丹生川上神社上社
丹生川上神社上社 | |
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拝殿 | |
所在地 | 奈良県吉野郡川上村大字迫167 |
位置 | 北緯34度19分59.25秒 東経135度57分20.63秒 / 北緯34.3331250度 東経135.9557306度座標: 北緯34度19分59.25秒 東経135度57分20.63秒 / 北緯34.3331250度 東経135.9557306度 |
主祭神 | 高龗神 |
社格等 |
式内社(名神大)論社 二十二社(下八社)論社 旧官幣大社 別表神社 |
創建 | 不詳 |
本殿の様式 | 三間社流造銅板葺 |
札所等 | 神仏霊場巡拝の道第40番(奈良第27番) |
例祭 | 10月8日 |
地図 |
丹生川上神社上社(にうかわかみじんじゃかみしゃ)は、奈良県吉野郡川上村迫にある神社。式内社(名神大社)及び二十二社(下八社)の論社。旧社格は官幣大社[1]で、現在は神社本庁の別表神社。
祭神
[編集]- 主祭神
- 高龗神 (たかおかみのかみ)
- 大山祇神
- 大雷神
以前は罔象女神を主祭神としていたが、大正11年(1922年)の現丹生川上神社(中社)との併合に際して、高龗神に改めた。高龗神は、古くから祈雨・止雨の神とされている。[2]
歴史
[編集]明治初年までは高龗神社という小規模な祠で、その由緒も不詳であるが、大滝ダム建設に伴う境内の発掘調査により宮の平遺跡[3]が発見され、本殿跡の真下から平安時代後半(11世紀末)以前に遡る自然石を敷き並べた祭壇跡が出土し、また付近からは、縄文時代中期末から後期初め(約4000年前)にかけての祭祀遺跡と見られる、立石を伴う環状配石遺構が出土したため、途中奈良・古墳時代にかけての断絶が認められるものの、当神社の祭祀空間としての機能は縄文時代にまで遡る可能性が出てきた。
明治6年(1873年)に郷社に列したが、当時の官幣大社丹生川上神社(現在の下社)少宮司江藤正澄が、下社の鎮座地は寛平7年(895年)の太政官符(『類聚三代格』所収)に記す丹生川上神社の四至境域に合致しないことを指摘して当神社を式内丹生川上神社に比定し、翌明治7年には当神社を下社所轄の神社とするとともに、下社を「口の宮」、当神社を「奥の宮」と称した。その後江藤説が認められて、明治29年(1896年)に「口の宮」を「丹生川上下社」、当神社を「同上社」と改称し、2社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」となった。
だが、大正(1915)4年 、現・中社のある東吉野村出身の森口奈良吉が『丹生川上神社考』を著して、「蟻通神社(現丹生川上神社・中社)=丹生川上社説」を唱え、これが受け入れられたため、同11年(1922年)10月12日内務省告示で「郷社丹生川上神社、奈良県吉野郡小川村鎮座、祭神罔象女神。右官幣大社丹生川上神社中社ト定メラルル旨被仰出」とされ、上社・下社は中社に包括される形で、改めて3社を合わせて「官幣大社丹生川上神社」とされた。その際、上社の祭神は罔象女神から郷社時代と同じ高龗神に再び戻された。
第二次大戦後の昭和27年(1952年)に独立し、現在は神社本庁に属して、その別表神社とされている。
境内
[編集]現在の本殿は三間社流造銅板葺。旧境内地が大滝ダムの建設に伴い水没することになったため、伊勢神宮旧社殿の古材を用い平成10年に造営された。なお、旧社殿は大正6年(1917年)の造築にかかるもので、飛鳥坐神社(高市郡明日香村)に移築され、同神社の本殿などとなっている。
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拝殿
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本殿
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祭祀遺構(復元)
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拝殿前方あたりから見た光景
摂末社
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左より愛宕神社、恵比寿社、水神社
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山之神社
主な祭事
[編集]文化財
[編集]- 宮の平遺跡
現地情報
[編集]- 所在地
- 交通アクセス
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 式内社研究會編『式内社調査報告 第2巻 大和国(A)』(皇學館大學出版部、1982年)
- 宮地直一・佐伯有義監修『神道大辞典 縮刷版』(臨川書店、1969年 ISBN 4-653-01347-0(初版平凡社、1937年))
- 谷川健一編『日本の神々-神社と聖地 第4巻大和《新装復刊》』(白水社、2000年 ISBN 978-4-560-02504-8(初版1985年 ISBN 4-560-02214-3))
関連項目
[編集]- 丹生川上神社 三社巡り
外部リンク
[編集]- 丹生川上神社上社(公式サイト)
- 丹生川上神社(國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」)
- 宮の平遺跡現地説明会資料(奈良県立橿原考古学研究所)