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Wikipedia‐ノート:検証可能性/出典無き記述の除去

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出典無き記述の除去について

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このノートの「中立性との兼ね合い、規制緩和案」中で出てきた野良猫さんの提案をめぐって長い議論が行われましたが、私とDwyさんが同じことを延々と書くだけの場になってしまっています。項目を改め、議論を整理し、他の方々の意見を募りたいと思います。そして、これはDwyさんへの提案ですが、しばらく我々は黙って他の方々の意見を読む側に徹してみませんか?同じことを繰り返さないためにも、それが良いような気がします。

さて、野良猫提案とは以下のようなもので、要するに「規制緩和なんてしなくても、注意書きが一言あれば良いんだろ」というものでした。

  • (野良猫提案)今の方針に「記述の除去を求める側は、記事に告知タグを貼り付け、除去理由を要約欄やノートに示し、問題の程度に応じた猶予期間をおいて意見を募るべきです。」という感じの一文が入れば良いだけのこと

私はこの意見に賛意を示しましたが、Dwyさんから反論が示されました。錯綜した議論はすべて端折って、野良猫提案に対するDwyさんの見解は以下のように示されています。

  • (Dwy見解1)「即除去」で問題ないことも多いし、場合によってはむしろ「即除去」が適切・必要なこともある。「即除去」を一律に禁止あるいは非推奨とするようなルール変更には反対。
  • (Dwy見解2)「除去理由を要約欄やノートに示し」と言うが、検証可能性のルールでは「出典の提示がない」以外の理由は不要であることを認識すべき。それ以外の理由を書くことは、ジンボ氏が「ある物事が信用できるかどうかの判断を避けることは、本当に便利なのです」と言っている「判断」を、敢えて行うことになる。
  • (Dwy見解3)「猶予期間をおいて意見を募るべきです」の部分についても、同様の趣旨から、「物事が信用できるかどうか」についての意見は求めるべきでない。意見を募るとすれば「適切な出典が示されているかどうか」についての意見ということになるが、出典が全く提示されていない場合には、意見を募るまでもなく結論は明らかである。
  • (Dwy見解4) 無用の摩擦を避ける手段として、タグ貼付等の手段を示唆することは有益かもしれない。しかし、タグ貼付等を推奨するような記述があると、「なんでいきなり削除するんだ!」のような不毛な論争を却って誘発してしまう虞もある。あくまで無用の摩擦を避けるのが目的なのだから、新たな火種とならないよう、表現には充分留意する必要がある。場合によっては、記述を除去された側に引導を渡して、出典の提示に誘導するような記述も検討する余地があると思う。

で、ここから先が私の見解です。

  • 何度も書いたように即除去が必要な事例は否定しない。Dwy見解1では対立していない筈。
  • たいへんに怪しい記事で、しかも出典の無い記述に関しては、編集者に相応の自信と根拠があれば即座に除去してもよい。編集者にそれほど自信が無い場合、あるいは除去が差し戻された場合などは、意見を募るなり時間を置くなりして記事内容を検討するべき。
  • 即座に出典が示されなくとも時間を置けば誰かから出てくる場合もあり、奇妙と見えた記述にも専門家の観点からは妥当なものが認められる場合もある。法的な問題がなければ編集には時間をかけるべきであり、いたずらに削除を急ぐ必要は無い。
  • 編集対象項目について、たいした知識も無いのに「出典がない」ことだけを理由に削除を要求して話を拗らせている例も見受けられる現在、「出典提示が無い」ことだけで即座に削除することを奨励するのは大変に危険。現に、そういうトラブルメーカーが散見される。
  • 「出典の提示が無い」ことだけを理由にすれば、現在のWikipediaの記事の大半は削除可能。優良とされている記事でも出典の無い記述は相当に多い。そういう記述でも火急の問題がなければ時間をかけて「育てる」のがWikipediaの基本姿勢の筈。

以上です。--おーた 2007年10月28日 (日) 23:29 (UTC)

実際に出典なしの記事を執筆した経験上の割り込みですが、おーたさんに賛同します(とは言え出典なしで記事を除去されても現状のルールでは文句は言わない。)。最近の執筆では出来るだけ出典を明記するようにしていますが、以前の編集では「書名を忘れている昔読んだ本の記憶を元に、検証可能性の乏しいWeb上の記載で確認しつつ執筆した編集」などもありました。また、全般的に出典とした書名を「参考文献」に包括的に挙げ、個々の「~という説もある」などの文章に逐一出典を付けないことも多いです。最近では若年者と見られるユーザが、自己の乏しい知識を頼りに出典のない記載をrvしまくる例も出てきており、(「即除去」で問題ない事例はありますが、)一般的には「即除去」を「推奨」まですべきではないと考えます。なのでfactテンプレの貼り付けを推奨し、猶予期間をおいて出典を募るのであれば問題は少なくなると思います。--ろう(Law soma) D C 2007年10月29日 (月) 02:01 (UTC)
現在のところ、出典の無い編集でも削除や除去されずに残っているものはたくさんあります。しかしこのことについては、それらを目に止めた人はいるものの、「善意や錯誤によるものだろう」との考えであえて除去されていないだけであり、いいかえれば温情で残されているだけのものと考えたいです。ここで、即削除・除去を何らかのかたちで抑制することを一旦ルール化してしまったら、出典を書くのが面倒な怠け者、意図して温情にすがる者、悪意を持ってこの制度を利用する者が現れた場合に、余計な論争を引き起こす可能性が無いとはいえません。
以下、おーたさんの箇条書きの順番に意見させていただきます。
  • (1、2番目)即削除が必要な記事もあると仰いますが、そう判断して削除すると、その判断そのものについて中立性に欠ける、NPOVだなどと反発する人が出てきてゴタゴタになっている事例がほとんどではないでしょうか。「たいへん怪し」くて、しかも「相応の自信と根拠」が無くては除去はダメなのですか。除去された人から「除去した根拠を示せ」といわれて「出典が無い」以外に何かの根拠を示さなくてはならないというのは主客が逆のように感じられます。
  • (3番目)「即座に出典が示されなくても時間を置けば」というのは、出典が確かにあるがまだ出ていないという場合に限ってはその通りです。でも、あるかないか判らない、多分あるだろうといったあいまいな領域を「誰も無いとはいえない」という理由だけで許容することにしようというのであれば、ウィキペディアの裾野を広げるという考えには逆行することになりますが、私は反対します。
  • (4番目)大した知識のないシロウトが記事を見て「本当かなぁ」という疑問を生じたときに出典があれば「ああ、本当なんだ」と納得するわけで、出典がなければそれを理由に除去を行うというのはあたりまえとまでは言わなくても非難されるようなことではありません。記事が除去されて話が拗れるとのことですが、拗れる理由が判りません。シロウトのくせに除去をしてけしからんということではないでしょうし、出典を示すまでも無い常識だというのなら、示すのもお手数でしょうが専門家ならシロウトの為に是非やってほしいものです。これはウィキペディアの基本に関わることではありませんか
  • (5番目)出典が無い記述の多い記事が「優良」とされているのであれば由々しき問題です。ウィキペディアの品位を貶める、もしくは存在自体を脅かすものだと思いますので即刻対処すべきです。
断っておきますが、ウィキペディアのメインの方針である検証可能性(の徹底?)は、同じくメイン方針である中立的観点や独自研究(の禁止?)よりもいくばくか優越するとの考えが、これまでの私の意見の元となっています。これがはっきりしないとまた同じことの繰り返しになりそうです。--FXECG 2007年10月29日 (月) 06:29 (UTC)
このまま宇宙の果てまで平行線をたどるんだろうか、とあきらめ気味になっていました。
この方針での私の立場は、出典がない→即除去といった短絡的な対応から引き起こされるトラブルを回避したい、ということです。ごく最近の例として、ノート:矢野顕子を挙げておきます。「出典をつけない記述をしてはいけない」、「除去されても文句は言えない」という現状の表現は、こうした「なにがなんでも消す」という強硬な編集姿勢や「除去万能」のような行き過ぎた解釈を生み出す原因となっています。同時に、この方針が公式となったのは2年前の6月ですから、それ以前に書かれた記事の多くは、おーたさんもご指摘のとおり、「除去されても文句の言えない」ものです。だからといって、全部除去していいでしょうか。これが極端な話ともいいきれないのがいまの方針だということです。
それで、私としては、「出典をつけない記述をしてはいけない」ではなく、「記述は典拠のあるものでなければなりません。そして、できるかぎり出典をつけるべきです」というように、「禁止」から「義務づけ・努力目標」に表現を変える。「除去されても文句は言えない」ではなく、「他のいろんな手段と同様、除去されることもあり得る」というように、除去のみの強調でなく、手段のひとつであることを明記することが必要ではないか、と考えています。手段としての文章除去を否定している方は私を含めてだれもおられないでしょう。
以上からすると、野良猫さんの提案については、トラブル回避を期待できる点ではこれもあると思います。ただ、ちょっと物足りないのと、一方で「即除去」を一律的に禁じているようなニュアンスが、むしろ抵抗感を強める面があるかもしれない、と考えます。個人的には、もう一度Tomosさんの提案内容に立ち戻って検討してもらえれば、という思いです。
もう一点、気になっていることを。検証可能性と記述の信頼性は、イコールではありません。この点を意識的か無意識的かは知りませんが、同一視して述べている意見が散見されるように思いました。検証可能性が満たされるからといって、その記述が信頼できるとは限りません。情報源の信頼性の問題もありますが、それ以上に、情報を文脈に沿った形で項目にふさわしく述べているかが問われます。検証可能性ではこの点は判断できないので、「中立的観点」や「独自研究を載せない」という他の柱の方針との相互補完があります。ウィキペディアの記述の信頼性は、この三つのどれが欠けても満たされない、と考えるべきです。--みっち 2007年10月29日 (月) 09:06 (UTC)
検証可能性(V)、中立的観点(NPOV)、独自研究を載せない(NOR)のどれが欠けても記事としてNGであるというのはよく理解できるのですが、では全てが等しく重要かといえばそうでもないように思うのです。理系記事のいくつかはVさえ確かなら他の要素を考える必要がほとんど無いものもあり、文学芸術では立ち入って記述していくとNPOVやNORに抵触する心配を避けて通れません。ただし、VがなくてはNPOVやNORの議論はおよそ成り立たないというか無意味になる点では共通しています。その意味でVに関してはより強い監視の目が必要であるように思うのです。
上述したように、Vの欠けた編集はたとえ現状で残っているとしても、それは善意もしくは錯誤によるもののみ、しかも周囲の温情で除去されていないのだということを心得るべきと考えます。だから「みんなで温情ある優しいウィキペディアにしましょう」というような標語を唱えるのに反対はしません(むしろその趣旨には賛同します)が、(条件付だとしても)「出典提示は必須ではない」、「即除去はいけない」などというルールをひとたび作ったら、それを振りかざしてNPOV、NORだらけの編集を除去する人に対して、編集した当人らが堂々と「あの編集は錯誤によるものだった。なのに一発除去したお前の行為はルール無視だ。しばらく休め」などと盗人猛々しい悪態をつきながら跳梁跋扈する可能性を誰が否定できますか。--FXECG 2007年10月29日 (月) 11:12 (UTC)

