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今日出海

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
今 日出海
(こん ひでみ)
小国英雄(右)とともに(1949年)
誕生 1903年11月6日
北海道函館市
死没 (1984-07-30) 1984年7月30日(80歳没)
神奈川県鎌倉市
職業 小説家評論家翻訳家
初代文化庁長官(1968-1972)
国籍 日本の旗 日本
教育 学士(文学)
最終学歴 東京帝国大学仏蘭西文学科卒業
代表作 『天皇の帽子』(1950年)
主な受賞歴 直木三十五賞(1950年)
勲一等瑞宝章(1974年)
文化功労者(1978年)
デビュー作 『大いなる薔薇』(1940年)
親族 今東光(兄)
ウィキポータル 文学
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今 日出海(こん ひでみ、1903年明治36年)11月6日 - 1984年昭和59年)7月30日)は、日本小説家文芸評論家、舞台演出家

初代文化庁長官を務めた。

略歴

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北海道函館市に生まれた。3人兄弟の末子で、長兄は小説家天台宗僧侶の今東光である。

日本郵船の船長であった父武平の転勤により、1911年明治44年)に神戸市の小学校へ入り、1917年大正6年)神戸一中へ進んだが、病気休学し、翌年東京暁星中学へ移った。1922年(大正11年)、五年制中学の四年修了で旧制浦和高校に合格した。

1925年(大正14年)、東京帝国大学仏蘭西文学科へ入学し、辰野隆鈴木信太郎らに学んだ。同期に小林秀雄三好達治中島健蔵らが、一年下に佐藤正彰武田麟太郎らがいた。

1924年(大正13年)に開場した築地小劇場を観て演劇に熱中し、1925年に村山知義河原崎長十郎市川団次郎池谷信三郎らが結成した劇団『心座』の演出に加わった。また、中学の頃からチェロを始め、音楽に打ち込んでおり、高校以来の親友諸井三郎が、1927年(昭和2年)に始めた音楽運動「スルヤ」に関係した。

1928年(昭和3年)、東大仏文科卒。就職できず法科へ入り直したが、外交官試験の年齢制限に気付き翌年退学。矢代幸雄の『黒田清輝美術研究所』(現在の東京国立文化財研究所)の嘱託として西洋美術史を一年あまり研究し、また、妻桂子を得た。女優の藤間春江(のちの吾妻徳穂)との仲が新聞ダネになった。

1929年(昭和4年)、心座から中村正常舟橋聖一・池谷信三郎ら右派が独立した『蝙蝠座』に加わり、翌年第1回公演を打った。

1928年に『文芸都市』誌、1930年(昭和5年)には『作品』誌の同人となり、のちに『文學界』誌の同人に加わり、文芸評論・随筆・翻訳を載せた。左翼に同じぬ正統芸術派的立場であった。

1932年(昭和7年)、開設された明治大学専門部文芸科の講師となった。1935年(昭和10年)、請われて、崔承喜主演の映画「半島の舞姫」を、新興キネマ東京撮影所で制作した。1937年(昭和12年)、パリに半年近く滞在した。1939年(昭和14年)、明治大学教授となった。

1941年(昭和16年)11月、陸軍の報道班員に徴用され、三木清尾崎士郎石坂洋次郎火野葦平らと、太平洋戦争初期のマニラに約1年滞在した(『比島従軍』、創元社1944)。1944年(昭和19年)12月に再度徴用されたときは、マニラに着いて8日目にアメリカ軍が上陸し、ルソン島北部への約5ヶ月の逃避行ののち、被弾を修理した新司偵に乗って、制空権のないバシー海峡を越え、台湾へ脱出した。さらに台北からDC-3で、戦闘末期の沖縄上空を飛び、雁ノ巣飛行場へ帰った(『山中放浪』、日比谷出版社1949)。

