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ノート:親鸞

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親鸞の「横超の信心」

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親鸞の最大の功績は、一宗の開闢の必須条件である「教相判釈」を説かれたことです。親鸞は「横超の信心」で以て、全仏教の中で最も早く、最も易く成仏するという論証を『信巻』や『唯信鈔文意』や『愚禿鈔』に説かれています。「願生」した途端に、信心が往生・成仏して「大信心」となります。それもアミダ仏同等のこころとなって、わが身に還相して還ってきます。この「横超」で法然様の教えを完成されたといえます。この「横超」の説明が全くないのでは、真実の親鸞の説明になっていないと思うのです。「横超の信心」とは、親鸞が『唯信鈔文意』に説明されます。

 「この一心は横超の信心なり。横はよこさまという、超はこえてという、よろずの法にすぐれて、すみやかに疾く生死海をこえて仏果にいたるがゆえに超と申すなり。これすなわち大悲誓願力なるがゆえなり。この信心は摂取のゆえに金剛心となれり。これは『大経』の本願の三信心なり。この真実信心を世親菩薩は、願作仏心とのたまえり。この信楽は仏にならんとねがうと申すこころなり。この願作仏心はすなわち度衆生心なり。この度衆生心と申すは、すなわち衆生をして生死の大海をわたすこころなり。この信楽は衆生をして無上涅槃にいたらしむる心なり。この心すなわち大菩提心なり。大慈大悲心なり。この信心すなわち仏性なり、すなわち如来なり。」(『唯信鈔文意』、本派注釈聖典、711頁。大派聖典555頁。)

 「横超」は信心に限っており、『信巻』で「横超」とは「これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。」(『聖典』本派246、大派237頁。)といい、「横超」は信心の事例だとなる。他に、「横超の一心・横超の真心」ともいわれるから、間違いなく信心に起こる事例といえる。この「横超」で、浄土門とは信心が現生で成仏完了し、「度衆生心」と言う「還相」までの完了が含まれ、わが身に利他行を呼びかけると、深信者に成ったといえる。聖道門は「わが身」の現生成仏を目指している教えといえ、「横超」の教えは簡単に易く、早く成仏できると「教判」で論証された。
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脚注

  1. ^ この内容の査読広報の論文は、入井の『東方』36号、p65の「親鸞の現生成仏とその実働」(東方学院、2020年発行)や、入井著『ふかまる横超』(国書刊行会、1995年発行)ですでに広報してきました。

 --利用者:いりいよしき会話) 2023年1月10日 (火) 07:56 (UTC) --いりいよしき--いりいよしき会話) 2023年4月14日 (金) 21:05 (UTC)いりいよしき --いりいよしき会話) 2023年10月4日 (水) 21:06 (UTC)--いりいよしき会話2023年10月28日 (土) 22:02 (UTC)いりいよしき[返信]

教え

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「横超」は親鸞様の組み立てられた「教相判釈」で、浄土真宗を一宗として開闢する必須条件を満たすほどの教学です。この「横超」が抜けては親鸞様の功績が説明できていません。是非、「横超」を入れて下さい。そして、現存の「教え」のあとに、「21世紀の親鸞」を加えて下さいませ。お願い致します。 --以上の署名のないコメントは、いりいよしき会話投稿記録)さんが 2023-04-15 19:09:37 (UTC) に投稿したものです。

21世紀の親鸞

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 20世紀末に宗門が戦争に加担した戦時教学が問われ、各派から歪みを訴える学者が多く輩出しました。両本願寺でも親鸞教学への背反が大きな課題となり、旧態以前の教学は室町時代の一向一揆敗退による、権力者迎合への「江戸教学」だと呼ばれ、国際時代には通用できない教えと気付いてきました。そして、真宗大谷派では教学研究所の藤本正樹などを中心に、苦悩者救済の被差別民に対応する《ふかまり》教学に注視する運動が生まれました。本願寺派では信楽・岡龍大教授などが教団改革運動を立ち上げました。現在の本派では《ひろまり》教学が求められています。[1]
 世界宗教とは、《ひろまり》と《ふかまり》が優れています。それに応えた仏教が大乗仏教でした。大乗仏教は《ひろまり》に優れて、チベット・中国・日本にまで広まってきたのです。「大乗」とは多くを乗せて釈尊と同じく、この世で悟りの場へ運びブッダ同等の「利他行(人のために尽くす行為)」に邁進させる教えを指します。
 親鸞の《ひろまり》は現世祈願の念仏を勧め、《ふかまり》は「横超の信心」が教示されています。「横超」とは現生の「今」、「信心」が即往生・即成仏して「大信心」と言う、ブッダ(アミダ仏同等)の心となる教えです。[2]その「大信心」を親鸞は「与えられた大信」と呼ばれ、還相してわが身に還ってきて、貧窮者を救いたいと勅命します。ところが、「わが身」の煩悩が反逆するのです。その時に初めて自然に、「私は悪人です」という悟性的自覚を生む教えでした。それでも救われるという、第2次救済の教えが『歎異抄』の悪人救済の学びでした。[3]

