人柱
人柱(ひとばしら)とは、人身御供の一種。大規模建造物(橋、堤防、城、港湾施設、など)が無事完成すること、又は災害(自然災害や人災)や敵襲によって破壊されないことを神[* 1]に祈願する目的で、建造物やその近傍にこれと定めた人間を生かしたままで土中に埋めたり水中に沈めたりする風習を言い、狭義では古来日本で行われてきたものを指すが、広義では日本古来のそれと類似点の多い世界各地の風習をも同様にいう。
概要
[編集]この慣わしを行うことは「人柱を立てる」、同じく、行われることは「人柱が立つ」ということが多い。人柱になることは「人柱に立つ」、強いられてなる場合は「人柱に立たされる」ということが多い。
史実として確認できる事例はほとんど無いが、人柱の伝説は日本各地に残されており、中でも堤防工事など治水事業に際して人柱が立てられたという伝説は多い。城郭建築の時に人柱が埋められたという伝説が伝わる城もあり、城主を郷土の偉人として讃えるため、「人柱のような迷信を禁じ、別の手段で代行して建築を成功させた」という伝説が残っているものもある。
また、工事中に労働者が事故死した場合、慰霊と鎮魂の思いを籠めて「人柱」と呼ぶ場合もある。
この場合の「柱」とは、建造物の構造のそれだけではなく、神道(多神教)において神を数える際の助数詞「柱(はしら)」の延長線上にある語で、死者の霊魂を「人でありながら神に近しい存在」と考える、すなわち対象に宿るアニミズム的な魂など霊的な装置に見立ててのことである。こういった魂の入れられた建造物は、そうでない建造物に比べより強固に、例えるなら自然の地形のように長く礎の機能を果たすはずであると考えられていた。この神との同一視のため、古い人柱の伝説が残る地域には慰霊碑ないし社(やしろ)が設置され、何らかの形で祀る様式が一般的である。
上記の例とはややニュアンスが異なる人柱も存在し、かつてのタコ部屋労働に伴って不当労働や賃金の未払いから「どうせなら殺してしまえ」という理由で生き埋めにされた労働者も人柱と呼ばれることがある[1]。 また、炭鉱火災が発生した際、坑内に残る鉱夫を救助することなく、かえって酸素の供給を絶つために坑口を封鎖したり注水する殺人行為を「人柱」と称することもある(北炭夕張新炭鉱ガス突出事故など)。小説などのフィクションにおいては、城の秘密通路を作成した作業員を秘密隠蔽のために全員殺害し、その死体を人柱に見立てるといった例もある[2]。
歴史
[編集]呪術的な意味での人柱の伝説は古代から近世までの長い期間に渡り見ることができる。 古くは8世紀に成立した『日本書紀』に、堤防を築いた際に人身御供を捧げたという記述があるが、そこに「人柱」という言葉は見られない。 鎌倉時代に成立した『平家物語』が「人柱」という言葉の文献上の初出と考えられ[3]、17世紀に発行された『日葡辞書』にも「人柱」の記述が見られることから、戦国時代頃には人柱は広く一般的な概念になっていたことが窺えるが、江戸時代の寛文・延宝頃をピークにして人柱伝説は減少して行くという[4]。 また、はっきりとは分からないが、明治時代以前には既に人柱の風習は無くなったと考えられるという[5]。
人柱伝説の考察
[編集]南方熊楠は著書『南方閑話』の中の「人柱の話」にて、日本を含めた世界で数多に存在する人柱伝説について紹介している。書かれている人柱の呪術的意図に関しては、62頁の「ボムベイのワダラ池に水が溜らなんだ時、村長の娘を牲にして水が溜まった」とあるように人柱により何らかの恩恵を求めたものや、64頁の「史記の滑稽列伝に見えた魏の文侯の時、鄴の巫が好女を撰んで河伯の妻として水に沈め洪水の予防とした事」、68頁の「物をいうまい物ゆた故に、父は長柄の人柱 ― 初めて此の橋を架けた時、水神のために人柱を入れねばならぬと関[要曖昧さ回避]を垂水村に構えて人を補えんとする」、68頁の「王ブーシーリスの世に9年の飢饉があり、キプルス人のフラシウスが毎年外国生まれの者一人を牲にしたらよいと勧めた」とあるように人柱によって災難を予防、もしくは現在起こっている災難の沈静化を図ったもの、69頁の「大洲城を龜の城と呼んだのは後世で、古くは此地の城と唱えた。