後紀]]・[[続日本後紀]]・[[日本文徳天皇実録]]』 (吉川弘文館、1966年8月)
* 地方自治体発行
* 全国神社名鑑刊行会史学センター 編 『全国神社名鑑 上巻』 (全国神社名鑑刊行会史学センター、1977年7月)
** {{Cite book|和書|author=|year=2001|title=千葉県の歴史 通史編 古代2(県史シリーズ2)|publisher=千葉県|isbn=|ref={{Harvid|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001}}}}
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** {{Cite book|和書|author=|year=2003|title=千葉県の歴史 資料編 考古2(県史シリーズ10)|publisher=千葉県|isbn=|ref={{Harvid|千葉県の歴史 資料編 考古2|2003}}}}
* 君塚文雄「安房神社」([[谷川健一]] 編 『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』 ([[白水社]]、1984年12月))
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* 千葉県神社庁房総の杜編纂委員会 『房総の杜』 (おうふう、2004年9月)
*** {{Wikicite|reference=[[大場磐雄]] 「安房神社」|ref={{Harvid|安房神社(国史)}}}}、{{Wikicite|reference=[[佐伯有清]] 「忌部」|ref={{Harvid|忌部(国史)}}}}、{{Wikicite|reference=佐伯有清 「忌部氏」|ref={{Harvid|忌部氏(国史)}}}}。
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*** {{Wikicite|reference=「総論」|ref={{Harvid|総論(平凡社)|1996}}}}、{{Wikicite|reference=「安房国」|ref={{Harvid|安房国(平凡社)|1996}}}}、{{Wikicite|reference=「安房神社」|ref={{Harvid|安房神社(平凡社)|1996}}}}。
** {{Cite book|和書|author=|chapter=|year=2009|title=年中行事大辞典|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=4642014438|ref=}}
*** {{Wikicite|reference=滝川恒昭 「安房神社置炭・粥占神事」|ref={{Harvid|安房神社置炭・粥占神事(年中行事)|2009}}}}、{{Wikicite|reference=滝川恒昭 「安房神社神狩神事」|ref={{Harvid|安房神社神狩神事(年中行事)|2009}}}}。
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2010|chapter=忌部氏|title=日本古代氏族人名辞典 普及版|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642014588|ref={{Harvid|忌部氏(古代氏族)|2010}}}}
* その他
** {{Cite book|和書|editor=式内社研究会|author=菱沼勇|chapter=安房坐神社|year=1976|title=式内社調査報告 第11巻|publisher=[[皇學館大学]]出版部|page=|isbn=|ref={{Harvid|安房坐神社(式内社)|1976}}}}
** {{Cite book|和書|editor=谷川健一|editor-link=谷川健一|author=君塚文雄|year=1984|chapter=安房神社|title=日本の神々 -神社と聖地- 11 関東|publisher=[[白水社]]|isbn=4560025118|ref={{Harvid|安房神社(神々)|1984}}}}
** {{Cite book|和書|editor=中世諸国一宮制研究会|author=|year=2000|chapter=|title=中世諸国一宮制の基礎的研究|publisher=岩田書院|isbn=978-4872941708|ref={{Harvid|一宮制|2000}}}}
** {{Cite book|和書|author=川尻秋生|authorlink=川尻秋生|year=2003|chapter=古代安房国の特質 -安房大神と膳神-|title=古代東国史の基礎的研究|publisher=塙書房|isbn=4827311803|ref={{Harvid|川尻秋生|2003}}}}
** 千葉県神社庁房総の杜編纂委員会編 『房総の杜』 おうふう、2004年9月。
** 全国一の宮会編 『全国一の宮めぐり』 全国一の宮会、2008年12月。
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2012|chapter=|title=千葉県の歴史(県史12)第2版|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634321212|ref={{Harvid|千葉県の歴史(山川)|2012}}}}

; サイト
* {{Cite web|和書|url=http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/170101.html|author=|title=安房坐神社(安房国安房郡)|work=|publisher=國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」|date=|accessdate=2015-11-15|ref={{Harvid|神道・神社史料集成}}}}

