Wikipedia‐ノート:検証可能性/「『真実かどうか』ではなく『検証可能かどうか』」との文言に関して
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「『真実かどうか』ではなく『検証可能かどうか』」の表記について
[編集]現在、Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」の説明文では、 『直観に反するようですが、ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです。』 とありますが、この文章では「真実かどうかは分からなくても検証可能であれば掲載できる」と曲解する方が出てきております。
本来、「検証可能性」とは「信頼できる情報源」に依拠するものですのですので、一般に真実と認められていないものが検証可能とはなり得ませんが、現状ではガイドラインであるWikipedia:信頼できる情報源が拘束力のない草案状態のため「信頼できる情報源」にはっきりした定義が存在せず、常識的に考えて信頼性が低い情報源からの資料でも、『信頼できる情報源であり検証可能性を満たす』と主張する方も出てきております。
上記の説明文は、曲解を防ぐためにも 『ウィキペディアへは「真実」であるからといって掲載できるものではなく、掲載には「検証可能な真実」であることが必要です。』 等の表現に改めるべきなのではないでしょうか?--Type64r 2010年1月16日 (土) 11:33 (UTC)
- 冒頭に「この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。」とありますのであきらめましょう。--大和屋敷 2010年1月16日 (土) 11:51 (UTC)
- 冒頭の説明は、ウィキペディアの編集方針が「検証可能性」「中立的な観点」「独自研究は載せない」に基づくもので、その三方針に従うことについての議論の余地が無いというだけで、各方針の説明文を変えてはならないと言うことではありません。そもそも現在の「検証可能性」の文章も更新が繰り返されてきたものです。余計なチャチャを入れないでください。--Type64r 2010年1月16日 (土) 12:00 (UTC)
- (反対)その改訂は反対します。明らかに誤りだからです。
- 真実と認められないことと検証可能なこととは全く別の次元のことです。例えば現代においては幽霊や妖怪といった生物は居ないとされていますが、江戸時代にはいたとされています。本改訂に従えば、そのような生物がいないため、検証できませんし、真実でもなくなるため書けなくなりますが、それは百科事典として正しいのですか?
- また、ネイチャーは科学分野では非常に権威のある雑誌ですが、掲載された論文が捏造されたデータだったりすることも稀に発生しています。真実でなくなったとたんにその内容は訂正されてしかるべきですが、それすら削除する改訂内容であることに気がついていますか?
- Wikipediaの真実ではなく検証可能であるかというのは、全ての記事が「○○では××と書かれている(されている)が、一方で△△ではちょめちょめとされている」ということを求めているということで、真実でないことを記載するなということではありません。--Kodai99 2010年1月16日 (土) 12:38 (UTC)
- 上記の妖怪の例では「妖怪が存在するかどうか」について「検証できる真実」であるかどうかを問うのではなく、「江戸時代に妖怪が存在すると信じられていた事実があったかどうか」について検証可能かどうかということです。この例では「信じられていた事実」があれば掲載できますし、そのような事実が検証できなければ掲載できません。
- ネイチャーの例では、掲載データが捏造されたものだったとしても、ネイチャーに掲載され認められている時点ではそのデータは「検証可能な事実」ですので掲載可能ということです。データの捏造が発覚し、そのデータが捏造だと広く認められれば「事実」ではなくなるため掲載できないことになりますが、現在の文章では捏造と発覚しても『真偽は関係ないのだから「検証可能」である』と主張する方が出てきてしまう可能性があります。
- 当ノートの「検証可能性は満たすが「間違っている事が明白」な参考文献」でもおーた 氏はウィキペディアの「検証可能性」について「信頼できる情報源」によるものと「検証可能」とを分けて考えておりますが、その他の方が指摘しているようにウィキペディアにおける「検証可能性」とは「信頼できる情報源により検証できる事実」ということのはずです。
- 「(真偽よりも検証可能性)」と書いてあれば、ウィキペディアにおける「検証可能性」を理解せず、何かしらの出典があれば検証可能だと捉える方が出てきてしまいます。--Type64r 2010年1月16日 (土) 13:02 (UTC)
- その過去ログの議論は中途半端に終わって、結論も合意も出ていないと思いますが?現実におーた 氏のように「検証可能」を「信頼できる情報源」と区別して「何かしらかの資料があれば検証できる」と捉える方が居るのですし、もっとはっきりした文章にするべきと考えます。--Type64r 2010年1月16日 (土) 13:42 (UTC)
- 最初の提案文章でもKodai99氏が受け取ったような誤解が生じるようであれば、『ウィキペディアへは「真実」であるからといって掲載できるものではなく、掲載するにはその「真実」が「信頼できる情報源」により検証可能であることが必要です。』等の文章ではどうでしょうか?現在の説明文で「検証可能」という言葉による誤解が生じることは上記のおーた 氏の例などでも明らかだと思われますが?--Type64r 2010年1月16日 (土) 14:06 (UTC)
