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美作国

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美作國から転送)
美作国

-美作国
-山陽道地図
別称 作州(さくしゅう)[注 1]
所属 山陽道
相当領域 岡山県東北部、兵庫県佐用郡佐用町の一部
諸元
国力 上国
距離 近国
7郡64郷
国内主要施設
美作国府 岡山県津山市
美作国分寺 岡山県津山市(美作国分寺跡
美作国分尼寺 岡山県津山市
一宮 中山神社(岡山県津山市)
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美作国(みまさかのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。

由来

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ミサカ(御坂・三坂)に由来する、あるいはウマサケ(甘酒)の産地であることに由来すると言われる[1]

領域

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明治維新直前の領域は、津山市美作市真庭郡苫田郡勝田郡英田郡の全域および岡山市の一部(北区建部町のうち福渡下神目以北の旭川左岸側)、真庭市の大部分(阿口、五名、山田、宮地以南[注 2]を除く)、久米郡の大部分(美咲町江与味を除く)、兵庫県佐用郡佐用町の一部(奥海・若州・上石井・下石井・水根・桑野・海内・東中山)にあたる。

北東に因幡、北西に伯耆、西に備中、南に備前、東に播磨と隣接する。

地勢

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中国山地瀬戸内海に落ち込んで行く過程の山地側に位置する。国全体が海に面しない内陸の山間地であり、平地は山々の合間に盆地が点在するだけである。 主要な盆地は三つあり、西部の真庭市を流れる旭川沿岸の盆地[注 3]吉井川の流れる中央部で東西広域にわたる津山盆地、梶並川・滝川が吉野川に合流する東部の美作市の盆地[注 4]で、美作はその三盆地を核におよそ西部(真嶋郡、大庭郡)・中央部(苫田郡、久米郡)・東部(英多郡、勝田郡)の三つに分かれる[2]

西北の蒜山山麓に蒜山高原が、また中北部の那岐山麓には日本原高原が広がるが広戸風という突風に見舞われる。

岡山三大河川の内、旭川と吉井川の上流域に位置し、近代化が進むまでは高瀬舟が流通の役目を担った。国全体が山間部であるため、大河川・街道に恵まれない土地の交通運搬は容易ではなく[3][4]、周縁部では同国内より隣国との関係が深い地域も多い[2]

沿革

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古代

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和銅6年(713年4月3日、備前守 百済王南典と備前介 上毛野堅身の提案により[5]備前国から英多郡勝田郡苫田郡久米郡真嶋郡大庭郡の六郡を分けて設けられ[6]、初代美作守には分立提案者である上毛野堅身が就任した。

美作の分立は、かつての吉備国分解の最終段階であり、鉄資源を吉備氏から直接、ヤマト政権の管轄下に置くことによる吉備氏弱体化の意図があったとされる。美作には英田[注 5]、白猪屯倉、錦織[注 6]久米[注 7]、弓削[注 8]などヤマト王権と直結する部民や施設が配置された地名が多くある。

中世

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平安時代の平家全盛期には平氏知行国となっており、江見氏豊田氏など作東の武士は平家方についている。

鎌倉時代は、有力御家人である梶原景時が、続いて景時を追って幕府の有力者となった和田義盛が守護となったが、両者とも鎌倉幕府の政権内部の抗争に敗れ族滅され、北条氏の領国となった。この時代、久米郡・苫田郡を中心に足利氏の荘園が多く存在した[7][8]

美作国は古代から歴史上一貫して美作を基盤とする安定勢力が出現せず、南北朝時代の動乱から戦国時代の終焉まで、山名氏赤松氏尼子氏浦上氏毛利氏宇喜多氏など周辺の大勢力の草刈り場となって、常にその浮沈に巻き込まれた[9]

守護やそれとほぼ同期する実際の支配勢力は室町幕府期だけでも山名氏、赤松氏、尼子氏、浦上氏、宇喜多氏の間を幾たびも変遷、最終的に1600年の関ヶ原の戦いに東軍に参与した小早川秀秋が備前・美作両国を領するも、わずか2年で改易された。