1945年(昭和20年)11月、文部省社会教育局文化課長となり、翌月同芸術課の初代課長となった。1946年(昭和21年)1月、本間雅晴中将の戦犯裁判の証人に喚ばれ、戦後のマニラに飛んだ。同年7月、神戸一中で同級だった白洲次郎の仲立ちで、吉田茂首相にGHQの横暴を直訴し、以後吉田に親炙した。その秋、第1回の芸術祭を催した。1947年(昭和22年)12月、芸術課長を辞し、約1年病臥した。

1950年(昭和25年)、『新潮』2月号に掲載した「三木清における人間の研究」で、三木清を批判した。小説「天皇の帽子」で、第23回直木賞[1]を受けた(兄の東光も同賞を6年後に受賞)。その後も旺盛な執筆活動を続けた。1966年(昭和41年)、網膜剥離で片目の視力を失った。

1968年(昭和43年)6月、佐藤栄作首相に請われて文化庁初代長官となり、約4年間務めた。1972年(昭和47年)10月から、国際交流基金の初代理事長を8年間務め、モナリザの日本初公開(1974年)、および、パリ唐招提寺展を実現した。

1974年(昭和49年)、勲一等瑞宝章を受け、1978年(昭和53年)、文化功労者に選ばれた。1980年(昭和55年)、国立劇場会長となった。そのほか、放送番組向上委員会委員長、日本アカデミー賞協会会長などの役職が、80近くに及んだ。

1984年(昭和59年)7月30日、脳梗塞のため神奈川県鎌倉市の病院で没[2]。80歳。鎌倉カトリック墓苑に葬られた。

著作

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著書

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  • 『大いなる薔薇』白水社、1940年
  • 『東西雑記』三学書房、1941年/新太陽社、1948年
  • 『日本の家族制度』青木書店、1942年 (被徴用期に仏文仲間が編集した)
  • 『秋の歌』三杏書院、1943年
  • 『比島従軍』創元社、1944年(検閲で多くの箇所を削除された)
  • 『山中放浪 私は比島戦線の浮浪人だつた』日比谷出版社、1949年/中公文庫、1978年、復刊1991年
  • 『天皇の帽子』ジープ社、1950年/中公文庫、1981年
  • 『脂粉の舞』ジープ社、1950年
  • 『人間研究』新潮社、1951年
  • 『たぬき部落』創元社、1951年
  • 『私の人物案内』創元社、1951年/中公文庫、1985年、改版2006年
  • 『山上女人国』読売新聞社、1952年
  • 『悲劇の将軍 山下奉文本間雅晴文藝春秋新社、1952年/中公文庫、1988年
  • 『雪間草』小説朝日社、1952年
  • 『怒れ三平』毎日新聞社、1953年
  • 『天皇の帽子・いろは紅葉・激流の女』小説朝日社、1953年
  • 『現代紳士録』創元社、1953年/東京創元社、1956年
  • 『泣くなお銀』北辰堂、1954年
  • 『晴れた日に』新潮社、1955年
  • 『チョップ先生』毎日新聞社、1956年/春陽文庫、1967年
  • 『酔いどれ船』彌生書房、1958年
  • 『人さまざま』光書房、1959年
  • 『まだまだ夜だ』新潮社、1962年
  • 『迷う人迷えぬ人』新潮社、1963年
  • 『海賊』毎日新聞社、1966年
  • 吉田茂』講談社、1967年/中公文庫、1983年
  • 『今日出海対話集』講談社、1969年
  • 『静心喪失』東京美術 ピルグリム・エッセイシリーズ、1970年
  • 『青春日々』雷鳥社、1971年
  • 『今東光・今日出海集 日本文学全集59』集英社、1972年
  • 『隻眼法楽帖』中央公論社、1981年

翻訳

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脚注

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  1. ^ 受賞作家の群像 今日出海
  2. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)146頁

参考文献

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  • 「新潮日本文学辞典」、磯田光一ほか編、新潮社(1988年) ISBN 4107302083
  • 今日出海 「私の人物案内」中公文庫:解説林秀雄(1985年)

関連項目

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外部リンク

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先代
新設
国際交流基金理事長
1972年 - 1980年
次代
林健太郎