Wikipedia‐ノート:検証可能性/Archive07
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Archive05(2007-10~)(打ち切り - 出典無き記述の除去 - 「存命人物の伝記」の問題とのすり替わり - 秀逸な記事への要出典タグ - 「出典不明示は削除」は万能な規定ではないことの確認) - Archive06(2007-12~) - Archive07(2008-08~) - Archive08(2008-12~) -
Archive09(2009-03~)(「『真実かどうか』ではなく『検証可能かどうか』」との文言に関して - 「利用者同士の合意によって覆されるものではない」との文言に関して) -
Archive10(2011-01~)(本方針を根拠とする記事の白紙化について - 存命人物の記事におけるGENREF方式の是非) - Archive11(2016-02~)<(無出典記述の扱いの説明について - 目撃・伝聞情報) - Archive12(2018-03~) (edit)
ゲーム内容の検証可能性について
[編集]ノート:メタルギアソリッド4にて、「映画や本は見たり読んだりすればその内容に100%行き着くが、ゲームは個々人の能力によって差があり100%辿り付けるわけではないから、ゲームをプレイしたことによって得られる情報は検証可能性を充たしていない」といった主旨にておっしゃられた方がいるのですが、これは充たしていない、記載すべきではない情報なのでしょうか?今回の件に限っていえば、普通にプレイしてエンディングまでたどり着けば必ず見る情報です。これについてネタバレを記載すべきかどうかで議論となっていたのですが、今回検証可能性を充たさないという方が現れました。他のゲーム記事でも同様のことが言えるかと思い、判例主義ではありませんが、一つの記事を基にされても困るため、しっかりと議論をした方がいいのではないかと感じ、こちらで問題提起させていただきました。個人的な感覚で意見をつければ、「本を読むのも映画を見るのも、ある一定数の人が辿り付けるあるいはたどり着けない」という事実は変わりないかと思います。外部リンクがデッドリンクになれば、(○年○月○日閲覧)としていても外さなければいけないのか?、出典が古書やローカルな書籍でで一般の方が閲覧できないようなものであればアウトなのか?(これは別の問題を孕んで、ややずれている気もしますが)といったように感じました。なお、ファンサイト的記述などといったものではなく、あくまでも検証可能性という観点での場合ですので、その点は注意いただいた上で、ご意見よろしくお願いします。--60.40.159.115 2008年8月14日 (木) 11:31 (UTC)
- 一点指摘します。問題提起の際には「中立的な提起」をされることを心がけるとよろしいかと。今回のテーマについて中立的な表記で述べ直します。「個々人で出典にたどり着けるか確証のないゲーム内容の記載は検証可能性を満たすか」と言うことです。「普通にプレイしてエンディングまでたどり着ければ必ず得られる」ので検証可能性を満たすか、それとも「エンディングまでたどり着くのは能力次第でもある」ため通常の手段で確実に得られる情報ではなく、出典としてふさわしくないか、皆様の意見を賜りたく存じます。--Springtide 2008年8月14日 (木) 12:29 (UTC)
- というか、この場で議論するよりWikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト コンピュータゲームの方がふさわしいと思います。--Springtide 2008年8月14日 (木) 12:37 (UTC)
- 何回も加筆して申し訳ありませんが、ウィキプロジェクトの方に改めて議論の場を設けさせていただきました。そちらで議論していただけると幸いです。--Springtide 2008年8月14日 (木) 12:45 (UTC)
- 論点を検証可能性のみに絞るのであれば、掲載しても別に黒ではないかなと思います(ただしそのエンディングとやらが客観的に示している内容に限ってであって、行間を少しでも読んだような記述は別ですが)。今回の場合、その情報を検証するには「ゲームをクリアする」スキルが必要になってくるわけですが、他のジャンルの記事に「専門的な知識や技術」などのスキルがないと検証が難しい記事だってなくはないわけですから。もちろん、手に入れやすい情報源を出典とした方がより良いとは思いますし、一次情報源の使用は避けるべきともされていますから、書籍などで同じ情報を扱うものがあればそちらを優先したほうが良いのでしょうけれど。また、それが本当に百科事典の解説に必要なネタばれであるかどうかはまた別の問題ですので、並行して考える必要があります。
- 議論場所ですが、プロジェクトでも悪くはないのですが、そのジャンルの記事に関わる方以外は議論に入りづらくなってしまうのがプロジェクトのネックなので今回のように特定の方針に焦点を絞る場合は方針ノートの方が幅広い意見が募れるかもしれませんよ。提案者さんがこちらを選んだのであれば無理して場所を移さなくてもよいかと思います。最後に総合的な観点から問題の決着をつけるときは向こうの方がいいかもしれませんが。--KM-0901 2008年8月14日 (木) 13:01 (UTC)
- (追記)と、言っている間に向こうに議論の用意がされているようなので、提案者さんのご判断にお任せしたいと思います。--KM-0901 2008年8月14日 (木) 13:03 (UTC)
- すみません、論点が「検証可能性」だけで済むのであればこの場で良かったのですが「他の論点=事実の暴露場所ではない」という論点も念頭にあり、ゲームについてであればポータルの方が良いかと思い場所を増やしてしまいました。説明不足並びに拙速な行動申し訳ありません。場所については提案者の回答を待ち、それに従う事とさせていただきます。--Springtide 2008年8月14日 (木) 18:02 (UTC)
(インデント戻します)私としては、コンピュータゲームに専門的に集まった人たちだけではなく、「検証可能性」に関心を持っていただいている方々による話の方が、包括的にも議論することができるため適しているのではないかと考えます。そのため、ウィキプロジェクトで提起されたSpringtideさんには申し訳ないですが、ここを主な議論場所として、ウィキプロジェクトはこちらに誘導する形にしていただけると幸いです。
なお、Springtideさんが指摘されました「個々人で出典にたどり着けるか確証のないゲーム内容の記載は検証可能性を満たすか」というものの説明を今一度詳しくお願いいたします。中立的な観点とおっしゃられましても、私の認識としては、私がここに問題提起した際の記述どおりです。--60.40.159.115 2008年8月14日 (木) 22:45 (UTC)
- ご存知または何処かで既出かも知れませんが、ビデオゲーム関連の検証可能性についてという過去ログがありますので紹介しておきます。- NEON 2008年8月14日 (木) 23:44 (UTC)
- ◆こんばんは。「ゲーム本編の内容が、そのゲーム記事において検証可能性を満たす出典と認められるか否か」というテーマと解釈して、ゲーム記事における先行事例を探してみました。まず発端が「MGS4の登場人物の項」ということでしたので、ゲーム記事の整備が進んでいる英語版で「MGSのキャラクター一覧(英語)」を確認しました。この記事は秀逸な一覧に選ばれていますが、ゲーム内の記述の引用をReferencesとして採用しています(太字のものです)。これはこのMGSの記事に限ったことではなく、秀逸な記事に選ばれている他のゲーム作品の記事『MGS3(英語)』『キングダムハーツ(英語)』などでも、やはりゲーム内記述の引用を出典として用いています。英語版と同じくゲーム記事が充実している仏語版の秀逸記事である『FFVII(仏語)』『FFタクティクス(仏語)』も同様でした。ざっと見て回った印象だと、ウィキペディアの中では、ゲーム記事で「ゲームそのものを検証可能性を満たす出典」として認める流れが主流なのかなとの感想を持ちました。--Giftlists 2008年8月15日 (金) 12:12 (UTC)
(報告)ここに記入すべきかどうか迷ったのですが、報告させていただきます。現在本家に帰省中のためこのIP(60.40.159.115)でしたが、自分の家に帰ると同一性に問題が生じるかと考え、アカウント作成をしました。私個人に連絡されることなどありましたら、作成したアカウントのほうにお願いします。議論もこちらで参加したいと思います。--Standclub 2008年8月16日 (土) 08:34 (UTC)
NEONさんが示してくださった過去ログの議論でY tambeさんが指摘されているように、ゲーム作品には「文学作品の要素と自然科学の対象そのものの要素の両方が存在している」と考えられるので、原則としては前者の要素については作品自身が出典になる余地があるが後者の要素では作品を出典にするのはよくない、ということでいいんじゃないでしょうか。ただ、小説や映画などの記事で本やDVDを直接出典とする場合と比べ、(文学的側面だったとしても)ゲームの記事で作品そのものを出典とする場合、
- 検証するのに特別な技能や膨大な練習量が要求される可能性がある
- 再現性があると断言はできない(Wikipedia‐ノート:検証可能性/Archive03でDwyさんが指摘されているように、主人公の登録名・日付や時間・それまでのストーリーの分岐など、思いもよらない条件で異なる検証結果を生むことになるかもしれない)
