留守邦寧
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 天保元年3月15日(1830年4月7日) |
死没 | 明治7年(1874年11月22日) |
改名 | 福松(幼名)、伊達景道、伊達邦寧、留守邦寧 |
別名 | 将監、将一郎 |
墓所 | 岩手県奥州市の大安寺 |
主君 | 伊達慶邦、宗基 |
藩 | 陸奥仙台藩 |
氏族 | 留守氏(水沢伊達家) |
父母 | 伊達宗衡、中村景貞娘・以与子 |
兄弟 | 愛姫、伊達邦命、邦寧ら |
子 | 基治、景福 |
留守 邦寧(るす くにやす)は、江戸時代後期の武士。陸奥国仙台藩一門第三席・水沢伊達家13代(留守氏30代)当主。伊達邦寧とも。
生涯
[編集]天保元年(1830年)3月15日、水沢伊達家11代当主・伊達宗衡の五男として水沢にて誕生。幼名は福松。
天保14年(1843年)、元服し景道と名乗る。慶応元年(1865年)兄・邦命の死去により家督と知行1万6000石を相続し、水沢邑主となる。
慶応4年(1868年)戊辰戦争の際には、13代藩主・伊達慶邦の代理として白河口に出陣する。戦局の不利により藩論が恭順に傾くと、藩主の命で降伏の正使となる。敗戦により、本藩が62万石からを28万石に減封され、邦寧も水沢領を失う。隠居した慶邦に代わり新藩主となった伊達宗基の後見を務めた。
明治2年(1869年)仙台藩少参事。同年、胆沢県大参事となった安場保和に県庁給仕の人選を依頼され、旧臣の子弟片桐清治、斎藤実、後藤新平を推挙した[1]。安場の引き立てを受け、斎藤、後藤は栄達することとなった。明治4年(1871年)8月国幣社権宮司、10月権少教正。明治7年(1874年)11月22日東京で死去。享年45。
脚注
[編集]出典
[編集]- 『留守系譜』
- 『水沢町誌』