伊沢家景
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時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 承久3年10月13日(1221年10月29日) |
別名 | 四郎(通称) |
戒名 | 加瀬寺殿陽山雲公大居士[1] |
墓所 | 宮城県宮城郡利府町加瀬窪 |
官位 | 従四位左近将監 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 藤原光頼、源頼朝、頼家、実朝 |
氏族 | 藤原北家道兼流伊沢氏 |
父母 | 藤原兼信 |
兄弟 | 家景、宮城家業 |
子 | 家元 |
伊沢 家景(いさわ いえかげ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての御家人。藤原北家藤原道兼の玄孫と称した[2]。留守氏の祖。
生涯
[編集]始めは葉室大納言・藤原光頼に家司として仕えていたが、文治3年(1187年)、源頼朝の命で上洛していた北条時政に文筆の能力を認められ、時政の推挙によって御家人となり、鎌倉へ下る。以後、戦場に出る武士ではなく、文筆に携わる吏僚として頼朝に仕えた。
文治6年(1190年、同年建久に改元)、前年の奥州合戦の後の混乱に乗じて起きた大河兼任の乱が鎮圧された後、陸奥国留守職に任ぜられ、多賀国府において国衙在庁の長官として国衙機構を総括、陸奥国内の観農も行った。地下管領権を認められ、葛西清重と共に奥州総奉行として東北地方行政の長となる。建久元年(1190年)より宮城郡岩切に岩切城を築城する。
子・家元以降も、代々陸奥国留守職を継承し、留守氏を名乗るようになる。
脚注
[編集]出典
[編集]- 小田雄三「伊沢家景」『日本史大事典 1』平凡社、1992年 ISBN 4582131018
- 『伊澤亮庵翁傳』庄司一郎、公文社印刷所、1936年