- (コメント)まず1点目。出典があれば、嘘だろうが本当だろうが書けます。それは検証可能かどうかとは別の問題です。2点目。妖怪の例ですが、改訂案だとある妖怪について書くときに現代の基準からすれば存在していないのですから真実ではなく、真実でないなら書けない。存在していたと信じられていたという事実とその事象とは全く別の話です。3点目。ネイチャーの例も妖怪の例と同じですが、ある事象に対して説明するときにその事象に付随する事象を除く必要が出てくるということを考慮していますか?4点目。信頼できる情報源の解釈の違いはwikipedia:信頼できる情報源でつめてください。少なくともこのノートは場所が不適切です。5点目。「検証可能性」とは「wikipeida以外のどこか別の場所にある」ということ以上の意味はありません。ですので、真実かどうかは全く関係がない。改訂案のように真実であるかどうかを入れ込むと、それは独自研究になりかねません。だいいち、ある事象に対する視点がひとつだと思っているのですか?そしてそれを誰が判断するのですか。笑い話だったかと思いますが、われわれが左翼だと見ている人でももっと左に居る人から見れば右翼なんですよ。相反する内容があったとき、誰がそれを真実だと判定するのか。Wikipediaではそれを独自研究として諌めているのです。なのでやってはいけないことをやろうとするのはやめてくれとだけ申し上げておきます。--Kodai99 2010年1月16日 (土) 14:13 (UTC)
- 妖怪とネイチャーの件についてはすでに述べていますがご理解頂けないようですので、提案文章は新しくしております。
- 『「検証可能性」とは「wikipeida以外のどこか別の場所にある」ということ以上の意味はありません。』これもウィキペディアの「検証可能性」の説明を取り違えています。ウィキペディアの「検証可能性」とは「信頼できる情報源」により検証ができるということです。その情報源(出典)が信頼できないのなら、どこかに出典があったとしてもそれは「検証可能性」をみたしていないということです。
- 当方は「信頼できる情報源」について議論しようとしているのではなく、「検証可能性」の説明をKodai99氏やおーた 氏のように曲解する方が出ることを防ぐために文章を分かりやすくし、曲解を防ごうとしているのです。--Type64r 2010年1月16日 (土) 14:42 (UTC)
- 申し訳ないのですが、ご意見には全く同意できません。検証可能性と信頼できる情報源が別の文書になっている意味をよくお考えください。そして真実であるかどうかを決めるのはWikipedia以外の場所で行うのが原則であるのです。別のしかも草案の文書をオーバーライドさせようとすること自体、よくこの文書を読む必要があるとしかいえません。
- 例だからよくわからないのかもしれませんが、真実がひとつであると誰が判断するのか。そして真実が複数あり、相反している場合どうするのかをよく考えましょう。たとえゴシップ誌であろうともWikipeida以外の場所にあるのであればそれは検証が可能なものなのです。--Kodai99 2010年1月16日 (土) 16:05 (UTC)
Kodai99氏のご意見は明らかに間違っています。
Wikipedia:検証可能性には 『私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです。このことをウィキペディアでは検証可能性と呼んでいます。』 とあるように、「信頼できる情報源」により「検証できる」ということがウィキペディアの「検証可能性」です。
その情報が事実であるかどうかを決めるのはウィキペディアおよび、ウィキペディア編集者ではありませんが、「信頼できる情報源」で検証可能であるからこそ、その情報が掲載に値する物だと認められるということを説明しています。真実がいくつあるかは関係ありませんし、もし情報が相反しているならば、どちらかの情報源が「信頼できる情報源」ではないということでしょう。
どこかに出典があるだけでは、ウィキペディアの定義である「検証可能性」を満たすとは言えません。何度も言いますが、これはKodai99氏のように文章を曲解する方を防ぐための提案です。--Type64r 2010年1月16日 (土) 16:18 (UTC)
- Kodai99 氏と同じ事を書きますが、「真実」などという曖昧な語を方針に組み込むのではなく、wikipedia:信頼できる情報源の内容を詰めに行って下さい。提案には全く賛成できません。「真実」という概念をそんなに簡単に必要条件として組み込めるならば、Wikipedia の方針は現在のような複雑なものになってはいません。- NEON 2010年1月16日 (土) 16:25 (UTC)
- 提案文章は『ウィキペディアへは「真実」であるからといって掲載できるものではなく、掲載するにはその「真実」が「信頼できる情報源」により検証可能であることが必要です。』に変更しております。NEONさんは、「検証可能」には「信頼できる情報源」が必要ではないというご意見なのでしょうか?当方は、「信頼できる情報源」の定義を行うのではなく、現状の説明では「検証可能」という言葉を「なんでもいいから出典があって、誰でも調べることができる」と曲解する方が出てくることを防ぐために提案しています。--Type64r 2010年1月16日 (土) 16:31 (UTC)
- 既に方針の序文には「記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです。」とあり、Type64r 氏の主張は達成されています。提案されているような改変は必要ありません。- NEON 2010年1月16日 (土) 16:39 (UTC)
- NEON氏のように文章を読解できる方でしたら不必要でしょうが、Kodai99氏やおーた 氏のように、「検証可能」と「信頼できる情報源」が無関係と捉える方がいるための提案です。このお二人だけではなく、「出典があれば掲載可能」とのみの捉え方をする編集者が散見されます。--Type64r 2010年1月16日 (土) 16:47 (UTC)