近世

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小早川家断絶後は森氏が入封し津山藩が成立した。森氏は鶴山に日本三大平山城の一つに数えられる津山城を築城して城下町を整備し、美作全体を一括した統治をなした。この時代は『作陽誌』など地誌も編纂されたが、森氏は5代94年の支配で改易されてしまう。その後、有力外様大名がひしめく山陽道に睨みをきかす意味で津山徳川政権直轄の代官所が置かれた。その後すぐに松平宣富が10万石で封じられ再び津山藩となったが、美作国内は小藩に分割された。

津山の前身として、戸川(富川)宿という市があり賑わっていた[10]。後の市街の大半は吉井川を境に苫田郡と久米郡に分割される土地に過ぎず、中心は二宮の西にある守護所や安国寺の置かれた院庄であった[11]。津山が中核都市となったのは、江戸時代に森氏が城下町を整備してからである。

近代

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明治4年(1871年)の廃藩置県により旧藩制をひきずった形で津山県真島県倉敷県鶴田県挙母県古河県生野県明石県沼田県龍野県に分かれて属し、同年11月整理統合されて美作国と領域的に一体の北條県となったが、その北條県も明治9年(1876年)、すでに小田県と合併していた岡山県に合併され、廃止された。

現代

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明治維新後に岡山県の管轄となって以後は県北の一部として扱われ、名称として東部の美作町が残る程度で特に旧国としての美作を意識した活動はなかった[注 9]が、平成17年(2005年)4月から津山地方振興局を美作県民局に改編し、真庭地方振興局、勝英地方振興局を支局として編入[12][13]することで、ほぼ美作の領域を統一的に扱う行政機関が成立し[14]、また平成25年(2013年)に美作国建国1300年記念事業が行われる[15]など、再認識が進んでいる。

近世以降の沿革

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国内の施設

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全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML

国府

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国府台寺と美作国府跡碑
(津山市総社)

文献によると国府は苫田郡に設けられていた。現在の津山市総社にあったと推定されている。1970年昭和45年)に同所の国府台寺で、国府関連とみられる遺跡が発見されてから発掘調査が続いている(北緯35度04分30.90秒 東経133度59分47.96秒 / 北緯35.0752500度 東経133.9966556度 / 35.0752500; 133.9966556 (美作国府跡)[16]

国分寺・国分尼寺

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国の史跡。伽藍跡地隣に後継の龍壽山国分寺が立つ。

尼寺跡は国分寺跡の西方500mほどの地と推定されているが不詳。

神社

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延喜式内社
延喜式神名帳』には、大社1座1社・小社10座9社の計11座10社が記載されている(美作国の式内社一覧参照)。大社1社は以下に示すもので、名神大社である。
総社一宮以下