== 関連文献 ==
<!--記事執筆に使用していない文献-->
* 『[[古事類苑]]』神宮司庁編、安房神社項
** [{{NDLDC|1873551/272}} 『古事類苑 第9冊』](国立国会図書館デジタルコレクション)272-273コマ参照。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[阿波国造]]
* [[洲崎神社]] - 安房国一宮を称するもう1つの神社
* [[忌部氏]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
{{commonscat|Awa-jinja}}
* [http://www.awajinjya.org/ 安房神社] 公式サイト
* [http://www.awajinjya.org/ 安房神社] - 公式サイト
* [http://www.jinja.ne.jp/ycDB/Board.cgi/001/db/ycDB-pc-jinja_detail.html?mode:search=1&search:method=1&search:field=jinja_id&search:expr=^$&search:word=11053 安房神社] - 千葉県神社庁監修「神社のひろば」
* [https://ja-jp.facebook.com/awajinja/ 安房神社神職のフェイスブック]
* [http://furusato.mbit.or.jp/modules/dbx/?op=story&storyid=399 安房神社(大神宮)] - 南房総データベース
* [http://www.jinja.ne.jp/ycDB/Board.cgi/001/db/ycDB-pc-jinja_detail.html?mode:search=1&search:method=1&search:field=jinja_id&search:expr=^$&search:word=11053 安房神社](神社のひろば -千葉県神社庁監修-)
* {{神道・神社史料集成|170101|安房坐神社}}
* [http://furusato.mbit.or.jp/modules/dbx/?op=story&storyid=399 安房神社(大神宮)](南房総データベース) - 当社の文化財の詳細も記載
* [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/170101.html 安房坐神社](國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)


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2024年5月17日 (金) 20:48時点における最新版

安房神社

拝殿
所在地 千葉県館山市大神宮589
位置 北緯34度55分20.80秒 東経139度50分12.25秒 / 北緯34.9224444度 東経139.8367361度 / 34.9224444; 139.8367361 (安房神社)座標: 北緯34度55分20.80秒 東経139度50分12.25秒 / 北緯34.9224444度 東経139.8367361度 / 34.9224444; 139.8367361 (安房神社)
主祭神 天太玉命
社格 式内社名神大
安房国一宮
官幣大社
別表神社
創建 (伝)初代神武天皇元年
本殿の様式 神明造
別名 大神宮
例祭 8月10日
主な神事 置炭神事(1月14日
粥占神事(1月15日
神狩祭(12月26日
地図
安房神社の位置(千葉県内)
安房神社
安房神社
地図
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安房神社(あわじんじゃ)は、千葉県館山市大神宮にある神社式内社名神大社)、安房国一宮旧社格官幣大社で、現在は神社本庁別表神社

概要

[編集]
桜花祭時の参道と一の鳥居

千葉県南部、房総半島最南端部の吾谷山(あづちやま)山麓に鎮座する神社である。伝承では、神話時代阿波地方(現在の徳島県)から渡ってきた忌部氏(いんべうじ、斎部氏)による創建といい、「安房」の国名・社名はこの阿波忌部の移住・開拓から起こったといわれる。

古代の安房国アワビの貢進地として朝廷から重要視され、安房国の中心的神社である安房神社もまた古くより重要視された。特に、全国でも数少ない神郡が設置された点や、出雲国造出雲大社奉斎氏族)・紀伊国造和歌山日前國懸神宮奉斎氏族)に並び安房国造律令制下でも祭祀を担った点、および宮中の大膳職にも「御食津神」として祀られていた点が特筆される。中世以降は安房国の一宮に位置づけられ、明治維新後も近代社格制度で最高位の官幣大社に位置づけられたように、歴史を通じて崇敬を集めた古社になる。

境内は、抜歯習俗を示す人骨多数を包含した洞窟遺跡の発見でも知られ、その遺跡(現在は埋没)は千葉県指定史跡に指定されている。また、社宝のうちで八稜鏡・円鏡などの文化財を伝世するほか、阿波忌部の開拓に因んだ祭礼が現在まで続けられている。

祭神

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本宮(上の宮)の祭神は次の7柱[1]

主祭神
相殿神
洲崎神社(館山市洲崎)と洲宮神社(館山市洲宮) 式内大社。安房神の后神「天比理乃咩命(天比理刀咩命)」[注 1]を祀る。 洲崎神社(館山市洲崎)と洲宮神社(館山市洲宮) 式内大社。安房神の后神「天比理乃咩命(天比理刀咩命)」[注 1]を祀る。
洲崎神社(館山市洲崎)と洲宮神社(館山市洲宮)
式内大社。安房神の后神「天比理乃咩命(天比理刀咩命)」[注 1]を祀る。

延喜式神名帳での記載は「安房坐神社」の1座。同帳ではそれに続けて式内大社「后神天比理乃咩命神社(天比理刀咩命神社)」[注 1]の記載がある。これは安房坐神社の后神(妃神/妻神)を祀る神社と見られ[2]、現在では洲崎神社(館山市洲崎)・洲宮神社(館山市洲宮)に比定されているが、いつの頃からか安房神社でも上記のように相殿神として併祀されている[3]