最初築いた時下手の高石垣が幾度も崩れて成らず、領内の美女一人を抽籤で人柱に立てるに決し、オヒヂと名づくる娘が当って生埋され、其れより崩るる事無し」、71頁の「雲州松江城を堀尾氏が築く時成功せず、毎晩その邊(辺)を美聲で唄い通る娘を人柱にした」、87頁の「セルヴイアでは都市を建てるのに人又は人の影を壁に築き込むに非ざれば成功せず。影を築き込まれた人は必ず速やかに死すと信じた」とあるように人柱によって建築物を霊的な加護によって堅牢にする意図があったことが明らかとなっている。 なお、南方熊楠は『南方閑話』の92頁において座敷童子は人柱となった子供の霊であると書いている。そのほか、罪人が人柱となる話や、82頁にあるようにある特殊な境遇の人間の血を建物の土台に注いだら建物が崩れにくくなるといった人柱同様の迷信が存在していたことも語っている。 もっとも興味深いのは、人柱の呪術的意図が変化することを語っている点である。78頁の「晝間仕上げた工事を毎夜土地の神が壊すを防ぐとて弟子一人(オラン尊者)を生埋した。さらば欧州がキリスト教と化した後も人柱は依然行なわれたので、此教は一神を奉ずるから地神抔は薩張り(さっぱり)もてなくなり、人を牲に供えて地神を慰めるという考えは追々人柱で土地の占領を確定し建築を堅固にして崩れ動かざらしむるという信念に変わった」 上記のようにその時々により、人柱の意味合いも変化していくことがわかる[6][7]。
布施千造は、1902年(明治35年)5月20日に発行された東京人類学会雑誌第194号にて、「人柱の名称」「人柱の方法」「人柱の材料」「人柱の起源」「人柱の行われし範囲」「人柱と宗教の関係」について書いている[5]。 人柱の方法については、種類があって一様でないが、橋、堰、塔などの工事の際に行われた点は共通しているとしている。また自働的なものに「名誉を遺さんとして人柱を希望するもの」「他人の為、水利を計らんとして身を沈むる者」とあり、他働的なものに「突然拿捕せられて強制を以って人柱とせらるる者」「止を得ず涙を呑んで埋めらるるもの」とある。 人柱とされる人物について諸国の実例を見ると、性別は男女問わずあり、年齢については老年の者が多く、若者は少ないという。自ら志願した場合は別として、「国家有用の人物」「富者」等は人柱とされることはなく、貧者(特に老人)や、行者、巫女など宗教と関係がある者が多いとしている。 人柱の起源について探ることは大変困難であるが、寺島良安は茨田堤の例を人柱の始めとしているという。その終期についても資料がなくはっきりと分からないが、明治時代以前には既に人柱の風習は無くなったと考えられるとしている。 また、人柱が行われた範囲については、地域の限定はなく日本全国で見られるという。
柳田國男は人柱について、日本では近世の初め頃まで、民衆に事実として信じられやすかった伝説であり、他国では人柱に該当する言葉は聞いたことがないが、日本のものと似た言い伝えはあるとしている[8]。 柳田によると、日本各地に共通の型の人柱伝説が伝わっていて、そこにはかなり顕著な共通性が見られ、最も有名な類型としては、誰を人柱にするか相談している時に、提案した本人が丁度その条件に該当していて人柱にされたという、長柄橋の伝説のような「袴の横継ぎの話」の類型で、これは東北地方から九州地方まで広く分布しているという。 また柳田は、人柱の伝説が事実かどうかは別として、「水の神の祭祀に参与していた巫女」が、それに関して犠牲になった祖先がいた事を語り歩いたことも、治水に関する人柱伝説の流布に影響した可能性を指摘している[8]。
