コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

Wikipedia‐ノート:検証可能性/Archive12

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

スポーツ新聞は「信頼できる出典」となりうるのか

[編集]

表題の件について、井戸端にて議論を行いました。この項目に関連する話題でしたので、報告をしておきます。

また、可能であればWP:V#NRの部分で「この件については、井戸端での議論も参照してください」の形でリンクを作成しようと思うのですが、いかがでしょうか。--Nekopiano会話2018年3月17日 (土) 06:54 (UTC)

ラジオCDの検証可能性について

[編集]

私は最近、様々な記事の執筆をするに当たって検証可能性を確保するためにMP3データとして過去放送を収録したラジオCDを出典元としています。しかし、片っ端から削除されてしまいます。ラジオCDは信頼できる情報源として検証可能性を全く満たさないのでしょうか? ガメラじろう会話2018年4月13日 (金) 03:52 (UTC)

MP3データ、つまりご本人もしくはそれに近い方発言ということですので、それはメディア・専門家など第三者による言及ではなく一次資料ということになります。それがどのような内容かによるでしょう。つまりは検証可能性よりも特筆性、WP:IINFO(無差別な情報の収集)の方です。もし声優として重要な要素を占める内容であるとか、生い立ちに関係があるとかであるならともかく、単なるトリビア・エピソードであれば出典があってもそれだけでは掲載に値する内容ではないとみなされる可能性があります。--Aiwokusai会話2018年4月13日 (金) 04:17 (UTC)

わかりました ガメラじろう会話2018年4月13日 (金) 04:23 (UTC)

(追記)ガメラじろうさんの投稿履歴はそう多くはないということで調べさせていただきましたが、三澤紗千香における編集鷲崎健における編集は経歴を語る上で出典としては有効なものといえます(ただし、推薦入試合格であることが声優としてどのような意味をもつのか正直不明ですし、また、センター試験を病気で受けなかったことは重要性は低くトリビアの類として除去されても仕方ないかも)。しかし植田佳奈における編集はいつ除去されてもおかしくはない内容に見えます。ガメラじろうさんの編集は、全体的に百科事典として重要でないと判断される内容を加筆される傾向があると見られているのかもしれません(この場合、声優記事の全般傾向に関してはWP:SPEEDに当たり、また方針・ガイドラインが優先されるのでここでは論じません)。

確かにガメラじろうさんの初期の編集はいくつか除去されている事実があるようですが、見るといずれも典型的なWP:RADIOLISTEN編集のようです。ガメラじろうさんのおっしゃる「ラジオCDを出典とした記述が『片っ端から』削除されている」というの具体的にどの編集を指すのでしょうか?それが提示されないかぎり限り具体的な指摘を行うことができません。加えて、[1][2]の編集はWP:RADIOLISTENであり、現状では削除されていませんがその対象であるといえるでしょう。--Aiwokusai会話2018年4月13日 (金) 04:55 (UTC)

投稿ボタンにおける検証可能性の注意書きに関する議論のお知らせ

[編集]

Wikipedia:井戸端/subj/ウィキペディア日本語版の投稿ボタンは長すぎるにて、本ページに関連する投稿時の注意書きをボタンから消すべきかどうかの議論があります。--青子守歌会話/履歴 2020年2月15日 (土) 03:13 (UTC)

「独自研究は載せない」の情報源に関する記述を「検証可能性」でも説明してはどうか。

[編集]

私が提案するのは、独自研究は載せないの見出し番号3.1に記載されている記述も検証可能性で説明してはどうか、という事です。その文章の一部を引用します。「資料の信憑性を評価するには、幾つか自分に質問を投げかけてみるのが良いでしょう。それは公然と特定党派を支持しているか? 」続く…。この記述は検証可能性には書かれてません。信頼できる情報源とはなにかを説明するのであれば、この記述も検証可能性に書かれていてもよろしいのではないでしょうか。また、この記述が書かれている見出しの最初の一文には、詳しくは検証可能性へ、と書かれています。よって、この記述を検証可能性で詳しく説明されてもおかしくないと思います。以上の点から、私は検証可能性にもこの記述が説明されていてもよろしいのではないかと考えます。皆様の意見、お待ちしております。--3JX8PC17会話2020年9月30日 (水) 05:43 (UTC)

about themselves or their activities, = それらの情報源自身に関する記事

[編集]

果たしてactivitiesとは、情報源自身からどこまでの範囲(の記事)を指すのでしょうか。

英語版の方針文書の解釈については英語版のノートページで議論してください。--240D:1A:2C2:EA00:1525:AC06:1EBA:BDFE 2020年11月23日 (月) 18:12 (UTC)
利用者:240D:1A:2C2:EA00:1525:AC06:1EBA:BDFE会話 / 投稿記録さん、有難うございます。捨てアカウントではないですよね、これが初投稿のようですが。
お言葉を返すようで申し訳ありませんが、特別:差分/5381454 2006年4月19日 (水) 14:02における日本での翻訳の趣旨と解釈について(を含めて)、ここでお伺いしているわけでして…。--Kkhhkkhh会話2020年11月25日 (水) 02:35 (UTC)
(追記)これまで気付かずすみません。2006年の翻訳当時は
Self-published sources, and published sources of dubious reliability, may be used only as sources of information on themselves, and only in articles about them
現在は
Self-published and questionable sources may be used as sources of information about themselves, usually in articles about themselves or their activities
と変わっていたようです。themが曖昧なのでthemselves or their activitiesとなったのでしょうか。--Kkhhkkhh会話2020年11月25日 (水) 02:43 (UTC)
捨てアカウント?私はアカウントは持っていませんけど。翻訳当時と今は表記が変わっていようが、日本語版はそこに関係ないかと。そして英語版の文書が、意味が曖昧だから変わったのかどうか、は英語版で質問、議論してください。--240B:C010:420:CB82:CDAE:DFC1:5B18:809E 2020年11月27日 (金) 14:44 (UTC)

誤訳では

[編集]

「自主公表された情報源」の節、第1文、接続詞は or だから「した上で」を削除。最終文、will...have で未来完了、「他の誰かがそのうち執筆するでしょう」。--2400:4050:95C3:2B00:E819:14D8:5364:8750 2021年3月2日 (火) 02:03 (UTC)

  • コメント 2006年に方針文書として合意されたときからそのような記述になっている(特別:固定リンク/6220215)ので、一利用者の裁量で変更できる範囲を超えていると考えます。方針文書の改正の手続きに沿って修正提案・合意形成を行う必要があるように思います。なお、前者に関しては、翻訳元の版(en:Special:Permalink/48091597)、日本語版方針文書成立時の英語版の版(en:Special:Permalink/59003191)は、現在の英語版の内容と異なり、現在の版でorになっている箇所は2006年当時はandだったようです。これを考えると前者に関しては誤訳とはいえないようには思いました。--郊外生活会話2021年3月2日 (火) 04:29 (UTC)

  • × 却下 方針文章に限らず、ルールの類は一文変えるだけで意味や解釈が異なってくる場合もありますし、ノートで話し合いが必要だと思います(特にWikipedia:検証可能性は重要な方針なので)。Wikipedia日本語版は英語版の翻訳版ではないので、必ずしも翻訳が正確である必要もありません。2ヶ月間どなたも対処しておられないようですし、今回は見送りということにします。--Q8j会話2021年5月5日 (水) 12:58 (UTC)

オフライン出典

[編集]

オフラインのものである書籍を検証した結果出典とされているものが書かれていなかったり、そもそも書籍自体が存在しなかった場合どうすればいいのですか? Koyasanfish会話2021年10月15日 (金) 12:59 (UTC)

  • コメント 個人的には{{出典無効}}を貼り付けることが多いです(titleで出典に書かれていない、書籍が存在しないなどと記載する、ノートを使用することもある)。状況によっては即時除去することもあると思います。--郊外生活会話2021年10月15日 (金) 13:10 (UTC)

教えて下さり、ありがとうございます。 Koyasanfish会話2021年10月15日 (金) 13:16 (UTC)

追記

2つ目の質問なんですが、書籍自体の存在が疑わしかったり、どうやっても入手不可能な場合はどうしたらいいですか? Koyasanfish会話2021年10月17日 (日) 02:40 (UTC)