- 自分の過去の発言を含む議論が参照されていたので出てきました。えーと。あの議論はあれでちゃんと終わっているとおもいます。
- 「真実」というのはひとつの理想で、現実には存在しないものですね。現実に存在するのは「事実」だけです。書いてあることが「真実」であるなんてことは証明できません。だから、「事実」を書きます。でも「事実」は、ときには間違っているかもしれない。
- 「事実を書いているよ」ということがだれにでも確かめられるように、検証可能性の方針があります。そして、なるべく間違いが少なくなるように、信頼できる情報源を使うことが求められます。でも、繰り返しますが、それはやっぱり「真実」ではなくて「事実」なので、やっぱり間違っているかもしれないんです。
- 「…その『真実』…」といった表現で、「真実」が検証可能であるかのように方針文書に書くことには、反対します。あんまり関係ないけど、”lechts und rinks“ とかいうタイトルの詩 (ドイツ語) があったような。 --Hatukanezumi 2010年1月16日 (土) 16:56 (UTC)
- 「真実」という単語によって誤解が生じるとするなら、『ウィキペディアへは「真実」であるからといって掲載できるものではなく、掲載するにはその記述が「信頼できる情報源」により検証可能であることが必要です。』ではどうでしょう?「検証可能かどうか」ではウィキペディアの「検証可能性」について理解しておらず、一般的な言葉としての「検証」と捉える方が出てきています。
- (真偽よりも検証可能性)とのカッコ書きも、「検証可能性」が「信頼できる情報源」に依るものであると理解されていない方には、「嘘でも出典があれば良いんだな」と捉えられてしまいます。--Type64r 2010年1月16日 (土) 17:04 (UTC)
- うん。だからその点は、ほかのかたも勧めておられるように、Wikipedia:信頼できる情報源のノートでの議論に参加して、その文書が公式方針になるよう努めてください。わたしも、こちらのノートで議論する必要性を感じません。 --Hatukanezumi 2010年1月16日 (土) 17:13 (UTC)
- (真偽よりも検証可能性)とのカッコ書きも、「検証可能性」が「信頼できる情報源」に依るものであると理解されていない方には、「嘘でも出典があれば良いんだな」と捉えられてしまいます。--Type64r 2010年1月16日 (土) 17:04 (UTC)
- いえ、そういう論点で議論しようというのではありません。『「信頼できる情報源」によって検証できる』ということがウィキペディアの「検証可能性」の定義であるのにもかかわらず、現状の説明文では一般的用語の「検証」という言葉のみで判断する方がいることを問題にしているのです。--Type64r 2010年1月16日 (土) 17:19 (UTC)
- それって、すでに方針文書に書いてある内容とおなじだとおもいます。
- ところで、方針文書というのは一般論が書いてあるので、個々の意見対立を、文書の文言をいじることで解決しようとするのは生産的ではないとおもいます。 --Hatukanezumi 2010年1月16日 (土) 17:27 (UTC)
その文書方針の内容を理解されない方が上記のように存在しているために提案しているのです。最低でも『ウィキペディア内の「検証可能」とは、「信頼できる情報源」により検証できるということです。』等の文章を「Wikipedia:検証可能性」の冒頭に入れなければ、これからも曲解される方が居なくならないと思いますが。--Type64r 2010年1月16日 (土) 17:33 (UTC)
- 「余計なチャチャ」と軽くながされてしまいましたが「冒頭に「この三方針は議論の余地がないものであり、他のガイドラインや利用者同士での合意によって覆されるものではありません。」とありますのであきらめましょう」。Type64rさんの提案は「英語版をどう訳すか」だとか「この単語は語弊があるのでこっちを利用すべき」だとかいう提案以前にWikipediaの性質を本質的に改変しようとする提案です。そういう野心はさすがに受け入れられないでしょう。検証可能性だけが重要です。Wikipediaのばあい「どこの誰ともわからない投稿者」の主張する情報などすべて受け入れないのが基本というスタンスでしょう。Wikipediaに紹介された情報をその情報源(検証先)を読者が照らし合わせることで初めてWikipediaが成立しているのです。Wikipediaは真実を記述している場所ではないのですよ。そんなこと考えているのは粗忽(善良)な読者だけです。--大和屋敷 2010年1月16日 (土) 17:37 (UTC)
- 実際に過去から文章は何度も変更されていますので大和屋敷氏のご指摘は不適当かと思われます。
- 当方の提案はウィキペディアの方針を変えるものではなく「検証可能性」を理解しない編集者が出ることを防ぐためのものです。現状の文章では実際に曲解されている方が存在するのは前述の通りです。
- 【現状の文章では実際に曲解されている方が存在するのは前述の通りです】に相当する記述が発見できませんでした。--大和屋敷 2010年1月16日 (土) 18:00 (UTC)
- 反対 提案は独自の見解によるもので到底受け入れられません。--郁 2010年1月16日 (土) 21:35 (UTC)
- 大和屋敷さま、本ノート 「検証可能性は満たすが「間違っている事が明白」な参考文献」内のおーた 氏や、当議論内のKodai99氏は、「検証可能」という言葉の意味を文字通り「何がしかの記録により誰でも調べられる」と捉えています。
- しかし、Wikipedia:検証可能性の冒頭の説明文によれば、上記二名の方の意見とは異なり、「検証可能」とは「信頼できる情報源」により検証できるとの意味のはずでず。「検証可能性は満たすが「間違っている事が明白」な参考文献」内でも、当議論中でも上記二名の方以外はそのような認識と思われますが、この点については当方の捉えかたが間違っているでしょうか?
