Wikipedia‐ノート:検証可能性/Archive04
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Archive05(2007-10~)(打ち切り - 出典無き記述の除去 - 「存命人物の伝記」の問題とのすり替わり - 秀逸な記事への要出典タグ - 「出典不明示は削除」は万能な規定ではないことの確認) - Archive06(2007-12~) - Archive07(2008-08~) - Archive08(2008-12~) -
Archive09(2009-03~)(「『真実かどうか』ではなく『検証可能かどうか』」との文言に関して - 「利用者同士の合意によって覆されるものではない」との文言に関して) -
Archive10(2011-01~)(本方針を根拠とする記事の白紙化について - 存命人物の記事におけるGENREF方式の是非) - Archive11(2016-02~)<(無出典記述の扱いの説明について - 目撃・伝聞情報) - Archive12(2018-03~) (edit)
検証可能性について理解されていないこと
[編集]このノートや色々な場所で行われた議論を読んでいて「検証可能性」について、「なぜ文献検証でなければならないのか」「なぜ文章化された情報で検証しなければならないのか」そのあたりがイマイチ理解されていないような気がしています。
Wikipediaで検証可能性という場合「書籍による検証」がメインになっていますが、開かれた図書館というシステムが背景にあってこそ意味をなす方針であります。つまり、今までに発行されたありとあらゆる書籍を収集し、それをできるだけ閲覧可能にしておくという図書館というシステムがあるからこそ「書籍による検証」は原理的に誰にでも可能だということです。図書館で調べ物をしたことがある人ならお分かりになるでしょうけれど、その図書館に所蔵されていない本であっても検索サービスを利用すれば外部の図書館の蔵書を調べてくれるし、紹介だってしてくれます。アカデミズムの中で育まれ、書誌学という学問で精緻化された、そういう図書館のシステムが検証可能性を支えている訳です。Wikipediaもそういう伝統の上に乗っかっているプロジェクトであることがいまひとつ理解されていないのではないでしょうか。
現在はインターネットでかなりの情報が流れているので、情報責任を負わせられるソースに限ってWikipediaも情報のソースとして認めていますが、これもインターネットの情報は原則的に誰にでもアクセス可能だからです。(ただ、サイトが閉鎖されたらそこにあった情報がアクセスできなくなるというリスクは認識したほうがよいでしょうけれど。)
TV番組がソースになるかという議論があったかと思いますが、TV放送は録画保存されないメディアであった期間が結構長く、その時期のものは検証可能性が満たせません。ビデオが市販された以降の番組についても、それらがアーカイブとして保存されて閲覧可能な状態になっていなければ検証可能な状態とは言えないはずです。ビデオ化/DVD化されて市販されたものなら検証可能性は上がりますが、「誰にでも見ることができる状態」には少し届いてません。中古市場でも手に入らないビデオもあり得るからです。やはり、誰にでもアクセス可能なアーカイブに入っていなければ、完全な検証可能性は満たせません(発売部数が十分大きければ個人的には出典に使えるとは思いますけれど)。現在は、各放送局が放送番組をすべてアーカイブで保存しているという話は聞きますが、それが誰にでも閲覧可能になっているという話は聞かないのでやはり検証可能性は満たせません。
検証可能性ということでもうひとつ重要なファクターは「言語情報」ということです。検証可能性をめぐる議論でよく言われるのは「物(ブツ)があるのに、なぜワザワザ文献を探さなきゃいかんのか」という問題ですが、ようするに「物(ブツ)」それ自体は「言語情報」ではないからです。物(ブツ)から言語情報を取り出すのはしょせん人ですから、その人の主観が入ります。編集者が情報発信責任者になってはいけないというWikipediaのルールに従えば、編集者がそれをやってはいけないのです。独自研究の禁止と同じ考え方ですね。
たとえば編集者が「俺は△△で○×を見た。そこにブツが事実としてあったんだ」といくら主張しても、それは検証可能にはなりません。これが「誰だって△△に行けば、○×を見ることができる」になると検証可能だと主張する人もおられるようですが、それでも編集者自身の主張では駄目なのであり、誰かがそれを書いて情報発信責任をとってくれる状態になってはじめて検証可能性が満たされるわけです。
「西表島にはイリオモテヤマネコがいる」という主張は専門家には自明でも、私みたいなボケている人には西表島に出かけても野生化した猫とどこが違うか分かりません。だから、専門家がそう書いている文献を使って書くしかない。よく見かける主張として「この分野の人が見れば明らかなんだから、わざわざ文献など必要ない」というのは明らかに駄目で、その分野の人に書いてもらわない限り(つまり言語化してもらわない限り)検証可能性は満たせない。
ビデオゲームに関して言えば、ビデオゲームの隠しコマンド、バグ情報は誰かが言語化して書籍化しないないかぎり(あるいは著名な専門家が実名でwebサイトで書かないかぎり)検証可能性は満たせないです。ゲームをやっている人からみれば「当たり前じゃん」的な情報であっても、世の中にはコントローラーをどう持てば良いのかそもそも知らない人だっていますので、そこは当たり前にならない。それを言語化して、ゲームを知らなくても文章が読める能力のある人ならおおよそのことが理解できる状態にするのが百科事典の役目であります。そして言語化したソースは編集者が自分で作っちゃいけないという縛りがかかっています。加えてすべてのビデオゲームはアーカイブ保管されて誰にでも閲覧可能な状態にあるのか、そこも疑問であります。
以上、Wikipedia:検証可能性に、「なぜ文献検証でなければならないのか」「なぜ文章化された情報で検証しなければならないのか」の2点を書き加えておいた方が良いような気がしたのですが、いかがでしょうか。--おーた 2007年7月9日 (月) 15:31 (UTC)
- 検証可能性の独自解釈ですか? 一度、英語版のオリジナル文書をよく読んだほうがいいと思います。--61.198.212.253 2007年7月9日 (月) 15:41 (UTC)
- 現在の英語版でも日本語版でもしっかり書かれていると思いますけど、根本のところで分ってないんじゃないかと思わざるを得ないことを主張する人が居るので、記述の前提として当たり前すぎて書かれていないことについて、書いておいてもいいんじゃないかと思いました。百科事典の現物を見たことがない、図書館で調べ物をしたことがない、文献を参照しながら論文を書いたことがない、そういう人たちでもWikipediaは編集に参加できるシステムですけど、そういう人たちにもう少し伝わる書き方をした方が良いんじゃないかと考えた次第です。--おーた 2007年7月9日 (月) 22:19 (UTC)
- よくぞ言ってくれた、とおもいます。
- ウィキペディアは本質的に百科全書なんですよね。「書記言語によって記録されることがらが知識である」というのが百科全書の基本的なスタンスだし、ウィキペディアもその伝統を離れて成立するものではないんだとおもっています。百科全書は、「自然」を書記言語で固定し保管することによって知識の集積を実現するプロジェクトです (ここで「自然」というのは、社会現象もふくめたいまだ言語化されないあらゆる事象を指して言っています)。
- 言語は「自然」を完全に写すことはありえませんが、いっぽうで、言語化されえないものは人類の知識の一部として正当な地位を主張できない、ということでもあります (多くの民族やコミュニティが自身の書記言語を持とうとし、それによって文学、法令、科学論文などを記録しようと目論んできたことからも、それは否定しようのない現実だとおもわれます)。
- それはともかく、書記言語で記述された「自然」はもはや「自然」そのものではなく、知識として固定された時点で、「自然」の似姿、というか、まがいものでしかありませんから、それが「真実」かどうかを問うのはナンセンスとも言えます。要するに、「自然」そのものを観察すれば真実が明らかになる、という主張は、百科事典の編集とは関係ない主張なわけです。このノートでの主題になっている「検証可能性」というのは、そういうことを言っているんじゃないですね。
- ぜんぜんわかりやすくなってないけど、そんなことをおもいました。 --Hatukanezumi 2007年7月29日 (日) 12:37 (UTC)
- はい。私も、先日の投稿で「ちと分りにくいか」と思いながら書いていました。ただ、百科事典でも学術的文章でもそうした文章は元来、文献ソースによる検証可能性ということに強くこだわってきたという文化背景があります。それを知っているか知らないかで議論は随分変わるんじゃないでしょうか。今の学問のシステムでは、自分のオリジナリティと他人の業績をきちんと分けて書くこと、そして他人の業績については文献を明示することが厳しく求められますし、それを支えるためにアーカイブとしての図書館のシステムが大変に発達しました。百科事典も、その路線に沿って作られたんですよね(もちろん、百科事典ではオリジナリティのあることは書きませんけど)。そういう背景が前提にあるから、「文献検証」がうるさく言われるんだということは、もう少し理解されても良いのではないかと思います。
- もちろん、映像ソースや音声ソースをどう取り扱うのかはWPの大きな課題だとは思います。ただ、映像ソースや音声ソースが文献ソースに匹敵するだけのアーカイブシステムを持っているのかというと、そこが弱いわけで議論の余地がいろいろあるのだろうと思うわけです。--おーた 2007年7月30日 (月) 13:00 (UTC)
- 横から失礼します。わたしもおーたさんの意見に同感です。出典を示すとき「誰にでも検証可能であるかどうか」がポイントのひとつになってきますが、テレビ番組での発言などはまずそのテレビ番組を録画したものを入手しなければいけないわけで、そうなると「誰にでも検証可能である」とは言えないと思うのですよね。また、信頼性に乏しい情報のほとんどが、時間経過によってそれを確かめることがより困難になるのも問題でしょう。テレビゲームにしても、時間経過によってそのハードやソフトが入手困難になるのは予想ができますし、テレビ番組の録画もしかりです。この「誰にでも検証可能であるかどうか」というポイントが、いまいちズレているんでしょうかね。映像ソースなどを保管する機能が発達していない以上、それを信頼できる情報源とすることはできないと思うのですが。その意味をわかりやすくするとしたら、やはり検証可能性#信頼性に乏しい情報源のところに詳細な説明を入れるのがいいのでしょうか。これは他の人の意見も聞いてみたいですね。--Saku2 2007年7月30日 (月) 14:46 (UTC)
- んーと、ちょっと流れが怪しくなってきてる気がしますので、一点補足しておきますが、一言で言うと「音声ソースや映像ソースを出典とする」ことは、きちんとした学術分野で認められたものであるはずです。だからこそ、それを出典とするときの記載法が、MLA方式などに定められてるわけでして。こういった正しい流儀に則って「適切な形で、ビデオやフィルム等の特殊なメディアを出典として提示する」ことについては、決して妨げるべきではありません。個人的に言うと、私が主に執筆してる生物学系の分野は、どれも幸いにも普通のリファンレンス・ワークだけでやっていけるので、まぁ正直、ビデオなどを出典として使うな、と言われて困ることはありませんが、多分MLA方式に定められている以上は、それを出典として出す必要性がある(しかも大学以上の)専門分野が存在する可能性は大いにある、と。そこらへんは正直、本当の専門家がウィキペディアで執筆を始めないと、事情はわからないのですけど(まぁそれ以上に「自称専門家」が現れて、いい加減な主張をする可能性だってあるわけですが)。ただ少なくとも、そういう必要性がある分野の事情について、「私が判ってない」ということだけは、私は判ってますので、その分野の専門家が執筆を開始するときに、的外れな妨害につながるような行為は避けなければならない、と。
- おーたさんの主張されてる内容については、まぁ「おおよそのもの」としては、私も受け入れることができます。しかし、それを明確に禁止しようとしたり方針化しようとするのであれば、それは、おそらく浅慮に基づくものであるということを畏れなければならないだろう、と。正直言うと、ウィキペディア「なんか」よりもはるかにきっちりしているはずの学術論文で用いることが認められている情報源(ビデオやフィルム等を含む)が、ウィキペディアでは情報源として扱えない、という方向に進むとしたら、それは多分、どっかで進む方向を間違えてるんだろうな、と感じるわけです。--Y tambe 2007年7月30日 (月) 15:51 (UTC)
- わたしの与太話がちゃんと軌道修正されてよかった。アカデミックな世界は、一次資料やその記載に基づいて成果を出すところですから、文字情報だけを扱わなければならないという縛りがあるわけではかならずしもないでしょう。非文字資料を二(以上)次資料として扱えるかどうかというのとは、また別の話だとおもうのですが (何か変なこと言ってるかも)。
- 記載法が確立してるだけでは十分でないようにおもっています。文字情報については、「資料Aと資料Bは同等のことを述べているかどうか」ということがかなり自明に検証可能だという社会的「合意」が確立しているとおもいます。そのことによって、資料の校訂でさえもが可能になるため、書誌の永続性、一貫性を保て、したがって、単なるコーパスではないアーカイブが可能になるのだとおもいます。
- 映像や音声には、いまのところそういう社会的「合意」があるわけではないし、まして文字情報との互換性は保証されていない。そういうものを、現在までに確立されてきた文字主体の知識蓄積方式に持ち込むことは、容易ではないようにおもっています。 --Hatukanezumi 2007年7月30日 (月) 16:51 (UTC)
ウィキペディアの目的は、信頼されるフリーな百科事典を――それも、質も量も史上最大の百科事典を創り上げることです。・・・これは基本方針にもあることです。そのへんのいい加減な学者・学生による学術論文のレベルでは困るわけです。学術論文は、ただの「論文」でしかありません。「学術論文ごとき」を仰ぎ見るようでは「質も量も史上最大の百科事典を創り上げること」が目標とは言えないでしょう。ウィキペディアが目指すところは、一過性の学術論文よりも高く、遠いところにあるのです。--Album 2007年7月30日 (月) 16:00 (UTC)
おーたさんのご意見に、大枠では、賛意を示します。ただし、検証可能性をあまり厳しすぎるかたちで運用することには、抵抗があります。
- 可能であれば、文献情報を優先させるということには同意します。それは、お書きになっている通り、保存性と、図書館というアーカイブの存在に拠ります。
