Wikipedia‐ノート:検証可能性/無出典記述の扱いの説明について
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Archive05(2007-10~)(打ち切り - 出典無き記述の除去 - 「存命人物の伝記」の問題とのすり替わり - 秀逸な記事への要出典タグ - 「出典不明示は削除」は万能な規定ではないことの確認) - Archive06(2007-12~) - Archive07(2008-08~) - Archive08(2008-12~) -
Archive09(2009-03~)(「『真実かどうか』ではなく『検証可能かどうか』」との文言に関して - 「利用者同士の合意によって覆されるものではない」との文言に関して) -
Archive10(2011-01~)(本方針を根拠とする記事の白紙化について - 存命人物の記事におけるGENREF方式の是非) - Archive11(2016-02~)<(無出典記述の扱いの説明について - 目撃・伝聞情報) - Archive12(2018-03~) (edit)
出典不明示部分を誰でも除去できる点について(補足説明追加の提案)
[編集]本記事の「方針」節の「出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます」という記述について、本記事中に補足説明があるべきだと考えたので投稿します。
WP:CITE#出典なき記載の扱い では「出典の提示を求めることができます。十分な期間を経ても出典が見つからない記述は除去してください」「明らかにナンセンスな記事や記事にとって有害な記述はこの限りではなく、直ちに除去する…など適切に判断してください」とあることからすれば、出典を追加したりテンプレートを設置したりなどの措置を採るべき場合であるか、それとも当該部分を直ちに削除すべき場合であるかは、ケースバイケースで「適切に判断」していく必要があると考えられます。そして、本記事の「出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます」という記述を根拠にして「直ちに削除すべきである」とはいえず、また「直ちに削除することができる」としてもそれが望ましい場合とそうでない場合との両方があると解釈するのが妥当であると思います。
しかしながら、本記事のこうした記述にせよ「出典の提示を求めることができます」のような記述にせよ、「できます」と述べられているにとどまり、いかなる対応を取るかは結局対応者の自由裁量に委ねられているため、事実である可能性が高いにもかかわらず、出典不明示であることを理由として本記事の記述を根拠に削除することも「できる」ことになり、妥当な結果が得られない(あるいは編集合戦にも発展しうる)ケースが想定されます。
そこで、本記事中で WP:CITE#出典なき記載の扱い との橋渡し的な記述があるとより良いのではないかと思います。例として以下のような記述が想定されます。
方針2は、いかなる利用者であっても出典不明示の部分を除去することができる(出典不明示を理由に除去されても反論できない)ことを裏付けるものです。出典が明示されていない部分を必ず除去するよう推奨しているのではありません。むしろ、出典が明示されていない部分を除去することが適切でない場合もあります。出典が明示されていない場合にどのような対応を取るべきかは、出典が明示されていない部分の内容や、出典が明示されていないことによって生じている問題の程度等を吟味した上で、事案に応じて適切に判断してください。具体的な対応方法については、出典なき記載の扱いも参照してください。
わかりやすさと正確さを追求したら若干長くなりましたが、こういった内容の記述を補足的に追加することを提案いたします。ご検討のほどよろしくお願いいたします。--Banbam1029(会話) 2016年12月13日 (火) 15:55 (UTC)
- どちらかと言えば、むしろ、WP:CITE#出典なき記載の扱いの記述を修正すべきでしょう。--Dwy(会話) 2016年12月14日 (水) 03:35 (UTC)
- Dwyさん、ご意見いただきありがとうございます。『出典なき』のどのような点をどう修正すべきと考えているのか、よろしければ聞かせてもらえますか?--Banbam1029(会話) 2016年12月17日 (土) 01:46 (UTC)
ちょっと素直には賛成しかねます。アップルパイ案件ならともかく、出典が示されない匿名編集者による記述が事実であるとどうやって判断するんでしょう。常識なんぞ結構曖昧なものですし。除去以外のより穏当な手段として出典探しやテンプレート貼付を推奨するのは別に構わないというかむしろ賛成なんですが、方針で除去を困難にするべきかとなると疑問に思います。「出典ないけど事実だから消すな」なんて連中にお墨付きを与えたくはないし。--240F:65:92C9:1:29D8:D29F:4B8B:C419 2016年12月19日 (月) 16:07 (UTC)
- 反応が遅くて申し訳ありません。ちょっと考え直してみたのですが、こちらの方針の中で出典がない記述の扱いについて解説すること自体は、必ずしも悪いことではないのかもしれません。