親鸞の《ひろまり》

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 親鸞の《ひろまり》は師・法然を受けて、「息災延命(色々の災いが消え、長生きする)」や、悪霊から救われるという現世利益の祈願念仏を勧めました。親鸞は『行巻』の初めに、「念仏を称えると一切の無明が破られ、一切の志願が満たされる」と約束されます。[4]
 親鸞はどのような一切の問題も念仏で解決するという教えが説かれます。《ひろまり》の中でも一番の《ひろまり》は、専修の念仏と悪霊払いの念仏といえます。[5]
 親鸞は『行巻』の「一乗海釈」で第一初入門は、現世利益祈願の「雑修」からという。[6] 第1資料=①おおよそ十方世界にあまねくひろまることは、法蔵菩薩の四十八大願のなかに、第十七の願に、「十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となえられん」と誓いたまえる、一乗大智海の誓願成就したまえるによりてなり。『阿弥陀経』の証誠(しょうじょう=証明)護念(ごねん=守護)のありさまにてあきらかなり。」(『唯信鈔文意』。『聖典』本派p703、大派p550。)「一向専修ともうすことは、これよりひろまるとしるべしとなり。」(『尊号真像銘文』下。本派p669、大派p530。)①は専修の念仏で《ひろまり》を得るという意味です。②は「怨霊・悪霊」から護られる念仏によって《ひろまり》を得るという。入井善樹著・『親鸞念仏の可能性』、第三章「専修念仏」論、第一節「ひろまり」のゆがみ。p156。(1995年、国書刊行会発行)
つまり、現世利益からの入門しなければ、第18本願には入れないのです。そして、最終で「煩悩の氷解け、菩提の水になる」「煩悩多きに水多し」という教えだから、煩悩の氷を集めるために現世利益の提示によって、多くの煩悩を入門させる必要があったのです。

脚注

  1. ^ 総長・石上智康が再任の所信演説で《ひろまり》の研究を要望された。
  2. ^ 査読・公報論文=入井善樹著『東方』38号、『親鸞の《ひろまり》と煩悩の行方』・大乗仏教と親鸞教学、P122。
  3. ^ 【査読広報=入井善樹著・『東方』36号p103。『親鸞の「現生成仏論」とその実働』(東方仏教学院・2020年発行。)】
  4. ^ 「無明」とは、釈尊が一切の苦しみの根元は無明(智慧が無い)から生まれたという。「無明が破られる」とは、苦しみが破られ幸せになるの意味といえます。「志願」は「自らの意志に基づきすすんで願い出ること」(『日本国語大辞典』第6巻、531頁、小学館発行。)いい、「自らの意志」は煩悩の欲といえましょう。これが念仏で一切が満たされるという。
  5. ^ 第1資料=①「一向専修ともうすことは、これよりひろまるとしるべしとなり。」(『尊号真像銘文』下。本派p669、大派p530。)という。これは「念仏に一向一心となって、他の行に心が奪われない」と《ひろまり》を得るという。②おおよそ十方世界にあまねくひろまることは、法蔵菩薩の四十八大願のなかに、第十七の願に、「十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となえられん」と誓いたまえる、一乗大智海の誓願成就したまえるによりてなり。『阿弥陀経』の証誠(しょうじょう=証明)護念(ごねん=守護)のありさまにてあきらかなり。」(『唯信鈔文意』。『聖典』本派p703、大派p550。)この「『阿弥陀経』の「護念」は、念仏を称えると悪鬼神(悪霊)から守護されるという、現世利益で世界中に広まるという。
     第2資料=金子大滎著『現代人の信仰問答』p124、(東本願寺発行)。金子は「七難消滅の誦文には南無阿弥陀仏ととのうべし」や「長生不死の神方」などから、現世利益が満たされる教えが《ひろまり》と説かれる。【査読・広報論文=入井善樹著・『東方』23号・『親鸞の《ひろまり》の教学』―『使徒行伝』に対応できる『行巻』―p95。(2007年3月31日、東方仏教学院発行。)因みに世界宗教の『聖書』では約115カ所に癒やしが説かれ、その80~90%は悪霊払いの《ひろまり》です。】
  6. ^ 【査読広報論文、入井善樹著・『東方』38号・p123。『一乗海釈』の入門が「雑修・雑善の川水」といい、「現世をいのる行者は/これも雑修となずけてぞ」(『高僧和讃』善導編第6首目・『聖典』本派590、大派p495。)と整合して、大乗仏教の初入門は「現世利益を祈る」者と親鸞は考えていた。】

