玉造 (大阪市)
玉造(たまつくり)は、大阪府大阪市中央区と天王寺区の町名。または同市中央区と天王寺区の地域名称。本稿では町名の由来となった、かつての東成郡玉造町(たまつくりちょう)についても述べる。現行行政地名は中央区玉造一丁目および玉造二丁目、天王寺区玉造本町および玉造元町。
地理
[編集]現在、玉造と付く町名は中央区玉造、天王寺区玉造本町・玉造元町がある。これらに隣接する中央区森ノ宮中央の南部・法円坂の南東部・上町の東部、天王寺区真田山町の南東部は東成郡玉造町の旧町域を含んでおり、他に玉造駅周辺の天王寺区空堀町・清水谷町・餌差町、東成区中道・東小橋なども地域名称として玉造と呼ばれることがある。
職住混在地域で、上町台地に展開する文教地区の一画を占める。かつて川口外国人居留地だった西区川口と並んで、大阪市街におけるキリスト教の布教拠点となった。川口が英国聖公会・米国聖公会などプロテスタントの拠点だったのに対して、玉造はカトリックの拠点となり、カトリック玉造教会の聖マリア大聖堂は大阪高松大司教区の司教座聖堂となっている。
歴史
[編集]古墳時代に勾玉などを製作する玉作部(玉造部)がこの地に置かれていたことが地名の由来とされている。
昔から交通の要所であり、大坂から東へ向かう古道(街道)のいくつかがここを経由し、奈良、八尾、信貴山方面へつながっていた。前述の玉作部と、高安(現在の八尾市神立地区)の玉造部との間に、玉祖道を通じて交流があったといわれている。
石山合戦では主戦場の一つとなり、豊臣秀吉による大坂城築城に際しては、当初玉造は町人地であったが、町家の郭外移転を伴う慶長初期の三の丸造営によって、大坂城三の丸に組み込まれ、細川・宇喜多・蜂須賀・前田・龍造寺・浅野・片桐などの屋敷が玉造に置かれた。しかし、大坂の陣によって全て灰燼に帰した。
秀吉は大阪城築城後この玉造方面に山城伏見の町人を移住させた[注釈 1]。それを玉造の伏見町と称え、伏見錦町、伏見呉服町[注釈 2]とも呼び、その町人は専ら呉服のみを商い、城中の御用達をもなしていた[注釈 3][1]。
松平忠明による復興により、玉造は武家地・町人地・年貢地が混在する地域となった。北半に玉造口定番の武家屋敷地、中央に町人地(当初は36町。幕末時は26町)、空堀跡以南に東成郡玉造村が置かれた。豊臣末期に一旦町人地でなくなっているため、徳川期の玉造町人地は伏見城下からの移住者を中心に形成された。なお、町人地として再活用されなかった余剰地が点在しており、それらは平野口町の高津屋吉右衛門に肝煎させて西成郡吉右衛門肝煎地となった。
町人地では、1648年(慶安元年)に玉造口定番の与力・同心屋敷地として収公された二本松町、北新町、大津町、東伊勢町、伏見伊勢町、伏見清水町、伏見長屋町、越中町1丁目の8町が堀江へ移転、1702年(元禄15年)に代官支配地(西成郡古屋敷地)として収公された伏見坂町の北組分が千日前へ移転している。
玉造村は高燥地であることから畑作の村で、玉造黒門越瓜(たまつくりくろもんしろうり、「玉造黒門白瓜」とも表記)が栽培されていた。玉造黒門越瓜の「黒門」の名は、現在の中央区玉造1丁目付近にあった豊臣期大坂城の玉造門が黒く塗られていたことに由来する。
猫間川の水運が土砂の堆積によって江戸時代末期から衰微しており、そこへ明治維新後の武家屋敷の破却が重なったことから町人地の経済が衰退してしまい、江戸時代以来の武家地・町人地は1873年(明治6年)に大阪市街から切り離されるに至った。
沿革
[編集]たまつくりちょう 玉造町 | |
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廃止日 | 1897年4月1日 |
廃止理由 |
編入合併 (大阪市第一次市域拡張) |
現在の自治体 | 大阪市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 近畿地方 |
都道府県 | 大阪府 |
郡 | 東成郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
隣接自治体 |
大阪市(東区、南区) 東成郡清堀村、鶴橋村、中本村 |
玉造町役場 | |
所在地 | 大阪府東成郡玉造町 |
ウィキプロジェクト |
明治元年の時点で玉造町人地には以下の26町があった。
- 森町
- 国分町
- 丸葉町
- 八尾町
- 西伊勢町
- 越中町2丁目
- 越中町3丁目
- 紀伊国町
- 左官町
- 栢木町
- 拐屋町
- 半入町
- 大和橋町
- 伏見坂町
- 下清水町
- 稲荷中之町
- 稲荷門前町
- 岡山町
- 禰宜町
- 菱屋町
- 仁右衛門町
- 上清水町
- 撞木町
- 上木綿町
- 稲荷新町
- 平野口町
- 1869年(明治2年) - 全町が大阪東大組に所属。
- 1870年(明治3年) - 伏見坂町、下清水町、稲荷中之町、稲荷門前町、岡山町、禰宜町、菱屋町、仁右衛門町、上清水町、撞木町、上木綿町、稲荷新町、平野口町が大阪南大組へ転属。
- 1872年(明治5年) - 26町から16町に改編。大阪東大組森町、国分町、八尾町、西伊勢町、越中町、紀伊国町、左官町、半入町、大和橋町、大阪南大組東阪町、岡山町、禰宜町、仁右衛門町、東雲町通1 - 3丁目となる。