- 郁さま、これは独自見解によるものではなく、「検証可能」をウィキペディア内の定義として捉えない方が出ることを防ぐための提案です。皆様のご意見により変更した提案文章の『ウィキペディアへは「真実」であるからといって掲載できるものではなく、掲載するにはその記述が「信頼できる情報源」により検証可能であることが必要です。』に独自見解が存在するとするなら、具体的にご教示ください。
- 現状の『直観に反するようですが、ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです。』はWikipedia:検証可能性冒頭の文章を繰り返しただけで、「検証可能かどうか」について定義が分かりにくく、(真偽よりも検証可能性)とこの文章中でしか出てこない言葉も存在し、解釈を誤りやすくなっています。--Type64r 2010年1月16日 (土) 23:41 (UTC)
- コメント Type64rさん。いろいろなかたが交々に意見を述べているのに、あなた自身はただ同じ主張をくりかえすばかりになっているということに、気づいておられるでしょうか。こういうときは、「自身の主張やその提起のしかたに誤りがある」という可能性も考えてみるべきなのではないでしょうか (これまでの議論を読み返してみるなどして、ご自身で考えてみてください)。
- また、特定の利用者の名前だけを繰り返し挙げて、その姿勢を批判するのも解せません。対人論証を行っていると見られてもしかたがないですよ。
- そろそろやめてください。 --Hatukanezumi 2010年1月17日 (日) 00:36 (UTC)
- 別に個人の方の批判をしているわけではありません。現状の文章では誤解を生じるということの実例として二名の方を挙げただけです。他の場所でも、「検証可能」と「信頼できる情報源」を無関係と捉えている別の方の例があります。そのような誤解が生まれる現状の説明文には不備があるということを主張しているだけです。
- 現状のWikipedia:検証可能性の説明では「検証可能」ということについて冒頭の説明で『つまり、私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです。』とあるだけのため、上記の例のような誤解が生じています。
- この文章中に「信頼できるソース(情報源)」と、他の説明文中での「信頼できる情報源」と異なる言葉が使われていることも問題と思われます。「信頼できるソース(情報源)」は単純に英語の"source"をカタカナ読みにしたものでしょうが、他の説明では「ソース」という言葉は使われておらず、このことも誤解を招く要因かと思われます。
- また、他の方のご意見との相違は単純に当方の主張をご理解されていないだけと思います。Hatukanezumi さまは、「検証可能」と「信頼できる情報源」とは無関係と捉えているのですか?--Type64r 2010年1月17日 (日) 00:49 (UTC)
- コメント わたしは、「ご自身で考えてみてください」と言いましたよ。
- あなたが「誤解」とおっしゃっている点について、わたしはそのかたたちが「誤解」しているとは考えていません。
- 検証可能性を満たすためには信頼できる情報源 (「信頼できる資料」という言いかたもあります) が必要なのは、直感的に理解できることです。たとえば「夢で見た。だから検証できた」ではだめなのは明らかです。では、どういったものが信頼できる情報源かというと、簡単には決められません。
- たとえばわたしはつい昨日、著名な学者の著書に基づいて、ある記事の記述を検証するということをやってみました[1]。
- 文献に書いてないことは除去しました (「甘酸っぱい」や「円錐形」のところ。もちろんただ除去したのではなく、ほかにも文献を探したけれども見つけられなかったので、やむをえず除去したのです)。いっぽう、文献には筋の通らない記載がありました (金額のところ)。ではこの著書は全体として「信頼できる情報源」ではないのでしょうか。そうとは言えません。
- 信頼できそうな資料でも、まちがった記載があるかもしれません。ですから、複数の資料に書いてある事実を記事に書くほうがよりよいとされます (上の記事については、そのうち、当時の新聞記事などを探してみるつもりです)。「信頼できる情報源を持ってくれば検証可能性は合格」というような単純な話ではありません。
- そういうわけで、「議論の際には『検証可能性』と『信頼できる情報源』とをしっかり区別して考えよう」と主張するひとがいてもおかしくはありませんし、わたしも特に反対ではありません。
- 納得いただけるでしょうか。 --Hatukanezumi 2010年1月17日 (日) 02:57 (UTC)
- 『「検証可能性」と「信頼できる情報源」とを区別すること』と、前記二名の方の意見は全く違うものです。
- 前記二名の方は『「検証可能性」は「信頼できる情報源」によるものである』ということを前提にせず、「信頼できる情報源」でなくても「出典」があれば「検証可能」と誤解しています。このような誤解を防ぐための提案です。
- また当方の提案文は、「信頼できる情報源を持ってくれば検証可能性は合格」と主張する文章ではありません。現状の説明文の「検証可能」が、ウィキペディアの定義としての「検証可能」であることを明確にしているだけです。--Type64r 2010年1月17日 (日) 03:17 (UTC)
(何か空気読まない意見でスイマセンが)私は気分としてはType64rさんの考えに同調します。(しかし、説明文に「その『真実』が」という言葉は入れないほうがいいでしょうね。理由はNEONさんと大体同じですし、Type64rさんも納得して頂いているようなので省略。)Kodai99さんの「出典があれば、嘘だろうが本当だろうが書けます」というのは若干誤解を与える表現だと思います。書けるのはあくまでも「信頼できる情報源」に掲載されていることに限られます。「信頼できる情報源であるかどうか」はこの「検証可能性」の重要な前提であって、軽視すべきではないでしょう。「たとえゴシップ誌であろうともWikipeida以外の場所にあるのであればそれは検証が可能なものなのです」というKodai99さんの意見は「検証可能性」という言葉の定義としては間違っていませんが、ウィキペディアの方針である「検証可能性」の説明としては不適切ではないでしょうか。ただしこの方針を適用するに当たって「その情報源は信頼性が低いから記述から削るべきだ」という方向で議論を進めるのはあまり勧められません。信頼できる情報源かどうかを判断するのは一般に非常に困難だからです。可能な限り、元の情報源の信頼性の低さを証明するのではなく、「より信頼性の高い情報源を提示して反論する」という方法にすべきだと思います。(蛇足ながら、その際にもあまり相手の顔を潰さないように配慮すべきだと思いますが。)--Freetrashbox 2010年1月17日 (日) 00:52 (UTC)
