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磐城平城

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磐城平城
福島県
磐城平城跡(丹後沢公園)
磐城平城跡(丹後沢公園)
別名 龍ヶ城
城郭構造 梯郭式平城
築城主 鳥居忠政
築城年 1615年元和元年)
主な城主 鳥居忠政
廃城年 1868年(明治元年)
遺構 石垣・土塁・水堀
指定文化財 塗師櫓石垣(いわき市指定史跡
位置 北緯37度03分34.1秒 東経140度53分26.7秒 / 北緯37.059472度 東経140.890750度 / 37.059472; 140.890750座標: 北緯37度03分34.1秒 東経140度53分26.7秒 / 北緯37.059472度 東経140.890750度 / 37.059472; 140.890750
地図
磐城平城の位置(福島県内)
磐城平城
磐城平城
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磐城平城(いわきたいらじょう)は、陸奥国磐前郡磐城平(福島県いわき市)にあった日本の城磐城平藩藩庁。別名龍ヶ城(りゅうがじょう)。遺構の一部(石垣)がいわき市指定史跡[1]

沿革

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1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの結果、それまで飯野平城を居城としていた岩城氏が追放され、1602年(慶長7年)に徳川幕府譜代鳥居忠政が飯野平に転入した。鳥居忠政は、都市名を戦国時代までの「飯野平」から、岩城の「いわ」の字を変更して「磐城平」に改めて磐城平藩を樹立し、飯野八幡宮を現在地である八幡小路に移設し、その飯野八幡宮の跡地に磐城平城の建設を命じた。城は1603年(慶長8年)に着工し、12年の歳月を費やして1615年(慶長20年/元和元年)に梯郭式平城を完成させた。

天守は造られず、本丸の三層櫓がその代わりとなった。その姿は、「磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ」と詠われた。また、水戸徳川頼房の本拠地にさせたのと同じく、磐城平を鳥居忠政の本拠地とさせた主な目的は、仙台を本拠地とする伊達政宗への牽制であった。

1868年(明治元年)の戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟に与した当時の磐城平藩家老上坂助太夫は、磐城平攻防戦明治政府軍に敗れ、自ら城を焼き払って逃走した。

地理

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城周辺

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城内には御三階櫓・隅図櫓・塗師櫓・八ッ棟櫓・追手門櫓・中門櫓・六間門櫓などがあった。また、茶室緑天庵も記録に残っている。

城下町・磐城平

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鳥居忠政が磐城平を本拠地とすると、城下町の形成は、城を中心に「階層別居住区を設けない」都市造りから、城を中心に武家町・町人町・寺町を分けて「階層別居住区を設ける」都市造りに変更された。「江戸」と「東京」が同地異質、「岐阜」と「加納」が同地異質であるのと同じく、「飯野平」と「磐城平」は同地異質で都市造りの性質が異なっている。

1604年(慶長9年)には基礎が完成し、町人たちに、防災のための手桶や梯子を用意することと、清掃の徹底・町木戸の使用を命じた。更に、十人組を作らせ、治安の責任の一端を持たせた。城下の人々の中で、特別な権利を持った商人の多くは、関ヶ原以前の岩城氏の家臣や、門閥商人出身者であった。

紺屋町は当初は現在の八幡小路にあり、磐城平城が建築される際に現在地に移された。八幡小路には、安藤氏が藩主となった時期には藩校・施政堂が立地した。

菩提院町は古くは禰宜町といわれたり、立町は御徒町といわれていた。磐城平城下5口(長橋口、久保町口、北目口、鎌田口、新川町口)を通る馬の数は、1口で760余りであった。また、磐城平城下には職人も多く、鍛冶町には、刀鍛冶の根本国虎や鈴木貞則などの名工がいた。

  • 武家町
    六間門・揚土・八幡小路・道匠小路・曲松・杉平・桜町・掻槌小路・田町・柳町・梅香町・四軒町・白銀町・番匠町・鷹匠町・仲間町など
  • 仲間・足軽町
    仲間町・風呂ノ沢・胡麻沢・新町・立町・久保町など
  • 町人町
    一町目・二町目・三町目・四町目・五町目・十五町目・久保町・紺屋町・研町・長橋町・材木町・菩提院町など

町人町は町奉行の管轄だったが、内藤氏統治下で作られた新川町・鎌田町・北目町は新しい町だったため、郡奉行の管轄となった。磐城平城下の玄関である長橋口・鎌田口・久保町口には、惣木戸が設けられた。現在では、長橋口が尼子橋北口(内郷御台境交差点)付近に、鎌田口が平大橋東口(鎌田交差点)付近に当たる。

遺構

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現在残っている遺構は、石垣・土塁・水堀であり、一部は丹後沢公園として残っており、この外には、岩城氏以来の歴史遺産を展示する龍ヶ城美術館が立地している。しかし、城跡の大半は、個人所有の住宅地として払い下げられており[2]、石碑の立つ城跡への立ち入りはできない(柵の外から眺めるのみ可能)。復元の話も何度かあったが、資金不足が原因でいずれも実現に至らなかった。1897年(明治30年)に常磐線を開通させる際には、水堀が一部埋め立てられた。塗師櫓石垣は、2001年(平成13年)4月27日にいわき市の史跡に指定されている[1]

建築物として、掻槌門が市内平藤間の民家に、長橋門が市内平新川町の民家に、どこの門か定かではないが城門が市内平沼ノ内賢沼寺に、それぞれ移築され現存する。尚、磐城平城跡の住所表記は、「いわき市平字旧城跡」となっている。廃城後に建てられたものでは旧仮藩庁が現存している。

2010年(平成22年)6月13日には、磐城平城跡の市民公園への移行を目指す「磐城平城史跡公園の会」が設立された[3][4]。又、2010年(平成22年)以後は、毎年9月に「龍ヶ城月見の宴」が開催されている[5]

2020年(令和2年)1月11日には、三層櫓の形をした高さ13メートルの看板が本丸跡地に建てられ、2月末までライトアップされた。

整備と復元

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民有地から市有地化(公有地化)を進め城跡の整備、櫓の復元を計画している[6][7]

観光

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アクセス

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脚注

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  1. ^ a b 「いわき市の文化財」いわき市公式HP
  2. ^ 『一夜城』出現...JRいわき駅北側 学生らが描いた看板 城下町再興の一歩へ
  3. ^ いわき情報堂 2010年6月17日 磐城平城本丸跡の整備を目指し発足
  4. ^ 日々の新聞 第153号 お城山の保存と活用
  5. ^ いわき市総合観光案内所 スタッフブログ 2010年9月27日
  6. ^ 「磐城平城跡地」憩いと安らぎの公園へ 3ゾーンに分け整備計画
  7. ^ いわき観光の本丸に 平城跡市有化へ 市長会見復興の象徴

関連項目

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外部リンク

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