--いりいよしき会話2023年10月4日 (水) 20:31 (UTC)いりいよしき[返信]

親鸞の絶対順列

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 親鸞にはブッダになるための、絶対順列があります。初入門は現世の幸せを求める、『観経』往生を目指します。これはアミダ仏の「48願」の第19願に当たり、念仏もその他の行も同じと考える『化巻』の「三願転入」の教えです。[1]つまり、「自力の行」から入らなければ、『大経』の第18本願の他力の「真実信心」には入れない絶対順列が説かれます。[2]もう一方で親鸞の順列で有名なのが『行巻』の「一乗海釈」です。[3]最終で信心がブッダの心になる、《ふかまり》に入るための「絶対順列」が説かれていたのです。それを「一乗海釈」の最終が「逆謗(ぎゃくほう=アミダ仏に反逆し誹謗する人)や救われる道を失った闡提(せんだい)の海水を転じ」といい、第18願に入ると「本願・大悲・智慧・真実恒沙万徳の大宝海水と成る」という、アミダ仏同等の心になって「還相」して淨土からわが身に還ってくる教えです。
 このブッダになった信心を親鸞は「大信心」と呼び、苦悩者救済の利他行を「身」に呼び覚ます教えです。この時・空を超えて一気に、アミダ仏同等の心に生まれ変わることを、「横超の信心」と呼ばれました。そして「横超の一心・横超の真心・横超の金剛心」などと呼ばれ、往相と還相の全ての教えを信心が現生で体得する教えが説かれました。[4]
 この「横超の信心」は、生きている「今」の現生で貧苦者の救済を実践した者のみが、身の死後に「法性法身」という真理の世界に帰り、真理(法)と一体のブッダの身となるのです。[5]ここで、「罪障功徳の体となる/こおりとみずのごとくにて/こおりおおきにみずおおし/さわりおおきに徳おおし」[6]と、煩悩の氷が解けてブッダの心の宝水となる教えます。
 すると、初入門では「煩悩の氷」を多く集めるために、現世利益の祈願念仏を勧めるのが正しいのです。これが絶対順列となっているのです。最終のアミダ仏同等の心へと氷解し、「大信心」となり「大宝海水(ブッダの心)となった」 と、煩悩が信じると「如実修行相応(アミダ仏同等の実働=貧窮救済の活動)」という実働を生むのです。つまり、「恋をすれば、万里の道を厭わない」という煩悩のエネルギーを菩提(ブッダ)の活動へと燃焼させる教えでした。この利他行の実働者を、「深信者・白蓮華・妙好人・上々人」などと讃えられました。
 この「大信心の活動」こそ、釈尊最初の説法・『華厳経』で「諸々の如来にひとし・信はよくかならず如来地に到る。」(『信巻』。『聖典』本派237・238、大派230頁。)と説かれます。そして、釈尊最終の説法・『涅槃経』で「大信心は仏性なり、仏性即ち如来なり」と説かれ、釈尊一代を貫いた「出世本懐(がい)」の教えだと親鸞孤高の教示をされました。
 この「大信心」が『教巻』でいう「往還二回向」の教えであり、『行巻』・『信巻』の巻頭で「与えられた大信」と教示されます。[7]

親鸞の《ふかまり》

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 親鸞の《ふかまり》が「横超の信心」の獲得です。信心が現生で、浄土に即往生・即成仏・即還相までを完了し、「大信心」となってわが身に還ってくる教えです。これは『大無量寿経』(『大経』という)に説かれる「横超」を親鸞が信心の事例と教示されました。「横超」は信心のみに起こる現象で、第18本願の成就文に「願生彼国 即得往生」(極楽浄土に往生したいと願えば、即往生する)と誓われます。[8]  この「横超」で「教相判釈」を建て、現生の信心の事例と論証して、師・法然を越えられました。[9]かくて、親鸞は浄土真宗の開祖と呼ばれたのです。だが親鸞は一生、法然の弟子と言う自覚で生き抜かれました。
 この最終の「証(さとり)」を、「煩悩の氷とけ、菩提の水と成る」といいます。[10]
 この「横超の信心」を「与えられた大信」(『行巻』・『信巻』の巻頭)と説かれ、私の中にアミダ仏同等の「大信心」が生み起るという教えです。[11]

