1950年の中日ドラゴンズ
1950年の中日ドラゴンズ | |
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成績 | |
セントラル・リーグ2位 | |
89勝44敗4分 勝率.669[1] | |
本拠地 | |
都市 | 愛知県名古屋市 |
球場 | 中日スタヂアム |
球団組織 | |
オーナー | 大島一郎 |
経営母体 | 中日新聞社 |
監督 | 天知俊一 |
« 1949 1951 » |
1950年の中日ドラゴンズ(1950ねんのちゅうにちドラゴンズ)では、1950年の中日ドラゴンズにおける動向をまとめる。
この年の中日ドラゴンズは、2リーグ制1年目のシーズンであり、天知俊一監督の2年目のシーズンである。同シーズンの中日は球団史上最多となるシーズン89勝を記録したが[2]、セントラル・リーグ(セ・リーグ)史上最多となるシーズン98勝を挙げた松竹ロビンスに9ゲーム差をつけられ、8球団中2位に終わった[3]。なおNPBでは、シーズン90勝以上を挙げながらリーグ優勝を逃したチームは2015年までに歴代3チームあるが、これら3チームはいずれもパシフィック・リーグ(パ・リーグ)のチームである[注 1]一方、同年までにセ・リーグでシーズン90勝以上を挙げたチーム[注 2]はいずれもそのシーズンにリーグ優勝を達成しているため[4]、この89勝という数字はセ・リーグのV逸チームとしては歴代最多勝利数である。
概要
[編集]球団(中部日本野球倶楽部)と1948年に開場した中日スタヂアムの運営を一体化することを企図して両社を合併し、後者を存続会社とする名古屋野球株式会社が運営法人となった。これに伴い、中日新聞社顧問の大島一郎が前身の名古屋軍時代から5年ぶり3度目のオーナー職に復帰する。
この年の中日は3月から4月にかけて13連勝を記録し、最終的にはシーズン89勝を記録したが、6月の3勝10敗が大きく響いて(それ以外の月で勝ち越し)リーグ優勝を逃した。投手陣は杉下茂・服部受弘がともに20勝以上をあげ、宮下信明が14勝、近藤貞雄が10勝と、2桁勝利投手を4人出したもののそれ以外の投手が不調で、チーム防御率は3.73のリーグ3位だった。打撃陣は坪内道典、西沢道夫、杉山悟らの活躍もありチーム本塁打は144本でリーグ2位を記録し、チーム打率も.274の2位と打ちまくった。対戦成績では西日本に14勝3敗1分、7位の国鉄に17勝2敗1分と大きく勝ち越した。
シーズン終了後、中日新聞社と名古屋鉄道の共同経営(輪番制による隔年運営)となったことに伴い大島は1シーズン限りで名鉄の千田憲三にオーナー職を譲り、球団名も「名古屋ドラゴンズ」に変更されたため「中日ドラゴンズ」の名称は一時姿を消すことになった。
レギュラーシーズン
[編集]1 | 中 | 坪内道典 |
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2 | 右 | 原田徳光 |
3 | 一 | 西沢道夫 |
4 | 左 | 杉山悟 |
5 | 三 | 杉浦清 |
6 | 捕 | 野口明 |
7 | 遊 | 松本和雄 |
8 | 二 | 国枝利通 |
9 | 投 | 清水秀雄 |
順位 | 3月終了時 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 9月終了時 | 10月終了時 | 最終成績 | |||||||||
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1位 | 中日 | -- | 中日 | -- | 松竹 | -- | 松竹 | -- | 松竹 | -- | 松竹 | -- | 松竹 | -- | 松竹 | -- | 松竹 | -- |
2位 | 松竹 | 1.0 | 松竹 | 0.0 | 中日 | 1.0 | 中日 | 5.0 | 中日 | 5.0 | 中日 | 7.5 | 中日 | 9.0 | 中日 | 8.5 | 中日 | 9.0 |
3位 | 巨人 | 2.0 | 巨人 | 2.5 | 巨人 | 8.0 | 巨人 | 6.5 | 巨人 | 11.5 | 巨人 | 10.5 | 巨人 | 10.5 | 巨人 | 14.0 | 巨人 | 17.5 |
4位 | 大洋 | 3.0 | 大阪 | 10.0 | 大阪 | 10.0 | 大阪 | 8.5 | 大阪 | 14.5 | 大洋 | 20.0 | 大阪 | 22.5 | 大阪 | 25.5 | 大阪 | 30.0 |
5位 | 大阪 | 5.5 | 大洋 | 10.0 | 大洋 | 12.0 | 大洋 | 11.5 | 大洋 | 15.0 | 大阪 | 22.5 | 大洋 | 24.0 | 大洋 | 27.0 | 大洋 | 31.0 |
6位 | 西日本 | 7.0 | 西日本 | 11.5 | 西日本 | 18.0 | 西日本 | 19.0 | 西日本 | 22.0 | 西日本 | 28.5 | 西日本 | 34.5 | 西日本 | 43.5 | 西日本 | 48.5 |