高木敏雄は『日本神話伝説の研究』で、人柱は架橋や築堤の土木工事において「神の意に背いて強いて神の領分を侵すような大工事に際してのみ」立てられ、「埋められた人間の霊魂の作用で工事が堅固になるという思想」に基づいて行われたもので[9]、「この風習は必ずあったに相違あるまい」としている。 しかし、伝説で語られる人柱はその方法が一定していないなど「民間伝説の人柱に関する概念は、頗る明瞭を欠いている」という。 さらに、各地の堤防や橋に伝わっている多くの人柱伝説では、あまりにも人柱の効能があり過ぎて不自然であり「一から十まで純粋の空想的産物である」としている[10]。 また、袴の模様によって選ばれ人柱にされたものを「袴籤モーチーフ」、最初に通り掛かった者が人柱にされたものを「通掛モーチーフ」と分類している[11]。
石上堅は『日本民俗語大辞典』の「人柱」の項目で、人柱とは「崩壊を繰り返さぬように、堤・橋・城などの工事に、その基礎に人を生きながら埋めること」とし、子連れの者が人柱に選ばれるのは「水神を祀る巫女が母子神信仰に関係があった」からであり、諸国を流浪した「下級神人・盲僧・六部・比丘尼などが、橋・峠など国境にあたる場所で行った供養が源」としている[12]。
笹本正治によると、人柱は、堤防建設、新田開発、架橋、築城など、自然の状態を人間が改変する際に行われたもので、そのほとんどが水に関わる工事であり「水を人間の管理下に置くための難しい土木工事に際して」人柱を捧げるという観念が強かったという。笹本による人柱伝説の集計では、堤防の人柱は計130事例(川の堤防43事例、井堰の堤防37事例、池・沼の堤防33事例、海の堤防・防波堤4事例、不明13事例)、新田開発と干拓の人柱20事例、橋の人柱26事例、築城の人柱13事例としている。 また、伝説に見られる人柱のイメージは中世中期頃に広まったものであり、『日葡辞書』にも人柱の記述が見られることから、戦国時代には人柱は広く一般的な概念になっていたと考えられる。 しかし、江戸時代に入り 寛文・延宝頃をピークにして人柱伝説は減少して行くが、これは、近世の人々の意識変化や土木技術の発展により、人柱のような呪術的なものに頼るという発想が薄らいでいったことによるという[4]。
六車由実によると、人柱という言葉が使用されるようになった中世以降の伝説においては、人身御供が捧げられる側の神の存在感は希薄になる一方で、人柱となった人間を神として祀るという意識が強くなっていくという。 また、人柱がその効力を発揮するためには、人柱となる者の性質やその方法等が重要であると共に、人柱となった人間を神として祀り続けることが必要だったのではないかとし、「自分たちの利益のために人を犠牲にした(殺した)という負の感情を正の論理へと転換」して後ろめたさから解放されることによって人柱は完結する、と述べている。[13]
最近の研究では、特に城郭建築の人柱においては否定的な見解が多く、井上宗和は、「城郭建築時の人柱伝説が立証されたケースは全くない。人柱に変えてなんらかの物を埋めたものが発見されることは存在する」と述べており、興味本位の出版物を除くと、城郭の人柱については全否定されている。(井上「日本の城の謎」祥伝社文庫)