猶予期間という発想がよくわかりません。出典不明のため除去された記述は、出典さえ示せば(そしてNPOVやNORに抵触するなどの他の問題がなければ)いつでも履歴から復活できます。出典を探すのにはいくら時間をかけてもいいのです(できれば出典のない段階で書かないでほしいですが)。むしろ「猶予期間」などと明文化したら、その期間内に出典を探さなければならないという間違った印象すら与えかねません。

記事から除去したら、かつて記述が存在していたことが(除去された当人はともかく)出典を追記してくれるかもしれない通りすがりの第三者にとって分かりにくくなりますから、たとえば要約欄に出典不明のため除去した旨書くことを推奨するのはいいと思います。ただそれはWikipedia:常に要約欄に記入するを読めばわかることなので、あらためてWP:Vに明記する必要があるのかいささか疑問に感じます。

また除去した記述を(出典なしのまま)差し戻されたら、編集合戦を避けるため再除去する前にノートで議論するのもいいかもしれません。もっともそれもWikipedia:編集合戦などを読めばわかることで、WP:Vに改めて書く必要があるのかいささか疑問です。また、最初の1回の除去すら事前の告知なしには推奨されないようにする改訂には反対です。

除去してそれっきりではなく、ノートに記述を移動して出典の提示を求めるよう推奨するのもいいと思いますが、それにいたってはWP:V自身にすでに書かれています。

言うまでもありませんが、出典を追記することを除去より推奨するのもかまわないと思います。ですが{{要出典}}の貼り付けを除去より推奨するような改訂には賛成できません。ジミー・ウェールズが

これはいくら強調しても足りないことだが、一部の編集者の間には、「どこかで聞いた」などといった推測の域を出ない擬似情報の類には「要出典」タグを貼ればよいといった恐ろしい思い込みが見られる。ちがう、ちがう。ソースが出せない擬似情報は積極的に(aggressively)取り除くべきものなのだ。これはあらゆる情報についていえることだが、わけても存命人物の否定的記述については特にあてはまる。[1]

とまで言ったことに明確に反します。--emk 2007年10月29日 (月) 12:08 (UTC)