7位 | 広島 | 7.5 | 広島 | 18.0 | 広島 | 20.0 | 広島 | 20.0 | 広島 | 25.5 | 広島 | 36.5 | 広島 | 43.0 | 広島 | 49.5 | 国鉄 | 57.5 |
8位 | 国鉄 | 10.0 | 国鉄 | 20.0 | 国鉄 | 27.0 | 国鉄 | 29.5 | 国鉄 | 34.5 | 国鉄 | 42.5 | 国鉄 | 48.5 | 国鉄 | 54.0 | 広島 | 59.0 |
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | 松竹ロビンス | 98 | 35 | 4 | .737 | 優勝 |
2位 | 中日ドラゴンズ | 89 | 44 | 4 | .669 | 9.0 |
3位 | 読売ジャイアンツ | 82 | 54 | 4 | .603 | 17.5 |
4位 | 大阪タイガース | 70 | 67 | 3 | .511 | 30.0 |
5位 | 大洋ホエールズ | 69 | 68 | 3 | .504 | 31.0 |
6位 | 西日本パイレーツ | 50 | 83 | 3 | .376 | 48.0 |
7位 | 国鉄スワローズ | 42 | 94 | 2 | .309 | 57.5 |
8位 | 広島カープ | 41 | 96 | 1 | .299 | 59.0 |
できごと
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
- 名古屋軍時代に作成された「名古屋軍応援歌」以来14年ぶりとなる新球団歌「ドラゴンズの歌」が中日新聞紙上で行った懸賞公募により制定される。作曲は阪神や巨人(初代と3代目)、東急と同じ古関裕而が手掛けており、伊藤久男の歌唱で日本コロムビアがSP盤を製造した。
選手・スタッフ
[編集]表彰選手
[編集]リーグ・リーダー | |||
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選手名 | タイトル | 成績 | 回数 |
杉下茂 | 最多奪三振 | 233個 | 初受賞 |
ベストナイン | ||
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選手名 | ポジション | 回数 |
西沢道夫 | 一塁手 | 初受賞 |
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 1956年の南海ホークス(96勝)、1954年の南海ホークス(91勝)、1955年の西鉄ライオンズ(90勝)で、いずれもパ・リーグ2位[4]。
- ^ 同年の松竹、1955年の読売ジャイアンツ(92勝)、1965年の読売ジャイアンツ(91勝)。
出典
[編集]- ^ a b “年度別成績 1950年 セントラル・リーグ”. 日本野球機構. 2017年4月29日閲覧。
- ^ “チームデータ > 記録集 > 試合最高記録”. 中日ドラゴンズ. 2019年12月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年12月11日閲覧。
- ^ 「年度別成績 1950年 セントラル・リーグ」『NPB.jp』日本野球機構、1950年。2024年11月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年11月10日閲覧。
- ^ a b 「ソフトBはここまで88勝 シーズン最多勝利球団はどこ?」『BASEBALL KING』ライブドア、2015年9月25日。オリジナルの2024年11月10日時点におけるアーカイブ。2024年11月10日閲覧。
- ^ 『日本プロ野球80年史 1934-2014』 【記録編】、ベースボール・マガジン社、2014年12月24日。ISBN 978-4-583-10668-7。
セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ | ||||||
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優勝 | 松竹ロビンス | 2位 | 中日ドラゴンズ | 優勝 | 毎日オリオンズ | 2位 | 南海ホークス |
3位 | 読売ジャイアンツ | 4位 | 大阪タイガース | 3位 | 大映スターズ | 4位 | 阪急ブレーブス |
5位 | 大洋ホエールズ | 6位 | 西日本パイレーツ | 5位 | 西鉄クリッパース | 6位 | 東急フライヤーズ |
7位 | 国鉄スワローズ | 8位 | 広島カープ | 7位 | 近鉄パールス | ||
:日本一 :日本シリーズ出場 | |||||||