利用者‐会話:大塚芳明
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こんにちは、大塚芳明さん。はじめまして! ウィキペディア日本語版へようこそ!
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出典明示のお願い
[編集]- こんにちは、Resto1578(会話)と申します。
- 大塚芳明さんは記事執筆に当たって、どの様な文献を出典として参照してWikipediaを編集されているのでしょうか。
- 「Wikipedia:独自研究は載せない」の方針により出典のない編集は独自研究として除去される場合があります。せっかく編集した記事から除去されないようにするためにも、ぜひ検証可能な 信頼できる 二次資料を出典として明示してください。よろしくお願い申し上げます。Resto1578(会話) 2014年10月4日 (土) 14:23 (UTC)
蓮光寺本『血脈文集』による「善信実名説」について
[編集]- 報告
- 思想史学者の古田武彦が『親鸞思想-その史料批判』(冨山房、1975年)にて、『教行信証』「御序」にある「名の字」を「釈善信」と主張したことについて反証論文が存在します。その論文はウェブサイト上で確認できることを報告します。
- 豅(ながたに)弘信によって「「釈善信」考-蓮光寺旧蔵本『血脈文集』の「親鸞自筆文書」をめぐって」(日本宗教学会『宗教研究』第376号(第87巻第1輯)掲載〈2013年6月〉)という論文を発表しています。『宗教研究』は、編集委員会が査読しているため信頼できる情報源です[1]。
- 豅弘信「「釈善信」考-蓮光寺旧蔵本『血脈文集』の「親鸞自筆文書」をめぐって」『宗教研究』第87号、日本宗教学会、2013年、NAID 110009625105。
- そのほかにも豅(ながたに)弘信は、以下の論文で「善信」実名説を否定しています。
- 豅弘信「「善信」と「親鸞」- 元久2年の改名について-(上)」『親鸞教學』第75号、大谷大学真宗学会、2000年、36-48頁。
- 豅弘信「「善信」と「親鸞」- 元久2年の改名について-(下)」『親鸞教學』第76号、大谷大学真宗学会、2000年、50-68頁。
- 豅弘信「「善信」実名説を問う(上)」『親鸞教學』第95号、大谷大学真宗学会、2010年、40-54頁。
- 豅弘信「「善信」実名説を問う(下)」『親鸞教學』第96号、大谷大学真宗学会、2011年、50-68頁。
- その他にも東京大学倫理学の佐藤正英の文章や真木由香子の『親鸞とパウロ』らの論証を受けた真宗学の本多弘之が、『新講 教行信証-総序の巻』第二講(P.33-43)/付「出会いと名のり-『親鸞』の名によせて」(P.319-331)(草光舎)や『親鸞像の再構築』「師弟の信頼関係を示す名の贈与-「親鸞」の名にちなんで」(P.91-111)(筑摩書房)にて、「親鸞」実名説を主張しています。
- 編集する際は、「Wikipedia:中立的な観点」・「Wikipedia:検証可能性」と「Wikipedia:独自研究は載せない」の方針に沿う記述をしてください。よろしくお願いいたします。--Resto1578(会話) 2014年10月4日 (土) 16:41 (UTC)
署名のお願い
[編集]こんにちは。ノートページや会話ページ、井戸端、削除依頼・保護依頼などの依頼ページで発言される際には、コメントの最後に適切な署名をお願いいたします。半角チルダを4つ続けて投稿(~~~~)しますと、自動的に署名に変換されます。編集画面の上部に並んでいるボタンの中の署名アイコン()をクリックすると、簡単に「--~~~~」が追加できますのでご活用ください。詳しくは、Wikipedia:署名をご覧ください。
署名は、コメントの末尾に上記のマークアップを使用して記入して下さい。セクション名へ手書きで名前を記入しても署名を記入したことには全くなりません。--123.225.19.178 2014年12月24日 (水) 04:33 (UTC)
Wikipedia編集する際のお願い
[編集]こんにちは、大塚芳明さん。
大塚芳明さんの記事の編集傾向やノートページの書き込みは、「百科事典編纂を目的としたもの」とは言い難いと思います。今一度、Wikipediaの三大方針(中立的な観点(NPOV)・独自研究は載せない(NOR)・検証可能性(V))や、その他の方針、ガイドラインを熟読された上で編集参加頂きたくお願い申し上げます。