- しかし、「むしろ、出典が明示されていない部分を除去することが適切でない場合もあります」のような言い方には賛成できません。そのような言い方をすると、「不適切な除去」に異議を唱える人が、出典を提示することなく記述を復帰させて、余計な論争や編集合戦を引き起こす可能性があるからです。
- 基本的に、
- 適切な出典が存在すると思われ、合理的な 期間内に出典が提示される見込みがあるなら、要出典タグを貼る等した上で、出典が提示されるのを待つべき。
- 適切な出典が存在するかどうか疑わしく、合理的な期間内に出典が提示される見込みが薄いなら、記述を除去すべきです。
- 記述の除去が「適切」かどうかは、結局のところ、待っていれば出典が出て来る見込みがあるのかに掛かっています。しかし、他の編集者が何をやっているのかお互いに知る由も無いなかで、そのようなことが適切に判断できるはずもないし、除去が適切かどうか議論したところで、有益な議論が成立するとは思えない。除去が不適切だと示すには、結局のところ、実際に出典を提示した上で「ほら、だから言ったじゃないか」とやるしかないのです。だから方針上は、実際に出典が提示されるまで「除去することができます」として、除去の適切さについて不毛な議論を避けることにしているのだと思います。
- というわけで、「適切な出典が存在すると思われ、合理的な期間内に出典が提示される見込みがある場合は、要出典タグを貼る等した上で、出典が提示されるのを待つべき」ということをこちらの方針に記載するのは良いと思いますが、除去の適切さを問題にするような記述は避けるべきだと思います。--Dwy(会話) 2016年12月19日 (月) 22:31 (UTC)
- このままでは賛成できません。Wikipedia:検証可能性は三大方針ですから、どちらに合わせるべきかはDwy氏の指摘されている通りだと思います。橋渡し的な記述という提案は共感できないわけではありません。しかし、Wikipedia:検証可能性で言っていることは「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」です 。編集合戦を抑えるなら、誰かが「真実である可能性が高いかどうか」を判断するより、誰からも「検証可能かどうか」というレベルで判断したほうが客観的で穏当です。
- たしかに真実である可能性が高いのに記述を除去するのはもったいないという事案があるとは思いますが、ご提案の根拠になっているWikipedia:出典を明記するには出典のない記述をいったんノートページに移動して出典を求める方法も書かれているように、ノートを活用した検証方法もあり得るので、わざわざ記事の本文に残したまま「出典が明示されていない部分を除去することが適切でない場合」を設ける必要はないのではないでしょうか。--Sa3ss3(会話) 2016年12月22日 (木) 21:38 (UTC)
- 出典の記載の無い文章について。確かにそれが事実でも出典がなければ、そういうのに敏感な利用者によって即消されるなどは経験があります。私は漫画やライトノベルといった物の記事について加筆を行っているのですが、個々の方針の違いというものを感じています。自分は段階的に内容を増やしていく、(例として登場人物の名前と簡易な説明、その翌日などに登場人物毎に出来る限り一括でもうちょっと詳しい説明をやる)という感じですね。加筆と修正していく内に脚注と出典にする箇所を見極めてやっているのですが、先日ある利用者に「そのやり方は間違っている」と言われました。記載内容が乏しい記事で内容を充実させる前から過剰な出典を求められました。それも全文ですよ。(自分が編集しているダーウィンズゲームの主人公カナメを例として○は出典を表しています)
- 須藤要○、スドウカナメ○、高校生○、男性○、年齢○、生年月日○、作中での出来事1○作中での出来事2○……、それが短文だろうが、そこまで細かくする記載するほどでもない部分にも出典を求められました。後から出典を付けるのはいけないことでしょうか?--田中智隼(会話) 2016年12月28日 (水) 12:17 (UTC)
- 方針(またはガイドライン)はWikipedia:検証可能性など幾つか定められているものをいいます。これらの公式な方針やガイドラインに沿っているかが問われることはあっても、誰も他の編集者の個人的な「個々の方針」に従う必要はありません。IP氏から指摘されていますが、検証可能性は匿名編集者による記述をどう信頼できるものにするかという問題です。--Sa3ss3(会話) 2016年12月30日 (金) 00:55 (UTC)
- 基本的に、すべての記述に出典が必要です。例外は、作品自体が出典であることが明らかな「あらすじ」の節くらいでしょうか。後から出典を付けるのは、あまり時間が経たないうちに忘れずに付けるのであればOKですが、そうでなければ望ましいやり方とは言えません。
- …というか、記事を執筆する時は、記憶だけに頼らず、逐一ちゃんとした情報源を確認しながら書いていますよね?誰でも編集できるWikipediaにおいて、編集者の記憶や思い込みによる記述を許していては、百科事典レベルの信頼性は実現できません。
- …で、執筆時に出典を確認しながら書いているなら、手元にある出典の情報もその場で一緒に書いていくのが一番楽なはず。後からもう一度出典のそのページを引っ張り出して脚注を記載していくのは、二度手間で面倒じゃないですか?