- 「誰にでも見ることができる」ことを、求めすぎることには、懸念があります。ぼくが所有している洋書や戦前の本・雑誌のいくつかは、国会図書館にもwebcatでもひっかからないものですが、信頼できる出版社・著者のものであり、海外の専門図書館などには所蔵があります。これらは、排除すべきではないと考えます。これに対して、家の蔵にあった巻物に書かれている歴史的新事実などは、独自研究です。
- ネット上での出典については、常に見られなくなる可能性がありますから、たとえば、現在入手が容易なゲームやDVDと比較して、どちらが検証可能性を満たすかという議論は、あまり有意義ではないと考えます。ネットからの出典については、確認日を記した上で、紙の代替物があるならば、そちらを加えることを推奨するということになるでしょう。
- ゲームやDVDなど、一般に販売されたものは、社会的なアーカイブ機能が十分ではないとしても、排除するには及ばないと考えます。録音資料は数十年前までは、似たような状況がありましたし、国内発売されていないものについては、今も十分なアーカイブがあるとは言えませんが、音源の入手自体ははるかに容易になっています。
- DVDについては、現在、ドキュメンタリー系の製作・発売が増えており、有用な資料となっています。これらについても、社会的なアーカイブ機能が十分ではないとしても、排除すべきではないと考えます。
- テレビについて、一般的な項目については、テレビを検証困難性から除外することは、ありえる選択肢だと思います。他方、テレビ番組自体、あるいは放送によって生じた事柄などについては、やむを得ずテレビを情報源として用いることがあってもよいと考えます。非常に脆弱な検証可能性ではあるが、可能性がないと断じるのではなく、記述すべき情報の発端としてあるのであれば、それを記述し、紙の資料で補っていく、また、代替する紙の資料がない場合には、出典として認めうると考えます。
- 「物(ブツ)があるのに、なぜワザワザ文献を探さなきゃいかんのか」ということについては、その「物」から当然に得られる情報については、文献を探す必要はなく、ただし、しばしば「物」を見ての考察が、「当然に得られる」という主張の元で記述されるという問題がある、ということだと思います。この切り分けを、乱暴にするべきではない。「編集者が」や「西表島」の段落については、独自の研究であって、記述すべきではないと考えます。
- 隠しコマンド、バグ情報については、独自研究あるいは、百科事典にふさわしくない記述として除去すべきであって、ビデオゲームへのアクセス可能性など、検証可能性を持ち出すのとは、ちょっと違うように思います。
- Hatukanezumiさんのお話の中にある、DVDなどの非文字資料の扱いについてですが、これは、言語化されていれば、大きな問題とはならないと思います。映像それ自体からの記述は、努めて客観的な描写は多少許容される余地があると思いますが、しばしば独自研究に流れがちとは言えると思います。あと、たとえば、民族音楽学/音楽民族学での音楽の採譜なんかは、その手法について批判的検討がいろいろあって、限界も含めて、一定の合意みたいなのはあります。
学術ど真ん中の項目については、文字のみ、信頼できる情報源のみ、でやっていけると思いますが、これは百科事典で、だからこそ、学術の周辺部にあったり、学術の対象とならないものも、項目として必要です。そうしたものを記述していく上で、これまでの百科事典のように、第一人者とされる人の権威を借りるのではなく、検証可能性を満たすために、多くの資料を探し、整理して、まとめていくことで、ウィキペディアは過去の百科事典よりも優れた物になりうる、という期待が、ぼくにはあります。そして、今の検証可能性の方針は、そういう可能性を排除していない。そうした作業は、多大な労力を必要としますが、専門家ではなくとも可能なものです。過度に情報源の信頼性を高めたり、媒体によって制限を加えられると、記述が不可能になってしまいます。
他方、百科事典的ではない記述が、ウィキペディアに多く見られること、記述する根拠として、検証可能性を満たすことを持ち出すような事例がしばしば見られること、それらについて、問題意識を持っていることについては、理解します。それらを排除するものとして、たとえば、著作権法や検証可能性を過度に厳しく運用することには、反対したい、というのがぼくの立場です。検証可能性や「独自研究を載せない」ことをきちんと運用し、百科事典的な記述とは何かということを考え、必要ならWikipedia:著名性を方針化するとか、そういうことで、十分対処できる、と考えます。検証可能性というのは、おそらく、より検証可能なもの、より信頼できるもの、という、いくらかの段階があって、徐々に、記事として適切な物に改められていくべきものだと思うのですね。--Ks aka 98 2007年7月30日 (月) 18:29 (UTC)
- Y tambeさん、Ks aka 98さんのご意見に賛同します。方針の「一次でなく二次」というのは、情報の信頼性や「中立的な観点」からきていると考えます。これは一次資料によって書かれること自体を否定しているのではなく、より高次の資料があれば、それに基づいてさらに信頼性が高く中立的な内容に書き換えられていくべきだ、ということです。その意味では、検証可能性が満たされる情報であっても、より信頼性の高い情報があればそれに基づいて淘汰あるいは昇華されていくわけで、一次資料で書くな、書いたら消す、というような論理とは異なる方向性でしょう。
- 「検証可能性」を理由に除去される内容が、記事にとって重要あるいは必要かどうか議論されないのは、本質的でも建設的でもありません。この方針を文章除去の手段として用いることで、逆にこの方針を盾として、要不要にかかわらず文章除去を阻止しようとする反発が生じます。こうした不毛などうどう巡りは、これまでの議論でもすでに現れており、プロジェクトの成長を阻害する要因になってきつつあると考えます。--みっち 2007年7月31日 (火) 02:06 (UTC)
- どうなんでしょうね。英語版ウィキペディアに関する議論では、家の蔵からでてきた文書のような未発表一次史料は "reliable source"とはみなされず除去の対象となるようなんですが……。寄稿者が自分の寄稿分には責任を負うということとは別に、そのまま情報の真偽を保証する能力をもつとは考えない、既発表資料でのみ構成できる内容を寄稿する、ということが cite source ということなのだと理解しています。情報の豊かさということでは劣るのでしょうが、それをやりたいなら「まずどこかに発表する」ということが求められているのだと思います。それが "no original research" ということなのではないでしょうか。似たような例として、未発表草稿をウィキソースは受け付けませんが、受理された学位請求論文は受け付けています。ウィキペディアは情報の信頼性を担保しないと宣言しており、かつ寄稿者が単独で信頼性を担保する能力もないとみなす、外部機関にそれをゆだねる、ということがこの方針の根幹にある精神なのではないですか(英語版には don't speak of authority かなんかいう格言もあります。「私は専門家だから」ということを出典付記の義務とすりかえるなというほどの意味です。ウィキペディアの投稿者はそれとしては情報の真偽性を保証する能力がない。外部ソースにのみ依拠してそれが可能になる、という発想と同根だと考えます)。Ks aka 98 さんのご主張は、なるほど情報量の多い情報源を構築するのには役に立つのでしょうが、しかしウィキペディア・プロジェクト総体が向かっているのとは別の方向性に傾いているように感じます。--Aphaia 2007年7月31日 (火) 02:34 (UTC)
- 未発表一次史料については、それを基にした記述は独自研究であり除去の対象であると書いているつもりです。「既発表資料でのみ構成できる内容を寄稿する」「寄稿者が単独で信頼性を担保する能力もないとみなす」には、完全に同意しますし、これに反する主張をしているつもりはないのですが…。--Ks aka 98 2007年7月31日 (火) 04:42 (UTC)
いろいろなご意見、ありがとうございます。話題が拡散しかけているので私なりに整理させていただいて幾つかの論点に引き戻させてください。まず、皆さんの意見を読みながら、「なぜWikipediaは文献検証を重んじているのか」は本文解説記事で今一度強調してよいポイントだと思いました。ひとつには、文献検証は学問領域で長く培われた方法論として有力であって、図書館のアーカイブという存在によって支えられているので大きな効力を持っているということ。もうひとつ、文献については「信頼できる文献」とそうでない文献が一応判別できる(ことになっている)というのも重んじる理由としてあげられると思います。だから、文献による検証可能性を優先しているのだということを、今後の新規編集者に対して強調しておくことはやっておくべきだと考えました。
文献でないビデオや音声資料の扱いについては、その資料が存在していることが確認できて、原理的にアクセス可能であり、将来に渡ってアクセス可能なまま保存される見込みがあること。そしてそれが2次資料であるならば、その著作責任を負う主体が明確であり、それが専門家によって妥当な資料だと認められていること。それが、どれだけ満たせるかで出典としての軽重が計られることも書いておいてよいのではないかというのが私の(皆さんの意見によってまとめ直してみた)二つ目の意見です。
もちろん、こういう厳密な検証可能性基準によって記事を排除していくのだとしたら、多くの編集者にとってはあんまり面白くない事態でしょう。私もサブカル関係の記事を少しは編集していますので、その気持は分るのです。だから、検証可能性という見地からみると不十分な記事に対しては、あるところで許容しながらも「この状態は不十分だ」ということを明記して編集者の方々に認識していただく努力をしなくてはならないし、「そういう映像がブツとしてあるんだから問題ないだろ」だとか「ゲームをやっている人には常識なんだし、ゲーム機というブツがあるんだから文献なんて必要ないんだ」というような主張をされる編集者が開き直れないような歯止めとしてのガイドラインは書いておくべきだろうなと考えました。--おーた 2007年7月31日 (火) 14:37 (UTC)
- MLA方式というのがどんなものか知らなかったので、マニュアルを買いました[*]。夏休みだし、ちょっとお勉強を。学術論文のスタイルマニュアルであるわけですが、文字情報も非文字情報もふくめ、典拠の記載の方法が詳しく解説してありますね。記載の書式自体は英語のものですが、「典拠を記載したと言いうるためにはどんな情報が必要か」ということを理解するうえでは、とても有用だとおもいます。
- もちろん、ネット上の情報や、写真などの非文字情報も、記載することによって典拠とすることができると解説しています。が、
- ネット上の情報については、「電子テキストは印刷テキストほど安定不変ではない」から「印刷物の記載がふつう提示するよりも多くの情報を提供しなければならない」としています (5.9.1 pp.241ff)。顕著な例として、公開/最終更新日付、アクセス日付、さらには印刷媒体で同じものが公表されている場合にはその出版日付をも記載する (情報量3倍) というものを挙げています。
- 写真、絵画などについては、記載とともに写真そのものを提示する (どちらかいっぽうだけではない) ことを前提に解説がされているようにおもいます (5.8.6 pp.233f)。
- これらの解説は、このノートでもしばしばみられる主張 --- 「現物を見れば確認できるんだから検証可能だ」(大意) というのとは、まったく逆です。むしろ、現物を見聞きする以外に確認しようがなものは典拠から排除する、という姿勢と言えるでしょう。厳密な記載によって情報源の信頼性を確保しようとする姿勢であって、そのことを説明せずに「学術論文では非文字情報も資料として採用されている」と言ってしまうと、誤解を招くのではないかとおもいます。
- 言いかたを変えると、「典拠としてきちんとした記載がなされているかどうか」という外形的な検証だけで、情報源の信頼性はかなりの程度まで判断できる、ということにもなります。たまに見受けられる主張として「(削除依頼の審議などで) 『独自研究だ』とか言っている連中の多くはその記事の分野の素人だから、指摘は失当である」(大意) というものがありますが、外形的な検証に耐えるだけの典拠の記載すらせずにそういう主張をしても、ひとりよがり (≒独自研究) でしかないわけです。
- ところで、このノートでの議論って、しばしば情報源の信頼性についての話題とかぶっているようにおもいます。なので、適宜Wikipedia‐ノート:信頼できる情報源に誘導したほうがよくないでしょうか。
- ジバルディ, ジョゼフ『MLA 英語論文の手引 (第6版)』北星堂書店、2007年4月。ISBN 4-590-01170-7。目次
私も「MLA 英語論文の手引 (第6版)」を見てみました。まあ、なるほどねという感じです。「典拠にしたいんだったら、このくらいしっかり書くべきなんだよ」という話には使えそうですね。それから、この本を読みながら改めて一次情報源の出典明記は大変なんだと改めて思いました。明記したところで読者がその情報に辿り着けるかどうか分らないケースもいっぱいありますが、それでも著者の「私はここで見た」という主張を支えるために典拠を書いておくわけです。ところが、Wikipediaでは、できるだけ編集者にその手の主張責任を負わせないという考え方に基づいていますから、この手の一次情報源資料は使うべきではないと思います。そうした誰にでもアクセスできるとはかぎらない一次情報源資料に基づく記述は削除するべきなのか、あるいは「二次情報源資料が必要だ」という注意を促して記述を置いておくのかそのあたりのガイドラインは必要かもしれませんね。--おーた 2007年8月10日 (金) 02:52 (UTC)
ただ、問題は画像や写真や映像を検証可能性を示すためにアップロードすると著作権の問題に触れるという点に問題があるのです。--マルシー 2007年9月27日 (木) 02:40 (UTC)
「真実かどうか」よりも「検証可能かどうか」
[編集]この節を、内容を変えずに文章を分かりやすく書き換えてみました。もとの文章は、「真実でないのに検証可能」なものが存在するように読めてしまって、少し変だったので。
変更したのは以下の箇所です。
- タイトルの『「真実かどうか」よりも「検証可能かどうか」』を『「真実かどうか」に加えて「検証可能かどうか」』に変更。
- 『ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」』の後半を『「真実かどうか」だけでは駄目で「検証可能かどうか」』に変更。
- 『検証可能であることと真実であることの違いは、次の例で見ればよくわかる』を『単なる真実と検証可能な真実の違いは…』に変更。
219.35.139.100 2007年7月13日 (金) 16:34 (UTC)
- 差し戻しました。文意がまったくかわってしまうので。変更は議論して合意をえてからにしてください。 --Hatukanezumi 2007年7月13日 (金) 16:37 (UTC)
- 変わりますか?