神名帳の記す「安房坐神社」とは「安房に鎮座する神の社」の意味になり、この記載からは元々の神格を明らかとしない。その具体的な神格を巡っては後述のように『古語拾遺』・『先代旧事本紀』・『高橋氏文』逸文の記述を基に諸説があるが、現在の安房神社由緒では上記のように忌部氏祖神の天太玉命を指すとしている。

古語拾遺・先代旧事本紀の記述

[編集]
忌部氏本貫地に鎮座する忌部氏本宗の氏神。

安房神社祭神に関しては、忌部氏(いんべうじ、のち斎部氏)の手になる『古語拾遺』(大同2年(807年)成立)[原 1]、および『先代旧事本紀[原 2]平安時代初期頃成立か)に記された阿波忌部の東遷説話が知られる。これによれば、忌部氏遠祖の天富命(あめのとみのみこと/あまのとみのみこと:天太玉命の孫)は、各地の斎部を率いて種々の祭祀具を作っていたが、さらに良い土地を求めようと阿波地方(現在の徳島県)の斎部を率いて東に赴き、そこに麻(アサ)・穀(カジノキ)を植えた。そして、阿波斎部が移住したのでその地は「安房郡」と名付けられてこれが安房国の国名になったとするほか、同地には祖神を祀る「太玉命社」が建てられてこれが「安房社」であるとし、その神戸(神社付属の民戸)には斎部氏があるとする[2][4]

即於其地立太玉命社。今謂之安房社。故其神戸。有斎部氏。 — 『古語拾遺[原 1]

このように、説話では阿波地方から安房地方に忌部(斎部)が移住したように記されるが、安房神社の由緒でもこれを踏襲し、安房神社の神職もかつては安房忌部の正統を称する岡島氏が担っていた[3]。加えて『延喜式』神名帳に記される「安房坐神社」という社名についても、忌部氏本貫地に鎮座する天太玉命神社奈良県橿原市)と区別する意味の「安房坐天太玉命神社」を省略したものとする説が挙げられている[3][5][6]。また「大神宮」という旧称と、豊受大神宮伊勢神宮外宮)の相殿に天太玉命が祀られることとを関連付ける説もある[3]。安房地方では、安房神社のほかにも洲崎神社(館山市洲崎)、洲宮神社(館山市洲宮)、布良崎神社(館山市布良)、下立松原神社(南房総市白浜町・南房総市千倉町の2社)などで同様の忌部氏による開拓伝承が残ることも知られる[7]

以上の一方、古代史料では安房郡司・安房神社神職など安房地方の在地関連人物で忌部の存在は知られず、むしろ安房地方に濃密に分布したのは後述する膳大伴部(かしわでのおおともべ)であったことが知られる[2][8][4]。そのため『古語拾遺』の説話の史実性は否定の向きが強く、『古語拾遺』自体が中臣氏との勢力争いの中で忌部氏の正統性と格差是正の目的で編纂されたものであるため[9]、安房への東遷説話は造作で東国(特に常総地方)の中臣氏勢力と対抗する目的があったと指摘する説がある[10]。また、数少ない安房関係人物として天平2年(730年)の「安房国義倉帳」に安房国司の目と見える忌部宿禰登理万里(忌部鳥麻呂か:中央から赴任した可能性が高い[11][2])の存在から関連づけたと推測する説や[2]、安房神社の祭祀・神戸に忌部氏の関与を仮定すればこれに阿波忌部が結びつけられたと推測する説[12][8][4]、そのほか古くから黒潮を通じて人々の交流があったこと(黒潮文化圏)が説話成立の背景にあると見る説などもある[13][14]

高橋氏文の記述

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一方、膳氏(かしわでうじ)から派生した高橋氏の手になる『高橋氏文』においても、安房神社祭神に関する説話が記されている。『本朝月令』所引『高橋氏文』逸文[原 3]によれば、景行天皇53年10月に安房浮島宮に至った景行天皇(第12代)に対して、磐鹿六獦命(いわかむつかりのみこと:膳氏遠祖)が堅魚・白蛤(うむぎ:ハマグリ)を膾・煮物・焼物にして献上した。天皇はこれを誉め、永く御食を供進するように命じ、また六獦命に大刀を授けるとともに大伴部(おおともべ)を与えた。さらに諸氏族・東方諸国造12氏から枕子(赤子)各1人を進上させ六獦命に付属せしめた。そしてこの時に上総国[注 2]の安房大神を御食都神(みけつかみ、御食津神)として奉斎したが、この神は大膳職の祭神でもあるという[2]