  • この場合のケースは、主筆者ではないためWikipedia:査読依頼、論争があるためWikipedia:修正依頼いずれにも該当しないでしょう。記載されているようにコメント依頼を出すのもありですが、紙の書籍は自身が閲覧できないのでうたがわしいという主張では少々説得力に欠けます。どうしてもこんなことは書かれていないし存在があやしく虚偽出典だという確信がもてない場合は、手を引かれるのもひとつの判断かもしれません。--Aiwokusai会話2021年10月17日 (日) 04:41 (UTC)

今回の場合、すべての本が収められているとされている国会図書館や大学図書館の蔵書検索を利用しても出てこず、蔵書していなかったのですが。また、出版社で出てこなかったです。それでいて誰でも検証可能と言えるでしょうか?私は言えないと思います。WP:Vにも「編集者が独自に検証できるからといって、それは(一般的な)検証可能性を満たしたことにはなりません。」とあります。 Koyasanfish会話2021年10月17日 (日) 04:53 (UTC)

「当該記事のノートで相談されるのがいいと思います。」そう致します。「央端社」の件も見させて頂きました。 Koyasanfish会話2021年10月17日 (日) 05:17 (UTC)

  • 「存在しない」かどうかはそう簡単に分からないこともあります。自分でオンライン検索(図書館ホームページのものを含む)をやってみて出て来ない場合、たまたま所蔵がない場合の他、仮名遣いや新字・旧字の差、単なる誤字・誤変換など色々な理由で見かけ上0件と表示されている場合があります。そういった場合、図書館のレファレンスコーナーで相談するとプロの助けを借りることができます。 --2001:240:242E:CB55:15A:A5AA:21F2:5A15 2021年10月30日 (土) 01:50 (UTC)

検証可能性が、事実と異なる結論を産む場合

[編集]

検証可能性において、例えば絶版した書物や高額過ぎる足り、希少な学術書であったりした場合、決して真実に到着できないばかり、絶版した図書を入手することが困難な場合もあり得る。 かつて、ウ ィ トゲ ンシュタイ ンと論理哲学論考いわゆる「論考」を入手しようとした際、当時としては、高額であり、希少であったので、どの書店も置いていなかったということを経験した、結局知り合いに頼み、その人がアルバイトしたことがある書店において、直接出版元から取り寄せて頂いた経験がある。他の書店では、すべて断られた。 また、戦前の朝日グラフやそれに似た写真雑誌に、南京大虐殺やチベット紛争に関して、本来の状況と異なる説明をつけた写真やあってはならないことを撮影した写真があり、それを、探したが発見に至らなった。 このように、検証可能性が、逆に真実と異なる結論を産むことがある。 ウィキペディアが信頼できないという声を多く聞くが、このようなことが一因であろうと思われる。 真実や事実を無視し、撤退すれば済むことであるが、それでは、益々ウィキペディアが不要なものになってしまう。 いつでも、だれでもが見て客観的に信頼できる記事を作成するために、検証可能性のみではなく、放送法第4条のように反対意見があることと、反対意見に対する至当な評価を助成する努力が必要である。 アメリカが合理的とは、限らない。 日本は、日本として、本源的な記事の作成に努力しなければ、やがては、信頼を失い、ウィキペディアに記載されたことと反対のことが真実であると思うようになる。 今の新聞記事や既存メディアがそうなりつつあり、アメリカでは、CNNなどの既存メディアやfacebookなどが信頼性を喪失し、誰も見ないようになりつつある。 ウィキペディアが真に信頼できる記事であると誰からも認められるための努力を続けなければならない。 そうでなけければ、単なる個人的な意見の集約の場となり、もう誰も見向きもしないであろう。--X-2-neider会話2021年10月30日 (土) 11:13 (UTC)

放送法第四条の「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」のことをおっしゃっているのだとすれば、それについてはウィキペディア内ではWikipedia:中立的な観点という方針が別途存在します。 --2001:240:241E:F9D0:5992:1548:38B8:919A 2021年11月1日 (月) 03:30 (UTC)

リンク切れのときは?

[編集]

出典のリンクがリンク切れしていることがあります。この時はどうすれば良いのですか。 Taira Sakurai会話2022年1月1日 (土) 05:18 (UTC)

コメント 一意見として。残されている出典リンクのURLや、その他に書き込まれている書誌情報を手掛かりにして、同ページの更新後のURLや、魚拓サイトからアーカイブが探し当てられれば、差し替えて対処する方法が良いのですが、探しても見つけられない場合は{{リンク切れ}}を追加して当面対処するという考え方もあります。出典となっているページが完全に消滅していることが確定しているとなれば、検証の再現は不可能であり、検証可能性が満たされない状態にあると言えますので、最終手段として当該出典を取り除くことになるのかなと思います。--小石川人晃会話2022年1月7日 (金) 11:45 (UTC)
コメント そういう場合に私がやっている手順ですが、一般的にもこんなものかと思います。
(A).まずは、書誌情報にあるページのタイトルやサイト主催者などの情報でネット検索してみます。大抵はURLやデータのIDがちょっと変っただけなので、この方法で結構元のページを発見できます。発見できたら、(1).それが元々の出典元と同じものであり、(2).かつ適切な出典元であることを確認します。具体的には以下の二つを確認します。
(1). 執筆者やタイトルやサイト主催者の情報が、出典元として書かれている書誌情報と一致すること。
(2). 発見したページの内容がたしかに出典元となりえるものであること。
最初から出典になりえないページ(そもそも出典元としての資格がない個人サイトだったり、記事で参照しているはずの内容が書かれていなかったり)である場合もあるし、最初は適切なページだったが、その後記述内容が変化して不適切になる場合もあるので、記事を発見してすぐにURLを書き直したりせず、(2).のような確認が必要です。元の出典と同じでかつ適切な出典元であることが確認できたら、改めて新しいURLに置き換えます。
(B).検索で見付からず、 元のページがなくなった、またはサイト自体が閉鎖されたと考えられる場合は、アーカイブサイトで元のURLを検索し、アーカイブが残っていれば、それを利用します。アーカイブが発見できたら、前述の場合と同じように、(1).(2).を確認した上で、アーカイブが適切な出典元であることの確認が取れたら、出典元のURLをアーカイブに置き換え、アーカイブであることの明記とアーカイブの日付けを記入します。
(C). アーカイブさえ見当らない場合は別の出典元を探すしかありません。出典が必要な記述部分のキーワードなどを使って、適切な出典元になりえるようなページを探してください。見付かればその書誌情報ごとそのページで置き換えます。あるいは手持ちの書籍などで適切な出典元になりえるようなものがあればそれに置き換えても構いません。このように完全に別の情報源と置き換えた場合は、元の出典元の情報は完全に除去してください。
(D).アーカイブがなく、適切な出典も見あらない場合は、元の出典元情報に{{リンク切れ}}や{{出典無効}}などのタグを貼付した上で、{{要出典範囲}}などを使って出典を求めてください。ひと月くらい待って出典が付かなければその記述は除去すべきでしょう。
--Loasa会話2022年1月7日 (金) 13:17 (UTC)

共産主義の定義に関わって

[編集]

共産主義の定義の中の「すべての人間の自由で全面的な成長・発達を目的とする思想、運動、社会体制」の文言のもとになっている文献は以下です。

マルクスの『共産党宣言』の中での、未来社会についての次の文言 「階級および階級対立をもつ古いブルジョア的社会の代わりに、各人の自由な発展が、万人の自由な発展の条件である結合社会が現われる」 および『資本論』のなかでも、未来社会について語るとき、「自由な人々の連合体」(第一部第一篇「第1章 商品」)、「各個人の完全で自由な発展を基本原理とする、より高度な社会形態」(第一部第七篇「第22章 剰余価値の資本への転化」)などの記述があり、これらをもとにした表記です。 240F:3C:6018:1:1089:A384:82B6:60B3 2022年1月7日 (金) 05:15 (UTC)

コメント このノートページは、Wikipedia日本語版の方針文書について議論する場です。個別記事の議論については、当該項目のノートページ(ノート:共産主義)のほうでお願いします。ご注意ください。--小石川人晃会話2022年1月7日 (金) 11:24 (UTC)