脚注

  1. ^ 「三願転入」とは、第19・20,18願を指し、第1初入門は自力修行で救われようという第19願の人です。現世で幸せになろうと祈願したり、修行する人です。次に少し深まり、第20願に入ると半自力半他力の念仏者となります。この行者は、「仏号むね」となるが成仏は死後だと信じ、現世利益祈願の念仏者です。最終が第18願の信者で、「彼の国に生れたいと信じ願うと、即に往生を得る」と言う教えを信じた人です。すると、信心が今、「即往生・即成仏・即還相」してわが身に還ってきたと信じた人です。第1資料=「久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る(第19願の往生)。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心(第20願の往生)を発(おこ)しき。しかるに、いまことに方便の真門(第20願)を出でて、選択の願海(第18願)に転入せり。すみやかに難思往生の心(第20願)を離れて、難思議往生(第18願)を遂げんと欲す。果遂の誓、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。」(『聖典』本派413、大派356頁。)
  2. ^ 第一資料=親鸞は「『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり。」(『唯信鈔文意』、『聖典』本派714、大派557頁。)という。【査読・広報論文・入井善樹著・『東方』36号・『親鸞の「現生成仏論」とその実働』p123.(東方学院・2020年3月31日発行。)】
  3. ^ 初入門は色々の行の内の念仏と考える「雑修」で以て、現世利益祈願を満たそうとする行者を指す。次に少し《ふかまり》念仏一筋になると、現世利益祈願の雑修を禁止して浄土往生を祈願させます。すると信心が浄土に即往生して即成仏を完了し、ブッダの心の「大信心」となって還ってきます。ここを『行・信巻』の巻頭で、「与えられた大信」といいます。第1資料=「海というは、久遠よりこのかた凡聖所修の雑修・雑善の川水を転じ、逆謗闡提(ぎゃくほう・せんだい=アミダ仏に反逆し誹謗し、ブッダになる因縁のない人)・恒沙無明(無数の煩悩の闇にいる人)の海水を転じて、本願大悲智慧真実・恒沙万徳の大宝海水(アミダ仏同等のブッダ)となる。これを海のごときに喩うるなり。まことに知んぬ、『経』に説きて煩悩の氷解けて功徳の水と成るとのたまえるがごとし。」(『行巻』、『聖典』本派196、大派198頁。)
     ここで第1初入門を、「雑修・雑善の川水」と説かれます。「雑修」は「仏号むねと修すれども/現世をいのる行者は/これも雑修となづけてぞ/千中無一ときらわるる」(『善導和讃』、『聖典』本派590、大派495頁。)と謳われ、現世利益祈願の者を指します。次の「雑善」は「仏号がむね」となるが、やはり現世利益祈願を優先して、浄土往生の祈願を起こさない人のことです。
  4. ^ 第2資料=金子大榮著作集・第七巻『教行信証講読・信証巻』p266、1985年春秋社発行。)「ただ横超の法を願力の信楽において領受するもののみ、如実に人生に随順することができるのである。」査読・広報論文=『東方』36号、入井善樹著『親鸞の「現生成仏論」とその実働』p78。2021年3月31日、中村元東方研究所発行。
  5. ^ 第一資料=「念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆえに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。」(『信巻』、『聖典』本派p264、大派p264。)
  6. ^ (『曇鸞和讃』。『聖典』本派585、大派493頁。)
  7. ^ 査読・広報論文=『東方』36号、入井善樹著『親鸞の「現生成仏論」とその実働』p67、東方学院・2021年3月31日発行。
  8. ^ 第1資料=『唯信鈔文意』に「この一心は横超の信心なり。…(略)…すみやかに疾く生死海をこえて仏果にいたるがゆえに超と申すなり。…(略)…これは大経の本願の三信心なり。…(略)…この願作仏心はすなわち度衆生心なり。この度衆生心と申すは、すなわち衆生をして生死の大海をわたすこころなり。この信楽は衆生をして無上涅槃にいたらしむる心なり。…(略)…この信心すなわち仏性なり、すなわち如来なり。』(『聖典』本派p711、大派p555。)と説かれます。「仏果にいたるを超という」から、信心が間違いなく現生の今、ブッダの心になったと信じなければいけなかったのです。浄土真宗とは往・還の二回向と言われます。
     この「横超」で一宗を開く必須条件の「教相判釈」を樹立して、全仏教中で最も早く最も易くブッダになる教えと論証されました。【査読広報論文。入井善樹著」、『東方』6号、p213~p216。1990年発行。入井善樹著、『東方』36号、p66。中村元東方研究所発行。入井善樹著・『ふかまる横超』、p9。1995年、国書刊行会発行。】
  9. ^ 「教相判釈」とは中国で生まれた論述で、一宗を開くための必須条件とされます。
  10. ^ 第1資料・「無碍光の利益より/威徳広大の信をえて/かならず煩悩のこおりとけ/すなわち菩提のみづとなる」(『高僧和讃』、『聖典』本派585、大派493頁。)と謳われ、煩悩がブッダの心へ変容する教えです。
  11. ^ 伝統教学では、アミダ仏から与えられた信心だから、元々が大信だというがそうではなく、「横超の信心」が説かれ信心が浄土往生して、「大信心」となったことを「与えられた」と表現されたのです。第1資料=『浄土和讃』(93)「如来すなわち涅槃なり/涅槃を仏性となづけたり/凡地にしてはさとられず/安養にいたりて証すべし」(94)「信心よろこぶそのひとを/如来とひとしとときたもう/大信心は仏性なり/仏性すなわち如来なり」(『聖典』本派p573、大派p487頁。)と謳われますから、親鸞は信心が浄土往生してブッダの心になり、還ってきて「与えられた大信」となったと考察すべきでしょう。【査読広報論文=入井善樹著・『東方』36号、p68。(2020年3月31日・東方仏教学院発行。)】