是時上総国安房大神御食都神止坐奉天。(中略)安房大神為御食神者。今大膳職祭神也。 — 『本朝月令』所引『高橋氏文』逸文[原 3]

日本書紀[原 4]にも同様の伝承が簡略的に見え、やはり安房に至った景行天皇に対して磐鹿六鴈が白蛤を膾にして献上し、その功で六鴈は膳大伴部(かしわでのおおともべ)を賜ったという[15]。また『古事記[原 5]においても、六鴈の記載はないものの景行天皇のときに「膳之大伴部」が定められた旨が記されている[16]

このように古代の安房地方は膳氏および高橋氏と密接な関係を持ち、天皇の食膳調達(特にアワビの貢納)にあたる部民氏族の膳大伴部(かしわでのおおともべ、大伴部)、およびその在地統率氏族の膳大伴直(大伴直/伴直)が分布したことが知られる[2][8][4]。この膳大伴直・膳大伴部の人物名は国史(後述)・『先代旧事本紀』[原 6]・平城京出土木簡に散見される[2]。特に阿波国造(安房国造)も同氏族の大伴直(伴直)一族として見えることから、安房神もこの一族の奉斎神であったと考えられている[12][11][2]。その具体的な神格については、『高橋氏文』逸文で磐鹿六鴈命は死後に宮中の膳職に祀られたと記述されることを基に磐鹿六鴈命であった可能性を指摘する説の一方、元来は神格を持たない安房地方の一地方神と推測する説がある[8]

上記伝承に関連する史料として、『延喜式』神名帳では宮中の大膳職坐神三座のうちに「御食津神社」の記載がある(「宮中・京中の式内社一覧」参照)。天平3年(731年)の格[原 7]で「阿房の刀自部(あわのとじべ)」に「膳神(かしわでのかみ)」を祀らせるようにとあることから、古くは安房地方の女性(刀自)が上京してこの膳神(御食津神)の祭祀を担ったとされ[2][4]、この記述が『高橋氏文』の記す安房神の宮中勧請の傍証とされる[8]。この宮中勧請は在地神々による天皇への奉仕および朝廷による在地祭祀の吸収を表すことから、服属儀礼の1つといわれる[8]。なお、上記の安房地方の女性祭祀集団(巫女集団;国造一族出身女性か[8])が神格化されたのが、『延喜式』神名帳に見える「后神天比理乃咩命神社」になるとする説もある[2]

特徴

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安房神社は、古代に神郡(一郡全体を特定神社の所領・神域と定めた郡)を持った数少ない神社の1つとして知られる。『令集解[原 8]や『延喜式[原 9]によると、当時全国には神郡として安房国安房郡のほか伊勢国度会郡・伊勢国多気郡下総国香取郡常陸国鹿島郡出雲国意宇郡紀伊国名草郡筑前国宗像郡の計8郡があり、これらは「八神郡」と総称された[2]

安房神郡に関する記事としては、文武天皇4年(700年[原 10]に上総国司が申請して安房郡の大少領職に父子兄弟の連任が許された旨のほか、養老7年(723年)の太政官処分[原 8]における郡司職の三親等以上の連任許可の記事が見え、他の神郡同様に郡司任用で特別措置が取られている[17]。この郡司職および安房神社祭祀を担ったのは、出雲国造紀伊国造(紀国造)の例のように安房国造(阿波国造)一族であったと見られている[11][2][4]。この国造一族は、前述のように膳大伴部を在地で統率する大伴直(膳大伴直、のち伴直)氏族とされ、この国造による神郡統括に見られるように、安房国・安房神は朝廷から「御食都国」・「御食都神」と認識されて重要視された[2]

文献では『先代旧事本紀[原 6]で「大伴直大瀧」が初めて国造に任じられたとする伝説が見えるが、この大伴直(伴直)一族が国造を担ったことは嘉祥3年(850年)記事[原 11]の「安房国々造正八位上伴直千福麻呂」の記載からも裏付けられる[11][2][8]。そのほか弘仁2年(811年)記事[原 12]に見える安房国人の「大伴直勝麻呂(大伴登美宿禰勝麻呂)」、また承和3年(836年)記事[原 13]に見える安房郡人の「伴直家主」も安房国造一族と推測される[11][17]。『洞院家記』や『北山抄』によれば、この安房国造は10世紀頃までの継続が確認される[11][2][8]

なお、平安時代中期の『和名抄』では安房国安房郡に神戸郷・神余郷の記載が見えるが、これらは安房郡が神郡であったことに関わると見られる[18][6]