- あともう一つ、蛇足かもしれませんが。漫画やライトノベルの記事を書く際に、作品そのものをメインの出典にするのは望ましいやり方ではありません。編集者自身の理解や解釈で記述するのではなく、信頼できる情報源で発表済みの解釈や評価を紹介することが必要です。その意味で、要求されているのは、主に作品から独立した第三者による二次資料であることにも留意すべきです。--Dwy(会話) 2016年12月30日 (金) 01:54 (UTC)
- 返信 (田中智隼さん宛) 「プロジェクト:フィクション#一次情報の扱い」にあるように、フィクションの記事は、条件付きではあるものの「脚注等を用いて出典を示さずとも作品そのものを参考に書かれていることが明白であるため、検証は可能」とされています。たいていのフィクション作品に関する記事は、(記事の内容自体が虚偽でもない限り)作品自体を出典に書かれているはずなので、一文一句に脚注がついていないことが「出典の記載のない記述」になる訳ではありません。なぜなら「Wikipedia:出典を明記する#出典の示し方」にあるように、ウィキペディアではinline citationが推奨されているものの、general referenceも禁止されてはいないからです。これについては「Wikipedia‐ノート:出典を明記する」で現在進行形の議論がありますが、この議論とはまた別の問題でしょう。
- もっとも、フィクション作品の記事には編集者個人の解釈や予想、誤読(単純な誤解から、作品の作者が故意に仕掛けたトリックに引っかかったことによるものまで色々)が入り込む余地や、一読しただけでは分かりにくい情報も多く、私自身はなるべく脚注をつけるようにしています。……とは言っても「フィクション作品記事ではinline citationを徹底すべきで、何巻何話何ページという情報が書かれていない文は片っ端から除去してよい」という主張に私は与しませんし、「フィクション作品の記述は全てgeneral referenceとみなせるのだから、可読性を損ねる脚注は除去してよい」という主張にも同意できません(どちらの主張も見たことがあります)。--Kanohara(会話) 2016年12月30日 (金) 02:00 (UTC) 字句修正。--Kanohara(会話) 2016年12月30日 (金) 08:46 (UTC)
お三方とも素早いお返事ありがとうございます。
- sa3ss3さんへ。確かにそうですね。個々のやり方というものがありますよね。
- Dwyさんへ。自分にとっては2度手間ではないのでその点は大丈夫です。寧ろ、恥ずかしながらモバイルでの編集ですので画面の暗転や着信が入ったりするとカーソールが動かなくなったり、アプリが勝手に再起動することがあるので自分としては分けたほうがスムーズに行えます。
- kanoharaさんへ。「作品そのものが参考と書かれている物については~」というのは参考になりました。匿名者の編集に作品を読んでいる身として納得する記載もありますが、それに可能なら出典を付けるように編集していこうと思います。その作品が好きな者同士故にせっかくの文章が削除されぬように行動します。
- 改めてお三方共に大変参考になりました。--田中智隼(会話) 2016年12月30日 (金) 12:23 (UTC)
田中智隼さんの件が落ち着いたようですのでコメントします。雲隠れしてました本節提案者のBanbam1029です。まずはDwyさん、Sa3ss3さん、IPアドレスさんへ、私の稚拙な提案にコメントいただきありがとうございました。今読み返してみると、自分の当初の提案はやや的外れな箇所を含んでいるように自分でも感じます。私が本提案をしようと思ったきっかけは、出典の不足した導入節をどんどん削除しているユーザーを見かけて、ウィキペディアの方針がどうなっているのか気になったことでした。一般論としては(あくまで一般論に過ぎませんが)、本文中に一定数の出典のある記事の導入節であればそれなりに信用できる情報ですので、いきなり消すのもどうかなと感じました。ですので、真実である可能性と検証可能性を明確な区別なしに書いたフシがあるのは否めません。
まず、本提案中の「むしろ」の一文は、検証可能性と積極的に対立しうる(検証可能性がなければ消せる、という原則に相反する)記述ともいえ、皆さんのご指摘の通り不適切と考えられるのでなくします。その前文についても「いかなる場合であっても、出典が明示されていない部分をただちに除去することまでを推奨しているのではありません」の方がニュアンスとして正確に感じます(つまり、記事中の「誰でも取り除くことができます」は何が何でもとっとと消すべしとの強力なお墨付きを与える趣旨ではないということを言いたいのです。もっと適切な表現があればご提案ください)。さらに「どのような対応を取るべきかは」の一文は、検証可能性を軸として書き改めるか、何も書かないで「具体的な対応方法については」の最終文に流す、とするべきでしょう(検証可能性を軸にしたとしても、機械的にではなく事案ごとの対応を心がけるべきである点に変わりは無いので、一文ごっそり切るのは少し躊躇われるのですが)。
