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伊達村和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
伊達村和
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛文元年8月25日1661年9月18日
死没 享保7年6月29日1722年8月10日
改名 伊達鶴千代(幼名)、田村顕孝、伊達顕孝、村任、村和、定岳(法号)
別名 通称:将監、織部、上野、左京
戒名 寂照院殿定岳恵印大居士
墓所 宮城県仙台市青葉区東昌寺
官位 従五位下美作守
幕府 江戸幕府
主君 伊達綱村徳川綱吉
陸奥仙台藩士、陸奥中津山藩
氏族 伊達氏(宗家、水沢伊達家川崎伊達家)、田村氏
父母 伊達綱宗三沢初子
伊達宗景
兄弟 綱村村和宗贇、夏姫、村直、類姫、
三姫、智恵姫、綺羅姫ほか
三沢宗直娘・於常
信愛院、清心院
村詮、卯三郎、三沢村清、駒五郎、村倫、しほ、律道
村景
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伊達 村和(だて むらより)は、江戸時代前期の大名。始め陸奥国仙台藩一門第三席水沢伊達家5代(留守氏22代)当主。官位従五位下美作守。のち、新設された陸奥国中津山藩主となったが、わずか4年で改易された。

生涯

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誕生から水沢伊達家時代

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寛文元年(1661年)8月25日、仙台藩3代藩主・伊達綱宗の二男として、江戸の品川屋敷にて誕生。幼名は鶴千代

寛文11年12月19日(西暦では1672年1月)、伯父で岩沼藩初代藩主・田村宗良烏帽子親として元服し、田村顕孝(たむら あきたか)と名乗る。

延宝3年(1675年)3月、水沢伊達家4代当主・伊達宗景が跡継ぎ無くして死去すると、兄・綱村の意向により水沢伊達家に入嗣する。閏4月15日、家督を相続して5代当主となり、名を伊達顕孝と改め、延宝5年(1677年)9月18日には水沢要害への入部に伴い、兄・綱村から一字を受けて村任(むらとう)に改名する。同年、三沢宗直の娘・於常(母方の従妹)を正室に迎える。村任は藩主・綱村の同母弟であって家督相続以後たびたび加増され、貞享元年(1684年)3月には知行高が21635石に達した。これは水沢伊達家の歴代を通じて最大の石高であった。

村任は、一気に増大した所領の整備に努め、特に千田堤・寿安堰の改修など治水面に力を注いだ。また、水沢伊達家の家臣団は旧来の留守家譜代のみならず、のちに伊達家・黒川家国分家などから加わった家も多く、派閥間抗争が絶えなかったので、元禄3年(1690年)1月11日に『留守家条々』八か条を制定して家中の引き締めを図った。

中津山藩主時代から死去まで

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元禄8年(1695年)7月6日、兄・綱村から3万石を分知されて中津山藩主となり、村和と改名する。水沢伊達家の家督は甥・吉之助に譲り、水沢を離れて江戸に出府する。同年12月18日、従五位下・美作守に叙任される。

村和は、元禄9年(1696年)には徳川家綱の17回忌における公家接待役を務めるなどしたが、元禄12年(1699年)9月9日、江戸城へ登城する行列の前を横切った旗本岡孝常に供回りの者が怪我を負わせたため(土器町事件)、9月26日には謹慎を命じられ、10月28日には兄・綱村の願いもあり、改易に追い込まれた[1]。結局村和は一度も藩庁・中津山陣屋に入部することがなかった。

村和の身柄は兄・綱村に預けられることになり、宮城郡野村に逼塞を命じられ、毎年金200両・米2000石を支給された。逼塞処分は20年に及び、享保4年(1719年)12月18日、ようやく罪を許され、翌享保5年(1720年)9月24日には出家して定岳と号した。

享保7年(1722年)6月29日死去。享年62。同年9月、長男の村詮が一門の家格に列し、川崎要害を拝領して2000石を知行し、子孫は幕末まで同地を治めた(川崎伊達家)。

系譜

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      ┏三沢宗直━━━於常
三沢清長━━┫        ┣━━━━━━三沢村清
      ┗初子    ┏伊達村和(村任)
        ┣━━━━┫
       伊達綱宗  ┗類姫
               ┣━━━━━━伊達村景
              伊達村元

脚注

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  1. ^ 須田茂『徳川大名改易録』(崙書房出版、1998年)217-218頁

出典

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  • 『水沢市史』3上(岩手県水沢市、1981年)
  • 『桃生町史』第1巻(宮城県桃生郡桃生町、1985年)
  • 『川崎町史』(宮城県柴田郡川崎町)
    • 史料編(1972年)
    • 通史編(1975年)

関連項目

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