「自主公表された情報源:公式サイト」の文章の一部修正の提案

[編集]

自主公表された情報源:公式サイトについて、現在以下のような記述があります。

例えばウィキペディアに、ある政治団体の記事があったとします。この記事について、その政治団体が開設しているウェブサイトは、その情報が重要であり、過度に自己を美化するものでなく、また第三者によって公表された信頼できる情報源が存在する場合はその情報と矛盾していない限り、ウィキペディアのその政治団体についての記事において、その政治団体自身に関する情報源として使用できます。 — 2021年9月26日 (日) 08:08の版より

この文の主部は「その政治団体が開設しているウェブサイト」で、述部は「(その政治団体自身に関する情報源として)使用できます」ですが、あまりに修飾が多く文意を捉えにくくなっていると感じます。この部分について、以下の修正を提案します。

例えばウィキペディアに、とある政治団体を主題とした記事があったとします。この記事において、その政治団体が開設しているウェブサイトは情報源として使用することができます。ただし、これは一次資料をどう扱うべきかを良く理解して、その情報が記事を執筆するために重要であると十分に判断できる場合に限定されるべきです。過度に自己を美化するものではないことはもちろん、もし第三者によって公表された信頼できる情報源があればその情報と矛盾していないかを良く確認してください。 — 修正案1

意味的には大きな変更はないと考えます。大きな変更点として、WP:PSTSへのリンクを加えていますがこれはリンク先と自主公表された情報源:公式サイトに強い関連があり、リンク先を参照することで理解が深まると考えたためです。以上が私の提案です。ご意見いただけれだと思います。--しんぎんぐきゃっと会話2022年2月1日 (火) 14:47 (UTC)

報告 修正案を反映しました。--しんぎんぐきゃっと会話2022年3月13日 (日) 10:21 (UTC)

編集者がウェブページとそのウェブアーカイブを比較した結果は、読者に検証可能か?

[編集]

ノート:交響曲第1番 (佐村河内守)での議論中に、あるウェブページAとそのウェブアーカイブBについて単に参照するだけでなく、AとBを比較して分かることも検証可能性を満たす旨の意見が出ました。いわく「比較は人間精神の自然な反応であり、検証可能性から排除されていないと考えるのが妥当」ということです。以上について、現在のWikipedia:検証可能性という方針に反するかどうかご意見願います。--2019jul07会話2022年4月5日 (火) 10:16 (UTC)

コメント 話が抽象化され過ぎてしまっているので私からも説明させて頂きます。あるウェブページの過去の版に掲載されていた指揮者のコメントが現在のウェブページには掲載されていないので、ウェブページAと、コメントが掲載されているウェブアーカイブBの両者を出典として示した上で「文章は削除されている」と書くのは検証可能性を満たすと私は考えますが、2019jul07さんは検証可能性を満たさない、と主張しています。--Gruppetto会話2022年4月5日 (火) 14:55 (UTC)

  • 検証可能性というよりはWP:SYNの話でしょうか? --Kto2038会話2022年4月5日 (火) 11:31 (UTC)
  • コメント 私は「情報の合成」に該当すると考えます。AとBの両者を出典として示したところで、AとBの内容をウィキペディアの投稿者が比較し「文章は削除されている」と書くのであれば、解釈を加えたことになると考えます。「文章は削除されている」を記載するならその比較を直接行った信頼できる情報源を示すことが必要だと思いますし、そうすれば情報の合成には当たらないと考えます。逆に、そのような情報源がなく、AとBを比較して記載するような方法をとったところで、その内容の重要性(WP:IINFOに合致しないこと)を主張できないと思います。ウィキペディア的に本当に重要なことであれば、直接的な比較を行った信頼できる第三者言及があって然るべきだと思います。--郊外生活会話2022年4月5日 (火) 16:32 (UTC)
  • 同じような問題について、以前にノート:吉野敬介で過去の著書と後年の著書の比較の記述について議論になったことがありますね。ただ、ウェブアーカイブは、その時点でのそのページの内容が本当に正しく保存されているのかどうか保証できませんし、極端に言えば一度ページをデタラメな内容に書き換えてそれをアーカイブに保存するといったことも可能なわけで、過去の記述に関する保証が書籍や新聞に比べると弱いのではないかと思います。書籍の比較内容を記述することは許容されても、ウェブアーカイブとの比較内容を記述することは許容すべきではないかもしれません。なお「人間精神の自然な反応だから検証可能性から排除されていない」というのはさすがに無茶な主張というものです。例として「何かを実際に見てその見たままの内容を書く」のも「人間精神の自然な反応」と思いますが、検証可能性の上では許容されていませんので。--Muyo会話2022年4月6日 (水) 02:09 (UTC)
WP:SYN(情報の合成)について。件の議論中に出た意見は、ページAとアーカイブBを編集者が比較した結果は検証可能つまり発表済みの情報に当たるというものです。WP:SYN(情報の合成)はそれに解釈を加えることを禁じるものであり、発表済みの情報とは何かを定めるものではありません。今一度、検証可能かどうかという点についてご意見願います。--2019jul07会話2022年4月6日 (水) 08:03 (UTC)

ご意見ありがとうございました。ウェブページとそのウェブアーカイブを比較した結果は検証可能なものではないとWikipedia:検証可能性で定めることを 提案 します。--2019jul07会話2022年5月13日 (金) 04:03 (UTC)

 追記 具体案を以下に示します。現在、

分かり易く言えば、検証可能性とは信頼できる情報源(例えば、査読制度のある雑誌や新聞)からすでに公開されている情報だけをウィキペディアに記載することで、読者にも検証可能にするということです。編集者が独自に検証できるからといって、それは(一般的な)検証可能性を満たしたことにはなりません。

となっている部分を、

分かり易く言えば、検証可能性とは信頼できる情報源(例えば、査読制度のある雑誌や新聞)からすでに公開されている情報だけをウィキペディアに記載することで、読者にも検証可能にするということです。編集者が独自に検証できるからといって、それは(一般的な)検証可能性を満たしたことにはなりません。例えば、ウェブサイトとそのウェブアーカイブの内容を独自に比較した結果をウィキペディアに載せてはいけません。

とします。--2019jul07会話2022年5月25日 (水) 04:41 (UTC)