歴史

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創建

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社伝では、前述の『古語拾遺[原 1]・『先代旧事本紀[原 2]の説話を基にしたうえで、神武天皇元年に天富命(下の宮祭神)が阿波地方(現在の徳島県)から安房地方に至り、当地を開拓したのちに布良浜の男神山・女神山に祖神の天太玉命・天比理刀咩命を祀ったとし、これをもって創祀とする[1]。続けて、養老元年(717年)には、吾谷山(あづちやま)山麓の現在地に遷座し、その際に天富命・天忍日命が「下の宮」に祀られたとする[1][19]

前述のように、忌部氏による開拓を示す確実な史料はないため、上記伝承の史実性は確かではない。確かな史料の上では、前述のように古代安房地方は食膳(特にアワビ)の供給地としての性格が強く、安房神もまた古くから朝廷の「御食都神」としての性格を持ったとされる[2]。なお、境内からは古墳時代の高坏が出土しており、一帯が古墳時代の祭祀地であったことが知られるほか[6][20]、祭祀との関連は不明ながら縄文時代から弥生時代頃に墓地として使用された洞窟遺跡も発見されている[21]

概史

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安房主要2神の神階[2]
安房神 后神天比理刀咩命神
(天比理乃咩命神)
836年 無位
→従五位下
--
842年 従五位下
→正五位下
無位
→従五位下
852年 従三位 従三位
859年 従三位勲八等
→正三位勲八等
従三位勲八等
→正三位勲八等
神名帳 名神大 式内大

文献では、前述のように『古語拾遺』・『先代旧事本紀』・『高橋氏文』逸文などにそれぞれ記述が見える。また『新抄格勅符抄大同元年(806年)牒[原 14]では、「安房神」には神戸としてすでに94戸が充てられていたが、当時さらに10戸が加えられたと見える[6]。これは東国随一の鹿島神(茨城県鹿嶋市鹿島神宮)の105戸に次ぐ規模になる[8]

国史では、承和3年(836年[原 15]に「安房大神」の神階が無位から従五位下に昇叙された旨のほか、続けて承和9年(842年[原 16]に正五位下に昇叙され、承和14年(847年[原 17]には「安房国大神」の祭祀料に正税の穀100が加えられた旨の記事が見える[6]。その後も、神階は仁寿2年(852年[原 18]には従三位、天安3年(859年[原 19]には正三位勲八等にまでそれぞれ昇叙された[6]

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では安房国安房郡に「安房坐神社 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに朝廷の月次祭新嘗祭幣帛に預かった旨が記載されている[6]。『延喜式』臨時祭式では「安房神社」として記載される[6]。なお、神名帳に見える下野国寒川郡の式内社「阿房神社」(栃木県小山市の安房神社に比定)も関連社とする説がある[22]

中世以降については確かな史料がなく詳らかでないが、近世成立の『安房忌部家系』に伝承が記されている[18]。これによれば、治承4年(1180年)には源頼朝が当社に祈祷を命じ、その後神田8を寄進したという[18][6]。そして文治2年(1186年)には、安房判官代高重の訴えにより社殿の造営修復を厳命し、以後は在庁の沙汰で造営するよう定めたという[18][6]建久6年(1195年)には、在庁による押領のあった上総国千田荘の神領において、鎌倉幕府からその停止を命じられたという[18][6]。また寛喜元年(1229年)の記事を初見として、中世以降は安房国で一宮に位置づけられたとされる[23]

室町時代には、明応8年(1499年)6月の大地震で社殿全てが倒壊し、文亀3年(1503年)に前在庁の安西氏の推挙で領主の里見義成が本殿・瑞垣を造営し、天文5年(1536年)には改めて里見義弘が造営したという[23]。その後も文禄-慶長年間(1592年-1615年)に里見氏によって社殿の修造が行われている[6]

江戸時代に入り、元和2年(1616年)には江戸幕府からの社領寄進があった[18]。また、寛永13年(1637年)には3代将軍徳川家光から「安房郡正一位大神宮領」として朱印地30余が安堵された[18][6]

明治維新後、明治4年(1871年)5月には近代社格制度において最高位の官幣大社に列した[18]。戦後は神社本庁別表神社に列した。また平成21年(2009年)には本殿・拝殿の大修造が行われている。

神階

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境内

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社殿

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社殿
中央に拝殿、左奥に本殿。

本宮は摂社(下の宮)に対して「上の宮」と称される。境内摂社「下の宮」に対し本宮を「上の宮」と称するのは、伊勢神宮内宮外宮に倣ったとする説がある[5][6]

