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1950年の南海ホークス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1950年の南海ホークス
成績
パシフィック・リーグ2位
66勝49敗5分 勝率.574[1]
本拠地
都市 大阪府大阪市
球場 大阪球場
球団組織
経営母体 南海電気鉄道
監督 鶴岡一人(山本一人)
« 1949
1951 »

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1950年の南海ホークス(1950ねんのなんかいホークス)では、1950年の南海ホークスの動向をまとめる。

この年の南海ホークスは、2リーグ制となった1年目のシーズンであり、鶴岡一人選手兼任監督の5年目のシーズンである(当時は山本一人)。

概要

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1949年オフのプロ野球再編騒動を受け、ホークスはパシフィック・リーグに加盟。チームは失ったペナント奪回のため、蔭山和夫などが新しく入団。蔭山や笠原和夫黒田一博など若手選手の活躍もありチームは5月まで新加盟の毎日に食らいついたものの、6月以降は徐々にゲーム差を広げられ、さらに後述の放棄試合などもありチームはパ・リーグ1年目のシーズンを2位で終えた。投手陣は前年の投壊がやや改善されてチーム防御率が3.38でリーグ1位、打撃陣はリーグ3位の88本塁打ながらもパ・リーグ唯一の200盗塁以上(225盗塁)を記録し、打率もリーグ2位の.279だった。

この年の9月12日大阪球場が開場[2]。公式戦初開催を予定していた9月16日の2試合(南海対阪急、東急対近鉄)が雨天中止となり[3]、翌9月17日の2試合(近鉄対阪急、南海対東急)が公式戦初開催となった。

チーム成績

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レギュラーシーズン

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開幕オーダー
1 松葉昇
2 木塚忠助
3 笠原和夫
4 飯田徳治
5 堀井数男
6 長沢正二
7 筒井敬三
8 柚木進
9 蔭山和夫
1950年パシフィック・リーグ順位変動
順位 3月終了時 4月終了時 5月終了時 7月終了時 8月終了時 9月終了時 10月終了時 最終成績
1位 毎日 -- 毎日 -- 毎日 -- 毎日 -- 毎日 -- 毎日 -- 毎日 -- 毎日 --
2位 南海 0.5 南海 2.0 南海 5.0 南海 9.5 南海 12.0 南海 13.0 南海 15.0 南海 15.0
3位 東急 2.5 大映 5.5 大映 13.5 大映 18.0 大映 18.5 大映 14.5 大映 17.5 大映 19.5
4位 近鉄 3.0 東急 7.5 東急 16.0 阪急 20.5 東急 21.0 東急 22.0 阪急 25.5 阪急 28.5
5位 西鉄 3.0 西鉄 西鉄 17.5 東急 21.0 西鉄 23.0 西鉄 26.5 東急 28.0 西鉄 31.5
6位 大映 3.5 近鉄 8.0 近鉄 17.5 近鉄 23.0 阪急 23.0 阪急 27.0 西鉄 29.5 東急 32.5
7位 阪急 5.0 阪急 11.5 阪急 18.0 西鉄 23.5 近鉄 28.5 近鉄 30.0 近鉄 35.0 近鉄 37.5


1950年パシフィック・リーグ最終成績
順位 球団 勝率
1位 毎日オリオンズ 81 34 5 .704 優勝
2位 南海ホークス 66 49 5 .574 15.0
3位 大映スターズ 62 54 4 .534 19.5
4位 阪急ブレーブス 54 64 2 .458 28.5
5位 西鉄クリッパース 51 67 2 .432 31.5
6位 東急フライヤーズ 51 69 0 .425 32.5
7位 近鉄パールス 44 72 4 .379 37.5

できごと

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  • 8月14日 - 富山球場での大映スターズ15回戦、9回表、大映の板倉正男はライトの黒田一博の前にフライを打つが、長谷川信義塁審は「一度捕ったが落球した」と判断して「セーフ」の判定。これに山本一人監督兼内野手は「ダイレクトで捕った」と猛抗議。40分の中断の末に南海側の「放棄試合」となる。「トラブルで試合続行を拒否」しての放棄試合はこれが初。その後9月1日に裁定が下され、「南海球団に制裁金10万円」の処分が出るが、山本監督兼内野手には「謹責処分」が下される(放棄試合で監督に罰金が出なかったのは唯一)。

選手・スタッフ

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表彰選手

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リーグ・リーダー
選手名 タイトル 成績 回数
木塚忠助 盗塁王 78個 2年連続2度目
ベストナイン
選手名 ポジション 回数
飯田徳治 一塁手 初受賞
木塚忠助 遊撃手 3年連続3度目

出典

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