以上、多くのご指摘を受けて提案を一部修正します。もし私がトンチンカンなことを言っていたら申し訳ないです、ご容赦・ご指摘ください。--Banbam1029(会話) 2016年12月31日 (土) 18:24 (UTC)
- コメント 「事実である可能性が高いにもかかわらず、出典不明示であることを理由として本記事の記述を根拠に削除することも『できる』ことになり、妥当な結果が得られない」という冒頭のご意見はこの方針と相容れないので(削除することも「できる」というのが方針の趣旨そのものなので)、方針改訂の理由としては正当性を欠くと思います。
- 「編集合戦にも発展しうる」という想定も、むしろ現行の方針が優先順位を明確にしているわけですから、現実は逆(無出典の記述を除去か温存かで意見が割れたら迷わず除去編集を優先し紛争回避)かと思います。
- 記述の除去が義務であるかのような誤解を避けるだけの目的であれば、
- 記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです。
- 記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典(参考文献)―を明らかにすべきです。
出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。(2文目以降を次項に移動) - 出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません(出典が明示されていない編集は誰でも取り除くことができ、除去されても文句は言えません)。
- といった文の並びの見直し程度でも十分効果はあると思いますし、仮に修正するとしてもせいぜいその程度には留めるべきでしょう。必要な説明は既に「出典を示す責任は掲載を希望する側に」節に書いてありますし。--ディー・エム(会話) 2017年1月2日 (月) 16:40 (UTC)
- 補足です 本題からは外れそうですが念のため補足すると、「WP:CITE#出典なき記載の扱い」の「明らかにナンセンスな記事や記事にとって有害な記述は…(中略)…など適切に判断してください」という指示内容は出典の扱いについての判断を求めるものではありません。出典の有無とは関係なく不適切と判断される問題を含んでいるケースに対しては(仮に出典があっても除去が必要な記述に対して出典を求めても意味がないので)当該の問題点に応じた適切な対処を講じて下さい、というのがその趣旨です。
- ですので、あくまで検証可能性の問題だけに限って判断の可否を単純化して示すなら
- 無出典の記述を加筆すること→不可
- 無出典の記述を除去すること→可
- 他の編集者が加筆した無出典の記述に出典を求めること→可
- 他の編集者が加筆した無出典の記述を除去せずに放置(無視)すること→(最善ではないけど一応は)可
- 除去された無出典の記述を無出典のまま再加筆すること→不可
- ということに尽きるわけで、要するに上記の太字の部分だけ誤解を招かなければ良いということですよね。--ディー・エム(会話) 2017年1月2日 (月) 17:38 (UTC)
- コメント 出典が見込める記述を無闇に除去してはいけない根拠としては、ガイドライン「Wikipedia:善意にとる」があります。出典が明示されていない記述であっても、その記述を追加した編集者の大多数は何らかの情報源を参照して有益な内容を加筆しようとしており、決して悪意でデマを追加しようとしているのではないだろうという前提でかからないと、ボランティアの参加者のみで成立しているウィキペディアの編集はまともに立ち行かない、という根本的な問題です。「いつまでもそんなことを言っているからウィキペディアは素晴らしくならないのだ」という批判は一理あるかも知れませんが、それはまた別問題でしょう。少しニュースサイトを検索すればいくらでも信頼できるソースが見つかるような内容についてまで、「出典のない記述は除去されても文句は言えません」という方針を金科玉条にして、前後の文脈などを無視して無遠慮に削除していく行為を複数の記事で繰り返すようなことは、ルールの悪用に当たると考えます。
- Banbam1029さんの言う「出典の不足した導入節をどんどん削除しているユーザー」に対するものとしては、ガイドラインとして「Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)#出典」がありますね。箇々の内容には明確な出典がつけられている記事において、記事の内容を噛み砕いて要約している導入文・概要文に対して、inline citationがつけられていないという理由で除去していくような編集は、不適切かも知れません。もちろん状況にもよりますが。