小和田哲男は、城郭に関する伝説のうち最も多いと思われるのが人柱伝説で、それらは、契機については築城途中に工事が難航したことから人柱を立てる事になったパターンと築城の最初から工事の無事を祈って人柱を立てたパターン、人選については自ら志願して人柱になったパターンと城主などにより拉致されて無理矢理人柱にされたパターンなどに大別され、特に、盆踊りの際にさらわれた美少女が人柱にされ、その後、天守が揺れるなどの怪異が起こるという類型の伝説は全国に分布しているとしている[14]。 しかし、全国で多くの城郭が発掘されていながら、人柱だと断定できるものはないとしており、築城工事が難航した際に人々が抱いた恐れの気持ちに基づく「神と自然の心を和らげるため、祭祀を重んじ、生贄を捧げる」という考えや、そういった民衆の通念を築城者側が利用したことが人柱伝説を生み出していったのではないかと述べている[15]。 また、熊本城や岩倉城、一乗谷朝倉氏遺跡など、全国の城館跡からは呪術的な意味で埋められたと思われる人形(ひとがた)が多く出土しており[15]、これらは生きた人間による人柱の代わりとして埋められたことが考えられ、その人形等を埋めたという話が人柱伝説の元となった可能性もあるとしている[14]。
また、北海道常紋トンネルの人柱のように、タコ部屋労働で苦役の末に死亡した作業員を埋めたものについては、北海道開拓の苦労を偲ぶ目的で研究が多く行われている。
人柱伝説の一覧
[編集]各地に見られる人柱伝説の事例をここに列挙する。なお、前述のとおり城郭建築については、人柱の代用品を埋めているケースが多いので、それもここに含める。人柱が立ったと考えられる当時を基準に古い事例から順に記載するが、工期が数年にわたる場合、どの年に人柱が立ったかを特定することは難しいのが普通であり、また、何時代といったおおまかな時期さえ特定できない場合もある。
難工事が予想される物件で着工前から予定されている人柱(例:茨田堤)もあれば、万事順調に推移したとしても霊的加護を期待して実施される人柱もあったと考えられる。人の身で果たせる努力を尽くしてなお叶わなかった末の神(人間の所業を不首尾に終わらせようとして現に力を発揮している荒魂)をなだめるための人柱(例:松江城の人柱にされた娘)もあった。信仰心のあり様が大きく変容した近代化以降の場合は、現代的感覚でもって「迷信」と断じる近世以前の純粋で残酷な人柱とは異質な、信仰とは乖離した面の多い打算的あるいは謀略的な犯罪色の強い人柱が起こり得る土壌があった(もしくは、ある)と言える。常紋トンネルの人柱伝説や同種の伝説をモチーフとした創作物はこの類いである。
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物証のある人柱
[編集]考古遺物を始めとする科学的物証が、部分的にではあっても存在する人柱伝説。伝説と物証がある人柱。語り継がれている事柄が全面的に証明されたわけではないが、人柱が立ったことや立った場所などを史実と認めることができる事例である。
- 猿供養寺村の人柱
- 常紋トンネルの人柱
出土物から推定される人柱
[編集]人柱の伝説は伝わっていないが、発掘の状況から人柱である可能性が推定される事例。
- 江戸城伏見櫓の人柱
- 1923年(大正12年)に発生した関東大震災で江戸城伏見櫓の土手が崩壊し、その修復工事中の1925年(大正14年)6月、16体の人骨と土器等が発見され、人柱発見かと報道された[23]。かつての江戸城伏見櫓(現在の皇居伏見櫓)は、徳川家康が伏見城の櫓を解体して移築したものと伝えられているが、伝説を信じれば、1603年 - 1614年の慶長期築城の時、伏見城の櫓を移築した後で人柱を埋めたことになる。
- 人骨はまず6月11日に一丈二尺(約3,6m)の深さから2体が発見され、続いて15日にも2体を発見、いずれも立った状態で頭から足まで全身が揃っており、頭や肩の上に古銭が一枚ずつ載せられていた。更に24日までの間に次々と人骨が発見され、これらは立っていたり横臥していたりと姿勢はまちまちであったが、いずれも開元通宝や永楽通宝などの古銭が載せられており、灯油皿と思われる土器なども出土し、6月中に合計16体の人骨が発見された。人骨の発見が報道されると、人柱ではないかと話題になり、当時の宮内省では帝国大学の学者らに考証を依頼した。