- 目的の情報が、情報源の中のどの位置にあるか特定しにくい(本でいうところのページ数、CD・DVDでいうところのトラック数に相当するようなものを簡潔に指定しにくい)
というような難点もあるので、なるべく作品そのものではないような情報源を使ったほうが文句はいわれにくいと思います。--貿易風 2008年8月18日 (月) 14:11 (UTC)
- ちょっと話の内容とずれるかもしれませんが、ある程度有名なゲームなら『攻略本』という情報源があるはずなので、それを使えばいいんじゃないかな・・・と。攻略本でさえ明らかに出来ないような情報なら、指摘されている「検証されるのに特別な技能や膨大な時間が必要」だと判断してもいいんじゃないでしょうか。--青子守歌(会話/履歴) 2008年8月18日 (月) 14:44 (UTC)
- こんばんは。ゲームプロジェクトの「ストーリー上のネタバレについて」を先に見てそこから誘導されてきたせいか、今回の話題は貿易風さんの仰るところの「文学作品の要素」に絞ってのものと勘違いしておりました。先の先行事例の確認も所謂ゲーム内のテキストデータ(文学作品要素)に特化して確認したものです。英語版、仏語版等のゲーム内記述の引用も、(私が確認した限りでは)テキストデータ由来のものです(粗い確認ですが、おそらく強制的に見るイベントテキストからが多いような印象です)。ですので「自然科学の要素」というのでしょうかを加えての判断ならば、前者は可、後者は書籍等の二次資料があったほうが望ましいという貿易風さん他のお考えに賛成です。また、前者の場合の出典の示し方については、貿易風さんが挙げていらっしゃるような点を改善するためには、出典表示として、
- 英語版等のように出典となる発言者、台詞の内容を引用する
- (適切な引用要件を満たさない可能性がある場合は)出典となるテキストが見られる状況(第3章冒頭イベントムービーでの主人公の発言等)を記載する
- のが望ましいのかなと思います。昔の無理ゲー時代と違って今のゲームは、標準的な購入対象年齢のプレイヤーであれば、基本はエンディングへ到達できるような設計になっていますので、Standclubさんが今回テーマに挙げていらっしゃる「普通にプレイしてエンディングまでたどり着けば必ず見る情報」ならば、この記述で充足するかと思います(個人的には、エンディングに関するような内容は登場人物の項ではなく、英語版等のようにストーリーの節で記入していただく形式の方が読む側にとってはわかりやすいと思いますが)。また、とてつもなく難条件をクリアしないと見られないような超特殊なイベントの場合は、青子守歌さんが仰るように攻略本に何らかの記載があるでしょうから、そちらから記載すればいいのかなと思います。・・・・・・今はそういう難ゲーは滅多に見かけなくなりましたが。--Giftlists 2008年8月18日 (月) 15:37 (UTC)
- FF10では未だにラスボスを倒せないRPG初心者の私なので、ゲームによっては「普通にプレイしていてもエンディングに行けない」ことはあると思いますが、まぁそれはおいといて。そのエンディングに関しての解説が、その作品記事において必要不可欠ならいいのではないでしょうか。攻略本が出ている場合は、難しいとはいえないと思うので、尚いいかと。--春日椿 2008年8月18日 (月) 17:22 (UTC)
- 過去ログにざっとですが目を通させていただきました。僕も「文学作品の要素と自然科学の対象そのものの要素の両方が存在している」という考えには同感で、問題となったのが「普通にプレイしていれば見ることができる情報」ということで、前回のコメントは前者を想定しております。あとはその他の方針も考えて本当に必要なのかどうかをしっかり議論していただければよいのではないかと思います。--KM-0901 2008年8月18日 (月) 23:52 (UTC)
- とりあえず、バイオハザードなんかでは「解体新書」なる攻略本があり、これにはエンディングから裏アイテムから何から書いてあるんですよね。そういうものがあるならば出典としては全く問題がなくなるものと考えます。というか、攻略本のような二次出典も待てば出るのでしょうし、慌ててネタバレ記載することもないと考えています。--Springtide 2008年8月20日 (水) 03:12 (UTC)
- 過去ログにざっとですが目を通させていただきました。僕も「文学作品の要素と自然科学の対象そのものの要素の両方が存在している」という考えには同感で、問題となったのが「普通にプレイしていれば見ることができる情報」ということで、前回のコメントは前者を想定しております。あとはその他の方針も考えて本当に必要なのかどうかをしっかり議論していただければよいのではないかと思います。--KM-0901 2008年8月18日 (月) 23:52 (UTC)
- FF10では未だにラスボスを倒せないRPG初心者の私なので、ゲームによっては「普通にプレイしていてもエンディングに行けない」ことはあると思いますが、まぁそれはおいといて。そのエンディングに関しての解説が、その作品記事において必要不可欠ならいいのではないでしょうか。攻略本が出ている場合は、難しいとはいえないと思うので、尚いいかと。--春日椿 2008年8月18日 (月) 17:22 (UTC)
- こんばんは。ゲームプロジェクトの「ストーリー上のネタバレについて」を先に見てそこから誘導されてきたせいか、今回の話題は貿易風さんの仰るところの「文学作品の要素」に絞ってのものと勘違いしておりました。先の先行事例の確認も所謂ゲーム内のテキストデータ(文学作品要素)に特化して確認したものです。英語版、仏語版等のゲーム内記述の引用も、(私が確認した限りでは)テキストデータ由来のものです(粗い確認ですが、おそらく強制的に見るイベントテキストからが多いような印象です)。ですので「自然科学の要素」というのでしょうかを加えての判断ならば、前者は可、後者は書籍等の二次資料があったほうが望ましいという貿易風さん他のお考えに賛成です。また、前者の場合の出典の示し方については、貿易風さんが挙げていらっしゃるような点を改善するためには、出典表示として、
(インデント戻します)結局のところ、私としてはSpringtideさんのおっしゃられた、言ってしまえば「極論」を否定(語弊はありますが)できればいいと考えています。近年の作品なら攻略本といった資料もありますが、過去のものなどを含めるとそうでない場合もあります。そんな中、全く記述できない自体となってしまえば、wikipediaの記事の発展に大きな支障となるかと思います。逆に、サブカルチャー分野によくあるローカルルールの採用でガチガチに決めるのも、個人的にどうかと思いますので、そういった自体に陥らないようにするために今回の提起(確認)を行ったという部分があります。と、やや別の話も混ぜてしまいましたが、皆様がおっしゃられた意見から勝手に感じているのですが、全体の論調としては間違ってないですよね?--Standclub 2008年8月24日 (日) 13:34 (UTC)
- 他者の意見を「極論」呼ばわりしている時点で「いい落としどころを探そう」という議論を進めたい、と考える方向性が感じられません。こちらは落としどころを出していますので、もう一度考えてみてください。少なくとも議論の場所を広げたり過去のものまで掘り下げようと論理展開してきたのはStandclubさんだけですし、全体の論調としては間違ってないですよね?の部分に一切肯定論が出ていないことも留意したらどうでしょう(だからといって否定された、と断ずるつもりもございませんので、「極論」と考えないように…。)?--Springtide 2008年8月29日 (金) 12:07 (UTC)
- いや…表現が気に障ったのでしたら詫びるしかありません、申し訳ありません。語弊は免罪符ではないとは言え、失礼致しました。ただ、肯定が出ないは否定が出ないともとれますし、それはSpringtideさんの考え方の問題かと思われます。とりあえずは、「こちらは落とし所を出していますので」というのをもう少ししっかりと明示していただけますか?あなたの落とし所がどうしたって話にもなりますし(逆にいえば、私が勝手に落とし所として出したのは確かに間違っているのかもしれませんが)。しかし、なんか…間違った方向に進みそうですね…。おかしい…。
--125.207.20.67 2008年8月29日 (金) 13:06 (UTC)--Standclub 2008年8月29日 (金) 13:07 (UTC)- ん? 展開が良く分からなくなりました。「ゲームそのものは情報源として使える場合とそうでない場合があるが、できるだけ攻略本など二次情報源を使ったほうがより望ましい。今回の議論の対象は『普通にプレイすれば確認できる内容』なので検証可能性の一般論として少なくとも黒ではない。また、百科事典の解説として必要かどうかは別途検討の必要あり」という見解で特に対立はなかったように思いますが、どこでもめてるんでしょうか? それからここでいう「極論」というのはどういう内容のことを指しているのか分かりづらいのですが(ページ内検索までかけましたが「極論ですが」的なくだりがなかった)どれのことでしょうか?--KM-0901 2008年8月29日 (金) 13:10 (UTC)
- コメントありがとうございます。私もおっしゃられている見解で問題ないと思っていたのですが、やはり表現が悪かったかと反省しております。「極論」と表現させていただいたのは、ノート:メタルギアソリッド4でもありました「ゲームそのものでは検証可能性を満たさない」といったものです。ここで私の認識違いが生じていたのであれば、平謝りをするしかない状態です。あげていただいた見解で問題ないとなれば、私自身としてはこの議論をクローズしていただくので全く問題はありません。--Standclub 2008年8月29日 (金) 13:20 (UTC)