とりあえず感想だけ。
わざわざ方針として文書化されているということは、それが「常識的」な発想から直接でてくるものではないということだとおもわれます。検証可能性の方針において除去が強調されるのも、それが非「常識」なことだからではないでしょうか。つまり、記述を除去することは
  • 「世界についてのあらゆる知識を集積する」という百科事典の究極の目標に反しています。どんな知識であっても、本来は除去されるべきではないはずです。
  • 執筆者の著作者人格権を制限してしまいます。著作権侵害以外の理由での除去を認めることは、GFDLを基盤とするウィキペディアの存立を脅かしかねません。
検証可能性の方針が常識に反するからこそ、それは強調されなければならないのだとおもいます。
また、ウィキペディアには明確なルールというものはないということを気にとめておくべきだとおもいます。天下りに与えられた方針というものはありません。方針は、常にコミュニティの成員ひとりひとりがその意味を考え、説明すべきものです。この方針を擁護しようとするひとは、「出典を示すにはどのような作業が必要なのか」「なにをすれば出典を示したと言えるのか」ということを、可能なら実例を挙げるなどして、具体的に説明すべきでしょう。そういう意味で、出典を示すよう要求する側にも当然、説明責任が生じます。ノート:矢野顕子のように「方針に書いてあるから正しい」というような (言葉が悪いですが) 短絡的な主張のみをのべることは、方針をまもっていることにならないとおもいます。 --Hatukanezumi 2007年10月29日 (月) 13:09 (UTC)
ジンボの言葉は「擬似情報」の話であり、最近問題となっている除去の事例は「準常識」(造語)とでもいうべき情報です。その分野にある程度の知識のある人々の間での常識を「聞いたことがない」とか「教科書と違う」という理由のもと除去するような編集が問題となっているのです。Wikipedia:井戸端/subj/要出典への対応でも議論されていますが、例を挙げると「鎌倉時代は何年に始まるのか?」という問題があります。学界では、1183年説と1185年説が有力説であり、1180年説、1190年説もありますが1192年とする昔の教科書に掲載されていた説は形式的に過ぎるとして現在では俗説の域を出ないものです。ところが一時期歴史関係の複数項目で1185年説などに対する出典を求められたり除去されたりということがありました。個々の説の提示者と論文名は調べれば誰でも分かるのですが、その説が有力であるというのは色々な本を読んだ個々人の感想の集合体に過ぎません。なぜなら有力説というのは、提示されてから批判が相対的に少なく、賛同する学者が多いというに留まっているからです。「有力」という言葉に既に「感想」が含まれるので厳密に言えば「独自取材」になってしまいます。「有力」というためには「1185年説が有力説となっている」と書いてある誰かの文献を探してきて、「1185年説が有力説であると誰々が『なんとか』で書いている」とする必要が(厳密には)あるのです。しかしこれは現実的ではありません。例外と明記されていますが「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」というものについては検証可能性を問われないのです(Wikipedia:独自研究は載せない)。FXECGさんらの御意見は十分理解できますし、私がネット上などの怪しげな知識で出典なく執筆した過去のいくつかの事例(現在少しずつ修正中)については除去されても文句は言いませんが、上記のような例外や、私が上で書いた「包括的な出典(個々に脚注のない部分は参考文献に出典がある場合)」などについて、何らかの対処が必要であることは言っておきたいと思います。--ろう(Law soma) D C 2007年10月30日 (火) 00:40 (UTC)
検証可能性は、とりあえず情報源の信頼性のみに基づいて決定できます。有力説かどうかという判断には、それよりももっと高度な判断材料が必要ですので、さしあたりここでは考えません。
鎌倉時代の始まりについて言うならば、ろう(Law soma)さんが上で書かれたとおりの複数の説を、それぞれに出典を示しつつ記述すればよいことだとおもいます。複数のいずれの説も、それが検証可能であれば除去する必要はないでしょう。ウィキペディアでは、現時点で「正しい」とみなされる説だけを紹介することは目標にしていないはずですし、さらには現時点で「正しい」ことも現代という時代のPOVでしかないのですから。
このように、検証可能性の方針は本来「正しさ」をめぐる不毛な争いを回避するために導入されたものであるはずです。自説の正しさを証明するために出典をつかったり、出典の提示と記述の除去をひきかえに取り引きめいたことをするためのものではないとおもいます。
既存の記述について出典を示すようはたらきかけていくことは大事だとおもいます。また、出典を示すというのもひとつの技術ですので、出典の示しかたについてわかりやすく説明し、伝える努力も必要だとおもいます (出典を明記するはすでに十分親切なものですが、実際に出典を記述できるようになるにはここで説明されている以上に知り、慣れなければならないことがあるはずです)。そういった活動に今後たずさわろうというかたは、どれくらいいるでしょうか。 --Hatukanezumi 2007年10月30日 (火) 04:40 (UTC)
Hatukanezumiさん。明確なルールというものはないの冒頭をよく読んでください。それは草案です。またWikipedia:編集方針第一章にあるように「中立的な観点検証可能性独自研究は載せないの記事における三方針、並びに著作権など、ウィキペディアの基本方針とガイドラインに反しないものであるならば」、不完全な記事を投稿することも歓迎されるべきというのが本旨です。出典を示すよう要求する側に求められるのは「どの箇所の出典を要求しているか」だけであって、なぜ出典を求めるのか、その理由は「その記述の出典が知りたいから」だけで必要十分です。--隠者 2007年10月30日 (火) 00:45 (UTC)

おおよそFXECG氏と同意見です。即削除を許容する現状で問題無いと思います。さらに強く推奨する表現でも良いでしょう。テンプレや猶予期間云々は一見衝突が減りそうな気はしますが、調整すべき境界線の数が増えるだけで、さほど成果は上がらないと思います。

個人的には、方針を緩めれば今よりも緩い Wikipedia が出来上がるだけだと思います。いたちごっこのレベルが一段下がるだけです。そうではなく、甘えや乱用を防止できるんだ、記事を良い方向へ動かせるんだという見通しが、上の議論からは見えてきません。削除一辺倒人間を手軽に抑えられる、というただそれだけです。規制緩和の副作用がどれだけあるのか、その対処をどうするか、どれだけ新たな議論が発生し得るか、という点に関して議論全体の想像力が欠如していると感じます。

それと、おーた氏の『火急の問題がなければ時間をかけて「育てる」のがWikipediaの基本姿勢』に対して少し。それは編集者の視点でしょう。大局的な視点で記事の成長を見守れるのは余程のヘビーユーザーだけです。記事を閲覧する人にとっては、見た瞬間のその記述が全てです。削除を急ぐ必要は無いとか、編集には時間をかけるべき等の意見は、全ての版は人目に触れる可能性がある、という点を軽視しているのではないでしょうか。- NEON 2007年10月30日 (火) 04:36 (UTC)

それも性急すぎる気がするなあ。Wikipediaコミュニティが記事の正確性を保証する義理など無いですよ。誤った、根拠のない記事を軽々に信用して誤った研究論文を作成して恥をかくなり、小中学生に推奨して誤った知識を供用するなり、それは「読者」のミスであってWikipediaに責任はない。そうさせないように我々ボランティア編集者(兼:読者)が改修作業をしているだけで。Wikipediaは誰でも編集してよいWIKI百科事典です。これが原則。正確な記事があるのはタマタマです。--隠者 2007年10月30日 (火) 05:23 (UTC)
意見のニュアンスを若干変更します。上で「おーたさんに賛同します」と書きましたが、「おーたさんの指摘の妥当性に深い理解を持っています」とします。これまで皆さんの意見を見てきて、原則的には即除去を許容する現表記でいくべきかと思いました。ただ、現実的に言って、おーたさん指摘の「現在のWikipediaの記事の大半は削除可能」には同意しています。「それほど自信が無い」「たいした知識も無い」編集者が「『出典がない』ことだけを理由に」除去する弊害は指摘しても指摘し切れませんが、ここ(検証可能性)で議論すべき内容ではないように感じました。ある意味、そのような編集者に対しては出典をつけた上で説得するしかなさそうです。事実、上記例(鎌倉時代)では現在複数説併記としながら、定義には「1185年頃-」と書くという妥協がなされています。--ろう(Law soma) D C 2007年10月30日 (火) 06:22 (UTC)

ごめん。どこにそんな深刻な対立があるのかいまいちわからないです!--Ks aka 98 2007年10月30日 (火) 13:36 (UTC)

出典がないことを理由とした即削除を多用する編集者と、削除・除去をされた編集者の間に「対立」が生じ、それが「深刻」だということではないでしょうか。
私は、検証可能性本文を読めば(それが現在有効な基本方針であると理解するなら)、そもそも対立になり得る事柄ではないので、当然深刻になりようもないと考えますが。
ついでですが、「即削除」から引き起こされるトラブルの中で、この検証可能性本文にある「ノートに移動して議論する」云々のくだりを引用して、「言えない」はずの文句を言う人がいますが、この「ノートに移動」は、あくまで出典を求める側の(除去以外の)選択肢の一つにすぎず、それを選択しなかったことを理由に求められた(除去された)側が苦情を言い立てるのはそもそもおかしいということに言及しておきます。--FXECG 2007年10月31日 (水) 11:39 (UTC)

「深刻」かどうかは分かりませんが、例えば、次のような点で対立していると思います。

  • ルールだからと言って、除去を強行する人がトラブルメーカーなのか?ルールに従っているだけの人を「強行」呼ばわりして、出典を出そうとしない人がトラブルメーカーなのか?
  • 除去するときには、除去される側の人が納得できるように、どこが変だと思ったか説明すべきなのか?「この記述は変だと思う」などと言うと、除去された側の人を余計に刺激してトラブルの元になるから、ルールに従った除去であることだけを説明して、「変だ」等は言わない方が良いのか?--Dwy 2007年11月5日 (月) 04:49 (UTC)