- 8年ほど前になりますが、ウィキペディアの記事「主人公」にて「以下に特徴を列挙する[要出典]。特徴1[1]、特徴2[2]、特徴3[3]……」というような{{要出典}}の付け方を見かけて仰け反ったことがあります。このときにはたまたま外部のサイトで「ウィキペディアの「主人公」の項目には幾つかの例が列挙されています」というような記述があったので、それを出典にしておきましたが、現在のルールだとWP:CIRCULARかWP:SELFと見なすか微妙なところです。余談ですが、この記述に{{要出典}}をつけていた方は、その後「ウィキペディアの記述は一字一句が二次情報源に基づく『引用文』でなければならず、一次情報源を元に書かれたあらすじは除去すべき」という独自の持論を延々と繰り返し、最終的にはブロックされました。--Kanohara(会話) 2017年1月3日 (火) 08:59 (UTC)
- 「善意に取る」は、ここでの議論の根拠になりません。「善い」ものだと信じるべきなの はあくまで「編集者の意図」であって、「編集の内容」ではない。善意でやっていることは信じてあげるべきですが、ちゃんとした出典を参照していると根拠(=出典の提示)なく信じることはできません。-Dwy(会話) 2017年1月3日 (火) 15:57 (UTC)
- コメント 検証可能性はディー・エム氏の説明が妥当だと思います。Kanohara氏の指摘されている導入部の特性は理解できるのですが、Dwy氏が述べられるように「編集者の意図」と「編集の内容」は区別する必要があり、Wikipedia:善意にとるを根拠にそれを説明するのは適切ではないと思います。
- 例えば活火山に指定されている火山にもかかわらず、「この山は噴煙も上げていないし自分が学校で習った記憶では活火山ではなく休火山のはずだ」と書き換えた人が現れたとします。この人は自分が学校で習ったことが正しいと思って書き換えたので「編集者の意図」は善意だったと察しますが、だからと言って「編集の内容」が適切になるということはありません。活火山に指定されていることが事前に検証可能になっていたか、書き換えようとした人が自分の思い込みではなく信頼できる情報源でちゃんと確認していれば、適切でない編集を防ぐことができた可能性が大きいわけです。
- 編集の内容が適切かどうかは、その編集者が善意かどうかで左右されるのではなく、その編集が方針等に適合しているかどうかで判断されます。「編集者の意図」を善意にとることと、「編集の内容」を方針等に沿った状態することは別問題だと思います。--Sa3ss3(会話) 2017年1月4日 (水) 13:04 (UTC)
- 「善意に取る」は、ここでの議論の根拠になりません。「善い」ものだと信じるべきなの はあくまで「編集者の意図」であって、「編集の内容」ではない。善意でやっていることは信じてあげるべきですが、ちゃんとした出典を参照していると根拠(=出典の提示)なく信じることはできません。-Dwy(会話) 2017年1月3日 (火) 15:57 (UTC)
- 返信 (Dwyさん、Sa3ss3さん宛) いや、言わんとしていることはもちろん理解できますし同意できます。ですが私は「少しニュースサイトを検索すればいくらでも信頼できるソースが見つかるような」内容について、出典が分かりやすく明示されていないことを理由に次々と機械的に除去していくような編集者がいる状況を問題視しています。例えばSa3ss3さんの例で言うと、「xxxx年以降は噴火を起こしておらず、休火山に分類されている山であった[1]。しかし死火山、休火山という区分が廃止されて以降は活火山に分類されるようになり、xxxx年xx月には突如として大噴火を起こして大勢の死傷者を出した」というような記述を「xxxx年以降は噴火を起こしておらず、休火山として分類されている[1]」に書き換えていくような編集のことです。前の発言で例示した「独自の持論を延々と繰り返し、最終的にはブロックされ」たのと同じ方の例になりますが、「ノート:小林誠 (物理学者)」などで実際、似たようなことがありました。
- 私も別に、匿名の編集者が書き散らしていった事実かどうかを確かめようがない内容を、無根拠のまま盲目的に信じろとまでは言っていません。しかし、ウィキペディアを閲覧でき、編集できる環境にある方の多くは、Googleなどの検索サイトを自由に利用できるはずですから(「過去のブックマークからリンクを辿ってウィキペディアを見ることはできるが、今はキーボードが壊れていてDELETEキーしか使えない」「使っている端末にフィルタリングがかけられていて検索サイトを利用できない」といった環境にある編集者は希だと思います。「パケット定額制に加入していないので、検索すると余計な料金がかかってしまう」という人も今では少ないでしょう)、少し調べれば信頼できる情報源に容易にアクセスできるような内容については、「ちゃんとした出典を参照していると根拠(=出典の提示)なく信じること」には当たらず、検索結果という根拠を元に信じてもよいと考えます。一方、ウィキペディアの現実では、ほんの数秒の手間を惜しまなければ(要約欄に「出典なき記述を除去」と入力するのと同程度の手間で)容易に信頼できる情報源にたどり着けるような内容まで、よく調べもせずに除去していくような編集が多すぎるように、個人的には感じています。「出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません」というのは本方針の大前提ですが、除去する側も少しは吟味すべきではないか(=GoogleニュースやGoogle ブックスなどをキーワードで検索する程度の手間は惜しむべきではないのではないか)、と考えています。--Kanohara(会話) 2017年1月5日 (木) 03:23 (UTC)