以下は主な方針やガイドラインなどをまとめた一覧です。リンク先はかなりの分量があります。まずは、Wikipediaの三大方針WP:NPOV・WP:NOR・WP:V・ウィキペディアは何ではないか(NOT)など編集にかかわる方針をご一読いただきたくお願い申し上げます。--Resto1578(会話) 2015年1月12日 (月) 02:09 (UTC)
大塚芳明さんは独自研究や二次資料・信頼できる情報源の意味を履き違えています。著名な研究者・学者などが記した文書などはWikipediaでは信頼できる情報源及び二次資料に当たります。脚注、出典などの記載によって、それを誰がどこで述べているのかを把握出来れば何ら問題はありません。仮に別の研究者により違う意見などがあれば、図書館でそれを探してきて両方を併記すればいい話です。逆にこのような記述[2]はあなたいち個人の意見に過ぎず、上で述べたようにそう書かれている文献などを提示するか、どうしても載せたいのであればあなたが高名な学者となって出版物として発行するしかないでしょう。「~~と考えられる」といった、推察めいた文章も避けるようにしてください。--CHELSEA ROSE(会話) 2015年1月29日 (木) 21:37 (UTC)
編集内容の一方を除去しないでください。
[編集]こんにちは。記事からテキストを除去するのはやめてください。大塚芳明さんが「親鸞」でなさったような編集は荒らし投稿とみなされます。あなたが除去した記述は、2014年10月9日 (木) 07:29に「Wikipedia:中立的な観点」・「Wikipedia:検証可能性」・「Wikipedia:独自研究は載せない」の三大方針に準じて編集された内容[3]であり、その一方を除去することは「不当な白紙化」です。--Resto1578(会話) 2015年1月29日 (木) 16:14 (UTC)
親鸞「一旦帰洛説」について
[編集]★Resto1578様へ
◆親鸞「一旦帰洛説」に関しては、真宗興正派の小生・大塚だけでなく、真宗仏光寺派如来寺住職・藤谷信道氏も『中外日報』平成22年5月8日付に投稿されています。
氏はその中で「一時帰洛」を史実に非ず、と述べた中澤見惠氏の論考を批判し〈一宇建立と一時帰洛はワンセットではない(中略)一時帰洛説の根拠は仏光寺所伝の『善信聖人親鸞伝絵』にある。そこには聖人四十歳の「八月二十一日、京都へかへりのぼりたまひてのち、おなじき十月、華洛をいでて東関におもむきたまひけり」とあり、一宇建立の話は何も書かれてない〉とされています。つまり「一宇建立」は伝承かもしれないが「一時帰洛」は史実であろう、として同派・佐々木英彰氏が平成十三年十月二日付『中外日報』で述べた説を補強しておられます。
◆つまり興正派公式ホームページで「単なる伝承」とする見解を批判的に見ておられます。従って、ページ本文に二次資料として、真宗仏光寺派の公式見解を[注釈]として、追加して頂けないでしょうか。--大塚芳明(会話) 2015年2月25日 (水) 03:11 (UTC)大塚芳明
- 報告
- 「ノート:親鸞#親鸞「一旦帰洛説」にtuite」に回答しました。--Resto1578(会話) 2015年2月25日 (水) 10:34 (UTC)
著作権に関するお願い
[編集]こんにちは。松茸(会話)です。大塚芳明さんが親鸞聖人正明伝に投稿された内容を見てお願いに参りました。投稿ボタンの上部にも「著作権を侵害する記述は削除されます。」とありましたように、ウィキペディアには著作権に関するルールがあります。もし外部の文章をウィキペディアで利用したいなら、その文章の著作権者自身にウィキペディアへの投稿を呼びかけるか、承認を得た上で、Wikipedia:自著作物の持ち込みに従って、きちんと手続きを踏まねばなりません。その手続きを踏まずに投稿ボタンを押すと著作権侵害ということになり、Wikipedia:削除の方針またはWikipedia:即時削除の方針に基づいて記事を削除しなければならなくなります。語尾を置き換えただけの文章を使ったり、「参考文献として使ったが、結果として似通った文章になってしまった」場合も同様です。多くの方に迷惑がかかることになりますので、どうかくれぐれも、このようなことがないようにお願いいたします。--松茸(会話) 2015年4月7日 (火) 03:41 (UTC)