出典を具体的にどこに要求しているか特定しないまま、漫然と削除すれば、それは荒らしでしょう。一方で、削除された側も復帰を望むなら出典を明示すれば良いのであって、出典もないのに復帰を熱望するなら、それは検証可能性の原則に完全に違反した編集行為と見なすべきでしょう。経験的に、出典がないことを理由に削除された記事を復帰させるのに、出典がないまま延々と議論しているページ(ノート)は低廻というか、非常に品質が低いです。出典がどんどん出てきて、それでも編集合戦が止まらないような記事は、非常に品質が高いです。削除に対抗する唯一の盾は出典です。--125.205.188.24 2007年11月5日 (月) 09:31 (UTC)

ルール通りにテンプレの表示やノートへの移行を行っている最中に“問答無用”で削除する輩が居る。それは荒らしに他ならない。また、やっと移行が済んで直ぐに“問答無用”で削除する輩もいる。これも荒らしに他ならない。
さらに、即時削除を行う人が、自分がUPする側に回るととたんにルーズになり出典もなく、削除されれば張り返す。そう言う人がいるのにトラブルを生じない方がおかしい。--Wingman11 2007年11月13日 (火) 03:37 (UTC)
(即時削除反対)ある記述に出典がないと感じたら、いきなりコメントアウトや削除をせずに問題の部分に「要出典」タグを貼り、ある程度の期間待ち、それでも出典が示されない場合のみ削除すべきです。そうすれば、記事を見た人全てに“その記述部分の出典が求められている”事が告知されます。「要出典」タグには、このような用途に使いやすいように、“出典を求める理由、および求める出典内容”“テンプレートを付記した日付”を記載する引数があります。編集合戦を避ける為、「要出典」タグを貼ってから削除可能になるまでの期間を定めた方がいいかもしれませんね。私は加筆依頼と同じ3か月がいいと思います。--Game-M 2007年12月3日 (月) 03:50 (UTC)
  • ノートでの議論なく即時に削除したりリバート合戦が発生するような状況は問題ですが、{要出典}を3ヶ月間張っておいて、その期間にはコメントアウトや削除ができない、というルールを設定すると、明らかに正確性や中立性に疑問のある編集に、すくなくとも3ヶ月間の掲載期間をあたえてしまう根拠になりはしないか?--60.47.105.84 2007年12月3日 (月) 05:30 (UTC)

結論を出すことになんか意味があるの?

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この手の議論になるとたいてい「出典がない記述は除去していい」という主張の是非をめぐる戦いになるのはなぜなんでしょね、と。まあ、そういう問題の立て方をしているからなんでしょうけれども。

こういうのは、その都度ケース・バイ・ケースで判断するしかないものでしょう。公理として扱い得るようなことにまで「出典を記せ」「出典がなければ削除すべき」というのは過剰反応と言うよりほかはない。出典が記されていたとしても、出典とされた文書が間違ってることはあるんで、出典が付されていることが即座に削除を拒否する理由にはならない。そのあたりは、一律の基準なんか作れるわけがないことだろうが、とおれは思う。

んで、だ。

出典なき記述をめぐっての問題の類型って、実はそれほど多くないような気がするんだよな。簡単にまとめちゃうとこういう感じだろうか。

  1. 根拠がかなり薄弱な記述について、それを撤去しようとする場合の、口実のひとつ。出典記載がなければ、それをを厳密に適用するという主張を行って、削除する。
  2. 自分が知らないことに関する記述、自分が好ましくないと考える記述について、それを撤去しようとする場合の、口実の一つ。出典記載がなければ、それを厳密に適用するという主張を行って、削除をする。

いずれもまあ、出典が記されていれば、その削除したいひとは別の方法を考えなければならなくなるわけですが。

でだ。前者の場合には、その判断が正しければ、適正な編集でしょう(その判断が正しいかどうかというあたりで一波乱あるわけだが)。後者の場合は、不適切な編集でしょう。まあなんだね、「知らないやつにもわかるように記述する」ってのは大事なことだし、誰にどんなことがわからないのかを教えてもらえればそれは執筆者側にとってもありがたいことだという見方もあるのだけど、しかしそれにしても「おまえそんなことも知らないでよく百科事典の執筆に参加しようと思ったなぁ」とためいきをつきたくなるような編集者だって珍しくはないんだし。

{要出典}なんかもさ、けっこう使い方が難しいものなわけで。適正な使い方だと思われるものもありますが、しばしば「それはいやがらせかいっ」ってのも見かけます。すごいのになると、「そこに{要出典}を貼り付けたアンタの方が恥ずかしいから」と言いたくなるようなやつもある。削除主義とか包摂主義とかいう見解対立はありますが、それよりはるか以前のところでしょーもない対立に陥っていることが多くはありませんかね。

ついでなんだが、「出典がついていない部分は撤去して良い」というテーゼをめぐって議論をすること事態が、おれはかなり不毛なことだと思う。やめたらどうでしょうか。まあまず結論は出ないだろうと思うんだが、万が一どちらの結論が出たとしても、それがどちらであろうともろくでもない副作用を引き起こすことだけは間違いない。--Nekosuki600 2007年12月3日 (月) 09:31 (UTC)

