永江健一
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この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2020年8月) |
基本情報 | |
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出身地 | 鹿児島県 |
選手情報 | |
ポジション | 投手 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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永江 健一(ながえ けんいち)は、鹿児島県出身の元アマチュア野球選手である。ポジションは投手。
来歴・人物
[編集]鹿児島実業高校では、一塁手及び控え投手として活躍し、1965年夏の県大会で決勝に進むが、その決勝では登板せずに惜しくも、前年に続いて鹿児島玉龍高校に敗れ、甲子園出場を果たすことができなかった。1学年下の投手に川畑和人がいた。高校卒業時には、同年のドラフト会議で中日から8位指名されたが入団を拒否し、日本鉱業佐賀関に入社する[1]。
日本鉱業佐賀関では投手として活躍し、1967年の都市対抗にエースの池田重喜を擁して出場し[2]、翌年に開催された第23回九州大会では敢闘賞を受賞した[3]。1976年の社会人野球選手権大会では、準々決勝で好投し、6回までに完全試合を達成したが、7回で千葉明徳(三菱自動車京都)から二塁バントを打たれたことにより、ノーヒットノーランを逃したが続く準決勝では藤沢公也が完全試合を達成、決勝は藤沢が先発7回1失点から救援して抑えたが新日鉄名古屋・水谷啓昭に完封されて準優勝[4]。1980年までに社会人野球でプレーした。
脚注
[編集]- ^ “過去のドラフト 第1回(1965年) - ドラフト会議 : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2020年6月28日閲覧。
- ^ 「日本社会人野球協会報1968」日本社会人野球協会 1969年
- ^ 「日本社会人野球協会報1969」日本社会人野球協会 1970年
- ^ 「日本社会人野球協会報1976」日本社会人野球協会 1977年