美作総社宮・中山神社・高野神社は、合わせて「美作三大社」と呼ばれる。

地域

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根本六郡

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後に出来た郡

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  • 西西条郡(さいさいじょうぐん):苫田郡西部の内、苫東郡との境付近を除く大半の領域。二宮、院庄、奥津町、旧鏡野町富村などにあたる。
  • 西北条郡(さいほくじょうぐん):苫田郡西部の内、苫東郡と接する東端の領域。津山町・西苫田村・一宮村・田邑村と鏡野の一部にあたる。
  • 東北条郡(とうほくじょうぐん):苫田郡東部の内、南部を除く中北部の領域。高倉、加茂町阿波村などにあたる。
  • 東南条郡(とうなんじょうぐん):苫田郡東部の内、吉井川に接する平野部。津山市の旧市街地にあたる。
  • 苫東郡(とまひがしぐん):苫田郡の内、宮川を境に分けられた東部。阿波村加茂町に旧津山市の東北部を加えた領域。これとは別に、寛文元年(1661年)から元禄11年(1698年)の間、東南条郡が苫東郡と呼称された。
  • 苫西郡(とまにしぐん):苫田郡の内、宮川を境に分けられた西部で鏡野町富村、津山市田辺、田邑など。これとは別に、寛文元年(1661年)から元禄11年(1698年)の間、西西条郡が苫西郡と呼称された。
  • 苫北郡(とまきたぐん):苫東郡から分離。東北条郡の前身と推定されている。後、寛文元年(1661年)から元禄11年(1698年)の間東北条郡が苫北郡と呼称された。
  • 苫南郡(とまみなみぐん):苫西郡から分離。西北条郡の前身と推定されている。後、寛文元年(1661年)から元禄11年(1698年)の間西北条郡が苫南郡と呼称された。
  • 用野郡:近世の養野村(苫田郡奥津町)にあたる。後、西西条郡に転ずるか、吸収された。
  • 久米北条郡:久米郡を南北にほぼ中央で分割した内の西半分にあたる。
  • 久米南条郡:久米郡を南北にほぼ中央で分割した内の東半分にあたる。
  • 久米北郡:寛文元年(1661年)から天和2年(1682年)の間、久米北条郡が久米北郡と呼称された。
  • 久米南郡:寛文元年(1661年)から天和2年(1682年)の間、久米南条郡が久米南郡と呼称された。
  • 勝北郡(しょうほくぐん):勝田郡を南北で二分した内、北部にあたる。
  • 勝南郡(しょうなんぐん):勝田郡を南北で二分した内、南部にあたる。
  • 勝田北郡(かつたきたぐん):寛文元年(1661年)から天和2年(1682年)の間、勝北郡が勝田北郡と呼称された。
  • 勝田南郡(かつたみなみぐん):寛文元年(1661年)から天和2年(1682年)の間、勝南郡が勝田南郡と呼称された。
  • 吉野郡(よしのぐん):成立年未詳。英多郡の北部を分割して吉野郡とした。東作誌では文明3年(1471年)に英多郡の七郷を割いて成立したという。拾芥抄にはすでに載っており、また弘治3年(1557年)成立の美作国献上記にも吉野郡が見えている。

郡の変遷史

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  • 和銅6年(713年4月3日に、備前国から英多郡、勝田郡、苫田郡、久米郡、真嶋郡、大庭郡の6郡を分けて美作国が設けられる。
  • 貞観5年(863年5月、苫田郡を東西に分け、苫東郡・苫西郡とする。
  • 承平年間(931年 - 938年)編纂の和名類聚抄では英多、勝田、苫田(東)、苫田西、久米、大庭、真島の七郡が記される。
  • 鎌倉時代中期成立と見られる拾芥抄では、英多、吉野、勝田、苫東、苫西、苫北、苫南、用野、久米、大庭、真嶋の十一郡が記される。
  • 中世に苫東郡、苫西郡、苫北郡、苫南郡がそれぞれ東南条・西西条・東北条・西北条と呼ばれ始める。久米郡も戦国時代には久米北条・南条(または久米北郷・南郷)と分けて扱われていた[18]
  • 慶長年間(1600 - 1602年)、小早川家の治世に、慣習的に用いられていた東北条・東南条・西北条・西西条、勝南・勝北[19]などが正式に郡名とされた、という。
  • 慶長8年(1603年)、森氏の入国時、英田・吉野・大庭・真島・勝南・勝北・東北条・東南条・西北条・西西条・久米南条・久米北条の十二郡制
  • 寛文元年(1661年)、郡名改称。勝南郡を勝田南郡、勝北郡を勝田北郡、東北条郡を苫北郡、東南条郡を苫東郡、西北条郡を苫南郡、西西条郡を苫西郡、久米南条郡を久米南郡、久米北条郡を久米北郡とする。
  • 天和2年(1682年)、幕府の命により十郡制へ改編。[20]久米南郡と久米北郡を合わせて久米郡,勝田南郡と勝田北郡を合わせて勝田郡とした。ただし、実際には久米郡南分・同北分、勝田郡南分・同北分の呼称が使われた。
  • 元禄11年(1698年)、代官らの訴えにより、寛文年間以前の郡数・郡名に戻す。苫北郡が東北条郡、苫東郡が東南条郡、苫南郡が西北条郡、苫西郡が西西条郡になり、久米郡は久米北条郡・久米南条郡に、勝田郡は勝南郡・勝北郡に分割。
  • 明治33年(1900年)、英田郡と吉野郡が合併して英田郡に、勝南郡と勝北郡が合併して勝田郡に、東北条郡・東南条郡・西西条郡・西北条郡が合併して苫田郡に、久米南条郡と久米北条郡が合併して久米郡に、真島郡と大庭郡が合併して真庭郡となる。