- どこが変わったと思うか教えてください。
- 219.35.139.100 2007年7月13日 (金) 16:42 (UTC) インデント修正 --Hatukanezumi 2007年7月13日 (金) 16:44 (UTC)
- 「真実かどうかを判断する必要はないし、すべきでない」という意味の文章が、「真実かどうかを判断するのは当然である」という意味に変わっています。 --Hatukanezumi 2007年7月13日 (金) 16:44 (UTC)
- なるほど確かに。「真実かどうかを判断する必要はないし、すべきでない」のソースを教えてください。根拠があれば、この一文を本文に付け加えたいので。219.35.139.100 2007年7月13日 (金) 16:47 (UTC)
- ソースというか、現在の当方針に書いてあることだとおもうのですが。「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」の節の第2段落以降。とりあえず、ほかのかたのコメントを待つことにします。 --Hatukanezumi 2007年7月13日 (金) 16:52 (UTC)
- 「Verifiability, not truth」というのは検証可能性の要諦そのもの。それを真っ向から否定してどうするんだ。オリジナルの英語版の方針文書を熟読しろ。en:Wikipedia:Verifiability --222.12.149.36 2007年7月13日 (金) 16:54 (UTC)
- 第二段落以降は「独自研究を書くな」と書いてあるだけです。「嘘の記事を書いてはならない」のは自明な以上、(独自研究ではなくかつ検証可能な)「真実の記事を書くべき」というのは当り前なのでは?219.35.139.100 2007年7月13日 (金) 16:58 (UTC)
(反対)「検証可能であれば事実である」と言うのは恐らく正しいでしょうが、改編後の文章では「事実である事よりも検証可能である事の方が重要である」と言う文意が弱くなり、この方針の趣旨をぼやかしてしまう様に思います。--疾如颯2 2007年7月13日 (金) 17:01 (UTC)
いや、むしろ逆にそこを強調したいが為に文章を変更したつもりなのですが。 何も知らない人が今の記事を読むと「え?事実じゃない検証可能な事ってないはず。意味が分かんない」となりそうで、どうも文意が分かりにくい気がしてます。なので変更したいわけです。219.35.139.100 2007年7月13日 (金) 17:04 (UTC)
- 真実かどうかを優先させると、真贋論争がwikipedia上で起こります。真贋論争はwikipediaの役割ではありません。真実と検証可能性の両方を求めるのではなく、検証可能性のみを求め、それが結果的に真実性に近くなるであろうという考えです。(追記)変更には反対ね。--Los688 2007年7月13日 (金) 17:05 (UTC)
- なるほど、そうかも知れませんね。しかしやっぱり今の文章はどうも意味不明な気がします。(もちろん熟読すれば分かるのでしょうが)。そこで逆にHatukanezumi さんの「真実かどうかを判断する必要はないし、すべきでない」を書き加えたいのですが、どうでしょう。219.35.139.100 2007年7月13日 (金) 17:11 (UTC)
- よく読めば分かると思いますが、検証可能性で言う「検証」とは、ウィキペディアに記載する内容が主要メディアや権威のある学術誌などにおいて既に発表された、信頼のおけるソースに裏付けられたものであるかどうかの検証です。ソースの有無の検証であって、内容自体の正しさの検証ではありません。仮に誤った情報であろうとも、社会的に広く認知された権威のある学者なりが主張する意見であれば、それはウィキペディアに記載するに値します。一方、正しい情報であろうと、それが誰も知らない名無しのネットユーザーが一人主張しているだけのものであれば、記載するに値しません。Hermeneus (user / talk) 2007年7月13日 (金) 17:15 (UTC)(インデント変更219.35.139.100 2007年7月13日 (金) 17:16 (UTC))
- それはこちらも承知のつもりですが。219.35.139.100 2007年7月13日 (金) 17:16 (UTC)
ウィキペディアにおける検証可能性について、何か誤解されることもたまにあるようなので、よい文案があれば修整したほうが良いのであろう、とは思います。しかし 219.35.139.100 さんによる編集が適切なものであるとは思えません。というか「真実かどうかを判断する必要はないし、すべきでない」というのはWikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」にすでに書いてあるのですが。普通の人が普通に読んでわかりにくいというのであれば問題ですが、今の文章はそんなにわかりづらいでしょうか? --Calvero 2007年7月14日 (土) 06:43 (UTC)
- 自分で言っといてなんですが、「真実かどうかを判断する必要はないし、すべきでない」はストレートすぎるとおもいますね。方針というのは、読んだひとが自分で考えて理解すべきものですので、現在のように、ある種含みをもたせた表現になるのだとおもいます。わかりやすいというのと、単純直截な表現であるというのとは、ちょっと違うような。 --Hatukanezumi 2007年7月14日 (土) 07:07 (UTC)
「真実かどうか」よりも「検証可能かどうか」は、少し誤解されやすいのですが、「真実かどうか」どうでも良いという意味ではなくて、例えば、「ネス湖にネッシーがいる」(古い!)「その証拠は?」「俺が見たから真実だ」を避けるためにも、その「真実」が「客観的に検証可能性かどうか」です。「真実」が重要なことには変わりはありません。検証(ネットで拾った)出来たから何でも書いて良いと言う意味ではありません。文字通り”フリー”でいるためには、真贋論争に発展しそうな記事は、それがなければ記事が成立しない場合以外は記載しない(削除)ことがベターのようです。--Yanoken 2007年8月23日 (木) 09:23 (UTC)
- 記載の方向性を変えるという手はあります。たとえば「ツチノコは実在する」「その証拠は?」「俺が見たから真実だ」はだめです。しかし、きちんとした文献や当時の新聞記事なんかに基づいて、「爬虫類学者の○○はツチノコを捕獲したと発表したが、実物は公開されなかった」「19XX年に○○村では村興しのためにツチノコ探索隊を組織して総出で捜索したが、ついに発見できなかった」などと、ツチノコブームの全体像をある程度髣髴させるような実例を記載する、ということはできます。この場合、「真贋論争が起こった」ということそれ自体を記載しているのですから問題ありませんし、百科事典の記事としても望ましいことです。問題になる例のひとつは、執筆にかかわる人同士が真贋論争をはじめてしまうことです。 --Hatukanezumi 2007年8月23日 (木) 13:55 (UTC)
お願い
[編集]ノート:伊東美咲において、「日刊スポーツのインタビュー記事は出典に採用不可か?」と題し、検証可能性に関係が深い議論があります。ぜひともご参加をお願いします。ギル 2007年7月30日 (月) 03:45 (UTC)
Wikipedia:検証可能性#方針をこのまま存続させるべきか?
[編集]すでに米国版ではこのような要約はみられません。また要約(方針)の内容が地の文章と一致していません。
- 『1.記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです』とあるが、地の文では『良い記事を執筆するためには~のみ言及すべき』とあり過剰定義(記事⊃良い記事)となっている。
- 『2.~出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。』とあるが、地の文にはこのような主張を裏付けるような記載は無い(かつては在ったようだ)。かつての編集方針の残滓と思われる。出典が明示されていない場合は出典を要請し、ノートなどで検証したうえで編集する、というのが現行指針であり「除去されても文句は言えません」などという攻撃的な方針ではない。
- 『3.出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。』とあるが、地の文にはこのような主張を裏付けるような記載は無い。そもそも出典を示す義務を課す、などと強圧的に出て、腹を立てた原投稿者がAMAZONやGoogleなどのキーワード検索を利用して出典情報を捏造したり、正しく引用していなかったりした場合、このような強圧的な要求をした側がそれを検証してくれるのか?(検証する義務は出典を要求した側にある)。
すくなくとも地の文に無い提言であり、米国版にもこのような方針は無い。
以上の観点から、Wikipedia:検証可能性#方針は除去するのが妥当だと提案いたします。--125.202.238.6 2007年8月1日 (水) 08:31 (UTC)
- 英語版にも、たとえば
- Editors should provide a reliable source for quotations and for any material that is challenged or is likely to be challenged, or it may be removed.