- こんばんは。私個人について言えば、Standclubさんが今回こちらで意見を募った意図について2008年8月24日 (日) 13:34 (UTC)で書かれたようなものだと推測しそれに沿って回答したつもりです。「極論」という表現が適切かどうかは意見がわかれるところかと思いますが。「ゲームは検証可能性を満たすので何でも書ける」と「ゲームは検証可能性を満たさないので何一つ書いてはいけない」が、個人的には両端に位置する意見なのかなと思います。英語版のように「基本は書籍等を優先的に出典として用い、必要に応じてゲーム内の情報を出典として用いる形」が私の理想とする落とし所でしょうか。--Giftlists 2008年8月29日 (金) 15:21 (UTC)
- KM-0901さんの述べていらっしゃる見解で下名も議論を進めてきた認識でおります。落としどころの意見としては、Giftlists さんと基本的に同じであり、「まず、書籍等を出典として考えてみたらどうか」というところなのです。--Springtide 2008年8月30日 (土) 11:32 (UTC)
- こんばんは。私個人について言えば、Standclubさんが今回こちらで意見を募った意図について2008年8月24日 (日) 13:34 (UTC)で書かれたようなものだと推測しそれに沿って回答したつもりです。「極論」という表現が適切かどうかは意見がわかれるところかと思いますが。「ゲームは検証可能性を満たすので何でも書ける」と「ゲームは検証可能性を満たさないので何一つ書いてはいけない」が、個人的には両端に位置する意見なのかなと思います。英語版のように「基本は書籍等を優先的に出典として用い、必要に応じてゲーム内の情報を出典として用いる形」が私の理想とする落とし所でしょうか。--Giftlists 2008年8月29日 (金) 15:21 (UTC)
- コメントありがとうございます。私もおっしゃられている見解で問題ないと思っていたのですが、やはり表現が悪かったかと反省しております。「極論」と表現させていただいたのは、ノート:メタルギアソリッド4でもありました「ゲームそのものでは検証可能性を満たさない」といったものです。ここで私の認識違いが生じていたのであれば、平謝りをするしかない状態です。あげていただいた見解で問題ないとなれば、私自身としてはこの議論をクローズしていただくので全く問題はありません。--Standclub 2008年8月29日 (金) 13:20 (UTC)
- ん? 展開が良く分からなくなりました。「ゲームそのものは情報源として使える場合とそうでない場合があるが、できるだけ攻略本など二次情報源を使ったほうがより望ましい。今回の議論の対象は『普通にプレイすれば確認できる内容』なので検証可能性の一般論として少なくとも黒ではない。また、百科事典の解説として必要かどうかは別途検討の必要あり」という見解で特に対立はなかったように思いますが、どこでもめてるんでしょうか? それからここでいう「極論」というのはどういう内容のことを指しているのか分かりづらいのですが(ページ内検索までかけましたが「極論ですが」的なくだりがなかった)どれのことでしょうか?--KM-0901 2008年8月29日 (金) 13:10 (UTC)
- いや…表現が気に障ったのでしたら詫びるしかありません、申し訳ありません。語弊は免罪符ではないとは言え、失礼致しました。ただ、肯定が出ないは否定が出ないともとれますし、それはSpringtideさんの考え方の問題かと思われます。とりあえずは、「こちらは落とし所を出していますので」というのをもう少ししっかりと明示していただけますか?あなたの落とし所がどうしたって話にもなりますし(逆にいえば、私が勝手に落とし所として出したのは確かに間違っているのかもしれませんが)。しかし、なんか…間違った方向に進みそうですね…。おかしい…。
(インデント戻し)そういうことならその通りであると思います。情報源の質というのは0か1かの二択で簡単に測れるものではりませんが、できるだけ1に近い方を探す努力をおしまない姿勢が大切であると思います。個々の記事の編集(または議論)の参加者の方全員がそれ以上良い情報源を知らず、かつ記事として必要だと考えられる記述があった場合には、多少0寄りの出典でも全くないよりはマシだろうという趣旨ですので。ではこちらでの議論はStandclubさんの仰る通りクローズでよいのではないかと思います。個々の記事の問題に特化した議論にはより適切な場所があるでしょうし、記述の要不要は他の方針との兼ね合いも結構ミソだったりしますから。--KM-0901 2008年8月30日 (土) 15:54 (UTC)
事実でも出典がなければ削除されると言う現実
[編集]あまり言いたくないのですが事実でも出典がなければ削除されると言う現実があります。特に男性差別の記事がそれに該当します。さすがに出典なしの記述はまずいですが、ある程度信頼出来る記述であれば削除されないと言うルールが必要だと思います。--クスクス 2008年9月1日 (月) 11:31 (UTC)
- 出典がない記述を「事実」あるいは「信頼できる」と判断することを、基本的には許容しないというのがこの方針で、「この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません」というものなのですから、そのような変更は難しいと思います…。--Ks aka 98 2008年9月1日 (月) 11:42 (UTC)
- どうもありがとうございます。確かにWikipedia:検証可能性と言うルールを変更する事は難しいと思います。--クスクス 2008年9月1日 (月) 12:08 (UTC)
Wikipedia:ページの編集は大胆にとリンクされていないようなのでこれも但し書きに書くべきでしょう。Wikipedia:独自研究は載せないにも同じ事が言えます。--クスクス 2008年9月1日 (月) 12:31 (UTC)
- Ks aka 98さんも言われてますが、「検証可能性を満たさない情報は載せない」(≒出典のない情報は事実でない)というのがウィキペディアの基本方針です(誰も検証できないのに何故それが事実だと分かるんでしょう?)。これに文句があるなら外部で自分でウェブサイトを運営するとかブログ書くとか、他の百科事典ウィキプロジェクトに移ったほうが懸命だと思いますよ。--青子守歌(会話/履歴) 2008年9月1日 (月) 13:25 (UTC)
- えーと。既に、指摘されている通り「検証可能性」はイチ/ゼロで決められるモンダイではなくて、グラデュエーションのある概念です。そして、ゲーム機とソフトという「ブツ」よりは、書籍の方が検証可能性は勝るだろうということは誰しも合意できるのではないかと思います。ただ、書籍によって検証可能性が満たせない場合の扱いとして、とりあえずゲーム機自体とソフトという「ブツ」で検証されているとコミュニティー内で合意しておこう、というのはアリなのではないでしょうか?もちろん書籍によって検証可能な状態になったのなら、出典を書き換えていただくことになるし、将来ソフトの入手が困難になりアーカイブにも保存されていないだとか、そのゲーム機種自体が世の中からほとんど消えてしまえば、その時点で書籍出典なき記述の検証可能性は消え失せてしまったということで削除されるのではないかと思います。ゲーム関係の執筆者は、おそらくそんな遠い将来のことを考えずに「ブツ」に基づいて執筆していらっしゃるのでしょうが、そういう事態を認識していただいて書籍による出典を出すよう奨励しておくしかないのではないかと思いますけれども。--おーた 2008年9月1日 (月) 14:04 (UTC)
- 「事実」だとおもっている(妄信している)のは「あなただけですよ!」という批判に反論するために検証可能性が重要です。--ネコバット 2008年9月1日 (月) 14:11 (UTC)
- もちろん、そのようなもっともな批判が出た時点で、検証可能な出典に基づいて反論するというのがルールであります。そのことに異議を挟もうとは思いません。--おーた 2008年9月1日 (月) 15:08 (UTC)
- 一つ上のトピック(ゲーム内容の検証可能性について)と混同していませんでしょうか。- NEON 2008年9月1日 (月) 15:16 (UTC)
- 申し訳ないです。9月1日付けのクスクス氏の発言が、前節の話題を引きずっているように見えましたので、私も引きずってしまいました。で、男性差別に関して言うと、この項目はイデオロギー的な問題が絡んでいますから、立場の異なる編集者が編集に参加してくれば「ある程度信頼できる記述」はそう簡単には合意できないでしょうね。当然、検証可能性の高い文献を使って、信頼性・中立性をかなり厳密に吟味しながら合意していく必要があると思います。--おーた 2008年9月2日 (火) 15:03 (UTC)
- 返事が遅れて申し訳ございません。確かに検証可能性を満たした文献が必要だと思います。どうもありがとうございました。--クスクス 2008年9月4日 (木) 11:01 (UTC)
- 申し訳ないです。9月1日付けのクスクス氏の発言が、前節の話題を引きずっているように見えましたので、私も引きずってしまいました。で、男性差別に関して言うと、この項目はイデオロギー的な問題が絡んでいますから、立場の異なる編集者が編集に参加してくれば「ある程度信頼できる記述」はそう簡単には合意できないでしょうね。当然、検証可能性の高い文献を使って、信頼性・中立性をかなり厳密に吟味しながら合意していく必要があると思います。--おーた 2008年9月2日 (火) 15:03 (UTC)