郡衙

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  • 英多郡家

英多(あいだ)郡家は豊国原盆地ないし江見盆地(旧作東町川北・藤生)が想定され、特に奈良平安時代の閻武廃寺跡が他の四廃寺へ通ずる交通上の中心地に位置していることや、"郡"の墨書のあるかわらけ出土品などから後者の可能性が高いとされる。美作市(旧・英田郡作東町)の高本遺跡である[21]

  • 勝田郡家

勝田郡家は勝田盆地北西部の大字尾堂293番地の畑のなかで「郡」刻印のある須恵器が発見され、一帯(平遺跡)の発掘調査が行われて奈良~平安時代の遺跡や遺物が発見されており、滝川沿いに南隣する川西でも建物跡が発掘により見つかった。これらによりこの場所(勝田郡勝央町の勝間田遺跡)にあったと推定される[21]

  • 苫田郡家

苫田郡は苫東郡・苫西郡にもっとも早い時期に分割されており、苫田郡家、また分割後の両者とも明確な位置はわからない。『日本地理志料』は「即郡家所在、郡名因起」と郡家の位置によって郡名も決まったという。苫東郡家は津山市大字北山「椿高下」と"コウゲ"地名と椿高下廃寺跡が重なる場所が可能性が高いとされ、苫西郡は建郡の経緯から国府付近の田中郷辺りと推察される[21]

  • 久米郡家

久米郡家は久米川の砂岩段丘上(津山市(旧:久米郡久米町)の宮尾遺跡)にあり、四時期の遺構が検出されている。第一期の遺構は遺跡中央部の品字形はいちの建物郡とその東方に総柱の倉庫、西方の南北棟の建物である。

  • 大庭郡家

白猪屯倉がそのまま郡家になったとの考えは、現在白猪屯倉碑の建てられている真庭市五反の大庭廃寺跡出土遺跡は白鳳期から平安時代のもので、大庭臣一族の氏寺であったと推定されることにより否定され、廃寺の西隣りで現在の久世中学校から薬王寺付近に想定されている[21]

  • 真嶋郡家

『落合町史』で郡家の郡長が住んだと見られる「長者屋敷」と周辺の関連地名が検証され[22]、天津神社の創立が和銅3年(710年)であることや蔵通り・仰天などの地名から、大字平島の北隣高屋集落の立地する段丘上に想定されている[21]

江戸時代の藩

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石高

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  • 承平頃、田萬千二十一町三段二百五十六歩、本穎百二十二萬千束(和名類聚抄