- 1873年(明治6年) - 全町が大阪東大組、大阪南大組から分離され、森町を除く15町が東成郡西玉造村となる(森町および玉造口定番組屋敷地は東成郡森村に編入)。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、東成郡西玉造村、玉造村が合併して玉造町が発足。
- 1897年(明治30年)4月1日 - 大阪市に編入され、東区玉造大字西玉造、玉造となる。
- 1900年(明治33年) - 大字西玉造が北国分町、八尾町、元伊勢町、越中町、紀伊国町、左官町、半入町、玉堀町、東阪町、岡山町、玉造町、仁右衛門町、東雲町1 - 3丁目に、大字玉造が南玉造町に改称。なお、この時に大字西玉造の域内に点在していた東区大字清堀(かつての吉右衛門肝煎地)の飛地6ヶ所も新町名に編入している。
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 区の境界変更により、南玉造町が天王寺区へ転属。
- 1965年(昭和40年) - 天王寺区玉造本町、玉造元町の現行住居表示を実施。
- 1979年(昭和54年) - 東区玉造の現行住居表示を実施。
玉造
[編集]玉造 | |
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北緯34度40分35.56秒 東経135度31分45.66秒 / 北緯34.6765444度 東経135.5293500度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 大阪府 |
市町村 | 大阪市 |
区 | 中央区 |
町名制定 | 1979年(昭和54年) |
面積 | |
• 合計 | 0.313663136 km2 |
人口 | |
• 合計 | 4,907人 |
• 密度 | 16,000人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
540-0004[4] |
市外局番 | 06(大阪MA)[5] |
ナンバープレート | なにわ |
世帯数と人口
[編集]2019年(平成31年)3月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[3]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
玉造一丁目 | 1,211世帯 | 2,461人 |
玉造二丁目 | 1,272世帯 | 2,446人 |
計 | 2,483世帯 | 4,907人 |
- 人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
1995年(平成7年) | 3,060人 | [6] | |
2000年(平成12年) | 3,537人 | [7] | |
2005年(平成17年) | 3,986人 | [8] | |
2010年(平成22年) | 4,393人 | [9] | |
2015年(平成27年) | 4,709人 | [10] |
- 世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
1995年(平成7年) | 1,258世帯 | [6] | |
2000年(平成12年) | 1,585世帯 | [7] | |
2005年(平成17年) | 1,780世帯 | [8] | |
2010年(平成22年) | 2,191世帯 | [9] | |
2015年(平成27年) | 2,306世帯 | [10] |
事業所
[編集]2016年(平成28年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[11]。
丁目 | 事業所数 | 従業員数 |
---|---|---|
玉造一丁目 | 228事業所 | 4,257人 |
玉造二丁目 | 200事業所 | 1,873人 |
計 | 428事業所 | 6,130人 |
玉造本町
[編集]玉造本町 | |
---|---|
北緯34度40分25.43秒 東経135度31分49.83秒 / 北緯34.6737306度 東経135.5305083度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 大阪府 |
市町村 | 大阪市 |
区 | 天王寺区 |
面積 | |
• 合計 | 0.098366055 km2 |
人口 | |
• 合計 | 1,700人 |
• 密度 | 17,000人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
543-0013[13] |
世帯数と人口
[編集]2019年(平成31年)3月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[3]。
町丁 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
玉造本町 | 841世帯 | 1,700人 |
- 人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
1995年(平成7年) | 1,312人 | [6] | |
2000年(平成12年) | 1,470人 | [7] | |
2005年(平成17年) | 1,505人 | [8] | |