この「出典無き記述の除去について」という節を起こすにあたって、「おーたとDwyの二人はしばらく意見を読む側に徹する」と書いて久しく時間も経過し、話題を振った人間の責任もぼちぼち果たさないかんなぁと思いつつ、そのままになっておりました。
んで、皆さんの意見は見事に割れて収集は相変わらずつかない訳ですが、Nekosukiさんも指摘するように、本来はケース・バイ・ケースで扱う問題を無理矢理「出典無き記述の除去」をめぐる問題として一元化して論じるから、話が拗れるのかなと考えるようになりました。
結局、「出典無き記述は除去」ってのは楽な論法であり、Nekosukiさん言うところの「口実」、もうちょっと穏当な言い方で便法なんだと思います。その便法が時として「やりすぎなんじゃないの?」と思える局面があると思って問題提起したかったんですが、皆さんの頭に思い浮かべる状況が、ちょっとばらけていたんじゃないかと思わなくもなく。
もうちょっと具体的な事例分析(ケース・スタディ)をした方がいいのではないかと、思った次第です。ともあれ、皆様のご意見、ありがとうございました。--おーた 2007年12月3日 (月) 12:29 (UTC)
「出典無き記述は除去」の原則を緩和するとどういう副作用が起こるかについて心配しているだけです。しかもその理由が「やりすぎ」「いやがらせ」と思われる除去者の抑止であるならなおさら。だから検証可能性本文の緩和・修正には反対なのです。Nekosuki600さんの御意見にあるように、除去には適正なものと不適正なものがあるとすれば、後者を抑止するために前者にまで制約が掛かるならなお一層。--FXECG 2007年12月4日 (火) 05:11 (UTC)
ついでなんで、いくつか考えてもらうための事例を付け加えておきますね。
つくば市(つくばし)は、関東平野の東部、筑波山の南麓に位置し、筑波研究学園都市を擁する茨城県の市である。
新河岸川(しんがしがわ、しんがしかわ)は、埼玉県・東京都を流れる荒川水系の一級河川である。
いやあ。ま、なんだ。出典を探せと言われたらまあ探せなくはないと思いますが、これに出典が必要だろうか。この記述を「出典が記されていない」という理由で削除するやつがいたら、間違いなくそいつは荒らしだと言っていいと思う。あるいは、悪意ではなかったとして、もしここに書かれていることを知らずそれが事実かどうかわからないとして削除するやつがいたら、そいつには百科事典の執筆に参加するために必要な知識が欠落しており出て行っていただくしかないだろうと思う。
なんていうかな。知識というのは階層的な面を持つものであり、どこまで遡れば証明できるのかというのはすごくむずかしい哲学的事象だ。数学的証明なんかだと「公理」というバリアを設けてそこまでたどりついたらもうそれ以上は遡らなくていいことにしていますが(それは「公理系」としていろいろなものがあり得るのですが)、百科事典的記述にしたって同じような構造を持っていると考えられるのではないか。そして、その「Wikipediaにおける公理系」をどこに設定するかという話ならば議論が成立する余地はあるかもしれないが、公理系の設定すらしないで、つまりどこまで出典を記せばいいのかという話をふっとばして「出典がない記述は除去していい」と主張するとなると、それはもう単なる仮想的で無意味な教条主義にしかならない。
出典なき記述は無条件で削除すべしと主張する方々に質問したい。上記「つくば市」の事例で、「つくば市が関東平野の東部にあること」「つくば市が筑波山の南麓にあること」「つくば市の中に筑波研究学園都市があること」について、あなたはほんとうに出典が必要だと思うのだろうか。思うのだったら、あなたならばどう書くのだろうか。あるいは、これにはさすがに出典が必要ないと思うのならば、出展が必要な場合と出典が必要ではない場合との境目をどこに置くのだろうか、そしてその境目についてどのようにして合意を形成するつもりなのだろうか。
というわけでだな。これはそんなに簡単な話じゃないわけですよ。簡単な話だと思っているのなら、そう思ったということがもう間違いの証明みたいなもので。以下、改めて見解表明。
個別具体的に検討しなければ出典の必要性なんかわからない。「出典なき記述は無条件で削除していい」「出典なき記述を無条件で置いといていい」という2つの対極の考え方はいずれも間違いだ。また、ある具体的な記述について出典が必要か不要かの判断を示したとき、その判断は同時に判断者の評価にも直結するものである諸刃の剣なのだということも、覚えておいた方がいいだろうと思う。
だいたいこんなことで教条主義に陥るようなひとは、そもそも百科事典の執筆に適していないんじゃないかなんてことも、おれは思うのでありました。--Nekosuki600 2007年12月4日 (火) 09:42 (UTC)
どこまで出典を記せばよいのかなど、どこにも明記されてはいないし、そもそも決められるようなものではない。そこまではまともな人なら判っておられると思います(そうでない人はWikipedia不適格者でしょう)。だから個別のケースで是々非々が議論されるのであって、そのことは健全だと思うのですが、一方で、「決められるものではない」あたりから出発して、「だから即除去はいけない」という方向に議論を持っていこうとする人達の考えにはどうしても違和感が拭えません。
仮に、「出典無き記述は削除してよい」を、たとえば「即座に削除してはいけない、議論せよ」などと改定したら、今度はその改訂版の教条主義者が現れて、その結果どんなことが起きるかを想像するだけで空恐ろしいのです。--FXECG 2007年12月4日 (火) 11:16 (UTC)
ま、例示のレベルについてまで「出典をつけるべき」と主張するやつがいたら、その段階でそいつは「疲弊を招くユーザ」と決めてしまっていいような気はしますが。さて。
現実問題、そういうわけで誰であろうとも「ここまでは出典がなくていいだろう」という自分なりの線を決めてるんだろうと思うわけですよ。「出典がない記述は即削除」と主張しているひとも、実は厳密にそんなことを考えているわけではない。
しかしだ。「そのラインが他者と一致していないということをあまり自覚していない」とか、そのくらいならばまだマシな方で「実は自分だって出典が必要ないラインを引いている、ということすら自覚していない」なんていうケースまで見受けられるような気がします。ま、とりあえずはまず、あなたには「自分は、出典が記されていない記述であることを理由に、無条件で削除していいと考えているわけではなかった」ということを確認してもらえるとありがたい。
現実問題、「どこからは出典が必要なのか」という線引きは、かなり微妙なものにならざるを得ないでしょう。「誰がどう見ても、これを書くんだったら出典は必要だろう」というものはあるだろうし、「誰がどう見ても、これには出典は必要あるまい」というものもあるだろう。そういうものに関しては、あまりトラブルは生じていないような気がする。一人や二人抵抗するやつがいてもラフコンセンサスの形成くらいは簡単だし、ラフコンセンサスを無視したらたたき出せばいい。トラブるのは、判断がわかれるやつですよ。判断がわかれるやつで、「出典なき記述は無条件で削除」とか主張するから話がややこしくなるんじゃね?ついでだが、おれはときどきばっさり削るってことをへーきでやってるけど、それでトラブルに巻き込まれた記憶はほとんどありません。まあ、正当な編集をやったとしてもなんかおかしなひとにからまれちゃうケースってのは想定できますが、大半の場合は「その編集が、誰が見ても正しいという鉄壁の合意を背景としたものではなかった」のが原因なんじゃないでしょうか。
繰り返すけど、「出典が記されていない」ということを理由に、即削除をしていいケースもあるし、即削除をしてはいけないケースもある。別に出典だけじゃなくて、いろいろな記事に、削除していい部分と削除しちゃいけない部分がある。そんなことはあたりまえじゃないですか。面倒かもしれませんが、そのあたりの個別具体的な議論を面倒がったら、そもそもWikipediaなんてものは成立しません。--Nekosuki600 2007年12月4日 (火) 11:37 (UTC)
お・ま・け。
あのさあ。だから「即除去はいけない」にして、ごみまき人たちががんばっちゃったら厄介なことになるってのはわかるんだよ。しかしな、「即削除でいい」にして、馬鹿削除厨房が調子に乗っても困るだろ。「つくば市は関東平野北部」すら削除しかねないやつがいくらでもいるんだからな。どっちにしても空恐ろしい結果になるのは目に見えていると、おれは最初から言っている。
「即削除はいけないルールがいかに脅威であるか」に思いが至るのに、なんで「即削除でいいルールがいかに脅威であるか」には思いが至らないんですか。おれにはそれがわからない。「即削除でいい」なんて決めても、その教条主義者が現れてぐっちゃぐちゃになるのは自明のことでしょうが。
だからおれは「結論を出すことに意味なんかない」と言っている。結論を出したがるのならば、それはどっち側に立っていたとしても、同じ穴の狢なんじゃないですかね。--Nekosuki600 2007年12月4日 (火) 12:52 (UTC)

検証可能性の徹底というのは、ひとつの理念というか理想というか、そういうものだと思うのですね。執筆する際の心掛けというのもある。執筆者として、突き詰めていけば、それはそれで理想の百科事典にはなっていくと思う。実際問題としては、大元に辿りつくのは難しいと思うんですが、

検証可能性って、別に哲学的なところまで踏み込むようなものじゃなくて、とりあえずは、執筆する時に使った資料を書け、突き詰めなくてもいいから書いてね、というようなものだと思うんですよ。その信頼性を上げるとか、より元になる史資料に置き換えていくようなことをしていくと、めんどくさい話にはなるだろうけれど。そこは理念というか、理想というか、心掛けというか、そういうものだと思うのです。

まず、執筆する側は、それ書いているんだから、何らかの形で示すことはできると思うんですよ。何年か前に読んだ雑誌に書いてあったっていう記憶で書いてるなら、やっぱり信頼できない記憶な訳で、要出典テンプレなり、除去されるのはしょうがないところもある。あちこちで見かけるようなことなら、どこで見たのか思い出して確認するくらいはしていい。普通の百科事典を執筆するような大先生ならその名前で信頼してもいいっつーか責任もって書いてるだろうと判断できるけど、たかだかハンドルネームで、多くの場合非専門家が書いてるんだから、その労力は惜しまないでね、と。