- Kanohara氏にお尋ねします。ある記事にA氏が出典を明記することなく加筆を行ったとします。B氏がその加筆に出典が提示されていないことを理由に除去したが、それがKanohara氏のいう「少しニュースサイトを検索すればいくらでも信頼できるソースが見つかるような内容」に該当していたとします。A氏がその加筆した内容を復帰させたい場合、A氏は出典を明記する必要があるとお考えですか?、それともA氏は出典を明記する必要はないとお考えですか?--Sa3ss3(会話) 2017年1月5日 (木) 22:41 (UTC)
- 返信 (Sa3ss3さん宛) B氏が事前に少し調べ、出典を明記すれば波風が立たないと考えます。もしかしたらB氏は「そういう考えが駄目な編集者を甘やかすのだ」という意図から、わざとそのような態度を取ったのかも知れませんが、だとするならWP:SPEED違反で、出典をつけてから相手のノートページに文句を言うなりすべきでしょう。出典を明記せずに加筆を行ったA氏が、その程度のことは空が青いというような自明な内容だと考えたのか、うっかり失念したのか、ウィキペディアのルールに無知または無頓着だったのかは分かりませんが、愚かなB氏のような編集者と無用な争いを避けるよう、復帰時には出典を明記すべきかと考えます。その方が出典が必要でない理由をあれこれ理由付けするよりも楽ですし、B氏と同程度に世情に疎い読者が、真偽を確認する手間も省けるでしょう。--Kanohara(会話) 2017年1月6日 (金) 11:08 (UTC)誤字修正。--Kanohara(会話) 2017年1月10日 (火) 10:53 (UTC)
- WP:SPEEDは、現行のルールに不満な人が、そのルールの悪さ加減を示すために意図的に不適切な編集を行う場合の話。WP:Vの信奉者が出典のない記述を削除しまくるのは、ちょっと違う話だと思います。
- KanoharaさんはBさんに対する見方が厳しいですね。「善意に取る」という意味では、
- 少し調べれば適当な出典がいくらでも見つかりそうなものだけど、情報検索能力には個人差があるから、Bさんが頑張っても見つからなかったのかもしれない。結局、自分なら簡単にできると思う人が自分でやるしかないのかも…とか
- 少し調べれば適当な出典がいくらでも見つかりそうなものだけど、Bさんの目にはどれもこれも「信頼できる情報源」に見えないらしい。一番良さそうなやつを提示して「これではダメですか?」と聞いてみよう…とか
- 「善意に取る」というのは、そういうことです。
- 取り敢えず最初は善意に取るけど、不適切な事例が何度も繰り返されるようならブロック等の措置を取る。Kanoharaさんが例に挙げておられた人も最終的にはブロックされたということですし、現行の方針・ガイドラインでも正常に機能しているということではないでしょうか。--Dwy(会話) 2017年1月7日 (土) 06:52 (UTC)
- 返信 (Dwyさん宛) ウィキペディアの目的は、wikipedia.orgに寄せられた出典が示されていない記述にせっせと{{要出典}}をつけてマークしていくことではなく、信頼できる百科事典を作ることです。WP:Vの信奉者であればこそ、「出典を示す責任は掲載を希望する側に」というルールに胡座をかいてふんぞり返るべきではなく、すぐに出典が見つかるような内容については自発的に出典を付けるのが望ましい態度だと考えます。
- そもそも、少し調べればすぐに信頼できる情報源を得られる、あるいは普通に生活して義務教育を受け、普通にニュースや新聞に接していれば知っていて当然の内容について、出典を付け足すことなく「出典なし」を理由に除去したり、{{要出典}}を貼ったりするような編集は、その人の無知を晒すことであり恥ずかしいことだと、私は考えます。そのような編集を荒らしや法律家ごっこの娯楽と決めつけず、善意であると取るのなら、やはりその人には「自分の編集によって問題を提起し、ウィキペディア内で漫然と行われている慣習に対し、更なる強制力ある方針の追加を促したい」という信念があるのか、あるいは本当に無知で非常識で、調査能力が低くてウィキペディアの編集に向いていないか、ということになると考えます(「無知は罪なり」という言葉もありますが、無知であることそれ自体は悪意に基づく行為ではないので、悪意に取るというのとはまた違うと考えています)。先に挙げた例の方が最終的にブロックされた件については、そもそも方針・ガイドラインが誤読や曲解を許すような記述になっていることに一因があり、その方が不適切な{{要出典}}を貼り付け続けつつ持論を延々と主張し続けることに費やした情熱と時間を、まっとうな記事編集に向けていることが最良の結果だったはずです。個人的には「現行の方針・ガイドラインでも正常に機能しているということ」を示すものとまでは思いません。
