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ノート:親鸞/過去ログ4

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真宗げんりのコメント

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2014年9月4日 (木) 23:34 (UTC)投稿分

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2014年9月5日 (金) 16:09 (UTC)投稿分

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本願の救済対象は苦悩者

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これらの節の内容は、ノートページの目的外利用(自説の披露)といえる書き込みであるため差分のみ表示してます。--Resto1578会話2015年1月30日 (金) 14:30 (UTC)

真宗げんり(入井善樹)さまへ

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失礼します。Wikipediaへのご参加ありがとうございます。Wikipediaは百科事典でして、その編集には難しいルールがありますので、なかなか慣れることが難しいことだと思います。

真宗げんり様にご理解いただきたいのは、このWikipediaに記載する際には、各編集者は己の意見や考えをそのまま記述してはいけない、ということです。Wikipedia:独自研究を熟読ください。真宗げんりさまは「この『唯信鈔文意』と整合すれば、明らかに民衆との接点(真宗入門)は現世利益を提示したと考えられる」と上でお書きです。つまりこれは、真宗げんりさまが、親鸞聖人の著作を精読し、理解した内容を書き込もうとしておられるということの証左です。真宗げんりさまのお考えが間違っているとは申しません。同時に、正しいとも申しません。しかし、ひとつの文章を読み、それを解釈するときにはそれぞれの解釈者により幅が生じます。つまり、世の中には、真宗げんりさまの考えを「間違っている」という念仏者もいるかもしれません。百科事典を編集するときは、常にそういう問題が付きまといます。そのため、Wikipediaでは、出典主義、という形をとります。つまり、「これこれの意見は、だれそれによる解釈である」ということを明記する必要があります。

真宗げんりさまは「親鸞さまの真意は第一資料から学ぶべきと考えます」とおっしゃいました。しかし、Wikipediaの記事やノートとは、直接的に「学ぶ」場ではありません。ノートは、編集内容の合意を図る場であり、記事はその合意を記載する場です。「第一資料から学ぶ」ことはWikipedia外部でお願いできませんでしょうか。つまり、このノートにおいて、一次資料の解釈について、その解釈の当事者として議論をすることはお控えください。つまり、一次資料の解釈を巡って、この場で他の編集者と議論を交わすことはお控えください。

Wikipedia内で第一資料を用いてなすことのできる記述とは、客観的・歴史的事実のみです。つまり、本項の場合ですと親鸞聖人の伝記的ご生涯に関することとか、こういった名称の著作を残した、とか、そういったことです。聖人が例えば『教行信証』でどのようなことをお書きになったか、については、「こういう文言がある」「こういう記述法がとられている」といった解釈の余地のない事柄ならばそのまま書けますが、「これはつまりこういうふうに解釈する事柄である」ということについては各解釈者の出典が必要になります。つまり、「この部分は・・・・・・・と解釈できる(蓮如による)」とか、「清沢満之はこの部分を・・・・・・と分析している」とか、「石田瑞麿 『教行信証入門』 によると・・・・・・」といった記述スタイルにならざるを得ないのです。

真宗げんりさまは「第一資料からは、親鸞さまが考えるアミダ仏の本願とは、苦悩者のために起こされてと教示されています」とおっしゃいました。そうお考えなのでしたら、その真宗げんりさまのお考えを裏付ける、他の方の著作をご明記ください。もしそういう著作がないのでしたら、それは真宗げんりさまの「独自研究」です。そういった内容は書き込むことはできません。

つまり、真宗げんりさまのお考えをWikipediaに記載したいのであれば、上記でお示しの通り、この解釈は入井善樹の著書『なになに』の何ページに記載されているのか、を出典として明記する必要があります。そのうえで、このページ全体が、真宗げんりさまのお考えだけで統一されるのではなく、他の解釈者、真宗学者、勧学の方々などによる著作も同じ分量で出典として用いられる必要があります。つまり、解釈の幅があることをそのまま記事として記載せねばなりません。