で、他方、出典がないことに気付いたら、まずなすべきは自ら調べることであって、それを怠って、除去したりタグ貼ったりしてるってこと、特に除去するなら、それで情報量が損なわれるってことを、除去したりタグ貼ったりする側は自覚しないとあかんと思うんですね。もちろん、自分の知識では調べられないということもあるだろうけど、それならノートに何らかの言葉を残して、執筆者に方針の理解を促すことはしたほうがいい。

そういう風に、書く側と、除去する側が思ってたら、哲学的な問題に踏み込むことなく、方針を変えることもなく、そうそうもめ事は起こらないと思うんですが、どうでしょうか。できるだけ確実な情報として、有益なものを提供するってのが百科事典としての解決なのであって、有益な情報を削るって言うのも、不確かな情報を残すってのも、好ましいことではない。どっちがマシか、という議論は不毛で、どっちもダメなんだと。

ちなみに、「しんがしがわ、しんがしかわ」の読みと、「荒川水系の一級河川」については、自分で書くなら出典探すかも。--Ks aka 98 2007年12月4日 (火) 14:32 (UTC)

もう遊んでしまうです。すまん(=^_^;=)。
おれもまあ、自分で書くんだったら出典は探して確認すると思うんだよね。どの川が一級河川なのかなんて、調べないとわかんないしさ。しかしま、それを出典として記載する必要があるだろうかというところに疑問を感じるわけさ。
で、新河岸川の冒頭部に、「しんかしがわ、しんがしがわ、どちらの読みもある」ということの出典と、「新河岸川は一級河川である」ということの出典を、つけてみました(この差分)。しかしこれ、情報を足したことになるんだろうか。なんないと思うんだよなあ。やってみて、ためいきついちゃいました。--Nekosuki600 2007年12月4日 (火) 16:52 (UTC)
やや。更にもうひとつ見つかって(っていうか前の編集にミスがあったんだが)、公的文書の中に「しんかしがわ、しんがしがわ、しんがしかわ」の3通りの読みを発見してしまいました。--Nekosuki600 2007年12月4日 (火) 17:02 (UTC)
とりあえず1つだけ。新河岸川が一級河川であることの出典が「情報を足したことにならない」とお考えになる理由をご説明願えますか?この出典は何の役にも立たない情報なのでしょうか?それとも苦労してまで追加する情報ではないのでしょうか?--野良猫 2007年12月4日 (火) 17:53 (UTC)
ある川が一級河川であるかどうかの証明をいちいち書いとく必要があるとは思わないんですよね。必要だと思うなら、国土交通省の資料から引き写しで一級河川の一覧でも作ってそこにリンクを張っておけばいいんじゃないでしょうか。ついでにゆーと、実は国土交通省のWebページあたりには「全ての一級河川を網羅した一覧」がないらしくて(みつけられなかった)、Web上の一覧情報を作るなら、それはそれで世界に良いものをひとつ付け加えたことになるでしょう。ま、「一覧記事だから」という理由で削除依頼が出されそうな気もしますが。
おれの感覚では、「ある川が一級河川であるかどうか」は、ちょっと調べればわかることで、公理扱いにしていい情報だと思います。--Nekosuki600 2007年12月4日 (火) 18:13 (UTC)
微妙にコンテクスト違いかもしれないのでフォローを入れておきます。
一級河川であるということの出典については、足してもマイナスにはならないと思います。がしかし、その出典がないからといって削除をするのは不当でしょう。一級河川である、というテキストを除去するのならば、「一級河川ではない」という信頼できる出典をもってこいってな感じです。この場合、「出典がない」を理由として削除したやつがいたとしたら、削除したやつは猛烈な非難を浴びて当然だろう。出典を足したとしても、たいしてほめられたことじゃない。
読みの方はどうでしょうか。さすがにこれについては出典はいらんと思うでしょ。数日したら、おれは読み情報のリファレンスは削除しとくつもりです。あまりに、くだらない出典だからです(というか、「読みなんかどーでもいいじゃん」以上のことを言っていないと思うんだ。地名の読みなんて、わりとそういうもんだし)。--Nekosuki600 2007年12月4日 (火) 18:22 (UTC)

手間暇かけて確認することの意義を身をもって証明してくれてありがとうございますw。行政関係の文書か、それが制定される前のなんとか家文書に用例として存在するのか、伝説とかから来てるのか(および、それらを検証しているかどうか)がわかるってのは意味あると思うですよ。読みの変化というか、その川の呼称の変化は別に節を作って書く方がいいんじゃないかな。責めるつもりまったくなく書きますが、「(というか、「読みなんかどーでもいいじゃん」以上のことを言っていないと思うんだ。地名の読みなんて、わりとそういうもんだし)」というスタンスの人が書いてる読みなんだなあというのがわかるというのは、そのへん気にする人が後から手を入れようとする時にけっこう重要だと思うんです(このへんになると、ちょいと「哲学的」なところに踏み込んでるのかも知れない)。あと、他の河川を書く人が、読みなり「一級」なりについて、何を確認すればいいかという情報にもなるし。一級河川は何を参照すべきかを「一級河川」の項目に書いておけばいいのかとも思います。--Ks aka 98 2007年12月4日 (火) 18:29 (UTC)

異論はない。ただこの話題のコンテクストって、「出典が記されてなけりゃばっさり消していいのか」というものだったはずで、「出典が記されていなくても消していいかどうかはなんとも言えず、あとは面倒がらずに個別判断せいや」ということになると思うんですよ。
地名の呼称の変化ねえ。これはまあ、やるとなると地誌的な話になりますよね。歴史的変遷もあれば、ちょっと古い時代になったら場所でも呼び名が違うなんてふつーにありましたからね。とりあえず読みについては3つの情報を出したけど、おれはこれが歴史的差異なのか地域的差異なのかわからないし、公文書に記載されているとはいえ個人的勘違いによるものかもしれず、それ以上はつっこむ余裕がない。となると、公文書程度の出典を出してきたところで何も言ってないも同然だと思うんですよね。
おれが時々書いてる法律項目とかってさ、それこそもう、同種のケースなんだけど裁判官によって正反対なんてのがフツーにあって、いちいち出典なんか記していたら専門書になってしまい、百科事典じゃなくなっちゃうと思うんですよ。どこから公理にしてその先を切り捨てるのかというあたりが筆力であり、その明確な基準を持たないままに「出典がないから削除」という主張をめぐっての議論をしても話はじまらんだろうと、おれは思うんです。まあとにかく、他者に示せる程度の自分なりの基準を明示してみせろや、話はそれからだ、みたいな感じ。--Nekosuki600 2007年12月4日 (火) 18:42 (UTC)
ん。まあ、遊びと宣言されているので、本筋とは外れているのは承知なのです。とはいえ、ノートでgdgdして検証可能性のノートでgdgdするくらいなら、行政資料とか大きめの地図とか出して終わらせる方が早かろうということもありそうですし。--Ks aka 98 2007年12月4日 (火) 19:07 (UTC)

ご説明ありがとうございました。Nekosuki600さんの意見には共感するところが多いのですが、何となく違和感もあったりで、十人十色。しかも、議論が進んで時既に遅しと感じなくもないのですが。

私はつくば市新河岸川について「出典が有った方が良い」と考えています。(さすがに除去しようなどとは思いません。)「どうでも良い事実」とお考えになるかもしれませんが、Nekosuki600さんの加筆によって、「新河岸川」には「しんがしがわ、しんかしがわ、しんがしがわ」等いろいろな呼び名があって、しかもそれらの名前が役所等で使われていて、「それなりに通用する」名前であることも示された、と思うのです。(加筆前は単に「呼び名が2つある」らしいという状況だった。)