16体の人骨は増上寺で供養されることとなり、丁重に桐箱に収められて宮内省の車で増上寺に運ばれて法要が行われた。更に、7月24日になって1体、25日には4体の人骨が発見され、そのうち1体には髷が残っていた。江戸城伏見櫓では最終的に21体の人骨が発見されるに至った[24]。ある宮内省職員は「人骨は男女不明ながら20歳から30歳くらいで、発見されたうちの8体の人骨は西に面したお堀の石垣に近い、二重櫓の大柱の下に一間から二間の間隔をおいて整列し、両手を上方に上げて土砂を支えるような格好に見えるので、埋葬したものではなく生き埋めにされたと想像され、城内でも重要な場所ということから考えても人柱ではないかと思われる」との内容を語ったという[24]。
- 宮内省から依頼を受け調査を行った東京帝国大学教授・黒板勝美は、発見された人骨の埋葬方法が粗末であり、状態は乱脈で、数も多過ぎることから「人柱とは考えられない」と新聞発表した[23]。東京朝日新聞(大正14年6月30日付朝刊)では「発掘された白骨は16体 黒板博士宮城前を調査、人柱ではないと語る」「築城時の死亡者を葬ったものか」との見出しで調査結果を報じており、同記事によると、黒板博士は6月29日に現地へ赴き、2時間に亘って調査を行った。発掘された場所は斜面上に盛り土がされていて、二尺(60cm)から四尺五寸(135cm)くらいの深さであったという。調査の結果黒板博士は、報道されている状況とは異なり、人骨は立った状態ではなく、全て横になっており、状態は乱雑で、数が多すぎ、埋葬方法が粗末であるため人柱とは考えられない、築城以前に墓地があったとも考えられるが、墓地であればその形跡があるはずであり、築城中の事故で死んだ者を集めて埋葬したものではないかと思われ、人柱の故事に因んで櫓の下に埋めたとも考えられ、他にもまだ埋められている可能性がある、との内容を語った[25]。その後、中央史壇などで供犠の話題で特集が組まれ、喜田貞吉は黒板の発言の矛盾を指摘し批判するとともに、人柱の文化的な意味について考察を広げようとしていた。喜田博士は、現地を見ておらずあくまで「新聞を見て感じた限り」とした上で、墓地であったならば木棺や甕も同時に発見されるはずであり、その上にそのまま建物を建てたとは考えられない、不浄として忌避されていた死体を神聖な建築物の下に埋めることは「あるまじき事」とし、「やはり所謂『人柱』の意味で埋められたものと解する」としている[26]。柳田國男は、発見場所が皇居に接していたために十分な調査が行われなかった、としている[8]。
- 江戸城研究家たちの間では、人柱とするには余りにも粗末に扱われていることや、伏見櫓を解体修理した結果伏見城からの移築物ではないことが明らかであることが分かっているため、人柱説には否定的である。『落穂集』などの史料には、徳川氏による慶長期築城以前には、城域内に複数の寺院があり、慶長期築城の時に全て移転させられたことが明確なため、発見された人骨は慶長期築城以前に城内にあった寺院の墓地の人骨であろうとされている(鈴木理生・黒田涼・井上宗和らの説)。井上宗和は人柱ではない場合の仮説として、工事の秘密を守るために殺された工夫が埋められた、建設中に事故死した者をその場に葬った、太田氏の時代にあった寺の墓地の人骨、江戸氏の時代に戦死者を埋葬したもの、などが考えられると述べている[23]。
- 1934年(昭和9年)には坂下門近くでも5人の人骨と古銭が発見されている。
- 日出城の人柱
- 1960年(昭和35年)、大分県速見郡日出町所在の日出城址では、城の裏鬼門に当たる最南端部の石垣の下から人骨が入った木棺や武具の一部が発見され、調査の結果1601年(慶長6年)からの築城の際に立てられた人柱ではないかと推定され[27][22]、木棺の出土地には「人柱祠」が建てられた。