しかしながら、おそらく真宗げんりさまは、入井善樹さまご本人と推察されます。研究者本人が、そのご本人の説を、延々とWikipedia上で開陳することは、Wikipedia:中立的な観点の問題上、好ましくありません。もし、真宗げんりさまがWikipediaに今後もご参加くださるのでしたら、真宗げんりさまがこれまで参照、購読などしてきた、先学の方々の著作を出典として加筆くださいますでしょうか。もし、真宗げんりさまのお考えが正しく、素晴らしいものならば、入井善樹の著作は広く専門家の間に浸透し、いずれ心ある編集者が入井善樹の著作を出典としてその内容をWikipediaに加筆してくれるでしょう。それまで待つのがよろしいのではないでしょうか。


ひとまず以上をお伝えします。--アイザール会話2014年10月4日 (土) 21:45 (UTC)

アイザールさま、有り難うございます。だいたい分かりましたので、今までの私の記述はすべて削除してくださいませ。いちから、仕切り直しで二次資料を探して、ダメでしたら参加を諦めます。よろしくお願いいたします。--114.156.224.188 2014年10月5日 (日) 20:14 (UTC)

Resto1578さま、アルザールさま。下記の文を議論して、既存文の書き換えをお願いいたします。 現在の「現生正定聚」の説明は、「横超」が抜けています。是非、横超を加筆いただけば、浄土の中の利益がなぜ現生かの問題が解決します。尚、参照の項目に「横超の信心」を追加をいただきます。「横超の信心」が抜けては、真宗でなくなり利他行が失われ、親鸞のいう他力でなく自力になります。これは、一次資料から簡単に理解できます。

入門

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注釈10に「大乗院・蕎麦食い木像」伝承があります。つまり、『恵信尼消息』「六角堂百日参籠」は“閉じ籠り”でなく、“日参”と考えればよい。さすれば『正明伝』の記述と矛盾しない。——以上の署名の無いコメントは、大塚芳明ノート履歴)さんが 2014年11月28日 (金) 00:31 (UTC) に投稿したものです。

一般に『御伝鈔』の記述は、覚如の誤記と考えられる。同様に「六角告命」「吉水入室」ともに、建仁3年と記されている写本があるが、これも建仁元年の誤記と考えられる。[要出典] について 赤松俊秀師『親鸞』吉川弘文館 51ページ〜58ページ参照——以上の署名の無いコメントは、大塚芳明ノート履歴)さんが 2014年11月29日 (土) 00:47 (UTC) に投稿したものです。

「親鸞と恵信尼は四月五日以降に出逢ったと考えられる」根拠について

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「親鸞が法然のもとに通っていた時期に、すでに二人は出会っていた」とする古田説(古田武彦『わたしひとりの親鸞』毎日新聞社)。 山本摂「恵信尼文書再読」(『行信学報』10、1997年)。その中で「き」(直接体験)、「けり」(間接体験)の用法の研究を通して、古田説を補強している。大塚芳明以上のコメントは、大塚芳明会話履歴)さんが[2014年12月24日 (水) 00:58 (UTC)]に投稿したものです。

「親鸞一旦帰洛説」について

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◆真宗仏光寺派・真宗興正派の寺伝「赦免後親鸞一旦帰洛説」は「玉日実在説」と密接に関係しています。『親鸞聖人正明伝』等を根拠に「玉日実在説」を提唱する研究者のほとんどは「親鸞一旦帰洛説」を支持しています。逆にいえば、恵信尼系の覚如が『御伝鈔(親鸞伝絵)』で「玉日」の存在を否定する意味から、敢えて「一旦帰洛後法然・玉日の墓参」を伏せ直接関東へ下ったように記述した、と考察しています(吉良潤師など)。 ◆ちなみに「玉日」を伝説とする研究者(特に本願寺系の学者)は、覚如『御伝鈔(親鸞伝絵)』の記述のみを根拠に、常陸ノ国に直接下った、とする説を支持しています。

◆真宗仏光寺派・真宗興正派の寺伝は了源『算頭録』「親鸞聖人ハ配所ニ五年ノ居緒ヲヘタマヘテノチ 帰洛マシ〜テ 破邪顕正ノシルシニ一宇ヲ建立シテ 興正寺トナツケタマヘリ」を根拠にしています。しかし、中澤見恵師は『存覚一期記』等を根拠に興正寺建立は了源であり、『算頭録』の記述は疑わしい、として「一旦帰洛」自体も否定しています。小生はその点に関して〈帰洛マシ〜テ〉と〈一宇ヲ建立シテ〉を分け、前者は史実、後者は潤色との【独自の新説】を提唱したのです。従って、出典を提示することは不可能です。要は『算頭録』を全否定するか、部分否定するかという見解の相違です。 ——以上の署名の無いコメントは、大塚芳明ノート履歴)さんが 2014年12月24日 (水) 02:25 (UTC) に投稿したものです。