人物

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国司

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美作守

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美作介

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押領使

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按察使

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守護

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鎌倉幕府

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室町幕府

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国人

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吉野郡
  • 新免氏 - 竹山城主。この一族から宮本武蔵が派生。
  • 草苅氏 - 矢筈城主。美作と国境をまたいだ因幡両面で活動。
  • 粟井氏 - 粟井城主。垪和氏から派生。
英田郡
  • 後藤氏 - 戦国大名。東部において大きな勢力を為したが宇喜多氏に滅ぼされた。三星城主。
  • 江見氏 - 菅家の一党。平家全盛期から活動。
  • 渋谷氏 - 河合郷。西遷御家人。
  • 安東氏 - 西遷御家人。
勝田郡
苫田郡
  • 立石氏 - 本姓漆間。二宮高野神社社司。美和山城主。
  • 齋藤氏 - 野介荘(鏡野北部)、小田草城主。
  • 大河原氏 - 葛下城主。
久米郡
  • 原田氏 - 平姓。有元氏から養子を迎え菅原姓も名乗る。
  • 垪和氏 - 室町幕府奉公衆。
  • 菅納氏 - 漆間姓。有元氏より養子を受け入れ菅原を称す。
  • 岸氏 - 竜王山城主。
  • 江原氏
大庭郡
  • 徳山氏 - 蒜山。上徳山の地頭。江戸時代は庄屋となって、煙草の生産から鉄山経営まで事業経営に成功し川上村長なども務めた[48]
真嶋郡
  • 三浦氏 - 戦国大名。相模三浦氏庶流。

戦国大名

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  • 浦上氏 - 村宗が赤松氏の実権を握った期間、また尼子氏の侵攻に反発して自立した宗景の代。
  • 尼子氏 - 天文初年の侵略に始まり、大内氏の出雲侵攻を退けた晴久による再侵略、勝久による復興戦など。
  • 三村氏 - 家親が暗殺される前の全盛期に東部まで侵入。
  • 宇喜多氏 - 直家が浦上氏を下克上する過程で奪取。

織豊大名

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  • 宇喜多氏 - 秀家が豊臣秀吉の猶子となり、外様ながら一門扱いで五大老として豊臣政権で重要な位置を占めた。

武家官位としての美作守

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江戸時代以前

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江戸時代

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武術

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産物

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  • 作州絣 - 先染めの糸を織ることで文様をだす織物。
  • 作州黒 - 丹波種黒大豆の内、勝英地域で生産されるものを戦後に名づけたもの。[49]
  • 勝間田焼 - 古墳時代の須恵器生産の技術を受け継いだ青灰色の硬質な焼き物。美作地域から山陰まで広く流通していた[50]

脚注

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注釈

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  1. ^ 美濃国との重複を避けるため二文字目の「作」の字を用いる。美濃は濃州。
  2. ^ 旧・上房郡北房町
  3. ^ 勝山盆地・久世盆地・落合盆地が連続する。
  4. ^ 正確には勝間田盆地(勝央盆地)を西に挟み、豊国原盆地・湯郷盆地を中核とし、北の壬生盆地、東の江見盆地・土居盆地などからなる小低地帯の集合である。広義には津山盆地の南縁部とも見られる。
  5. ^ 英多郡。古来はあがたと読み、と通ずる。
  6. ^ 美咲町錦織(にしこり)
  7. ^ 久米郡
  8. ^ 久米南町弓削
  9. ^ あったのは"燃えろ岡山県民運動"、"晴れの国おかやま"など岡山県を単位としたもので、美作と言えば通常当該町域もしくはそれを含む東部を指した。
  10. ^ 和名類聚抄で"安伊多"。また本来は"ぐん"ではなく"こおり"。
  11. ^ 和名類聚抄で"於保無波"
  12. ^ 和名類聚抄で"萬志萬"
  13. ^ 東南条郡14・1万654石余,東北条郡32・1万5,120石余,西北条郡24・1万487石余,西西条郡51・2万6,335石余,大庭郡47・2万351石余,真島郡95・3万2,943石余,久米北条郡33・2万8,777石余,勝南郡68・2万4,495石余,勝北郡53・3万3,965石余,英田郡64・1万3,505石余,吉野郡58・1万9,937石余(『元禄郷帳』)
  14. ^ 東南条郡14か村・1万838石余,東北条郡32か村・1万5,411石余,西北条郡23か村・1万765石余,西西条郡51か村・2万6,800石余,大庭郡47か村・2万836石余,真島郡96か村・3万3,194石余,久米北条郡50か村・2万8,870石余,久米南条郡60か村・2万2,982石余,勝南郡70か村・2万4,654石余,勝北郡57か村・3万4,139石余,英田郡64か村・1万3,659石余,吉野郡64か村・1万9,946石余。(『「天保郷帳」』)
  15. ^ 東北条郡40か村・1万5,411石余,大庭郡59か村・2万836石余,吉野郡73か村・1万9,954石余,勝北郡89か村・3万4,139石余,英田郡65か村・1万3,662石余,西西条郡65か村・2万6,804石余,真島郡112か村・3万3,225石余,勝南郡79か村・2万4,657石余,久米北条郡60か村・2万8,871石余,東南条郡22か村・1万838石余,久米南条郡72か村・2万2,988石余,西北条郡34か村・1万766石余の計26万2,156石余、うち津山藩領9万8,588石余・真島(勝山)藩領3万840石余・鶴田藩領および旧播磨龍野藩預所3万6,189石余・三河挙母藩領5,056石余・下総古河藩領1万749石余・常陸土浦藩領8,618石余・播磨明石藩領9,857石余・上野沼田藩領1万4,117石余・播磨龍野藩領2,461石余,残る4万5,600石ほどが幕府領(『「旧高旧領」』)