2010年(平成22年) | 1,497人 | [9] | |
2015年(平成27年) | 1,563人 | [10] |
- 世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
1995年(平成7年) | 530世帯 | [6] | |
2000年(平成12年) | 654世帯 | [7] | |
2005年(平成17年) | 719世帯 | [8] | |
2010年(平成22年) | 742世帯 | [9] | |
2015年(平成27年) | 745世帯 | [10] |
事業所
[編集]2016年(平成28年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[11]。
町丁 | 事業所数 | 従業員数 |
---|---|---|
玉造本町 | 104事業所 | 654人 |
玉造元町
[編集]玉造元町 | |
---|---|
北緯34度40分19.36秒 東経135度31分54.04秒 / 北緯34.6720444度 東経135.5316778度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 大阪府 |
市町村 | 大阪市 |
区 | 天王寺区 |
面積 | |
• 合計 | 0.091202537 km2 |
人口 | |
• 合計 | 3,204人 |
• 密度 | 35,000人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
543-0014[14] |
世帯数と人口
[編集]2019年(平成31年)3月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[3]。
町丁 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
玉造元町 | 1,595世帯 | 3,204人 |
- 人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
1995年(平成7年) | 2,209人 | [6] | |
2000年(平成12年) | 2,618人 | [7] | |
2005年(平成17年) | 2,502人 | [8] | |
2010年(平成22年) | 2,285人 | [9] | |
2015年(平成27年) | 3,152人 | [10] |
- 世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
1995年(平成7年) | 978世帯 | [6] | |
2000年(平成12年) | 1,141世帯 | [7] | |
2005年(平成17年) | 1,157世帯 | [8] | |
2010年(平成22年) | 1,108世帯 | [9] | |
2015年(平成27年) | 1,478世帯 | [10] |
事業所
[編集]2016年(平成28年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[11]。
町丁 | 事業所数 | 従業員数 |
---|---|---|
玉造元町 | 246事業所 | 1,650人 |
主な施設
[編集]玉造
[編集]- 玉造稲荷神社
- 大阪市立玉造小学校
- 学校法人大阪女学院 - プロテスタント長老派により1884年ウヰルミナ女学校、1886年大阪一致女学校がそれぞれ川口にて創立。玉造がカトリックの拠点となる以前の1888年に清堀の飛地6ヶ所のひとつ(字泥町東)へ大阪一致女学校が移転。
- 大阪高松カテドラル聖マリア大聖堂(カトリック玉造教会) - 1894年に清堀の飛地6ヶ所のひとつ(字石置場)にて創立(当初は聖アグネス聖堂。1945年大阪大空襲で焼失)。ヌヴェール愛徳修道会により1923年聖母女学院がカトリック玉造教会にて創立したが、1932年香里へ移転した。1949年には姉妹校を藤森に開設し、学校法人聖母女学院も法人事務局を藤森に置いている。
- 学校法人城星学園 - サレジアン・シスターズにより1953年創立。カトリック玉造教会の東隣に位置する。
- 森下仁丹本社
玉造本町
[編集]- 三光神社
- 真田山陸軍墓地
- 大阪市立真田山小学校
- 天王寺警察署 玉造交番
玉造元町
[編集]交通
[編集]鉄道
[編集]- 近隣の駅
- 森ノ宮駅 - JR大阪環状線、Osaka Metro中央線・長堀鶴見緑地線
- 鶴橋駅 - 近鉄奈良線・大阪線、Osaka Metro千日前線
- 谷町六丁目駅 - Osaka Metro谷町線・長堀鶴見緑地線
道路
[編集]バス
[編集]出身者
[編集]- 堺屋太一 - 小説家・作家、評論家、元通産官僚、経済企画庁長官(第55〜57代)、元内閣特別顧問
- 岡田彰布 - プロ野球阪神タイガース元選手・監督、オリックス・バファローズ元監督
- 秋田實 - 漫才作家
- 天龍三郎 - 浪曲師
玉造ゆかりの有名人
[編集]- 千利休 - 玉造に屋敷を構えていたといわれている
- 三浦大輔 - プロ野球選手、元横浜DeNAベイスターズ投手、現同球団一軍監督。幼少期を玉造で過ごす
- 中島らも - 作家。玉造で劇団を旗揚げ
