コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「井伏鱒二」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
脚注を分類
編集の要約なし
タグ: 差し戻し済み
1行目: 1行目:
{{統合文字|鱒}}
{{統合文字|鱒}}
{{Infobox 作家
{{Infobox 作家
| name = 井伏 鱒二<br />(いぶせ ますじ
| name = {{ruby|井伏|いぶせ} {{ruby|鱒二|ますじ}}
| image = Masuji Ibuse 01.jpg
| image = Masuji Ibuse 01.jpg
| imagesize = 200px
| imagesize = 200px
8行目: 8行目:
| birth_name = 井伏 滿壽二(読み同じ)
| birth_name = 井伏 滿壽二(読み同じ)
| birth_date = [[1898年]][[2月15日]]
| birth_date = [[1898年]][[2月15日]]
| birth_place = {{JPN}}・[[広島県]][[安那郡]][[加茂村 (広島県)|加茂村]]<br />(現[[福山市]])
| birth_place = {{JPN}}・[[広島県]][[安那郡]][[加茂村 (広島県)|加茂村]]<br />(現在の[[福山市]])
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1898|2|15|1993|7|10}}
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1898|2|15|1993|7|10}}
| death_place = {{JPN}}・[[東京都]][[杉並区]]
| death_place = {{JPN}}・[[東京都]][[杉並区]]
34行目: 34行目:
<!--| footnotes =-->
<!--| footnotes =-->
}}
}}
'''井伏 鱒二'''(いぶせ ますじ、[[1898年]]〈[[明治]]31年〉[[2月15日]] - [[1993年]]〈[[平成]]5年〉[[7月10日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。本名井伏 滿壽二(読み同じ)。[[広島県]][[安那郡]][[加茂村 (広島県)|加茂村]](現[[福山市]])出身。[[ペンネーム|筆名]]は[[釣り]]好きだったことによる。[[文化勲章]]受章。
'''井伏 鱒二'''(いぶせ ますじ、[[1898年]]〈[[明治]]31年〉[[2月15日]] - [[1993年]]〈[[平成]]5年〉[[7月10日]])は、[[日本]]の[[小説家]]。本名は'''井伏 滿壽二'''(読み同じ)。[[広島県]][[安那郡]][[加茂村 (広島県)|加茂村]](現[[福山市]])出身。[[ペンネーム|筆名]]は[[釣り]]好きだったことによる。[[文化勲章]]受章。


== 来歴 ==
== 来歴 ==

2023年2月19日 (日) 15:07時点における版

{{Infobox 作家 | name = 井伏いぶせ} 鱒二ますじ 井伏 鱒二(いぶせ ますじ、1898年明治31年〉2月15日 - 1993年平成5年〉7月10日)は、日本小説家。本名は井伏 滿壽二(読み同じ)。広島県安那郡加茂村(現福山市)出身。筆名釣り好きだったことによる。文化勲章受章。

来歴

1898年、広島県安那郡加茂村粟根に父・井伏郁太、母・ミヤの次男として生まれた。井伏家は室町時代の1442年嘉吉2年)まで遡れる旧家で、「中ノ士居」の屋号をもつ代々の地主である。5歳のときに父を亡くし、特に祖父にかわいがられて育つ。

1905年、加茂小学校入学。

1912年、旧制広島県立福山中学校(現広島県立福山誠之館高等学校)に進学した。同校の庭には池があり、2匹の山椒魚が飼われていて、これがのちに処女作として発表され、世に知られることとなる「山椒魚」に結びついた。作文は得意だったが成績はあまり振るわず、中学校3年生ころから画家を志し、卒業すると3か月間奈良京都を写生旅行。そのとき泊まった宿の主人が偶然橋本関雪の知り合いと聞き、スケッチを託して橋本関雪に入門を申し込んだが断られ、やむなく帰郷する。

後に、同人誌に投稿などをしていた文学好きの兄からたびたび勧められていたこともあり、井伏は文学に転向することを決意、早稲田大学文学部仏文学科に入学する。そこで同じ学科の青木南八と親交を深める一方、文壇で名を成していた岩野泡鳴谷崎精二らのもとを積極的に訪ねるようになる。