- Freetrashboxさま、ご意見ありがとうございます。「真実」については当方も誤解を招く要因かと再考しましたので、提案文章の例は変更いたしました。なお、「真実」という言葉については、Hatukanezumi氏からは『「真実」と「事実」は異なる』という趣旨のご意見を頂きましたが、Wikipedia:検証可能性説明文中の「真実」は英語の"fact"などを訳したものなのではないでしょうか?現在の日本版の文章が、英語版のどの版の翻訳かは分かりませんが、英語では"fact"、"reality"などは一般的に日本語の「真実」、「事実」両方の意味で訳されています。Hatukanezumi氏の揚げ足取りのようになってしまいますが、念のためお伝えしておきます。--Type64r 2010年1月17日 (日) 01:11 (UTC)
Wikipedia:検証可能性の冒頭の文章では「ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。」の文章に続いて、「つまり、私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです。このことをウィキペディアでは検証可能性と呼んでいます。」と明記されています。
つまり、ウィキペディア用語として単に「検証可能性」と述べた場合、その用語の意味に「信頼できる情報源(ウィキペディア用語としての)」に依拠する前提を含有するのは自明なのです。また、検証の対象は、出典の真実性の検証ではなく、ウィキペディア記事の記述内容に対する検証となります(Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」には「この文脈における「検証可能性」とは、編集者が、例えばニューヨーク・タイムズの記事の中身が真実かどうか検証する責任があるという意味ではありません。実際のところ、編集者はその種の調査をしないよう強く求められます。なぜならウィキペディアでは独自研究(オリジナル・リサーチ)を発表してはならないからです。」とあります)。
以上を踏まえ、万一、「信頼できる情報源」に誤りが含まれていて、後にそのことが判明した場合には、その旨を指摘する「信頼できる情報源」を出典として、記事の編集・改善が可能なのです。また、その誤り部分が「信頼できる情報源」によって指摘されていない状態となる期間も想定されますが、その期間については、当該部分は、一般に真実であると考えられているもの、と推定されます。したがって、当該期間に於いて当該部分のウィキペディアへの記載は差し支えない(止むを得ない)こととなり、「独自研究」に依拠する当該部分の編集は拒否されます。--4行DA 2010年1月17日 (日) 03:31 (UTC)
- 「この文脈における「検証可能性」とは、編集者が、例えばニューヨーク・タイムズの記事の中身が真実かどうか検証する責任があるという意味ではありません。実際のところ、編集者はその種の調査をしないよう強く求められます。なぜならウィキペディアでは独自研究(オリジナル・リサーチ)を発表してはならないからです。」とは「検証可能性」の説明であり、その「検証可能性」が「信頼できる情報源」に依拠するものであると理解されない方のために文章を分かりやすくしようというのが当提案です。--Type64r 2010年1月17日 (日) 03:48 (UTC)
- 4行DAさんのコメントをそのように読むのは誤りでしょう。「独自研究に依拠」は、信頼できる情報源に誤りが含まれていても、その誤りを信頼できる情報源によらずWikipedia編集者自身が 記事にするのは独自研究であり拒否されます、と言っているだけです。
- さて、いいかげん、逐次的にコメントするのは止めていただけませんか。反論等はある程度意見が出揃ってからでも十分で、しかも同じことを何度も繰り返し、ノートが肥大化することを避けることにもなります。--郁 2010年1月17日 (日) 04:09 (UTC)
- 反対 ノート:9mm機関けん銃#議論終結に向けた対応をお願い致しますにて本件について議論しましたが、私はType64rさんと異なり、本方針は、情報源の信頼性も含めて、編集者本人が判断する事が「独自研究」である事を示していると考えております。ある資料の信頼性を示したいのであれば、「研究家○○は自著にて、本資料はタブロイド誌であり信頼性は低いと記している」など別の出典を以て示すべきです。--超 2010年1月18日 (月) 13:12 (UTC)
- ウィキペディアの三大方針は互いに補完するものであっても、一方に依拠して他方の定義が決まっているものではないはずです。
- 超さま、当方が問題点があると指摘している文章は4行DA氏が挙げている部分についてではありません。情報源の信頼性の判断の仕方についてはWikipedia:信頼できる情報源で議論すべきものです。当方が問題としているのは、超さまも曲解なされているようですが、ウィキペディア内の「検証可能」という言葉を単純に「どんなものでも出典があれば良い」と捉える方が出てきていることについてです。
- 当方の提案の趣旨をご理解いただけない方がいらっしゃいますので、再度まとめさせていただきます。
- Wikipedia:検証可能性の説明文章の問題点は、
- 現行の『直観に反するようですが、ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです。』の文章を曲解し、「どんな出典があれば掲載可能」と解釈するウィキペディア編集者が存在する。
- 「検証可能」という言葉のウィキペディア内での定義の説明が、Wikipedia:検証可能性の冒頭の文章の『つまり、私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです。』という文章以外にないため、「信頼できる情報源」の有無に関係なく「出典があれば良い」と誤解されやすい。
- 信頼できるソース(情報源)という言葉もウィキペディア内の「Wikipedia:信頼できる情報源」と異なっており、誤解されやすい。
- (真偽よりも検証可能性)という言葉から、「嘘だとしても出典があれば掲載できる」と曲解する方が存在する。また、(真偽よりも検証可能性)という言葉もこの項目の一か所のみで出てくるだけで、「真偽」という単語から誤解を招きやすい。
- となるかと思われます。
- 上記の問題点を是正するための提案が下記です。
- 『直観に反するようですが、ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです。』という文章を『ウィキペディアへは「真実」であるからといって掲載できるものではなく、掲載するためにはその記述が「信頼できる情報源」により検証可能であることが必要です。』等の誤解を招きにくい文章に変更する。
- 上記文章を変更しないのなら、誤解を招きやすく、他の説明では出てこない(真偽よりも検証可能性)を削除し、冒頭の説明文中に『ウィキペディア内での「検証可能」とは、「信頼できる情報源」により検証できるという意味です。』等の文章を追加し「検証可能」の定義を明確にする。
- この提案についてのご意見をお願いします。--Type64r 2010年1月18日 (月) 15:01 (UTC)
- Type64rさんの考えと異なる私の考えは「曲解」なのですか? 過去の議論も含め、大多数の方がType64rさんの提案に反対を示しているのですが、Type64rさんの解釈が間違っている可能性はありませんか?