現在の本殿は、明治14年(1881年)の造営。間口三間・奥行二間の神明造[3]、屋根は檜皮葺であり、平成21年(2009年)に大修造が実施されている[24]。本殿前に建てられている拝殿は、昭和52年(1977年)の造営で、鉄筋コンクリートによる神明造[24]。また本殿北側には、主に置炭神事で使用される神饌所が接続する[24]

洞窟遺跡

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忌部塚

あづち茶屋の裏手には「安房神社洞窟遺跡」として、昭和7年(1932年)の井戸掘削工事の際に地下約1メートルで見つかった海食洞窟の遺跡がある。洞窟の大きさは推定全長22メートル以上、幅3.5メートル[25]。発掘調査により人骨22体、貝製の腕輪193個、石製の丸玉3個、縄文土器などが出土した。この洞窟は昭和42年(1967年)に千葉県指定史跡に指定されたが[21]、現在は埋め戻されている。

出土した人骨22体のうちでは、15体に抜歯の習俗が見られることが注目される[21][26]。洞窟からは弥生土器が発見されたというが、その土器の存在が明らかでなく詳細が不明であるため、従来弥生時代とした人骨の年代については再検討が必要とされる[26][25]。これらの人骨を安房神社祭祀に関係する一族に比定して、安房神社の創祀を弥生時代に遡ると推定する説もある[3][5]。人骨の一部は近くの宮ノ谷に埋葬されたうえで忌部氏に仮託して「忌部塚」として祀られており、毎年7月10日には神事として「忌部塚祭」が行われる。この忌部塚は、二の鳥居前の階段の手前を東に道なりに行った場所に位置する。

摂末社

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摂社

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下の宮
  • 下の宮[1]
    • 祭神:天富命(あめのとみのみこと、天太玉命の孫神)、天忍日命(あめのおしひのみこと、天太玉命の弟神[注 3]
    社伝では養老元年(717年)の創祀とする[24]。ただし寛永年間(1624年-1645年)の旧記には祭神が天日鷲命・天神立命・大宮売命・豊磐窓命・櫛磐窓命と記されており、祭神には変遷があったことが知られる[5]

末社

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境内末社として次の2社がある[1]

  • 厳島社
    本宮拝殿前の巨岩をくり貫いて小祠を作るため、元を古代磐座と推測する説がある[3][5]
  • 琴平社

祭事

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年間祭事

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主な祭事

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鶴谷八幡宮(館山市八幡)境内
安房国総社。左に八幡宮社殿、右奥に安房神社遥拝所。
有明祭
「ありあけさい」。1月4日。かつては神狩祭(12月26日)から10日間に神職・総代は神社に参籠し、有明祭で籠もり明けを迎えた[27]。現在も有明祭では「舌餅」などの特殊神饌が供えられる[27]
置炭神事
「おきずみしんじ」。1月14日夕刻、門松の松材で起こした火で粥を炊き、燃え残った松材12本を取り出して並べ、それらの燃え具合によりその年の天候を占う[27][19][28]
粥占神事
「かゆうらしんじ」。1月14日夕刻の置炭神事の際に粥の中にすのこ状に編んだ葦筒12本を沈め、1月15日朝に葦筒を取り出して筒を割り、筒中の粥の入り具合・色つやでその年の作物の豊凶を占う[27][19][28]
例祭
8月10日(旧暦9月28日)。各種祭事のうち最も重要な祭で、「浜降祭」や「磯出の神事」とも称する。天富命の開拓がなってより毎年、各地の忌部が相浜に集い安房神社に参拝したとする故事に因む神事。かつては近郷9社(洲宮神社下立松原神社布良崎神社・日吉神社・相浜神社・犬石神社・八坂神社・熊野神社・白浜神社)から安房神社までの神輿渡御があったが、現在は行われていない[27][6]
国司祭
「こくしさい」。9月中旬、敬老の日前の土曜・日曜。安房国総社鶴谷八幡宮(館山市八幡)で行われる例祭の安房国司祭(通称「やわたんまち」:千葉県指定無形民俗文化財)では、安房神社などの神輿11基・山車5台が集結して神事が行われるが、そのうち2日目に八幡宮境内の安房神社遥拝殿で行われる神事[27]
神狩祭
「みかりさい」。12月26日。天富命による開拓の際、田畑を荒らした猪・鹿を狩猟したとする故事に因む神事。あるいは天富命による害獣狩猟に感謝する神事であるともいう。かつては、1月4日に明けるまで神職・総代が神社に参籠した。現在でも獣の舌を象徴する「舌餅」などの特殊神饌が供えられる[27][6][29]。なお、この「みかり」を「身代わり」と見て、清浄な状態になるための神事とする説もある[18]