--いりいよしき会話2023年10月28日 (土) 21:57 (UTC)いりいよしき[返信]

「獲信」の構図

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 親鸞は信心を「獲得する」と表現されます。「与えられた大信」をなぜ獲得すると表現したか。[1]なぜ与えられた大信を獲得するというのか。この答えは『信巻』の「依釈段」の「曇鸞文」で、「私は念仏を称えましたが、一切の無明が破られ一切の志願を満たされたとは思えないのはなぜでしょうか。」と質問されます。その返答が「二不知三不心(信心がないから)」と答えます。すると、救われたいの願望が強いほど「信心を獲得したい」という思いを生みます。つまり、現世利益祈願の煩悩の強い願望が、「信心を獲得したい」という強い思いを生むのです。ここで「寺で法話を聞くことが、信心の獲得の方法です」と教えると、寺は熱気に燃えた人で満堂となります。かくて、妙好人・上々人と呼ばれる、多く利他行に活動する人が増えるのです。
 信心を獲得すると、浄土に生まれたいと願った途端に、信心が現生に即往生・成仏・還相を完了します。信心が身から抜け、飛び回る考えはアニミズムであり、古代から中世にかけて世界中が共通でした。[2]このアニミズムを親鸞も呼応して、信心が浄土往生し信心が成仏すると説明されたのです。[3]
 そして、アミダ仏同等の「如実修行」(貧苦救済)の実働をわが身に勅命します。ここを「与えられた大信」とか「他力本願」と呼ばれてきました。[4]
 最終は「煩悩の氷が菩提の水になる」教えですから、入門で多くの煩悩を誘引する必要があり、入門は現世利益の祈願の「雑修」(第19願の自力)が絶対順列の入門者として必要だったのです。

悪人の自覚

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 ブッダの心となった「横超の信心」が還相して、「わが身」に還ってきて「利他行」を勅命します。すると、わが身の煩悩は「利他行」など嫌だと、「大信心」の活動の邪魔をします。その時に、「私はアミダ仏に反逆するほどの悪人でした」という、悟性的罪悪感が初めて自然に生まれます。それ以前の罪悪感は偽物で、煩悩は決して「私は悪人」とは気付きません。
 この時に親鸞は初めて「おまかせ・自然法爾・無義意義」といい、深信の利他行の邪魔を除こうとしたのです。[5] 『正信偈』に、アミダ仏同等となった真実信心を「日光」に譬え、邪魔をする身の煩悩を「雲霧」に譬えて、「下に闇なきが如し」と教示されます。つまり、「大信心」の貧窮救済の実働は、雲霧を貫通して僅かでも必ず届けられます。[6]もし信者から利他行が全く届けられないなら、親鸞は「信不具足(信がない)」と一刀両断とする教えでした。