報告 上記のコメントに「【独自の新説】を提唱した」とあるように、大塚芳明さんが2014年12月22日10:44に編集された「興正派僧侶・大塚芳明は了源『算頭録』の記述で〈帰洛マシ〜テ〉と〈一宇ヲ建立シテ 興正寺トナツケタマヘリ〉を分け前者は史実、後者は潤色との説を提唱している。『中外日報』平成13年7月14日付投稿記事参照。」(差分)は、ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません「1. 初出(独自)の研究」・「3. 個人的なエッセイ」に該当するものと考えます。出典として挙げられた『中外日報』平成13年7月14日付投稿記事は、利用者自身の投稿記事であるため、「Wikipedia:検証可能性#信頼できる情報源」を満たしていないと考えます。Template:独自研究範囲を貼り付けてから1ヶ月が経過しても信用できる第三者情報源が明示されることも無いため、上記の範囲を除去しました。--Resto1578会話2015年1月29日 (木) 16:57 (UTC)

★Resto1578様へ

・大塚芳明の「親鸞一旦帰洛説」についての“独自解釈”が削除されたのは、興正派への申し入れに対し、未返答の現状ではやむを得ません。

・但し、伝存覚作『親鸞聖人正明伝』にも「建暦二年壬申仲秋の中ごろ御上京あり。八月二十日あまりに、岡崎中納言範光朝臣に就て勅免の御礼を申たまひける。御帰京の初には、直に源空上人の墳墓に詣でヽ、しばしば師弟芳契の薄ことをなげき、参台の後には、月輪禅定の御墓ならびに玉日前の芒冢(バウチョ)にまいりたまひて、御誦経と紅涙とこもごもなり」とあります。Wikipediaにおかれましては、史料として『御伝鈔(親鸞伝絵)』と同等に扱われておられるようで、敬意を表します。従って、了源『算頭録』以外の二次資料として採用されるよう、お願い申し上げます。--大塚芳明会話2015年1月30日 (金) 01:54 (UTC)大塚芳明

コメント
大変失礼ながら、上記2015年1月30日01:54のコメントを何度読み返しても大塚芳明さんが仰りたいことがわかりません。
また、『正明伝』・『御伝鈔』・『算頭録』は一次資料です。こちらのコメントで指摘されているように、Wikipediaにおける一次資料と二次資料の区分や「Wikipedia:独自研究は載せない」という方針について誤解されているように見受けられます。--Resto1578会話2015年1月30日 (金) 12:50 (UTC)

★Resto1578様へ

◆小生の真意が伝わらず、申し訳ありません。要するに「親鸞一旦帰洛説」は、単なる伝承でなく、『算頭録』と『正明伝』の両方に根拠があることを、記載して頂きたいのです。つまり「注釈」でもいいですから、一次史料たる『正明伝』の記述を載せて頂きたいのです(小生の力量ではどのように編集していいのか分からないので…)。

◆ちなみに貴兄も薄々感じておられると思いますが、「親鸞一旦帰洛説」は「玉日実在説」と密接に関係してきます。当然ながら「善鸞の実母は誰か?」とも絡んできます。現在の親鸞伝は余りにも本願寺史観(覚如の本願寺中心史観)が強すぎる思うのです。中立・公平を旨とするWikipediaでは、『正明伝』や『親鸞聖人御因縁』など、本願寺系統の史料も同等に取り扱って頂けると信じています。なお、本願寺系の学者諸氏は『正明伝』や『親鸞聖人御因縁』などを《偽書》として全否定されます。しかし小生は、たとえ《偽書》であっても〝一部史実がある〟との立場を採ります。「伝記」たるもの100%創作ではフィクションになり、「伝記」の体裁をなしません。「史実」を散りばめながら、作者及び所属組織の利益に叶うように潤色するのが、常套手段です。従って『恵信尼消息』『親鸞聖人御消息』など第一級史料との整合性を検証しつつ、〝慎重〟に史料として採用すべきだ、と考えております。--大塚芳明会話2015年1月30日 (金) 14:49 (UTC)大塚芳明