- 個人的には、「出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側」という本方針の文章は「書き加えようとする、あるいはその記述の存続が望ましいと考える側」といった文章に変えた方がいいと思っています。書き加えた本人以外が出典を追加してはいけない訳ではないのですから。それと「出典のない記述は除去されても文句は言えません」というのも「ただし、少し調べればすぐに信頼できる情報源が得られるような記述について、出典が明示されていないという理由のみで除去することは、あなたの常識を疑われたり、出典を見つけて復帰させようとする側とトラブルの原因になったりするかも知れません」くらいの内容を付け足しても構わないのではないかと思います。--Kanohara(会話) 2017年1月10日 (火) 10:53 (UTC)
- 記述を除去するのが不適切だと言うのならまだ話がわかりますが、要出典タグを貼るのが不適切だと言うのには同意できません。記述が除去されてしまうと後の作業に支障が出るかもしれませんが、要出典タグは何の邪魔にもなりません。
- そもそも、出典が付かずにずっと放置されている記述については、出典が簡単に見つかるという主張は説得力に欠けます。もしも本当に、出典を見つけて提示するのは簡単なことなのに、誰もその簡単なことをせずに放置しているということなら、タグを貼る人を非難しても根本的な解決策にはなりません。出典を見つけられない人の「無知」を非難するより、簡単にできることをせず出典がない状況を放置している編集者の「怠慢」をまず問題にすべきです。
- もしも本当に簡単なことなら、簡単にできると言う人が自分で出典を付けていれば良かった。そうすれば、少なくともタグを貼った人が「持論を延々と主張し続ける」という事態にはならなかったはずです。--Dwy(会話) 2017年1月10日 (火) 21:11 (UTC)
- 返信 (Dwyさん宛) こちらの言葉が足りず、意図していることがうまく伝わらなかったようです。不適切な{{要出典}}というのは、(フィクション作品の記事における作品自体が出典であることが明らかなあらすじの節など)出典は明らかではあるもののinline citationで書かれていないものに{{要出典}}を貼ったりするような行為を指しているつもりでした。また、時々見られる「1週間以内に出典が示されなければ除去」などと要約欄で予告して、一つの記事に大量に{{要出典}}を貼り付けていくような編集も、個人的には記述除去とあまり変わらないと思っています。
- > もしも本当に簡単なことなら、簡単にできると言う人が自分で出典を付けていれば良かった。そうすれば、少なくともタグを貼った人が「持論を延々と主張し続ける」という事態にはならなかったはずです。
- いや、先に例に挙げたウィキペディアの「主人公」の記事では、その方が記事に32個の{{要出典}}を雑に貼り付けたのに対して、通りすがりの私が自分で片っ端から全て出典をつけて対処した、ということがあったのですが、結局のところその方が「持論を延々と主張し続ける」という事態になったことは前述の通りです。--Kanohara(会話) 2017年1月11日 (水) 11:33 (UTC)
- 「作品自体が出典であることが明らかなあらすじの節など」については、「この種の記述に出典の表示は不要だ」と明確に主張されるべきだと思います。そうすれば、どういう記述に出典表示が必要で、どういう記述に出典表示が不要なのかという議論になったはずです。
- 出典表示が必要な記述に出典が付いていないなら、要出典タグを貼るのは当然。タグを貼る人に対して「見栄えが悪い」「読み難い」と苦情を言うのは筋違いで、そういうことは最初に出典表示を付けずに記述を追加した人に言うべきです。一方、出典表示が不要ということなら、議論によってそういう合意を形成して、タグを剥がせば良い。基本的に、分析、評価、解釈に亘る記述には二次資料の出典が必要ですが、「あらすじ」などは作品が出典であることが明らかですし、「あらすじ」を検証しようという人は当然作品を一通り全部読むわけで、わざわざ何ページと書いてやる必要もない(逆に言えば、何ページと明記してやらないと見落としてしまいそうな細かい情報は「あらすじ」に書くべきかどうか少し怪しい)。そこのところを区別せず、「ちょっと調べれば簡単に出典が見つかる記述」のような言い方をするから、話がややこしくなるのだと思います。--Dwy(会話) 2017年1月12日 (木) 23:09 (UTC)(加筆修正--Dwy(会話) 2017年1月14日 (土) 00:42 (UTC))