また、二度に渡り他の方から注意されているように、逐次的に反論をコメントするのを止めていただけませんか? ここは、Type64rさんのご意見を拝聴する場所ではなく、多くの方々からご意見を求める場所ではありませんか?--超 2010年1月18日 (月) 15:16 (UTC)
- Type64rさんの考えと異なる私の考えは「曲解」なのですか? 過去の議論も含め、大多数の方がType64rさんの提案に反対を示しているのですが、Type64rさんの解釈が間違っている可能性はありませんか?
- この提案についてのご意見をお願いします。--Type64r 2010年1月18日 (月) 15:01 (UTC)
- 超さま、当方の問題定義の趣旨が理解されていないためまとめました。特に当方の意見を吹聴しようというものではありません。
- また、超さまは「出典があれば掲載可能」という趣旨のことを以前に言われていましたが、検証可能性は満たすが「間違っている事が明白」な参考文献や当議論中でも、ウィキペディア内の「検証可能」とは「信頼できる情報により検証できる」という意味で捉えている方が多数派かと思われます。申し訳ありませんが、「出典があれば掲載可能」という「検証可能」の捉え方は曲解かと思われます。--Type64r 2010年1月18日 (月) 15:39 (UTC)
- 反対 検証可能性は満たすが「間違っている事が明白」な参考文献については、「間違っている事が明白」な参考文献と共に間違っていることを指摘している検証可能性を満たす参考文献を掲げ、こうした言及がなされているが間違っているとされている、とすべき案件だと考えます。でないと天動説、カロリック説やフロギストン説の項目は作成不可能ということになり百科事典としての体裁を大きく欠くことになります。--Himetv 2010年1月18日 (月) 16:07 (UTC)
- いまのところお一人も賛同者が登場されていないようですね・・・--大和屋敷 2010年1月18日 (月) 19:02 (UTC)
- Himetvさま、『検証可能性は満たすが「間違っている事が明白」』ということがあり得るか分かりませんが、当方の提案のどこからそのような解釈が生まれるのでしょうか?仮にそのような解釈になるとしても、天動説等は過去にそのような考え方があったという事実を取り上げているだけで、天動説等が現在は否定されていることを説明した項目ですので、なんら矛盾は生まれないと思うのですが?
- 大和屋敷さま、一応Freetrashboxさまのご賛同は頂けているかと思います。 なお、「すでに決定事項だから変更不可能」との旨を大和屋敷さまはおっしゃっておりましたが、2008年2月4日 (月) 17:37時点における版などでは、説明文を分かりやすくするために本文の改定が行われております。事実と反する印象操作はおやめ下さい。--Type64r 2010年1月18日 (月) 20:57 (UTC)
- 【説明文を分かりやすくするために本文の改定】を提案なさっているようには到底お見受けできません。むしろ誤解を拡大していると考えます。【議論の余地がない】ガイドラインの基本指針を変更するために、【説明文をわかりやすくするため】の【本文の改定】などという【事実と反する印象操作はおやめ下さい】。--大和屋敷 2010年1月18日 (月) 21:11 (UTC)
- ◆このページでの議論は全体的にType64rさんの言うことの方が筋が通っていると思うのですが、この改訂はちょっと無理筋でしょうね。このページは多くの人が参照しているので、本当に変えるべき案件であれば、もっと多くの賛成意見が付いているはずです。思うに、現時点では修正されたとはいえ、「ウィキペディアには真実を書くべきだ」という最初の説明が大きく問題だったのではないでしょうか。Type64rさんが現時点でウィキペディアの基本方針をどれだけ理解されているのか、正直なところ不安であります。また、改訂することで、多くの利用者に逆の方向の誤解を与えないかが心配でもあります。「信頼できる」という言葉の意味をあまり厳密に考えすぎると、結局は「その情報源の記載が真実であるかどうか」という不毛な議論になってしまうので、先にも書きましたが、そういう場合はより信頼性の高いと思われる出典を示すという方法にするのがうまくいくのではないかと思う次第。例えば、複数の出典を挙げて、最初に示された出典の記載が間違っていることを説明するとか。--Freetrashbox 2010年1月18日 (月) 22:34 (UTC)
- 「天動説等が現在は否定されていることを説明した項目ですので、なんら矛盾は生まれないと思うのですが?」と冷静に判断できるType64rさんのように聡明な方だけが参加しているのなら、文言の変更は多少の振れ幅があっても問題はないでしょうが、実際は違います。単純な話、この案が通った場合、不寛容な人が自分の見解以外は真実と認めず、この改定された文言を根拠に自分の支持していない言説は真実でないから「検証可能な真実」にあたらず、削除すべきであると演説をぶって、他の利用者を排撃する危険性が高い(例えば強固な天動説支持者が地動説を削除せよと要求する)と考えます。Wikipedia:井戸端/subj/犬塚拓馬さんからの提案等をご参照頂ければご理解頂けると思うのですが、如何でしょうか。--Himetv 2010年1月19日 (火) 01:22 (UTC)--一部修正--Himetv 2010年1月19日 (火) 01:28 (UTC)