コメント
『算頭録』の記述と「親鸞一旦帰洛説」については、興正寺の公式サイト上の「興正寺史話」【十五】〜【十八】を出典として、2014年10月2日 (木) 16:35 (UTC)の編集(差分)で反映させています。
『算頭録』の著者である了源を中興とする興正寺の公式サイトがそのように発表しているため、私にはこれ以上加筆する意思はありません。--Resto1578会話2015年1月31日 (土) 16:02 (UTC)

「吉水入室」と「六角告命」の順序について

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◆かつて(明治以前)は「吉水入室」後「六角告命」が通説とされていた。しかし『恵信尼消息』発見後、「六角告命」後「吉水入室」というのが通説になってしまった。確かに「六角堂に百日こもらせたまひて候《ける(間接体験)》やうに、また百か日、降るにも照るにもいかなるたいふにも参りてあり《し(直接体験)》に」ということからそのように解釈されたのであろう。特にこもらせを「閉じ籠り」と判断したため当時の通説と矛盾した。が、『恵信尼消息』があまりにも第一級史料であったため、覚如が誤認していた、との結論になったと思われる。 ◆しかし、こもらせを夜だけ泊まる「日参」と解釈すれば(大乗院・蕎麦喰い木像の伝承はその傍証)かつての説と何ら矛盾しない。また六角堂百日「日参」と法然百日「日参」とが“対”になり、文脈がスッキリする。 ◆また《ける(間接体験)》→《し(直接体験)》への転換も、「六角告命」までの親鸞の動向を恵信尼は伝聞でしか知り得なかった、ことの証明になろう。 ——以上の署名の無いコメントは、大塚芳明ノート履歴)さんが 2014年12月24日 (水) 03:37 (UTC) に投稿したものです。

平雅行氏の善鸞の実母「ミフノ女房」説について

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◆ページ本文で平雅行氏は善鸞の実母を「ミフノ女房」と推定しておられます。確かに氏の著書『歴史のなかに見る親鸞』(一〇九~一一四頁)で述べられるように、『善鸞義絶状』の「ミフノ女房」が親鸞・善鸞と共通の近親者である可能性には賛同できます。善鸞よりの手紙を持って「ミフノ女房」が親鸞を訪れたことで、異義が確定したのですから…。しかし、親鸞の先妻であった、とするのは氏の独自研究で他に二次資料は無いように思います。

もし先妻ならば、帰洛後の親鸞はなぜ「ミフノ女房」と暮らさず、末娘の覚信尼と暮らしていたのでしょうか。氏の説には確かな二次資料が必要だと思います。

◆ちなみに小生は西山深草氏『親鸞は源頼朝の甥』の中で考察されている〝「ミフノ女房」は善鸞の姉(嵯峨姫)=先妻「玉日」との実子〟説の方が整合性が高いように思います。

◆いずれにしても恵信尼が善鸞の継母である、との説には同意します。つまり、親鸞の妻は二人説が正しいと考えます。--大塚芳明会話2015年1月12日 (月) 06:22 (UTC)大塚芳明

改名について

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◆善信「房号」説に関して

①『教行信証』後序には元久二年七月二十九日の条に〈又夢の告げに依りて綽空の字を改めて、同じき日、御筆を以て名の字を書か令めたまひ畢りぬ〉とあります。親鸞と改名したのなら〈夢の告げ〉とはいかなる「夢告」だったのでしょうか。改名という重大事の根拠たる「夢告」の手掛かりが、一切無いというのは納得できません。

②真蹟『西方指南抄』には「七箇条制戒」の署名を善信としています。もし改名が親鸞なら、当然「親鸞」と書くべきではないでしょうか。また他の人は法然房源空・法蓮房信空・善恵房證空・勢観房源智・成覚房幸西・善綽房西意・法本房行空など僧名が多く、房号とおぼしきものは住蓮だけである。なぜか?