文化財

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千葉県指定文化財

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  • 史跡
    • 安房神社洞窟遺跡 - 1967年(昭和42年)3月7日指定[21]

館山市指定文化財

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  • 有形文化財
    • 双鳥花草文八陵鏡・双鳥花草文円鏡(工芸品)
      八陵鏡(正しい用字は「八鏡」)[注 4]鎌倉時代末期頃の作、円鏡は南北朝時代頃の作。1893年明治26年)に東京の装束師から奉納された。1969年(昭和44年)2月21日指定[30]
    • 安房神社高坏(考古資料)
      古墳時代5世紀初頭頃の祭祀で使われたものとされる土師器の高坏。1919年大正8年)の下宮再建工事時に、現在の社殿の下から出土した。1969年(昭和44年)2月21日指定[31]
  • 有形民俗文化財
    • 狛犬・燧筐・木椀 4点
      木造狛犬は鎌倉時代末頃の作、燧筐(ひうちばこ)は御狩神事における神燈点火用具で鎌倉時代の作、木椀は神饌を供えるもので鎌倉時代の作。1962年(昭和37年)7月23日指定[32]

関連文化財

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  • 岡嶋家所伝安房忌部系図 - 館山市指定有形文化財(書跡典籍等)。安房神社社家の岡嶋家に伝わる系図。1969年(昭和44年)2月21日指定。

現地情報

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所在地
交通アクセス
周辺
  • 大神宮義民七人様の供養碑 - 館山市指定史跡。江戸時代に大神宮村で起こった農民一揆の犠牲者を供養した碑。

脚注

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注釈
  1. ^ a b c 后神について、『延喜式』神名帳では「天比理咩命(あめのひりのめのみこと)」と表記される一方、『続日本後紀』・『日本文徳天皇実録』・『日本三代実録』では「天比理咩命(あめのひりとめのみこと、天比々理刀咩命)」と表記され異同がある(「洲崎神社#祭神」を参照)。安房神社由緒では「刀」の表記が採用される。
  2. ^ 安房神社は『延喜式』神名帳において安房国の所在であるが、上総国とする『高橋氏文』の記載は、『高橋氏文』の成立当時に安房国が上総国のうちに含まれていたことによる。
  3. ^ 安房神社由緒では天忍日命を天太玉命の弟神とするが、『古語拾遺』の記述に基づけばむしろ兄神にあたるとされる (安房坐神社(式内社) 1976)。
  4. ^ 館山市の指定文化財(館山市ホームページ)・境内説明板などの記載では館山市での文化財指定名称を「八鏡」とするが、これは銅鏡の分類名称としては明かな誤字になる。
原典
  1. ^ a b c 『古語拾遺』(神道・神社史料集成参照)。
  2. ^ a b 『先代旧事本紀』「天皇本紀」。
  3. ^ a b 『本朝月令』6月朔日内膳司供忌火御飯事所引『高橋氏文』逸文(神道・神社史料集成参照)。
  4. ^ 『日本書紀』景行天皇53年10月条。
  5. ^ 『古事記』景行天皇段。
  6. ^ a b 『先代旧事本紀』「国造本紀」阿波国造条。
  7. ^ 『類聚三代格』収録 天平3年(731年)9月12日の格(『国史大系 第12巻』<経済雑誌社、国立国会図書館デジタルコレクション>377コマ参照)。
  8. ^ a b 『令集解』巻16(選叙令)同司主典条 不得用三等以上親令釈(神道・神社史料集成参照)。
  9. ^ 『延喜式』巻18(式部上)郡司条(神道・神社史料集成参照)。
  10. ^ 『続日本紀』文武天皇4年(700年)2月乙酉(5日)条(神道・神社史料集成参照)。
  11. ^ 『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850年)6月己酉(3日)条(神道・神社史料集成参照)。
  12. ^ 『日本後紀』弘仁2年(811年)3月庚子(6日)条。
  13. ^ 『続日本後紀』承和3年(836年)12月辛丑(7日)条。
  14. ^ 『新抄格勅符抄』巻10(神事諸家封戸)大同元年(806年)牒(神道・神社史料集成参照)。
  15. ^ a b 『続日本後紀』承和3年(836年)7月甲申(17日)条(神道・神社史料集成参照)。
  16. ^ a b 『続日本後紀』承和9年(842年)10月壬戌(2日)条(神道・神社史料集成参照)。
  17. ^ 『続日本後紀』承和14年(847年)7月壬申(9日)条(神道・神社史料集成参照)。
  18. ^ a b 『日本文徳天皇実録』仁寿2年(852年)8月丙辰(22日)条(神道・神社史料集成参照)。
  19. ^ a b 『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条(神道・神社史料集成参照)。
出典
  1. ^ a b c d e ご祭神・ご由緒(公式サイト)。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 千葉県の歴史 通史編 古代2 2001, pp. 604–612.
  3. ^ a b c d e f g 安房坐神社(式内社) 1976.
  4. ^ a b c d e f 千葉県の歴史(山川) 2012, pp. 33–35.
  5. ^ a b c d e 安房神社(神々) 1984.
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 安房神社(平凡社) 1996.
  7. ^ 古代の館山と神話(南房総データベース)。
  8. ^ a b c d e f g h i j 川尻秋生 2003, pp. 70–117.
  9. ^ 千葉県の歴史 通史編 古代2 2001, pp. 959–964.
  10. ^ 忌部(国史).
  11. ^ a b c d e f 安房国(平凡社) 1996.
  12. ^ a b 安房斎部(千葉大百科) 1982.
  13. ^ 館山市史 1981, pp. 105–107.
  14. ^ 総論(平凡社) 1996.
  15. ^ 『新編日本古典文学全集 2 日本書紀 (1)』小学館、2002年(ジャパンナレッジ版)、pp. 390-391。
  16. ^ 『新編日本古典文学全集 1 古事記』小学館、2004年(ジャパンナレッジ版)、p. 217。
  17. ^ a b 安房郡(平凡社) 1996.
  18. ^ a b c d e f g h i 安房神社(角川) 1984.
  19. ^ a b c d 神社由緒書。
  20. ^ 安房神社(大神宮)(南房総データベース)。
  21. ^ a b c d 安房神社洞窟遺跡(千葉県教育委員会)。
    安房神社洞窟遺跡(南房総データベース)。
  22. ^ 館山市史 1981, pp. 688–694.
  23. ^ a b 一宮制 2000, p. 202.
  24. ^ a b c d 境内案内(公式サイト)。
  25. ^ a b 境内説明板。
  26. ^ a b 千葉県の歴史 資料編 考古2 2003, pp. 293–294.
  27. ^ a b c d e f g 年中行事(公式サイト)。
  28. ^ a b 安房神社置炭・粥占神事(年中行事) 2009.
  29. ^ 安房神社神狩神事(年中行事) 2009.
  30. ^ 双鳥花草文八陵鏡・双鳥花草文円鏡(南房総データベース)。
  31. ^ 安房神社高坏(南房総データベース)。
  32. ^ 狛犬・燧筐・木椀(南房総データベース)。

