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1965年の中日ドラゴンズでは、1965年の中日ドラゴンズの動向をまとめる。
この年の中日ドラゴンズは、西沢道夫監督の2年目(途中就任の前年含む)のシーズンである。
杉浦清監督時代の1963年から使用されたスカイブルーのユニフォームが廃止され、前年途中から就任した西沢監督の意向により紺色主体(赤の縁取り[2])に変更。ユニフォームが一新されたチームは開幕から投打ともに好調で、投手陣では前年途中入団の小川健太郎がエースとして勝ち星を重ね、山中巽・柿本実・河村保彦・水谷寿伸もそれなりの成績を残し、この年から抑え専任となった板東英二はリリーフながら2ケタ勝利を挙げる活躍を見せ、この6人で77勝のうち69勝を稼ぎチーム防御率2.60はリーグ3位。打撃陣でも前年から高木守道が先輩の中利夫と俊足コンビを形成。それ以外もジム・マーシャルや不動の4番・江藤慎一も打撃好調でチーム打率・盗塁数でリーグ1位を記録し、タイトルでも江藤が巨人の王貞治の三冠王を阻止して2年連続の首位打者に、高木が盗塁王を獲得するなど充実した1年となった。チームは対サンケイ戦同一カード13連勝という明るい話題はあったものの7月までBクラスに甘んじ、8月以降は14連勝もあって前年優勝の阪神や大洋を蹴落としてAクラスに浮上したが、時すでに遅く優勝争いにからめず巨人と13ゲーム差の2位で終わった。チームはサンケイに22勝3敗3分、広島に19勝9敗と勝ち越したが、巨人・阪神・大洋には負け越した。この年、西沢監督の盟友である坪内道典ヘッドコーチが就任した。
1965年セントラル・リーグ順位変動
順位
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4月終了時
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5月終了時
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6月終了時
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7月終了時
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8月終了時
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9月終了時
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最終成績
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1位
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大洋 |
--
|
大洋 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
2位
|
広島 |
0.5
|
巨人 |
0.5
|
阪神 |
4.0
|
阪神 |
2.5
|
阪神 |
5.5
|
中日 |
7.5
|
中日 |
13.0
|
3位
|
阪神 |
1.0
|
阪神 |
2.0
|
大洋 |
4.5
|
大洋 |
5.0
|
中日 |
6.5
|
阪神 |
10.5
|
阪神 |
19.5
|
4位
|
巨人 |
1.0
|
中日 |
4.0
|
中日 |
6.0
|
中日 |
9.0
|
大洋 |
10.0
|
大洋 |
17.5
|
大洋 |
23.0
|
5位
|
中日 |
5.0
|
広島 |
5.0
|
広島 |
11.0
|
広島 |
10.5
|
広島 |
16.5
|
広島 |
25.0
|
広島 |
31.0
|
6位
|
サンケイ |
7.5
|
サンケイ |
9.5
|
サンケイ |
11.5
|
サンケイ |
24.0
|
サンケイ |
30.5
|
サンケイ |
38.5
|
サンケイ |
45.5
|
[1]
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監督 | |
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一軍コーチ | |
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二軍監督・コーチ | |
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投手 | |
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捕手 | |
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内野手 | |
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外野手 | |
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[3][4]
ベストナイン
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選手名 |
ポジション |
回数
|
高木守道 |
二塁手 |
3年連続3度目
|
江藤慎一 |
外野手 |
3年連続4度目
|
中暁生 |
5年ぶり2度目
|
松井猛は、アマ復帰前の1958年 - 1959年に大毎オリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)に在籍したことに加え、、1999年の社会人野球における元プロ選手の受け入れ再開後は、プロ復帰時にドラフトにかける必要がないことから、結果的にドラフト指名された唯一の元日本プロ野球(NPB)選手となった。
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1930年代 | |
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1940年代 | |
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。 |