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Wikipedia:エチケット

ウィキペディアには様々な国や文化を持つ人が参加しており、それぞれ異なったものの見方や考え方を持っています。お互いに敬意を持って接することで効率的に百科事典を作り上げることができます。

このページには、他の利用者とどのように作業を進めるかにあたっての提案とガイドラインがあります。そのなかでも特に、方針として強く主張されている、二つの重要な決まりがあります。

個人攻撃をしない。
人の作業結果についてあれこれ批評することは構いませんが、個人攻撃をしたり、人種・性別・主義主張などによる侮辱を行うことは許されません。
不快な利用者名は使わない。
他の利用者を攻撃する結果になるような利用者名は使うべきではありません。

ウィキペディアにおけるエチケットの原則

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不満を表明するのと同じ数だけ、ポジティブなコメントをするように努力してみてください。
ちょっとした賞賛によって、コミュニケーションが円滑になり、相手が批判を個人攻撃のように感じることも減ります。上手なやり方は、不平を賛辞の間に挟むこと、つまりあなたのコメントの最初と最後に何か前向きなことを述べることです。
古い批判は除去するか要約してください。
批判した相手があなたの書き込みを読んだだろうと確信できた時点で(例えばレスがついていたら)、敬意を持ってその不満を除いたり要約したりするようにしましょう。苦情や警告を書き込まれた人は、以後の参加や記事の投稿を辞めてしまったり、ときには批判を恐れているように見えることを懸念して、その苦情を消去することに消極的になることがあります。むしろ更に一歩進んで、あなたの問題に取り組んでくれた(または少なくとも考慮してくれた)ことに対して感謝を表すべきです。
機会があれば、称賛や感謝などを表明してください。
あなたが文句を言わなければ、他の執筆者は書いた記事が"問題がないものと理解するに決まっている"、とは考えないようにしてください。読んだ記事がよいと思えば、そう書き込みましょう。普通、わざわざノートページを使うのは、その記事に問題があると考えるからで、したがってノートに書き込むことは即否定的なこと、という意味合いができてしまいます。すると、ノートでの過度の論争の発生を招いてしまうことにもなります。動物を調教する際に、良い点をのばすことが重要だということを考えてみてください(人間も動物です!)。
完全に自信があるわけではない場合には特に、コメントを質問の形で書くようにしてみてください。
Exampleさんによってなされた加筆が独自研究なのは明らかです」と書く代わりに、「でもExampleさんによってなされた加筆は独自研究ではないでしょうか?」と書くこともでき、そうすることで、別の見方を許容するかのような書き方になり、相手を不必要に怒らせないようにもできます。
主張を個人的な見解として表現してください。
あなたの意見を、それがあたかも真実であるかのように普遍的な事実として主張すると、読み手をたきつけてしまうことがあります。その代わりに、それがあなた自身の個人的な見解であるということが分かるように書くと、あなたの意見に同意できない人からもさほど無礼なことだとは思われなくなるでしょう。例えば、「でも妊娠中絶は罪のない胎児に対する殺人なんでしょ?」と言う代わりに、「妊娠中絶は罪のない胎児に対する殺人だと考えているのは私だけではないでしょう」と述べる方がよいでしょう。こうすることで、その議題に対するあなたの確固たる意思を強調しつつ、全く同じ意見をよりおだやかに相手に伝えることができます。
自分の立場以外の視点も理解しているということを示すために、他の視点をフェアーに言い換えてみてください。
「あなたが妊娠中絶の問題について女性に選択の自由があると考えていることはわかります。しかし、その意見に反対し、また妊娠中絶は無実の赤ん坊に対する単なる殺人であると考える人は、明らかに私だけではありません。」
利用者同士の意見の対立を見かけたら、仲裁をしてみてください。
喧嘩を始めた二人を引き離すのと同じことです。議論が加熱し過ぎていることや落ち着く必要があることを指摘するだけで、事態を沈静させ、この共同体では公衆の前で口喧嘩をすることは受け入れられないということを強調するのに大きな効果があることがあります。「やあ。この妊娠中絶をめぐる議論はだいぶ紛糾しているようだね。何年も議論が続いているような問題をここウィキペディアで解決しようとするのはちょっと無理なんじゃないかな。どっちもこのことについては譲らない意見をもっているようだ。もしかすると、これまでの議論は取り除いて、もっと対立の少ない意見をもった人達の議論のための場を作った方がいいのかもしれないね。」と語りかけることで、大半の対立は沈静化するでしょう。
あまりにも情熱を持っている事柄については執筆を避けてください。
このルールは中立的な記事を書くためのものです。偏っているときに中立になることは難しいのです。