- というような文は残っているので、単純な除去には賛成しかねます。構成を適宜修正する、アップデートするというご意見ということには、特に反対しません。--Ks aka 98 2007年8月1日 (水) 08:42 (UTC)
検証可能性#方針の英語版記事の初出は20:53 31 January 2006の編集です。このスタイルが日本語版に翻訳されて現在も掲載されています。英語版ではその後、この「方針」が「nutshell」に入れられますが、最終的には01:33 28 May 2007でシンプル化され、その後記述を変更したうえで現在に到っているようです。なお、シンプル化する過程でAttributionへの統合とジンボ氏による差し戻しの騒動があったようで、この過程での議論が関係しているかもしれませんが、さすがにその過程での議論の詳細は追いかけられませんでした。日本語版では過去ログの最初期版に、当テーマに関する議論が見られます。--125.202.238.6 2007年8月1日 (水) 12:29 (UTC)
- 特に英語版に合わせるという必要は無いと思います。日本においては、「2ちゃんねる文化」が発達しており、出典の無い記述・あるいは悪戯に近い記述をしておいて、編集されたり除去されたりすると、方針そっちのけで「文句を言う・言い続けてコミュニティを疲弊させる」ということが多いのです。ノートが「チャット状態になる」ことも見られました。それを唯一、抑止していたのが、その「文句は言えない」の記述です。ですから、本文に無いならば、むしろ本文に詳述すべきだと考えます。それから、出来ましたら、ログインして、いつものIDで議論に参加して下さい。--Album 2007年8月1日 (水) 13:09 (UTC)
投稿者を楽観的に信用しすぎていると考えます。むしろWikipediaの投稿者は基本的に素朴で善意に満ちた方が中心で、あいまいな投稿を繰り返す投稿者に対しては、出典が提出できないという一点で押し返しさえすれば、その(知的レベルの低い)投稿者はガッカリして投稿を諦めるだろう、といった観測が前提にあるのではなかろうか。悪意ある投稿者にとっては出典の捏造など非常に容易なことであり、それこそGoogleやAmazonなどで検索すれば捏造に好適な書籍名などいくらでも発掘することができます。むしろ捏造者や「独自研究者」にとって困るのは現実に検証されること、そのものであってそれ以外にない。出典の明示は知的レベルの低い投稿者を排除するための品質保証の基準(フィルター)にはなっても、悪意ある投稿をふくむ記事内容の品質保証にはならない。Wikipediaとして重要なのは「我々無名の読者はいつでも投稿された記事の実在を検証していますよ(実質論)」というスタンスを明確にすることであって、「出典のないものは削除しますよ(形式論)」などという安直な宣言ではない。実質論の担保のために出典は要請されるというのが正統な編集方針ではないか。
上の発言とは別に、米国版では検証可能性#方針に相当する原文はすでに除去されており、また現状の米国版・日本版の地の記述に対しても検証可能性#方針はかならずしも一致していません。--125.202.238.6 2007年8月1日 (水) 15:41 (UTC)
- 英語版(米国版ではありません)では、方針の要約部分 (This page in a nutshell) がシンプルな表現に変更されているものの、方針の内容そのものは特に修正されているようには見えません。"The burden of evidence lies with the editor who adds or restores material."も、"Any edit lacking a source may be removed"も、残っています。「現状の米国版・日本版の地の記述に対しても検証可能性#方針はかならずしも一致していません」は、事実誤認ではないかと思います。--Dwy 2007年8月2日 (木) 05:35 (UTC)
英語版について。一文目「訳:証拠を論(あげつら)うための負担は編集者がおこないます」とはあるが「除去を求める側ではありません」とは記述していない。これは非常に重要な相違点です。二文目「訳:どんな編集でも出典情報が欠けているものは除去されてしまうかもしれない」とはあるが「除去されても文句は言えません」とはない。要するに無用に挑発的な記述が残っている、その点を修正・除去したいというのが提案の趣旨です。--125.202.238.6 2007年8月2日 (木) 06:24 (UTC)
- 違いが気になるのでしたら、たとえばですが、米国版の方を修正するようにしたらどうでしょうか?無用なノートの消費が減少すると考えます。--Album 2007年8月2日 (木) 10:41 (UTC)
英語版については現状のバージョンで適切だと考えております。日本語版の現状に問題を感じている一方で英語版の記事を修正する必要を感じておりません。--125.202.238.6 2007年8月2日 (木) 12:58 (UTC)
- それでは、同方針の「There seems to be a terrible bias among some editors that some sort of random speculative 'I heard it somewhere' pseudo information is to be tagged with a 'needs a cite' tag. Wrong. It should be removed, aggressively」に完全に同意されるわけですね。--Album 2007年8月2日 (木) 13:08 (UTC)
強調部は「アグレッシブに除去すべきです」という邦訳で「除去されても文句は言えない」というものでは無いですね。私は個人的には「ひどいバイアスが編集にあって、むちゃくちゃな観点や「どこかで聞いたことがある」などというあやふやな情報が「要出典」とされているような場合があるようだが、そのありかたは間違いで、そのようなものは積極的に除去すべきだ」という文脈には、まさに積極的に同意いたします。--121.112.164.199 2007年8月2日 (木) 15:54 (UTC)
- 一部の編集者には、聞きかじりであてずっぽうの贋情報には要出典タグを貼るべきだという、おそろしい先入観があるようだ。そうじゃない。そういう記述はアグレッシブに除去すべきなんだ。
- というわけで、"terrible bias"というのは「あいまいな情報には要出典タグを貼ればよいという考え」のことを言っているのであって、「ひどいバイアスが編集にあって・・・」は誤訳だと思います。--Dwy 2007年8月3日 (金) 13:48 (UTC)
日本語版は、実は柔らかで、残しておく余地がまだあるかのように書いてありますね。ところが英語版では「出典の無い記述は残しておくな」ですから強固です。文句を言う余地すら最初から無いかのようです。該当部分を転記しましょうか?--Album 2007年8月3日 (金) 13:42 (UTC)
もどかしいので、英語版の日本語訳を張っておきます。太字は私によります。--Album 2007年8月3日 (金) 13:59 (UTC)
一部の編集者の間には、「どこかで聞いた」などといった推測の域を出ない擬似情報の類には「要出典」タグを貼ればよいといった恐ろしい思い込みが見られる。ちがう、ちがう。ソースが出せない擬似情報は積極的に(aggressively)取り除くべきものなのだ。これはあらゆる情報についていえることだが、わけても存命人物の否定的記述については特にあてはまる。
Wikipedia:存命人物の伝記からの引用ですね?出典は[1]。英語版の検証可能性(Wikipedia:Verifiability)には原文が採用されています。日本語版では柔らかで残しておく余地があるように読める、というのは「・・もしも出典を示す機会を与えずに記述を除去すると・・」の一文でしょうか?これはあたりまえの事ではないのですか?出典開示を求める期間が否定されれば、無名の一読者が原投稿者から情報源の開示をもとめる貴重なチャンスが失われてしまいます。--58.95.145.58 2007年8月3日 (金) 20:44 (UTC)確認したところ英語版に「・・もしも出典を示す機会を与えずに記述を除去すると・・」に対訳する一文が存在していました。この箇所は英語版からの翻訳導入かもしれません。--58.95.145.58 2007年8月3日 (金) 21:56 (UTC)
「方針」の誤訳について
[編集]上の「検証可能性#方針の存続/廃止や、米国版と日本版の一致/不一致」とはまた別の問題かもしれませんが、この日本語版「方針」には実は重大な誤訳が含まれています。また誤訳箇所から間違った解釈など引き出されて編集合戦になったりノートが荒れる例もありますので、念のためご報告しておきます。
原文の「Policy」
[編集]- Articles should contain only material that has been published by reputable sources.
- Editors adding new material to an article should cite a reputable source, or it may be removed by any editor.
- The obligation to provide a reputable source lies with the editors wishing to include the material, not on those seeking to remove it.
翻訳すると
[編集]- 記事には、信頼できる出典1が開示2する内容だけを書くべきです。
- 記事に新しい内容を加筆するときは、その出典1を明らかにするべきです。それがない場合は、他の編集者によって3その加筆が削除される場合があります4。
- 出典を明示する責任があるのは5加筆を望む方6であり、削除を望む方6でありません。
解説
[編集]- 「sources」とは「出どころ」、すなわちそれ自体が「出典」を意味します。「信頼できる情報源」という語には必ずしも「開示されている」という条件が伴わないので(例えば「祖父が生前よく話して聞かせてくれたこと」でも、祖父を信頼するのならも彼も立派な「信頼できる情報源」)、この言い回しは避けた方が良いのでしょうか。
- 「to publish」は原義が「開示する」「公表する」で、「出版する」はそこから出た第二義ですから、「公表・出版している」とすると重複になります。
- 重要「any editor」は「他の編集者」で、含意はあくまでも「編集の過程での削除」です。「誰でも取り除くことができます」とすると、これが示唆するのは「当然の帰結としての自動的な削除」といったところで、ニュアンスが威嚇的です。
- 重要「may be removed」の may は、許諾の may (〜しても良い) ではなく、可能性の may (〜場合がある) で、それが受け身「削除される」(be removed) についているのですから、これは単に「削除される場合があります」という意味です。「誰でも取り除くことができる」とか「除去されても文句は言えない」などといった厳しい口調や威嚇的なニュアンスはまったくありません。
- 重要「the obligation of A lies with B」は「A件の責任はB氏にある」で、「B氏はA件を行う義務を負う」という意味ではありません。この両者は日本語でもよく混同されることがありますが、前者は「A に関する責任の所在」を言っているのに対し、後者は「(法令や契約の定めるところにより) B氏が必ず行わなければならないこと」を言っているもので、観点が異なります。
- 「wishing」はあくまでも「望む」で、原文では双方に等しく使われています。日本語の「書き加えようとする」にはごり押しする邪魔者のニュアンスが、「除去を求める」には冷静な被害者のニュアンスがあり、中立性を欠いています。
提案
[編集]この「方針」が存続する場合は、少なくとも文言に必要な訂正や修正をほどこすことも検討した方が良いのではないでしょうか。PANYNJ 2007年8月2日 (木) 17:58 (UTC)
この誤訳はPANYNJさんだけが指摘したのではありません。MLでも別の方によって指摘されています。--Alles 2007年8月2日 (木) 20:32 (UTC)
- 仮に「日本版は英語版にかしずく」という基準があるならば、ただ英語版の翻訳だけしておれば良いことになります。ここでの議論は無意味となり、「ただ正確に翻訳せよ」」だけが日本人に許された行為となります。
- しかし、そんな意識の低いことではダメです。英語版よりも優れた日本版によって、英語版を訂正していくくらいの意識を持って下さい。私はすでに英語版の基準の一部を書き換えて、その一部は定着しています。(もちろん別IDで)。これからもどんどん英語版に手を入れますよ、私は。--Album 2007年8月2日 (木) 22:04 (UTC)
- 「英語版よりも優れた日本版」(日本語版の誤り)とありますが、ウィキメディア財団に所属する何名が「優れた」とみなすか、幅広く意見を伺いたいものです。定着された箇所を教えていただけないでしょうか。楽しみです。--Alles 2007年8月2日 (木) 22:24 (UTC)
Wikipediaはあきらかに文の集積体であり、紛争の大半は文の書き方に起因するものと想像されます。Wikipedia:検証可能性#方針に見られる記述は挑発的で紛争を招き、また「日本語版の地の文」に裏付けられていない。「英語版の地の文」にも裏づけが無い。よって編集するか除去するのはどうか、というのが提案の趣旨です。『英語版に忠実に従うべきか』というのは傍論であり提案の本旨には影響がないものです。現在の英語版にはWikipedia:検証可能性#方針に相当するものが除去されているので、日本語版も除去してはどうか、というのは提案です。--121.112.164.199 2007年8月3日 (金) 02:22 (UTC)
- そのロジックでいくと、より強固でアグレッシブな方針が英語版で出てくれば、日本語版も同じくアグレッシブにする、ということでよろしいのですね?「みなさぁん!!英語版が編集されました!!いまや日本語版は誤訳です。さあ!日本語版を英語版様にあわせましょう!!」ということですか?ならば、ここで議論に勝つには、先に英語版を制せよ、ということになってしまいますね。--Album 2007年8月3日 (金) 13:28 (UTC)