脚注

  1. ^ 第1資料=『信巻』の巻頭文で「それ以(おもん)みれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。」(『聖典』本派p209、大派210p。)と説かれます。
  2. ^ これは『行巻』に第5祖の善導の『観念法門』が引かれ、「凡夫の心が身から抜けて飛び回る」と引用します。第1資料=「いまし衆生は障(さわり)重くして、境は細なり心は粗(そ)なり。識颺(あが)り、神飛びて、観成就しがたきによりてなり。」(『行巻』、『聖典』本派p164、大派p173。)という。「識」に親鸞は「タマシイ」と左訓されます。
  3. ^ 1871年にアニミズムの創唱者の人類学者エドワード・B・タイラー(イギリス生)が、世界一周して還ってきて世界共通と論証し、アニミズムと呼ばれました。(タイラー著・『原始文化』上・下2巻本。)【査読・広報=入井善樹著『ふかまる横超』p8.(国書刊行会、1995年5月30日発行)。『東方』36号。入井善樹著『親鸞の「現生成仏論」とその実働』p、68。(2021年3月31日、中村元東方研究所発行)。】
  4. ^ 第1資料=「他力というは如来の本願力なり。」(『行巻』、『聖典』本派p190、大派193p。)という文が出拠です。他力とはアミダ仏の建てられた、本願力による絶対的働きを指します。この「横超の信心」によって、煩悩の氷がブッダの心の水になるといい、「氷おおきに水おおし」と中国の第3祖・曇鸞と日本の第6祖・源信から学ばれました。
  5. ^ 第1資料=「これは他力の還相の回向なれば、自利・利他ともに行者の願楽にあらず、法蔵菩薩の誓願なり。〔他力には義なきをもつて義とす〕と、大師聖人(源空)は仰せごとありき。(『如来二種回向文』、『聖典』本派p723、大派p477。)と、「おまかせ・無義意義」は還相の後の要求です。ところが、現在の学びは入門で「おまかせ」を要求しています。入門はあくまで煩悩を集めるために、現世利益祈願が正しいのです。
  6. ^ アミダ仏の第1次救済は、『重誓偈』に「貧苦救済」と説かれます。また、『浄土文類聚鈔』の巻頭で「それ無碍難思の光耀は、苦を滅し楽を証する」(『聖典』本派p477、大派p402)という苦悩者救済でした。これらの文と『教行信証』の巻頭文を整合して、「渡ることが難しい海」とは「苦海」を指します。わが身の煩悩がこの第1次救済の貧苦救済活動の邪魔をすることで「私は悪人」という悟性的罪悪感を生みます。つまり悪人救済の『歎異抄』は、第2次救済の異時的二重構造の後期の救済でした。

--いりいよしき会話) 2023年10月4日 (水) 20:33 (UTC)いりいよしき--いりいよしき会話2023年10月4日 (水) 20:53 (UTC)[返信]

「念仏」は「利他行」

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 親鸞が信じたアミダ仏は、全宇宙の全生命体に「十方の衆生よ」と呼びかけ、自分と同じアミダ仏にまで高めたいと願ったブッダだと学べます。その方法が第17願の「念仏」から生まれた、「利他円満の大行」だといいます。[1]
 アミダ仏は自分の名前にアミダ仏になるに必要な、全功徳を備えるようにと願って修行されました。出来上がった名前を「名号」と呼びます。この名号を聞いた者は、48願中の12種の願で功徳を受けるという。私が「ナム(モ)アミダブツ」と称えると聞こえた人に、アミダ仏になる全功徳が届けられた利他行なのです。
 大乗仏教では「利他行」を実行した者はブッダになることが約束された教えです。しかも極楽浄土に生まれて、アミダ仏同等となるのです。だから「(自利)利他円満の大行」と教えられます。[2]
 そして、親鸞の念仏に「南無」が付けば全て「祈り念仏」です。[3]
 すると、親鸞の祈り禁止の『善導和讃』は「祈願念仏」の禁止でなく、「現世利益」から「願生彼国」へ祈願念仏を切り替えた、《ふかまり》を求めた『和讃』と考えられます。『御消息』に信後の感謝の念仏も、祈り念仏だと勧めますから親鸞念仏は、祈願以外の念仏は存在しなかったのです。[4]つまり、真宗の初入門では現世利益の祈願の念仏を勧め、《ひろまり》を目指したのです。[5]中国の第5祖善導と第7祖の師・法然の教えを継承して、初入門は現世利益祈願の念仏を勧められます。そして、少し《ふかまり》を得て「仏号がむね」となると、現世利益祈願を禁止して浄土往生への祈願念仏に切り替えさせます。そして、願生と同時に往生完了と説かれたのです。

同一地平の目覚め

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 この「横超の信心」によって、親鸞は「りょうし・あきびと、さまざまのものは、みな、いし・かわら・つぶてのごとくなるわれらなり」という、同一地平の「一如の証(さとり)」に目覚めて、その論証が国宝「安城の御影(みえい・ごえい)」が未来のわれらに送り届けられ、深信者の姿を垣間見ることができます。[6]
 この親鸞は釈尊同等の「一如の証り」の顕現者であり、未来のわれらにメッセージが届けられたのです。この真宗は明治に入って、日本人口の2分の1乃至3分の1強が親鸞の門徒でした。[7]しかし、昭和の太平洋戦争以後に急激に真宗は衰微しました。[8] 現代までも「横超の信心」は全く抹殺され、親鸞教学は大きく歪められて現生の貧苦救済の利他行は失ったのです。[9]だが、ヨーロッパでは親鸞の教えは、ザビエルや後の宣教師ルイス・フロイス等の報告から学んで、パウロやルターの信仰に似ているといわれ、かなり前から注目されてきました。カール・バルトも『教会教義』の中で、親鸞とキリスト者の信仰が似ていると論じています。[10]