しかし1921年、三回生の時、井伏は担当の片上伸教授と「衝突[注 1]」し、やむなく休学し帰郷、母と兄の配慮により中学時代の恩師を人伝に仲介を受け、御調郡(旧・因島市、現・尾道市因島三庄町千守の土井医院[注 2]2階へ逗留することとなった[1][2][3][4]

約半年後に帰京、復学の申請をするが、同教授が反対したためかなわず、やむなく中退となった。さらにこの年、無二の親友だった青木南八が自殺するに及んで、井伏は日本美術学校も中退してしまう。

1923年、同人誌『世紀』に参加し、「幽閉」を発表。翌年、聚芳社に入社するが、退社と再入社を繰り返した後、佐藤春夫に師事するようになる。

1924年、親友を頼って山口県柳井市に滞在。後になって、当時お露という名前の柳井高等女学校の生徒への切ない恋を告白した書簡が見つかっている[5]

1927年、「歪なる図案」を『不同調』誌に発表、初めて小説で原稿料を得たが、なかなか芽が出ず、文藝春秋の女性誌『婦人サロン』に、同人誌仲間の中村正常中村メイコの父)と組んで、「ペソコ」と「ユマ吉」というモガモボを主人公にしたナンセンス読み物を書き始める。同年10月、遠縁の娘、秋元節代(当時15歳)と結婚する。この時期より荻窪に在住、やがて阿佐ヶ谷文士村が出来ていき中心人物となった。

1929年梶井基次郎の「ある崖上の感情」の影響を受けた「朽助のいる谷間」を『創作月刊』誌に[6][7][8]、「幽閉」を改作した「山椒魚」を『文芸都市』誌に、「屋根の上のサワン」を『文学』に発表する。

1930年、初の作品集『夜ふけと梅の花』を出版する。この年は小林秀雄らが出していた雑誌『作品』の同人となり、太宰治とはじめて会ったりしている。

1931年4月29日、井伏は林芙美子と瀬戸内の因島に渡り、三ノ庄(みつのしょう)の土井浦二宅を訪れて、同家の跡取り息子の展墓を果たす。かつて早稲田を休学して憂悶の日々を送った折に、当地で止宿先を提供してくれた土井医院の長男春二がこの年2月、日本医科大学在学中に病没したためである[注 3]。その島を離れる折に、船上で林芙美子の人情味溢れる感情の機微に触れた[注 4]ことが、後に彼の有名な于武陵「勧酒」の訳出「サヨナラダケガ人生ダ」を生み出す端緒となる[3][9]

1938年、『ジョン萬次郎漂流記』で第6回直木賞受賞、『文学界』誌の同人となる。

昭和初年から山梨県を頻繁に訪問した。山梨では多くの地元文人と交流し、趣味の川釣りなどを行っている。山梨を舞台にした作品も多い。1939年太宰治甲府市水門町(甲府市朝日)に居住する地質学者石原初太郎の娘である美知子との結婚を仲介している。

1941年陸軍に徴用され、開戦を知ったのは南シナ海上を航行する輸送船の中だった。その後日本軍が占領したシンガポール(昭南)に駐在、現地で日本語新聞『昭南新聞』の編集に携わった。この経験がその後の作品に大きな影響を与えている。

1944年7月には、甲府市甲運村(甲府市和戸町)の岩月家に疎開する。岩月家は双英書房の創業者である岩月英男の実家であり、岩月は井伏門下で、太宰治の著作などを刊行している。井伏は翌1945年7月6日から7日の甲府空襲では被災している[注 5]。井伏はその後、広島県福山の生家に再疎開しているが、戦後も甲州(山梨県)訪問は頻繁に行っており、俳人の飯田龍太らと交流した。

『別冊文藝春秋』1949年8月-1950年5月に『本日休診』を連載、1950年6月刊。1940年代後半の一時期、新日本文学会に加入していたが、ほどなく退会した[10]

『群像』1954年4月-1955年12月に『漂民宇三郎』を連載、1956年2月刊行。

1965年1月-1966年9月、『新潮』誌に『黒い雨』(連載当初は『姪の結婚』)を連載、1966年10月刊行した。この作品で1966年(昭和41年)、野間文芸賞を受賞する。同年に文化勲章を受章する。