提案無効 二点、問題があります。まず一点目ですが、そもそもの方針の解釈が明らかに間違っています。「編集者が独自に検証できる」ということの例は、「あなたは、ある著名な物理学者の「X理論」についてウィキペディアの記事を書いているとします。X理論は査読審査を経て学術誌に掲載されており、したがってウィキペディアの記事として適しています。ところが、執筆中にあなたがその学者に連絡をとったところ「実を言うと、今ではX理論は完全に誤りだと考えています。」と言われてしまいます。あなたが原著者本人からこれを聴いたとしても、彼がそう言ったという事実をウィキペディアに書いてはいけません。 」で端的に示されている通りです。つまり、ウェブサイトとそのウェブアーカイブの内容を比較してその差異に言及することは、「編集者が独自に検証できる」範疇には全く当てはまりません。同様の手段で「誰でも検証できる」からです。その差異(比較した結果)の重要性の評価および編集者の解釈を挟むことの問題については郊外生活さんも指摘されている通りですが、いずれにしろ検証可能性の範疇からは外れます。この点はノート:交響曲第1番 (佐村河内守)での議論においても、既に紅い目の女の子さんから「そこは認めなければ話が進まない」という旨の指摘がなされています。そして二点目の問題ですが、前述の通り論ずるべきは「情報の合成」ないし「情報の重要性」についてであるということで各編集者の見解は概ね一致を見ており、2019jul07さんただひとりが「検証可能性」についての議論に拘泥されているのが現状です。これは先行するノート:交響曲第1番 (佐村河内守)での議論のみならず、同じ趣旨で行われているノート:にじさんじにおける議論でも同様の傾向が認められ、そのために議論をこじれさせてしまっています。斯様な状況でこうした提案をされるというのは、率直に言って横車を押すに等しい振る舞いであると評すほかありません。--どろりあん会話2022年5月27日 (金) 07:45 (UTC)
一点目。ウェブサイトとそのウェブアーカイブの差異が「誰でも検証できる」という事実はありません。Wikipedia:検証可能性が定める「検証できる」内容とは、信頼できる情報源が公表・出版している内容のことであり、編集者が比較した結果はそれに当たりません。二点目。ウェブサイトとそのウェブアーカイブの内容の差異が「誰でも検証できる」のであれば、WP:SYNには当たりません。であれば、WP:SYNが論ずるべきであることはないはずです。ノート:交響曲第1番_(佐村河内守)#出典不明の記述についてで論じているのがWikipedia:検証可能性についてであることは、このノートで私とGruppettoさんが述べた通り共通の見解です。 提案 は5月13日にしたもので、5月25日に行った編集以降のノート:にじさんじ#チェ・アラ氏の扱いでの私の発言は無関係です。--2019jul07会話2022年5月27日 (金) 10:11 (UTC)
一点目については先の議論同様に水掛け論の様相を呈しているため、これ以上のやりとりは不毛でしょう。二点目については一点目とも関連しますが、「差異が存在するという事実」と、「その差異をどう解釈するか」はそれぞれ別の議論である、というのがその要諦です。今一度議論の流れをご確認ください。なお議論の時系列については当方の事実誤認でした。申し訳ありません。お詫び申し上げるとともに、当該部を訂正させていただきます。--どろりあん会話2022年5月27日 (金) 10:41 (UTC)
どろりあん さん 水掛け論になっているので「定めることを 提案 」しました。また、WP:SYNではなく検証可能性について議論をする理由は4月6日 (水) 08:03に述べましたのでご確認ください。--2019jul07会話2022年9月10日 (土) 14:01 (UTC)
反対 提案のように1つ1つの事例に対して指示を増やし続けることが良い方向だとは思わないので提案自体には賛成できません。
それはそれとして、最初の質問である「ウェブページとそのウェブアーカイブを比較した結果が検証可能かどうか?」についての回答は「その議論と結論に意味はない」と言えます。というのも、検証可能であろうとなかろうと、その結果に関してウィキペディアで意味のある記述とすることはほとんど不可能だからです。事例のように(具体的な議論や文面は見ずにあくまで一例として一般論として取り上げますが)、「ウェブページから、とある記述が削除された」という事実がありそれが仮に検証可能だと結論付けたとしても、その記述を単独で使うことは極めて困難でしょう。そのような結果を用いる時、実用上は、その比較結果Xの前に、何か前段の記述Yがあった上で、XはYに対する証拠やYの主張する観点の推進のために用いる以外に、使い道はありえないのではないですか?例示の「記述が削除された」を使えば、例えば、「A社の製品Bの効用について疑問の声が上がった(○×新聞)。A社は製品Bの公式サイトから効用についての記述を削除した(現在とウェブアーカイブとの比較結果)」と書いた場合、前文がYで後文がXになるわけですが、これはあたかもA社が製品Bの効用がないことについて公式に認めて撤回したように読めます。しかし、これはまさにWP:SYNの言う「特定の観点(A社が公式に効用がないことを認めた)を推進するような、発表済みの情報の合成(両記述間の繋がりが不明であるのに並べることで1つの事象のように扱った)」に該当しますよね。一方、もしそのような前段記述Yがない場合、「比較した結果」はあくまで「結果」だけですから、物事を「説明」する百科事典の記述にはならず、ただの事実データベース・まとめサイトにしかならないので、ウィキペディアにはふさわしくない記述でしょう。やはり何かしらの意味や考察Yがないと、その事実Xが単独でとても重要でそれだけで何か意味が成立するような極めて特殊な状況でもない限り、「ウェブページとそのウェブアーカイブを比較した結果」を使えるところはないと思いますが・・・、それで使うと先に書いた通りWP:SYNになります。という意味では「使って良い」と例示することにもまた反対で、何も明記せず、可・不可は事例毎によって議論し見極める(超特殊な事例でないかを確認する)しかないと思います。--青子守歌会話/履歴 2022年9月10日 (土) 14:54 (UTC)
10日 (土) 14:54のコメントを読む限り、ウィキペディアで扱うためには「検証可能である」と「特殊事例である」の両方の条件が必要だということになるので、「検証可能かどうか?」の結論に意味がないとは考えません。しかし、個別の事例について追加し続けることが不適だということには同意するため、 提案 の内容を「ウェブページとそのウェブアーカイブを独自に比較した結果が検証可能なものではないことは、現在のWikipedia:検証可能性で既に定められていると追認する」ということに変更します。--2019jul07会話2022年9月11日 (日) 06:32 (UTC)
大前提を書いておくと、ウィキペディアで扱うためにに必要なのは、検証可能性と特殊事例であるという議論以外に、独自研究でないことや中立的な観点であること、そして百科事典の説明として間違っていないことなども必要不可欠です。つまり、「検証可能であるかどうか」を単独で考えても「ウィキペディアに載せてよいか」の結論は出ません。特に、検証可能性は独自研究と密接に関連しており、「検証可能ではないなら、独自研究である」がほぼすべての場合において成立します。「独自研究を排するために検証可能でなければならない」と言い換えても良いでしょう。ゆえに、今回の「ウェブページとそのウェブアーカイブを比較した結果」のように、まともな百科事典の記述(単なる無差別な事実の列挙ではなく記事としてふさわしい説明)にするためには独自研究するしかない(WP:SYNにひっかかる)ような記述は、「検証可能であるか」以前に、そもそも独自研究である時点でウィキペディアに記載できません。私たちウィキペディアンは、決して多くない私たちの資源(時間や労力)を、百科事典としてのウィキペディアの発展に集中させるべきで、「検証可能である/ない」が決定されたところそもそもウィキペディアの記述として使えないような、ウィキペディアの発展に寄与しない議論や方針整備をすべきではありません。--青子守歌会話/履歴 2022年9月11日 (日) 09:29 (UTC)
ノート:交響曲第1番 (佐村河内守)での議論に還元できなければ意味がないので、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかの保証を得るために、「ウェブサイトとそのウェブアーカイブの内容を独自に比較した結果」がウィキペディアにふさわしい内容かどうかの議論をWikipedia‐ノート:ウィキペディアは何ではないかで告知か話題追加することを 提案 します。--2019jul07会話2022年9月11日 (日) 10:48 (UTC)
2019jul07さん、「ウェブサイトとそのウェブアーカイブの内容を独自に比較した結果」について検証可能性に追加する必要はないと思慮します。上で複数の方が情報の合成と判断されています。方針で相互に補完しあっているので現状でも「ウェブサイトとそのウェブアーカイブの内容を独自に比較した結果」は記載することはできないはずですよね?記事に対しての影響が変わらないのであれば蛇足ではないでしょうか?逆に、仮にですが何らかの方針転換で情報の合成に変更する必要が出た場合に検証可能性に対しても議論する必要が出てしまい、手間が増えてしまいます。ノート:交響曲第1番 (佐村河内守)も三大方針検証可能性ではなく独自研究は載せないで足りる話しのはずです。--ぷにを会話2022年9月12日 (月) 00:44 (UTC)
繰り返しになりますが、ノート:交響曲第1番 (佐村河内守)では「ウェブサイトとそのウェブアーカイブの内容を独自に比較した結果」は「検証可能性から排除されていない」という意見が出ています。この意見と、Wikipedia:独自研究は載せないにより記載できないという意見は両立しません。よって、本件が独自研究に当たると考える者が記載に反対すると同様に、独自研究に当たらないと考える者は除去に反対するため、結局のところWikipedia:独自研究は載せないを示すことは有効ではありません。--2019jul07会話2022年9月12日 (月) 09:14 (UTC)
『ウェブサイトとそのウェブアーカイブの内容を独自に比較した結果」は「検証可能性から排除されていない」という意見が出ています。この意見と、Wikipedia:独自研究は載せないにより記載できないという意見は両立しません。』この部分について私の理解が足りないのか申し訳ありませんが分かりません。三大方針はそれぞれ補完しあうものですから、検証可能性中立的な観点を満たしたとしても独自研究は載せないに該当すれば記載するべきものではないはずですよね?この節の上でもWP:SYNだと判断する方が複数いたはずです。独自研究に当たらないと考える方により丁寧に説明し納得いただくか同様の問題が続く場合に独自研究は載せないで提案するのならまだ分かるのですが、検証可能性に記載する内容ではないと考えています。そもそもWP:SYNでは「AでありBである、ゆえにCである」という三段論法は信頼できる情報源で発表されている場合にのみ掲載できることになっています。「ウェブサイトには記載があるウェブアーカイブには記載がない、ゆえに記載は削除されている」はまさに典型例ではないでしょうか?--ぷにを会話2022年9月13日 (火) 00:58 (UTC)
私は本件を「Wikipedia:検証可能性を満たしたとしてもWikipedia:独自研究は載せないを満たさない」という事例だと考えていません。書くかどうか議論されているのは「ウェブサイトには記載があるウェブアーカイブには記載がない、ゆえに記載は削除されている」ではなく、「記載は削除されている」だけです。WP:SYNはそのような記述を「また」で接続することを制限していません。--2019jul07会話2022年9月13日 (火) 01:56 (UTC)
「記載は削除されている」とするには前提として記載されていた事実がなければいけません。ウェブサイトだけ見ても元々載っていなかったのか、ページ改訂で載らなくなったのか(削除とは若干違う)、削除されたのかは分かりません。ウェブアーカイブと比較検証したからこそ言えることではないでしょうか。ゆえに書かれていなくても「ウェブサイトには記載があるウェブアーカイブには記載がない」から「記載は削除されている」であると考えます。そして仮に『「記載は削除されている」だけです。WP:SYNはそのような記述を「また」で接続することを制限していません。』であれば、やはり手を付けるのはWP:SYNであって検証可能性ではないように思います。--ぷにを会話2022年9月13日 (火) 03:02 (UTC)
本ノートでの 提案 取り下げて、Wikipedia:独自研究は載せないについて検討することにします。皆さんありがとうございました。--2019jul07会話2022年9月13日 (火) 03:19 (UTC)
報告 Wikipedia‐ノート:独自研究は載せない#編集者がウェブページとそのウェブアーカイブを比較したとき、その結果は独自研究か?で検討を始めました。--2019jul07会話2022年9月13日 (火) 05:10 (UTC)
よくわかりました。--153.190.129.1 2023年1月3日 (火) 07:24 (UTC)
--153.190.129.1 2023年1月3日 (火) 07:25 (UTC)