出典

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  1. ^ 人に聞いてもわからない日本語知識事典(学研) ISBN 4-05-401569-7 160頁
  2. ^ a b 岡山大学教育学部社会科教室内地域研究会『美作町の歴史と現在』岡山大学教育学部社会科教室内地域研究会〈地域研究〉、1984年、1-30頁。 NCID BN10507004CRID 1130282268894643072https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/52480 
  3. ^ 神亀五年(728),四月十五日辛巳 太政官奏曰。美作國言。部内大庭眞嶋二郡。一年之内。所輸庸米八百六十餘斛。山川峻遠。運輸大難。人馬並疲。損費極多。望請。輸米之重。換綿鐵之輕。又諸國司言。運調行程遥遠。百姓勞幣極多。望請。外位位祿。『続日本紀』
  4. ^ 天平勝宝八年十月七日丁亥。《七》太政官處分。山陽南海諸國舂米。自今以後。取海路遭送。若有漂損。依天平八年五月符。以五分論。三分徴綱。二分徴運夫。但美作。紀伊二國不在此限。『続日本紀』
  5. ^ 舊記に曰はく、和銅六年甲寅四月、備前の守、百濟の南典・介、上毛野の堅身等が解に依りて、備前の六郡を割きて、始めて美作の國を置く。云々。但し、風土記には、上毛野の堅身を以ちて、便(すなは)ち國の守と為すといふ。『伊呂波字類抄
  6. ^ 和銅六年四月三日(癸巳朔),夏四月乙未。《癸巳朔三》株丹波國加佐。與佐。丹波。竹野。熊野五郡。始置丹後國。株備前國英多。勝田。苫田。久米。大庭。眞嶋六郡。始置美作國。株日向國肝坏。贈於。大隅。姶羅四郡。始置大隅國。大倭國疫。給藥救之。『続日本記』
  7. ^ 臼井信義「尊氏の父祖:頼氏・家時年代考」『日本歴史』第257号、吉川弘文館、1969年、27-40頁、doi:10.11501/7910317ISSN 03869164NDLJP:7910317 
  8. ^ 近代足利市史 第一巻通史編 第三節 足利氏の所領とその経営
  9. ^ 研究代表者 村井良介「戦国期における秩序流動化・再構築メカニズムの研究 : 発給文書と秩序認識の関係を中心に」『科学研究費助成事業』研究課題/領域番号:18K00962、2022年、8頁、CRID 1040000781996892160 
    研究成果, (論文本体)国期における秩序流動化・再構築メカニズムの研究 : 発給文書と秩序認識の関係を中心に
  10. ^ 『森家先代実録』巻第五
  11. ^ 津山市教育委員会 『津山市埋蔵文化財発掘調査報告7:史跡院庄館跡』1981年 p.2
  12. ^ 地方振興局の再編 - 地方振興局から県民局へ -(案)平成16年11月 岡山県
  13. ^ 広報くめなん 2005.4月号
  14. ^ 美作県民局トップページ - 美作県民局の所管区域
  15. ^ 広報真庭 4月号 通巻96号 2013年4月1日発行