1970年、『私の履歴書(半生記)』を『日本経済新聞』に連載する。

1982年荻窪の古老:矢嶋又次の昔の荻窪の「記憶画」に触発されて執筆した『荻窪風土記』を新潮社より発刊する。

1990年名誉都民を授与される。

1992年、6月発行の『アサヒグラフ別冊 井伏鱒二の世界』(朝日新聞社)で最晩年の日々が紹介された。

1993年6月24日、東京衛生病院に緊急入院、7月10日に肺炎のため95歳で死去した[11]。戒名は照観院文寿日彗大居士。自宅近所でお別れの会が行われ多数の参列者が来た。

盗作、剽窃疑惑

井伏没後に、歌人の豊田清史は、代表作『黒い雨』が被爆者で豊田の知人である重松静馬の日記をほぼそのままの形で使ったものに過ぎないと主張した[12]

豊田の主張について近代文学研究者の相馬正一は「読者に「黒い雨」がいかにも「重松日記」の盗作であるかのような印象を与えた」と述べ、豊田が「重松日記」の本文を改竄し、『黒い雨』の本文に近づけるという操作を行っていることを批判している[13]

ただし、豊田自身が「盗作」という言葉を使ったことはない。なぜなら、重松が『黒い雨』に自身の日記を使用することを許諾していた以上「盗作」と主張するのが無理であることは、豊田もよくわかっていたからである。豊田は「「盗作だったのか」はまったく『週刊金曜日』が一方的につけた題名である」と説明している[14]。豊田の主張に依拠した作家の猪瀬直樹『ピカレスク 太宰治伝』(小学館、2000年、文春文庫、2007年)が『黒い雨』の価値を全否定したことで、この問題は広く知られるようになった。しかし、近年では豊田の主張には数々の虚偽が含まれていることが広く知られている[15]。また、重松静馬の日記は『重松日記』(筑摩書房、2001年)として刊行されているので、『黒い雨』が重松の日記をほぼそのままの形で使ったものに過ぎないのかどうかは誰にでも確認できる[独自研究?]

各賞・栄典

文学賞

選考委員

  • 第17 - 38回 直木賞選考委員、1943年(昭和18年) - 1957年(昭和32年)
  • 第39 - 47回 芥川賞選考委員、1958年(昭和33年) - 1962年(昭和37年)
  • 第1 - 14回 新潮同人雑誌賞選考委員、1955年(昭和30年) - 1968年(昭和43年)