最後に、最終手段として、あなたが協力的な精神で呼びかけても功を奏さなかったり、編集者が中立的な文章を個人的なイデオロギーにもとづいて取り除き続けたときには、状況を改善できる最後の方法が一つあります。放置するという方法です。そのページをブックマークに入れ、1、2週間経ったら戻ってみましょう。イデオローグは、中立的な記事を死守しようとする幅広い合意があまりにも強固でうち負かすことができそうにないときには、あきらめてしまうものです。また、ウィキペディアの中立性の観点は多くのウィキペディアンによって支持され、守られているので、あなた一人で擁護しなくてはならないというものではないのです。一人でそういうふうに試みることは、時には問題を拡大させるだけになることもあります。しかし、それでも問題が解決しなかった場合や、特に犯罪と思われる行為(個人を特定して個人情報を公開するなどの危害を加える)は管理者か警察に相談すると良いかも知れません。

以上の提案のほとんどは簡潔に要約できます:礼儀正しく振る舞ってください。このことはあなたが思っているより重要な(そして有益な)ことです。Wikipedia:議論が白熱しても冷静にWikipedia:方針とガイドラインも参照してください。

ノートページの濫用を避けるためには

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私たちは互いに書いたものを編集し合っていて、政治的なまた煽動的な話題に取り組むときには、いや応なく個人的な偏見が編集に反映されます。政治的な意見の不一致が、個人への侮辱や、私たちの知性・品位・大切な価値観・誠実さに対する攻撃として解釈されることが頻繁にあります。自我が傷付けられ、それに伴う攻撃や防御が当然とられます。ノートページとはそういった場所なのです。言葉の上での殴り合いに使われる場所です。

しかし私たちはこのような状況の多くを避けることができます。私たちはいくつかのことを心に留めておかなければなりません:

  • 基本的にノートページの目的は記事を改善することです。
  • ウィキペディアは議論の場ではありません——議論はウィキペディアの目的ではありません。議論がしたいのなら、Usenetや公共のブログ、そして他のウィキ、さらに日本的な文化を持った電子掲示板など、もっと適当な場所があります。
  • 誰かがあなたに反対しても、それは次のようなことを意味するものとは限りません。(1) その人物はあなたを嫌っている、(2) その人物はあなたを馬鹿だと思っている、(3) その人物は馬鹿である、(4) その人物は悪である、など。誰かがあなたに反対したとき、そのことから邪推してしまう真実でない事柄はたくさんあります。そのような文章から何も邪推せず、あなたに反対した人物には彼の意見を持たせたままそっとしておくのが一番です。
  • ノートページにコメントを書き込む前に、自分自身に尋ねてみてください:
    • それは本当に必要だろうか? どうして自分はただ記事を編集して要約をつけるだけに留めないのか? 自分が何をしたのか、そしてそれはなぜなのかは、明らかではないだろうか?
    • 誰かの意見を変えることは本当に可能だろうか? もし可能でないなら、ウィキペディアの目的は百科事典の記事を書くことだという前提の上で、この議論はどんな意味を持つのだろうか?
    • 自分がこのコメントを書き込むのは、ただ自尊心を守り、自分の主張を通したいからだろうか?
    • 本当にこの議論を続けたいのなら、それは一般的な関心事なのか、それとも電子メールで続けた方がいいのだろうか?
  • 効果を出すためには、しばしば沈黙が必要なものです。