- 返信 (Sa3ss3さん宛) B氏が事前に少し調べ、出典を明記すれば波風が立たないと考えます。もしかしたらB氏は「そういう考えが駄目な編集者を甘やかすのだ」という意図から、わざとそのような態度を取ったのかも知れませんが、だとするならWP:SPEED違反で、出典をつけてから相手のノートページに文句を言うなりすべきでしょう。出典を明記せずに加筆を行ったA氏が、その程度のことは空が青いというような自明な内容だと考えたのか、うっかり失念したのか、ウィキペディアのルールに無知または無頓着だったのかは分かりませんが、愚かなB氏のような編集者と無用な争いを避けるよう、復帰時には出典を明記すべきかと考えます。その方が出典が必要でない理由をあれこれ理由付けするよりも楽ですし、B氏と同程度に世情に疎い読者が、真偽を確認する手間も省けるでしょう。--Kanohara(会話) 2017年1月6日 (金) 11:08 (UTC)誤字修正。--Kanohara(会話) 2017年1月10日 (火) 10:53 (UTC)
- Kanohara氏にお尋ねします。ある記事にA氏が出典を明記することなく加筆を行ったとします。B氏がその加筆に出典が提示されていないことを理由に除去したが、それがKanohara氏のいう「少しニュースサイトを検索すればいくらでも信頼できるソースが見つかるような内容」に該当していたとします。A氏がその加筆した内容を復帰させたい場合、A氏は出典を明記する必要があるとお考えですか?、それともA氏は出典を明記する必要はないとお考えですか?--Sa3ss3(会話) 2017年1月5日 (木) 22:41 (UTC)
- 返信 (Dwyさん宛) 先の、ブロックになった方の例では、「どういう記述に出典表示が必要で、どういう記述に出典表示が不要なのかという議論になった」ものの(ノート:わが命つきるとも)、それからウィキペディアのルール解釈の食い違いなどがあり(出典となる「文献」とは紙媒体に記された文字情報に限定されるのか否か、云々)、議論の場を移しつつ、何ヶ月もかかって長々とした対話が繰り広げられたものの、結局平行線になり合意には至りませんでした。
- 「ちょっと調べれば簡単に出典が見つかる記述」というのは、先の例であれば「ノート:小林誠 (物理学者)」で議題になった、「2008年にノーベル物理学賞を受賞」といった、常識的に考えればすぐに真偽がはっきりしそうな(その記述だけでも出典を特定するのに十分な)内容を「出典不明の記述を削除」と称して除去したり、{{要出典}}をつけたりするような行為を想定しています。該当部分を反転表示して右クリックから検索すれば、事実かどうかを一瞬で検証できそうな記述については、真実ならせめてニュースサイトのURLをコピペして貼って、後で誰かが適切な形に整えてくれるのを待つなりする方法もありますし、虚偽であれば{{要出典}}を貼るのではなく除去すべきです。すぐに真偽を確認できる、あるいは真実だと分かっている内容は、「Wikipedia:検証可能性#方針」を理由に除去することに大義がないし、「他の編集者が何をやっているのかお互いに知る由も無いなかで、そのようなことが適切に判断できるはずもない」とは言えないと考えます。その辺りを明確に、というのが、このトピックの議題ではないでしょうか。
- 作品自体が出典であることが明らかなあらすじ、出典に基づいているもののinline citationでない記述は、実際には分けて考えられるべき問題ですが、これが「出典のない記述」と混同されている傾向は多く見られ、実際にこのトピックの上の方でも問題になっていますし、そういう意味では同根の問題だと思っています。--Kanohara(会話) 2017年1月16日 (月) 04:26 (UTC)
- 「事実である可能性が高いにもかかわらず、出典不明な記述」についてWikipedia:信頼できる情報源では、「常識」(common senseの訳語)の語を使って「あなたが真実であり常識であると信じている記述を、情報源がないという理由だけで除去しないでください。例えば、記述者が惑星の軌道は楕円になるという裏付けをしていないという理由だけで、「地球の楕円軌道」への言及を除去しないでください」と説明しています。ご提案の補足説明追加をすべきかの判断は保留しますが、もし追加するならばこの辺りの記述を参考にしてもよさそうです。また、現在の英語版の「信頼できる情報源」en:Wikipedia:Identifying reliable sourcesをみると、en:Wikipedia:What Ignore_all_rules means#Use_common_senseとあわせて考慮すべきといった記述があり、common senseの重要性が高まっているように思われます。なお「信頼できる情報源」文中のでcommon senseの訳語を「常識」としたのはたぶん私ですが、ニュアンスの違いがあるかもしれないと懸念しています。--j8takagi(会話) 2017年1月16日 (月) 09:37 (UTC)