栄典

著作

単著

  • 『夜ふけと梅の花』新潮社・新興芸術派叢書 1930年、のち新潮文庫、岩波文庫、講談社文芸文庫(各・新編)
    • 「朽助のゐる谷間」「山椒魚」「屋根の上のサワン」「鯉」など。
  • 『なつかしき現実』改造社 1930年
    • 「谷間」など。
  • 『仕事部屋』春陽堂 1931年、のち講談社文芸文庫
    • 「丹下氏邸」「悪い仲間」など。
  • 『川』江川書房 1932年
  • 『随筆』椎の木社 1933年
    • 「日本漂民」「風貌・姿勢」など。
  • 『田園記』作品社 1934年
  • 『逃亡記』改造社 1934年
    • 「掏摸の桟三郎」「言葉について」「青ヶ島大概記」など。
  • 『頓生菩提』竹村書房 1935年
  • 『肩車』野田書房 1936年
  • 『自叙伝 雞肋集』竹村書房 1936年
  • 『静夜思』三笠書房 1936年
  • 『集金旅行』版画荘 1937年 のち新潮文庫中村登監督で映画化
  • 『厄除け詩集』野田書房 1937年 のち講談社文芸文庫
  • 『ジョン萬次郎漂流記 風来漂民奇譚』河出書房 1937年 のち角川文庫新潮文庫
  • 『山川草木』雄風館 1937年
  • 『火木土』版画荘文庫 1938年
  • 『さざなみ軍記』河出書房 1938年、のち福武書店ほか、「さざなみ軍記・ジョン万次郎漂流記」新潮文庫
  • 『陋巷の唄』春陽堂 1938年
  • 『川と谷間』創元社 1939年
  • 『禁札 小説集』竹村書房 1939年
  • 『蛍合戦』金星堂・新選随筆感想叢書 1939年
  • 『オロシヤ船』金星堂 1939年。他一〇篇
  • 『多甚古村・駐在日誌』河出書房 1939年 のち新潮文庫、岩波文庫、小学館文庫 →今井正監督で映画化
  • 『鸚鵡』河出書房 1940年
  • 『丹下氏邸 他四篇』新潮社・昭和名作選集 1940年
  • 『風俗 随筆集』モダン日本社 1940年
  • 『シグレ島叙景』実業之日本社 1941年
  • 『おこまさん』輝文館 1941年 →成瀬巳喜男監督で映画化(『秀子の車掌さん』)
    • 「四つの湯槽」→清水宏監督で映画化(『』)
  • 『星空』昭南書房 1942年
  • 『花の町』文藝春秋 1943年
  • 『御神火』甲鳥書林 1944年
  • 『侘助』鎌倉文庫 1946年
    • 「経筒」「二つの話」
  • 『仲秋明月』地平社・手帖文庫 1946年
  • 『追剥の話』昭森社 1946年
  • 『風貌姿勢 随筆』三島書房 1946年
  • 『まげもの』鎌倉文庫 1946年
  • 『シビレ池のかも』野間仁根小山書店 1948年、のち岩波少年文庫(新編)
  • 『貸間あり』鎌倉文庫 1948年 →川島雄三監督で映画化
  • 『詩と随筆』河出書房 1948年
  • 『引越やつれ』六興出版部 1948年
  • 『試験監督』文藝春秋新社 1949年
  • 『掘り出しもの』創元社 1950年
  • 本日休診』文藝春秋新社 1950年 →渋谷実監督で映画化
  • 『川釣り』岩波新書 1951年、岩波文庫 1990年
  • 『かきつばた』池田書店 1951年、「かきつばた・無心状」新潮文庫
  • 『吉凶うらなひ』文藝春秋新社 1952年
  • 『乗合自動車』筑摩書房 1952年
  • 『点滴 随筆集』要書房 1953年
  • 『黒い壺』新潮社 1954年
  • 『在所言葉』修道社 1955年
  • 『ななかまど』新潮社 1955年
  • 『白鳥の歌』筑摩書房 1955年
  • 『漂民宇三郎』講談社 1956年、のち新潮文庫、講談社文芸文庫
  • 『屋根の上のサワン 他八篇』角川文庫 1956年(改版)
  • 『源太が手紙』筑摩書房 1956年
  • 駅前旅館』新潮社 1957年 のち文庫(改版2007年)→豊田四郎監督で映画化
  • 『還暦の鯉』新潮社 1957年 のち講談社文芸文庫
  • 『七つの街道』文藝春秋新社 1957年、のち新潮文庫、永田書房(新編1990年)、中公文庫(2018年)
  • 『河鹿』筑摩書房 1958年
  • 『木靴の山』筑摩書房 1959年
  • 珍品堂主人』中央公論社 1959年 のち文庫(新編2018年)、角川文庫 →豊田四郎監督で映画化
  • 『釣師・釣場』新潮社 1960年 のち文庫(改版1998年)、講談社文芸文庫 2013年
  • 『昨日の会』新潮社 1961年
  • 『取材旅行』新潮社 1961年
  • 『武州鉢形城』新潮社 1963年
  • 『無心状』新潮社 1963年
  • 黒い雨』新潮社 1966年 のち文庫(改版)→今村昌平監督で映画化
  • 『くるみが丘』文藝春秋 1966年
  • 『場面の効果』大和書房 1966年、新編2012年
  • 『風貌・姿勢』講談社 1967年 のち新編・講談社文芸文庫
  • 『釣人』新潮社 1970年
  • 『早稲田の森』新潮社 1971年
  • 『人と人影』毎日新聞社・現代日本のエッセイ 1972年、新編・講談社文芸文庫 1990年
  • 『小黒坂の猪』筑摩書房 1974年
  • 『軍歌「戦友」』集英社文庫 1977年→ 新編『花の町・軍歌「戦友」』講談社文芸文庫 1996年
  • 『スガレ追ひ』筑摩書房 1977年
  • 『海揚り』新潮社 1981年
  • 『荻窪風土記』新潮社 1982年 のち文庫(改版2014年)
  • 『現代の随想17 井伏鱒二』彌生書房 1982年。小沼丹
  • 『焼物雑記』文化出版局 1985年
  • 『岳麓点描』彌生書房 1986年
  • 『鞆ノ津茶会記』福武書店 1986年 のち文庫、講談社文芸文庫 2011年
  • 『太宰治』筑摩書房 1989年、中公文庫 2018年
  • 『鶏肋集・半生記』講談社文芸文庫 1990年
  • 『晩春の旅・山の宿』講談社文芸文庫 1990年
  • 『文士の風貌』福武書店 1991年 のち文庫
  • 『たらちね』筑摩書房 1992年
  • 『白鳥の歌・貝の音』講談社文芸文庫 1992年
  • 『点滴・釣鐘の音』三浦哲郎編、講談社文芸文庫 1993年
  • 神屋宗湛の残した日記』講談社 1995年、講談社文芸文庫 2010年
  • 『徴用中のこと』講談社 1996年、中公文庫 2005年
  • 『文人の流儀』角川春樹事務所 ランティエ叢書 1997年
  • 『かるさん屋敷』毎日新聞社 1999年
  • 『井伏鱒二全詩集』岩波文庫 2004年