これはこれで立派な情報だと僕は考えますし、「しんがしがわ vs しんかしがわ」編集合戦に対しても有る程度予防になる(?)と思うのです。まあ、読み仮名で編集合戦する人が居るとは思えないですが、「公理」を「公理」だと思わない人によってもめ事起こされるんだったら、あらかじめ「公理」を明示した方が良いかも、と。

そんなこんなで、「例示のレベルについてまで『出典をつけるべき』と主張するやつがいたら、その段階でそいつは『疲弊を招くユーザ』と決めてしまっていい」は少し勘弁願いたい。個人的には{{要出典}}よりソフトなテンプレート({{出典}}みたいな)が有れば良いと常々感じています。(僕が存在に気がつかないだけかもしれないけど。)

そして、たぶんこの騒動の発端であろう僕の編集について簡単なフォローをば。「事前に根回ししてください。除去に自信があるならその根拠を示してください。簡単に理念(理想)を変えないでください。」です。このことで、ここまで揉めるとは思わなかった。(思慮が浅い・意味が伝わらないとお叱りを受けるのではないかと思ったり。)

今はとりあえずここまで。ありがとうございました。--野良猫 2007年12月4日 (火) 20:16 (UTC)

野良猫さんとの間には特に対立はないと思うんだが・・・。
その後、意地になって「しんかしかわ表記はどこかにないか」と思って探していたのですが、「タマちゃん報道の際にNHKのアナウンサーが『しんかしかわ』と言っていた」と憤慨しているblogが1件みつかっただけで、さすがに公式文書にはございませんでした(笑)。
んで読みの触れですが、現状の振り仮名に出典が並んでいるのはいくらなんでもキモチワルイので、いずれにせよなんらかの始末をしようと思います。リクエストに応えて、情報は削減しない方向で考えていますが、なかなかいいアイディアが思い浮かばないなあ。
念のためですが、本件、「出典がついていなけりゃ削除していい」という主張をめぐるものであり、出典がついててもいいという話じゃなくて、出典がついていないことを理由に削除することの是非が問題なのです。確かに表現はあやふやでしたが、このレベルでまで出典がないことを理由に削除するやつがいたら、やっぱそいつは疲弊を招くユーザと決めてしまっていいんじゃないでしょうかと思います。なんかこう、「削除するのは勝手、書くんだったら出典を記せ」という考えはあるかもしれませんが、ものによっては「削除するんだったら根拠を示せ」と要求してもいいものもある、というあたりであいまいに合意が形成されればそれでいいんじゃないだろうかと。--Nekosuki600 2007年12月5日 (水) 03:40 (UTC)
とりあえず、読み仮名のひとつひとつの肩に出典が載っているのはいくらなんでも醜いと思ったので、ひとつにまとめました。これ以上はいじらない、ような気がします(堰の手持ち写真とかあったりするんだけどなぁ)。--Nekosuki600 2007年12月5日 (水) 13:48 (UTC)
誤解を招く書き方で申し訳ないです。Nekosuki600さん宛ではない文も混ぜてしまったのがいけなかった。混ぜるな危険、ですね。Nekosuki600さんの考え方に対しては、細かいところで多少のスタンスの違いはあるかもしれませんが、ベクトルは多分同じ方向を向いていると僕は感じています。
話が脱線しますが、新河岸川の地理に関してこんな感じで出典つけてみたり。--野良猫 2007年12月5日 (水) 14:26 (UTC)

(インデント戻します)上のほうのおーたさんの御意見に関してケーススタディーとなる事例を挙げます。 一見(一読)して合理的だと思われる、調べれば出典はあるだろうと思われる編集、たとえば上記新河岸川のようなもの。これに「出典無し」だけを理由とした除去が行われたら、とりあえず編集者間のいさかいや私怨がないか調べ、結果それによる嫌がらせであれば荒らし行為だし、一方で編集者間に背景がなく、単に教条(原理)主義者的な除去だったら、この人は(潜在的)不適格者とみなされるでしょう。

問題は、部分的には検証済みの事実を含んではいるが、それらを合成して自説を展開するといった類で、要は論評やエッセイ、イデオロギーの発露のための編集です。これが一番厄介です。こういった編集を除去するためにルールや事例を引き合いに出して説得するのは骨の折れる作業になります。この種の編集を行う人たちというのは往々にしてルールは承知のうえで敢えてやっているわけで、しかもその遣り取りを楽しむような「ためにする議論」好きに遭遇したら本当に消耗するのです。こういう編集者に対して「出典無き記述は除去される」を持ち出すことを「楽な論法」、「便法」といわれることには抵抗があり、むしろ「全く正当な」な編集作業だと反論したくもなるのです。

だから「出典無き記述除去」の緩和には賛成できないのです。警察が軽犯罪法に定められた内容を厳格に適用・執行したら(これを濫用という人もいますが)、おちおち出歩けなくなるかもしれません。しかし濫用を恐れて法規内容を緩和・撤廃したらもっと秩序のない世界が現出するような気がするのは悲観的過ぎますでしょうか。ましてやここは匿名が前提のWikipediaであり、実社会よりも排他的(あるいは非民主主義的)であることに同意して参加しているはずです。

ここで結論など出ない、出せないことは承知しているつもりです。あいまいにでも合意形成しようということにも賛成です。そのためにはおーたさんの言われるケーススタディーが有効なのではと私も思いますので、例示(実例ではありませんが)させていただきました。--FXECG 2007年12月5日 (水) 04:23 (UTC)