③『教行信証』後序には〈あるいは僧儀を改めて姓名を賜ふて、遠流に処す。予はその一なり。然ればすでに僧に非ず俗に非ず、この故に禿の字を以て姓と為す〉とある。一般に流罪時の姓名は「藤井善信」とされるが、「藤井」の代わりに「(愚)禿」を姓としたのなら、(愚)禿善信と名のったと考えるのが普通ではないか。事実、恵空書写『血脈文書』には、流罪記録の後〈愚禿者坐流罪之時望勅免之時改藤井姓以愚禿之字〉とあり、愚禿善信を強く窺わせる。また最後のほうに〈釋善信聖人〉ともあり、流罪時の俗名「善信(よしざね)」が、法然に改名してもらった「善信(ぜんしん)」であった傍証になろう。--大塚芳明会話2015年1月14日 (水) 03:12 (UTC)大塚芳明

親鸞「一旦帰洛説」にtuite

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★Resto1578様へ

◆親鸞「一旦帰洛説」に関しては、真宗興正派の小生・大塚だけでなく、真宗仏光寺派如来寺住職・藤谷信道氏も『中外日報』平成22年5月8日付に投稿されています。

氏はその中で「一時帰洛」を史実に非ず、と述べた中澤見惠氏の論考を批判し〈一宇建立と一時帰洛はワンセットではない(中略)一時帰洛説の根拠は仏光寺所伝の『善信聖人親鸞伝絵』にある。そこには聖人四十歳の「八月二十一日、京都へかへりのぼりたまひてのち、おなじき十月、華洛をいでて東関におもむきたまひけり」とあり、一宇建立の話は何も書かれてない〉とされています。つまり「一宇建立」は伝承かもしれないが「一時帰洛」は史実であろう、として同派・佐々木英彰氏が平成十三年十月二日付『中外日報』で述べた説を補強しておられます。

◆つまり興正派公式ホームページで「単なる伝承」とする見解を批判的に見ておられます。従って、ページ本文に二次資料として、真宗仏光寺派の公式見解を[注釈]として、追加して頂けないでしょうか。--大塚芳明(会話) 2015年2月25日 (水) 03:11 (UTC)大塚芳明

反対 真宗佛光寺派の公式見解とはいえず、「注釈」としてWikipediaに加筆することに反対します。
大塚芳明さんの「真宗仏光寺派の公式見解を[注釈]として、追加して頂けないでしょうか。」のご提案について。
真宗佛光寺派の公式見解は、佛光寺派公式サイト・真宗佛光寺派宗務所が出版する書籍・真宗佛光寺派の公式見解・佛光寺派の学術研究機関の発表やそれらに準ずる機関の発表が、公式に真宗佛光寺派の見解として表明しない限り、Wikipediaでは「二次資料」として認められません。
2015年2月現在、佛光寺派の公式サイトにおいて「越後流罪に遭われた親鸞聖人は、ご赦免の翌年建暦二年(1212)に京都に帰られ、山科の地に草庵を結ばれました。この草庵が佛光寺草創と伝えられています[1]。」と記されています。
佛光寺派では、「一時帰京」も「山科の草庵建設」も寺に伝わる伝承(寺伝)とするのが公式見解です。よって寺伝であることの出典として、検証可能性を満たす信頼できる情報源として真宗佛光寺派公式サイトを用いることができます。--Resto1578会話) 2015年2月25日 (水) 10:32 (UTC)・(修正)--Resto1578会話2015年2月26日 (木) 05:08 (UTC)

『親鸞聖人正明伝』について

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『親鸞聖人正明伝』は現在、江戸時代に真宗高田派の学僧・五天良空一派により、偽作されたものとされています。

この偽作説の根拠とされる資料(文献・作者など)は何でしょうか。単なる❝通説❞とせず、史料として再検討するのが、Wikipediaの運営方針でもある、記事の充実に繋がるのではないでしょうか。--大塚芳明会話2015年3月30日 (月) 00:36 (UTC)大塚芳明

報告
こんにちは、大塚芳明さん。『親鸞聖人正明伝』の記事を作成しました。偽作とする二次資料についても記述してあります。
なお、Wikipediaは百科事典を編纂することを目的としています。史料を再検討する場ではありません。ご留意頂けたらと存じます。--Resto1578会話2015年4月18日 (土) 02:40 (UTC)