全集・作品集

  • 『井伏鱒二随筆全集』全3巻 春陽堂書店 1941-42年
  • 『井伏鱒二選集』全9巻 筑摩書房 1948-49年
  • 『井伏鱒二作品集』全5巻 創元社 1953年
  • 『井伏鱒二全集』全12巻 筑摩書房 1964-65年。増補版全14巻 1974-75年
  • 『井伏鱒二自選全集』全12巻・補巻1 新潮社 1985-86年
  • 『井伏鱒二全集』全28巻・別巻2冊(1は資料ほか、2は総目次・目録・書誌ほか)
筑摩書房 1996年-2000年。決定版「全集」[18]で、井伏自身は、生前刊の「全集」で、半分以上の作品を割愛していた。

共編著

  • 『マライの土 作家部隊随筆集』海音寺潮五郎共編 新紀元社 1943年
  • 『井伏鱒二聞き書き』萩原得司 潮出版社 1985年。青弓社 1994年
  • 『井伏鱒二随聞』河盛好蔵 新潮社 1986年
  • 『井伏鱒二対談集』新潮社 1993年 のち文庫
  • 『井伏鱒二対談選』講談社文芸文庫 2000年
  • 『井伏鱒二全対談』筑摩書房(上下) 2001年。前田貞昭編
  • 『井伏鱒二・飯田龍太往復書簡』山梨県立文学館角川学芸出版 2010年

翻訳

その他

ドキュメンタリー

  • NHK特集「井伏鱒二の世界〜“荻窪風土記”から〜」(1983年10月14日、NHK[20]

弟子

回想

  • 『井伏さんの横顔』河盛好蔵編、彌生書房、1993年。回想文集26篇
  • 『尊魚堂主人 井伏さんを偲ぶ』 筑摩書房、2000年。追悼回想43篇
  • 小沼丹『清水町先生』 筑摩書房、1992年。増補・ちくま文庫、1997年
  • 小沼丹『井伏さんの将棋』 幻戯書房、2018年
  • 三浦哲郎『師・井伏鱒二の思い出』 新潮社、2010年
  • 川島勝『井伏鱒二 サヨナラダケガ人生』 文藝春秋、1994年。文春文庫、1997年。編集担当者

関連人物

参考文献

  • 相馬正一『井伏鱒二の軌跡』(津軽書房、1995年) ISBN 978-4806601456
  • 相馬正一『続 井伏鱒二の軌跡』(津軽書房、1996年、改訂版2011年) ISBN 978-4806602187
  • 栗原裕一郎『<盗作>の文学史 市場・メディア・著作権』(新曜社、2008年) ISBN 978-4788511095
  • 大谷晃一『評伝 梶井基次郎』(完本)沖積舎、2002年11月。ISBN 978-4-8060-4681-3 
    初刊(河出書房新社)は1978年3月 NCID BN00241217。新装版は 1984年1月 NCID BN05506997。再訂版は 1989年4月 NCID BN03485353
  • 『新潮日本文学アルバム46 井伏鱒二』(新潮社、1994年6月)