- 一つ上のトピック(ゲーム内容の検証可能性について)と混同していませんでしょうか。- NEON 2008年9月1日 (月) 15:16 (UTC)
- もちろん、そのようなもっともな批判が出た時点で、検証可能な出典に基づいて反論するというのがルールであります。そのことに異議を挟もうとは思いません。--おーた 2008年9月1日 (月) 15:08 (UTC)
Wikipedia:検証可能性はウィキペディアにとって根本的なものなので、そうそう変えるわけにはいかないのではと思われます。また、男性差別の編集に積極的に携わっている、というより、これを専門にしている一人として言わせていただきますと、この事象はすでに信頼できる国内・国外の出版物で幾度も取り上げられており、Wikipedia:検証可能性が桎梏となって加筆できないということはないかと思われます。無論、男性差別以外の記事に目を向ければ、また話も違ってくるでしょうが。で、このままいつまでも続けても、「私も検証可能性は~だと思います」、「私も○○さんに同意です」と当たり前の話が繰り返されるだけで、何か斬新な発想が出てくるとも思えないので、あとはクスクスさんに以上の事柄を確認していただいて、この辺りで議論終了ということで宜しいでしょうか、皆様。--白文鳥 2008年9月1日 (月) 15:05 (UTC)
- 白文鳥さんありがとうございます。確かにWikipedia:検証可能性と言うルールは改訂する必要はないですね。どうもすみませんでした。僕の方もこの議論については終了したいと思います。皆様はどうでしょうか。--クスクス 2008年9月2日 (火) 10:11 (UTC)
著名なジャーナリストの定義
[編集]署名記事を発表したことがあるジャーナリストなら、なにがしかの人間に名前を知られているものだが、あえて「著名な」ジャーナリストと表現したのは、単にジャーナリストであるだけでは、そのジャーナリストのブログは「自主公表した情報源」の例外にはならないということである。著名なジャーナリストと著名でないジャーナリストの境界はどこにあるか。--Brackcandy 2008年9月26日 (金) 23:51 (UTC)
- まー、そのジャーナリストの著作でその分野の本が出版されているかどうかというのは一つの目安となるでしょうね。もっとも、著作はあっても信頼性・中立性に疑問のあるジャーナリストってのもいますから著作があれば良いってものじゃないとは思いますけどね。たとえば勝谷誠彦さんのブログを出典にするのは、私は止めた方が良いと思います。--おーた 2008年9月27日 (土) 07:07 (UTC)
- おーたさんの個人的な意見は良くわかりました。で、Wikipediaとしては勝谷誠彦さんのブログを出典とすることは可能なんですかダメなんですか?その他のジャーナリストの評価は誰がどこで決めてくれるんですか?Brackcandyさんの提起に私も非常に興味があります。ところで私も、勝谷誠彦さんのブログを出典にするのは、止めた方が良いと思います。58.89.31.55 2009年3月29日 (日) 17:48 (UTC)
「テレビで観た」は信頼性に乏しい情報源か
[編集]翻訳元になった記事に記載されていない補足である(TVで観た)を削除しました。英語版の当該各項をみても、名指しで「TVは信頼性に乏しい情報源だ」という定義もありませんし、読んだ者に予断を与える上に不正確であり、この追記をした利用者個人の主義が「TVは情報源から排除せねばならない」という明らかな作為性も散見されますので、行き過ぎをただす意味でも消去させていただきます。もし仮に戻されるなら、論拠をお示しください。 なお、英語版でテレビやラジオも情報源たり得ると明記されている項を記します。en:Wikipedia:Notability--Dreammagic 2008年10月5日 (日) 08:05 (UTC)
- 当該部分の削除についてはDreammagic氏と同意見ですが、確かにTVで見たというだけでは検証可能性があるとは思えません。記事を書く動機としてTVは構わないが、別ソースで裏づけする必要があるという点を何らかの形で記載したいですね。--220.159.218.69 2008年10月6日 (月) 00:32 (UTC)
- 削除に関しての合意がないため、いったん戻させて頂きます。もし、追記部分が「合意なく記述された」ものであるならば、その履歴などを示してから削除されるのが妥当かと思います。尚この議論に関して告知をしました。
- この件に関しては先行議論もありますので、そちらも参考にされたらいいと思います。--春日椿 2008年10月6日 (月) 02:21 (UTC)
- この編集が、(「TVで観た」等)という記述がなされた初めての版です。
該当する期間のノートは2007-05-25までの議論です。
ごらんの通り、(「TVで観た」等)という追記は、合意はおろか、ノートでの告知もなしに行われています。
ちなみに、すでに版が進み、日本語版のたたき台となった文章から内容は変わっていますが、英語版の該当箇所はこちらになります。
ごらんになっておわかりの通り、どこにも、テレビが事実確認の機能に欠けるなどという認識は示されておりません。
Wikipedia:検証可能性という項目は、Wikipediaを編集するに当たって、もっとも基本になる理念が示されている場所です。そこに、いち利用者個人のポリシーのみを原動力とした意図が入り込むのは、そして、それを看過するのは、Wikipediaの理念自体の説得力を失わせる行動に他なりません。
速やかにこの記述を削除し、改めてこのような内容の記述をすべきかどうか話し合い、仮に、やはりテレビには事実確認の機能はないと判断されたら、改めて記載すればよいと思います。--Dreammagic 2008年10月6日 (月) 09:06 (UTC)- >もし、追記部分が「合意なく記述された」ものであるならば、その履歴などを示してから削除されるのが妥当かと思います。
春日椿さんの要求された検証を満たしたと考え、改めて(TVで観た等)の記述を削除いたします。
余談ですが、(TVで観た等)という表現はとても作為的です。(学会誌で観た、新聞で観た)であっても、全く同じように情報の検証可能性はひどく曖昧です。--Dreammagic 2008年10月7日 (火) 16:16 (UTC)
- >もし、追記部分が「合意なく記述された」ものであるならば、その履歴などを示してから削除されるのが妥当かと思います。
- この編集が、(「TVで観た」等)という記述がなされた初めての版です。
- もちろん「学会誌で観た、新聞で観た」レベルではダメでしょうが、出版物の場合には、「○○学会誌××号「□□」」(ページ数があった方が直親切)とか「△△新聞XX年XX月XX日」とかまで特定できれば、あとは検証が比較的容易です。書店で取り寄せたり、図書館などで閲覧できるでしょうし、日本の出版物であれば、仮に絶版になっていても、最悪でも国立国会図書館には所蔵されていますから。
- 一方、放送の場合は、アーカイブやパッケージ化されていなければ、あとで確認しようとしてもできず、事実確認の機能を欠いてしまうと言う違いがありますね。もののついでにノート:乃木坂春香の秘密#他作品との関連の件ですが、その辺りのことについて電話取材を行いましたが、原則不可とのことで、Dreammagicさんの主張とは異なっていました。なお、この取材結果もウィキペディアの記事として書けば検証可能性は満たせないことになってしまいます。
- あと、英語版Wikipediaの件ですが、以前はen:Wikipedia:No original researchの方で、一次資料としてtelevision programs (whether recoded in digital or analogue formats)と「(デジタル形式であろうがアナログ形式であろうが記録されている)」という補足が行われていましたが、記述の大幅変更(23 October 2006)の際に単にtelevision programsとしたようです。日本とは放送事情は異なっており、米国ではCATVでVODが発達しているようですし、You Tubeなどでテレビ番組の配信サービスが確立していたり、またfair useと言う概念の範囲でWebサイトなどで使用可能ですから、ずっと容易にアクセスできるようで、テレビ番組もOKとなったように思います(それ以前に{{fact}}タグが付加される→配信サービスのリンクが提示されると言うケースを何度か見かけましたので)--Mujaki 2008年10月10日 (金) 20:37 (UTC)
現状のものは、「○○で見た(気がする)」という意味とすれば限定的ではないように思います。除去ではなく修正するべきかと。ただ、テレビは何らかの査読機関を通している情報源ではないこと(これは新聞も同じようなものですが)、映像という手段で発表されているため動作や話している言葉に解釈がより必要ということから、TV放送自体を「信頼できる情報源として良いか」は微妙なところだと思います。--春日椿 2008年10月8日 (水) 02:00 (UTC)
- 除去ではなく修正とする意見に賛成します。それから、テレビという情報源は信頼できる情報源としては弱いということはやはり、強調しておいてよい点かと思います。さらに付け加えると、近い将来にTV放送番組はアーカイブ化されていくのでしょうけれども、現時点ではその手前の状態ですから検証可能性という点でも弱いと言ってよろしいのではないでしょうか。--おーた 2008年10月8日 (水) 15:11 (UTC)