参考文献・サイト

[編集]
  • 神社由緒書「安房国一之宮 安房神社略記」
  • 境内説明板
書籍
  • 地方自治体発行
    • 『千葉県の歴史 通史編 古代2(県史シリーズ2)』千葉県、2001年。 
    • 『千葉県の歴史 資料編 考古2(県史シリーズ10)』千葉県、2003年。 
    • 『館山市史』国書刊行会、1981年。 
  • 事典類
    • 国史大辞典吉川弘文館 
      • 大場磐雄 「安房神社」佐伯有清 「忌部」佐伯有清 「忌部氏」
    • 『千葉大百科事典』千葉日報社、1982年。 
      • 鈴木邦子 「安房斎部」宮原武夫 「総国」
    • 「安房神社」『角川日本地名大辞典 12 千葉県』角川書店、1984年。ISBN 4040010809 
    • 日本歴史地名大系 12 千葉県の地名』平凡社、1996年。ISBN 4582490123 
      • 「総論」「安房国」「安房神社」
    • 『年中行事大辞典』吉川弘文館、2009年。ISBN 4642014438 
      • 滝川恒昭 「安房神社置炭・粥占神事」滝川恒昭 「安房神社神狩神事」
    • 「忌部氏」『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 978-4642014588 
  • その他
    • 菱沼勇 著「安房坐神社」、式内社研究会 編『式内社調査報告 第11巻』皇學館大学出版部、1976年。 
    • 君塚文雄 著「安房神社」、谷川健一 編『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』白水社、1984年。ISBN 4560025118 
    • 中世諸国一宮制研究会 編『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000年。ISBN 978-4872941708 
    • 川尻秋生「古代安房国の特質 -安房大神と膳神-」『古代東国史の基礎的研究』塙書房、2003年。ISBN 4827311803 
    • 千葉県神社庁房総の杜編纂委員会編 『房総の杜』 おうふう、2004年9月。
    • 全国一の宮会編 『全国一の宮めぐり』 全国一の宮会、2008年12月。
    • 『千葉県の歴史(県史12)第2版』山川出版社、2012年。ISBN 978-4634321212 
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関連文献

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関連項目

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外部リンク

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