先に書いた文章がどこに表記したか分からなくなったので、新たに書きます。議論下さい。

[編集]

 親鸞が信じたアミダ仏とは、法蔵菩薩(アミダ仏の修行時代の名前)の時に『仏説無量寿経』(『大経』)に、「人生は苦なり」とすべての人が苦しみ悩んでいる姿を観察して、この人たちすべてを自分と同じアミダ仏となって、同じ幸せと喜びを味わって戴きたいと願われました。

 その願いが48願となり、第18番目の願いを「本願」と呼ばれました。「十方の衆生が心から信じ、我国に生まれたいと願って念仏を称えたが、もし極楽浄土に生まれなかったら、私はアミダ仏の命を捨てます。」と誓われます。

 その救いの方法は「なむ(も)あみだぶつ」と聞こえる声を出して念仏することです。アミダ仏は自分がアミダ仏になるに必要な全ての善根功徳を、名前に備わるようにと願って修行を積まれたのです。その名前を称えると、聞こえた人にアミダ仏になるに必要な、功徳が届けられ他力による「利他行」を実行したことになります。大乗仏教では利他行をすれば、必ず「苦しみの根源の無明が破られ、一切の志願が満たされる」と教えます。 

 その本願を信じて念仏を称えたら、信心が「即」に浄土に往生し、即にアミダ仏同等の「大信心」となります。そして、わが身に還ってきて、アミダ仏同等の利他行を実行しなさいと勅命されます。このブッダの心となった深信を、「横超の信心」と呼ばれました。この「横超」で一宗開闢の必須条件の「教相判釈」を建て、全仏教中最も早く最も易くブッダとなる、優れた教えだと論証されました。ここが親鸞孤高の教えです。

 ところで利他行を実行させようという勅命を、「わが身」は「嫌だ」と抵抗し反逆します。その時に、初めて自然に「私は悪人でございました」と信心が気付くのです。これ以前の罪悪感は偽物です。なぜなら、煩悩を持った凡夫が「私は悪人です」とは決して気付くことはできなく、「私が善人です」としか考えないのです。だから、親鸞の罪悪感は釈尊の悟りに当たる、「証」から生まれた深信の自覚なのです。「大信心」者は「如來にひとし」と、『華厳経』で解かれたと親鸞は論証されます。

 さて、「わが身」の煩悩が、信心が如来となった真実信心の「如実修行相応」(アミダ仏同等の実働)の邪魔をしても、真実信心を「日光」に譬えわが身の煩悩を「雲霧」に譬え、「下に闇なきがごとし」と説かれます。必ず利他行は貧窮者のために、僅かでも尽くす教えなのです。もし、全く尽くさないなら「信不具足」と一刀両断となる教えだったのです。--いりいよしき会話2023年1月18日 (水) 09:17 (UTC)

返信 (利用者:いりいよしきさん宛) ここはWikipedia:検証可能性に係わる議論の場です(先に書いた文章は、もしかしてノート:親鸞でしょうか)。ウィキペディアは演説台、広告宣伝の手段ではありませんもご覧ください。ご納得のほどお願いします。第三者の皆様へ、暫く経ちましたらば、このコメント含めて節ごと削除でよいです。--小石川人晃会話2023年1月18日 (水) 11:18 (UTC)

本文または要旨に現状の英語版の説明を加えられませんか。

[編集]

本文か要旨に現状の英語版の趣旨を加てほしいと思うのですがいかがでしょうか。--121.115.128.139 2023年4月6日 (木) 06:55 (UTC)