- 「○○で見た」でも良いのですが、具体例を挙げた方がわかりやすいのではないかと思います。典型例はテレビ放送で、次いでラジオ放送でしょうか。--Mujaki 2008年10月10日 (金) 20:37 (UTC)
作品記事について
[編集]サブカルチャー系の議論(アニメ・漫画・一部の小説など)において、よく「これらに関しては本編は1次情報源である」というご意見をよくみます。そういうように扱うということで、コンセンサスが得られているということなのですが、プロジェクトや方針などのノートを見ても、その合意がされたというものが、どこでされた議論の結果なのかがわかりません。具体的にご存知の方がいれば、それを教えていただきたいのですが。
そのような具体的な合意がされていた場合なのですが、私は今の方針を何度読んでも、『サブカル系に限り、主題の作品そのものを一次情報源・信頼できる情報として扱って良いとする』という根拠がわからないのです。暗黙の了解のようにするのではなく、その旨(実際にどのような部分が扱って良い情報なのか、など)を明文化する必要があると思うのですが、いかがでしょうか。--春日椿 2008年10月6日 (月) 02:37 (UTC)
- Wikipedia:独自研究は載せない#資料の「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説なら、一次資料に基づいていてもよい」というところじゃないでしょうか。サブカルチャーに限ったことではないと思います。--貿易風 2008年10月6日 (月) 13:26 (UTC)
- そのくだりは「一次資料に基づいてもよい」であって、「記述対象自体を一次資料と看做せるかどうか」とは別問題ではないでしょうか。- NEON 2008年10月6日 (月) 13:48 (UTC)
- 私の言いたかったことはNEON氏のコメントどおりです。上でのゲームの内容に関する議論でも出ていたのですが、それを見ると「普通の記事では、記事の主題そのものはいわゆる0次情報となるため、そのものを出典として記述することはできない」が、「サブカル系においては記事の主題である本編は1次情報源となる」という考え方が、多くの方の基本認識のようなのですが、その根拠がわからないのでお聞きしたいと考えています。括弧内はWP:NORで解決できるのかもしれませんが、ある程度はわかりやすくした方がいいのではないかと考えています。--春日椿 2008年10月6日 (月) 14:52 (UTC)
- (インデント戻し)こんばんは。小説をサブカルチャーと言われてしまうと、何かすごく抵抗感があるのですが。資料にもあるように、文学の研究では、小説などの対象作品そのものは一次資料(一次情報)として扱っています。おそらくそうしたメインカルチャーでのやり方を、サブカルチャーの方でも流用しているのではないでしょうか。私もそうです。--Giftlists 2008年10月6日 (月) 15:14 (UTC)
- 小説をサブカルチャーとしてひとくくりに考えているということではなく、括弧内は今回話題にしたいものの例示という意味であり、あえて「系」とつけたのです。今回はどの程度をということでもあって、その双方の共通していえること、ということで話をさせていただきたいと考えていました。また、小説と一概にいっても中にはサブカルチャーに相当するものもあるだろう、という風には考えております。--春日椿 2008年10月8日 (水) 02:00 (UTC)
- (編集競合しましたが気にせず)「普通の記事では0次」と言うのは語弊があるというか。例えば、文学作品や映画などのように、サブカルチャーではない、いわゆる人文学系の「メインカルチャー」についての記事……例えば、シェイクスピアの作品についての記事を考えてみて下さい。その文学作品についての評価などについては、その作品の研究者などがまとめた二次情報源を用いるのが妥当ですが、この記事に「あらすじ」を記載するときには、そういう二次情報源を出典とするのはおかしい。あらすじなどを書く場合、その出典はその文学作品(この分野における1次情報源)そのものでなければ、まともな「出典の書き方」をした文章だとは言えないのです。ここらへんが、分野によって「一次」の扱いに違いがある部分というか。
- 春日椿さんは、「サブカルチャー」というものとしてアニメ・漫画と並べて小説を挙げておられますが、そもそも「小説」はサブカルチャーと呼ぶには語弊があるんじゃないと…何か「サブカルチャー」の特徴と、そういった文学作品的な要素を持つ(作品自体が一次情報源として扱われる分野)を混同してるような気がします。サブカルチャーのサブカルチャーたる所以は、一次情報源がどうなのかということではなくて、むしろそれを題材として扱う「定評のある」二次情報源が確立されてない(言い換えると体系化された学問としての「○○学」というものが未成熟)ということにあります。このような「定評のある二次情報源の欠如」という背景があるからこそ、メインカルチャー分野ほどには定評があるとは見なせない情報源であっても、「ないよりはまし」という判断に基づいて、それを用いることに対する理解と寛容を示すべき余地があるわけです。……まぁ、一部にはそういう状況に胡座をかいて、「いい加減なことを出典なしで書いてもオッケー」と考えているような執筆者がいるのも事実でしょうが、そういった人たちと「定評ある資料はないけど、無いなりに、その中で最も信頼性が高いと考えられる資料」を提示する執筆者とは、きちんと区別する必要があります。サブカルチャー系の記事は書くのが難しいし、問題を抱えた記事が多い傾向にあるとは思いますが、こういった「何がサブカルチャー記事の問題点なのか」については、問題点をきちんと切り分けて考えておく必要があるかと。--Y tambe 2008年10月6日 (月) 15:36 (UTC)
- (インデント戻し)こんばんは。小説をサブカルチャーと言われてしまうと、何かすごく抵抗感があるのですが。資料にもあるように、文学の研究では、小説などの対象作品そのものは一次資料(一次情報)として扱っています。おそらくそうしたメインカルチャーでのやり方を、サブカルチャーの方でも流用しているのではないでしょうか。私もそうです。--Giftlists 2008年10月6日 (月) 15:14 (UTC)
- 私の言いたかったことはNEON氏のコメントどおりです。上でのゲームの内容に関する議論でも出ていたのですが、それを見ると「普通の記事では、記事の主題そのものはいわゆる0次情報となるため、そのものを出典として記述することはできない」が、「サブカル系においては記事の主題である本編は1次情報源となる」という考え方が、多くの方の基本認識のようなのですが、その根拠がわからないのでお聞きしたいと考えています。括弧内はWP:NORで解決できるのかもしれませんが、ある程度はわかりやすくした方がいいのではないかと考えています。--春日椿 2008年10月6日 (月) 14:52 (UTC)
- そのくだりは「一次資料に基づいてもよい」であって、「記述対象自体を一次資料と看做せるかどうか」とは別問題ではないでしょうか。- NEON 2008年10月6日 (月) 13:48 (UTC)
ええと、サブカルかどうか、というのは、第一義的には関係なく、作品記事かどうかというところで分かれるのだと思います。作品そのものについての記述について、作品それ自体を情報源としてよいか、という問題設定が、比較的わかりやすいと思います。ただし、ゲームやテレビ番組の再現可能性とか、流通している作品が少ないような事例は、ひとまず考えないことにしましょう。
まず、作品それ自体から得られる情報は、その作品それ自体を情報源とすることができます。
- 作品それ自体は、もっとも信頼できる情報のひとつですが、誰もがその情報を得られるような場合ではなく、解釈が分かれるようなものであれば、その解釈の妥当性を保証する別の情報源が必要になります。
- 作品自体の位置づけや、書かれていることを理解するために特別な知識などが必要となる場合は、あなたがどこかでその補助的な知識を得ているはずですから、それらを明示することが望ましいでしょう。
- 作品自体から得たつもりの知識でも、いくらか思い込みが伴う危険性もあります。警官の制服を着ているからといって、その登場人物が警官とか限らない、みたいなことはありえますし、ちょっとした違和感や謎が物語を牽引したり、ミスリードしておいて意外性を高めるというようなことは物語一般に行われると思います。連載中の作品などでは、そこらの読解・記述に配慮は必要だと思います。
たとえば、3回死んだらゲームオーバーとか、こういう場面でヒロインが死んだとかといったことを書くならば、作品自体を情報源とできますが、このストーリーはなんとかの神話をモチーフにしているとか、転機となった重要な作品であるとかと書くことは、作品自体からはできない。百科事典の記事としては、登場人物や筋書き、書誌情報などの基本的な情報に加えて、その分野の歴史や作家の経歴の中での位置づけや評価・影響などが求められますが、そうしたところは、作品自体から書くのは難しいです。
いわゆるサブカル系の記事で特徴的なのは、近年に創作・発表されているために、作品そのものが比較的入手が容易であり、異なる版が存在することが少ないということがあると思います。聖書や源氏物語だと、残された写本の実物を見るのすら困難で、というのとは違う(もっとも、雑誌初出時と単行本化されたときや、ゲームも移植によって変わってくるところはあるでしょう)。他方、その作品についての研究や言及のある資料が少なく(とはいえ、学会のある分野もありますし、音楽やゲームであれば雑誌のレビューなどもあります)、整理されていないために、作品それ自体を情報源として書ける範囲から、広げていく事が難しいという状況が生まれやすい。結果として、検証可能性を満たして書けるものは作品そのものから書けることだけになってしまっている、そこから広げようとすると検証可能性を満たせず、独自研究になってしまい、議論が転化していく(要出典タグを貼る行為についてとか、執筆意欲とか、ゲームやテレビの再現性とか)、というのが現状ではないかと思います。
