内分分知
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内分分知(ないぶんぶんち)は、江戸時代における武家(特に大名、旗本)の分家形態の一つである。分家の創設の際に、主君から与えられた領知の表高を減らすことなく、新規に分家を興す形態をいう。新田分知は内分分知の形態の一つである。
概要
[編集]本来、新規に分家を創出するには本家の領知を分知し、表高を減じて行われてきたが、分知の結果、大名[1]で表高1万石を下回ると旗本に、旗本(寄合)で表高3000石を下回ると小普請役に家格を低下させることになる。家格低下は、軍役や役職就任に大きく影響するため、本家の領知内で分家に分知する形態が考案された。
内分分知の形態
- 封地を分与するが、本家の表高を減らさない内分分知
- 封地を分与するが、収納高を本家が支給し、本家の表高は減らさない内分分知
- 分家表高のみを届け出て[2]、収納高を本家が支給し、本家の表高は減らさない内分分知
- 上記3の内容で、領知を表す石高ではなく、俵単位で廩米を支給[3]する内分分知
内分分知によって創出された分家は本家に強く依存し、家督相続、婚姻、嫡子嗣立など家庭内での事柄のみならず、幕府内での役職就任などにも影響を持つ。また、本家は内分分家を親族として自家内に留めることになり、しばしば、内分分家当主が本家当主の代理の立場をとる場合があった。
おもな内分支藩
[編集]- 陸奥黒石藩(陸奥弘前藩の支藩)[4]
- 陸奥七戸藩(陸奥盛岡藩の支藩)[5]
- 出羽岩崎藩(出羽久保田藩の支藩)
- 信濃埴科藩(信濃松代藩の支藩)
- 川田窪松平家(尾張名古屋藩の分家)
- 出雲広瀬藩(出雲松江藩の支藩)
- 出雲母里藩(出雲松江藩の支藩)
- 周防徳山藩(長門萩藩の支藩)
- 長門豊浦藩(長門萩藩の支藩)
- 伊予新谷藩(伊予大洲藩の支藩)
- 土佐中村藩(土佐高知藩の支藩)
- 土佐高知新田藩(土佐藩の支藩)[6]
- 肥前鹿島藩(肥前佐賀藩の支藩)
- 肥前小城藩(肥前佐賀藩の支藩)
- 肥前蓮池藩(肥前佐賀藩の支藩)
- 肥後宇土藩(肥後熊本藩の支藩)
- 肥後高瀬藩(肥後熊本藩の支藩)[7]
脚注
[編集]- ^ また、老中就任に必要な最低家禄が2万5000石と、禄高が役職就任に大きく関わることもあった。
- ^ 石高表示の場合、形式上は領知を分与したことになる
- ^ 蔵米知行を参照
- ^ 1万石のうち、1809年(文化6年)に分与された6000石
- ^ 1万1000石のうち、1819年(文政2年)に分与された6000石
- ^ 1万3000石のうち、1780年(安永9年)に分与された廩米1万俵
- ^ 廩米3万5000俵