- また、2023年(令和5年)9月25日に日出町歴史資料館の平井義人館長が日出町中央公民館で行った講演で、同館に寄託された資料を精査した結果、日出城で発見された人骨は人柱である可能性が高くなったと述べた事を毎日新聞が報じた[28]。
- 同記事によると、1960年(昭和35年)に日出城付近での海岸遊歩道の工事中、木棺の中から老武士と思われる人骨等が発見され、大分大学等の調査により築城時に入れられた人柱ではないかと推定されたが、出土物は全て処分され、報告書等も残されなかったという。
- 平井館長によると、2022年(令和4年)に日出町歴史資料館へ寄託された、当時の大分県立日出高等学校社会科部が日出城周辺の歴史を記した資料の中に、発見された木棺の見取り図等の資料があることが分かったという。同資料によると、城の石垣の底部に石室状の空間が作られており、蓋状に置かれた大石の上には錆びた兜があった。石室の中には、直径86cm、高さ98cmの円筒形の木製の桶が底を上にした状態で置かれており、その内部から人骨が発見された。発見時、頭部には髷を結った白い頭髪が残されていたが、直後に崩壊した。また人骨の側から陶器製の翁像が発見された。平井館長は「武士が生きたまま桶をかぶせられ、埋められたことがはっきりした」と述べている。
伝説の域にある人柱
[編集]治水に伴うもの
[編集]- 茨田堤と強頸・衫子
- 『日本書紀』「巻第十一の十 仁徳天皇(仁徳天皇11年10月の条)」の伝えるところによれば、暴れ川であった淀川の治水対策として当時は広大な低湿地であった茨田(まんた、まんだ。のちの河内国茨田郡[まんたのこおり]、現在の大阪府守口市・門真市の全域、寝屋川市・枚方市・大東市・大阪市鶴見区の一部に及ぶ範囲)に茨田堤を築いて淀川の奔流を押さえ、次に難波堀江を開削して流水を茅渟の海(ちぬのうみ。現在の大阪湾)に落とす工事にかかったが、茨田地域にどうにもならない絶間(たえま。断間とも記す。決壊しやすい場所)が2箇所あって万策尽きてしまった[31][32][33]。そのような最中のとある夜、天皇は夢枕に立った神から「武蔵国の人・強頸(こわくび、无邪志国造#子孫参照)と河内国の人・茨田連衫子(まんたのむらじ ころもこ)の2名を人身御供として川神に捧げて祀れば必ずや成就する」とのお告げを得、かくしてただちに2名は捕らえられ、衫子はヒョウタンを用いた策で難を逃れたが、強頸は泣き悲しみながら人柱として水に沈められたため、堤は完成を見たという[31][32]。江戸時代の『摂津名所図会』によれば、強頸が人柱にされた「強頸絶間」の跡は絶間池(非現存。大阪市旭区千林)として残っていた[31]。現在は千林2丁目の民家に「強頸絶間之址」の碑が建っている[31]。
- 入ヶ池(にゅうがいけ)
- 母也明神と巫女塚
- 平安時代末期、平清盛の治世下にあって日宋貿易の拠点港とすべく大輪田泊の建造が急がれていた頃、工事にあたって旅人を含む30名もの罪無き人々が人柱にされようとするのを清盛の侍童(さぶらいわらわ、じどう)[* 4]であった松王丸(まつおうまる)が中止させたという伝説がある。しかし異説によると、松王丸が入水して人柱になったことで工事は成し遂げられたのだという[39]。また、経文を記した礎(いしずえ)を人柱の代わりとして海に沈めたことが分かっており、そういった石は考古遺物としても確かめられている。このようにして造られた人工島は「経が島」と呼ばれるようになった。清盛は松王丸の菩提を弔うために来迎寺 (神戸市)を建て、境内には「松王小児入海之碑」が残る[40]。
- 比夜叉池(三島池)
- 稚児ヶ池
- おゆわ淵
- 一説に1603年(慶長8年)頃、信濃国。用水工事責任者の妻が人柱に立ったとの伝説。「芋川用水#取り入れ口」を参照のこと。
- 備前道丁(びぜんどて)