で、サブカル系の記事を、ウィキペディアで書くのはすごく難しいと思うんです。例外的に緩くすると、これさえ満たせば大丈夫みたいな受け取られ方をされそうな危惧もあり、他分野同様の水準を求めると敷居が高くなりすぎる、または執筆意欲や状況を無視して執筆者に要求するだけの人とかも出てくるでしょうし。なので、各分野のサブカル系執筆者がそれぞれに自らを律して、頑張っていただくというのが、現状ではいいのかなあ、と思っています。--Ks aka 98 2008年10月6日 (月) 16:45 (UTC)
- ではこれらはまとめて本編を「信頼できる情報源から発表された一次資料」として扱って良いということなのですね。内容に関しては、現状では各記事でも議論がされていると思いますが、プロジェクトは合意は尊重すべきと考えますが、冠している通り強制力のないものですから、こういったところで何らかのラインを決めた方がいいとは思うのですが。--春日椿 2008年10月8日 (水) 02:00 (UTC)
- そういった内容については、現在草案の段階であるWikipedia:信頼できる情報源の分野ごとのアドバイスに書かれるべきことであって、その言わば「総論」に当たる「検証可能性」で細かく規定するべき性質のものではないです。まぁ、向こうも現時点では強制力のない草案ですし、公式化しても「方針」ではなく「ガイドライン」ですが、「強制力を持たせたい」なんて都合だけで、上位の方針文書の方を変えようとされるのは、何と言うか、困ります。法律文書なんかでも、細かな規則や運用方法などは条例などで定めることで、より重要な上位方針を出来るだけころころ変えずにすむし、細かい例外規定なんかを逐一盛り込んでややこしくすることなくすませてるわけですが、それと同じようなことがここでも言えます。検証可能性という、ウィキペディアにとって重要な方針をより強固にするためには、細かい規定はWikipedia:信頼できる情報源におけるアドバイスとして書く方がいいし、そのアドバイスをまとめるにはプロジェクト単位での合意や方針が必要になってくるわけです。
- それから、ここらへんは、むしろ変に強制力を持たせることで、杓子定規な主張を押し通そうとする人が現れる弊害もある部分なので、ある程度、強制力のない方針や合意という形にしておき、ケースバイケースでの柔軟な対応を可能にしておくことの方が、却って円滑に問題解決できるケースは多いんですよ。どっちみち、どんな「ライン」だって、そんな明確に決まるものではなくて、常に細かい例外とか、グレーゾーンを伴うものなんですから。ここらへん、ラインとかルールを決めることに幻想を抱きがちな人も多いとは思うのですけどね。少なくとも「今は問題だけど、ラインを決めればそれで何とかなる」と考えておられるのであれば、まぁそれはうまく行かない、と予測しといた方がいいです。逆説っぽいけど、「ラインを決めなくても何とかできる」という状態(あるいは、できる人)じゃないと結局は、そのラインを決めるために無駄に周りの人を振り回して人的リソースを消費させるだけに終わったり、しかもやっとの思いで出来上がった「ライン」が役に立たなかったり、あるいは却って有害だったりすることもあるので。そこらへんを、もう一度熟考された上で提案してみて下さい。--Y tambe 2008年10月8日 (水) 03:54 (UTC)
- 強制力というのは言い方がまずったかもしれませんが、ある程度の権威を持たせた方がいいんじゃないかということです。プロジェクトなどは「考慮すべきガイドライン」ではないので、「何それ、従わなきゃいけないものじゃないんでしょ」と思われてしまうと思うのです、私も初めてプロジェクトの存在を知った段階ではそう思っていました。ラインとかルールに幻想を抱いているわけではないですが、同じような議論に遭遇するとその辺をどこかで示したらいいのではないかと思うわけです。そういったところがあるのでしたら、そちらに持っていった方がいいですね。でもまずは提案よりも質問が主でしたので、多数の方の意見をいただければと思っています。--春日椿 2008年10月8日 (水) 12:01 (UTC)
バックナンバー入手不可能の雑誌から得た検証可能か?
[編集]突然ですがここで言いたいのは、すでに発売済で次の号が出ており、バックナンバーの販売を出版社が行っていない入手が困難となった雑誌は、『信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容』と言えるのかどうかということです。
たとえば週刊少年ジャンプなどで、完売もしくは新しい号が入る等店頭には並んでいない号で、信頼できるソース(情報源)に情報がない場合公式には発売されていない[1]ため入手が困難(オークション・古書店などで入手できるが、完売されれば入手は不可能)で、検証可能とは言い難いのではないでしょうか? 勿論、発売中であれば信頼できるソース(情報源)を参照することにより、検証可能ですが、上記のような入手が困難な状態に陥れば、検証可能性は失われるのではないでしょうか?たとえ、現在入手が困難となっている雑誌を所有していたとしても、それは、削除された議論以下の検証可能性しか持ち合わせてはいないのでは無いでしょうか? これは、絶版となったうえ重版を望めない入手が困難となった書籍の内容にも言えると思いますが、どうでしょうか?
上記のことは、検証が不可能に近くなった出版物に関しての意見であり、大衆における検証が可能な出版物については、今までどおりでいいと思います。 --武人薩摩隼人[ 会話 履歴 ] 2008年10月22日 (水) 09:43 (UTC)
- 国会図書館を利用することにより絶版、バックナンバー在庫なしなどの出版物に対しても検証が可能かと思います。勿論ロケーション等の問題により、「誰も」が「すぐ」に検証可能というわけではないでしょうが、それは程度問題でこそあれ大抵の出典には付きまとう問題です。中には入手は可能だが非常に高額なために図書館以外では事実上閲覧が無理なものもあるでしょう。
- 特に問題提起されている雑誌に関しては国会図書館には大抵存在していると思われるため、絶版を持って検証不可能とすることはできないのでは。--ちぇす 2008年10月22日 (水) 15:25 (UTC)
- 蛇足です。最近の大手出版社から出ている雑誌は国会図書館に寄贈されているので、ちぇすさんの言われるとおりであります。昔の、たとえば昭和30年代のマンガ雑誌なんかはこの限りではありませんけれど。
- ただし、武人薩摩隼人さんに注意を促したいのは、漫画関係の記事を書く場合には漫画自体は一次情報源だということです。Wikipediaでは一次情報源ではなく二次情報源を使って書くことが推奨されています。Wikipedia:信頼できる情報源を参照ください。現在のWikipediaのサブカルチャー諸分野(漫画、アニメ、ゲーム、、)の記事には二次情報源を使わずに一次情報源ばかりを参照した、トリビアデーター集のごとき状態になっているものが多いのもまた事実なのではありますが、あまり褒められた状態ではありません。ですから少年ジャンプのバックナンバーが検証可能性を満たしているといっても、それを使って、あれやこれや細々とした事を書くのは止めた方が良いです。また、中学生ということですが、文献調査や引用、文献提示の方法などをある程度習得してから編集に参加された方が良いかと思います。それは百科事典編集を行う上で基本的なことですし、武人薩摩隼人さんの質問の内容から察するに、そのあたりのことを理解されていないように見受けられましたので老婆心ながら。--おーた 2008年10月22日 (水) 16:16 (UTC)
Wikipediaの方針に純粋に従うとすれば、「バックナンバー入手不可能の雑誌」の保存はWikipediaではなく、他の社会的活動により保存すべきであり(具体的には国会図書館や博物館に寄贈する等の活動)、その蒐集結果の精果を不特定の第三者が二次的に検証できる状態であって初めてWikipediaに引用する体裁で紹介できることになるという段取りになるかと考えます。まず直近の週刊漫画雑誌のバックナンバー程度であれば、その発行号と採録ページを明示してあれば良く、よほど稀少(同人誌や個人出版など百科事典として採録すべき特筆性に相当疑問符が付きそうなモノ)でもない限りおおよそ検証可能性を満たしているのではないでしょうか。--ネコバット 2008年10月22日 (水) 19:18 (UTC)
- 武人薩摩隼人です。まず、国会図書館の存在を忘れていたために、国会図書館で、取り扱いがなされているかを、言及しなかったことを深く反省し、陳謝致します。そのうえで、質問の追加と訂正をします。週刊少年ジャンプは国会図書館には保存されていないと思うのですが。国会図書館のOpacで調べたり、雑誌記事索引採録誌一覧で調べたりしまたが、該当する項目は見当たりませんでした。勿論僕が間違っている可能性も高いので、ぜひ、自分で調べてみてください。発売中でもなく、重版の可能性もなく、バックナンバーも公式には発売されていない、更には国会図書館にも置いていない雑誌の内容は、検証可能性があるといえるのでしょうか?--武人薩摩隼人[ 会話 履歴 ] 2008年10月23日 (木) 01:50 (UTC)
