茨田枚麻呂
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茨田 枚麻呂(まんだ の ひらまろ、生年不明 - 天平勝宝7歳3月以前(755年4月頃))は、奈良時代中期の官人。名は枚万呂とも記される[1][2][3]。姓は宿禰。官位は外従五位下・東市正。
経歴
[編集]聖武朝の天平15年(743年)9月、令旨により、法花玄賛を写経所に写させている。この時、「中宮少進」と見える[4]。同16年(744年)7月、その宣により、盂蘭盆経を請経させ[5][6]、同年、私願により、最勝王経を写さしめた[7]。同17年正月、その宣により、丈六堂戸障子料の播磨紙を請わしめ[8]、同17年(745年)4月18日の解に中宮少進・正六位上として名前が現れている[9]。なお、『大日本古文書』の「中宮職」は「皇后宮職」の誤りではないか、と言われている[10]。
同17年の4月、詫多真玉・国君麻呂らとともに正六位上から外従五位下に昇叙したとある。彼の場合は茨田弓束や茨田枚野の場合と異なり、最初から宿禰姓であり、以下もそうである[11]。
同18年(746年)7月の近江国司解には同国介、外従五位下として署している[1][2][3][12]
孝謙朝の天平勝宝元年(749年)8月、大原麻呂の後任の美作守に就任[13]
同2年(750年)6月、その所願の心経を写させ[14][15]、7月心経1000巻、薬師経12巻を写書所において写さしめ[16]、同3年(751年)3月、その料筆墨を借用させた。ともに「茨田大夫」と記されている[17]。
同7歳(755年)3月、大灌頂経を写経所に貸しているが、この時は「故茨田大夫家」となっており、既に没していた可能性がある。
官歴
[編集]注記のないものは『続日本紀』による。
- 天平15年(743年)9月:見中宮少進(皇后宮少進)?(『大日本古文書』より)
- 天平17年(745年)4月18日:見正六位上(『大日本古文書』より)。同月25日:外従五位下
- 天平18年(746年)7月:見近江介(『寧楽遺文』・『大日本古文書』・東大寺『東南院文書』より)
- 天平勝宝元年(749年)8月10日:美作守
- 天平勝宝7歳(755年)3月:見「故茨田大夫家」(『大日本古文書』より)
脚注
[編集]- ^ a b 『寧楽遺文』下巻 - 745頁
- ^ a b 『大日本古文書』巻二 - 523頁
- ^ a b 『大日本古文書』巻九 - 255頁
- ^ 『大日本古文書』巻八 - 466頁
- ^ 『大日本古文書』巻八 - 190頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿四 - 180頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿四 - 279頁
- ^ 『大日本古文書』巻八 - 460頁
- ^ 『大日本古文書』巻二 - 399頁
- ^ 早川庄八『宣旨試論』127頁
- ^ 『続日本紀』巻第十六、聖武天皇 天平17年4月25日条
- ^ 『東南院文書』巻三 - 97頁
- ^ 『続日本紀』巻第十七、孝謙天皇 天平勝宝元年8月10日条
- ^ 『大日本古文書』巻十一 - 4頁
- ^ 『大日本古文書』巻廿五 - 7頁
- ^ 『大日本古文書』巻十一 - 347頁
- ^ 『大日本古文書』巻十一 - 6頁