成妙村
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なるたえむら 成妙村 | |
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廃止日 | 1954年10月10日 |
廃止理由 |
新設合併 成妙村・三間村・二名村 → 三間町 |
現在の自治体 | 宇和島市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 四国地方 |
都道府県 | 愛媛県 |
郡 | 北宇和郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
隣接自治体 | 宇和町・三間村・高光村・吉田町・立間村 |
成妙村役場 | |
所在地 | 愛媛県北宇和郡成妙村大字曽根 |
座標 | 北緯33度17分47秒 東経132度35分38秒 / 北緯33.29633度 東経132.59383度座標: 北緯33度17分47秒 東経132度35分38秒 / 北緯33.29633度 東経132.59383度 |
ウィキプロジェクト |
成妙村(なるたえむら)は、1954年(昭和29年)まで愛媛県北宇和郡にあった村であり、現在の宇和島市の北東部の農村である。昭和の合併で三間町、さらに平成の合併で宇和島市となり、現在に至っている。
地理
[編集]現在の宇和島市の北東部。三間盆地の西部に位置する。大字則(すなわち)に源流を発する三間川や、法華津山地の山々から流れ出る小河川が村内を南流している。北は法華津山地(歯長山系と呼ばれることもある)の山々が宇和町と隔て、歯長峠や板谷峠などの峠道がある。西は山々で立間村や吉田町と接する。
- 地名の由来
- 不詳。
歴史
[編集]中世
- 戦国時代には西園寺氏の支配下にあり、家臣の城砦が各地に築かれていた。
藩政期
- はじめ宇和島藩領。
- 吉田藩成立後、同藩に属し、幕末まで続いた。
- 1627年(寛永4年) - 黒井地村の庄屋の太宰遊淵が音頭を取り、中山池の築造始まる。7年の歳月を要し、完成したが、遊淵は人柱になったと伝えられ、池のほとりに墓がある。
明治期
- 1870年(明治3年) - 三間騒動勃発。幕末から明治の動乱期に宇和島藩・吉田藩領で多発した農民騒動の一つ。
- 1887年(明治20年) - 成妙尋常小学校開設。
成妙村成立後
- 1889年(明治22年) 12月15日 - 町村制・市制施行時に、曽根(そね)、能寿寺(のうじゅじ)、是房(これふさ)、成家(なるいえ)、大藤(おおふじ)、則(すなわち)、黒井地(くろいじ)、戸雁(とがり)の8箇村の合併により成妙村となる。
- 1948年(昭和23年) - 愛媛県立三間高等学校、戸雁に開校
- 1954年(昭和29年) 10月10日 - 成妙村・三間村・二名村3村の合併で三間町となり、自治体としての歴史を閉じた。
成妙村の系譜 (町村制実施以前の村) (明治期) (昭和の合併) (平成の合併) 町村制施行時 曽根 ━━━━┓ 能寿寺━━━━┫ 是房 ━━━━┫ 成家 ━━━━╋━━━成妙村━━━━━━━━━━━┓昭和29年10月10日 大藤 ━━━━┫ ┃合併 則 ━━━━┫ ┣━三間町━━┳━━━┓ 黒井地━━━━┫ ┃ ┃ ┃ 戸雁 ━━━━┛ ┃ ┃ ┃ 三間村━━━━━━━━━━━┫ ┃ ┃ 二名村━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┃平成17年8月1日 ┃ ┃合併(新設合併) ┃ ┣━宇和島市 あ┃ ┃ 境界変更 ┃ 広見町大字是延 ┃ ┃ 宇和島市━━━━━┫ 吉田町━━━━━━┫ 津島町━━━━━━┛ あ - 昭和33年8月1日広見町大字是延を三間町へ境界変更 (注記)三間村の成立以前の旧村、宇和島市等の平成の合併以前の系譜については、それぞれの市町村の記事を参照のこと。
地域
[編集]明治の合併前の村である8箇村がそのまま大字となり、三間町となってからも続いた。なお、昭和30年に大字能寿寺と大字是房とが合体し大字是能と改称。
行政
[編集]- 役場
- 大字曽根に置かれていた。
産業
[編集]- 農業
- 米、麦などを産する。米は三間米として知られる。
交通
[編集]当村には鉄道は通っていない。最寄り駅は務田駅。