脚注

注釈

  1. ^ 懇意にされていた男性の教授からあるとき性的に言い寄られたが、同性には興味のない井伏がこれを断ると、この教授は手のひらを返すように井伏に辛くあたるようになったという。
  2. ^ 後の作品、『本日休診』のモデルとなった医院
  3. ^ 本日休診』作中、大先生の跡取り息子が戦死するエピソードのモチーフとなった出来事。
  4. ^ やがて島に左様ならして帰るとき、林さんを見送る人や私を見送る人が十人足らず岸壁に来て、その人たちは船が出発の汽笛を鳴らすと「左様なら左様なら」と手を振つた。林さんも頻りに手を振つてゐたが、いきなり船室に駆けこんで、「人生は左様ならだけね」と云ふと同時に泣き伏した。そのせりふと云ひ挙動と云ひ、見てゐて照れくさくなつて来た。何とも嫌だと思つた。しかし後になつて私は于武陵「勧酒」といふ漢詩を訳す際、「人生足別離」を「サヨナラダケガ人生ダ」と和訳した。無論、林さんのせりふを意識してゐたわけである(『因島半歳記』)
  5. ^ なお、太宰治は1939年9月に東京三鷹に転居していたが、戦時中には甲府の石原家に疎開しており、甲府空襲で被災している。

出典

  1. ^ 路傍の詩”. 2016年3月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月12日閲覧。
  2. ^ 2 トラブルで休学 - 広島 - 地域”. 朝日新聞デジタル (2016年11月21日). 2017年9月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年7月12日閲覧。
  3. ^ a b 続・井伏鱒二と「因島」余録【2】昭和六年 土井家弔問から | せとうちタイムズ
  4. ^ 前田貞昭、「井伏鱒二と大正末年の因島・御調郡三庄町 : 井伏文学における因島検証の前提として」『兵庫教育大学近代文学雑志』 19巻 p.3-36 2008年, NCID AN10308757
  5. ^ 『朝日新聞』2010年10月27日37面
  6. ^ 早稲田と文学・井伏鱒二年表
  7. ^ 井伏鱒二著作年表(大正一二年~昭和五五年)」『近代文学試論』 広島大学近代文学研究会、1983年6月、p.141
  8. ^ 「第十一章 悲しき突撃――再び東京へ」(大谷 2002, pp. 243–258)
  9. ^ さだまさし『絶対温度』
  10. ^ 蔵原惟人「新日本文学会第七回大会を終わって」『蔵原惟人評論集』第5巻p87。初出は『新日本文学』1955年3月号
  11. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)39頁
  12. ^ 『「黒い雨」と「重松日記」』(風媒社、1993年)、同『知られざる井伏鱒二』(蒼洋社、1996年)、同「井伏鱒二の『黒い雨』は盗作だったのか」(『週刊金曜日』1995年12月15日号)などを参照。
  13. ^ 「「黒い雨」盗作説への反論」(『東京新聞』1997年8月6日・7日)
  14. ^ 「『黒い雨』をめぐって 相馬正一氏への反論」(『東京新聞』1997年9月2日)
  15. ^ 栗原裕一郎『<盗作>の文学史』(新曜社、2008年)参照。
  16. ^ 福山市の名誉市民”. 福山市. 2022年7月12日閲覧。
  17. ^ 広島県名誉県民”. 広島県. 2022年7月12日閲覧。
  18. ^ 『井伏鱒二全集索引』がある。東郷克美編、双文社出版、2003年
  19. ^ 『井伏鱒二という姿勢』ゆまに書房、2012年。寺横武夫と共編『井伏鱒二 昭和作家のクロノトポス』双文社出版、1996年がある。
  20. ^ 井伏鱒二の世界〜“荻窪風土記”から〜”. NHK. 2021年7月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月8日閲覧。
  21. ^ 川島雄三の碑

外部リンク