いやーまさにそういうトラブルで、実によくわかんないのが起きていたりして。
原作ありのテレビドラマで、「テレビドラマにおいて原作から変更された設定」というのを「根拠なし・独自の研究」として削除しようとして大暴れをしたひとがいたりするんですよね。まあ、原作・テレビドラマの両方の資料から変更点を抜き出したとして、それは客観性・検証可能性がないことなんだろうか。独自の研究にあたることなんだろうか。ま、探せばそのものずばりの設定対照表がどこかにあるんじゃないかとは思うんですが、それを探してきて出典とすることになんか意味があるんだろうか。
ま、とりあえず「間違ってないし、そのまま置いておけ」というラフコンセンサス合意が成立してるように見えるのですが、そのお方はそう言う全員を「ルールがわかっていない」と罵り、編集合戦に至り、当該記事は保護されました。「それは置いておけ」という合意が成立しているのだからそれはそのまま置いときゃいいじゃんと思う。「出典なし」を口実に反対を押し切って消して編集合戦に至るような話なんだろうか。そしてしまいにゃ自分がブロックされてちゃ世話がないのですが、まだ懲りてないようでソックパペットを繰り出してきそうな気配もあります(あ、おれは基本的にテレビ項目とかには興味ないんで、思い入れがどーのって話でかかわったわけではありません。漫画の更に原案の作家を多少知っていたという程度)。
でさ。
一方で「無根拠なことを書き散らかすやつ」が迷惑なのは、そのとおりだと思う。おれはそれをごみまき人と呼んでます。しかしもう一方で「出典がない」というだけの理由で削除して当然だとか主張して大暴れをするやつもいるわけ。おれはそれを削除厨と呼んでます。最近のニュータイプとして、前出のような「出典なき記述は削除されて当然。反対するやつらはルールがわかっていない」という天上天下唯我独善型とでも呼べばいいんだろうか、そういうのが続出してる。まともな編集をやろうと志すなら、どちらにも加担しないように注意深くあらねばならないと、おれは思うんですよね。
誰も「出典無き記述除去の緩和」なんか主張してないと思うんだよね。「それは、あいまいままに置いておけ。ケース・バイ・ケースで処理するのが基本だということを、常に覚えておけ」という話しかしていない。それで何がいけないんだろうか。
おまけ。軽犯罪法を出してきているので、当然にご存知だと思うのだけども、あれには第4条というのがあります。「この法律の適用にあたつては、国民の権利を不当に侵害しないように留意し、その本来の目的を逸脱して他の目的のためにこれを濫用するようなことがあつてはならない」という条文ですね。出典なき記述の除去についても、「これを濫用するようなことがあってはならない」というのは、同じように言えることなんじゃないでしょうか。--Nekosuki600 2007年12月5日 (水) 09:24 (UTC)
当初、この話題はTomosさんが立てた「中立性との兼ね合い・規制緩和案」という節から始まって何度かにわたる分割等の結果がここでしたので、私一人が何となく規制緩和案を引きずっていたのかもしれませんね。Nekosuki600さんが緩和を主張してはいないことは承知しています。私もNekosuki600さんがいけないなどと言っていません。現状のままがよいです。「ごみまき人」も「削除厨」も困りものなのは同様ですが、前者のなかに(たまたま私だけなのかもしれませんが)すこぶる悪質陰湿陰険なのがいた経験が、規制緩和に対して敏感になっている遠因かもしれません。
軽犯罪法については、「第四条を強化する」のと、「だったら法律自体が実効性を持たないから全部撤廃」のどっちがよいかと聞かれたらどう答えるか考え中です(たとえがわるいな…)。--FXECG 2007年12月5日 (水) 11:38 (UTC) 訂正--FXECG 2007年12月5日 (水) 11:41 (UTC)
ああ、こちらも申し訳ない。Tomosさんの話からつながっているのだというアイディアはなかった。
前のほうの議論もいちおう斜めには見たのだけれども、しょーじきなところ、形而上の議論というか実効性がない議論のように思えて、興味がもてなかった。まあやっててくださいって感じっていうか。
なんてのかな。「ないものをあると言う嘘」はすぐにばれるんだけども、「あるものから選んででっちあげる嘘」はなかなかばれないっていうことがある。出典を記せっていうのは、出典もなんもないままに独自の研究を書き連ねるひとを抑制するくらいの意味はあるだろうけど、それ以上の意味はない。そのとば口のところでモメてても話はじまんないだろうと。
一方で、根拠もへったくれもないままに独自説を書くやつは山ほどいるわけです。それについては、「出典を出せ」という要求は効果的かもしれない。だけどもう一方で、「常識なんだけども、どれかひとつ出典を出せと言われたら困るような情報」ってのもあると思うんだ(どこを出典とするかの選択で宣伝が容易に出来るっていう問題もあるし。おれ、自サイトをそういう情報の出典として記すこととか、フツーに考え付いたもん(笑))。また、確認する気になれば容易に確認できるのだがわかりやすいものとしては提示しにくいってのもある(まさか国土交通省のサイト上に一級河川の一覧がないなんて、予見できませんでしたわ。国土交通省の.go.jpドメインサイトの上に新河岸川の管理情報があるということは新河岸川が一級河川だという証明になるのだが、わかりやすいかというとわかりやすくはない。出版物としてはあるんでしょうが、出版物を出典情報としたら確認はしにくくなりますからね)。
そんなこともひっくるめて、そうそう簡単にまとめられる話じゃないだろうと思う。頭をかかえつつ、Wikipediaの宿命として、ああでもないこうでもないとやっていくしかないんじゃないだろうかと。
ただひとつ言えることはだな。根拠が疑わしい情報をしつこく書くやつに対しては、ある程度の対話はしなくちゃまずいかもしれないが、それで止まらないならたたき出してかまわないとおれは考えていること。逆に、根拠を確認するまでもないような情報を「出典が明示されていない」という理由で削除しまくるようなやつもまた、ある程度の対話はしなくちゃまずいかもしれないが、それで止まらないならたたき出してかまわないとおれは考えていること。そしてその匙加減は、コミュニティが合議の上で決めていけばいい。少なくとも、妙な曲解が可能なルールを定めて話をさらにややこしくすることが望ましいとは、おれは思わない。
おれはさー。フィギュアスケートの採点じゃないけどさ。Wikipediaみたいなところに両極端はいらんと思うんだよね。両極端で突っ走るやつはどちらも切る、ということでおそらくここらへんのトラブルの大半はかたづけられるんじゃないかという気がするんです。で、それじゃなんかまずいのかというと、別にまずいことは何もないと思うんだなあ。--Nekosuki600 2007年12月5日 (水) 14:28 (UTC)
「新河岸川」を地図で見てみましたが、隅田川に合流して東京湾に注いでいるように見えました。「荒川」に注いでいない新河岸川がなぜ「荒川水系の支流」なのか不思議に思いました。そこで国土交通省荒川上流河川事務所に問い合わせたところ、隅田川が荒川から分流した荒川水系の支流で、その荒川水系の支流に合流する新河岸川も荒川水系とのことでした。問い合わせ先に国土交通省荒川上流河川事務所を選べたのも、「出典」が明示されていたからです。私は出典がないからといって削除したことはありませんが、出典先からさらに知識を深めるためにも、出典はあったに越したことはないと思います。巡回冗長検査エラー 2008年1月16日 (水) 04:28 (UTC)
うーん、それは・・・まあ調べる上で手がかりは多い方がいいという話にしかならないんじゃないだろうかと・・・思ったりして・・・。
隅田川って、隅田川という名称としては、そもそも中流・上流を持たない川なんですね。もっと正確に言うと、関東平野の川なんてもんはその大半が江戸時代あたりに付け替えられておりまして、もう川筋ぐちゃぐちゃ、「古○○川」とか「元○○川」なんてそこらじゅうにあります(古隅田川、なんてのもありますが、これは現時点では荒川を渡り綾瀬川を越えた先だったりします)。大落古利根川という川もありますが、これはえーと、利根川の旧流路(のひとつ)なんですが、所在地でいうと埼玉県で、現在の利根川との間には江戸川・中川があったりします。
で、もともとの地形としての水系がごちゃごちゃなわけで、必要ならばそれぞれの水系について記述するのが正しいのじゃないだろうか(複数の河川が複雑にからみあうため、個々の河川に水系についての詳細を記すと重複記述の嵐になり、整合性を無視した加筆がなされるとすげえ厄介なことになる)。ただ、江戸時代の河川改修については、おおまかなところは利根川東遷事業に説明があるものの、その項目にも書いてある通り、現状「詳細は不明」だったりして(=^_^;=)。
どの川がなぜこの水系に属しているのかといった疑問を持つのはありだと思うんですけど、その手の疑問を気軽に問い合わせる先として河川事務所の記述が機能してしまったのだとすると、しょーじきちょっと内心忸怩たるものがあります。まあ、役所なんてサービス業の側面を持ってるものなので気にする必要はないのかもしれませんが。--Nekosuki600 2008年1月16日 (水) 09:05 (UTC)
「削除厨」がらみで、猫さんと同様な感じを持っているわけです。で、初心者なんかはこんなとこ読まないだろうし、それなりに良心的に編集を行う者でも「准常識」的な内容について出典を書こうなんて思っても見ないだろう。そして「削除厨」なんてのも、言葉の上っ面しか理解できない知性の足りない人だろうから、ここ読んでも意味ワカンネと思う。そうであったとして、これ結論出たの?まあ無理か60.47.137.39 2009年1月3日 (土) 13:21 (UTC)
黙ってください--Syakai会話2022年10月7日 (金) 00:59 (UTC)