脚注

  1. ^ 第1資料=「行というは、すなわち利他円満の大行なり。すなわちこれ諸仏咨(し)嗟(さ)の願より出でたり」(『浄土文類聚鈔』、『聖典』本派p478、大派p403。)という。「諸仏咨嗟」を親鸞の説明では、「一切のブッダ達から褒(ほ)められたい、称(とな)えられたい」(『唯信鈔文意』『聖典』本派p703、大派p550。)という願いだという。査読広報=入井善樹著『親鸞の現場の教学』―見落とされた『行巻』の三五〇カ所の現世利益と信の還相―p143。親鸞は「称名大行」と言い「名号大行」とはいわれないから、人に聞こえる称名を「大行」と教えたのです。
  2. ^ この文で親鸞が「自利」を抜いたのは、天台大師最澄が「それ、菩薩の律儀には都(すべ)て自利なし。利他をもって即ち自利となすが故なり。」(天台大師・最澄著・『顕戒論』。『仏教聖典』381頁、東京大学仏教青年会編修、三省堂発行。)」と説かれたことで、最澄に気遣い武力介入を避けられたと想像します。【査読と広報=『親鸞念仏の可能性』第一章「志願」論の「真宗の救いとは」p8。(国書刊行会、1995年発行)。『東方』第20号・入井善樹著『親鸞の「利他」の思想』p100、(中村元東方研究所(東方仏教学院)、2004年3月31日発行)。『東方』36号・入井善樹著『親鸞の「現生成仏論」とその実働』p69、(中村元東方研究所発行、2021年3月31日発行)。】第2資料=「利他行の念仏」に関し、入井善樹著・『反・差別の教学』p177.1996年5月1日、永田文昌堂発行。
  3. ^ 『行巻』の「六字釈」(『聖典』本派170、大派177頁。)に、「南無」を「帰命」と訳され「帰」に左訓があります。国宝・大派本の『教行信証』には「ヨリタノムナリ」という。重文・本派本には「タヨリノムトイフ」と左訓され、重文・高田本は「ヨクタノムトイフ」の左訓です。『岩波古語辞典』(1988年発行p796。)で、「タノミ」の「タ」は接頭語。「ノミは祈(の)みの意か。ひたすらよい結果を祈って、相手に身の将来をまかせる意。」という。「ノム」は「祈り」だから、親鸞念仏の全てが祈願念仏だったのです。【査読広報論文=a)入井善樹著・『東方』24号、『祈り禁止は親鸞の錯覚か』p110,下註6)の④に論述。b)入井善樹著、『東方』38号、『親鸞の《ひろまり》と煩悩の行方』p128。c)入井善樹著・『親鸞念仏の可能性』P107。(1995年5月30日、国書刊行会発行。)
  4. ^ 第1資料=「世に曲事(くせごと)のおこり候いしかば、それにつけても念仏をふかくたのみて、世のいのりに、こころにいれて、申しあわせたもうべしとぞおぼえ候う。…(略)…報恩のために御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候う。」(『聖典』本派p784、大派p568。)と、「南無」は祈り以外の念仏は存在しなかったのです。【査読広報論述・①入井善樹著,『親鸞聖人の現場の教学』p61とp178、法蔵館・1990年発行。②入井善樹著『東方』24号「祈り禁止は親鸞の錯覚か」p103、2008年、中村元東方研究所発行。③入井善樹著・『親鸞念仏の可能性』・第2章「いのり論」p106、国書刊行会・1995年5月30日発行。】などで現益祈願を禁止したのは、願生心に切り替えさせた往生祈願念仏を勧め、《ふかまり》の「横超」完了を信じた人は今度は感謝の「世の平和を祈る念仏」を勧め、全て「祈り念仏」以外は存在しないと言えます。
  5. ^ 第1資料=①一向専修と申すことはこれより弘まるとしるべしとなり。(『尊号真像銘文』、『聖典』本派669頁、大派530頁。)②おおよそ十方世界にあまねくひろまることは、法蔵菩薩の48大願のなかに、第17の願に「十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となえられん」と誓いたまえる、一乗大智海の誓願成就したまえるによりてなり。『阿弥陀経』(『小経』と呼ぶ)の証誠護念のありさまにてあきらかなり。」(『唯信鈔文意』、『聖典』本派703頁、大派550頁。)
     ①は民衆の一向一心の念仏で広まるという。②はアミダ仏は第17願で「諸仏にわが名を褒められたい,称えられたい」と願われ、それに応えた諸仏たちの証しのお経が『小経』であり、「三千大千世界(全宇宙)の諸仏の証誠(証明)と護念(守護)する」という現世利益の約束です。この約束が現実となったというお経が、『小経』(『護念経』ともいう)で《ひろまり》を得ようという。因みに『聖書』の115カ所の「癒やし」で、80%から90%近くが悪霊払いです。査読広報論文=入井善樹著『東方』23号・『親鸞の《ひろまり》教学』p92、東方仏教学院・2007年発行。入井善樹著・『鬼哭の親鸞』p122、2019年・東雲会印刷部発行。電子書籍あり。
  6. ^ (このサイトの右側の、親鸞の絵像を参照・親鸞83歳の肖像画。)黒衣の下に女郎屋の女性の「あかね色の襦袢」を着用し、裾と襟に少し露見しています。
     想像では、この女性は飢饉などで家族を救うために、身売りされた女性でしょう。その女性が何か病気で亡くなり、葬式に参列して一枚の着物を戴く習慣があったのです。逃げれば目立つ、鎖の役目のあかね色の襦袢です。親鸞が葬式の導師となって、引導を渡す僧侶は故人の持ち物の着物を戴く習慣があったのです。その襦袢を親鸞が着用して街道を歩くと、皆から蔑視を受けたでしょう。同じ場に身を置き、同じ悲しみを共有し、悲しみの連帯をしたと大谷大学・元学長の広瀬杲(たかし)が論証されました。
  7. ^ 広報=カール・バルト著、『教会教義学』、3の17節264頁。
  8. ^ 広報資料=古田武彦著『親鸞』、人と思想8。p132。(清水書院、1985年1月25日第16刷発行)。入井善樹著『鬼哭の親鸞』・親鸞教学の大改造、p93。(東雲会印刷部局、2019年4月15日発行。)等。
  9. ^ 『東方』6号p188、中村元・著『極楽浄土にいつ生まれるのか?』(中村元東方研究所、1990年12月31日発行。)で広報された。『岩波仏教辞典』の誤り訂正の訴えが、本願寺派本山から申し込み事件が起こった。ここで、親鸞の主張と各真宗本山の解釈が大きく歪んでいることが露呈しました。筆者の注目=従来の伝統教学より、近代の修正希望教学の方が正しい面が多い。
  10. ^ 『親鸞とパウロ』対談八木誠一・秋山龍珉共著,p72。(青土社、1989年1月30日発行。)では、「類系的に分析すれば、似ていると主張される。」がキ教の優秀批判の結論を出しますが間違いで、キリスト教では人間は神になることはできないが、仏教では人間はブッダにならなければ、人間に生まれてきた価値がないという。ここを比較検討すべきで、優劣理論は争いを招き過去の遺物といわれてきました。