- 大和屋敷さま、一応Freetrashboxさまのご賛同は頂けているかと思います。 なお、「すでに決定事項だから変更不可能」との旨を大和屋敷さまはおっしゃっておりましたが、2008年2月4日 (月) 17:37時点における版などでは、説明文を分かりやすくするために本文の改定が行われております。事実と反する印象操作はおやめ下さい。--Type64r 2010年1月18日 (月) 20:57 (UTC)
- 質問 もともとの提案では『この文章では「真実かどうかは分からなくても検証可能であれば掲載できる」と曲解する方が出てきている』との話だったのですが、具体的にはどのような例があったのでしょうか。ごくまれな反例を元に、重要な公式方針に重大な変更を施すのはあまり賛成できないので、それがどの程度可能性のある話なのか、具体的な事例を見てから判断したいです。--Kurz 2010年1月19日 (火) 03:29 (UTC)
- 問への回答になっていないですが、内容が大原則に係わることなんで各論で具体的な事例を見て判断することは避けるべきだと思いますよ。真実というものは評価を伴うものであるため、一つの事実に対して複数の真実が存在するものなので、表記に真実という言葉を入れることは相応しくないと思いますが。--シャルル 2010年1月19日 (火) 04:46 (UTC)
- まず、Type64r さんが書きたいことは、冒頭に
- ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。つまり、私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです。このことをウィキペディアでは検証可能性と呼んでいます
- として書かれていると思います。
- 一般に百科事典には、事実・真実が書かれるべきだと考えられていますが、ウィキペディアでは、執筆者自らがそれを求め、ウィキペディア上で事実・真実を示すわけではない、ということが、『直観に反するようですが、…』という文の主眼です。信頼できるとされる情報源にはAと書いてあるが、俺によれば真実はBである、百科事典には真実を載せるべきだ!という考えを排除する。「次の例」で示されるのは、信頼できる情報源である著名な物理学者によって現にBが真実だとされるものであっても、検証できないから掲載するな、というものです。この文脈で求められているのは、内容や情報源の「信頼性」ではなくて「検証可能かどうか」なのです。この点で、書き換えには反対します。
- 「信頼できる情報源」で検証可能なことが求められるということには、それほど異論がないのではないでしょうか。
- ただ、「信頼できる情報源」というのは、実は曖昧な概念です。絶対的な基準があるわけではないし、個々の情報源の評価は誰にでもできるものではない。ウィキペディアにおける「検証可能性」は、信頼できることも求めますが、信頼性というのは、それをどう判断するか難しい局面もありますし、追求しだすと相当な労力を必要とします。扱っている内容や、記事の中での、その情報源を使った記述の位置づけによって、求められる信頼性も変わります。明らかな誤りを信頼できない情報源であっても、その情報源が社会的な影響力を持っているなら、そのことを書く必要がでてきることもあります。分野によっては執筆者によって信頼性の評価をしながら書き進めないといけない項目もあります。そこから先は、執筆者それぞれの能力やノートでの意見交換をしながら、より信頼できるもので書き換えていく。扱い方の指針として、「Wikipedia:検証可能性#情報源/ソース」や「どのようにして識別するのかについてのガイドラインを提供します。」という「Wikipedia:信頼できる情報源」がある。とはいえ、これもガイドラインですし、まだまだ材料が集まっているとは言えませんから、これらを満たさなければどうしてもダメだというものにはなっていないと思います。
- 極端に言えば、執筆者が情報源となるようなものは、信頼できないというのがウィキペディアの執筆の方針です。外部の情報源でも、論外とされるものもあるでしょう。少なくとも、そうしたものでないものであれば、多少の信頼性はある。情報源を明らかにすることは、その情報源を確認して執筆している限り、それほど難しいものではなく、いくらかの手間がかかるとしても、それほど面倒なことではありません。情報源を明らかにすることで、その情報源の評価や、情報源と記述内容の対応を他の人が検証することができます。他の編集者も含めて信頼性の程度を判断し、あるいはノートで話しあって、除去したり、より信頼できるものに置き換えたりしながら、その項目に関係した執筆者全体のリテラシーが向上して、プロジェクトや「Wikipedia:信頼できる情報源」に蓄積されていくということが、この方針が期待することではないでしょうか。--Ks aka 98 2010年1月19日 (火) 05:57 (UTC)
- コメント こんにちは。mizusumashiです。
まず、Type64rさんの「つまり、私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです。」というご提案については、賛成でも反対でもありません。同じ事を繰り返すだけだから、どちらでもよいと考えています。
ただ、すでに放棄されたご提案だろうかと思いますが、『ウィキペディアへは「真実」であるからといって掲載できるものではなく、掲載には「検証可能な真実」であることが必要です。』及び『ウィキペディアへは「真実」であるからといって掲載できるものではなく、掲載するにはその「真実」が「信頼できる情報源」により検証可能であることが必要です。』という以前のご提案に関してひっかかるところがあるので、すこし書かせてください。