- 若狭土手(相模土手)
- 藤崎堰
- 中山池
- 浅間堤
- 1633年(寛永10年)、伊勢国度会郡において、宮川の堤が度々決壊して困っていた住民が人柱を立てなければならないと話し合うのを聞いた松井孫右衛門が自ら申し出て人柱となったとの伝説がある。(この時に袴の継当てにより人選されたとの話も伝わっているが[55]、それは長柄橋の人柱伝説の影響によるものと思われる。)[56]孫右衛門は人柱になるため、地上まで竹筒を通した棺に入って土中に埋められたが、当初聞こえていた鐘の音も3日目には聞こえなくなったという。人々は供養のため石像を立て、三重県伊勢市中島には孫右衛門を祀った社と[57]山口誓子の句碑があり[58]、現在でも松井孫右衛門顕彰会によって、その命日とされる8月25日に祭典が行われている[59]。
- 一ノ谷池
- 長崎堤防の袈裟姫伝説
- 千貫石ため池(千貫石堤)
- 吉原大池
- 矢島のお仙地蔵
- 沖新田の堤防
- 井出の神
- 前野のおさき地蔵
- 邑楽の堤
- 龍蔵堤
- 卒塔婆の堰
- 権現堂堤(順礼樋管)
- 道源開作
- 国兼池
- 亀の子堰
- 広瀬川の行人塚
- 舌喰池
- 女堰
- 原田の堤防
- 頭山土手
- 口春の溜池
- 江戸時代、筑前国口春村で溜池工事の際、横縞の布を当てた着物を着ている者を人柱にすることとなり、たまたまお茶を持ってきた女が該当してしまい、人柱になったとの伝説[99]。
- 米原太鼓
- 坊主子堤
- ひんどの人柱
- 茗荷沢の溜池
- 江戸時代後期、陸奥国で溜池の堤防が決壊、復旧工事が難航し、人柱を立てることとなり、自ら申し出た一人の百姓lが人柱となったところ、無事完工したとの伝説[105]。
- 坂田ヶ池の片歯の梅
- 江戸時代、下総国印旛郡大竹村の坂田ヶ池の堤が毎年壊れ村人が困っていたところ、ある年の春、村人達が堤の修復の相談をしていると、幼女を背負った女が通り掛かり、人柱を立てなければならないので自分を子供と一緒に埋めて欲しいと願い出た。女が強く望むので仕方なく人柱として生き埋めにしたところ、以後、堤が決壊することはなくなった。その後、堤に一本の梅の木が生えたので、村人は人柱となった子供が齧っていた梅の実から生えたのだろうと思ったが、この木に成る梅の実は肉が半分しかないため、「片歯の梅(片端梅)」と言われるようになった[48][106][107]。千葉県成田市の坂田ヶ池総合公園には「片歯の梅」がある[108]。
- 一言の宮
- 巫女御前社
- 堰上明神
架橋に伴うもの
[編集]- 松江大橋の源助柱
- 1607年(慶長12年)、大橋川に橋を架ける際、難工事の末、偶然通りかかった足軽の「源助」を橋脚の下に埋めて人柱とした[113]、あるいは袴に横継ぎのある者を人柱に立てようと発案した源助本人がその条件に該当していたため人柱となったとの伝説[48]があり、後にその橋脚は「源助柱」と呼ばれるようになった。また、1936年(昭和11年)、大橋の架け替え工事の際、源助柱があったとされる場所の近くで深田技師が事故死し「昭和の源助」などと新聞報道され、供養のため技師の肖像を彫刻した銅板が橋脚の下に埋められた。橋付近に所在する龍覚寺には源助地蔵が祀られており、大橋南詰の源助公園内には源助と深田技師の記念碑がある[114]。
- おまん橋
- 幸来橋:江戸時代、下野国で美少女が人柱になったとの伝説。幸来橋#伝承・逸話を参照。
- 尾頭橋 : 江戸時代、尾張国。僧侶が人柱に立った伝説。尾頭橋参照。愛知県名古屋市熱田区花町には七橋供養碑がある。
- 夫婦橋
- 久米路橋(水内橋)
- 昔、信濃国の犀川で、罪人が人柱にされたという、長柄橋のものと似た人柱伝説が伝わる。(久米路橋にまつわる民話を参照)
- 紫波郡の橋の渡り初め
築城に伴うもの