- わかぎゑふ - 劇団主宰者、演出家。玉造で劇団を主宰
その他
[編集]日本郵便
[編集]- 集配担当する郵便局と郵便番号は以下の通りである[15]。
区 | 町丁 | 郵便番号 | 郵便局 |
---|---|---|---|
中央区 | 玉造 | 540-0004[4] | 大阪東郵便局 |
天王寺区 | 玉造本町 | 543-0013[13] | 天王寺郵便局 |
玉造元町 | 543-0014[14] |
脚注
[編集]- ^ 宮本又次『船場』ミネルヴァ書房(風土記大阪第1集)1960年、164-165頁
- ^ “大阪府大阪市中央区の町丁・字一覧”. 人口統計ラボ. 2019年10月4日閲覧。
- ^ a b c d e f “住民基本台帳人口・外国人人口”. 大阪市 (2019年7月26日). 2019年10月4日閲覧。
- ^ a b “玉造の郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月15日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
- ^ a b c d e f “平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat)- 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年3月28日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b c d e f “平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat)- 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年5月30日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b c d e f “平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat)- 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年6月27日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b c d e f “平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat)- 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2012年1月20日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b c d e f “平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat)- 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2017年1月27日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b c “平成28年経済センサス-活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 都道府県別結果”. 総務省統計局 (2018年6月28日). 2019年10月23日閲覧。
- ^ a b “大阪府大阪市天王寺区の町丁・字一覧”. 人口統計ラボ. 2019年10月20日閲覧。
- ^ a b “玉造本町の郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月15日閲覧。
- ^ a b “玉造元町の郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月15日閲覧。
- ^ “郵便番号簿 2018年度版” (PDF). 日本郵便. 2019年6月10日閲覧。
注釈
[編集]- ^ 当時の大阪の町を形成していたのは堺と伏見の町人で、上堺町、元堺町、伏見坂町、元伏見町、伏見両替町、伏見呉服町と、町名に堺または伏見の字を冠らせたものが多かった。
- ^ 天正18年(1584年)3月に伏見呉服町の町名を許可された。
- ^ 江戸時代になっても、城中および諸侯の蔵屋敷の呉服物の用達は、すべてこの伏見呉服町の一手引受であって、三井・大丸などの大商店も現金商内はともかく御得意先へ掛売する場合は、当町へ一札を差入れての後でなくては「通帳」を発行することが出来なかったほどに権威を有していた。しかし上町・玉造に同業者が増してくると次第に狭隘となり、どこか広い土地を選んで移転せねばならなかった。元禄年間に至り、船場に町形を造ることになった。境域は初めの中は東は中橋筋を限り、西は渡辺筋字魚の棚までとし、伏見呉服町と称していたが、後に二つに分け、中橋筋から西へ心斎橋筋までを伏見町、心斎橋筋から西へ渡辺筋までを呉服町と称し、この一区創には呉服商を主とし、諸織物の仕事場や洗張業、湯熨業など呉服に関係ある商工人の団結が出来上がった。なお昔の伏見町は現在の伏見町三・四丁目の辺りで、栴檀木橋筋より心斎橋筋に至る間で、ここには唐物を扱う問屋が集中していた。