信頼できる情報源に書かれており、その情報源に書かれていることが検証可能であるならば、真実ではなくとも/執筆者が真実ではないと考えていても、ウィキペディア日本語版に書いてもよいし、むしろ積極的に書くべき場合さえ、分野や状況によってはありうると思います。例えば、哲学や法学上の問題については、専門の学者の間で見解が別れ、はげしく対立しているというのは日常茶飯事です。ですから、十分に学識を備えた執筆者が、きちんとした合理的理由によってある見解が正しいと確信しているが、しかし、それが学界の主流的な見解ではないことも承知している、という場合もあり得ます。そのような場合、むしろ執筆者本人としては正しくないと考えている主流派の見解を中心に記事を構成してくれるほうが、よりウィキペディア日本語版が望む執筆者でしょう。そして、その主流派というのが十分に多数であるのであれば、いちいち「と考えているのが主流派の見解である」などといった留保をつけずに、単純にそれが確定した事実であるかのように叙述し、その後に少数派の見解を少数派の見解として紹介してくれたほうが望ましいということさえもありうるだろうと思います。
もちろん、自然科学や数学の記事について別の議論になるでしょうし、歴史学であれば、あるいは美術史であれば… とそれぞれ別の議論が成り立つでしょう。しかし、すでに主張したように、ある分野やある状況によっては、真実ではなくとも、少なくとも執筆者が真実ではないと考えていたとしてもウィキペディア日本語版に記述するべき場合がある、と考えています。ですから、ウィキペディア日本語版の記事すべてにおよぶ最低ラインとして、内容が真実であることを要求する事は不都合なことであると考えます。--mizusumashi(みずすまし) 2010年1月19日 (火) 11:45 (UTC)
- 大和屋敷さま、すでに実例を挙げていますが、当項目は過去に変更を繰り返されてきたもので、「議論の余地が無い」とは「変更できない」という意味ではありません。また、当方の提案文で「検証可能性」の意味が変わるのでしたら、具体的にどこが悪いのかご説明ください。
- Freetrashboxさま、当方の最初の主張も「ウィキペディアには真実を書くべきだ」という意味ではないのですが、ご理解頂けないようでしたら当方の文章力の不足ですので申し訳ありません。「真実」という言葉は日本語版ウィキペディアの現在の文章に入っていたものですので、そのまま使用したのですが・・・。「信頼できる」については、ウィキペディアの「信頼できる情報源」の定義によるものですので誤解は生まれないかと思われます。
- Himetvさま、ウィキペディア内で使用される「検証可能」は「信頼できる情報源により検証できる」ということですので、「検証可能な真実にあたらない」と主張する方が居てもそれは否定されるのではないかと思われます。
- Kurzさま、すでに具体例は前述しておりますので、ご精読下さい。曲解されている方を挙げると個人攻撃になると「警告」されてしまいましたので・・・。
- シャルルさま、「真実」とはすでに現状の説明文に入っている言葉で当方の改正提案では「その記述」と変更しております。
- Ks aka 98さま、当方の改定案でも「検証可能性」が掲載への必要条件という意味に変わりはないと思います。「信頼できる情報源」というのは個人の解釈の「信頼できる」ではなく、ウィキペディア内の定義です。
- mizusumashiさま、すでに当方の提案文は変更しましたが、mizusumashiさまの挙げていた過去の英語版を読んだところ、日本語板の「真実かどうか」「検証可能かどうか」とういう訳語自体が不適切なのではないかと思われました。
- 英語版では、
- "The threshold for inclusion in Wikipedia is verifiability, not truth. This means that we only publish material that is verifiable with reference to reliable, published sources."となっていますが、これを日本語版では
- 「ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。つまり、私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです。このことをウィキペディアでは検証可能性と呼んでいます。」と訳しています。
- しかし、英語版では「検証可能かどうか」という意味の言葉は使われておらず、"verifiability"(検証可能性)となっています。日本語版の「検証可能かどうか」という言葉使いにより、「検証可能性」と「検証可能かどうか」について解釈の違いが生まれるのではないでしょうか?
- とりあえず、皆様のご同意は頂けないようですので、一端当方の提案は取り下げさせて頂きますが、上記の英文訳自体が誤訳とまでは言えないものの、誤解を招く要因だと思います。よって、あらためて改善提案を出させていただきたいと思います。多くのご意見ありがとうございました。--Type64r 2010年1月19日 (火) 13:52 (UTC)
- ちょっと今更で申し訳ないんですが、この提案の出元であるノート:9mm機関けん銃で、Type64rさんと議論をしておりました、利用者:ひゃくじゅうごです。
- こちらの議論にあっては私の名前やノート:9mm機関けん銃が出ていないようですし、このような提案が出るに至ったもとは何なのかというご質問をされた方がおられたので、遅ればせながらリンク先提示とさせていただきます。--ひゃくじゅうご 2010年1月22日 (金) 14:55 (UTC)