査読広報文献署名

 署名いりいよしき

  --いりいよしき会話2023年4月15日 (土) 19:09 (UTC)[返信]

親鸞念仏は祈願のみ

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 親鸞の念仏に「南無」が付けば、全て祈願念仏以外は存在しなかった。『行巻』の「六字釈」で「南無」を「帰命」と訳し、「帰」に左訓(意味)が存在する。大派の国宝真筆本は「ヨリタノムナリ」(『聖典』、大派p177。)とある。[1]。親鸞の信後の感謝の念仏まで、「世のいのりにこころいれて、世の中安穏なれ」(『御消息』、『聖典』本派p784、大派p568。)という。[2] つまり、親鸞念仏に「南無」が付けば、祈り念仏以外は存在しないのである。

脚注

  1. ^ 【①『岩波古語辞典』p796。(1988年・第13刷発行。)で、「タノミはタは接頭語。ノミは祈(の)みの意か。ひたすらよい結果を祈って、相手に身の将来をまかせる意。」という。②『真宗辞典』p524。(2011年・法蔵館発行。)で《タノム》の「タ」は接頭語、「ノムは祈る」という。 本派・重文本の左訓は、「タヨリノムトイフ」(『聖典』,本派p170の下註。)となっており、「ノム」は『岩波古語辞典』(p1013。)に「ノミ」の「下註」で「いのり」と結論する。 高田派の重文本では「ヨクタノムトイフ」の左訓である。】
  2. ^ 【広報誌=①入井善樹著『親鸞念仏の可能性』p102~110。(1995年・国書刊行会発行。)電子書籍申請中。査読・広報論文=②入井善樹著『東方』24号、p103。(2008年・「東方学院」発行)。③入井善樹著『東方』第38号・『親鸞の《ひろまり》と煩悩の行方』p128。祈願念仏が正当念仏である。(2022年・東方学院発行)。】

--いりいよしき会話) 2023年10月4日 (水) 20:22 (UTC) / --いりいよしき会話2023年10月4日 (水) 20:11 (UTC)[返信]

誤入力と考えられる箇所を修正いたしました

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報告 当ノートページのセクション《#親鸞の「横超の信心」》から《#親鸞念仏は祈願のみ》までのいりいよしきさんの投稿文について、誤入力と考えられる部分を可読性の向上を目的として修正させていただきました。また脚注を把握しやすくするため{{Reflist-talk}}を署名の入っている箇所ごとに追加いたしました。なにとぞご海容ください。--Yumoriy会話2024年6月27日 (木) 17:02 (UTC)[返信]