この「検証可能性」のページは、元は英語版の翻訳から始まっていると思います。
ところが現状は、最近の英語版とは内容がかけ離れており、いわゆるガラパゴス状態だと思うのです。
日本語版の説明は、「出典のない記述は一切書いてならない」とも読めるもので、これはもちろん実態とかけ離れているし、おそらくWikiやWikipediaそのもののコンセプトとも相反すると思います。
この矛盾は英語版では解消されています。
---
思うに、日本語版の元になった2006年4月頃の英語版の状態は、その過渡期で特殊な状態だったのではないでしょうか。
元々日本語版を独自進化させるという志向でもないと思います。
今の英語版に寄せる努力をすべきかと。
---
現状の日本語版の説明があると、自主的取り締まり活動をしたがる編集者に対して反論しづらくて困るのです。
英語版の趣旨だけでもどこかに入れるか、あるいは「英語版の方針も参照せよ」といった一文を入れられないでしょうか。--121.115.128.139 2023年4月6日 (木) 07:11 (UTC)
今の英語版の序文にはこうあります。
All material in Wikipedia mainspace, including everything in articles, lists, and captions, must be verifiable. All quotations, and any material whose verifiability has been challenged or is likely to be challenged, must include an inline citation to a reliable source that directly supports[b] the material. Any material that needs an inline citation but does not have one may be removed. Please immediately remove contentious material about living people that is unsourced or poorly sourced.
これはわたしの読み違いでなければ
・あらゆる記述は検証可能でなければならない。
・"検証可能性について疑義が呈された記述”には、出典が示されるべき
・"検証可能性について疑義が呈された”上でなおかつ出典なしのままの記述は(それを理由に)削除されうる
・存命人物にかかる議論を招く記述は即取り除くべし
こんな趣旨と思います。これは日本語版Wikipediaの編集の実態とも合致すると思います。--121.115.128.139 2023年4月6日 (木) 07:46 (UTC)
英語版と日本語版での記述の差はWP:多言語プロジェクトとしてのウィキペディア#プロジェクト間の協調・分業体制に『プロジェクトの方針やルールは、中立的な観点の方針などごく一部を除いて、各言語版の自治を通じて形成されています。(引用ここまで)』と記載されており、各言語間で差が出ることは問題ないかと思います。また、英語版の序文ですが、2行目は「検証可能性に疑義が呈されたまたはその可能性のある記述には出典が必要」3行目は「出典が必要なのに付けられていない物は削除される可能性がある」(共に大意)と読めました。なので英語版でも出典のない記述を見た編集者が「この内容本当に正しい?出典がないけど?」と感じた記述に対して「出典が必要なのに付いていない記述だから」として削除することは起きるのではないですかね?--ぷにを会話2023年4月18日 (火) 06:34 (UTC)
議論へのご参加ありがとうございます。(反応が遅れてすみません。)
>各言語間で差が出ることは問題ない
ごもっともです。私も単に同じにしなければならないとは思いません。しかし「合意が形成されているか」という点では問題があると思います。
日本語版の策定当時、方針を輸入することには合意があったと考えられますが、当時の英語版をその後永続的に保持するのか、英語版が変わったらそれに追従させるかという点は十分議論されていない可能性があります。当時の日本語版利用者に、日本語版は英語版とは独立に管理するという認識があったかもわかりません。したがって、現状の日本語版の方針は根拠となる合意形成が根本的に欠けているとみなされてもおかしくないと思います。
--
>英語版の序文ですが
端的に違いを挙げますと、英語版では削除がしたかったらまず「要出典」をつけよ(あるいはそれに準じた議論を始めよ)ということが日本語版より明確です。それだけでも、即リバートする編集者に対しての防衛は容易になるでしょう。
--
さらに検証可能性の定義が、英語版では「出典が見つかりうること」といった趣旨になっています。探せば当然みつかるものは付けなくてよいとか、出典を探してつけるのは記述を書いた本人でなくてよいということが、日本語版より明確になっています。--121.115.128.139 2023年4月20日 (木) 05:02 (UTC)
追従も保持も特に明言されているわけではありませんが、上で挙げさせていただいたWP:多言語プロジェクトとしてのウィキペディア#プロジェクト間の協調・分業体制にあるように既に他言語版という別プロジェクトですよね。長らくの間改訂もされながら自治されてきているのでそれまでの多くの参加者は差が出ている状態を問題ないと判断してきたのではないでしょうか。それがないから納得できないというのであれば正しく提案し、議論されていることを周知し、合意を得られれば変更できるかもしれません。英語版の序文以外もざっと目を通しました。「要出典を付けよ」というより「要出典を付けることも検討してください」くらいですかね?日本語版でも似たようなことは書かれています。「探せば見つかるものは付けなくてよい」はどこにありましたかね?何度か読み返してみたのですが見つけられていません。Wikipediaの方針と食い違う内容にも聞こえるのであれ?と思っています。出典を探して自分でつけることをお勧めしている点は確かにありましたが、逆に英語版には「出典を示す責任は掲載を希望する側に」という内容がありません。別々のプロジェクトで運用してきた中で出てきた差ですが、これは言うならば英語版よりも正しくあるために厳しくなっている点ででしょう。私としてはここで方針についての微改訂を頑張るより記載したい内容について出典を用意してから記載することに注力する方が得られる物が大きいのではないかなと思います。--ぷにを会話2023年4月20日 (木) 06:55 (UTC)
ご意見拝見しますた。
--
>長らくの間改訂もされながら自治されてきているのでそれまでの多くの参加者は差が出ている状態を問題ないと判断してきた。
これは同意しかねます。私は日本語版方針の出処や英語版の方針を確認しようとは長らく思いつきませんでした。そしてやっとコメントしていただいた貴方も英語版との差をご存じなかったようです。日本語版の編集者の多くは「英語版と違っても問題ない」としているのではなく「英語版と大きな違いはない」と考えているものと思います。そして、そういう編集者が大多数ということであれば、日本語版の方針ガイドラインが合意形成に基づいたものでないと見做されうることとなるかと思います。
--
私が先に書いた「探せば当然みつかるものは付けなくてよいということが日本語版より明確」
については該当部分を後で抜き出すつもりです。(私が読み違えていた可能性もありますが)
「出典を示す責任は掲載を希望する側に」に相当する記述は英語版の方針ガイドラインのどこかにはあった気がします。
見つかったら示します。
--
>別々のプロジェクトで運用してきた中で出てきた差
この点ですけども、当方の考えでは日本語版はルールのメンテナンスに手が回っていないために大筋が輸入(翻訳)当時の状態で放置されているだけだと思うのです。無論それは運用してきた中で出てきた英語版との差です。そして日本語版のほうがむしろ日本語版の実態と合致しないというかふさわしくないと感じるわけです。
--
仰る通り、当方の提案は微改定ですから、頑張る必要はないはずです。そのための議論よりもはるかに大きな規模の(不毛な)議論を微改定によって無くせると思います。それを後まわしにして目先の編集成果を追うべきでないと思うわけです。
--
また、「出典を用意してから記載することに注力する方がよい」というご意見ですが、これは、これからWikipediaに参加しようとしている方や参加したばかりの新規編集者を蔑ろにしかねない考え方だと思います。わたしの読み違いでなければWikipediaは「ルールを知らないひとであっても編集に加わってよい」というスタンスのはずです。--121.115.128.139 2023年4月20日 (木) 12:27 (UTC)
「出典を示す責任は掲載を希望する側に」に相当する記述ですが
英語版en:Wikipedia:Verifiability#Responsibility for providing citations
太字のところ
The burden to demonstrate verifiability lies with the editor who adds or restores material,
が対応するかと思います。--121.115.128.139 2023年4月21日 (金) 02:58 (UTC)

--121.115.128.139 2023年4月20日 (木) 12:30 (UTC)

「大筋が輸入(翻訳)当時の状態で放置されているだけだと思うのです。(引用ここまで。)」についてですが、検証可能性だけで言ってもノートでの議論が過去ログに残っています。なので放置されているというのは違うでしょう。英語版について参照している方も過去ログの中ではいるので私たちが触れなかった・考えなかったとはいえ気付く人はいますし、そもそも分業のため必ず参照しないといけないわけでもないはずです。今回の問題はいわばトレードオフの関係です。記述をしやすくするほどに方針である検証可能性を無視しますし、検証可能性を強く求めるほどに記述するハードルが上がります。なのでここを微改訂しても不毛な議論の毛色は変われど量はそれほど変わらないのではないですかね?「新規編集者を蔑ろにしかねない考え方(引用ここまで。)」についてはWikipediaは新規の方を排除しませんが、方針・ルールは存在します。これはWikipediaに参加するためには必要不可欠です。なので新規編集者の問題の記述に関してはWP:BITEWP:AGFのようなガイドラインに合わせた対応をすればよく、検証可能性を横に置いてまで許容するべきことでもないかと思います。私のイメージですが将棋を始めたばかりの人が二歩をしたら二歩は駄目だよとルールを教えるべきで二歩を許してそのまま続行するべきではないといえば伝わるでしょうか。--ぷにを会話2023年4月21日 (金) 01:42 (UTC)
まず、貴方の最後の例え話について、
Wikipedia方針を将棋の二歩に例えることは全く不適切でミスリードを誘うものです。
二歩のように単純明快に禁止されているものはWikipedia方針にはほとんど無いはずです。ルールでの禁止はせずコミュニティの合意を最大限尊重するといった趣旨のはずです。--121.115.128.139 2023年4月21日 (金) 02:55 (UTC)
ですが二歩のような禁止事項だと思い込む人が多数いる。
その内には即リバートのような極端な行動をとって、引っ込みがつかなくなる。
そういう人は検証可能性の記事しか読んでいないのかもしれませんね。--121.115.128.139 2023年4月21日 (金) 03:09 (UTC)
二歩が例えとして悪かったなら申し訳なかったのですが、「記述するには出典を付ける必要があるし、それがないと消されるかもしれないんだ。」と新規参加者に教えるのが正しく「新規参加者の記述だから出典がなくても残してあげよう」は間違いですし、出典を探してあげるのは善意であり義務付けるものではないでしょう。英語版との差異が問題ないことは既に説明しましたし、過去ログを参照すればメンテナンスされてこなかった訳でもないことが分かります。英語版から翻訳され、より良くしようと議論されてきた結果の今を改訂したいのであれば以前お伝えした通り、提案し、周知し、合意するしかないのではないでしょうか。--ぷにを会話2023年4月21日 (金) 04:34 (UTC)
私の見解は以下のようなところです。
新規参加者かどうかは関係なく、
・出典がなくとも記述してよい
・出典があってもなくても除去されうる
・出典がないという理由のみで消されるものではない
・出典の有無と出典の要不要は別問題
・出典必要の記述には要出典のタグをつける。
・要出典タグは出典提示を特に記述者本人に求める趣旨ではない
・出典が必要だと感じた人がそれをつけるのは推奨されている。これは記述者本人に限ったことではない。
--
日本語版の五本柱や検証可能性のページだけを見て「出典無しで記述してはいけない」という考えに至る人がいることは存じています。
--
ログについて:
私は過去ログを見たところ、メンテナンスされていないという印象を受けました。また、英語版の翻訳について吟味された形跡がないと感じました。
--
提案周知合意についてはその通りと思います。--121.115.128.139 2023年4月23日 (日) 09:15 (UTC)