  16. ^ 1986年(昭和61年)から7次にわたり調査が行われた。調査の結果3次にわたる国庁に相応しい遺構が発見された。第1期が7世紀後半から8世紀初頭まで、第2期が8世紀初頭から9世紀前半まで、第3期は9世紀後半から13世紀前半までである。
  17. ^ 和名類聚抄で"加豆萬多"
  18. ^ 『角川日本地名大辞典 33 岡山県』 p.423
  19. ^ 『角川日本地名大辞典 33 岡山県』 p.297
  20. ^ 森氏除封の翌年の春、幕府公簿に十郡とあるのに国内で十二郡として扱うのを不可とし一部の郡名を寛文年間以前の郡名に改めさせた。(『角川地名大辞典』久米南条郡)
  21. ^ a b c d e 中林保「古代美作国の郡家と交通路」『人文地理』第27巻第4号、人文地理学会、1975年、377-397頁、doi:10.4200/jjhg1948.27.377ISSN 00187216CRID 1390282680118103296 
  22. ^ 「大字高屋天津神社鳥居の北方の地を長者屋敷といふ。此地往古高田川の分流西川に沿える高地にして、郡家のありし時代郡家の長者即 ち、郡長といふべき人の住みたりし屋敷ならんか。長者屋敷の西高地、字平島あたり郡家に関係ありし地か。字倉通りの地名物語るものの如し、高屋境の大字開 田に総嫁谷(そうかだに)の地名もあり。総嫁とは売春婦の事なれば、此地昔売春婦の居たりし所か。伝説にも斯く伝ふるといふ。之等も往昔の殷盛時代を如実 に物語るものと云ふべし。」『落合町史』昭和29年
  23. ^ 『伊呂波字類抄』「美部」所引『旧記』・『美作国風土記』
  24. ^ 和銅七年,十月,十三日,丁卯。《十三》從五位下津守連通爲美作守。『続日本紀
  25. ^ 天平七年,九月,廿八日,(癸丑朔),九月庚辰。《癸丑朔廿八》先是。美作守從五位下阿部朝臣帶麻呂等故殺四人。其族人詣官申訴。而右大弁正四位下大伴宿禰道足。中弁正五位下高橋朝臣安麻呂。少辨從五位上縣犬養宿禰石次。大史正六位下葛井連諸會。從六位下板茂連安麻呂。少史正七位下志貴連廣田等六人坐不理訴人事。於是下所司科斷。承伏既訖。有詔並宥之。『続日本紀』
  26. ^ ,天平十年,四月廿二日,庚申。《廿二》從五位下大伴宿禰兄麻呂爲美作守。『続日本紀』
  27. ^ 天平十三年,八月九日丁亥。《九》外從五位下大伴宿禰百世爲美作守。『続日本紀』
  28. ^ 天平十七年,九月,四日戊午。《四》從五位下大原眞人麻呂爲美作守。『続日本紀』
  29. ^ 天平勝宝元年,八月十日辛未。《十》外從五位下茨田宿禰枚麻呂爲美作守。『続日本紀』
  30. ^ 天平宝字元年,六月,十六日,壬辰。《十六》從三位藤原朝臣乙麻呂爲美作守。『続日本紀』
  31. ^ 天平宝字四年,一月十六日戊寅。《十六》正四位上紀朝臣飯麻呂爲美作守。『続日本紀』
  32. ^ 天平宝字六年四月朔日(庚戌朔),信部卿從三位氷上眞人塩燒爲■美作守。『続日本紀』
  33. ^ 天平宝字八年八月四日己巳《四》從五位下淡海眞人三船爲美作守。『続日本紀』
  34. ^ 天平宝字八年,十月二十日癸未。《二十》左兵衛佐從四位上大津宿禰大浦爲■美作守。『続日本紀』