ウィキペディアをパルチザンの闘技場として用いようとすることは、どうか、どうか注意深く避けましょう。

ノートページの使用に関する反論への回答

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あなたにとってはやたらと偏見の渦巻く議論のように見えるものでも、普通は記事の改善につながるとても有益な議論なのです。
ときどきそういうこともあります——しかし、たいていはそうではありません。w:en:talk:abortionw:en:talk:cultural imperialismw:en:talk:sports utility vehicleなどのページの議論は、これまで何度も記事の改善にまったく役に立たない議論へと迷走しました。とにかく、私たちが言っているのはそういうことです。
この議論は的はずれに見えるかもしれませんが、結局はこの話題も記事に役立つものとなるのです。
時にはそういうこともありますし、それはそれでいいことです。でも適切な話題を扱って、口論をスキップした方がよくはないですか。さらに経験からいうと、もちろん議論が全然記事に役立たないこともしょっちゅうです。——逆に態度を硬化させる結果に終わるのです(まるで頑な態度を取り続けることが百科事典の執筆に役立つかのように)。
じゃあ、ノートの議論は人々をウィキペディアに夢中にさせるじゃないか。夢中にならない方がいいとでもいうのかい。論争のないウィキはきっと退屈なものだろう。論争が実際により多くの人をウィキペディアに引きつけるかもしれない。
論争は多分、ある人々をウィキペディアに引きつけるでしょうね。でもそれは別の多くの人々、そんな論争はまっぴらごめんだという人々をうんざりさせることでもあるのです。ウィキペディアにはそんな論争とは全く別のことで人を俄然熱中させるものがあるのだということも胸にとめておいてください。それだけで私たちを引きつけておくほどエキサイティングなのです。
でもここでどんなに自分の好きなことをしようと、それは勝手じゃないか。ここはウィキなんでしょ?
そうじゃない。ここで何をやってもよいというわけではありません。ウィキペディアはあなたのものではないのです。他の皆と分かち合わなくてはなりません。ウィキペディアの存在理由は、完全で、中立で、自由な百科事典を作り上げることで、共同体がこのゴールに向かって作業を続けるために私たちは方針のほとんどを策定しました。この目的のもとに私たちとやっていくことができないのなら、ウィキペディアを離れ、別のプロジェクトを始めるべきです。
信奉者たちの少数の議論なら誰も傷付くことはない。自分たちが百科事典を作ることを基本に参加してるってのはみんな分かってるよ。で、なんで自然にやってることを止めなくちゃいけないわけ? 少しの論争なら何もダメにすることはない。あなたが何をそんなに心配しているのか分からないよ。
よい質問です。私たちは少しばかり、ものごとを過大に見ているかもしれません。ウィキペディアが論争と共に成長し成功し続けていくとしても、私たちの内のいくらかはやはり、ない方がよりよいだろうと考えます。私たちは総計何百時間も、機転や成熟や取りかかった課題に集中することで避けることができた当て所もない論争に巻き込まれることで浪費してきたようです。もっと参加者が多ければ、同じようにして今よりももっと、論争に係わらなければならなかったかも知れません。今、信奉者たちの口論に反対する有効な習慣を付けはじめれば、数年後には、そのことに未来のウィキペディアンたちは感謝することになるでしょう。

「議論」対「調査」

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記事を改善するための議論は、同じだけの時間を調査に費やしたという事実に付き従う薄暗い影のようなものです。議論は人々をプロジェクトに引きつけますが、そういう人々は議論がしたくて集まってくるわけですから、結局私たちが歩むべきではない暗黒の道に引きずり込む結果になってしまうかもしれません。

議論を積極的に要約しようとするのは、特にその議論がその問題についての様々な観点を網羅しているような場合には、推奨すべき良い習慣です。要約というのは、全ての議論をあなたの考えで書き換えるという意味ではなく、単に議論全体から取り下げられた点や誤りであることが確かめられた点を取り除いて、例えば箇条書きで再構成することです。もしあなたが自己を抑制して偏見のないやり方で記事の要約を行うことができれば(それが困難であることは誰もが認めています)、その結果は、そのまま記事に加えても良いくらいの文章になっているかもしれません。

関連項目

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