置いてありますよ。[1]--Ks aka 98 2008年10月23日 (木) 02:47 (UTC)
- 「和雑誌新聞」ボックスをクリックして検索してみてください。宜しくお願い致します。--ネコバット 2008年10月23日 (木) 02:48 (UTC)
- 最近発売された号も取り扱っていることを確認しました。お手数おかけしました。自分は週刊少年ジャンプで検索していました。少年ジャンプで出るんですね。
- 最後の質問ですが、国会図書館に置いていないと思われる書籍を情報源にしている場合は(バックナンバーが発売されていても)、ノートで呼びかけた後削除したほうがいいですよね?--武人薩摩隼人[ 会話 履歴 ] 2008年10月23日 (木) 03:25 (UTC)
- 特定の地域に関して公的団体が発行する発行物は、その地域の図書館にしか置いていないこともあります。だからといって、そのような発行物に検証可能性がないと断じることもできないと思います。例えば「愛知県小牧市 市内遺跡発掘調査報告書」は[2]のように国会図書館にもありますが、1-6、13号が欠けております。しかし[3]のように小牧市立図書館には13号も置いてあります。本報告書13号に検証可能性がないと考える方はいないと思いますけどね。--ろう(Law soma) D C 2008年10月23日 (木) 06:18 (UTC)
では、書籍の場合、すべての国公立図書館に資料を置いていない場合のみ、検証可能性がないといえるのでしょうか?--武人薩摩隼人[ 会話 履歴 ] 2008年10月23日 (木) 06:34 (UTC)
Wikipediaの記事は出典に基づいて記述されたはずですので(建前)、記事の投稿者に問い合わせれば検証可能性の手がかりが得られるはずです。このさい、門外不出の古文書や投稿者が個人的に取材した情報などが出典である場合は独自研究にあたります。国会図書館に採集されていない稀稿本や海外書籍で翻訳されていないものなどの場合、「誰にでも検証可能」なわけではありませんが、専門家が検証可能な状態で出典元を明記している場合、検証可能性を満たしていると考えても宜しいのではないでしょうか。--ネコバット 2008年10月23日 (木) 06:47 (UTC)
- 参考になりました。こんな中坊との議論にここまで付き合ってくれてありがとうございます。--武人薩摩隼人[ 会話 履歴 ] 2008年10月23日 (木) 06:58 (UTC)
- ネコバットさんに補足しますと、大学の図書館(これは全学図書館に限らず学部図書室も含む)など、国会図書館に置いていない本を閲覧可能なところってのは結構多いんですよ。勿論一般人は利用資格が限定されたり入館証の手続が必要だったりしますが、最近では一般開放しているところもありますし、少なくとも所在地市町村民であれば閲覧可能になっているところも多いです。卒業生に開放している大学図書館もありますし、資料請求すればコピーを送ってくれるところもあります。他大学の研究者に大学紀要を送らない大学は考えられませんし。そのような状態であれば「専門家が検証可能」と言えるでしょうということです。論文を書いたことがないと分かりにくいと思いますが、その辺は感覚です。上智大学のサイト内に面白いページを見つけましたが、これが理解できないのであれば、厳しい言い方になりますが、このような議論や「削除したほうがいいですよね?」などという行動には出られない方が賢明ではないかと思います。--ろう(Law soma) D C 2008年10月23日 (木) 07:21 (UTC)
- さらに蛇足で、わたしの最近の経験を書いておきます。30年ほど前に政府の外郭団体が発行した報告書を探していたのですが、発行元の団体 (組織改変で名前も変わっている) にはすでになく、近所の公共図書館を通じて国立国会図書館に問い合わせても、所蔵していませんでした --- 多くの専門家が論文に引用したりしていますので、存在するはずなのですが。わざわざ有休をとって国立国語研究所図書館のような専門図書館にまで足を運びましたが、ありませんでした。最終的に、とある大学の図書館が所蔵していることが判明したので、最初の公共図書館にこの情報を知らせたら、送料実費だけで借りることができました (ただし館内閲覧のみ)。資料をさがすのにこのくらいの手間がかかることは、検証可能性にはまったく影響しないと考えます。ただ、わたしが閲覧したかったのは、同じタイトルで1年前にでた報告書だった……。また最初からやりなおしです(笑) --Hatukanezumi 2008年10月23日 (木) 13:00 (UTC)
面白いページは参考にはなりましたが、この議論は、だれにでも入手できる方法(バックナンバーや、国公立図書館など)で、検証ができない記事でも、「編集者だけが独自に検証できる」わけではなく、「読者にも検証可能」である資料と言えるか、どうかということです。 「専門家が検証可能」というだけでは、「ウィキペディアの閲覧者層や他の編集者が満足に検証することができない」と言えるのではないでしょうか?--武人薩摩隼人[ 会話 履歴 ] 2008年10月23日 (木) 09:26 (UTC) この方針で、わたしたちが満たすことを求められているのは、検証可能性であって、検証容易性ではないです。そして、検証可能であることを求められるのはなぜかと言うと、誰でも書けるというシステムの中で、記事の正確性を担保し、よい記事を作るためです。信頼性に疑問があり、入手が困難なものは、使うべきではないでしょうけれど、入手がいくらか困難であったとしても、その情報源が信頼できるものであれば、それを用いたほうが、いい記事になります。より検証が容易な資料があるなら、読者のためにそれを併記することは有益でしょう。書誌情報が得られれば、手続き上の労力を必要とすることは多いですが、専門家でなければ閲覧することが不可能な資料と言うのは、そうそうあるものではありませんよ。そして、この方針は、主に執筆する人に向けられているのです。武人薩摩隼人さんが、執筆するときに、読者や他の執筆者に配慮して、比較的容易に検証できる出典から得られる情報だけで記事を書くのは自由です。しかし、手を尽くして資料を探し、よりよい記事を書こうとしている人たちもいるのです。ご自身で「中坊」と書かれていますが、自分の興味があることについて、たとえば1年かけて、本気で調べようとしてみてください。何も情報がないところから必要な資料を探し当てることは非常に難しく、書誌情報が得られればそれなりに入手することが可能であるということに気付くことができると思います。--Ks aka 98 2008年10月23日 (木) 10:10 (UTC)
- では、書誌情報を得てもなお、入手不可能の場合のみ、ノートにおいて削除するべきかどうか、議論を喚起すればいいわけですね?そして、記事の内容において、信憑性に疑いのあるものはWikipedia:出典を明記するにあるテンプレートを用いて、出典を明記してもらえばいいのですね?--武人薩摩隼人[ 会話 履歴 ] 2008年10月23日 (木) 12:24 (UTC)
- 投稿者が所有しているはずなので、「入手不可能である」ということは、それほどないのでしょう。記事の内容について信憑性に疑いがあるものは、その内容について水から調べ、信憑性があるものへと書き換えるのですよ。また、他者の記述の信憑性あるいは情報源の信頼性に疑いを持つのであれば、その内容について自分自身がある程度知識を持っているはずで、たまたまその資料はどうしても入手できないということですから、テンプレートを使うのではなく、その記述部分の執筆者と、情報を交換しつつ判断するのがよいと思います。外国語文献で、じゅうぶん信頼できるけど、日本の公共図書館や専門図書館には所蔵がなくて、執筆者が海外の古本屋で買った本、なんてものもありますから。まあ、もしまだ読んでいないのであれば、まずはWikipedia:児童・生徒の方々へをご一読ください。--Ks aka 98 2008年10月23日 (木) 12:42 (UTC)
非常に参考になりました。もうこの節で、質問したいこと、議論したいことはありません。ありがとうございました。ちなみに、Wikipedia:児童・生徒の方々へは熟読しています。--武人薩摩隼人[ 会話 履歴 ] 2008年10月23日 (木) 13:08 (UTC)
- 再び蛇足です。武人薩摩隼人さんが編集に関わっていらっしゃるマンガ関係ですと、京都国際マンガミュージアムなどという組織が、マンガのアーカイブを構築しておられます。国会図書館には無くても、こういうアーカイブで閲覧可能な資料はあるかもしれません。ご参考に。
- もうひとつ老婆心。上で、ろう(Law soma)さんが厳しいことを書いていますが、実際問題として「検証可能性を盾にとった削除要求」というのはWikipediaではとても紛糾しやすいのです。正直、嫌な体験をする可能性が大変に高い。書誌の知識が無いままにそういうトラブルに巻き込まれると、ちょっと大変なことになります。なので、私も武人薩摩隼人さんには「検証可能性」を使った削除要求は、ご自身の身を守る意味で今しばらく控えていたほうが良いと思います。--おーた 2008年10月23日 (木) 14:24 (UTC)
- 蛇足に羽まで書いちゃうような助言かもしれませんが、要は「ご自分がよほど詳しいと自認する分野以外での検証可能性論議は避けた方がよい」ということです。おーたさんと同じことの繰り返しになりますが、特定分野だけで有名な参考資料ってのは確実にあります。大学教授の書いた本なんて初版数百部なんてざらですから稀覯本(珍しい本)になります。でもその分野では有名で、大学生も含めた研究者は、ほぼ全員、持ってはいなくとも図書館等で読んだことは確実にある、ってことは結構ありますね。そのような本にしか書いてないことでも、研究者間での常識になります。そのような特定分野での「常識」ってのを知らないで削除要求すると、紛糾するだけでなくトラブルメーカーとも思われかねませんし、荒らし呼ばわりされたりしますので、慎重にされた方がよろしいかと。