  35. ^ 天平神護二年,五月廿三日丁丑。《廿三》太政官奏曰。備前國守從五位上石川朝臣名足等解稱。藤野郡者。地是薄■。人尤貧寒。差科公役。觸途怱劇。承山陽之驛路。使命不絶。帶西海之達道。迎送相尋。馬疲人苦。交不存濟。加以。頻遭旱疫。戸纔三■。人少役繁。何能支辨。伏乞。株邑久郡香登■。赤坂郡珂磨。佐伯二■。上道郡物理。肩背。沙石三■隷藤野郡。又美作國守從五位上巨勢朝臣淨成等解稱。勝田郡塩田村百姓。遠闊治郡。側近他界。差科供承。極有艱辛。望請。隨所住處。便隷備前國藤野郡者。奏可。『続日本紀』
  36. ^ 神護景雲二年,二月十八日癸巳。《十八》從五位下藤原朝臣種繼爲美作守。『続日本紀』
  37. ^ 宝亀三年四月二十日庚午。《二十》員外右中弁正五位上安倍朝臣淨成爲■美作守。『続日本紀』
  38. ^ 宝亀五年三月五日甲辰。《五》右大舎人頭從四位下神王爲■美作守。從五位下紀朝臣眞乙爲介。『続日本紀』
  39. ^ 宝亀七年,閏八月廿日甲辰。《廿》彈正尹從四位下藤原朝臣弟繩爲■美作守。『続日本紀』
  40. ^ 天平宝字三年,五月十七日壬午。《十七》從五位下縣犬養宿祢沙弥麻呂爲美作介。『続日本紀』
  41. ^ 天平宝字五年八月朔日,(癸丑朔),八月癸丑朔。勅曰。頃見七道巡察使奏状。曾無一國守領政合公平。竊思貪濁人多。濂白吏少。朕聞。授非賢哲。萬事咸邪。任得其材。千務悉理。上如國司。一色親管百姓籍。其獎導風俗字撫黎民。特須精簡。必合稱職。其居家無孝。在國無忠。見利行非。臨財忘恥。上交違礼。下接多黷。施政不仁。爲民苦酷。差遣邊要。詐稱病重。任使勢官。競欲自拜。匪聞教義。靡率典章。措意屬心。唯利是視。巧弄憲法。漸汚皇化。如此之流。傷風乱俗。雖有周公之才。朕不足觀也。自今已後。更亦莫任。還却田園。令勤耕作。若有悔過自新。必加褒賞。迷途不返。永須貶黜。普告遐邇教喩衆諸。美作介從五位下縣犬養宿祢沙弥麻呂。不經官長。恣行國政。獨自在舘。以印公文。兼復不據時價。抑買民物。爲守正四位上紀朝臣飯麻呂所告失官。『続日本紀』
  42. ^ 天平宝字五年,十月朔日(壬子朔),冬十月壬子朔。從五位上甘南備眞人伊香爲美作介。『続日本紀』
  43. ^ 天平宝字七年一月九日壬子。《九》外從五位下上毛野公眞人爲美作介。『続日本紀』
  44. ^ 神護景雲三年三月十日(己巳朔),三月戊寅。《己巳朔十》從五位下中臣朝臣子老爲美作介。『続日本紀』
  45. ^ 宝亀二年,七月廿三日丁未。《廿三》從五位下大伴宿祢不破麻呂爲美作介。『続日本紀』
  46. ^ 宝亀八年一月廿五日戊寅。《廿五》從五位下大原眞人美氣爲美作介。『続日本紀』
  47. ^ 播磨國守從四位下鴨朝臣吉備麻呂。管備前。美作。備中。淡路四國。『続日本紀』
  48. ^ 『徳山一族』日本家系協会、『川上村史』
  49. ^ 黒大豆「作州黒」の産地化と担い手支援─岡山県JA勝英の取組み─ (農中総研 調査と情報 2011年1月号)
  50. ^ 勝間田焼とは?|津山瓦版

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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