Wikipediaは米国発祥のプロジェクトで主催者が米国人ということもありますので、実際にそういうことでしょうね。英語版で重要な変更が行われたと報告があった場合、それに見合うような日本語版のルール改定をおこなう、というのは日本語版Wikipedianの慣習的・一般的な態度だと考えます。直近の顕著な例はWikipedia:Attributionに関わる議論がありました。--58.95.145.58 2007年8月3日 (金) 19:54 (UTC)
英語版との差異・誤訳云々
[編集]若干、話が発散しているので新しい節を起こします。
英語版との差異や誤訳を仰られる方がいますが。私はそれらは日本語版を修正する必要性の根拠にはならないと考えます。方針を考える上で、統一するべきは方針が目指している目的・精神であって、文言ではありません。各国語版ごとに、執筆する人間の文化・常識・事情が異なる以上、同じ目的・精神であっても、それを実現するための文言が異なるのは当り前です。
例えば銭湯で「湯船に入る時のルール」を掲示するのに、日本語版では「先に体を洗う、手ぬぐいは湯に入れない」というのを「常識」として省略しても良いかもしれません。しかし、外国語版でそれを省略したら掲示としての意味を成さない、無価値な掲示となるでしょう。ルールの提示を考える時には、ルールを受ける側の背景への考察が抜けては話にならないわけです。
Wikipediaに話を戻せば、こういう公の場所に文章を書くときに、「検証可能性」の考え方が常識として定着している文化圏の人に提示するルールと、噂や思い込みを匿名掲示板に垂れ流す文化が定着している国の人に提示するルールとでは、自ずと提示するべきものが違ってくるのは当り前ということです。
繰り返しますが、「外国では」「××語版では」と、言葉の上っ面をなぞっただけの議論は無意味です。方針の精神・目的を踏まえ、それを日本語版の参加者の事情に沿って咀嚼したものがルールになっている現状には、一切問題がなく、修正の必要は全くありません。--はま 2007年8月3日 (金) 03:50 (UTC)
結論が分からないのですが。修正不要ということですか?最後の一文以外は結論とは全く関係のない事が書かれているようなのですが。修正・削除が不要であるという理由について説明いただけますか?--121.112.164.199 2007年8月3日 (金) 03:55 (UTC)「統一するべきは方針が目指している目的・精神であって、文言ではありません」とありますが、これはWikipedia日本語版の編集指針ですか?それともはまさんの提言ですか?--121.112.164.199 2007年8月3日 (金) 03:59 (UTC)他の言語版(特に英語版)の精神や、その目指す目的を中正妥当な翻訳で日本語版に導入して作成したものが、現在のWikipedia:検証可能性の地の文だと考えます。冒頭の検証可能性#方針は、その地の文に裏づけの無い文言があるので修正・削除すべきではないか?と先の議論で提案しております。--121.112.164.199 2007年8月3日 (金) 04:08 (UTC)
- 「全く関係のないことが書かれている」のではなく、貴方の頭で「関係のあること」が理解できないだけに過ぎません。「一切問題がなく、修正の必要は全くありません」と子供でも分かる明確な結論に対して「結論が分からない」と言うような方に、何を説明すれば良いのでしょうか?「これはWikipedia日本語版の編集指針ですか?それともはまさんの提言ですか?」⇒どちらでもありません。「ルール」というものの特性・本質です。その特性・本質が「修正が必要である」という貴方の意見への反証であり、すなわち「修正・削除が不要であるという理由」のこれ以上ない明確な説明です。理解できないなら、理解できるまで何度でも読んでください。--はま 2007年8月3日 (金) 04:39 (UTC)
哲学的すぎて適切な理解が追いつきません。検証可能性#方針を変更する必要がない理由は「ここが日本語版であるから」という一点で宜しいでしょうか?--60.47.107.204 2007年8月3日 (金) 09:03 (UTC)
- 哲学的でも何でもありません。子供でも分かる平易な内容です。逆に聞きますが「検証可能性#方針を変更するべきだ」と考える根拠は、「英語版と異なるから」という一点で宜しいですね?--はま 2007年8月3日 (金) 09:42 (UTC)
1.日本語版の「地の文」に裏づけの無い表記がある。2.英語版では除去されている。3.過去の英語版から導入されたものである4.日本語版への導入の経緯で誤訳がある、以上の4点です。--60.47.107.204 2007年8月3日 (金) 10:08 (UTC)
4点あるように見えますが「裏づけがない表記」の「裏づけ」とは英語版のことですから「英語版と異なるから」ということですね。2,4はそのまま「英語版と異なるから」。ただし誤訳というのも単に一部の人の主張に過ぎませんが。3については意味不明で、だからどうした、という感じです。いずれにしても「英語版と異なるから」のただ一点に集約されるということで正しいですね。まず自分が何を主張しているのか、正確に自覚することから始めないことには話しになりません。--はま 2007年8月3日 (金) 10:18 (UTC)
- 誤訳です。主張ではありません。ここを強弁されるとは驚きです。つぎに日本語版の「地の文」に裏づけの無い表記がある、と記載いたしました。英語版ではありません。どう読めば日本語版=英語版と読めるのですか?失礼ですが、すこし議論の対象者としての資質を疑い始めました。--60.47.107.204 2007年8月3日 (金) 10:22 (UTC)
- Dwyさんの前に割り込みます。
- 最初に自分の読解能力の無さを他人のせいにしないで下さい。議論の対象者としての資質に問題があるのは貴方です。なにしろ、自分の主張すら自覚できな方なのですから。
- 誤訳については、Dwyさんが述べている通りです。事実は単に「英語版と異なる」というのみであって、それを「誤訳」と取るか「日本語版の状況に合わせた意訳」ととるかは、人によって解釈が分かれるということです。
- また「どう読めば日本語版=英語版と読めるのですか?」とのことですが、私はそんなこと一言も言っていないので、単に貴方が文章読解力がなく、自己の主張を自覚する能力がない人間であることの証明にしかなりません。貴方が『「日本語版の地の文」と「検証可能性#方針」に差異があり、地の文が正しく、#方針が不適切だ」と見なすことは、すなわち
- 「日本語版の地の文」は「英語版」に則っている。
- 「英語版」が正しさの基準である。
- と考えているからに他なりません。総合すれば、貴方は「#方針」は「英語版」に記載された内容と乖離していて、故に裏付けがない、と主張しているのと同じです。
- 少しは自分が何を喋っているか自覚できましたか?他人の能力を疑う前に、自分を見つめなおすこみとをお勧めします。--はま 2007年8月3日 (金) 10:50 (UTC)
- ご忠告参考にいたします。--60.47.107.204 2007年8月3日 (金) 10:52 (UTC)
- 提案されている修正に反対します。
- 1.日本語版の「地の文」に裏づけの無い表記がある。
- 裏付けがないとは思わないが、もしないとするなら、むしろ地の文に加筆修正を行うことにより対応すべき。
- 2.英語版では除去されている。
- 「方針」に対応する章は除去されているかもしれないが、英語版のルールそのものは変更されていない。
- 3.過去の英語版から導入されたものである
- ここで問題になっている部分に関する限り、過去の英語版と現在の英語版に基本的な違いはない。
- 4.日本語版への導入の経緯で誤訳がある
- 日本語版の状況に合わせた「意訳」はあるかもしれないが、「誤訳」はない。--Dwy 2007年8月3日 (金) 10:24 (UTC)
「1.むしろ地の文に加筆修正を行うことにより対応すべき」これはあって然るべき議論だと考えます。2.3.は結局4.に関わる問題で、翻訳の段階で翻訳者が「意訳」をおこなうことで、Wikipediaコミュニティに合意のない宣言文が突然採用されてしまいます。この点が非常に重要です。過去ログの議論によれば、そもそも過去ログの当初の翻訳案には直訳が用いられていました。DWYさんが論陣を張られてこのような「意訳」(私が言うところの誤訳)になったようですが、やはりしっくりきません。というのは、日本語版の「地の文」が英語版の直訳をもとにしているのに検証可能性#方針が「意訳」(誤訳)になっているためです。地の文を変更すべしという論陣を張られるのは歓迎ですが、私の提案ではそこまでは敷衍しないつもりです。--60.47.107.204 2007年8月3日 (金) 10:44 (UTC)
- 念のために言っておきますが、「意訳」と言った時に私が念頭においていたのは「文句は言えません」のところであって、「誰でも取り除くことができます」ではありません。「誰でも取り除くことができます」は全くの直訳です。これを「他の編集者によって取り除かれるかもしれません」と訳す方が、むしろ、ある意味(英語版での運用から判断して)「誤訳」です。
- また、本方針が「日本版における公式な方針」になるまでには相当の時間を費やして議論が行われましたから、「Wikipediaコミュニティに合意のない宣言文が突然採用されてしまいます」は少し的外れだと思います。--Dwy 2007年8月3日 (金) 11:26 (UTC)
編集競合しました。検証可能性#方針の第2、いちばん問題の多い「意訳」(誤訳)がはじめて登場したのはこの時点におけるかえで氏の編集(2006年7月21日(金)14:32)のようです。この文案が登場した経緯の詳細は追跡できないのですが、このような意訳(誤訳)がいきなり登場して、それがこの時点でNaisi氏が押し返そうとしたのですが(2006年11月11日(土)15:27)なし崩しで採用されているように見受けます。問題としたい翻訳は「it may be removed by any editor」でこれを素訳「他の誰かに除去される可能性があるためです(Naisi氏の案)」とするか意訳「誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)(かえで氏の案)」とするかです。過去ログを読む限り議論の集結なく意訳が採用されたようです。私が素訳すれば「it may be removed by any editor:任意の編集者により取り除かれるかもしれない」といった意であり「除去されても文句は言えない」などといった強圧的なニュアンスは含まれていないと考えます。DWYさんの『~ある意味(英語版での運用から判断して)「誤訳」です』は注目すべきだと考えます。そうでしょうか?--60.47.107.204 2007年8月3日 (金) 11:48 (UTC)
- 出典のない文章を取り除かれた時、それを当然と考える人が大多数を占める編集者達に示す「方針」と、それに文句を言う人間が一定数存在する編集者達に示す「方針」は、文言が違ってくるのは当り前です。言葉の上っ面の裏側にある「行間」を明示する必要があるか、ないかだけの話です。だから冒頭のような話をして「英語版と違う、というだけでは書き換える必要があるという根拠にはならない」と立証してるんでしょ。貴方には理解できないようですけど。ついでに貴方の悪い癖ですが、自分の気に食わないものに対して「なし崩しで採用されている」とネガティブなレッテルを貼って強弁するのは、はっきり言って大人気ないです。--はま 2007年8月3日 (金) 12:00 (UTC)
- それを当然と考える人が大多数を占める編集者達に示す「方針」と、それに文句を言う人間が一定数存在する編集者達に示す「方針」は、文言が違ってくるのは当り前、、とありますが、あなたは日常生活でも法律をそのように解するのですか?--Alles 2007年8月3日 (金) 18:23 (UTC)
- 「法律をそのように解する」なんて話はしていません。「ある方針があって、それを文言としてどう表現するか」と「解釈」の区別もつかないないならでしゃばらないことです。--はま 2007年8月3日 (金) 19:00 (UTC)
- ある方針があって、それを文言としてどう表現するかとありますが、初めから誤りを含んだ文章を人に示し、その釈明も全くなく、「表現」云々でごまかすほうがよほどおかしいです。先ほど私が別項目の誤訳を指摘致しましたところ、酷く批判されましたが誤訳であることに変わりはありませんでした。しかも謝罪はありません。また利用者:Album氏は別IDで英語版の項をなおしたと主張していますが、どこなのかちっとも教えてません。そのAlbum氏は「みなさぁん」などと煽り文句まで口にしていらっしゃるようですが、、?--Alles 2007年8月3日 (金) 19:18 (UTC)
なにを意味不明なことをわめいているんだ?「初めから誤りを含んだ文章を人に示し」とは何を指しているんだ?そもそも「誤りを含んだ文」ということ自体、キミの日本語読解能力不足に起因する思い込みではないのか?「誤訳であることに変わりはありません」も結局はキミの主観に基づいた幼稚な駄々に過ぎない。文章訳など唯一の正解があるわけではないし、その文章の行間に含まれる真意を表現しようとすれば、言葉が変更されたり追加になったりするのは当たり前だ。キミ達の根本的な間違いは、文章の上っ面に踊らされて右往左往するばかりで、文章の真意・本質に立脚して思考する発想が無いところにあるのだよ。--はま 2007年8月3日 (金) 19:39 (UTC)
文章訳など唯一の正解があるわけではないし、とありますが、あなたはそれで外国語の成績が上がったのですか?--Alles 2007年8月3日 (金) 19:40 (UTC)
- 貴方よりよっぽど成績は良いでしょうな。「英文を訳すと誰がやっても唯一の文言にたどり着く」と考える人間の成績が良いわけがないですから。そもそも、もはや問題の本質に反論することもできず、幼稚な負け惜しみで溜飲下げて喜ぶしかできない人間に成り下がったということで良いですかな(笑)? --以上の署名のないコメントは、はま(会話・投稿記録)さんが 2007-08-03 19:47 (UTC) に投稿したものです。