- 例えば、鎌倉時代は1192年からだと書いている教科書があります。でも鎌倉時代、鎌倉幕府をご覧頂ければお分かりのとおり、現在では学説が分かれており1192年説を採用する研究者はほとんどいないと言ってもいいくらいです。そんな「常識」があるところに「教科書には1192年と書いてある。1185年と書いている検証可能性のある本を示せ!」などと言って削除要求したら笑いものになるだけです。この場合には1000円以内で全国で手に入る信頼できる書籍が山ほどありますから笑いもので済みますけど、もっと珍しい本にしか書いていないことも沢山あります。
- 貴方が書きたいと思っている神武天皇関係も、史学、神話学、民俗学など様々な分野の研究書があります。一方で発行部数は多くともトンデモ本と見なされて信頼できるソースとは思われていない本も数多くあります。まずはよほど自信があること以外で「検証可能性」関係には触らない方がいいと思います。--ろう(Law soma) D C 2008年10月24日 (金) 00:52 (UTC)
ありがとうございます。わざわざ僕のことまで心配してくれて、感謝頻りです。おっしゃる通り、もう少し経験を積んだ上で、「検証可能性」に触れようと思います。あと、また何時か「検証可能性」に触れるときも、ちゃんと調べて発言したいです。ありがとうごいました。--武人薩摩隼人[ 会話 履歴 ] 2008年10月24日 (金) 04:13 (UTC)
>「特定分野での「常識」ってのを知らないで削除要求すると、紛糾するだけでなくトラブルメーカーとも思われかねません」・・・雑誌に限った話ではないのですが、自分の無知を棚に上げて他者の編集成果を台無しにする削除厨について nekosuki600 氏の指摘があったと思う。なんで、自らが良く知っている分野での明らかな誤りを訂正したり追記して記事を充実させるよりも、ネットパトロールの如き行動に出る者が多いのか理解できない。削除に反論されて「挙証義務はお前にある」などと逆切れする以前に、自らの知的好奇心として真偽を調べてみた上でその検証が実際に出来なかった場合に、記述者に対して注意を促すような丁寧な行動がなぜ出来ないのだろう?武人薩摩隼人 氏の「削除したほうが良い?」発言は、そういった削除厨の蔓延に初心者が早速悪影響を受けてしまった実例と思います。—以上の署名の無いコメントは、114.182.77.46(会話/whois)さんが[2009年1月17日 (土) 19:59 (UTC)]に投稿したものです(Buzin_Satuma_Hayatoによる付記)。
投稿された動画
[編集]自主制作されてyoutubeやニコニコ動画に投稿された動画は、匿名であり、査読されていない点において、匿名掲示板の記述と同じではないでしょうか。--Brackcandy 2008年10月29日 (水) 00:46 (UTC)
ニコニコ動画は特にユーザー登録を必要とするページであり、有償化の可能性があります。外部リンクでは掲載すべきでないとされており、出典という名目でのリンクでも、この方針は援用されるべきではないでしょうか。--Brackcandy 2008年11月10日 (月) 15:01 (UTC)
- こんにちは初めまして。ご提案の「動画情報による検証可能性」については最近よく見かけますので判断に悩むことがあります。過去に「ゲーム内容の検証可能性について」という話題があったようですが、「ゲームをやってみれば分かる、CDを聞いてみれば分かる、動画を見てみれば分かる」という種類の情報源の提出方法が適切なのかどうかは従来のWikipediaがあまり想定してこなかった手段なのかもしれません。Wikipedia:信頼できる情報源によれば、『複数の独立した一次情報源を使った二次情報源がありますか?』(注意すべき論点)という基準があり、また一次情報の引用の原則は『信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっていない一次情報源は、使ってはいけません』(Wikipedia:信頼できる情報源冒頭)とのガイドラインがあります(注:Wikipedia:信頼できる情報源は日本語版の公式な方針あるいはガイドラインの草案です。現時点ではまだ拘束力はありません)。動画の場合ですと、たとえばNHKのニュース動画が情報源だとして、NHKのWebsiteから公開されているなり、NHKの有料アーカイブから公開されているものを情報源として掲示している場合なら「信頼できる情報源」と言えそうですが、YOUTUBEやニコニコに(仮に著作権上)不法に投稿されている場合、それを情報源として掲示して良いかどうかは疑問があります。--ネコバット 2008年11月10日 (月) 18:50 (UTC)
- ハロウィンの記述で、「外国人が暴動を起こした」として、YOUTUBEの動画を根拠にどうしても書きたい人がいます。暴れる外国人に憤っているのは気持ちとして分かるのですが、YOUTUBEの動画も「自作自演」である可能性もあり、たとえば動画を根拠にして「日本人はこんなにひどい」として日本人が暴れる動画を撮ってそれを根拠にウィキペディアに書かれても困ります。あくまでも動画は「査読を経ない1次情報源」として、つまり出典不可として扱うべきものと思います。ニュースの映像であれば、著作権法違反となります。--210.20.40.160 2008年11月15日 (土) 11:43 (UTC)
- 匿名で「自主制作されてyoutubeやニコニコ動画に投稿された動画」は確かに問題外だと思いますが、一方で東京MXテレビみたいに公式動画をYouTubeで配信しているケースもあります[4]。ですから線引きをするのであれば、YouTubeやニコニコ動画で配信されるかどうかという事ではなく、身元の明らかなコンテンツホルダーによって公式配信されているかどうかという事になるのではないでしょうか。あと、有料サイトは出典としてのせられないというのはちょっと問題があるかもしれませんね。もちろん他に出典に出来る資料があるなら、そちらを優先してのせるということは考えるべきかもしれませんが、有料サイトを出典にしなければ書けない事は書いてはいけないという取り決めをあらかじめしておくのは、Wikipediaの項目の発展という観点からはマイナスでしかないと思います。yhr 2008年11月16日 (日) 08:22 (UTC)
- ◆検証可能性とは検証容易性ではありません。かつて井戸端では、日本語にも英語にも翻訳されていない文献を出典として扱えるかという議論が起こったことがあります。また、あるWikipedia名前空間のノートでは、国立国会図書館や大宅文庫にしか所蔵されていない文献を出典とすることに問題は無いかが争われました。結論はいずれも、「出典として認められる」でした。如上のように、Wikipedia日本語版では、出典の内容を容易に検証できるか否かは考慮の対象から除外されています。これを本件に当て嵌めると、ユーザー登録を必要とするから、閲覧が有償だから、動画サイトが提供する情報を載せてはならないという結論は、導かれないことになります。畢竟するに、動画サイトの情報を扱うにあたっては、Wikipedia:著作権やWikipedia:独自研究は載せないに觝触する動画のみを排除すればよく、動画であること自体を理由として掲載を拒絶すべき事由は存在しないのです。
- 動画サイトは匿名掲示板と同一ではないのか、との指摘ですが、仰る通り、両者は共通する側面を有しています。他方で、yhr様が指摘なさったように、著名な制作者が自ら公式動画を配信していることがあります。付言するに、記事で扱われている本人自身が公表した情報については、Wikipedia:中立的な観点に觝触しない限り、査読の有無と媒体の如何を問わず掲載することが可能です。これについては、Wikipedia:信頼できる情報源#対象記事内での自己公表された情報源を参照して下さい。--白文鳥 2008年11月16日 (日) 18:20 (UTC)
- まず、210.20.40.160さんが提起しているハロウィンの記述に関する個別論ですが、「外国人が暴動を起こした」として、YOUTUBEの動画を根拠にどうしても書きたいという人がいらっしゃるのであれば、検証可能性以前の問題として社会事件についてどう書くのかという問題を話し合うべきだと思いますよ。つまり、事件の証拠写真みたいなものを掲げて「こういう事件があった」と記述するのはWikipedia編集者がやるべき仕事ではないと思うのですよ。「そういう事件があった」とする警察発表なり裁判記録なり報道記事(TVニュースを含む)なりルポタージュなりを引用して記述するべきものです。YOUTUBEの動画に添えられた日時と場所の情報が正しかったとしても、その画像から事件の全体像を記述するのは編集者の解釈が入りますのでWikipediaとしては避けたほうがよいのです。210.20.40.160さんが仰るように、この問題に関しては一次資料を避けて二次資料で書くべき性質のものです。ノートのページを活用してそのあたりの話をしていただければと思います。
- 一般論としては指摘済みの話を繰り返すことになります。匿名者の情報は動画であろうが無かろうが出典としては使ってはいけません。これは検証可能性の問題というよりは、情報の信頼性の問題です。有償かどうかについては検証可能性とは関係がありません。--おーた 2008年11月18日 (火) 13:19 (UTC)