インデント戻します。121.115.128.139さん、お疲れさまです。上にお書きになったWikipedia:検証可能性の英語版の一文"All quotations, and any material whose verifiability has been challenged or is likely to be challenged, must include an inline citation to a reliable source that directly supports[b] the material. Any material that needs an inline citation but does not have one may be removed."を「"検証可能性について疑義が呈された記述”には、出典が示されるべき」「"検証可能性について疑義が呈された”上でなおかつ出典なしのままの記述は(それを理由に)削除されうる」と訳出してますが、原文中の"is likely to be challenged"(検証可能性について疑義が呈される可能性が高い記述)を訳出されていませんが、英語版にはこの表現も含まれるということでよろしいですよね。--うら会話2023年4月21日 (金) 10:12 (UTC)

上の趣旨の提示だけでは不足ということでしたら
私なりの拙訳を提示しますが、そうしますか?
英語に長けた人を待ってもよいと思いますが。--121.115.128.139 2023年4月23日 (日) 03:08 (UTC)
121.115.128.139さん、お疲れさまです。では、訳をお示しいただけますか? 上で趣旨を示していただいた部分の内容で結構ですので。--うら会話2023年4月23日 (日) 07:50 (UTC)
All quotations, and any material whose verifiability has been challenged or is likely to be challenged, must include an inline citation to a reliable source that directly supports[b] the material. Any material that needs an inline citation but does not have one may be removed.
すべての引用と、検証可能性についてのチャレンジを受けたかそれが見込まれる記述(※厳密にはWikipediaの要素)には、その記述を直接支持する信頼できる情報源へのなんらかの参照が付けられている(すなわち出典を備える)はずです。ついてあるはずの出典が無い記述は、(今後)削除されるかもしれません。--121.115.128.139 2023年4月23日 (日) 08:58 (UTC)
ありがとうございます。いただいた訳について、太字部分を修正しました。問題ないでしょうか?→「すべての引用と、検証可能性についての疑義が示された疑義が示される可能性が高い記述(※厳密にはWikipediaの要素)には、その記述を直接支持する信頼できる情報源へのなんらかの参照が付けられてい(すなわち出典を備え)なければなりません。ついてあるはずの出典が無い記述は、(今後)削除されるかもしれません。」--うら会話2023年4月23日 (日) 11:13 (UTC)
  • 引用や記述の“状態”について、「なけれならない」と訳すのは賛同できません。示されている状態が事実と異なっていた際に、何を表したい文章なのか怪しく感じられませんか。
  • 貴方の訳は「投稿する際の方針」として解釈する前提のように私には見えます。
いま提示されている元英文を見る限りそうではないはずです。それとも元英文のページ全体の文脈からはそう見えるということでしょうか。
  • 「may」は将来的出来事というニュアンスがあります。一方「するかもしれません」といった日本語訳では、必ずしも将来のことという風に受け取られません。言葉を濁しているだけという解釈が成り立つからです。もし、「今後」を外すということでしたら、なにか別なことばで補うべきと思います。
--121.115.128.139 2023年4月24日 (月) 03:41 (UTC)
121.115.128.139さん、コメントありがとうございます。
(1)
> 引用や記述の“状態”について、「なければならない」と訳すのは賛同できません。示されている状態が事実と異なっていた際に、何を表したい文章なのか怪しく感じられませんか。
→ 「示されている状態が事実と異なっていた際」とは何でしょうか。『「すべての引用と、検証可能性についてのチャレンジを受けたかそれが見込まれる記述」について「その記述を直接支持する信頼できる情報源へのなんらかの参照が付けられてい(すなわち出典を備え)ない」状態』のことですか。そうであれば、その状態であるべきではない(あってはならない)、すなわちそのような記述が存在するべきではない(存在してはならない)、ということではありませんか。それとも、記述されている内容の状態が事実と異なっているということですか?
(2)
> 貴方の訳は「投稿する際の方針」として解釈する前提のように私には見えます。
→ なぜそう見えるのですか? 『「すべての引用と、検証可能性についてのチャレンジを受けたかそれが見込まれる記述」について「その記述を直接支持する信頼できる情報源へのなんらかの参照が付けられてい(すなわち出典を備え)ない」状態』については、投稿する際の方針に限定するものでなく、私の解釈は上(1)のとおりです。
(3)
> 「may」は将来的出来事というニュアンスがあります。一方「するかもしれません」といった日本語訳では、必ずしも将来のことという風に受け取られません。言葉を濁しているだけという解釈が成り立つからです。もし、「今後」を外すということでしたら、なにか別なことばで補うべきと思います。
→ 「may」を推量として訳しておられますが、法律文書では、mayには許可を示す表現があると知りました。であれば「A may be removed」は「Aは削除することができるものである」という表現のほうが適切ではないでしょうか。
以上、よろしくお願いいたします。--うら会話) 2023年4月24日 (月) 09:43 (UTC)(一部修正しました。--うら会話2023年4月24日 (月) 11:24 (UTC)
--
(1)
日本語で「出典がついていなければならない」という決まりがあるとされながら、実際にはついていなかった場合、どう考えますか?
1 決まりが間違っている。
2 決まりは理想的な状態を示すもので、相反する状態も許容している。
3 出典がついていなかったらつけろという意味。
このうちの2が無難な解釈だということが分からないときというのが必ず出てきます。
その原因のひとつが「(ある状態に)なければならない」を、「(なにかを)しなければらない」のように意思の込もるものとして解釈しがちなことです。
元英文のincludeはここで意思を感じさせるような使い回しではありませんから、mustと合わせて、意思を想起させないよう訳すのが無難と思います。
こんな理由もあって、「出典がついているでしょう」「出典がついているに違いない」「出典がついているはず」といった“単に状態を記述しているだけの説明”であることが明確な訳とすれば議論せずに済むかと思います。
--
(2)
貴方の意見は元のページの文脈の話ですか?
それとも提示されている英文だけ見てのご意見ですか?
--
(3)
mayとmaynotは推量としては5分5分らしいです。
「してもよい」、許可という言い方はあり得ます。
ただし、実際にはこの「削除」は他の条項でも制約を受ける事柄ですから、このくだりにおいて許可は出せません。
もし許可と解釈したいならば「他の条項に違反しない限りで(除去してもよい)」といった断りが少なくとも必要と思います。
>「Aは削除することができるものである」
その訳は間違っているとはいいませんが、許可ではなく推奨のようにとられかねません。
英文ではそういった意思を込めた書き方はされていないと思います。
「削除されるかもしれないし、されないかもしれない」
「削除してもよいし、しなくともよい」
こんなとこと思います。--121.115.128.139 2023年4月25日 (火) 04:16 (UTC)
--
>その状態であるべきではない(あってはならない)、すなわちそのような記述が存在するべきではない(存在してはならない)、ということではありませんか。
 ありません。と思います。
貴方の説明は、mustについて、いわゆる推量と義務が混ざっていると思います。
mustが、状態についての記述であるなら「推量」であり
動作や意思についての記述であるなら「義務」と解せば無難な訳となるはずです。
推量として訳した上にさらに義務のニュアンスを込める必要はありません。
また、「推量」は、「状態にとっての義務」ではない。そこで誤解が生じがちだからこそ「推量」と「義務」に分けることになっているのだと思っています。。--121.115.128.139 2023年4月25日 (火) 04:40 (UTC)
「なければならない」について、事典では義務付けられていて個人の意思で選択する余地がない、勝手に変えることが許されない事柄と説明されています。辞書によって多少の違いがあるにしても「決まりは理想的な状態を示すもので、相反する状態も許容している。」は明らかな間違いです。--ぷにを会話2023年4月25日 (火) 04:54 (UTC)
「辞書を読みながらであれば2の発想にはならない」
ということでしたらば
特に否定しません。--121.115.128.139 2023年4月26日 (水) 08:56 (UTC)
IPさん、私(うら)の(1)(2)(3)についてお返事ありがとうございます。
(1)についてですが、「出典がついていなければならない」という決まりがあるとされながら、実際にはついていなかった場合とありますが、ここでIPさんは「疑義が呈されているまたは疑義が示される可能性が高い記述には、」という前提を抜いておられます。英語版による場合、単に出典がない記載が問題ではなく、疑義がある/ある可能性が高いという意思にかかる条件付けがあることから、単純に状態についての根拠のない推量を示すものではない、というのが私の考えです。それを踏まえるとIPさんの1~3の選択肢のうち、私は文の趣旨を踏まえた3である「疑義が呈されているまたは疑義が示される可能性が高い記述には、出典がついていなかったらつけられなければならないという意味。」以外にはないと考えます。議論があればお聞きします。
(2)は両方です。(3)はIPさんも判断しえないようですので英語にお詳しい方のご意見をお聞きしたいところです。--うら会話) 2023年4月25日 (火) 10:04 (UTC)(一部加筆しました--うら会話2023年4月25日 (火) 10:11 (UTC)
>疑義がある/ある可能性が高いという意思
「疑義がある/ある可能性が高い」は意思ではないと思います。
--
>「疑義が呈されているまたは疑義が示される可能性が高い記述には、出典が(ついていなかったら)つけられなければならない」
一つ目の文がこの意とするならば、後の文がmustであるべきです。
実際にはmayであり、矛盾するように思います。--121.115.128.139 2023年4月26日 (水) 08:54 (UTC)
>一つ目の文がこの意とするならば、後の文がmustであるべき
「後の文も」
ですね--121.115.128.139 2023年4月26日 (水) 09:11 (UTC)
IPさん、コメントありがとうございます。
もし、状態について述べるmustを「~でしょう」「~のはず」「~に違いない」と訳さなければならないのであれば、この前の文「All material in Wikipedia mainspace, including everything in articles, lists, and captions, must be verifiable.」も状態ですので、は「Wikipedia名前空間のあらゆる記事やリスト、キャプションなどのすべての要素は検証可能であるに違いない。」となるのでしょうか。IPさんが当初(2023年4月6日 (木) 07:46 (UTC))記したように「あらゆる記述は検証可能でなければならない。」とするほうが適切だと思います。最後の「may be removed」については英語にお詳しい方のご意見をお聞きしたいところです。--うら会話2023年4月27日 (木) 17:55 (UTC)
まず、2023年4月6日 (木)の記述は抄訳ではあるかもしれませんが翻訳ではありませんのでここで引き合いに出すような対象ではないと思います。
---
なければならないという訳にしたいとのことかと思いますが、
その訳とした際には、ぷにを氏指摘のようにgoo事典などを見て、「実現するように観測者が義務を負う」すなわち英語の「You must」の文意が込められているかのように解釈されうるようですから、その是非を示されたら良いかと思います。
  • 推量と解釈できるmustについて、「婉曲的に『You must ...』の意味が暗に込められている」とみなすことが適切かどうか
ということですね。--121.115.128.139 2023年4月28日 (金) 07:57 (UTC)