- 署名が抜け、恫喝的な口調に変化していることから考えるに、あなたの言い分を認める方は「あなたの靴下」くらいではないでしょうか?誰がやっても唯一の文言にたどり着くなどと言わず、「誤訳であった」ことはお認めになられたほうが良いと思います。あなたの子供のような駄々こねは、余りよい気持ちがしません。--Alles 2007年8月3日 (金) 19:54 (UTC)
- 署名抜けを根拠に「だから、オマエは間違っている」的なことを言うのは、世間一般では負け犬の揚げ足取りと言います。反論したければ、揚げ足を取ったり「恫喝的だ」とレッテルを貼って自分の主張を押し通そうとするのではなく、相手の論拠をきっちりと崩して見せるべきでしょう。その程度のこともできない「議論のための議論を相手に吹っかけて喜ぶレベルの人間」を相手にしていれば、言葉遣いも乱暴になろうってものです。幼稚な揚げ足取りや強弁をしている暇があったら「英文訳には唯一の正解が存在する」「誤訳である」ということを貴方の靴下以外も納得させるレベルで論証・論破してみてはいかがかな。「あなたの子供のような駄々こねは、余りよい気持ちがしません」的なことは、自分がやるべき立証もできない人間が言うと失笑を買うだけです(笑)。--はま 2007年8月3日 (金) 20:06 (UTC)
編集競合しました。2006年7月14日(金)14:31におけるDwyさんの投稿が文案の初出ということで宜しかったでしょうか。--60.47.107.204 2007年8月3日 (金) 12:04 (UTC)
- 「文句は言えません」は、2006年4月16日 (日) 04:38のKanjyさんの投稿が初出。
- 「取り除くことができます」は、おそらく、2006年4月24日 (月) 14:15の私 (Dwy) の投稿が初出だと思います。
- 「英語版の運用」については、"Any edit lacking a source may be removed."という文章がどのような場面で引用されているか、こちらの検索結果でご確認ください。--Dwy 2007年8月3日 (金) 13:31 (UTC)
大変参考になります。「it may be removed by any editor」に「~除去されても文句は言えません」をあてる訳案はノートで議論が開始される以前の時点で提示されていたのですね。英語版での運用については、検証可能性のない投稿をリバートする際の有力な説得手段として引用する手法のようで、これは日本語版の状況と変わらないようですね。実際のところ、邦訳に「意訳:~除去されても文句は言えません」を充てるにせよ「素訳:取り除かれるかもしれない」を充てるにせよ、検証可能性のない投稿は除去すべきですし、とくに存命中の人物に関する投稿は即座にリバートすべきでしょう。
問題は「意訳:~除去されても文句は言えません」を充てた場合、前者に対しても後者のような即座のリバートを推奨するような強圧的なニュアンスが発生している点です。「地の文」では日本語版も英語版も、このあたりは慎重な書き方をしており(出典を示す責任は掲載を希望する側に)で適切な対処法が記述されています。非常にシンプルな言い方をすれば、方針として「~除去されても文句は言えません」と宣言したところで、リバートされた側はいくらでも文句をいえますし、現にあちらこちらで文句を言いながら紛争を繰り返しています。検証可能性についてはこうやって論争を繰り返しながら検証していく過程こそが重要であって「文句は言えない」と切り捨て論争を封じることが目的になっては本末転倒ではないか?ということです。--58.95.145.58 2007年8月3日 (金) 19:40 (UTC)
利用者:58.95.145.58さんの意見に共鳴します。現在の日本語版は「検証するのは面倒なので、ネット検索で見つからなければ、すべてRV」することになっていますが、これには理由があります。各界で通用した専門職が日本語版管理者の中に一人も存在しないからです。ポーランド語版の発起は二人の「専門職」の手で行われましたが、日本語版はそうではありません。実名を明らかにできないことは、自分の実力が外に知られるのがいやだと言うことです。すでに身元の割れた管理者も少なくありませんが、グーグル検索やALLTHEWEB検索で探しても公式BIOの類は一切見つかりません。つまりは「素人」です。
そのような「素人」に検証できるわけが、ないと考えるのが筋であります。「そんなのはでたらめだ」という反論もお待ちしていますが、現に日本語版の管理者が減っている事態からして、信用に直結しているのではないでしょうか?--Alles 2007年8月3日 (金) 19:48 (UTC)
- そもそも、素人に検証できなかったら、検証可能性を満たしているとは言わねぇ。そこから勉強しなおせ。--はま 2007年8月3日 (金) 19:54 (UTC)
利用者:Allesは無期限ブロックされている利用者:Noda,Kentaroのソックパペットと判断して無期限ブロックしました。念の為、こちらでも報告しておきます。 -- NiKe 2007年8月3日 (金) 20:04 (UTC)
58.95.145.58さんの『「~除去されても文句は言えません」と宣言したところで、リバートされた側はいくらでも文句をいえます』が「だから無駄である」という意味なら、法律も警察も無駄ということですね。法律で「××をしてはいけない」と言ったところで、実際に犯罪を犯す人はいるのですから。まぁ、普通の人は「全てを抑止できなくても、一部でも抑止できれば意味がある」と考えるでしょうけど。
- そもそも、貴方は自己矛盾を起こしています。『リバートされた側はいくらでも文句をいえます』というのであれば、「検証可能性についてはこうやって論争を繰り返しながら検証していく過程」は阻害されずに必要に応じて実現可能で、現状の表現に何ら実害がないということを立証しているのと同じです。まとめれば、現状の文言は「一部の無駄な文句の抑止になり、必要な議論は妨げていない」ということで、何ら問題がありません。58.95.145.58さん自身がそれを証明してしまったのですから、こんな話はもう終了で良いでしょう。--はま 2007年8月3日 (金) 20:18 (UTC)
日本語版の地の文とかならずしも一致しておらず、導入の過程で誤訳(意訳)があり、英語版ではすでに存在していない項目であるので、この項目は必要か?という提案なのですが。警察や法律の話題ではありません。--58.95.145.58 2007年8月3日 (金) 21:02 (UTC)弁論術に習熟されているようで、読んでいて楽しいのですが、長くなりすぎるのがどうも。それも戦術ですか?(笑)--58.95.145.58 2007年8月3日 (金) 21:15 (UTC)
- 失礼ながら、本当に貴方は致命的に日本語読解力がないですね。誰が警察や法律の話をしてるんですか。貴方が「全ての文句を封じてないから無意味だ」と主張しているように見えたから、その反証として「法律・警察も全ての犯罪を封じるわけではないが無意味ではない」ということを示しているんでしょうが。少しは論証手順というものを理解したらいかがか。また、反論がないということは『「検証可能性についてはこうやって論争を繰り返しながら検証していく過程」は阻害されずに必要に応じて実現可能で、現状の表現に何ら実害がない』と貴方自身が立証したことに異論はないんですね?あくまで「英語版と違う」というのだけが問題なだけで。毎回、意見の立脚点が違うので話が堂々巡りですよ。夏休みの暇つぶしで、誰かに議論を吹っかけて構って欲しいだけなら、時間の無駄だからお止めなさい。--はま 2007年8月3日 (金) 21:19 (UTC)
また、自分に都合の悪いものに「詭弁」というレッテルを貼って優位に立とうとする幼稚な戦術ですか。それを言うなら、貴方こそ屁理屈を弄して喜ぶだけの人間に見えますがね。--はま 2007年8月3日 (金) 21:19 (UTC)
現在のこの項目は論争をくりかえす検証過程を実質的に阻害していないでしょう。ところでこの項目は、日本語版の地の文とかならずしも一致しておらず、導入の過程で誤訳(意訳)があり、英語版ではすでに存在していない項目であるので必要か?という提案なのですが。--58.95.145.58 2007年8月3日 (金) 21:29 (UTC)
- 賛成できないですね。。。だって英語版に合わせると「It should be removed, aggressively, unless it can be sourced.」・・・つまり出典の無い記述は積極的に取り除かなくてはならなくなる。日本語版は日本語版なりの、独自の発達方法があるはずです。英語版の基準なら、「めぞん一刻」の記述など、一発で死にますよ。--Album 2007年8月4日 (土) 14:19 (UTC)
- 一点だけお願いしますが、誤解を招く表現を使わないようお願いします。そこで述べられているのは「出典が『どこにも存在しない』記述」のことであって、「出典が存在するんだけど、まだ書かれていない記述」のことではありません。「出典の無い記述」というのは「出典の記載がない記述」と、「出典がもともと存在しない記述」のどちらとも取られる、一意性のない言葉ですので、正確に使い分けて下さい。「出典の記載がない記述」には、「出典が存在するけど書かれてない」ものと「出典がもともと存在しない記述」の両方が含まれ、この両者への対処は異なります。「出典が存在するけど書かれていない記述」に対する対処は「出典を記載する(してもらう)こと」で、要出典タグの貼付けなどがその具体的な手段となります。「出典がもともと存在しない記述」に対する対処が「除去すること」です。--Y tambe 2007年8月4日 (土) 16:09 (UTC)
- 「存在する」⇔「存在しない」、ではなくて「出せる」⇔「出せない」ではありませんか?例の不存在の「悪魔の証明」が必要になってしまいますから。「あるはずだ、でも出せないだけ・・」と半年にもわたってゴネられても困ります。その意味においても「除去されても文句は言えない」の文言は重要です。--Album 2007年8月4日 (土) 16:32 (UTC)
- ああ「出せない」がいいですね。とにかく「出典が(まだ)書かれていない」というのと混同しない言葉を使っていただき、その部分をきっちり切り分けて議論していただければ、それで。--Y tambe 2007年8月4日 (土) 16:54 (UTC)
『もし出典情報を付け加える事が出来なかったなら』と婉曲に「意訳」すれば開示期間の要請などを暗示させることはできますが、英語版(~出来ないなら)より弱い印象になってしまい問題ですね。--121.118.219.166 2007年8月5日 (日) 08:51 (UTC)
- 文書冒頭「方針」 (Policy) 節、第2条の "may" を「文句は言えません」と意訳したのは 私です。2006年4月16日に投稿しました。蛇口のそばの「この水は飲めません」掲示と同様、この「言えません」は不可能でも不許可でもなく、不適切の意味です。助動詞 "may" には様々な意味、様々な訳し方がありますし、基本方針 Verifiability にも様々な側面がありますので、この "may" の訳し方にはかなり悩みました。当時の原文を上から下まで通読し、特に "Burden of evidence" 節とのバランスを考えたつもりです。柔らかすぎる、強すぎる、挑発的すぎる、等々の批判は甘んじて受けますし、改善や除去を拒むつもりはありません。
- もし原文が "it may be removed (by some editor)" だったなら "may" を可能性と解して「除去されるかもしれない」と訳せばよかったと思いますが、実際の原文は "it may be removed by any editor" でした。これをあくまで可能性に解すれば「誰でも除去する可能性がある」「誰に除去されるかわからない」「誰に除去されたとしても驚くに値しない」といった感じでしょうか。この "may" が、除去の正当性を含意する、つまり "any editor" に対する許可のような意味合いを含むのではないかと、 "Burden of evidence" 節を読んだ私は考えました。それで、やや控えめに「除去されても文句は言えません」と訳したつもりでしたが、これでも挑発的、威嚇的すぎたでしょうか。能動態に直して「誰でも除去してよい」としたら素直ですが、それはさすがに論旨がずれると思いました。
- 「書き加えようとする」「除去を求める」も私ですが、当時の原文は "wishing to include" と "seeking to remove" であり、 "wishing" が双方に等しく使われていたのではありません。 "wish" は「望む」、 "seek" は「要求する」ですよね。「ようとする」は善悪中立な表現だと思いますが、悪意を感じる人が多いなら「希望する」などに変えてもよいでしょう。ついでですが、この "include" の訳も困ったのですが、よい考えがなくて仕方なく「書き加える」としました。おそらくは "add" と "keep" の両方の場合を含意していると思いますが、両方を含意するうまい日本語が、当時も今も私には浮かびません。 --Kanjy 2007年8月21日 (火) 12:26 (UTC)
「方針」の節について
[編集]何かさらに話が発散してしまうので、さし当たってはスルーしておいていただいてかまわないのですが、「方針」の節は冒頭部「この方針の要旨」と、役割として重複していませんか? --Calvero 2007年8月4日 (土) 18:01 (UTC)
有意義な視点ですね。あらためて考えてみました。
- 「要旨」・・・「肝要な趣旨。大体の内容」(出典:広辞苑)
- 「方針」・・・「1.方位を指し示す磁石の針。磁針。2.進んで行く方向。目ざす方向。進むべき路。」(出典:広辞苑)
これらから考えますと、「要旨」は「大体のまとめ」であり、仮に問題があるとすると「大体のまとめ」に過ぎない「要旨」の一字一句を問題にしても仕方が無く、本文を考えて検討した後、本文の修正に合わせて要旨も手直ししましょうか・・・、となると思います。一方、「方針」は「進むべき路」ですから、これ自体が一字一句揺るがせに出来ないものであり、仮に本文と相違があれば、方針に合わせて本文の方を直すことになると思います。まさに羅針盤ですね。本項の「核」、「進むべき路」です。--Album 2007年8月5日 (日) 14:05 (UTC)
情報が真実であることを請け合うのは誰か
[編集]発散気味の話をしてしまった手前、Wikipediaの検証可能性について具体的にどういう記述を書いておけばよいのか考えてみました。例えば、以下のような解説を付け加えることは問題がありますでしょうか?
