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茨田枚麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

茨田 枚麻呂(まんだ の ひらまろ、生年不明 - 天平勝宝7歳3月以前(755年4月頃))は、奈良時代中期の官人。名は枚万呂とも記される[1][2][3]宿禰官位従五位下東市正

経歴

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聖武朝天平15年(743年)9月、令旨により、法花玄賛を写経所に写させている。この時、「中宮少進」と見える[4]。同16年(744年)7月、その宣により、盂蘭盆経を請経させ[5][6]、同年、私願により、最勝王経を写さしめた[7]。同17年正月、その宣により、丈六堂戸障子料の播磨紙を請わしめ[8]、同17年(745年)4月18日のに中宮少進・正六位上として名前が現れている[9]。なお、『大日本古文書』の「中宮職」は「皇后宮職」の誤りではないか、と言われている[10]

同17年の4月、詫多真玉国君麻呂らとともに正六位上から従五位下に昇叙したとある。彼の場合は茨田弓束茨田枚野の場合と異なり、最初から宿禰であり、以下もそうである[11]

同18年(746年)7月の近江国司解には同国介、外従五位下として署している[1][2][3][12]

孝謙朝天平勝宝元年(749年)8月、大原麻呂の後任の美作守に就任[13]

同2年(750年)6月、その所願の心経を写させ[14][15]、7月心経1000巻、薬師経12巻を写書所において写さしめ[16]、同3年(751年)3月、その料筆墨を借用させた。ともに「茨田大夫」と記されている[17]

同7歳(755年)3月、大灌頂経を写経所に貸しているが、この時は「故茨田大夫家」となっており、既に没していた可能性がある。

官歴

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注記のないものは『続日本紀』による。

脚注

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  1. ^ a b 『寧楽遺文』下巻 - 745頁
  2. ^ a b 『大日本古文書』巻二 - 523頁
  3. ^ a b 『大日本古文書』巻九 - 255頁
  4. ^ 『大日本古文書』巻八 - 466頁
  5. ^ 『大日本古文書』巻八 - 190頁
  6. ^ 『大日本古文書』巻廿四 - 180頁
  7. ^ 『大日本古文書』巻廿四 - 279頁
  8. ^ 『大日本古文書』巻八 - 460頁
  9. ^ 『大日本古文書』巻二 - 399頁
  10. ^ 早川庄八『宣旨試論』127頁
  11. ^ 『続日本紀』巻第十六、聖武天皇 天平17年4月25日条
  12. ^ 『東南院文書』巻三 - 97頁
  13. ^ 『続日本紀』巻第十七、孝謙天皇 天平勝宝元年8月10日条
  14. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 4頁
  15. ^ 『大日本古文書』巻廿五 - 7頁
  16. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 347頁
  17. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 6頁

参考文献

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