あと、2文目の「"検証可能性について疑義が呈された”上でなおかつ出典なしのままの記述は(それを理由に)削除されうる」と訳出された内容は、「出典が示されるべきものの出典なしの記述は削除されうる」ですよね。--うら会話2023年4月21日 (金) 10:21 (UTC)

「出典が示されるべき記事」=「検証可能性についての疑義が呈されたかそれが見込まれる記事」
といったところかと。
上での私の記述は、
現状英語版を「出典が示されるべき記事を『それだけを理由に』削除されうる」と解釈したとしても現状日本語版とは異なり、「出典無しだけを理由に除去される」という意味合いにはならない
ということを指摘したつもりです。--121.115.128.139 2023年4月23日 (日) 08:27 (UTC)
『それだけを理由に』に該当する部分というのは元の英文にはありません。--121.115.128.139 2023年4月23日 (日) 08:28 (UTC)
念のため言っておきますが、英語版がどうであれ英語版に寄せる意味はありません。英語版が絶対で寄せなければいけない方針・ルールがあるのであれば教えていただきたいですが、そうでないなら英語が得意ではない人がこねくり回すよりも日本語版としてどうあるべきかで提案されるべきです。〇〇が問題だと思うから検証可能性の××の部分を△△に改訂してはどうかのような形です。--ぷにを会話2023年4月25日 (火) 01:01 (UTC)
英語版に寄せるということで合意形成するというのも一つの手だと思っています。--121.115.128.139 2023年4月25日 (火) 04:53 (UTC)
121.115.128.139さんが英語に長けていて他の参加者も英語に長けているのであればいいですが、英語を得意でない人が英語版に寄せると言っても得意な他の人に作業してもらわなければ正しく英語版に寄せることができません。自身でできないことは提案するべきではないでしょうし、そのような方が現れない限り私が英語版に寄せるという提案に同意することはありません。--ぷにを会話2023年4月25日 (火) 04:59 (UTC)
自身でできないことは提案するべきでない、というのはまったくWikipediaの趣旨に反する
というのが私の見解です。
大勢で編集しあうのがWikipediaのはずです。--121.115.128.139 2023年4月26日 (水) 09:01 (UTC)
121.115.128.139さんの見解には同意できません。Wikipediaは大勢の参加者が「自分のできること」を積み上げて作っていくものです。仮に121.115.128.139さん、うらさん、私で合意したとして英語版を日本語版に寄せるのは誰ができるんですか?そしてそれが正しく日本語版に反映されていると誰が確認できるんですか?既に2人から英訳について初歩的な指摘(is likely to be challengedがまるまる抜けていた件)をされている人の「恐らくこういう意味だから日本語版よりも英語版の方が優れている」を鵜呑みにできません。自分でも恐らくこんな意味だろうという訳はしていますが、それも正確かは十分な自身がありません。もう何度も言っていますが日本語版として「〇〇が問題だと思うから検証可能性の××の部分を△△に改訂してはどうか」と提案してください。これなら誰の英語力が低くても日本語さえできれば問題ないんですから。--ぷにを会話2023年4月26日 (水) 10:45 (UTC)
仮に「英語版を日本語版に寄せる」という合意に到達した場合に
一人の編集者にすべて一任すべきだという合意内容になるとは私は思いません。
--
ぷにを氏が英語に寄せることに反対であることはわかりました。--121.115.128.139 2023年4月27日 (木) 04:35 (UTC)
コメント 静観しておりましたがコメントさせていただきます。121.115.128.139さんはこの節で意見を募集されているだけだと思っておりましたが、Wikipedia:検証可能性を改訂されたいのでしょうか。ぷにを氏も言っておりますが「Wikipedia:検証可能性の文章は〇〇が問題点があり、××の部分を△△に改訂することを提案します」のようなわかりやすい提案を再度していただくようお願いします。今のままではどこをどこまで改訂をされたくて議論しているのかがわかりません。また、121.115.128.139さんが行おうとしている改訂はWikipedia:独自研究は載せないも関係するように聞こえますので整合性が取れるような提案をしてください。私の意見はその提案がされた後記載いたします。--Nocto会話2023年4月25日 (火) 18:24 (UTC)
コメント コメント依頼からたまたま流れ着いてしまいましたので用語についてだけ申し上げておきますと、これは仕様書の書式ですので must は「しなければならない」であって should 「するべきである」とは明確に区別されます。 may は「しても(しなくても)よい」です。興味がおありなら RFC2119 [3] をご覧いただくとよろしいのではないかと思います。--枯葉会話2023年5月18日 (木) 18:28 (UTC)