- よく見かける主張に「これは事実だ。だから誰にでも検証できる」というものがありますが、これはWikipediaが編集者に求めている検証可能性を満たしません。書かれた記事が信頼に足るものであるかどうかについてWikipedia編集者がとるべき姿勢は「ここにこういう見解が公表されていて、それが妥当だと考えられます。出典を参照すればあなたもその見解を見ることができます」というものです。たとえあなたがその分野の専門家であるとしても、決して「この問題に詳しい私が言うのだからこれが真実」という姿勢をとってはなりません。情報の信頼性は既存の公表物に負わせてください。その情報が真実であることをWikipedia編集者自身が請け負ってはなりませんし、Wikipediaのコミュニティ全体に負わせてもいけません。そして編集者が検証できることと、閲覧者が検証できることは必ずしも同じではないということを理解ください。誰もがアクセスできる情報を出典としてあげるよう心がけてください。
--おーた 2007年8月10日 (金) 03:07 (UTC)
- えーと、記述を追加すること自体に対する意見はひとまず置いておいて、その解説文について。最後の「誰もがアクセスできる情報を出典としてあげるよう心がけてください」というところは文章を変えた方がいいと思います。その文面通りに受け止めてしまうと
- 限られた図書館でしか参照できない、しかし「信頼できる情報源」として定評のある書籍文献を挙げることに対し、強硬なクレームが付けられかねない。
- その一方で、ウェブ上にある「信頼できない情報源」であっても「誰もがアクセスできる」という理由だけで、出典として挙げる人が出てきかねない。
- という両方の問題が出てきかねませんので。出典となる情報源に要求される要件は、まず第一に「信頼できる」であり、「誰もがアクセスできる」ことはそれに次ぐ条件かと。なので、その一文は「他の人がアクセスすることが可能で、信頼できる情報を出典としてあげて下さい。また出来るかぎり多くの人が容易にアクセスし検証することができる出典を示すよう心がけて下さい。」とかいうあたりがいいのではないかと思います。--Y tambe 2007年8月10日 (金) 03:31 (UTC)
- おつかれさまです。まず、その加筆の扱いについてですが、重要な方針なので、解釈を伴う変更をどの程度許容するか、という部分の扱いは、慎重になった方がいいのかもしれません。本文書き換えには反対しませんが、厳しすぎる解釈や緩すぎる解釈での書き換えが、今後起こる可能性もあります。英語版のようにちょこちょこ変更していくという形をとるということでもよいのですが、「検証可能性のガイドライン」あるいは「検証可能性のFAQ」みたいなものを作る、という形も想定できます。文章の修正案を以下に。
- (修正版)よく見かける主張に「これは事実だ。だから誰にでも検証できる」というものがありますが、これはWikipediaが編集者に求めている検証可能性を満たしません。書かれた記事が信頼に足るものであるかどうかについてWikipedia編集者がとるべき姿勢は「ここにこういう見解が公表されていて、その情報源は信頼できると考えられます。出典を参照すれば、あなたもその事実を見ることができます」というものです。たとえあなたがその分野の専門家であるとしても、決して「この問題に詳しい私が言うのだからこれが真実」という姿勢をとってはなりません。情報の信頼性は既存の公表物に負わせてください。その事実が広く知られているものであれば、情報源を示すことは容易なはずです。あなたは「ちょっと調べればすぐにわかる」と主張するのではなく、もっとも手軽にアクセスできる情報源や、もっとも信頼できる情報源を選んで示してください。その情報が真実であることをWikipedia編集者自身が請け負ってはなりませんし、Wikipediaのコミュニティ全体に負わせてもいけません。そして編集者が検証できることと、閲覧者が検証できることは必ずしも同じではないということを理解ください。(一文除去)
- 最後の一文は、アクセスの容易さが、信頼性よりも優先するように読めてしまうように思いました。また、挙げるべき出典は、第一に執筆者が参照したものだと考えます。情報源の信頼性とアクセシビリティについては、別途節を起こすくらいのことがあってもいいかもしれないですね。もし、この文章に加えるなら、以下のようなものはいかがでしょうか。
- 記述はもっとも信頼できる情報源に基づくべきですが、その事実を確認する上で容易にアクセスできる、じゅうぶん信頼できる情報源をご存じなら、それも合わせて紹介することも検討してください。
- --Ks aka 98 2007年8月10日 (金) 05:04 (UTC)
- Y tambeのご意見、ありがとうございます。Ksさんの修正も納得が行きます。「情報源の信頼性とアクセシビリティについて」は、たしかにそうですね。別稿を起こした方がよいと思います。映像情報の取り扱いだとか、その手の話も考え方をまとめて書いておくのがいいかと思いました。それも考えさせてください。
- それはともかく、この追記案文をどう扱うかについてですが、本文の「方針」に関しては修正は慎重にするべきですが、そこから下の記事はもう少し柔軟に考えても良いのではないですか?--おーた 2007年8月11日 (土) 04:54 (UTC)
- 真上で激論中なのです。--Ks aka 98 2007年8月11日 (土) 15:54 (UTC)
- 出来ることなら「記述してから検証可能な出典を探すのではなく、最初から、誰でも検証が可能な出典を提示しつつ記述して下さい。」という一文を入れて欲しいですね。くどいようですが、「TVやラジオで俺は見た・聞いた」は論外ですよ。--Album 2007年8月11日 (土) 16:05 (UTC)
- おつかれさまです。まず、その加筆の扱いについてですが、重要な方針なので、解釈を伴う変更をどの程度許容するか、という部分の扱いは、慎重になった方がいいのかもしれません。本文書き換えには反対しませんが、厳しすぎる解釈や緩すぎる解釈での書き換えが、今後起こる可能性もあります。英語版のようにちょこちょこ変更していくという形をとるということでもよいのですが、「検証可能性のガイドライン」あるいは「検証可能性のFAQ」みたいなものを作る、という形も想定できます。文章の修正案を以下に。
インデントを戻します。ご意見を考慮しながら、本文のどこに入れるべきかを考えました。現在の「但し書き」の部分にいれるのが適当かと思います。そこで、そこの文章と併せて、その章を以下のように書き換えるのはいかがかと思います。タイトルも「情報の信頼性は既存の公表物に背負わせる」みたいにした方がよいかもしれません。
- (再修正案)ある事柄が単に「検証可能」だからといって、それをウィキペディアに書いてよいとは限りません。 Wikipedia:ウィキペディアは何でないかをご覧ください。また、よく見かける主張に「これは事実だ。だから誰にでも検証できる」というものがありますが、これはウィキペディアが編集者に求めている検証可能性を満たしません。書かれた記事が信頼に足るものであるかどうかについてウィキペディア編集者がとるべき姿勢は「ここにこのような信頼すべき情報源があり、そこにこういう見解が公表されていています。出典を参照すれば、あなたもそれを確かめることができます」というものです。たとえあなたがその分野の専門家であるとしても、決して「この問題に詳しい私が言うのだからこれが真実」という姿勢をとってはなりません。情報の信頼性は既存の公表物に負わせてください。その事実が広く知られているものであれば、情報源を示すことは容易なはずです。あなたは「ちょっと調べればすぐにわかる」と主張するのではなく、もっとも信頼できてアクセスもできる情報源を示してください。その情報が真実であることをウィキペディア編集者自身が請け負ってはなりませんし、ウィキペディアのコミュニティ全体に負わせてもいけません。「信頼できる情報源」を外部に示せないのであればそれは「独自研究」であり、ウィキペディアでは受け入れられないのです。Wikipedia:独自研究は載せないをご覧ください。そして編集者が検証できることと閲覧者が検証できることは必ずしも同じではないということを念頭において、記述してから検証可能な出典を探すのではなく検証可能な出典を参照しながら記述して下さい。
--おーた 2007年8月15日 (水) 02:20 (UTC)
- 些末なことですが、「請け負う」ではなく「請け合う」のような気がします。あるいは、「その情報が真実であることを示す義務を(…)請け負ってはなりませんし、(…)負わせてもいけません」とするか。 --Hatukanezumi 2007年8月15日 (水) 03:10 (UTC)
- いたずらに長くなったような印象しか持てません。申し訳ありませんがご提案に反対します。この機会に「但し書き」の節を読んでみましたが、要約すると、前段では検証可能であってもなんでも書いていいわけではない、としながら、後半は「真実」が検証可能性を満たすわけではないとし、独自研究がダメなのは検証不可だからである、としています。どうも文脈に混乱が見られます。むしろこの節は、「検証可能性」と関連しつつも本方針だけではカバーできない部分について、他の重要な方針への案内としてはどうかと考え、以下のように書き換えることを提案します。
- 最初に述べたように、情報が「真実」だからといって、それでウィキペディアの「検証可能性」の要求すなわちウィキペディアへの掲載条件である「信頼できる情報源」が満たされることを意味しません。このことは裏を返せば、ウィキペディアでは、「信頼できる情報源」を持たない情報はそれが真実であろうとなかろうと「独自研究」と見なされる場合がある、ということです。また、検証可能な情報を総合すれば導き出され「自明」と思われるような事柄についても、ウィキペディアには掲載できません。これらのことについては、Wikipedia:独自研究は載せないをご覧ください。
- さらに、「検証可能性」の方針は、ある事柄が検証できるからといって、なんでもウィキペディアに書いてよいとか、あるいは書かれた情報が除去されないことを保証しません。その項目に本当に必要な情報であるかどうかの吟味が必要です。これらについては、Wikipedia:中立的な観点やWikipedia:ウィキペディアは何でないかをご覧ください。
- 以上です。--みっち 2007年8月15日 (水) 03:25 (UTC)
- えーと。反対される理由は、「長すぎるから」ですか?その後の文章が現在の「但し書き」の書き直し提案になってしまって、反対されている理由がいまひとつ判然としないのですが。
- 私の提案の動機は、Wikipediaが要求しているところの検証可能性が理解されていないなと感じたからです。どうも、今の解説だけでは不十分なのではないか。そんな気がして、くどくてももう少し、書くべきなのではないかと思いました。ポイントは幾つかありますが、
- 「これは事実だ。だから誰にでも検証できる」はWikipediaがいう検証可能性とは相容れないと明記する。
- Wikipediaがいう検証可能性とはWikipedia外部の信頼できるソースを参照することで検証できるということだと明記する。
- 編集者がいくら頑張って「私の言うことは絶対真実だ」と気張っても駄目だと明記する。(Wikipedia編集者ができるのは外部の(信頼できる)ソースを指し示すことだけである。)
- などです。最初の項目については、すでに「但し書き」に書かれているので、もうちょっとしつこく強調しておきたいです。(「但し書き」に書き加えようという提案は、たまたまこれが書いてあったから。他の場所でも別に構わなかったのです。)2番目の項目は当たり前じゃないかと私でも思うのですけれども、分ってない人はやはり多いようなので、これもしつこく書いておくべきではないか。3番目についても同様です。「ここにこのような信頼すべき情報源があり、そこにこういう見解が公表されていています。出典を参照すれば、あなたもそれを確かめることができます」がWikipedia編集者のとるべき姿勢だということは是非書いておきたいですね。
- それから、Hatsukanezumi様へ。「請け合う」が正しいです。ご指摘に感謝。項目タイトルも修正しておきました。--おーた 2007年8月20日 (月) 06:47 (UTC)
- いたずらに長くなったような印象しか持てません。申し訳ありませんがご提案に反対します。この機会に「但し書き」の節を読んでみましたが、要約すると、前段では検証可能であってもなんでも書いていいわけではない、としながら、後半は「真実」が検証可能性を満たすわけではないとし、独自研究がダメなのは検証不可だからである、としています。どうも文脈に混乱が見られます。むしろこの節は、「検証可能性」と関連しつつも本方針だけではカバーできない部分について、他の重要な方針への案内としてはどうかと考え、以下のように書き換えることを提案します。
そうですね。ひとことでいえばくどいです。もう少し具体的に書きますと、まず「但し書き」というのは、読んで字のとおり補足や条件的・例外的なことについて書くもので、方針そのものやその説明にはそぐわない場所です。現在の方針は、「方針」の節があって、以下にその説明がありますから、もし、加筆等するのであれば、「但し書き」ではなく、その前の節のいずれか、あるいは新しく節を設けて書くべきでしょう。とはいえ、おーたさんが示されたポイントは現方針のなかですでに示されているものであり、個々の表現の是非は置くとして、同じ趣旨の言い換え以上のものには見えません。挙げられた3点については、以下のように対応している箇所がすでに本文にあります。
- 「これは事実だ。だから誰にでも検証できる」はWikipediaがいう検証可能性とは相容れないと明記する。 →検証可能性とは信頼できる情報源(例えば、査読制度のある雑誌や新聞)からすでに公開されている情報を記載する事により、読者が検証可能にすることです。編集者が独自に検証できるからといってそれは検証可能な事にはなりません。
- Wikipediaがいう検証可能性とはWikipedia外部の信頼できるソースを参照することで検証できるということだと明記する。→記事を執筆する際は、閲覧者や他の編集者が内容を検証できるよう、en:Wikipedia:Reliable sources (信頼できる情報源) にあたり、出典を明記すべきです。
- 編集者がいくら頑張って「私の言うことは絶対真実だ」と気張っても駄目だと明記する。(Wikipedia編集者ができるのは外部の(信頼できる)ソースを指し示すことだけである。)→ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。
現状で理解が難しいとすれば、現方針の表現の修正がまず検討されるべきでしょう。また、しつこく書けば理解が得られる、というご意見には同意しません。表現の重複は理解を深めるより、その表現のあり方など細かな差異をめぐって論争の原因になりやすく、しつこく書くことによって、むしろ方針が読まれなくなり、無視される危険の増大の方が大きいと考えます。以上が反対理由です。
以下は蛇足というか、私の問題意識ですが、この際ついでに書きます。おーたさんと私とでは背景的なところでの現状の受け止めが違うのかも知れません。すでにこのノートでも方針への疑問・修正提案などがたくさん出されていますが、これらは方針の無理解というよりも、おそらく別のところに原因があると見ています。それはなにかというと、ウィキペディアでは「検証可能性」を盾に手っ取り早く文章除去しようとする流れと、それに反発する流れがせめぎ合っていて、その確執がこの場に端的に現れているのではないでしょうか。