[編集]- 1574年(天正2年)、築城の際に城下一の美女「おかね」が人柱に選ばれ、おかねが人柱に入った辺りの堀を「おかね堀」と呼んだという伝説がある。また、漁師の娘「きく」が、人柱にされそうになった妹を庇って自ら人柱になったとの伝説も残る。長浜城 (近江国)#伝説参照
- 1602年(慶長7年)からの築城の際、人柱を立てることとなり、盆踊りを開催して集まった人の中から「おさよ」という美しい娘が密かに拉致されて人柱にされたとの伝説がある[136]。
- 1629年(寛永6年)、丹羽長重によって改修された際、本丸の石垣の一部が何度も崩壊したため、石工の提案により人柱を立てることとなり、決められた日に一番最初に城に入って来た娘を人柱にする事と決まった。当日、作事奉行・和知半三郎の娘の「おとめ」が最初に城に入って来ようとしたので、和知は手で合図して追い返そうとしたが、自分を呼び寄せていると思った娘はそのまま入って来てしまい人柱にされてしまったという伝説がある[129]。おとめが埋められた場所には桜の木が植えられ「おとめ桜」と呼ばれるようになったという。この桜は戊辰戦争により焼失したが、新たに桜が植えられ福島県白河市の白河小峰城址に二代目の「おとめ桜」として現存している[143]。
その他のもの
[編集]- 波止浜塩田
- 貝暮ヶ淵
- 三百間土手
- 正念塚
- イガイ牟田
海外の人柱
[編集]- 中国
- 打生?
- ミャンマー
- 苗賽(မြို့စတေး。)
- 朝鮮半島
- ギリシャ
- アルタの橋
- 古代、ギリシャ、アンブラキアのアルタ (ギリシャ)で架橋工事が難航した際、工事指揮者の妻が自ら川に沈んで川の神の怒りを鎮め、工事が成功したとの伝説がある[156]。
転用
[編集]ネットスラング・パソコン用語としての人柱とは、リスクがあるにもかかわらず、最新の製品などを自ら進んで購入してテストする者あるいはさせられる者を指す。また、クロックアップなどの規格外の使い方を試すことも含まれる[157]。
技術革新のスピードが速い分野であるために製品サイクルも速く、年単位で見れば実に数多くの新製品が投入されている。それらには販売開始時点で高価なものや入手困難品も時に見られ、ハードウェア面で設計ミスが無くてもデバイスドライバの完成度の低さなどからトラブルを抱えている可能性もある。そのため、そういった製品を用いることや、製品の保証対象外となるような規格外の使い方をすることは、様々なリスク、とりわけ経済的リスクがつきまとう行為である。他人のために犠牲になるという点では本来の「人柱」と共通しているが、この意味では自ら進んで行う行為でもある点で異なる部分もある[157]。
また、ハードウェアに限らずソフトウェアにおいても人柱の表現は用いられる。新しいオペレーティングシステムがベンダーから提供された際に、いち早くこれを導入し、バグ・不具合などを報告するレビュワーも「人柱」の一種である。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
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関連資料
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関連項目
[編集]- 供物 - 生贄 - 人身御供
- 干からびた猫
- ミイラ化した猫はバステト神の化身として崇められた。また、ヨーロッパのいくつかの地域では、お守りとして家の構造に組み込む例があった。似たような物に、en:Horse skulls、靴、魔女の壺と呼ばれる住む人間の尿や毛髪を詰めた壺が家の構造に組み込まれた。
- Foundation deposit - 建築の際に儀式として埋められた物の総称。
- 大部強頸 ‐ 古事記の記述から。