項目の文章除去は、この方針によらずとも上記「中立的な観点」や「独自研究の禁止」あるいは「なんでないか」など、他の方針に照らして判断することもできます。しかし、「検証可能性」が他の方針と異なるのは、合意によらない一方的な内容除去を明記していることで、問答無用で除去するための「武器」として専ら使われる風潮にあると思います。一方で、無責任で無駄な加筆が多いことも事実であり、このような一方的除去を正当化する口実になっていると考えます。
そもそも「検証可能性」には、「検証できない内容があったとき、むやみに消すのでなく、(より高次の)検証できる内容に置き換えていくことをめざす」という方向性と、「検証できない内容は合意によらず積極的に除去すべき」とする方向性があるようで、これは対象とする内容そのものによっても判断の幅があって一概にいえないことだと思うのですが、後者だと決めつけて方針を除去の手段とするのは、見解としてかなり偏っているのではないか、という疑問を覚えます。とまあ、まとまりませんが、私の基本姿勢はこういうものだと理解いただければ幸いです。長文失礼しました。--みっち 2007年8月21日 (火) 02:39 (UTC)
- 蛇足の方にまず反応しておきます。「ウィキペディアでは「検証可能性」を盾に手っ取り早く文章除去しようとする流れと、それに反発する流れがせめぎ合っていて」というみっちさんの認識は私も合意できます。ただ、中立的表現だとか、典拠の信頼性にしたって程度の酷いものは除去できることにおいては変わりはないと思うのです。「検証可能性」を盾に取った除去がとかく問題になりやすいのは、「検証可能性については一方的な除去を認める表現がある」という点以外にも、ある種の方向に頭が固まってしまった状態の人には分り難い点があるのではないかと思うのです。それで、少しくどいくらいに説明したほうが宜しかろうというのが私の意見でした。数行でスラスラ書いてあるのが、格好良いとは私も思いますけど、分ってくれない人も跡を絶たないではないかと。--おーた 2007年8月27日 (月) 13:13 (UTC)
電話確認は検証可能性を満たすか
[編集]Wikipedia‐ノート:ウィキプロジェクト 鉄道/駅/乗降客数ランキング表の駅記事への貼り付けについてで議論をしていて、私自身これを検証可能な物として認めてよいのかどうか迷ったので、ご意見を頂ければと思います。
表題の通り、駅の乗降人数についてその根拠を論じていたのですが、途中で「妥協案として、電話番号やメールアドレス等の連絡先を付すというのはどうでしょうか。鉄道会社が営業時間外でも、後日、連絡すれば、手間がかかれど検証可能だと思いますし、あなたにもご理解頂けると思います。 」という発言があったのですが、これを検証可能な物と扱っても良いものなのか判断に苦しみます。
確かに聞けば教えてくれるかもしれませんし、当事者による資料の(個別)公表でありますが、公に公表されたものではない事と、次に検証のために問い合わせを必要とすることで少なくとも聞かれる方に迷惑がかかると思うのですが、それを良しとするかと言うことです。
ご教授いただければありがたく存じます。--Shain2006 2007年8月11日 (土) 14:46 (UTC)
- Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」の例を参照してみてください。ウィキペディアでは、検証可能性を満たすとは考えられないと思います。--Ks aka 98 2007年8月11日 (土) 15:54 (UTC)
- 了解です。ありがとうございます。--Shain2006 2007年8月11日 (土) 16:05 (UTC)
一個人の意見ですが。電話番号や確認先の明記は検証可能性という条件は満たしているでしょうが、独自研究や他のWikipedia上の制約(プライバシー等)から問題が発生する可能性はありそうです。たしかに電話もWEBSITEも、同じ電子媒体による情報提供には違いないのですが、電話によるヒアリングをWEBSITEの閲覧と同等に位置づける事は困難じゃないかとかんがえます。とくに電話による検証可能性の観点からは、担当者の誰にヒアリングしたのかを特定すべきですが、そのような情報(広報担当の○○氏)などといった記名性・特定性を記述してよいのか判断に迷います。むろん電話確認先の誰それ氏がWIKIPEDIA上で公開されることに同意したとしても、こんどは「その同意が本当になされたのかどうか」について検証可能性が存在しないためです。ここが循環論理におちいる難しい点で、やはり一般的には電話番号や担当者の明記はあくまでノートなどでの議論において紹介する程度にとどめ(ノートでの議論は検証可能性や独自研究の制約をうけない)るのが穏当かと考えます。検証可能性には『広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実、表明、学説、見解、主張、意見、および議論についてのみ言及すべきです』という文言がありますので、これをもって説得されるのも一法かと考えます。非常に厳格なWikipedia基準としては電話取材はダメでしょう。--60.47.104.60 2007年8月11日 (土) 16:13 (UTC)電話をかければ自動テープなどによる音声ガイダンスで紹介されており、誰でもいつでも確認できる、などといったモノは「検証可能性」の範疇に入ってくるかもしれませんが、このあたりは面白い観点ですね。--60.47.104.60 2007年8月11日 (土) 16:17 (UTC)
- その音声ガイダンスは10年後も20年後も同じものが流れ続ける保証はあるのでしょうか?その音声ガイダンスが流れなくなった後、「2007年8月13日にはこういった音声ガイダンスが流れていた」という情報は誰が保証してくれるのでしょうか?--おーた 2007年8月14日 (火) 14:20 (UTC)
- それを言ったらweb siteとていつ閲覧不可能になるかわかりませんしね。internet archivesも万能ではなく、取りこぼしや拒絶もあるし。Wikipediaとしては出典にそこまで厳密な情報の保存性は求めていないのではないでしょうか?出典が機能しなくなったらそのときに取り外せばいい話では。--ちぇす 2007年8月14日 (火) 16:47 (UTC)
- おーたさんの観点も興味ぶかいですね。音声ガイダンスに限定されず、一般に検証不可能な状態になってしまった出典に関わる記事の扱いについてのガイドラインが明示されていても良さそうです。あるいは「信頼できる情報源」判定のための観点として「アーカイブの堅牢性」というのも重要な要素になりそう。--60.47.104.60 2007年8月14日 (火) 18:56 (UTC)
- webサイトも情報源として適切ではないという意見もあります。書籍などの情報源を探す努力を続けつつ、書く内容が、百科事典の記述として欠くことができない、それでいて、他の情報源が見つからない場合に、記述対象の情報として、あるいは、信頼できる発行元と捉えられる媒体であれば、情報源として用い、リンク先と共に確認日時を脚注で示す、というのが望ましいと思います。また、「出典が機能しなくなったらそのときに取り外す」というのは、百科事典を編集する上では、あまり考えるべきではないように思いました。出典を取り外し、そこから得られた情報を本文からも除去されてもいい情報なら最初から載せないでもよいですし、最初から取り外さないでもいい情報源を探すのが好ましいと思います。アーカイブの存在やアクセシビリティというのは、検証可能性を考える一つの要素にはなり得ると思います。情報の信頼性と、情報源の保存への信頼性、検証の容易さ、といったものは、いくらか重なりつつも、必ずしも一致するものではないでしょう。このページの上のほうで、おーたさんほか数名で、いくらか議論がありますので、未見でしたらご参照下さい。ただ、方針自体のもっとも重要なところは、査読や校正といったプロセスを一度通過しているという形で信頼できるような情報源を示すことで、記述の信頼性を担保し、読者や他の執筆者が正確さを確認すること、再検証する上での糸口を与えることといったものではないかと考えます。--Ks aka 98 2007年8月14日 (火) 19:10 (UTC)
Template:一過性の情報源
[編集]Wikipedia:削除依頼/三文字作画に参加した上で、上のテレビ番組に関する議論を読んで考えたのですが、テレビ・ラジオなどの一過性の情報源を元にした記事や議論は発生しうるわけです。インターネットサイトも、確実にアーカイブされる物ではないので、程度の差こそあれ同様の問題は発生するのではないでしょうか。そこで、こんな文案を考えてみました。
- この記事には、過去には存在したが現在検証が困難な一過性の情報源に依拠する記載が存在します。検証可能性に留意した上でご利用下さい。(Wikipedia:検証可能性)
「一過性の事柄で自分が確認できないから検証可能性に欠ける」という意見を何とかしたい・「一過性の事柄で容易に検証できない内容を、検証可能な情報源と同列に扱えるのか」というところからなのですが、執筆当時は周知でも後々周知でなくなると貼られてしまう・どう考えても乱用される危険性が高いと考えるとあまり上手くはないので、「こういうものがあればいいなぁ」ぐらいの提案ですから、内容・文面には全くこだわりません。--open-box 2007年9月23日 (日) 03:37 (UTC)
利用というのは閲覧者であり、検証可能性は執筆者側に求められるものですから、文面を考える必要がありそうです。
まず、執筆時に周知なのであれば、将来も検証可能なメディアに残された情報があるはずですし、執筆時ならばそれを探すことも容易なはずです。たとえばテレビ関係の雑誌や週刊誌、新聞類で、テレビ番組についてのコラムや情報ページを調べることは可能でしょう。しならくすれば番組についての書籍が出ることもあるでしょうし、出演者のインタビューや回顧談などで、触れられることもあるかも知れません。検証可能性を満たすための努力とは、そういう労力を、複数の執筆者が行なっていくことだと、ぼくは捉えています。放映時にはオフィシャルサイトの情報を頼りにしつつも、並行して情報を収集し、出典として複数の情報源を併記すれば、信頼性も高まります。
一過性の事柄で、検証可能な形で記録が残されていないのであれば、検証可能性そのものの問題はさておくにしても、多くは、百科事典に記述するにふさわしい著名性を備えていないと考えるのが適当ではないかと思います。
「一過性の事柄で自分が確認できないから検証可能性に欠ける」という意見については、いつ過ぎていった事柄なのか、再確認することの可能性がどの程度あるか、再確認できる機会を生かす十分な情報があるか、といったことが、まず問われるべきかと考えます。将来、別の形で検証可能になる可能性もあります。ごく限られた項目で、どうしても固定された媒体での情報源が得られないが、きわめて重要なことがあり、ある時期には検証可能だったが将来検証できなくなる可能性があるもの、というような場合は、できるだけ詳細なデータを記しておくことで、お蔵だしDVDとか、コレクターが本を書いたとか、そういうときに、探しやすくなることを心がけるのがよいと思います。「一過性の事柄で容易に検証できない内容を、検証可能な情報源と同列に扱えるのか」というのは、同一の内容であれば、扱えないという答えになるでしょう。同列に扱うべきではない事柄、たとえば前者がテレビ番組それ自体で、後者がその分析をした書籍であるなら、これらは資料としての位置づけが異なるものとなります。今のところ、あまり必要性を感じないですが、そういうことを思いました。たとえば、ネット上のコンテンツを情報源とするなら、確認した日付を付すことを執筆者に求めるとか、そういう方向で解決できないでしょうか。--Ks aka 98 2007年9月25日 (火) 17:02 (UTC)
- 基本的にはよい案のように思いました。
- 百科事典に掲載するに値するような情報であっても、記録されないままに終わるものなどもあるわけですが、それらについて「私はこの目で見ました」という類の根拠に基づく記述は、ウィキペディアでは認められていないと言っていいと思います。これは著名性を欠いているというよりも、参加に資格制限が設けられておらず、参加者はおおよそ匿名であり、不特定多数の共同作業で作成しているというウィキペディアの事情によるものだと思います。
- テレビ番組の内容は、学術論文などでもとりあげることが多々ありますし、著名な内容を含んでいるにも関わらず世間では録画されたものが出回らないということはあると思います。企業の公式ウェブサイトなどは、もう少し長期間存続しますが、やはり模様替えや吸収合併などを経て、なくなってしまうものだと思います。これらについては、Open boxさんが提案されているような注意書きがある方がないよりもよい(読者にとってよい)と思いました。
- Ks aka 98さんと同じく、文面は、読者に対する注意喚起と、執筆者に対する協力要請とを明確に区別するものにするのがいいのではないかなと思いました。
- 公式ウェブサイトであれば、存続している期間が数か月から数年に渡ることが多く、何か問題があればその期間内に他の執筆編集者が発見してくれるのではないかと期待することにするということでもいいかと思います。(というか、現状公式サイトを出典とすることを禁止しているわけではないと思いますし。)
- テレビ番組であれば、それは期待できませんから、○か月以上活動している複数の利用者が同じ点を確認できた場合にだけ掲載を認める、とか、ウィキペディアンとして信頼されている人による掲載を認める、といった形で何か信頼性を確保する仕組みがなければ掲載不可、というのがいいかも知れません。そうでなくてもいいような気もしますが。
- Tomos 2007年9月26日 (水) 16:07 (UTC)
- 上でも書きましたけど、本当は検証可能性のために画像や写真や映像をアップロードすればいいのかもしれませんけど、それをやると著作権の問題が今度は残るわけです(別途画像の引用の可否の問題と重なりますし、画像の改変の問題は別に置いとくとしても・・・)。ただ、誰々がそこで発言したという映像そのものを引用することはおそらく著作権法上認められている引用ということもできるでしょうが・・・この点についてももう少し議論してもいいかもしれません。--マルシー 2007年9月27日 (木) 02:49 (UTC)
- それは、著作権の問題じゃないと思いますけれど。
- 世の中にたった1冊しか残っていない本があって一般閲覧可能な状態に無いとします。さらに著作権・版権は切れているものとしましょう。そこで、その本をスキャナーで取り込んだり、テキストファイルに打ち直したりしてWikipediaの中にアップロードしたとします。それを参照すれば「検証可能性」を満たせるのかというと、Wikipedia的には問題があります。しかし、どこかの公共図書館なり学術機関が自らのサーバーにアップロードして公開しているならば、それを参照することで「検証可能性」は問題なく満たせます。この違いは意識していただきたいです。
- ある資料が真正ものもであることはWikipediaの外部の組織に請け負わせるのであり、Wikipedia自身が請け負うわけじゃないのです。たとえば、古文書やビデオ映像を捏造してそれをアップロードしたり公共図書館に寄贈した上で、それを「参照」してまことしやかな嘘八百な記事を書く人が世の中にはいらっしゃいます。資料としての文書や映像の収集というのは、思われているほどに簡単なものではないですし、責任を伴うものです。Wikipediaはそうしたところまでは踏み込んでいない(踏み込めない)というのが私の認識ですが、これは間違った認識でしょうか?--おーた 2007年9月29日 (土) 02:57 (UTC)
ご参考
[編集]Wikipediaでアートのお勉強・その2、133番以降をご参照下さい。-Wikipediaでアートのお勉強 2007年9月29日 (土) 11:36 (UTC)